ゴールデンウィーク逆走北陸道
今年のGWは仕事が忙しくて「ハァ?ゴールデンウィーク?仕事してるか寝てるでしょ」と思ってたのだけど、後半が4日間の連休になってるのに気づいて思い直すことにした。。
何も考えずに家を出て、東京駅まで来るとさすがGW、新幹線の指定席チケットは完売!ここは焦らず東京始発の強みを活かして”3~4本のがして自由席ホームに並べばほぼ座れる”というテクで座席を確保、名古屋へ。自由席の通路まで人が立つこの混雑の中では駅弁を食べる気にはなれず、名古屋駅で降りたあとに串カツと天むすをゲットしてベンチでいただく。
さて、一日目。 (→二日目リンク)(→三日目リンク)
桜ハントの回で死にそうな目にあった友人に、再び車を出してもらって関ケ原(岐阜県)に向かう。まだあの事件からそんなに経ってないし、よっぽど断られるかなーと思ってたんだけども、意外にもトラウマにはなってないらしく、天気もよいので快調に運転している。やれやれありがたい。
美濃国府跡を右手に、南宮大社を左手に見ながら中山道(国道21号)を西へ走る。
最初の目的地は平安時代の三大関、鈴鹿・逢坂・不破のうちの不破関。多少分かりづらいが「不破関資料館」看板が見えたら左折。
関所は広大なものだったらしく、敷地の一角に資料館があるので物のついでに見学。展示メインの事件が壬申の乱ときた!ので、「時代が古すぎるよ!」と吠えてみる。普段は、神社など江戸期に建て直されたものが多く、供養塔も室町期などが多めなので「新しいね…」とつぶやくことが多い。資料館の前を突っ切ってさらに奥に関所跡碑などがある。
もちろん芭蕉先輩の句碑もあった。
「秋風や 藪の畠も 不破の関」と詠んだとか、さすがです先輩!ワタクシ相変わらず俳句に興味はないけども芭蕉先輩の事は好きです…
中山道をさらに西に進みつつ脇道に入って車で15分くらいのところに「常盤御前の墓」がある。
大きめの五輪塔2基と、小さな五輪塔が多数。
案内板によれば、牛若を案じた常盤御前が乳母の千種と東国に下る途中、土賊に襲われて息を引き取った、という。そしてここにも芭蕉先輩の句碑が。(五輪塔の右奥)
さらに車で5分くらい進んだところに「常盤地蔵」がある。
常盤を哀れんだ里人により地蔵が安置され、寿永2年の義経上洛の折にここを通り墓前にひざまづき祈ったという。
先を急ぎ、米原→長浜へと北上。
このあたりでお昼になったので「長浜ラーメン!」とさがしてみたけどもバイパス沿いにはそれらしいものもなくむしろチャンポン推し店が目立つ。駅前ではお祭りがあるらしく混雑していたので普通のラーメン屋にイン。
そこからほどなく本日のメイン山本山城…の、山の麓にある「朝日山神社」に到着。
境内には何代目かの山本義経公「鎧掛の松」がある。
案内板には治承4年4月、清和源氏の山本義経が 以仁王の令旨をいただき旗上げの戦勝祈願の際に、この松に鎧を掛けたという。12月、平知盛軍と山本山で合戦となり自社仏閣は焼け山本山城も落城。この無念への挽回は木曽殿の蜂起まで待たれる事となった。
拝殿。
神社にお参りするとなにやら神社由緒の案内プリントがご自由にお持ちください状態で置いてあったので1部いただく。これによると、近くに「義仲見返りの松」というのがある…というかあったらしい。手がかりはプリントの宮司さんが撮った田んぼの中の林の写真のみ。
山本山城登山は片道40分とちょっとハードそうなので時間的・装備的に断念し、見返りの松を探すことにする。
山本山近くの開けた田地に出ると、けっこう時間もかからず「あれだ!」と分かる林発見。
行ってみると大きな五輪塔があり、お堂もあって往時を忍ばせるが、、、雑木林だけども一切「 松 が な い ! (まじかー) 」。
切株があちこちにあるので、もしかしたら松食い虫にでもやられたのかもしれない。伝承によれば、木曽殿の子がこの地で亡くなったので(多分葬った場所に)松をお手植えし、子を偲んで見返りながら上洛していったのだという。五輪塔もその子の供養のためのものというが、作られた年代などは分からない。
五輪塔。結構大きい。
多分見返りの松があっただろう林の中。お堂らしきものもある。
この林から山本山がよく見える。
上から読んでも山本山、下から読んでも山本山。一説によれば全国の「山本」さんはココが発祥の地といわれている。
山本山を後にして北上し、木ノ本に入るとなにやら人通りが多い。どうやらここも明日お祭りらしい。と思う間に意冨布良(おおふら)神社に到着する。
こちらの由緒に「寿永2年5月木曽義仲が上洛の途次、当社に祈願した。その時兜を置いた石を「兜石」と名付け現存している」とある。さっそくお
参りすると、祭りの準備だろうかスーツ姿の世話役らしき方々が拝殿で話をしていた。
拝殿右手前に件の「兜石」がある。
石碑に武将兜掛石ってあるけど…義仲兜掛石ってハッキリ書いてもええんやで…?
もっとじっくり見たりさわったりしかったけども、世話役の方々の目が気になったので写真を撮って早々に退散。
急いだおかげでまだ日が残ってたので、琵琶湖沿いに西に行ってみる。毎度この時間になると日没との戦いになるのだが、なんとか日がくれる前にマキノ市にある願慶寺にたどり着く。
境内には「木曽義仲の室 山吹御前ゆかりの老紅梅」がある。
やれやれ間に合ってよかった…。梅は何代目かのものだが古木、立派で枝ぶりも良く、花の咲く時期に来たらさぞかし見事だろうと思われる。
日もすっかり暮れてしまい、これで終了にしようと思っていたけども、地味にあとひとつ行きたい場所があってさらに先へ。それがマキノ町石庭にある八幡神社。
写真に撮れなくてもいいやと思ってたけど意外と撮れてたので掲載。ここは昔「鞆結神社」とも呼ばれ、奈良時代の延喜式によれば鞆結駅があったと比定される土地にある。マキノ町浦にも鞆結神社(大荒比古神社)があるんだけど位置的にこっちの方が鞆結駅だった確率が高い。なんでここに来たかったかといえばそりゃ、木曽軍本隊は西近江路を通った確率が高いので必然的に鞆結も通った確率が高いから?です。…それはそうと、境内のストーンサークルみたいな石が気になる…。
さて、明日は未攻略地・金沢に入るぜ!という期待でいっぱいになりつつ敦賀のあたりで本日の宿を探す。とはいえ世間はGW、そんなカンタンにホテルは空いてなかった!
電話で近辺のビジネスホテルや民宿を数件当たってキャンセルないか聞いてみるも全くもって空室ナシ、もののついでなので「他に空いてそうな宿教えていただけませんか?」と断られたホテルの方に聞いてみると、3〜4件目で郊外のとあるホテルをおしえていただきなんとか部屋を確保。平時だったらこんなに苦労しないのに…さすがGW。
というわけで二日目に続く。
次の日、せっかくなので敦賀の名所「気比の松原」へ。
浜はすでに釣り客でいっぱいだ。往古、この松原は気比神宮の参道だったという。
当然、気比神宮にもお参り。
拝殿。
こちらの境内にも芭蕉先輩の句碑…
と、像がある。おはようございます!先輩!
おくのほそ道に「鴬の関を過ぎて、湯尾峠を越ゆれば、燧が城・帰山に初雁を聞きて、十四日の夕暮れ、敦賀の津に宿を求む」と書いてるとか、まさに木曽殿進軍ルート。わざわざ湯尾峠とか燧が城とかカエル山とか、関連ルートを挙げるところが ファンアピール熱いね先輩!
気比神宮を後にして国道8号を海沿いに北へ、以前忘れてて行けなかった杉津に向かう。
吾妻鏡によると水津(=現在の杉津、読みはどっちも「すいづ」)は、先遣隊の根井太郎軍が官軍(大将・平通盛)と合戦した場所で、「水津」の意味する地形は川の合流している入り江。
実際に行ってみると海と山に東西を挟まれた見事な隘路+カーブで、待ち伏せにはうってつけだ。この地形、あがるわー!
そういえば芭蕉先輩は水津に言及してない…先輩の時代には吾妻鏡ネタはまだ一般公開されてなかったんだろうか。
海側の高台にある日吉神社にお参りする。
特に由緒も見当たらなかったが、ここからの眺望は素晴らしい。古い街道と隘路を一望でき、また反対側は海が見える。
さてこの水津の合戦、吾妻鏡にしか記載がないのが胡散臭い。しかも吾妻鏡の日付が養和元年九月四日になってるのも、前後の内容からみて寿永二年五月の間違いかと言われておりハッキリしない。
養和元年九月なら通盛率いる官軍と戦ったのは越前加賀武士団で、この事件は玉葉も吉記も記事にしている。寿永二年説なら、玉葉に「4月26日に官軍は越前に攻め入った」とあり、その相手が根井軍だったとしたら…まああり得なくもない。このあたりの問題がいつもモヤモヤするので、本気でタイムスクープハンターに取材してきていただきたいと思っている。
妄想を堪能したところで武生ICへ。ホントいうと今庄へ抜ける山道を行きたい気もしたけども、今回の大目標は金沢なのでショートカット。高速道路で移動して加賀ICで下りる。
以前来た時は場所が分かってなかった斎藤実盛ゆかりの「鏡の池」に到着。
住宅地奥の狭い場所にひっそりとした佇まいで残っており、実盛が髪を染める時に使った鏡を沈めたという伝承が残る。池を見ていると、実盛がとても静かな気持ちで髪を梳いていた気がしてくる。
実盛塚の脇を通り、小松市に向かうと「多太神社」。
こちらも以前うっかり寄らなかった神社で、木曽殿が奉納させたと伝わる斎藤実盛の兜が残されている。芭蕉先輩が来た頃には錦の布切れもあったらしいが今は現存しない。この日は残念ながら境内にある宝物館はされていなかったので、お参りだけさせていただく。
多田神社から北へ移動し、安宅を通り過ぎて小松市と能美市の境にある「根上(ねあがり)の松」に向かう。
ここは盛衰記に「加賀国住人井家二郎範方は十七騎の勢で根上の松(東は沼、西は海で道狭く逃げ場がない)あたりまで十一度戦うが、大勢に取り囲まれてついに討たれる」とある場所で、井家さん奮戦地。
平坦な場所に突如、丘が現れたような地形で、確かに西は海、東は現在田地とパン工場になっているが沼だったと言われればそうかもしれない。
丘は砂地で登ってみるとけっこう高い。その頂上あたりに根上の松があるんだけど、その名の通り、砂地に生えた松が根元の砂から浮き上がっているようになってて、実際は砂の方が風雨に削られてるのだ。
この砂山を越えてさらに北西を目指して行くと「弁慶謝罪の地」という、ベンベンが安宅での非礼を義経に詫びたという場所がある。が、義経伝説はパス。
さらに北上し手取川を渡る。源平合戦の折、河川の水量が多かったので手を取り合って渡河したことからこの名がついたとか。手取川の堤防にまわってみると、河畔に朝日少彦神社があって、後世建立のものだけどこれも度々あった手取川の氾濫をしずめるために建てられたという。この辺り、昔から洪水に悩まされたようだ。。。
程なく次の目的地に到着、笠間神社は延喜式内社で、笠間郷の総社であったという。木曽殿が戦勝と手取川洪水の減水祈願をし、俄かに水が引いたので、兜と喜悦書を奉納したという社伝が残されている。また、境内(一の鳥居前)には「弓掘の井戸」がある。地元民が木曽軍に煎粉を供出し、これを食べるのに使った井戸を「弓掘の井」と称したのだという。
近年までこの煎粉を供し奉った「煎粉祭(別名・義仲祭)」が行われていたという。
さらにそのそばに、何代目かの義仲お手植えの桜もある。この地では木曽殿は愛されキャラのようだ…。
結構長い参道を歩いて社殿にたどり着き、お参り。ところで、こちらの鳥居は変わってて、石で作ると曲がったり壊れたりするので竹で作っているのだとか。
決して大きな神社ではないけども、境内は静かで歴史を感じる。
次に訪れたのは、松任金剣宮(まっとうかなつるぎぐう)。
境内入り口にまたしても芭蕉先輩の句碑。みんな芭蕉先輩好きすぎる…
社記に「承平5年国司社殿を造営。富樫氏累代尊奉し神田社領を付す。寿永2年木曽義仲、文治3年源義経社参祈願す」とあって、「ハヤシトガシ」コンビの片方、冨樫氏の氏神様である。
拝殿前にてお参り。
ちなみにここから手取川を東にたどっていくと鶴来(つるぎ)という場所に着くのだけども、そこにも金劔宮があり、木曽殿が倶利伽羅峠での戦勝の返礼に鞍置馬20頭と横江庄を寄進したという社伝がある(この内容は盛衰記と同じ。流れとしては砺波山麓の金劔宮だと思うけども、本社が鶴来とか?)。
松任も鶴来の分社なの?とも思うけども由緒にはそれっぽい記述もなく主神も違う。鶴来と松任(と、あと砺波山)、伝承が似ているだけに本来の来歴を知りたい…
ところで鶴来は、もともと劔と書いたがエンギが悪いので字をかえたのだとか。鶴来の金劔宮にも義経が逗留したという社伝があり、境内には「義経腰掛石」もあるらしい。往時のメイン道路は海側(西)ではなく山沿い(東)だったもしれない。。。
ちなみついでに、松任の西にある野々市市あたりが富樫郷で、北鉄石川線「四十万」駅周辺に富樫郷八幡神社とか四十万八幡神社、東には林郷八幡神社、末松廃寺遺跡(今来寺=今城寺君の本拠地名の元になった寺)、また逆に松任金劔宮の西には安田君(林光明の三男)館といった、「ハヤシトガシ」の本貫地ラッシュ。次回ちゃんと訪れたい。
さて、ちなみはここまでにして、この時実は別の目的地に気を取られてて、鶴来の金劔宮には行き忘れた。。。<いつものことだけども
そして気を取られてた次の目的地、夛伎奈弥八幡神社。
読みは「たきなみ」、昔この辺りに滝があったことからの名らしい。木曽殿の謂れは特にないが、御神鏡は木曽義仲寄進のものという。社殿は北陸特有のガラス戸で閉め切られ鍵もかかってたのでまったく殿内は見られず。近年寺社での盗難なども増えていることだし、まあしょうがないよね。
ここでやっと金沢市内に入る。
金沢駅西口からすぐの平岡野神社、こちらは盛衰記によれば砺波合戦で圧勝した源氏軍が志雄戦に向けて旗を立てて逗留した場所、「平岳野」のランドマーク。
石碑によれば、境内の松はその当時「広岡」と呼ばれた所にあった巨大な神木を再現したものっぽい。
神木は「木曽義仲陣所の松」と称し、その根元には地蔵があったとか。同じモノなのかどうか、古いお地蔵さまもひっそりとある。
また、この神社には源平合戦の折に兵火に遭い神社等々焼失したという社伝も残る。縁結び推しのようだけども、古戦場だった負の記憶も(できれば)わすれないでください…とか思いつつお参り。
さて、平岡野を後にして堅田を通る。堅田にある誉田別神社には石川社庁によれば「木曽義仲、堅田・岩出・観法寺の嶺峰に営城ありし時に祀る云々」と伝わるらしい。平家物語や盛衰記には出てこないけども戦国の頃にあったという堅田城もこの神社の裏手にあり、このことからみても戦略的要所であったことは伺える。
このさらに北の四坊高坂にある八幡神社のあたりも源平合戦の兵火に遭い、本来そこにあった波自加彌神社が焼失したといい、山沿いの「山側環状線」ルートで小戦闘が繰り返されたと思われる。
この辺りでそろそろ日が暮れてきたので波自加彌神社は国道沿いの遥拝所からお参りし、津幡へ。
津幡駅の裏にある井上三輪神社でお参りがてら休憩、本日の宿を探すことにする。
この井上三輪神社、井家郷(津幡南、内灘町、森本地区)の地名の手がかりでもある。津幡市内の白鳥神社は井家郷の総社だったといい、この辺りが根上の松で奮戦した井家さんの本貫地だったと思われる。井家さんの館の位置は特定できず。
と・は・い・え、今日泊まる宿の方が大事、10軒以上のホテルに電話してキャンセル出てないか聞き回ってなんとか確保、この日最も疲れる仕事だった…
さて、三日目。
結局、金沢周辺〜小矢部までホテルは満室だったので津幡から高岡に移動、三日目は高岡駅前からスタート。朝から怪しい空模様なので、目的は決めずに気ままに小矢部をまわることにする。
まずは前々回の倶利伽羅進撃、前回の北陸再進撃でどうしても見つけられなかった「聲ノ口」を探してみる。綾子のあたりにあることは分かってるんだよ!と、綾子交差点近くにある太田神社にお参り。回ってるうちに日埜宮神社の近くを通ったのでこちらにも久しぶりにお参り。
雨が降ったり止んだりで、おちおち車外に出られないなあ、と思いつつ野端に向かっていたら道端の松に気づく。
うわ、あった、聲ノ口!つか、なんで今まで気づかなかったんだろう!?
雨足が強くなってきたので埴生の護国八幡宮にある源平の郷で休憩。ここの本棚、なにげに木曽殿聖地めぐりのマニアックな同人誌が置いてあったのでチェック。
八幡様は下から遥拝、と、松の若木が植えてあり「義仲の松」と書いてあって、なんぞ?と思って近寄ると、信州宮ノ越・徳音寺の境内の松を植樹したという案内板がある。
何かと交流が進んでいるようだけども、伝承と交流が混ざらないようお願いプリーズ。。。
小雨を見計らって長坂登山口に行ってみる。
多分今井隊がここから行軍したかなーと思うものの、ここから先は徒歩で行くしかない山道なので引き返して
↓
小耳入に向かう。
根井隊が進軍したルートも徒歩登山しないとヤバそう。軽トラックくらいなら入れそうな山道になっているが天気もアレなのでやめて引き返す。このあたりもさすが三度目ともなると松永碑、砺波関碑や巴&葵供養塔の場所はバッチリ分かるようになってる、が、雨が強めな事もあって近くを通るだけにとどめておき、源平ラインで倶利伽羅峠に向かう。
こういう時は、臆病なくらいで丁度いいのよね(byカイ・シデン)
雨の地獄谷。
雨の矢立。
雨の平家本陣・猿が馬場。
雨の(以下略)
と、いまいちテンション上がらず。また天気のいい時に徒歩登山したいと思う。
山を降りて津幡方面に戻りつつ、向かったのは「平知度の墓」。入口に大きな看板があるので比較的わかりやすい。お墓は小さな丘の上にあり、そぼ降る冷たい雨にはこういう悲しい伝承が似合う。
右の石碑には苔のようなものがついていて、これが平家の赤のようにも見える。
ミステリーや、思いつつ合掌。
晴れてたら津幡城址か白鳥神社あたりにも行ってみたかったけども、ドライバーの残り体力も考えて今回はこれで退散。倶利伽羅トンネルを抜け小矢部ICから高速道路に乗り、東海北陸自動車道でガーーーっと南下。本日の旅もこれで終了…と思いきや、突如、郡上ICで降りる。
そして郡上城を左手に見ながら、向かった先は明宝村。
明宝、なんぞ!?と思うだろうが、ここにも磨墨伝説があって「磨墨の郷」という道の駅?がある。とはいえそれが目的ではなく、近くの白山神社が目当て。
岐阜県社庁に「創立年月日は不詳なるも、古老口碑に伝ふる処は、寿永三年木曽義仲戦死するや其の臣今井兼平の老臣清水嘉藤治なるもの、逃れて此の地に来り庵を結びて主家の冥福を祈りつつ狩猟を業とす。」とあり、木曽軍の落人がここまで落ち延び、兜の護神をここに安置したという。
地図が分かり辛くて集落をウロウロし、ココ絶対違うな、と思った狭い山道に入るとそれっぽい神社を発見。
急で長めの階段を上ると社殿があり、まさに山の神の風格。
ゆっくりお参りさせていただく。
長距離移動でくたくたになってたので、磨墨の郷公園で休憩。梶原某と磨墨の立派な銅像がある。
明宝村(正確には郡上市明宝なんだけど)の特産品はハムとのことなので、ハムが入っているコロッケをひとつ、食べてみる…ナニコレ、美味い!
写真ボケた…
五平餅を食べた後、やっぱりコロッケが美味すぎる件が気になって二個目をほおばる。当然、お土産も明宝ハム。こうなると磨墨も落人もどうでもよくなって「ハムうめー」しか考えられない。その後は岐阜まで南下、なんの問題もなくJRで帰途に着く。
あ、嘘をつきました、岐阜駅って名古屋行ホームが分かり辛いんだよね、思わず別のホームに上がって電車に乗り損ねる所だった、あれはちょっとヤバかった。
三日の旅は文字にするとやっぱ長いわー(>_<)、ここまでのお付き合い、あざす!
2014年5月