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キソの最期◇2 延慶本/長門本読み比べ

さて、古文でよくみる「木曽の最期」を読んだ所で、じゃあ異本の木曽殿はどうなってるの?という単純な疑問がわいた人にはこのページ。
成立が古いといわれる
延慶本(左)とビミョーにシニカルな長門本(右)。
琵琶法師界のトップスター・覚一本と比べると、違いが一目瞭然なのが木曽殿が死ぬシーンの順番。
細かいところでは、たとえば木曽殿の鎧「薄金(うすがね)」、これは河内源氏に伝わる八領の鎧のうちの一つで、源為義が保元の乱で着ていたものなのですが、覚一本には単なる唐綾縅の鎧になってます(i_i)
延慶たんと長門ちゃんの違いでいちばん分かりやすいのは「鞆絵が戻ってくる!」シーン。

【鞆絵】
去年の秋、北国の大将軍として上りしには五万余騎なりしかども、今粟田口に打出の関山へかかりしかば其の勢僅かに主従七騎に成りにけり。まして中有の旅の空、思い遺られて哀れなり。
七騎が中の一騎は鞆絵といへる美女也。紫皮のけちやうのひたたれに、萌黄の腹巻に、重藤の弓にうすべうの矢を負ひ、白葦毛なる馬の太く逞しきに小さき舳絵すりたる貝鞍置きてぞ乗りたりける。木曽は幼少より同様に育ちて、うでをし頸引きなむど云力態かけ組みてしけるに少しも劣らざりける。かかりしかば木曽身近くつかはれけり。


【鞆絵の働き】
ここに誰とは知らず、武者二人追ひかかる。
鞆絵馬引かへて待つ處に、左右よりつとよる。
其の時左右の手を差しい出して、二人が鎧のわたがみを取りて左右の脇にかひはさみて一しめしめて捨てたりければ、二人ながら頭をもじけて死にけり。
女なれども究竟の甲(剛)の者、強弓精兵矢つぎ早の手ききなり。軍ごとに身を放たず具せられけり。齢三十計り也。童べを仕ふ様に朝夕仕へけり。





【木曽殿の行方】
木曽は龍花を越えて北国へ赴くとも聞えけり。又、中坂にかかりて丹波国へ落つるとも云けるが、さはなくて乳母子の今井が行くへを尋ねむとて勢多の方へ行きけるが、打出の浜にて行き合ひぬ。
今井は五百余騎の勢にて有りけるが、勢多にて皆係け散らされて幡を巻かせて三十騎にて京へ入りけるが、木曽、今井の四郎と見てければ互ひに一町計りより、それと目をかけて小馬を早めてより合ひぬ。轡を並べて木曽と今井と手を取り組みて悦びけり。
木曽宣ひければ「去年栗柄か谷を落してより以降、敵に後ろをみせず。兵衛佐の思わむ事もあり、都にて九郎と打死にせむと思ひつるが、汝と一所にてともかうも成りなむと思ひて、是までのきつる也」と云へば、今井は涙を流して申しけるは「仰せの如く敵に後ろを見すべきには候わず。勢多にて如何にもなるべきにて候ひつるが、御行方へのおぼつかなさに是まで参て候ふなり。主従の契りくちせず候ふなり」とて涙を流して悦びけり。
木曽が旗指は射散らされてなかりけり。
木曽宣ひけるは「汝が旗指し上げてみよ。若し勢やつく」と宣ひければ、今井高き所に打上がりて今井が幡を指し上げたりければ勢多より落つる者と京より落者ともなく、五百余騎ぞ馳せ参る。


【一条軍と交戦】
木曽是をみて悦びて「此の勢にてなどか今一度火出づるほどの軍せざるべき。哀れ死ぬとも吉らむ敵に打向ひて死なばや」とぞ宣ひける。
さるほどに「ここに出来たるは誰が勢やらむ」と宣へば「あれは甲斐の一條殿の手とこそ承われ」「勢いかほど有るらむ」と問ひ給へば「六千余騎とこそ承われ」と申ければ、「敵もよし勢も多し。いざや係けむ」とて、木曽は赤地の錦の直垂にうす金と云唐綾縅の鎧に白星の甲きて廿四指したる切文の矢に塗ごめ藤の弓に金作りの太刀はいて白葦毛の馬に黄伏輪の鞍置きて厚ぶさのしりがいかけてぞ乗りたりける。
ま先に歩ませ向かひて名乗りけるは「清和天皇十代の末葉六條判官為義が孫・帯刀先生義賢が次男・木曽の冠者、今は左馬頭兼伊與守、朝日の将軍源義仲。あれは甲斐の一條の次郎殿とこそ聞け。義仲打取りて頼朝に見せて悦ばせよや」とて、をめいて中へ係けいりて十文字にぞ戦ひける。
一条次郎是を聞て「名乗る敵を打てや者ども、組めや若党」とて六千余騎が中に取り籠めて一時計りぞ戦ひける。
木曽散々に係け散らして敵あまた打取りていでたれば、其の勢三百余騎にぞ成りにける。

【鞆絵の働きその2】
鞆絵が見へざりければ「打たれにけるにこそ穴無惨やな」と沙汰する處に鞆絵出来たり。近付くを見れば矢二つ三つ射残して太刀うちゆがみ血うて付きてうちかづきて出来たり。
「いかに」と人々問ひければ「敵あまた打たり。打死せむと思ひつるが君の是に渡らせ御坐します由承りて打破りて急ぎ馳せ参りて候」とぞ申ける。木曽是を聞て「いしくもしつる物哉」とて返すがへすほめられけり。

【土肥軍と交戦】
さて勢多の方へ行くほどに「相模国住人本馬ノ五郎」と名乗りて追ひて係かる。取りて返してよくひいてひやうど射たり。本馬が馬のむながひづくしに羽房までぞ射こみたる。馬逆さまにまろびけり。本馬は落ち立ちて太刀を抜く。木曽「馬がつまづいて射損じぬる。やすからず」とぞ宣ひける。
勢多の方へ行くほどに、土肥次郎実平三百余騎にて行き合ひたり。中に取り籠められて半時計り戦ひて、さつと破りて出でたれば、百余騎にぞ成にける。
なほ勢多の方へ行くほどに、佐原十郎義連五百余騎にて行き合ひたり。係け入りて散々に戦ひてさと破て出でたれば、五十余騎に成にけり。そののち、十騎、二十騎、五十騎、百騎、所々にて行き合ひゆきあひ戦ふほどに、粟津の辺に成にければ、主従五騎にぞ成にける。手塚別当、同じく甥手塚太郎、今井四郎兼平、多胡次郎家包也。鞆絵は落ちやしぬらむ、打たれしぬらむ、行方を知らずなりにけり。
猶勢多へ行くほどに、手塚の太郎は落ちにけり。手塚の別当は打たれぬ。
多胡の次郎家包は係けいでて、「上野国の住人多胡次郎家包と云者ぞ。よき敵ぞや。家包打ちて勲功の賞に預かれ」と申して、散々に駆けければ、「鎌倉殿の仰せらるる家包ごさむなれ。『!木曽義仲が手に、上野国の住人、多胡次郎家包と云者付きたり。相構へて生取りにせよ』と仰せられたるぞ。誠に多胡次郎家包ならば軍を止どめ給へ。助け奉らむ」と申けるを、「何條さる事の有るべきぞ」と申して、今はかうと戦ひけれども、終には生取られにけり。

【粟津の松原】
今井と主従二騎にぞ成りにける。
木曽、今井に押並べて「去年北国の軍に向ひて栗柄が城を出でしをりには五万余騎にて有りし物を、今は只二騎になれる事の哀れさよ。まして中有の旅の空思ひ遣られて哀れ也。南無阿みだ佛なむあみだぶつ」と申して勢多のゆかへぞあゆませける。
さていかに、例ならず義仲が鎧の重くなるはいかがせむ
今井涙を流して「仰せの如く誠に哀れに覚ゆる。未だ御身も疲れても見えさせ給わず。御馬も未だ弱り候はず。何故にか今始めて一両の御きせながをば重くは思し召され候ふべき。只御方に勢の候わぬ時に憶してばしぞ思し召され候ふらむ。兼平一人をば余の武者千騎と思し召せ。あの松原五町計りにはよもすぎ候はじ。松原へ入らせおわしませ。矢七つ八つ射残して候へば、しばらく防矢仕りて御自害なりとも心閑にせさせ進らせて御共仕らむ」とて大津の東の河原粟津の松をさしてぞ馳せける。
大勢未だ追ひつかず。

勢多の方より荒手の者共卅騎計りにて出来たり。今井申けるは「君は松の中へ入らせ給へ。兼平は此の敵に打向ひて死なば死に死なずば返り参らむ。兼平が行へを御覧じはててに御自害せさせ給へ」とぞ申ける。
木曽宣ひけるは「都にて打死すべかりつるに、爰までゐつるは汝と一所にて死なむと思ひてなり。纔に二騎に成りて、所々に臥さむ事こそ口惜しかるべけれ」とて馬の鼻を並べて同じく係らむとし給ひければ、木曽が馬の轡に取付きて申けるは「年来日来いかなる高名をしつれども、最後の時に不覚しつれば長き代の疵にて候ふぞ。人の乗替、云う甲斐なき奴原に打落とされて『木曽殿は某が下人に打たれ給ふ』などいわれさせ給わむ事こそ口惜しけれ。只松の中へとくとく入り給へ」と申ければ、理とや思ひ給ひけむ。彼の松の下と申けるは、道より南へ三町計り入りたる所也。其れを聞きて後ろ合はせに馳せ行く。


【木曽の最期】
爰に相模国の住人石田小太郎為久と云者追ひかけ奉りて「大将軍とこそ見奉り候へ。まさなしや源氏の名をりに返し給へ」と云ければ、木曽射残したる矢の一つあるを取てつがれて、をしもちりて、馬の三つしの上より兵どいる。
石田が馬の太腹をのずくなに射たてたりければ、石田ま逆さまに落ちにけり。
木曽はかうと思ひて馳せ行く。比は正月廿一日の事なれば、粟津の下の横畷の馬の頭もうづもるるほどの深田に薄氷のはりたりけるを馳せ渡りければ、なじかわたまるべき、馬のむながひづくし、ふとばらまで馳せ入れたり。馬も弱りて働らかず、主も疲れて身も引かず。
さりとも今井はつづくらむと思ひて後ろを見返りたりけるを、相模国住人石田小太郎為久よくひいて兵どいたりければ、木曽が内甲を矢さきみへてぞ射出だしたりける。
しばしもたまらず、まかうを馬の頭にあててうつぶしに臥したりけるを、石田が郎等二人馬より飛び下り、俗衣をかき深田に下りて木曽が頸をばかきてけり。


【今井奮戦】
今井は歩ませ出でて敵に打ち向かひて「聞きけむ物を今はみよ、木曽殿には乳母子、信乃国住人木曽仲三権守兼遠が四男今井四郎中原の兼平、年は三十二、さる者有りとは鎌倉殿も知ろし召したるらむぞ、打ち取りて見参に入れや、人共」とて、をめいて中へぞ係け入りける。
聞こゆる大力の甲の物、強弓精兵なりければ、敵臆憶してさと引てぞのきにける。
さるほどに勢多の方より武者三十騎計り馳せ来たる。
兼平待ちうけて箙に残る八筋の矢にて八騎射落して、其の後太刀を抜てをめいてかくるに面を合はする敵ぞなかりける。
「押し並べてくめや殿原。をしひらいて射取れや人々」と係け廻りけれども、只ひそらひて遠矢には雨のふる様に射けれども鎧よければうらかかず、あきまを射させねば手もをわず。
「木曽打たれぬ」と聞きて馳せ来たり「吾がきみを打奉る人は誰人ぞや。其の名を聞かばや」とののしりけれども、名乗る者なかりけり。

「軍しても今はなににかせむ」とて「日本第一の甲の者の主の御共に自害する。八ケ国の殿原見習ひ給へ」とて、高き所に打あがり太刀を抜きてきさきを口にくわへて馬より逆さまに落ちてつらぬかれてぞ死ににける。
大刀のきさき二尺計り後ろへぞ出でにける。

今井自害して後ぞ粟津の軍は留まりける。
【鞆絵】
去年の春は北国の大将軍として上りしには五万余騎にて有しかども、今粟田口に打出にければ其勢七騎也。まして中有の旅の空、思ひやるこそ哀けれ。

七騎が中一騎は女鞆絵といふ美女也、紫格子のちやうの直垂に、萌黄の腹巻に、重籐に弓うすべうの廿四さしたる矢負ひて、白蘆毛なる馬のふとく逞しきに、二どもゑすりたる貝鞍置てぞ乗たりける。




【鞆絵の働き】
ここには誰とは知らず武者二騎追かけたり。
ともゑ叶はじとや思ひけん、馬をひかへて待処に、左右よりつとよる。
その時左右の手をさし出して、二人が冑のわたがみを取て、左右の脇にかいはさみて、一しめ絞て捨たりければ、二人ながら首ひしげて死ににけり。
女なれども究竟の剛の者、強弓の精兵、矢次早の荒馬乗の悪所落し也。木曽、軍ごとに身を放さず具したりけり。齢三十二にぞなりける、わらはべを仕ふ様につかひけり。此ともゑはいかが思ひけん、逢坂より失にけり。後に聞えけるは越後国友椙といふ所に落留りて、尼になりてけるとかや。


【木曽殿の行方】
木曽、もろば山の前、四宮河原に打出でてみれば、今井四郎勢田を落て、五十騎ばかりにて旗を巻て、京の方へ入る。
木曽、今井と見てければ、急ぎ歩ませより、轡を並べて打立たれども、夢の心地して物もいはざりけり。







良久く有て「木曽、都にて討死すべかりつれども、今一度汝に見えもし見んと思て来たる也」といへば、「兼平勢多にて討死すべく候つれども、御行衛の覚束なさに、今一度見参らせんとて参りて候」とぞ申ける。

木曽が旗差は射殺されてなかりければ、兼平が旗をさせとてささせければ、勢多より落加るともなく、京より追つく者ともなく、五百余騎馳くははる。





【一条軍と交戦】
木曽是を見て、などか此勢にて一軍せざらんとて、甲斐の一条次郎忠頼六千余騎にてひかへたるに、木曽、赤地の錦の直垂に、薄金といふ唐綾縅の鎧に、白星の甲きて、廿四差たる切生の矢に、金作の太刀はきて、塗籠籐の弓取直し、蘆毛なる馬に金覆輪の鞍おきて、厚房の尻がいかけて乗たりける。






あゆませ向て、「清和天皇の十代の御末、八幡太郎義家に四代の孫、帯刀先生義賢が次男木曽冠者、今は左馬頭兼伊予守朝日将軍源義仲、甲斐一条次郎と聞は誠か、義仲はよき敵ぞ、打取て頼朝に見せて悦ばれよ」とて、くつばみを並べて、をめいて駆入て、十文字にぞ戦ひける。

忠頼是を聞て、「名のる敵討てや若党ども」とて、六千余騎が中に取こめて火出るほど戦てければ、其勢三百余騎計に打なされて、佐原十郎義連五百余騎にてひかへたる中へかけ入て、しばし戦てかけ破り出ければ、百騎ばかりに討なさる。









【土肥軍と交戦】
土肥次郎が五百余騎が中へ駈入て、しばし戦ひて駆破て出たれば、五十騎に討なさる。其後かしこに百騎、ここに四五十騎、所々行合ゆきあひ戦ふほどに、粟津の辺にては主従五騎にて落にけり。

手塚別党、同甥手塚太郎、今井四郎兼平、多胡次郎家包と云者つづきたり。
相構へて生捕にせよと、仰せられたるぞ、家包ならば軍をやめたまへ、助け奉らんと申けるを、何条さる事あるべきぞとて、今はかうと戦ひけれども、終に生捕られてけり。


















【粟津の松原】
木曽、今井に向ひて云けるは、「日頃何とも思はぬ薄金の重く覚ゆるぞ」と云ければ、今井が申けるは、「日頃にかねもまさず、べちのものもつかず、何か今にはじめぬ御きせながの重く思召され候べき、御身の疲れにて渡らせ給らん、勢のなしと思召して、臆病にてぞ候らん、兼平一人をばよの者の千騎と思召され候べし、あれに見え候松のもとへ打よらせ給て、しづかに念仏申させ給ひて御自害候べし、射残して候矢七八候、防矢仕候べし」と申て、粟津の松のもとへはせ寄けり。








去程に勢多の方より武者三十騎計り出来る。
是を見て「殿ははや松中へ入せ給へ、兼平はこの荒手に打向ひて死なば力及ばず、いきば帰り参らん、兼平が行衛を御らんじ果て、御自害候へ」とて、かけんとする所に、木曽申けるは、「都にて討死すべかりつるに、是まで来る事は、汝と一所に死なんが為也、二騎に成てここかしこにて死なん事こそ口惜けれ」とて、馬の鼻を並べんとする所に、今井申けるは、「武者は死て後こそさねはかたまるものにて候へ、年比日比はいかなる高名をして候へども、最後の時不覚しつれば、ながき世の疵にて候也、いふかひなき郎等共にこそ、木曽殿は討れ給ひにけれと、いはれさせ給はん事こそ口惜く候へ」と云ければ、理とや思はれけん、後合せに馳せておはしけり。彼松の本と申すは、道より三町計り南へ入たる所なり。それを守りて木曽落ち行く。


【木曽の最期】
ここに相模国の住人石田小次郎為久といふ者追かけて、「大将軍とこそ見参らせ候へ、きたなしや、源氏の名をりに返し合せ給へ」といひければ、木曽射残したる矢一ありけるをとてつがひて、おしひらいて射たりければ、石田が馬のふと腹にのすくなく立たりけり。
石田はまさかさまに落にけり。
木曽は松の方へち行く。頃は元暦元年正月廿日の事なれば、粟津の下のひろ畷の、馬の頭もうづもれる程の深田に、氷の張たりけるを、馳渡らんと打入たりければ、馬も弱て働かず、主も疲れて身も引かず。

さりとも今井は続くらんと思ひて、後を見かへりけるを、為久よひいて射たりければ、木曽が内甲に射つけたり。

甲のまかうを馬の頭にあてて、うつぶしに伏たり。為久が郎等二人馬より飛びおりて、たうさぎをかき、深田におりて木曽が頸を取る。



【今井奮戦】
今井は木曽討れぬと見て、新手にむかひ命を惜まず戦ひけり。今井あゆませ出して申けるは「音にも聞き目にも見よ、信濃国住人木曽仲三権守兼遠四男、今井四郎兼平とは我事ぞ、木曽殿には乳母子、鎌倉殿もさる者ありと知し召されたり、兼平が首とて、あれ功の一所にもあへや殿原」とて、数百騎の中へをめいてかけ入。
縦様横様に散々に駆けれども、大力の剛の者なれば、寄て組むものなかりけり。ただ引つめて遠矢にぞ射ける。されども鎧よければうらかかず、あき間を射ねば手もおはず、さる程に八の矢にて八騎の敵は射殺す。









「日本第一の剛の者、主の御供に自害する、見習や八ヶ国の殿原」とて、太刀を抜てきつ先をくはへて、馬より前に落て、つらぬかれてこそ死にけれ。太刀の先二寸ばかり草ずりのはづれに出たりけり。


是よりしてこそ粟津の軍はとどまりにけれ。


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