鹿嶋神社| 富山県下新川郡朝日町宮崎|JR信越本線「越中宮崎」駅
現在の神社は常陸国一之宮の鹿嶋神宮から分社されたもの。元は沖の島に祀られた舟止明神が、島の浸食のために現在の場所に移されたものだという。宮崎城(または国府)の鬼門除けとされ、また佐味郷の氏神とされていた。木曽殿が奉納をしたとも聞くが詳細不明。
境内裏手かに宮崎城への登山口があるので、徒歩の方はこちらから登るのをオススメ。
宮崎城址| 富山県|JR信越本線「越中宮崎」駅
宮崎佐美太郎長康が寿永年間に築城したといわれ、城の三の郭比定地には宮崎太郎長康供養塔と北陸宮の御墳墓がある。山頂からは寒原(親不知)を臨むことができる山城。
脇子八幡宮| 富山県下新川郡朝日町横尾966|JR北陸本線「泊」駅
治承年間に木曽殿が脇子八幡の社殿近くに御所を造営し、北陸宮を置き奉ったという。宮崎城から下りてきたふもとの平地にあたる。現在は水害があったために移設したとのことで元あった場所とは違うので注意。
境内にある「弁慶の足跡」石。黒部から一跨ぎしたらついたという、
じょうべのま遺跡| 富山県下新川郡入善町田中790|JR北陸本線「入善」駅から徒歩
平安初期/鎌倉初期の遺跡。平安時代の遺跡は10棟以上の建物跡と、墨書土器多数が出土しており荘所跡と推定されている。荘園所有者は東大寺と西大寺の2説あるが、有力なのは西大寺領佐味荘とされる。遺跡の名前はもう一説の丈部荘からきていると思われ。やっぱ佐味たんの本貫地でしょ!
舟見城| 富山県下新川郡入善町舟見字熊坂33-2|JR北陸本線「入善」駅からタクシーで20分
鬼伏蒲原を通り過ぎ、宮崎城からやっと平地のある場所にたどりつくと入善。昔の街道はここから南下し舟見を通っていったと思われ、舟見城はうっかり入善小太郎が築城したと伝わる。城下の旧街道には江戸時代の舟見宿の風景が残り、南下していくと黒部川の渡河ポイント愛本がある。
⇒入善町公式HP
小川山千光寺(白山社)| 富山県魚津市小川寺|あいの風とやま鉄道「魚津」駅からタクシー、またはバス
小川寺にあった寺院で現在は観音堂のほか3坊を残す。開祖は行基といい天平18年(746年)に創建されたというので街道筋の目印として紹介。上杉謙信が魚津城を攻めた際に寺院のほとんどが焼失したといい、もしかしたら木曽殿が宿泊したのかもしれないのに伝承は残存しない。これだから戦国時代は。。。!
南町地蔵尊| 富山県中新川郡上市町南町|富山地鉄本線「上市」駅から徒歩
地蔵堂に「おこり石」という赤い石が安置してある(写真右端)。伝承によれば平家討伐のためにここを通りかかり、腰をかけて休んだのがこの赤い石だと言い伝えられ、この石にお祈りすれば瘧(おこり=マラリア)が落ちる、と信じられている。
案内板に「木曽軍が倶利伽羅山合戦へ向かうとき」のルートが書いてあり、
・浜通りを 宮崎城~入善~黒部~魚津~滑川~岩瀬~金屋西野館
・山通りを 舟見~愛本~田家~魚津~木曽が平~上市~月岡野~八尾成子~主馬が城~長沢城~金屋西野館
と進軍したルートがあったことを証明している、としている。
個人的には木曽殿本隊は山通りルートを通ったと考えていて、主馬ヶ城はおいといて長沢城から金屋に入ったのは間違いないと思う!
呉羽山| 富山県富山市呉羽|あいの風とやま鉄道線「富山」駅からバス
呉羽山は平安期には呉服山と呼ばれ、越中を東西に分断する丘陵。今井兼平は丸山あたりを上がっていったとされるが、それが本当ならそのあと丘陵づたいに南下し城山あたりに陣を敷いた、ということになるか。北は公園になっており、見晴らし台からの富山市街の景色がよい。
★
八幡社(丸山)| 富山県富山市安養坊|あいの風とやま鉄道線「富山」駅からバス
案内板によれば「(略)兼平が寿永二年五月、呉服山に陣をとった時、安養坊の坂を上がる途中、馬から降り、平氏との決戦の勝利を祈願した場所と伝えられている」という。また、この地には円明山延命寺があったことから丸山と呼ばれた、とも。
★★
白鳥城址| 富山県富山市呉羽|JR富山駅からバスまたはJR高山本線「西富山」駅
城山と呼ばれるあたりにあった。今井兼平が般若野合戦に先立ち陣を敷いた。現在の城址は前田利家が所有した頃のものと言われる。「白鳥」の名はふもとにある白鳥神社からついたもので、戦国時代は呉服山城などと呼ばれたらしい。本丸のあたりはかなり見晴らしがよく、西も木を払えばかなり見晴るかせると思う。
八幡社(金屋)/西野館| 富山県富山市金屋|JR北陸本線「富山」駅からバス(富山大付属病院行「金屋」下車)
八幡社と水路をはさんで「西野館」の石碑があり、ここにも木曽軍が休んでいったという案内板がある。
熊野神社| 富山県富山市金屋|JR北陸本線「富山」駅からバス
★★
弓清水(般若野古戦場)| 富山県高岡市常国|JR城端線「戸出」駅
裏にある崖を上がると薬師堂の小さな祠があり、般若野合戦の石碑がたつ。
★
常国大悲寺観音堂| 富山県高岡市常国|JR城端線「戸出」駅から徒歩
案内板によると、本堂に安置されている観世音菩薩は木曽義仲の守護佛で、寿永二年般若野合戦ののち、常国山に祀ってあったものを天明年間に現地に移し、当寺に保管を委託した、とある。
庄川| 富山県高岡市|JR城端線「戸出」駅
写真は中田橋から庄川を見たところ。このあたりは北に野原が続いていた地形。このあたり一帯が般若野古戦場と目されるが正確な位置は不明。北上していくと「般若野」の地名の場所がある。
移田(いかだ)八幡宮| 富山県高岡市中田|JR城端線「戸出」駅
「寿永二年、木曽義仲の先鋒今井四郎兼平 神前に源氏興隆 平家追討 源氏興隆・平家追討を祈願して大勝利をおさめたり。寿永二年、神祇道官領長卜部良芳奉幣し 天下泰平 国家安全 五穀豊穣を祈願し給ひ移田神社八幡宮 と唱え給ふ」と伝わる。
★
正園野神明社祠| 富山県高岡市戸出町|JR城端線「戸出」駅から徒歩
木曽殿が松の下で休んだという言い伝えのある「駒繋ぎの松」はこの正園野神明社の境内にあったといわれる。北陸路中田往来沿いに小さな祠があり、跡地のランドマークとなっている。
★
駒つなぎの松址| 富山県高岡市戸出町1戸出公園内|JR城端線「戸出」駅
正園野神明社の裏手にあたる戸出公園に駒繋ぎの松の碑がある。このあたりで馬を繋ぎ、砺波山の決戦を前に軍議を行ったという案内板がある。
草岡神社| 富山県射水市堀岡古明神|
創建不明だが延喜式にある「草岡神社」とされ草岡郷の産土神という。また、木曽義仲が重臣に命じて参籠させ天下の安泰を祈祷させたという言い伝えがある。
放生津八幡宮| 富山県射水市八幡町|万葉線「東新湊」駅
日枝神社(六渡寺)| 富山県射水市八幡町|万葉線「六渡寺」駅
盛衰記には木曽軍が「六渡寺の国府に到着」とあり、六渡寺湊はかなり繁栄していたという。こちらの日枝神社は近江国坂本から分霊され、行基奉納の仏像が3体、今も納められている。国府はこのあとの「勝興寺」敷地にあったという。
越中国府(勝興寺)| 富山県高岡市伏木古国府|JR氷見線「伏木」駅
勝興寺自体は永正14年(1517年)に佐渡の順徳天皇御願寺勝興寺を再興したもので、境内には土塁などが残り、この敷地が越中国府跡という伝承がある。伏木駅近くに「義経記・如意の渡」がある。 また、ここから北に越中一宮「気多(けた)神社」がある。
如意の渡の「義経・弁慶」像、最近駅前に移ったらしい
気多(けた)神社| 富山県高岡市伏木古国府|JR氷見線
寿永年間に木曽軍による兵火で伽藍や社殿が焼失したという伝承が残る。(「従太政官由来就御尋書上帳」)
気多神社参道沿いに「越中国分寺址」もある。
木舟城址| 富山県高岡市福岡町木舟|JR北陸本線「福岡」駅
北陸武士団・石黒光弘によって館が建てられ、石黒氏累代がここを居城とした。「木舟城址碑」がある。残念ながら管理人未踏…
福光城址| 富山県|JR城端線「福光」駅から徒歩またはレンタサイクル
宇佐八幡宮(福光)| 富山県|JR城端線「福光」駅から徒歩またはレンタサイクル
天平勝宝2年(750年) 大友家持が国守の任についた時、息子持豊が石黒庄総社として宇佐より分霊し勧請したといい、寿永の頃は石黒太郎義弘、福満五郎など豪族の崇敬も深かったとか。
巴塚/巴の一本松| 富山県|JR城端線「福光」駅から徒歩またはレンタサイクル
山本城址(福光)| 富山県|JR城端線「福光」駅から徒歩またはレンタサイクル、タクシー
古くは八幡太郎義家のころ築城されたといい、治承寿永の頃は福光城の出城として石黒光弘の管理下にあったと思われる。