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よりぬき木曽殿・義仲勲功図会

よりぬき木曽殿、とうとう「義仲勲功図会」。幕末に書かれたリメイク+二次創作モノで、そこそこ売れた本です。平家物語には出てこないようなエピソードが出てきますが、そこは二次創作ですから。


タイトル横の星は重要度、★=情報アリ、★★=オモシロ、★★★=超オモ!

モクジ

前編/巻之壱
----------  ★ 発端 大倉谷合戦
----------  ★ 畠山重能、駒王丸を救う
----------  ★ 斎藤実盛、駒王丸を預かり北国に赴く
----------  ★ 実盛、駒王丸を兼遠に託す
----------  ▲ 美福門院、崇徳帝を讒す

前編/巻之弐
----------    為義、初衣(うぶきぬ)の鎧を義朝に贈る
            並/教訓
----------    新院方敗軍、義朝父を誅す
----------    崇徳院、松山の配所に於いて崩御 大乗経書写
----------    信頼義朝乱逆、信西入道を殺す
----------    長田長致(ながむね)義朝を主従を弑す
----------    信田六郎忠死
----------    悪源太義平誅伏す 義平大言清盛を罵る
----------    義平の悪霊、難波三郎を掴み殺す

前編/巻之三
---------- ★★ 駒王丸幼稚奇行
----------★★★ 義仲の怪力、奔牛を制す
----------★★★ 巴女勇力 並/義仲主臣巴女が勇力を見る
---------- ★★ 義仲、頼朝と誓約
----------★★★ 義仲、実盛と対面 並/義犬虎丸の事
----------★★★ 義仲母公死去 観心房義仲を相す
---------- ★★ 根井父子、義仲に属す

前編/巻之四
----------    教盛、怪夢を見る 並/重盛逝去
----------    安徳帝御即位
----------    高倉宮御謀反 並/廻宣
----------  ★ 蔵人行家、義仲に令旨を伝う
----------★★★ 木曽間者、宇治の合戦を注進す
----------    高倉宮の若宮、六波羅に赴く
----------    高倉宮の四の宮、北国御下向
----------  ★ 大夫房覚明木曽に属す
----------    諸国の源氏蜂起
----------  ★ 権守兼遠上京

前編/巻之五
----------  ★ 兼遠陳謝、起請文を呈す
----------    知盛、板倉城を焼き落とす
----------    清盛入道逝去
----------    諸国より京城(みやこ)へ急を告ぐ
        並/河野通信の事
----------    墨俣川合戦行家敗軍
----------  ★ 笠原平吾木曽の使者を討つ
---------- ★★ 義仲の知略笠原の城を陥とす
----------  ★ 義仲仁智諸将叛(白反)降

後編/巻之壱
----------  ★ 筑摩川合戦
----------  ○ 富部家俊、西七郎に討たれる
----------  ○ 杵淵重光、主の仇復して戦死す
----------  ○ 資永敗軍、巴女武勇
----------  ★ 木曽勢夜討、通盛敗軍
---------- ★★ 嗄れ声の謀計(はかりごと)資永を気死せしむ
----------★★★ 根井武勇、敦賀の城を抜く
----------    中臣定隆覚算法印変死
---------- ★★ 義仲、頼朝と確執
---------- ★★ 両源家和平、清水冠者鎌倉に赴く

後編/巻之弐
----------    平家北国征伐
----------  ★ 斎明返忠燧城陥落
----------  ★ 北国住人等敗走
----------★★★ 盤若野合戦、兼平武勇
----------  ★ 斎明、射水(いみず)と争論
---------- ★★ 義仲手配(てくばり)
        並/垣生(にう)八幡願書
----------★★★ 砺波山合戦、平家敗軍
----------  ★ 志保山合戦、行家敗北
----------  ★ 斎明法師並妹尾父子虜にせらる

後編/巻之三
---------- ★★ 篠原合戦斎藤実盛戦死(うちじに)
----------    山門大衆議論
---------- ★★ 木曽登山 並/瀬田合戦
----------    法皇、暗(ひそか)に山門渡御
----------    平家都落
----------  ★ 法皇還都 並/義仲行家受領
----------  ★ 四之宮御受禪 並/行家知安等義仲を讒奏す
----------★★★ 備中水嶋合戦
----------  ★ 瀬尾父子反忠 並/戦死

後編/巻之四
----------    北軍洛中乱妨
----------  ★ 義仲、法住寺殿を焼伐(やきうち)す
----------  ★ 清水冠者、海野入道を以て義仲を諌む
----------  ★ 義仲将軍宣下 並/諸方手配
----------★★★ 宇治合戦 並/根井大弥太退口(のきぐち)武勇
---------- ★★ 義仲出陣 並/松殿之姫愁傷
----------    義経主臣(しゅじゅう)仙洞御所を守護す

後編/巻之五
---------- ★★ 河原合戦望月太郎陣没(うちじに)
---------- ★★ 木曽方諸勇士戦死
---------- ★★ 塩谷三郎八島行忠を討つ
----------★★★ 巴根井以下大いに鎌倉勢を悩ます
----------★★★ 巴女勇力内田三郎を討つ
----------★★★ 今井兼平勇戦、方等三郎戦死
---------- ★★ 東北両軍大いに粟津野に戦う
----------★★★ 義仲、流れ箭(や)に中(あた)る
             並/兼平勇戦陣没
----------  ★ 樋口兼光、虜と成って誅せられる
----------  ★ 清水冠者落命 並/京鎌倉平定

【発端 大倉谷合戦 大倉が谷合戦義賢討死】 ★

巻之壱
 発端 大倉谷合戦

司馬法:仁本第一のくだり
古者以仁爲本、以義治之。之謂正。正不獲意則權。權出於戰。不出於中人。是故殺人安人、殺之可也。攻其國、愛其民、攻之可也。以戰止戰、雖戰可也。故仁見 親、義見説、智見恃、勇見方、信見信。内得愛焉、所以守也。外得威焉、所以戰也。
(↓読み下し)
古は仁をもって本(もと)となし、義をもってこれを治む、これを正(せい)という。正、意を獲ざればすなわち権(けん)す。権は戦いに出ず。中人(ちゅうじん)に出でず。このゆえに人を殺して人を安んずれば、これを殺して可なり。その国を攻めて、その民を愛せば、これを攻めて可なり。戦いをもって戦いを止むれば、戦うといえども可なり。故に仁は親しまれ、義は説(よろこ)ばれ、知は恃(たの)まれ、勇は方(むか)われ、信は信ぜらる。内、愛を得るは、守るゆえんなり。外、威を得るは、戦うゆえんなり。

大陸の齊(せい)の田氏の曰く、
古は仁をもって本(もと)となし、義をもってこれを治む、これを正(せい)という。正、意を獲ざればすなわち権(けん)す。権は戦いに出ず。中人(ちゅうじん)に出でず。このゆえに人を殺して人を安んずれば、これを殺して可なり。その国を攻めて、その民を愛せば、これを攻めて可なり。戦いをもって戦いを止むれば、戦うといえども可なり、
とかいうが、
その昔、征夷大将軍従四位下行伊予守源朝臣義仲公と聞こえた人はその身は叢沢の中から出て一度義旗を北陸道に翻し、さしも威権さかんな平家の一門を西海に追い下した上、帝王の震襟を安んじて下々の万民の塗炭を救い、稀代の功と立たれたが、不幸にして讒者の舌頭に妨げられて若干の軍功は水の泡と消え、粟津が原の一戦にうち敗けて、一朝の露と消えられた。
その事の元をたどると、義仲の父は帯刀先生義賢といい、その祖先は人王五十六代の聖王清和天皇の御孫六孫王経基の末裔、鎮守府将軍八幡太郎源義家の四男、六条判官為義の次男である。義賢はかつて、父の命令で武蔵国多胡郡の住人・秩父の次郎太夫重信の養子となった。そういうわけか兄・義朝とはあまりにも家督領地の分け前が劣っていると遺恨に思っており兄のスバラシイ所領のうち鎌倉七郷を我が物にしたい、と兄に願い出ていたが、義朝にとっても大切な所領ゆえ承引せず放置プレイ。義賢は失望して「このうえは父に訴訟して願いを聞き入れてもらおう」と都へのぼり為義に嘆き訴える。
しかし為義も「鎌倉は我が父義家の草創の地なれば源氏の嫡子が領有すべき」と許さなかった。義賢は父を恨み、こうなったら鎌倉を押し奪い取って我が物にするしかない、と非分の義を思い立つ。
あらぬ体で武蔵に帰ると、にわかに手の者どもを駆り集め武具で固めさせ、その勢150人余りで鎌倉に向かった。
鎌倉ではこの事態が早くに聞こえており、義朝の留守を預かっていた嫡子源太義平(17)総角ながらも天性の剛勇をもつ若大将、大変怒り「どーいうわけで叔父義賢は人倫の道をわきまえずおのれの兄上の領地を横領せんと、しかも留守を狙ってくるとは言語道断!人面獣心!それなら叔父甥の縁故を断ち、敵が攻め寄せる前に逆寄せして義賢の首をねじ切ってくれる!」と息巻く。
義平は即刻手勢250人を引率して鎌倉を起つ。
なんという変事か、叔父甥が敵となって私闘の戦を企てるなんて人間の所業ではない、偏に天摩破順の所為にて、ここに源家廃衰の糸口が現れていたということは後に思い合わされた。


[モクジ]

【畠山重能、駒王丸を救う】 ★

巻之壱
 畠山重能 救駒王丸條

そもそも、帯刀先生義賢には子が二男一女あった。
嫡子の秩父源次太郎仲宗は、ワケありで義賢の生きているうちから兵庫頭頼政の養子にやられ、一女は菊姫といい義賢の元で深窓の内に育てられた。
三男は駒王といい、妾腹の生まれで後に木曽冠者義仲と名乗る事になる。
その母は猫間中将殿の別腹の姫で、名を小枝殿と申した。
天の成せる容色を備え、詩歌管弦にも才能があったので、父の猫間の卿も天晴高家の正室にと将来を楽しみに育てられておられた。
さて先生義賢が、都でお役目についていた折に「加茂の祭りでも拝見するか」と向かった道すがら、ふと小枝殿を垣間見て、深く恋に落ちた。
彼女の家を知りたいと彼女の一行の後をこっそり尾け(ストーカーや)、一條堀河あたりの邸へ車を曳き入れたのを見て「さてはここが恋人の住家か」と見定め、えにしを求めて千束の文を送られた。
姫もその義賢の切実なる想いに、遂には『稲船のいなにはあらぬ(否ではない)』気持ちを深き水茎(筆跡)で伝えた。
これに大いに喜び、義賢は彼女の元へ忍び通い、深き契を川島の水もらさじと語らいそめる。逢瀬を重ねてついには小枝殿は身ごもり、久寿元年の春に玉のような男子をお産みになった。
小枝殿の父母は大変お喜びになり、名を駒王殿とつけ、掌中の玉のようにかわいがり塵ひとつつけまいとお育てになっていた。

さて今年の久寿二年八月、異変が起こり、義賢は大倉谷(おおくらがやつ)の露と消えてしまったのである。
小枝殿の嘆きはひとかたならず、これは夢か幻かと昼夜血の涙を流し、たもとを乱す。
あまりの悲しさに後を追おうと剣に手を掛けながら、流石に愛おしき駒王殿を振り捨てる事も出来ない。
その行く末をおもいやると死ぬことも心に任せず、愛着の絆に繋がれる苦しみに日々を送られていた。
そんなとき、ある人が「悪源太義平は義賢をお討ちになった後、その子息達を生かしておいては後世に及んで父の仇よなどとつけ狙うやもしれん故、ことごとく殺そうと密かに都に人を送り込み、駒王殿の居場所を探っているとの事ですよ、どこかに若君を隠し難を避けなされ」と伝えてきた。

それによって一層憂いが増し、どうしようと慌て騒ぎ、父の中将殿とご相談される。
中将殿も当惑し「近頃では源家の威権が強く、我々の力では及ばない。所詮片田舎にでも隠れて世を忍ぶより外に、出来る手段も無いだろう」と仰せになる。
これには姫も力なく、泣々乳母の夫の古郷である洛西西岡のあたりにある、異(あやし)の賤が家に深く隠れ、世の動静(ありさま)をお窺いになる。
するとまた何者かが「この事がまた悪源太に知られたらすぐに探し出されて殺される」と告げてくる。

さて、ここにに畠山庄司重能という者がいた。
縁あって義賢と親交が深かったので、風の噂にこの事を漏れ聞き「たとえ義賢一旦の非義によって義平に討れるとも、その遺子には罪を被せてはならぬ。義平若気の血気に任せ、武士の情けを忘れて己の難を逃れようと赤子まで殺そうとするとは、勇将にも似ぬ振舞いである。あの赤子も、流石に八幡殿より四代の孫なるものを二葉にして摘み枯さんとするは、なんとしても憎むべきことだ」と思う。
故帯刀先生とは一門の因を結び、殊に莫逆(ばくげき)の交りあれば、なにとぞ義賢が追福作善(ついふくさぜん)の為にも、彼の若を助けて育てねばならぬ、と腹心の者に命じてその行方を探させ、自らも猫間の中将殿の所へ赴いて面謁し、密かに思いの程を打ち明ける。
姫の所在を尋ねるので、中将殿も、初めは義平が手を廻して重能に命じ、わざと優しくして姫の隠れ家の探りを入れているのではないかとお疑いになり、明確にはなさらない。
重能が再三本意を訴えるのを聞いて、中将殿も疑念を晴らし「西岡にあるしかじかの家に匿っている。あなたの言葉に偽りがないのなら、何にかえても駒王が命を助けておくれ」と北の方とともにさめざめとお泣きになりながらお頼みになる。
重能は了承し
「それがしこうなったからには一命に代えても駒王殿御親子の御命をお助け進せましょう。それについては露ばかりもご心配召さるな」
と誓って申しあげると、父の卿は世にも嬉しげに重能を伏し拝み、すぐに手紙を書いてお渡しになる。

重能はこれを懐に入れ、中将殿に別れを告げると、その夜のうちに真っ直ぐ西岡へ向かい、小枝殿の隠れ家に到着した。
家の主の男が、誰かと立ち出でて見ると、訳ありげな武士が二人の従者を従えてたたずんでいる。
主は内心大いに訝り「このような武士が夜中に我方へ尋ねて来たのには、もしや姫君が隠れていらっしゃるのを告げ口する者があって、悪源太殿とかいう奴が姫を召し捕りに人を差し向けたんじゃないだろうか」と思い、先ず肝を潰し、心も憶し、更には声も出せずひどい面持ちになる。
重能は小声で
「私は猫間殿の御手紙を持参した御使である。小枝殿はこの家におられるか?」と問うと、主はますます疑う。
「中将の御使はいつも仕丁童か女房達をお遣わしになるのに、このような気疎き武士を御使にお遣わしになることなどなかった。これはいよいよ怪しいぞ」と考え空とぼけ、
「いえいえ、此方にはそのような方はおられません、猫間殿とおっしゃる方も聞いたこともない。妙なことです。多分家違いでしょう、他の家をお尋ねなされ」と震えながらいう。

重能は心から可笑しく思うが
「この男は愚直な田夫ゆえ私を方々の討人だと考えて、包み隠そうとしている。されどこの家に紛れなし、とはすでに主の顔色や声音に現れておる」
と推理し、なおも言葉を和らげて
「夜中にやってきて、しかもこの我々の身なりを見たら、一応疑うのは道理だ。しかし今はなにを隠すことがあろうか。我は畠山重能とて故帯刀先生とは親族だ。然るに鎌倉の悪源太殿が帯刀の忘れ形見を亡き者にしようと草の根分けて探していると聞いた。私は親族の身としてそのピンチから救うのが武士の義である。さらに故帯刀に対して恥じる事もある。京にいるのを幸いとして駒王殿母子を危機から救おうと、今日、姫のお父上の卿の許へ推参し心底を明かし、その証しとして御手紙をいただいてお迎えに参ったのだ。この家に隠れておられる事は、早晩、悪源太殿に密告され、すぐにも討手が現れよう。そうなってしまっては我が志も水泡に帰し、駒王殿の御命も助かる道はござらん。早くこのお手紙を小枝殿に進呈し、我に対面していただけるようお計らいくだされ」
と利害を説いて諭すと、主の男は悪源太が討手に向かっていると聞いてますます驚くが、なおも重能の言葉に半疑半信で自分では何も決めることができず、呆然としていた。

狭い貧乏家住まいのこと、家の一間でこれを聞いていた小枝殿が乳母に口を開く。
「今の重能とやらいう者の言葉は、誠か偽りかは分からぬが、妾母子がこの家に隠れていることを早くも知っていたからには、密告する者もあるかもしれぬ。この家を出て深山の奥に忍ぶとも、何を活計に何を綱手に生きていけばよいのか。なまじいに逃げたとしても、どうでもいいような下賤の樵に若を奪われ、この身をも辱しめられたりすれば憂恥の上、人に笑いものにされるであろう。今は若の命運を天に任せ重能に会い、どうにでもなろうぞ」と仰せになる。
乳母もどうしたらよいかと思い悩みながら
「仰せはごもっともでございます。あの男がもし討手ならばどのように包み隠したところで、踏み込んで若君を亡き者にしたでしょう。また、本当に情ある人ならば、幼き若君の御後見、このような見極めは女心には定められません。ただ神仏にお任せし御対面されませ」と申し上げる。
小枝殿もこの一言に胸を定め、乳母を遣わして重能に伝える。
「先ほどより情のあるお言葉がもれ聞こえておりましたが、木にも草にも用心している身なれば、早くお知らせすることもできませんでした。実は駒王殿を抱きこの家に隠れております。狭い所でご不快でしょうが、こちらへいらっしゃいませ」と仰せになる。

重能は喜んで連れてきた従者に向かって
「汝らは万事に心を配り、怪しいと思う者が来たら密かに我に告げよ」と命じ、乳母の案内に従って中に通されて見てみると、実に防嫌(いぶせき)蘆の屋の松の柱斜めにゆがみ、竹の簀子もたわみがちで、肥松の燈がくすぶっており、板戸は立てていても隙間だらけ、夜風を防ぐ枕屏風も破れ骨が見えているというひどい有様。
その陰に小枝殿が、色合い定かならぬ衣を打着て駒王殿を掻き抱き、物に寄りかかってお座りになっている。

重能一揖してまずその方を見ると、この年月の気苦労にやつれ果ててはいるが天の為せる姿形は艶やかで雨にしおるる芙蓉のごとく、風を悼む海棠にも似て、さすが中将殿の姫君だと夜目にもそれと分かるのだった。
重能は低頭し
「お聞きになられる上は名乗るもおこがましいことながら、某は畠山重能と申し、故帯刀先生の縁故の者。栄枯不定の世の習いとは申しながら、故帯刀は不慮の一戦に黄泉の客となり、あなた方御親子はこのように流転の身の上になられた。日頃からのお悩みはお察しいたす。しかるに、粗承れば、悪源太殿が身の後難逃れんと、赤子の行方を捜して亡き者にしようとする事は、某、親族の身として見るに忍びず、赤子の危うきをお救いしようと御父中将卿に謁し居場所をお聞きし、また手紙も請い受けて持参仕った。これを御覧になり、重能に野心なきことをおぼし召され」
と、御手紙をうやうやしく差し出す。
小枝殿は会釈してこれを手にとり、封を切って読み下すと喜色を浮かべ、嬉し涙を拭いながら重能に言う。
「世に頼りなき妾親子を心にかけてくださり、危難をお救い下さる鴻恩に、いつの日にか報いたいものです。共に白髪の末までもと頼んでいた帯刀君に死に別れてしまってから、とうに死んで夫の後を追うものと思っておりましたが、この若がこの世との絆となり、死ぬこともままなりません。せめて一人歩きできるようになるまでは生きていようと、惜しくもないこの命を生き延びて面倒を見ていた間に、またしても悪源太が執念深く若の命を奪おうとしていると聞き、父母の許にも住むことも出来ず、水鳥が陸で迷うような心地で、なんとかこのような田舎に隠れ、昨日今日と日を送っておりました。今にも敵に捜し出されることもあろうかと、戸の隙間や、かな風の音、友と呼びかわす犬の声にも、ひたすら胸が騒ぎ安心することもできませんでした。そこに思いもよらず頼もしい方にお会いできたことの嬉しさは、これは偏に若の命運が強く、逝去した亡夫のお守りくださったお蔭よ」
と、さめざめとお泣きになる。
初めは重能を疑ってとやかく誤魔化していた主の男もようやく安堵し、今さらながら重能に面目を失い、茶よ菓子よと乳母とともにもてなしはじめたのはかわいそうなことだった。
重能は少しさし寄り、駒王殿の寝顔を見守りため息をつく。
いまだむつきの裡を離れてはおらぬが、父君によくも似ておられることだ。自然と威厳があり猛将の相を備えておられる。
やがて大人になれば万卒の上に立ち、父君の汚名をすすぐことだろう。そう祝しつつ、やおら抱きとれば駒王殿は目を覚まし、重能の顔を見守ると莞爾とお笑いになったのには重能もいよいよ哀憐の気持ちが増す。
若を母公に渡し「さてよろしいか、某がこうして尋ねまいった上は、片時もここに住むなど無用である。すぐに私邸へお連れ申し上げよう。さあ、早くはやく」と急がせれば、小枝殿も喜びにに堪えず何くれの物を取りまとめて、乳母と共にご出立になる。
重能は主の男に固く口止めし、従者に前後を守らせて母子を伴い自らの私邸六条大宮へお帰りになった。



以下はこの段のほぼ原文↓
抑々帯刀先生義賢に二男一女あり。
嫡子秩父源次太郎仲宗は謂わく有て義賢存生のうちより兵庫頭頼政が養子に遣し、一女は菊姫とて義賢が深窓に養はれ、三男は駒王とて妾腹に出生ある。
後の木曽冠者義仲と申せしは、是の其母は猫間中将殿の別腹の姫にて名を小枝どのと申せしが、天のなせる容色有てしかも詩歌管弦の道にさへ賢しかりければ、父の卿も天晴高家の室家ともなしてん者と楽み育られしに、先生義賢都在番の折柄(おりから)加茂の祭り拝見せんとて行たりし道上(みちすがら)にて不闘(ふと)彼の小枝どのを垣間見深く懸想して其宿を占(しめ)んと見え隠に付慕て往けるに、一條堀河邊なる邸へ車を曳入ければ、扨は此所ぞ恋人の住家よとて縁をもとめて千束の文を通はしけるにぞ。
姫も其素志の切なるを哀におもひ、遂に稲船のいなにはあらぬ心を深き水茎にいはせしにより、義賢斜めならず悦び彼所(かしこ)に忍び通ひ、深き契を川島の水もらさじと語合(かたらひ)そめ、通路の数を重し程に、小枝どの終に粧身(にんしん)ありて、久寿元年の春、玉のごとき男子を設られぬ。
父母の悦び大かたならず、名を駒王殿と呼て、掌らの玉と撫し子の塵もすえじと生し立けるに、今年久寿二年八月、不意変事出来りて義賢大倉が谷(おほくらがやつ)の露と消しかば、小枝どのの嘆き一かたならず、是は夢か幻しかとて晝夜紅涙(ちゅうやちのなみだ)に袂を乱し、余の事の悲しさに同じ道に赴かばやと剣に手は掛ながら、流石に愛(いとおし)き駒王どのを振捨て世に零落(はふら)さんも悲しく生行末をおもいやりては死る事だに心に任せず、愛着の絆に頼みなき命を縛ぎ留めらす憂が中に日を送り玉ふ所に、或人の告越けるは悪源太義平、義賢を討進らせて後、其子息達を生おきては後世におよびて父の仇よなんどと付狙んもむずかし、悉々く失はばやとて潜に人を都に上し駒王どのの在所(ありか)を探り聞よしなり。
何國(いづく)にも跡を隠し若君の難を避玉へと申越しければ、また一層の患(うれひ)を増是は何とせん如何せんとて騒ぎ惑ひ、父中将殿と商議し玉へど中将殿も当惑あり。
「当時源家の威権強く我々が力にもおよびがたし。所詮扁田舎に隠へて世を忍ぶより外に施すべき手段も有まじ」と仰するにぞ、姫も力なく泣々乳母が夫の古郷なる洛西西岡の扁邊に異(あやし)の賤が家に深く隠れ、世の動静(ありさま)を窺ひ玉ふ。
然るに何者か告たりけん、此事又悪源太が方へ聞えければ瞑(やが)て尋出して亡はんとぞ聞えける、茲(ここ)に畠山庄司重能といふ者あり。
縁に付て義賢と交り深かりしかば、風に此事を漏聞心中におもひけるは、義賢一旦の非義に依て義平に討れるとも其遺子に於ては罪を加べきにあらず、義平若気の血気に任せ武士の情けを忘れて其身の後難を除(のがれ)んと嬰児(みどりご)まで亡はんとする條、勇将に似気(にげ)なき行亦(ふるまひ)なり。
彼小人(おみなびと)も流石に八幡どのより四代の孫なるものを二葉にして摘枯さんは如何しても憎むべきことなり。
故帯刀先生とは一門の因を結び、殊に莫逆(ばくげき)の交りあれば何卒義賢が追福作善(ついふくさぜん)の為、彼(かの)若を助け育てばやとおもひとり、腹心の者に命じて其行衛を尋ねさせ、自らも中将どのの方へ赴きて面謁し暗(ひそか)に所存の程を打明、姫の所在を尋ねけるに、中将どのも初は義平が手を廻して重能に命じわざと情らしくもてなし姫の隠家を探り聞にやとて、白地(あからさま)にも告給ざりしが、重能再三実意を告て聞けるにぞ中将殿も今は疑念を晴し「西岡の扁邊(かたほとり)云々(しかじか)の家に匿(かくろ)へて在。御身の詞いつはりならずば何にもして駒王が命を助てよ」とて北の方もろともに雨々(さめざめ)と打泣て頼聞え給ふ。
重能領諾し「某(それが)し斯て候上は一命に代ても駒王どの御親子の御命を助け進せ候へし。其議に於は露ばかりも御心を労じ給ふこと勿れ」とて誓を立て申ければ、父の卿世にも嬉しげに重能を伏拝み、即時に消息を認(したた)め渡し玉ふ。
重能是を腹中(くわいちゅう)し、中将どのに別を告て其夜直に西岡へ尋行き小枝どのの隠家に至りければ、主の男は誰にやと立出て見るに、由有げなる武士の二人の僕を将(い)て佇めり。
主の男心中大いに訝り「かかる武士の夜中に我方へ尋ね来るは、もし姫君の隠れ居給ふを訴ふる者の有て、悪源太どのとやらんの召拾(めしとり)に指超(さしこし)もしにや」とおもひければ、先胸つぶし心憶して更にいふ處をしらず惘(あき)も果たる面色(おももち)なり。
重能小声にて「我は猫間どのの御消息を持参せし御使なり。小枝どのは宿に御坐(おはす)にや」と問ふ。
主は彌々(いよいよ)心うたがひ「中将の御使は平日仕丁童或は女房達こそ指超給へ、かかる気疎き武士を御使に遣し玉ふ事絶てなし、是は彌々怪し」とおもひとりて空とぼけし。
「否々、此方にはさる人は在(ましま)さず、猫間どのといへるも聞知はべらぬ。名なり定て宿の違ひ候にこそ他の家を尋給へ」と戦慄(ふるひふるひ)いひぬ。
重能心可笑「此男は愚直の田夫にて我を方々の討人なりとおもへるゆえにこそ、深く包めるなめり。されど此家に紛れなきとは已に主の面色音声に表はれたりと思惟し、猶も詞を和らげて申けるは「夜中といひ我々が為体(ていたらく)を見て一応疑ふは理りなり。今は何とか包まん。我は畠山重能とて故帯刀先生とは親族たり。然るに鎌倉の悪源太どの帯刀の遺孤(わすれがたみ)を亡はんと草を分て尋捜さるるよしと聞、我親族の身として其患難を救ざるも武士の義に悖り、且は故帯刀へ対しはづる處なれば在京を幸ひ駒王どの母子の危きを救んと今日父の卿の許へ推参し心底を明し御消息を賜はりて御迎に参れるなり。此家に忍び御坐(おはす)こと早う訴人の者有て悪源太どのの方へしれたれば今にもあれ討手の来まじきにあらず、然なりては我志素(こころざし)も水の泡と消、駒王どのの御命も助り玉ふべき道あらず。疾此消息を小枝どのに呈し我に対面あるやう計ひ候べし」
と利害を説て諭しければ、主の男は悪源太討手の向ふと聞て倍々(ますます)おどろきながら、重能が詞をも尚半疑半信して自ら決すること能はず、忙然として居たりけるが、所狭き賤が家居なれば小枝どのは一間に居て先よりの重能が利害を聞、乳母に向ひて申されけるは「今重能とやらんの詞、誠か詐(いつは)りかはしらざれど妾母子が此家に隠しのぶこと早うも人の知ばこそ、訴人する人もあれにしや。此家を落て深山の奥に忍ぶとも、何を便(たつ)き何を綱手に世を送るべき。憖(なまじ)いに遁立して言甲斐なき賤山樵(しずやまがつ)に若を奪はれ此身をも辱しめられなば憂恥の上の人笑(わらへ)なるべし。只若が命を天に任し重能に対面して兎も角もならばや」と仰ければ、乳母も此こと如何とは思ひ煩ひながら申けるは「仰することごと彼人討手に向ひしならば何(いか)さまに包み隠すとも踏込て若君を亡ひ奉るべし。また誠に情ある人ならばおさなき若君の御後見なり。かかるきはは女心に定めがたし。只神佛に任して御対面せさせ玉へ」と申にぞ小枝どのも此一言に胸を定め、
乳母をもて重能に申させらるるやう「先より情ある御詞は漏聞はべれども木にも草にも心をおく身に候へば、疾にも見へ進らせず、誠は駒王どのを抱き此家に隠へはべるなり。所狭いぶせけれども、此方へいらせおはしませ」と言せ玉へば、重能欣び召具せし家隷(いへのこ)に向ひ「汝等は万事に心を配て怪しとおもふ者きたらば密に我に告よ」と命じ、乳母が案内に従ひ立入見るに、実(げに)も防嫌(いぶせき)蘆の屋の松の柱も斜に不直(ゆがみ)、竹の簀子も凹みがちにて肥松の燈ふすぼりわたり、板戸は立ても透間多く、夜風を防ぐ枕屏風も破て骨を顕せり。
其影に小枝どのは何にあらん、色あひ定ならぬ衣打着て駒王殿を掻抱き、物に倚かかりて御坐せり。
重能一揖して先其人を見るに、此年月の物思ひにやつれ果て給へども天の生(なせ)る容貌(すがたかたち)は流石に端麗(あでやか)にて雨に霜(しほる)る芙蓉のごとく、風を悼む海棠に似て、中将どのの姫君とは夜目にもそれとしられたり。
重能低頭して曰「聞召(きこしめさ)れし上は名乗も烏呼がましく候へど、某こそ畠山重能と申て故帯刀先生の?躰の者に候。栄枯不定の世のならひとは申ながら、故帯刀不慮の一戦に黄泉の客となりて、御身御親子かく世に流落玉へる、年月の物おもひ左社(さこそ)と察し候ひぬ。然に粗承まはれば、悪源太どの身の後難を除んとて小人の行衛を探り需(もと)め亡はんとせらるるよし某親族の身として他に見るに忍びず、小人の危きを救ひ進らせんと御父中将卿に謁し御在所を問、御消息をも乞得て持参仕れり。是御覧して重能に野心なきことを知し召」とて、
彼消息を呈しければ、小枝どのは会釈して是を手にとり封押切て読下し欣の色面に現れ嬉涙押拭ひて重能に向ひ、「世に便(たより)なき妾親子を心に掛給はりて危難を救ひ給はる鴻恩何(いつ)の世にかは報ひまいらすべき双(もろ)白髪の末までもと頼めてし帯刀君に別れしかば疾にも亡人の数に入て夫の跡を追べく思ひはべれども、此若のほだし(絆=束縛するもの)と成て死することだに心に任せず、せめて独歩する頃まで生(おふ)し立んと惜からぬ命を延はりて見あつかふ内またも悪源太の執念深く若が命を亡はんとものせらるると聞き、父母の許にだに住得ず水鳥の陸に迷ふ心地して、はふはふかかる鄙に身を忍び、昨日今日と日を送りはべれど今もや敵に捜じ出さるることもやと戸の隙間かな風の音友呼かはす犬の聲にも一向(ひたすら)胸の騒(さはが)れて安き心もはべらざりしに思もかけず、頼母しき人に遭まひらすことの嬉しさは、是偏に若が命運強く逝去し亡夫の守り玉ふにこそ」とて又雨々と打泣玉ふ。
初め重能を疑ひて左右(とやかく)言紛せし主の男もようように心安堵、今さら重能に面目を失ひ茶よ菓子よとて乳母とともに追従するも哀なり。
重能稍(やや)さし寄、駒王どのの寝顔を打守りて嘆息し、いまだむつきの裡を離れ給はざれど、父君によくも似させ給ひ自然(おのずから)威有て猛き将相を備へ給へり。
やがて人となりて万卒の上に立、父君の汚名をすすぎ給へ。と祝しつつ和(やお)ら抱きとれば駒王とのも目を覚し重能が面を打守て、莞爾(かんじ=にっこり)と笑給ふにぞ重能彌々(いよいよ)哀憐の心を増、若を母公に渡し「扨(さて)申やう、某しかく尋参りし上は片時も當所の御住居無用なり、直に私邸へ伴ひまいらせなん。疾々」と忙(いそが)せば小枝どのも欣びに堪えず何是の物とり緒め、乳母と倶に立出給へば重能は主の男に固く口止し、従者に前後を守らせて母子を伴ひ自らの私邸六条大宮へぞ皈(かへ)りけり。


【斎藤実盛、駒王丸を預かり北国に赴く】 ★

ここに、武蔵国永井の住人、斎藤一郎太夫実盛という武士がいた。
天性の至剛沈勇で弓矢や打物を取れば向かうところ敵はなく、しかも仁義五常の道をわきまえ、智才も人より優れた俊傑である。畠山重能とは同国のよしみで、日頃より隔てなく交遊していたので、都に在番中も互いの家に行き合い、さながら家族のようだった。今年で畠山も実盛も都の在番役の任期が終わったので、実盛は畠山と一緒に帰ろうと思い、一僕を連れて六条大宮の畠山の屋敷を訪ねる。

折よく重能は家に居たので、奥に通されて挨拶を交わしたのち実盛は話を切り出した。
「某、今日来たのは他でもない、御辺と共に在番の任期満了となったので同伴して本国に下ろうと思って推参した。御辺はまだ京師に用事がござるか?」
重能は朋友の厚情に感謝し、心の中で、
我は一旦の義によって駒王殿母子の命を救うと言ったが、とても我が手で隠れ育てきれるものではない。あの母子を同道し実盛と共に本国へ下る事は、義平への聞こえに憚りない、というわけにもいかない。だが幸いにも実盛は智勇も人に優れ、殊に義の為には一命をも投げうつことのできる武士、この人を頼んで駒王殿母子の身の上を託し、とにかく実盛の所存に任せれば悪いことにはなるまい、と考えた。

人払いをし実盛に近寄ると
「まずもって日頃のよしみを忘れず、本国へご同行くださろうというその温情嬉しく思う。さりながら、某は今しばらく京師に所用があり、この度は和殿と一緒に参ることはできない。ただし御辺を見込んで、重能の一命をかけてお願いしたき同道者がある。何卒ご同伴し下ってくださらんか。」と思い詰めた顔で話す。
実盛は興ざめた顔で「これはまた目新しい事を言うものよ。弓矢取る者がその一命をかけて頼むなど、どうして聞き捨てることができようか。ましてや御辺と某は断金の交わりを結び、たとえ戦場でハレの分捕高名を捨てても互いの危うきを救い合う仲とは、誰もが知っている事ではないか。たとえ、実盛の首をくれと言われても断らぬ。ともあれ某の力の及ぶ限りの義であれば、一命に替えても頼まれよう!」と仁義あふれる顔で語気を荒げて言う。
重能は大変喜んで拝謝し、「さっそくお引き受けいただきかたじけない。さればその人とお引き合わせしよう」と、別室から小枝殿母子を伴ってくる。
「この御婦人と赤子こそ、故帯刀先生義賢の忘れ形見、駒王殿と母御前である。以前、悪源太義平殿が身の後難を慮り、密かに亡き者にしようとの風聞に、重能縁故の者として見るに忍びなく、隠れ家を訪ね迎え帰ったのだが、とても我が手でお育てするのは、お子様の為にもならず、一体誰に頼んで託せるものかと案じていたが、御辺が本国に下るというのは願ってもない幸いだ。足手まといになるとは思うが、何卒お二人を伴い下り、ともかくもつつがなくご成長できるようお計らいくだされば、一生の鴻恩となるだろう」
と、重能は涙を流して余儀なく頼み、これを聞く小枝殿も涙にくれながら
「 妾が身はいかなる憂き目に合おうとも厭いません。野の果て山の奥でも若を成長させられるようお計らい賜りたい」
と手を合わせて実盛を伏し拝む。
鬼も神をも捕まえると言われた実盛も、重能の義心と小枝殿の心中を推し量り、不覚の涙に袖を濡らすがすぐにかき払って重能に言う。
「和殿は武闘にのみ勇猛な武士と思っていたが、情けの道にもまた深かったのだな。殊勝にもお二方を救われた。帯刀先生は一旦の過ちにその身を滅ぼしたが、なんで根を断ち葉を枯らす程の罪があろうか。この赤子もまさしく八幡殿より四代の孫君、いかでか繦褓(おむつ)の内に、どうして殺されるいわれがあろうか。ご安心せよ、お二方への義は和殿に代わり実盛が預かり、大人になるまでお育てしよう」
一議もせず引き受けた実盛に、小枝殿は言うまでもなく、重能も躍り上がるほどの喜びようである。
実盛の義に感謝し酒肴を命じて盃を取り交わし、主人も客も献酬交々、酔いを帯びると実盛は別れを告げ、その夜のうちに小枝殿母子と乳母を連れて自邸に戻る。

実盛は心中でつらつら思い巡らす。
本国武蔵は悪源太殿の武威になびいており、ことさらに彼の家人が多い。駒王殿を匿って育てるには便宜が悪く、万が一この事を義平殿に知られ、奪い取られては重能に誓った大丈夫の一言が相立たず、さりとて城屋敷に立て篭もり討手を引き受けようと、三度五度と追っ払うことはできてもいつか防げなくなるだろう。
もっとも、武士の義により捨てる命は秋毫より軽し、といえどもあの方々の命を救わなければ詮無い事。どうやって万全の策を図ったものかと、さしもの実盛も案に困る。

屹と思いついたのは、木曽の中三権頭兼遠なら兼ねてより入魂といい、弱きを助け強きを凌ぐ義者により、その領地は他所より優れ、山深く幽栖の地なれば駒王殿の隠れ家にはうってつけだ。かの母子を託すのは兼遠より他になし、と心を決め、一両日して旅立つ。
駒王殿母子と乳母を誘い従卒を率いて夜更けに都を立ち、北陸道を差して赴いた。
時は久寿二年、師走の十三日の事であったので、北国の習いなれば雪深く寒風身にしみ、血気盛んな男子すら耐え難い道を、小枝殿は、深窓に育ち地面を歩いた事もなかったが、人目を忍ぶ旅であれば士卒の体に身をやつし、実盛の従卒に入り混じり、履き馴れぬ草鞋脚絆に足を痛める。雪嵐に悩まされ、また厚氷に足をつん裂かれ、行路を朱に染めつつ歩み煩い、実盛もあまりの痛ましさに、従卒に命じて代わるがわるに背負わせ、ひたすら道を急いだ。


[モクジ]

【実盛、駒王丸を兼遠に託す】 ★

そもそも中三権頭兼遠というのは中原氏の三男なので世の人は木曽中三と称した。累代、信州筑摩郡木曽に住み、八幡太郎義家には殊に厚意を蒙っていた。その住地は岐蘇(キソ)というのは和国無双の嶮山にて東は上野武蔵に続き、西は飛騨に隣り、南は美濃路、北は越後・出羽に近く、四方どこへも四日あまりの路のりである。長山重々と連なり天竜・筑摩の大河を帯び、谷深く、桟は危く宮木切る樵斧の音かすかに、行き来する人も稀。
(つづく)



[モクジ]


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