佐味タン!入善!南保!
2013年に入ってからというもの、ずっと土日ダウン気味だったんで、ゴールデンウイークに休みが取れたからには、と北に出かけてみた。
さすがに宮ノ越ルート(4時起きのこと)はキツイなー、と思って6時起き。
何はともあれ東京駅に行き「来迎寺」行きの切符をゲト、上越新幹線に乗る。
今回目指すのは、ひとまず新潟。
時間ギリギリの指定席にしたので駅弁買うヒマもなく空腹のまま乗車するoTL
40分くらいしてやっとワゴン来たーーー!と思ったら、食事っぽいものがサンドイッチ(残数1)とワッフル、まったく選択の余地がなかったのでサンドイッチを購入。
上越新幹線の長岡駅で信越本線に乗り替え、「来迎寺」駅で下車。
駅前には特に観光地図もなく、祠があるのがとても気になったけども、とりあえず右手角の和菓子屋手前から、西を目指して歩き始める。
この先にあるのは朝日山、一説によれば木曽殿の「朝日将軍」からその名称がついたという。伝承レベルだけども、この地に木曽家臣が住み着き、ゆかりの剣をこの山の中腹にある神社奉納したところからこの山を「朝日山」、神社を「劔権現・朝日神社」というのだとか。
というわけで、さっそく坂道を上っていくと、朝日神社に到着。
二の鳥居。
二の鳥居のすぐ左手に湧水、これが「宝水」という名水で、麓にある有名酒造の仕込み水にも使われている。
もともとワタシは朝日山酒造さんの日本酒「久保田」大好きで、この伝承を知った時はマジデスカー!?と叫んでみたり。朝日酒造さんはたいへん大きな工場で、残念ながら蔵の見学はやってないようだ。
階段を上がって朝日神社にお参り。
表には「劔大権現」とあるが、内側の扁額には「朝日神社」、神社の紋は巴。
ちなみにもう少し山を上ると神職と思しきお墓があって、名字が「今井」というのも木曽と関連があるのかどうか?イマイチ分からず。勝手な妄想をすれば、木曽の落人が今井の一族か、もしくは今井を名乗って神職を継いできた…と考えたら楽しいよね!
山をそのまま登っていくと、中学校があってその脇から「巴ヶ丘自然公園」に入る道がある。
巴ヶ丘、というのも何か関連あるのかなあと思いつつ、案内板にあった公園内の「朝日百塚」に行ってみることにする。
実際、塚をみると数の多さに圧倒。別に研究者でもないのにこれにはビックリ。
↑これは塚のひとつで、こんなのが実に何十基とある。
百塚の並ぶ道は「浜道」と呼ばれた古街道で、このまま直江津を通り越中に入る。
ちなみに、朝日山には「朝日山城址」碑があるらしいんだけども、どこにあるんだか何の城だか詳細が分らなかったので探さず。
満足したところで公園を出て、再度朝日神社を通り抜けて朝日寺へ。残念ながらこちらにも縁起などの案内板はない。
一通り写真を撮らせていただき退散。
来迎寺駅から、直江津に着いたのは2時過ぎ。
急いで昼食を取ろう…と思うが女子には選択肢が少ない。商店街を北に流して、二階にあるお店「ベニス」にひょいと入ってみると店内が暗い。。。
「あのー、食事できますか?」と聞いてみると奥からおばさんが出てきて「できますよ」と電気と音楽をつけてくれる。なるほど、エコ営業ねー
メニューをみると、イチオシが味噌カツ。何故直江津で味噌カツなのか!?なぜベニスなのか!?と疑問は多々あれど、注文すると揚げたてのデカいカツに味噌汁と御新香が出てくる。しかも美味。
駅前に戻ってバスの時間を見ると丁度いいのがなかったので、タクシーで「五智国分寺」まで行ってもらう。木曽殿がしばらく滞在したという越後国府はこの国分寺近くにあったといい、南に「国府」の地名が残る。ただし国府・国分寺とも当時の正確な位置は分かっておらず、現在の国分寺は上杉謙信が再興したものとか。
国分寺から南東方向にある「国府御影堂」の石碑をみながら
さらに歩くと10分くらいで「上野山国府光源寺」がある。
境内には特に由緒書きなどはないが、観光案内などによれば、越後国府に流された親鸞上人に帰依した『木曽義仲家臣・堀徳兵衛光政』が覚円坊という一宇を興し、後に光源寺と改められたのだという。
ちなみに国府御影堂は光源寺の別名。堂宇の裏手には戦国武将・村上義清の墓がある。北信濃の武将で、源平の頃に活躍した村上判官代為国の子孫にあたり(信濃村上氏)、上杉方として武田信玄と戦っている。
次は五智国分寺を通り過ぎる形で西に向かう。
国分寺の西には「居多神社」があり(1の鳥居)、
三の鳥居(?)、
江戸期の「越後名所誌」には
寿永二年木曽義仲越後守城四郎資長と戦ひて後当社へ復太刀一振おさむ
とあるそうで、
木曽殿もお参りしてるかもね!と思いつつお参り。
社殿は近年火災にあい、新しく造り直された。
ついでに、居多神社は元々日本海に面した身輪山中腹にあったという記述を見つけたのでそっち方面に歩いていってみるが、当然のことながら遺構もなく道もおぼつかない上、もう一つの候補地・岩殿山が歩くには遠いので断念(´Д` )。
上の写真は居多神社から居多ガ浜に出る道すじにある祠で、安寿と厨子王の乳母を祀ったという「乳母嶽明神」。
波除地蔵さんにごあいさつだけして戻る。
タクシーで直江津駅に戻るとすでに夕方ちかく。
とはいえ駅前の案内板を見ると気になる史跡がいくつか回れそうだったのでさっそく海方向(北)に向かって歩いて見ることに。
まずは「観音寺」。
なにげに寄ってみると、ちょっと変わった外観とは裏腹に義経の北行伝説がある。
境内の「兜池」は、義経一行が夢のお告げで兜甲冑を沈めて逃げたところ、追手に捕まらず鉢崎の関所を抜けた、という。
次に「琴平神社」。だいぶ日が傾いてきた。
海岸近くにあり、境内に芭蕉先輩の句碑がある。
「文月や 六日も常の夜には似ず」
直江津で詠まれた句という。先輩!お疲れさまです!
そのすぐ右手方向に五輪の塔が2基見える。
これが「山椒大夫」などでおなじみの安寿の供養塔。
安寿と厨子王が人買いに騙され、小舟で母と乳母から引き離されたのはこの直江津関川であったという。この時、姥竹が身を投げたのを地元民が弔ったのがこの供養塔といい、その後、沼に身を投げた安寿姫の供養塔もその脇に立てられたのだとか。安寿と厨子王のお話は知ってたけども、まさかここだったとは…。
さて、ここまで来たところで浜に出る。
「夕陽が美しい」ので有名な直江津海岸、しかもこの日はうまく晴れていたので海に沈むまでぼんやり観賞。
この夕陽は今も昔も変わらない。。。はず。
日がくれたところでこの日のミッション終了。
移動中にネット予約しておいたホテル「ニューイカヤ」に泊まる。
後日、ゲンペイストな友人に話したらその方も泊まってたのでびっくり。
(2日目に続く↓)
次の日は宿から歩いて府中八幡神社へ。
この八幡神社は養老4年に宇佐神宮から勧請し、後に石清水八幡宮を勧請して府中八幡宮とされたという。国府の八幡神社なので、木曽殿が祈願してないわけがない(と勝手に決めつける)。とはいえ伝承など伝わってないのか、案内板に説明なし。うーん残念。
直江津駅に戻ると、午前中のうちに電車で越中宮崎駅まで移動する。
越中宮崎といえば、宮崎太郎の本拠地!
今回、何故北を目指したかといえば、発端は、元歌は昭和の子供向け特撮「アクマイザー3」で、ふとした拍子に聴いて(らき☆すたとか)「佐美タン」の替え歌を勝手に作って歌ってたら無性に来たくなったのだった…
♪ザビタン! エエイ
イビル!エエイ
ガブラ オーオオオオー
唸れジャンケル アクマイザースリー ♪
という歌詞なんだけども、これを
♪佐味タン! ヘイヘイ
入善!ヘイヘイ
南保!オーオオオオー
うなれ越中〜宮崎城スリー!♪
と、こんなカンジに…あかん…アカン人になってるよ…
さて越中宮崎といえば、木曽殿に従った武士団・宮崎氏の本拠地で、以仁王の乱で北陸に逃れ出家していた北陸宮を奉り、その御所は宮崎城に作られたという。
宮崎氏は越中国新川郡の寺領佐味庄や入善庄などに勢力のあった豪族で、宮崎佐美太郎長康を頭に、その弟・南保次郎家隆、その嫡子・入善小太郎行重など一族で固めていた。
そんな内情はさておき、
気分アガルわー!と思いつつ無人駅を降りると…宮崎太郎的なものが何もない!
あれ?せめて駅にパンフレット置いてくれてもいいと思う…
と思いつつ、ヒスイ海岸に出てみる。
海岸にはヒスイを取りに来てる人がちらほらいて、見ているとほほえましく、つい自分も探したくなってくる…が、
そんなヒマはない!
駅前のお土産屋さんをのぞくと数人のお客さんがヒスイのお土産物を物色中。軽食もやっているが、お昼にはまだ1時間以上あっておなかも空いてないのでスルー。
海岸沿いの道を歩いていくと小さな鳥居を見つけ、天神様が祀ってあったのでひとまずお参り。と、お墓掃除している地元の方を見つけたので「このあたりに神社はありますか?」と聞いてみる。
すると、「道なりにいけば鹿嶋神社があって、最近修復が終わったばかりで綺麗な彫物が観られるから」とオススメされたので、お礼を言って教えられた道を歩くこと5分、
鹿嶋神社に到着。
ここ鹿嶋神社は昔、沖の島にあったが浸食のため現在の場所に移されたといい、木曽殿が通った頃にはまだ海にあったかもしれない。
拝殿はお話のとおり欄間?の彫物が見事。
http://www.hokkoku.co.jp/subpage/T20120313205.htm
↑江戸期のものかなーと思ってたらあとでこんな記事を見つけた。
さらに2kmほど海沿いに西へいけば八幡神社があるよ、ともお聞きしていたが、お宮の裏からこんな↓遊歩道が続いているのに気づいてしまった。
ほとんど下調べせずに来た割に、あっさり自然歩道→宮崎城址の道ハッケン。
完全に登山道だ…
とはいえ道はきれいに整備され案内板もある。山菜がまたたくさん生えてて、採られた跡もあり人の出入りも頻繁なようで安心。登り始めてすぐに鹿嶋神社の本宮に出る。
まあ楽勝かなーと思ってたら、マジきつくなってきて40分くらいでやっと山頂に到着!
やったね登り切ったよ!と思ったら、意外に整備された公園に出る。休憩所には水洗トイレもあって、山を登ってきたつもりが拍子抜け。周りを見回すと、広場の向こうは北に日本海、南にはさらに山が続いている。
南の山の左上に見晴台のようなものも見えるし…
まさかの!
ここからが宮崎城址本番なのか!!
仕方なく公園を突っ切って南を目指すと、すぐに駐車場に出る。なるほど、公園整備はここまで車が入れるからなのねー、と感心。
ここで山菜採りのおばさまグループに出会う。
山ではまず挨拶すれば、多少山登りっぽくない格好をしてても不審者扱いはされない。あいさつがてら、宮崎城址への道を聞きつつ山菜はなにが採れるか聞いたりしておばさま方と別れ、城を目指す。
宮崎城址登山口はいきなり天然の空堀があって橋をわたるのでテンション↑↑↑
そこからまた登ること数十分、三の曲輪にたどり着く。
ここに、古い石塁が残されている。
その向こうは断崖。中世は土塁でしょ、と思うんだけどこれはいつの時代だろう?
西側には北陸宮のお墓(御墳墓)と、
その傍らに宮崎太郎長康の供養塔という五輪塔がある。
しばし手を合わせ、この地に暮らしたという不遇の皇子、北陸宮に想いをはせる。
ゴッシー(後白河法皇)は「田舎育ちだから」と嫌った、と平家物語にはあるけども、そもそも以仁王の乱までは都にあったわけだし、要は政治の道具にならないよう退けられただけの事だ。
さて、山道はさらに上へと続く。
ヒーヒー言いながら登り、やっと物見台まで辿り着く。
話には聞いてたけど、見晴らしがよい!
蒲原(親不知のあたり)までホントによく見える!
が、
思ってたより山登りに時間がかかってしまったので、非常用に購入しておいたおにぎりをさっさと食べて、即座に山を降りることにする。
せっかくここまで来たからには、帰り道は山の南を降りる車道を選ぶ。
まわり道になる上に越中宮崎駅から離れるので、次の泊駅まで歩く事になるんだけども、見所があるので致し方なし。
山を降りると登り口に「宮崎城跡」の看板、車で行く人にはこのルートの方が断然わかりやすい。
笹川を渡り、トンネルを抜けてしばらく歩くと
脇子(わきご)八幡宮にたどり着く。
由緒に、大宝二年(702年)に越中と越後の国境鎮護の為に脇子峰に祀られたといい、古い。
脇子峰=城山のその麓に御所を造営して北陸宮を奉ったという。このため御祭神の一柱として、北陸宮も祀られている。
木曽殿も戦勝祈願しその時納めた太刀が今に残る…らしいが、普段の公開はないっぽい。社紋に笹竜胆が使われてるのも、ゲンペイストとしては木曽殿(源氏)との関係強調か!?としか思えないー。
江戸期にこの地に社が遷され、今に至る。とあるので実際の御所はもっと山と海に近い場所だったのだろうが、遺跡は見つかっていないようでこれまた残念。
境内には「弁慶の足跡」なる石がある。伝説には、弁慶が黒部山をひとまたぎに越えて踏みしめた足の跡だとか。北陸には義経の北行伝説も多く残るのでそのひとつか。
ここから泊駅目指して歩くこと40分、意外と遠い。
途中、佐味神社という神社があったけどもちょっと回り道になるのでスルー。社名からして氏神様か?と思うけども、後で調べたら神度神社の倫社とか。
この佐味神社からさらに南下すると「南保」という地名がのこっている。館跡もあるらしい。
さらに西に行けば入善、入善町の南端・黒部川近くの船見山公園はウッカリ入善小太郎の館があったという。
…と思いを馳せるも日没もちかいので今回はこれでお開き、丁度来た電車で帰路につく。
帰路も実は次回の予習になってるんだけども…割愛してルートだけメモ↓。
北陸本線泊駅→直江津駅→信越本線に乗換えで長野駅→長野新幹線で東京。
信越本線は木曽殿の進軍ルートだけあってテンションアガル!のだがこれはまた今度のお楽しみということで。
毎度ここまで読んでいただいた方感謝ですm(_ _)m
2013年4月