私は帰ってきた!てか補完しに北陸道リタ−ンズ。
さかのぼること一ヶ月前に越中宮崎まで来ておいて、(東京からみれば)目前だった富山市方面に行きたくならないわけがなく、三連休にあらためて北陸道再出撃することにした。とりあえず宿とレンタカーは前日に押さえておいて、富山市あたりから再開…といきたかったけども、行きたい場所の優先度などの諸事情で高岡駅下車、今回のベースキャンプにする。
◆一日目。
そんなわけで、レンタカーで北東を目指す。
まず庄川を渡河。
庄川沿いにあった川口諏訪木神社が気になったのでお参り。元は高木八幡といったらしいが、鎌倉時代より前にあったかどうかは残念ながら分からない。明治の頃に神明社と八幡と諏訪木神社が合祀されたという。
さて「堀岡古明神」信号を左折して、最初の目的地は浜街道(北陸道)の明神浜にあったという「草岡神社」。
式内社で、木曽殿が安泰祈願したという伝承が村史にあるという。ここから南下すれば呉羽山、兼平が布陣した白鳥城址がある。うーん、ナイスポジション!とはいえ近くまで来て右手にある火力発電所?にビックリする。
デカイ!
一見、工業埋立地みたいな場所に式内社があるのが不思議に感じる。不思議といえば、草岡神社から新湊大橋を渡って海王丸パーク側に行ったんだけど、平安時代にはこの湊は無かったってことだよなあ…。
新湊大橋を渡って新湊の「きっときと市場」で昼食をとる。新鮮な魚介類豊富で美味い!
これはかきづくしセット。
次に渡河ポイントであった「六動寺の渡」に移動、今は地名が残るだけのようだ。物語では「般若野合戦」で先鋒の今井軍が戦った後に木曽本隊が「越中国府を出て六渡寺の渡し」を渡った、という。
橋を渡った伏木側に公園っぽい場所があって「如意の渡」義経&弁慶の銅像がある。
そこにはダダをこねた義経とイラっとした弁慶が。。。(そんなわけはないが)
かつてはここから渡し船が出ており、能「安宅」で関守に見破られそうになった義経が弁慶に打ち据えられたのは、本当は(義経記によれば)ここだった。関守ならぬ渡守に見咎められたのを、弁慶の機転で主従に見えるのは誤解だと思わせて、まんまと六動寺行きの舟に乗船し逃げ延びた。ということは逆ルートの木曽軍もここを渡河していったはずだけども、大軍が馬や徒歩で渡るには川幅も広く、全軍が舟で渡河するにも時間がかかりそうだ。
さて、高岡といえば、山門などが国宝にもなっている瑞龍寺が有名だがこれを華麗にスルー。
次に向かった先は伏木古府にある「勝興寺」。
寺自体は室町時代に創建されたものだけど(経堂などが重文)、その敷地を含めた一帯が平安期には国府だったとされている。土塁、空堀もあり、いつの時代にそれらが作られたのかが大変気になるところ。
そして境内に「越中国府跡」の石碑がある。
国府ってことは木曽殿が逗留したかもだよね!ちなみに石碑裏には大伴家持の歌があり、
あしびきの 山の木ぬれの ほよ採りて
かざしつらくは 千年寿ぐとぞ
どうやら家持さんが国守として赴任し、歌を詠んだのが有名なようだ。
国府の近くに国分寺アリ、ということで越中国分寺に向かう。
多分地名にある「国分」が元々の国分寺敷地だったんじゃないかと思うが、今は残ってるのが奇跡の状態。傾いてる。。。
国分寺のある場所の地名は広範囲にわたって「伏木一宮」。その一の宮はといえば国分寺の前の道をさらに西に行ったところにある「気多神社」。実は国分寺前の道に入る時に気多神社の道標があって、ランドマークになっている。
話を戻してこの「気多神社」、明治にまとめられた「一宮神官大江氏文書」の中の伝承に、木曽義仲の兵火によって焼失した、とあるらしい。
鳥居前に清水が湧いている。
山の中腹にある境内は広くて森の中のような雰囲気。まずはお参り。
摂社の大伴神社、気多神社は家持も信仰したといい、越中は何かと大伴家持の伝承も多い。
ここが兵火にやられるということは、平家軍がここに逃げ込んだか…?
気多神社をあとにして、国道415号を道なりに北上していくと本日最後の目的地「雨晴」に到着する。
雨晴(あまはらし)の岩、というのがあって、義経が奥州に落ちていく時、この辺りでにわか雨に遭い、弁慶が持ち上げた岩陰で休んだ、という伝説がある。別名:義経岩。←なんで弁慶持ち上げ岩じゃないんだろう(^_^;
義経社という祠も建てられている。
ここで本日タイムアップ。
宿は高岡でとり、ちょうど祭だったのでライトアップされた高岡大仏などを見に行ってみる。
お城も近いし国宝の寺(=瑞龍寺/加賀藩二代藩主前田利長公の菩提寺)もあるし、普通の観光をするにもイイ環境だ。駅前には飲食店もあって快適!
◆二日目。
高岡市の南、中田に向かう。
「移田(いかだ)八幡宮」は由緒によると「寿永二年、木曽義仲の先鋒今井四郎兼平、神前に源氏興隆平家追討を祈願して、大勝利を得られたり」とある。弓の清水からもほど近く、般若野合戦の戦場とみられている場所だけにこれアガる!
そんなわけで常国(つねくに)の「弓の清水」にも立ち寄る。木曽軍が六動寺(国府)から般若野の今井隊とここで合流し、地元民の松原某に水を所望したところ「ここだ」と言われ、木曽殿が弓で地面を突くと清水が湧いたのだという。
中田に引き返す途中「常国大悲寺」にも寄らせていただく。
右手の観音堂にある案内板によると「本堂に安置されている観世音菩薩は、木曽義仲公の守護佛で、寿永二年般若野合戦ののちに常国山に祀ってあったものを、天明年間に現地に移し当寺に保管を委託したものである」という。
常国山って思い当たらないんだけども、常国神社のあるあたりだろうか…?
さて、ここで中田に戻ったのには訳がある。「中田かかし祭」が開催されていて、移田八幡にお参りした時に会場を通りかかって「!」と思ったのだ。軽い昼食をここでとるのもアリだな、と会場の路地に足を踏み入れると、思ったより沢山のかかしの力作がずらりと並んでいる。
メイン会場がまた、エライことになってる!
力作すぎる上に木曽殿への愛がハンパない!
賞をとった火牛の計をはじめ、埴生八幡祈願〜倶利伽羅峠の再現という大作かかしが、まさに所狭しと飾ってあるのだ。
平家軍が猿ヶ馬場で気炎を上げる!
…と、その反対側で木曽殿と兼平と巴が吠える!みたいな。
しかもミニイベント会場で何かトーク始まったなーと思ったら、義仲さま&巴御前がアツく語り始め、小矢部のゆるキャラ・メルぎゅーくんがゲストでやってくるという、思わぬところでヨシナカスキー全開のショーに出会ってしまった…
大変楽しい!…とはいえ、スケジュールも押しているので心残りではあるけどもかかし祭は早々に退散。
再度、庄川を渡って、中田から南東にある般若野の地名があった砺波市頼成へ行ってみる。このあたりもひらけた土地ではあるが。。。
「林神社」が式内社らしいのでお参りしてみる。社伝では上杉の兵火により古記録もなくなったということで、またしても戦国時代に邪魔された!要は木曽であれ平家であれ、祈願か兵火の社伝が残ってるとか、平安期に成立しているかどうかといった情報があるとありがたいのだけれど、ま、そうもいかない。戦争・放火、ダメ、絶対!
周辺捜査のため数社ほど神社を確認しながら、県道72号を小島交差点目指して走る。と、小島交差点に「午飯岡」石碑を見つける。この石碑、明治に有志が「木曽殿の伝承地を後世に伝えよう!」と精力的に立てたもので、あくまで地元の伝説が元ではある。
午飯岡碑はこの小島交差点から北に入って数百mのところにある。しかも本来あった場所から移転してここにあるのだとか。交差点の石碑にだまされるヒトもいるとかいないとか。「午飯岡碑」。
旧北陸街道と思われるルートをとりつつ「西宮森」という場所を目指す。コミュニティバスがあるらしく、バス停でかろうじて地名を確認。
ここにある「川田八幡宮」には社伝に「寿永二年五月木曽義仲が当八幡宮に祈願平惟盛の軍を倶利加羅峠に夜襲し之を撃破せり」(と、社標に彫ってある)といい、行軍がてら祈願をしたとされる。
平安時代の武将ってみんなそうなんだけど、行き当たった神社全てに祈願してるよね…(伝承だけど)。
次は「柳原」。
進軍ポイント地名の一つで、木曽殿が「(平家軍が)礪並山を越えて松永辺、柳原、小矢部の河原に出れば馳合い戦になるだろう」と予測した『平家とマトモに当たったらマズい開けた場所』。ここを通って砺波山北麓・羽丹生八幡に詰める。
柳原の近く、「芹川」という場所も進軍ポイントなんだけどもそれらしい石碑を見つけることはできなかったのでバス停で地名チェック。
「鷲尾神社」は鷲ヶ瀬という、これまた進軍ポイントの地名の地に建つ神社。
さあ!進軍ルートを押さえた上は倶利伽羅峠に進撃だ!と、行きたい気持ちでいっぱいだったけども、今回の再進撃はまだ行ってない場所の補完が目的なのでぐっと堪えて、ここで小矢部市を後にする。
で、国道471号を南下しつつ、福光市内に入る。通りすがりに福光駅をのぞいてみるとレンタサイクル情報をみつける。一日500円(当時)なので良心的。電車で来た際は利用したい。
駅を越えて西に向かった先は「福光城」。
城、といっても現在は栖霞園という敷地の一角に建つ建物がランドマークとなっている。この日は明日茶会があるとのことで地元の方が7〜8名ほど集まっていて準備をされていた。黙って写真をとってる不審者なのもアレなので、「東京から観光に来ました、城跡を見せていただいてもイイデスカ」と挨拶すると、なんでそんな所から来たのかと皆さん集まってきた。
中でも物知りな方に栖霞園の建物の成り立ちや間取りなど教えていただいたりして、しばし談話を楽しむ。史跡巡りで歓迎してもらうことってあまりないので(そもそも人がいない事が多い)、なんだかホッコリ。
福光城址を後にして次の目的地に向かう途中、宇佐八幡宮を見つけ、立派なのでお参りする。後で調べると、大友家持の子、家豊が石黒庄の総社として創建したという由緒があった。
次に向かった先は「巴塚の松」。
粟津で木曽殿敗死の後、巴御前が石黒氏の縁をたより福光の地で91歳まで生きたという。巴が晩年を過ごしたという草庵跡といい、巴の死後、この松が植えられたといい樹齢は700年以上といわれ、とても立派だ。すぐ脇がアスファルトの道路なのがもったいない。
巴ちゃんが91歳まで生きた説にはちょっとした思い入れがあるので、この塚に来られてよかった…
ちなみに巴ちゃんの墓(塚)は砺波山の麓や滋賀県大津の義仲寺、千葉や神奈川にもある。これは和田義盛の妻になった説から、瞽女など名もなき旅の女性の塚が巴塚と伝わったという説まで、いろいろあるんだけども、なんにしろ巴ちゃんはその地で愛されていた印だと思う。
巴塚の松からさらに南西に移動、「山本城址」にたどりつく。
築城は八幡太郎義家の頃、と案内板にあり源平合戦やってた時にはなにがしかの施設があったと思われ。位置からみて石黒関係の支城。三方が崖になっており、土塁などもあったらしいが今は単なる小山に見える…
他にもゆかりの何かがないかなあと、山本地区をぐるりと廻ってみるが、特になし。山手に若宮神社があって、これが山本城址にあったという『南朝の古田某建立の八幡社』が移転したもの?と思うが地元の方に聞いてみるも詳細分からなかった…。
まだ日が残っていたので小矢部に戻ってみる。
松永はこのあたりをウロついていると比較的よく通るポイントで、このあたりに砺波の関があったというのもちょっと分かる気がするなあ。
盛衰記【源氏軍配分】で「一手は根井小弥太を大将として二千余騎、越中国住人蟹谷二郎を案内者に付られて、鷲島を打廻、松永の西のはづれ、小耳入を透て鷲尾へ打上り、弥勒山を引廻す」とあって、松永碑から西に入って行くと「小耳入」。
順番的に小耳入を通って「鷲尾」というのは変なんだけど、鷲尾神社が鷲尾だとも限らないし、盛衰記書いた人が現地取材しなかったからおかしいのかもしれないし、このあたり意外と地元の方が分かってたりしないのかなあ、と思ってみたり。この先は農道からさらに舗装されてない山道に入っているのでレンタカーで入り込むのはヤバいと思い、断念。
小耳入の近くにある「砺波の関」碑を通って、
小矢部の伝承にある木曽軍が通ったという「聲乃口」碑を探すため、北東の綾子方面に向かう、と、住宅地の片隅に「古代北陸道」の道標を見つける。
む!聲乃口近し!
と思うが見つけられない。ホントにあるのが聲乃口碑!
2往復してみるがまったく見つけられないので断念して野端に向かう。けっこう密集した住宅地で、自動車学校に間違って入っちゃったりしながら野端地区をぐるっとまわると「将軍塚」を見つける。
小矢部の伝承によれば、木曽殿が鎧兜を埋めて戦勝祈願したという。が、これは間違いなくさらに古い時代の古墳だと思われる…。
しかし、逆にいえば木曽殿が来た当時すでにこの塚があり、木曽殿が塚を見つけるのは容易だったと思う。てことは、神仏大好き武将なら
絶対このパワースポットに行くでしょ!
てことであながち戦勝祈願は嘘じゃないかもしれない。
本気で日が暮れてきたので、日暮れに間に合わないまでも場所を確認したいと思って石動から安楽寺に向かい、そこから南下して天田峠へ向かう。ここは余田隊が北黒坂に進軍したルートといい、「金峰坂」碑があるという…
が、道路沿いには見つからない。やれやれ無駄足かと思いつつも、安楽寺神社に車を置かせてもらって近所を歩いてみると、坂の下にある民家の庭にコスモスが沢山咲いている。きれいだなーっと思っていると何か「それ」っぽいものがある!
さすがに民家なので断わりを入れようと坂を下ると、ちょうど庭にこの家の奥さんらしい方がいらっしゃるんで「すみません〜」と聞いてみる。
「あのー、このあたりにキンブザカの石碑ってのがありますか?」
「はい?石碑?ありますよ、そこの花がたくさんあるあたり」
フォ〜、あった!
家から主も出てきて「このキンポウザカの石碑ね、明治の頃に建てられた物でねー…」と、石碑の由来を教えていただく。アポなし歴女の突然の訪問にも関わらずいろいろお話していただき、大変恐縮いたしました。
なんとか写真にも写ってたし、さすがに北黒坂に登る検証は断念。と、この日の探索を終わる。
◆三日目。
三日目の目的は。。。もうひとつの木曽軍、行家叔父の足跡をたどる。
まずは氷見湊へ。
氷見湊、といっても平安時代の港