早春”乗り鉄”篠ノ井線
3月に入り、三寒四温とはいえ随分あたたかくなってきたら旅の虫がうずきだす。
さすがに北陸方面はまだまだ雪が積もってるであろうから、他に軽く行けそうなところ…ということで、毎度おなじみのホームグランド信濃の国へ行脚することにする。
今回の目標は「篠ノ井線乗り鉄制覇」。
この路線は、なんと!塩尻駅から松本駅、聖高原駅(麻績)、篠ノ井駅などを通過して長野駅に至るという、「なんちゃって木曽軍進軍ルート善光寺街道」が満喫できるのだ!
ついでに、これまで行きにくくてパスしてた伝承地の幾つかを回ることにする。まず長野新幹線で長野駅へ。なんで長野=善光寺街道終点から逆走するのかについては、「新幹線の方が早くて楽だから…?」
しかも新型車両のニクイヤツ、あさま505号に乗車。
そして駅弁は前回購入できなかった東京駅「おもてなし弁当」ゲット。
と、幸先よいスタートで長野駅に到着し、さっそく篠ノ井線に乗車。善光寺は脳内妄想で行ったことにして、ゴールからの出発だ。
安茂里駅を通過して川中島駅で最初の下車。
駅から西に小松原という地区まで歩く。雪がちらほら残ってるけども、陽射しが暖かい…っていうか歩いていると暑い。
小松原伊勢社に到着。
別名を布施神社、小松原(布施)は大昔から伊勢内宮の御料御厨だったといい、治承4年(1180年)に木曽殿の宮殿造営があったとのことだが、史料自体は戦国時代の兵火に焼失したとか。
考えてたより立派な神社だった!お詣りさせていただき、川中島駅に戻る。
次に途中下車したのはいつもの篠ノ井駅。
長野から篠ノ井まではJRとしなの鉄道が相互で走っているので、電車の本数も思ったより多い。(篠ノ井から先の松本方面はほぼ1時間に1本)
目指すのは千曲川だが、よい機会なので久しぶりに横田城址と可毛羽神社も回る。
横田城址=会の稲荷神社。
相変わらず場所わかりづら…!
とはいえ順当にいけばこの景色にいきあたる。
表。
周辺も以前来たときとなんら変わりないことを確認したところで、土塁のあったあたりを迂回しつつ南の可毛羽神社へ。
前は気づかなかったけども、神社脇に芭蕉先輩の句碑がある…!
境内を掃き清めている男性に会釈して、お参り。
さすがに横田城近くだけあって、横田河原合戦の戦場として社殿も兵火に合った。
このあたりは開けた地形で、源平の頃には住宅地でもなかっただろうから、横田城と可毛羽神社は遠くからも良く見えたかもしれない。
神社脇には個人の墓地があって、そこに木曽殿の供養塔がある。ご子孫の方が建てたもので説明板もある。
丁度そのご子孫の方々がお墓参りしているところに出くわしたので「お墓の写真撮影してもいいですかー」と聞いて写真を撮らせていただく。
「どこの人?取材?」
「いえ、観光で」
「ふうん。ワシ子孫なんだけどね」
「存じております(だってお墓掃除してるし)」
「説明はそこに書いてあるから読んでって」
「あっ、、はい」
せっかくなので掲載。
可毛羽神社を後にして、ひたすら南に歩き続けると千曲川に出る。
いつも古戦場を歩いて思うのは、
「 戦 場 広 い よ … 」
武具やら兵站やら持ってはるか遠くから遠征してきて、戦闘でこれだけの範囲を移動して、さらに激しい運動(交戦)までするっていうのは、ほんとに御苦労さんだと思う。
などと考えながらダラダラ歩き、千曲川岸のほど近くにある更級横田神社に到着。
こちらも兵火にあったという。戦国時代の兵火で口伝しか残っていないらしいのが残念。またしても、思ったより大きい神社だ。。。
裏から入ってきたので正面鳥居側にまわる。鳥居から出て土手を上がるとすぐ千曲川。源平の頃はもっと南を流れていた。東の方に渡河ポイント雨宮の渡しがあり、西の方には妻女山が見える。
ここは千曲川渡るでしょ!
と岩野橋を歩いて渡ることにする。橋の向こうに見えるのが妻女山。
このあたりを井上隊が迂回して赤旗挙げて横田城方面に走ってきたら、確かによく見える気はする…。井上光盛の本拠地は妻女山のさらに東にある須坂市なので、
「迂回じゃなくて直接妻女山方面から城軍の加勢に来て途中で気が変わっただけなんじゃないのー?」
と疑いたくもなるのだが、ケータイもメールもないので赤旗の策も誤爆しないよう事前協議が必要、真っ先に城軍に矢を引いた屋代の村上判官代とは血縁関係、ということを考えるとまあ計画性のある戦術だったのかもと納得してみる。それにしても長野鉄道屋代線の廃線はイタイなあ…。井上さんの通勤路が気軽に移動できないわけで。
井上光盛に想いをはせつつ千曲川を渡り、google mapで現在地確認して、はたと暗い気持ちになる。最寄りの駅は屋代駅なんだけど、歩くには遠いし、何より時間がかかるのがもったいない。タクシー呼ぶのも業腹だなー、と思ってたところで歩いてる道に見覚えがあることに気づく。
そうか、ここは以前バスで寝過ごして辿り着いた松代から屋代駅に戻ったバスの車窓から見た景色じゃないか!?
ということは土日でもバスがあるはず!
歩いて行くうちに「土口」バス停を発見。
1時間に1本あるかないかという時刻表だがあと15分くらいで来るらしい。土日運休の文字も見当たらないのでここは待ってみる。
来たー!
というわけでありがたくバスに乗り屋代駅へ。
次の電車まで30分くらいあるが、さすがに屋代館址に登ってられるほどの時間でもないので、駅から眺めるだけにする。
この山が一重山で、山腹に木曽殿が横田で加勢した村上何某の館があったという。
さて一旦篠ノ井駅に戻り、篠ノ井線に乗り換えて次の目的地、姥捨駅へ。電車から降り立って、まずはホームからの絶景を堪能。
手前の棚田をナメつつ眼下に広がる善光寺平、楯六郎が斥候の際に願書出した「大法堂」武水別神社の森ー千曲川ー一重山(村上館)ー雨宮ー妻女山ー横田河原ー善光寺方面、とこれらが一望できる。
ところで盛衰記の楯くんが斥候に出たポイント「塩尻」は、稲荷山の「塩崎」の間違いなんじゃないかと思う。が、飛行機もgoogle mapもない時代でこれだけ眺められる場所があるんだから、あるいは姨捨山を登るのもアリかもしれない。
山を降りつつ月畑を通り、
長楽寺へ。
まず目を引くのが「姨岩」という巨石。観音堂脇を降りて境内から見上げるとかなりの存在感がある。
寺の北のほうにある四十八枚田は、一説には西行が法華経の四十八願に掛けて48枚に分けたとか名付けたとか言われており、現在も美しい棚田が続いている。
西行(=さいギョン)は東北まで行ってるけど、やっぱりここは通って行ったんだろうか…。
と、個人的にこの西行エピソードが有名なんだと思ってたら、
姥捨山長楽寺といえば芭蕉先輩の「面影塚」の方が有名かつ大人気だった!
「おもかげや 姨ひとりなく月の友」
と先輩が姥捨山に立ち寄ったときに詠んだのにちなんで塚を建てた、との事だが、これが先輩のファン俳人達の心にクリーンヒットしたらしく、境内にもその上の参道にも弟子やら後世の俳人やらの句碑が立ち並んでいる。どうやらここに句碑を立てるのが俳人のステイタスらしい。
芭蕉先輩の人気の凄さを改めて実感した。。。
日が暮れるととたんに冬の寒さが襲ってくる。姥捨を後にして篠ノ井線で松本まで一気に下る。
松本でホテルを突撃手配、なんとか空いてた上にシングル値段でセミダブルベッドの部屋をGET!
当日予約は、全く取れないか、いい部屋が取れるかの博打だけども、取れなかった時はネカフェ、辺鄙な場所の民宿、さらに別の駅で探すか、最悪帰ってもいいんだ!と考えて、むしろどうなるのか楽しみにするようにしてマス(けっこう心が折れるときも多いけど)。
二日目。
朝食はホテルのバイキングで腹ごしらえしてから、休日は1日2~3本しかない9:40発のバス(四賀線)に乗る。松本バスターミナルが、駅の道を挟んだ向こう側にあって分かり難かったため時間ギリギリになってしまい、ものすごく焦った。
前回は徒歩で頑張った岡田神社脇を通り、井深城を正面→右手に見ながら山奥に入っていく。どんどん山を登って行き、トンネルを抜けていくと…
集落もなし。と、思ったらその刈谷原バス停で乗客が一人降りていった。
さらにその2つ先のバス停「四賀化石館」で降りる。
四賀では春の訪れは桜ではなく福寿草だという、そんなニュースを見たので、ちょっと寄り道で福寿草祭をのぞいてみる。
このまま東にいけば保福寺があり、古く東山道はここを通って峠越え、すると塩田平(別所温泉のあるあたり)に出る。気持ち的には行ってみたいものの、本来の目的地は逆なのでここで引き返す。
老人ホーム四賀福寿荘をランドマークに北へ歩き、「大平」で左に入ってすぐ洞光寺に到着。
洞光寺入口には木曽殿が会田の戦いで兜を置いたという「兜石」がある。
石碑がたくさんあるけども…これが兜石か?
確かに兜が置けそうなかんじ…?
麻績も会田も山あいの土地で、横田河原のような盛大な合戦は出来ないけども、道がかなり限定されるので敵の捕捉は楽かも。
会田における木曽殿の気配はこれだけなので、しばし洞光寺でお参り&境内散策。
薬師堂。
源平合戦には全く関係はないが、川中島の合戦でここ刈谷原まで攻めてきた信玄に討たれた太田資忠のエピソードが気になった。
寺を後にし、ひたすら善光寺街道を北上する。
のどかすぎる道を歩き続けること1時間くらい、松本市四賀支所に着く。
道路脇に「会田宿」と書かれた灯篭があり、町並みも江戸期の宿場町の雰囲気が楽しめるよう整備されている。
町並。
会田宿からは山道になっていき、次の目的地、廣田寺に到着。
会田御厨は滋野(海野)恒成=善淵王が天慶の乱での軍功として下され、子息が入り以降会田氏を名乗ったが、後世の戦国時代に小笠原氏によって滅ぼされたという。その会田氏の菩提寺で、寺の傍には最期の合戦で使われた鎧などを遺骸の代わりとして埋めたという会田塚がある。
寺の門などにある家紋は六文銭、真田氏で有名だが真田も会田も海野氏から興りその縁故で戦国時代も繋がっていた。
立派なお寺で、正直、またしても驚いてみたり。
何はともあれ、会田に戦いがあったとすれば会田氏と木曽殿になにがしかの関わりはあったと思われる。
会田塚。ちょっと見つけづらい。
善光寺街道(=北国街道西往還)はこのまま立峠を越えて乱橋(JR西条駅の方)、青柳(JR坂北駅あたり)、麻績(JR聖高原駅)へと続いていく。峠には芭蕉先輩の句碑などがあるらしいけども、そこは体力もたないのでスルー。
四賀支所まで降りてきたところで15時ちかく、次の松本行きバスは16:40(ちなみに最終)、と時間が空いてしまうので、…ミヤタヤは金で時間を買った!
タクシーを呼ぶと「松本の営業所から出るので2〜30分かかりますよ」と言われるが気にしない。待っている間、寒いので四賀支所あたりをウロウロしていると、なんと日曜日なのに自動ドアが開く。
ここでトイレ休憩と自販機のあったか〜い飲み物で一息つく。図書室もあって、地元民に解放されているらしい?なんにしろ旅人にもとてもありがたい。
さて、タクシーで松本に移動、長い道中だったのでなんとなくタクシーの運転手さんと会話。
「四賀は赤松が見事ですねー」
「そりゃ、このあたりは松茸が特産ですから」
「なるほど、だから山道の至る所に柵で立入禁止にしてあったんですね?」
「そうそう、どこも止山(とめやま)になってますよ、秋になるとね、本当にとれるんです。松茸とりにいくと、シメジが生えてても見えなくなっちゃう(笑)」
「じゃ、秋に来ないといけませんね」
「この近くにある松茸山荘がオススメです」
うーん、秋に歩くのがオススメかも。
結局7000円以上かかるところをオマケしていただき、お礼を言ってタクシーを降りると、松本駅でちょうど篠ノ井線15:55が5分遅れだったのでそれに飛び乗る。
まだ陽も残ってるし、せっかく時間を買ったのでここはゴールの塩尻駅を通り過ぎみどり湖駅で下車。以前、目前にいながら時間切れで行けなかったお寺「永福寺」に行くことにしたんである。歩くこと15分くらいで到着、阿礼神社からも遠くない。
門前に「木曽義仲公縁りの永福寺」という石碑が立ててありホームグラウンド感たっぷり。
本堂で手を合わせてから、
右手にある観音堂へ。
手前の案内板に「永福寺は木曽義仲ゆかりの地で元禄十五年(1702年)現在地に伽藍と義仲信仰の馬頭観世音を本尊とする朝日観音堂を建立したがその後焼失した。」とある。現在の観音堂は江戸期の名工によるものだが、建築中にその名工が亡くなった経緯も書いてある。
この観音堂、確かに造りも素晴らしいが、それ以上になにかほっこりする。
この奉納絵馬のイケメン騎馬武者はもしや!
…と、言ってるうちに日が暮れたのでここでタイムアップ。
塩尻駅に戻って「篠ノ井線ゴール!」と自分をねぎらい、冷えた体に塩尻駅のいつもの立ち食いソバで温まり、スーパーあずさで帰宅。どうでもいいけどスーパーあずさって横揺れするからちょっと乗り物酔いするんだよね。
ここまでお付き合い、あざス。
2014年3月