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義仲雨が降ってないの何年ぶり?


毎年この時期は雪や小雨が降っているんだが、今年は珍しくも天気がよい。とはいえ曇天模様で寒いことに変わりはないんだけども。

前日19日に京都入りして、京都駅に着いたついでに「六孫王神社」に寄らせていただく。

駅からは西へまっすぐ歩いて20分くらい、バスも30分に1本くらいある。
この六孫王神社は清和源氏の始祖・源経基が祀られているほか多田満仲もここに葬られており、清和源氏発祥の神社として信仰されている。


うーん、木曽殿はここに来たかなあ…?


拝殿前で参拝。境内には御朱印をもとめる旅人が二人。

とりあえずこの日は史跡にはあまり寄らないつもりで夕食を友人と駅ビルでとって、その後大津入り。



20日の朝は、一瞬きれいに晴れた。。。
毎年、一月第三週には義仲寺にて木曽殿の法要・義仲忌が行われるので、一応お参りをしたいなーと思って来たのだが、まだ時間もあるので、大津駅から歩いて15分くらいで行ける「関蝉丸神社(下社)」へお参り。


てか、いきなり参道を線路が横切ってるって、なんという強引さ…!
蝉丸神社は逢坂山の国道1号線沿いに3つあり、京阪京津線大谷駅からすぐに郷社、逢坂関碑を越えて上社、坂下に下社。

境内には、紀貫之の歌にもうたわれたという「関の清水」。右手に見切れてるのはその歌碑。
盛衰記にある、木曽七騎が通り過ぎる「関清水」「関明神」がここ。

逢坂関の峠を越えて清水があれば、ここで喉を潤さないわけがない!と思う。
残念ながら現在水は枯渇している。

また、鎌倉時代のものといわれる石灯籠がある。


拝殿。

蝉丸神社は芸能の神様なので、ここはひとつ芸事が上手くなるようお願いを…。ムリか。



関蝉丸神社を出ると国道向かい側の小高い丘にも神社が見えるので行ってみると、こちらは若宮八幡神社

創建は天徳3年(953年)宇佐八幡宮から勧請とされ、なにより小高い場所に社殿があるので往時の旅人はよく目にしたと思う。。。



さて、現在の国道1号線(コクイチ)は、峠から北上しながら下ったあと、下社の手前で曲がって東へ続いている。
が、木曽殿が通った頃には、
逢坂関→蝉丸神社上社→関蝉丸神社(下社)→関寺(長安寺)と北上して、札の辻あたりから東西に道が分かれていたと思われる。

少なくとも江戸時代、東海道は上記ルートだった。。。というわけで左の写真は「札の辻」近辺。江戸時代はここに高札場があって、おふれや犯罪者情報などの公共事業情報がここに立てられていたという、その名残り。


また、札の辻あたりには大津宿の名残りがある。
 
現在は明治天皇聖跡碑(休憩所跡)があるのみだが、江戸の頃の大津宿の本陣はこのあたりにあったという。




そこから京町を突っ切り松本まで上り坂を避けて歩いていくと、そのうち打出浜(大津警察署裏)に出る計算。さらに義仲寺、岩坐神社、途中古い道がなくなって、若宮八幡宮、近江国分寺、勢多唐橋、近江国府…と、昔の街道が点で繋がってくる。

と、ココで「
とある誘惑」にかられる。
…ごめんなさい、木曽殿!
やっぱりワタシ、気になるんです!


何がゴメンといって、この瞬間に義仲忌に行くのをやめにしたから。
なんといいますか、松本清張的にいって「点と線」?
ワタシにとっては木曽殿の足跡をたどることが、事件…ではなく木曽殿に近づくことかという気がするのだ、ヤッパリ。



思いついた行き先はどこだったかというと、京津線上栄駅から電車に乗り、大谷、追分、四宮、山科とうち過ぎて、山科で地下鉄東西線に乗り換え、御陵を過ぎて蹴上駅で下車。
徒歩15分くらいで「粟田神社」到着。


粟田神社は由緒によれば貞観18年(876年)に社が建てられたという。
ここは「粟田口」と呼ばれる京都から外に出る「七口」のひとつで、東山道・東海道古道はこの下を通っている。ここから近江方面に向かう旅人はこの神社で旅の無事を祈ったといい、今も旅行安全の神さまとして名高い。
木曽殿が京から出て行ったのもこの粟田口、逃避スタート地点ともいえる。

拝殿でお参り。

この拝殿左手にはちょっと興味をひく恵比寿様がある。

九郎義経がまだ牛若丸だった頃、奥州に下る際にこの恵比寿様に「源家再興」を祈ったところ、念願かなったというので、別名「出世恵比寿」という。元は蹴上の夷谷(国道一号越えて北のあたり)にあったという。


さて、以前はこの近くの小学校の角に小さな「粟田口」碑があったんだけども、壊れかかってたから撤去されたかなーと思って見に行って見たら、門前に新しい石碑ができてた。

この粟田口、ご存知の通り木曽殿が京を脱出する際のルート。
お腹もすいてきたので、ここで菓子屋にておぜんざいをいただく。



三条通りに出て、京都駅行きのバスに乗り込むともう正午過ぎ。


八坂さんを通り抜けて八坂の塔に向かう。


法観寺さん境内にある、木曽殿の首塚にお参りしようと考えていたのだけどもー
……あれー?
入口に「本日閉山」の札がかかっている。

い や ー ん な  ん  で  ー  ! ?

しばらくorz状態。。。不審者っぽく格子の隙間からのぞいてみるが人の気配もない。。。
きっと、今日は法観寺さん的に木曽殿ファンが大挙して押し寄せてくるのが面倒くさかったんだよね…?法観寺さんに門前払いをくらったのはこれで3度目くらいだし。。。今更驚かないよ!


バスで京都駅に戻って帰りの新幹線の切符を購入し、時計をみるとまだ14時。
気をとりなおして石山行くぜー!



…電車に乗って近江に舞い戻ると石山
駅から徒歩5分、今年も今井さん墓参。

ここにある案内板の、「今井の塚はもともとは墨黒(すぐろ)谷にあった」というのがいつも気になってたので、今年はその墨黒を探して北上してみることにする。

地元の伝説に「墨黒のススキ」という話がある。「今井兼平の血をあびたススキが、いまも茎に血のあとを点々と残している」というもの。
これは後拾遺和歌集に「粟津野の 末黒のすすきつのぐめば 冬立ちなづむ駒ぞいばゆる」という歌があり、この「すぐろのススキ」というのがブランドとなって伝説を生んだんじゃないかと思われるんだけども、古くから「粟津」「スグロ」の地名があるというのは興味深い。
というわけで、墨黒谷も粟津の野原のどこかにあるんだろうなーと思いながら歩いてみるけどもそれっぽい地名は見つからない。


そうこうしているうちに中庄の「若宮八幡神社」にたどりついたので、参拝。


創建は白鳳4年といい、天智天皇の頃というんだから古い。


そしてこの八幡さまは木曽軍と義経軍との合戦の折に兵火で消失したという。そして、後に頼朝によって再興されたという社伝がある。


この若宮八幡の北を流れるのが「篠津川」、墨黒谷はこの川沿いの奥にあったといわれる。


今は整備され、途中は暗渠になってたりして随分真っ直ぐ東西を流れている。西には茶臼山、谷といえるのはこの川の往古の流域だったんだろうけども特定できず。
こういう事は、地元のお年寄りに聞くのが一番だけどなあ。

ところでこの中庄の若宮八幡神社、古くは「粟津森神社」と呼ばれており、粟津の合戦では兵火で焼失したと社伝にある。そしてすぐ近くの篠津川沿いで兼平が自害したと伝わる…という情報はかなり現場が近いと思われ!木曽殿ファンにはかなり穴場のランドマークかと!



粟津森のちょい北東にある粟津神社

お社は新しく小さいけども、膳所最古のお社といわれている。


さらに旧街道筋をたどって膳所神社、平安時代創建らしい。



和田神社


この神社は創建が白鳳4年で、名前の由来はこのあたりを昔は和田浜といったからだという。境内には、石田三成が護送途中に縛られたという大銀杏がある。

ところでこの「和田」という地名、ほぼ海や湖などの側にあって水にちなんだ地形をあらわしている。この地名があったら気にしてみると面白い、と思う。


さらに歩いて「岩坐神社」。いわいじんじゃ、と読む。


西庄にある式内社で、元は茶臼山の奥に鎮座していたといい、境内には茶臼山方向に向かった遥拝所がある。
こちらも古いらしい。。。

建久3年、頼朝上洛の折に参拝したという。サスガ佐殿、ぬかりがないな!


そして、義仲寺。この寺の前を左右に延びる道が旧街道。


今年はなんとかお寺が閉まる前にくることができてよかった。。。
(ま、義仲忌はすっかり終わって諸々片付いてたけどねー)
なんとか滑り込みセーフで木曽殿のお墓にごあいさつ。


そしてこの日しか拝めない、朝日堂の木曽殿のお位牌にもごあいさつ。


巴塚にも手を合わせる。



これで本日の懸念は無くなった!
お参り後、義仲寺から西の打出浜を通り過ぎ、そしてさらに平野神社(時間がなくて門前スルー)、滋賀県庁脇を通ると朝訪れた札の辻に出る (といっても、時間の都合上札の辻には戻らず県庁から南下して大津駅に直行)。
…というカンジでだいたい木曽残党の最後のルートを逆走終了!



せっかく木曽殿が通ったと思われる「点」をたどってみたのだけども、順序どおりの正しいルート辿れてない時点でイミフな行動にしか見えないのが書いてて残念な気分になるー
自分的には無駄な行動じゃないんだけども!

文章で読んでも手当たり次第に神社に寄ってるようにしか見えないかもしれないけども、地図で今回踏破した「点」をつないでいただくと、木曽殿が通って行ったと思われる「線」が見えてくると思う。。。


木曽殿の足跡を長門本【義仲都落る事】参照してみると
六条御所」を出て「六条河原」と「三条河原」の間を返し合わせて戦い「三条河原」を破って「粟田口」(粟田神社)を出る。(補:関山=逢阪の関を越える【延慶本】)
巴エピソードの後、「もろは山」(諸羽神社の山)の前「四ノ宮河原」で今井と落ち合う。

ここから延慶本参照で
打出浜」で木曽殿と今井が行き会い、「
今井高き所に打上がりて」幡を差し上げる。「勢多」方向に移動しつつ一条軍と交戦、「粟津の辺」で主従5騎になる。木曽殿に自害を進めた「あの松原」は「道から南へ三町(約330m)ばかり」の所にある。


…と、こんなカンジでルートの推理の糸口にしてるんだけど、さて、どうでしょう?

平家物語に記載されている
地名やルートについては「志雄合戦」「一の谷合戦」など、地理的におかしいものも少なくない。
が、平家物語作者は誰か分からないまでも最初の著者はほぼ京都在住のヒトでファイナルアンサーなので、サスガに大津あたりの地理描写に間違いはないだろう、と予測。
そして、
このオリエンテーリングのナゾ解き最大の楽しみはもちろん「
今井高き所に打上がりて」と「あの松原」。



さて、帰りは新幹線の発車まであと1分のところで駅弁ゲットするも、フタ開けてみたら「これ前回食べてるじゃん!」という残念な結果。しかも前回(船岡山編)でもこんな写真撮ってるよ!



と、ここまでおつきあい毎度ありがとうございます。
2013年01月20日





より大きな地図で 旅レポ大津編 を表示

<今回の移動ルート>

JR京都駅

六孫王神社

JR大津駅

関蝉丸神社(下社)

若宮神社(大津)

札の辻

地下鉄東西線蹴上駅

粟田神社

法観寺(八坂の塔)

JR石山駅

今井兼平墓

若宮八幡社(最寄りは瓦ケ浜駅)

粟津神社

膳所神社

和田神社

岩坐神社

義仲寺

JR大津駅



◆今回のヒント
ひたすら歩く…


◆旅レポもくじ◆

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大津ワンデー編
北陸道補完編
プチ野木宮編
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