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よりぬき木曽殿・長門本

よりぬき木曽殿第5弾!「長門本」平家物語(ベースは国書刊行会蔵本)

延慶本の妹分的な。

全20巻。木曽殿の細かい記述がちょっと多め?たまにエピソードが延慶や盛衰記と違ってるところをお楽しみください(^^)
とりあえず原文のままですが、そのうち要約して畳みます。参照の長門本は章段・題がなかったので、これまでの題に習ってテキトーにつけてあります。漢字や「」、句読点などについても解りやすいよう勝手に修正、原文とは変更してあるのでそこんとこご注意。

タイトル横の星は重要度、★=情報アリ、★★=オモシロ、★★★=超オモ!

モクジ

巻七
----------   ★ 頼政入道宮謀反申勧事
            (略)
巻十二
----------  ★★ 木曽義仲成長事
----------     源氏尾張国攻上事
----------   △ 行家美濃国合戦事
            (略)
----------     武蔵権守義基法師頸渡事
----------   ▲ 東海東山院宣被下事
----------   ▲ 秀衡資永等可追討源氏由事
----------   △ 墨俣河合戦事
----------   △ 十郎蔵人伊勢進願事

巻十三
---------- ★★★ 横田河原合戦事
----------     太白犯昴星事
            (略)
----------  ★★ 兵衛佐與木曽不和事
----------   ★ 為木曽追討軍兵向北国事
---------- ★★★ 火打城合戦事
----------  ★★ 義仲白山進願書事
---------- ★★★ 砺波山合戦事

巻十四
----------     平家侍共亡事*
----------   ★ 木曽都責上事
----------   ★ 木曽送山門牒状事
----------   ★ 平家送山門牒状事
----------     肥後守貞能西国鎮めて京上事
          (〜平家都落)
----------   ★ 法皇天台山に登御座事
----------   ★ 義仲行家に可追討平家之由仰らるる事
巻十五
----------     四宮可位付給之由事
----------   ★ 義仲行家任官之事
            (略)
----------     兵衛佐蒙征夷大将軍宣旨事
----------   ★ 木曽都にて頑振舞事
----------  ★★ 水嶋合戦事
---------- ★★★ 兼康與木曽合戦する事
----------   △ 室山合戦事
----------   ★ 木曽都にて悪行振舞事
----------   ★ 木曽可滅之由法皇御結構事
----------   ★ 木曽怠状を書して送山門事
---------- ★★★ 法住寺合戦事
----------   ★ 木曽六条河原に出て頸共懸る事
----------     宰相修憲出家して法皇の御許へ参事
----------   ★ 木曽院御厩別当に押成事
----------     松殿御子師家摂政に成給事
----------     木曽公卿殿上人四十九人を解官する事
----------     宮内判官公朝関東へ下事
----------     知康関東下事
----------     兵衛佐山門へ牒状遺事
----------  ★★ 木曽八嶋へ内書を送る事
----------   ★ 木曽依入道殿下御教訓法皇奉宿事
----------     法皇大膳太夫成忠宿所被渡給事

巻十六
----------     院拝礼並殿下拝礼無事
----------     平家八嶋にて年を経る事
----------   ★ 義仲為平家追討発下西国事
----------     梶原與佐々木馬所望事
----------   ★ 義仲可為征夷将軍宣下事
----------   ★ 兵衛佐軍兵等付宇治瀬田事
---------- ★★★ 義仲都落る事
----------  ★★ 樋口次郎成降人事
----------     師家摂政を被止給事
----------   ★ 義仲等頸渡事

巻七【頼政入道宮謀反申勧事】 ★

【以仁王の生立ち】
一院第二の御子以仁王と申は、御母はかがの大納言季成卿の御娘とかや。三条高倉の御所にましましければ、高倉の宮とぞ申ける。去永万元年十二月十六日、御歳十五と申しに、太皇太后宮近衛河原の御所にて御元服ありしが、今年は三十にならせ給ひぬれども、いまだ親王の宣旨をだにも蒙せ給はず、ちんりんしてぞ渡らせ給ひける。御手跡もいつくしく遊ばし、和漢の才に長じ給へりしかば、位にも即かせおはしましたらば、末代の賢王とも申つべしなど人々申されけれども、此女院には継子にて、うちこめられて、花の元の春の遊には、宸筆をおろして手づから御製をかき、月の前の秋の夕には、玉笛を吹てみづから雅音をあやつりまことに心細く幽なる御有様也。


【頼政、以仁王に挙兵を勧める】
卯月九日ひそかに夜うち更るほどに、源三位入道頼政忍て彼宮の御所に参りて、勧め申ける事こそ恐しけれ。
「君は天照太神四十九世の御苗裔、太上法皇第二の皇子なり。太子にも立せ給ひ、帝位にもつかせ給ふべき御身の、親王の宣旨をだにも許されおはしまさずして、既に三十にならせおはしましぬる事、心うしとは思召されずや、平家世をとて廿余年になりぬ。何事も限りある事なれば、悪行とし久くなりて栄華たちまちに尽なんとす。君この時いかなる御計らひもなくては、いつを期しさせおはしますべきぞ、とくとく思召し立て、源氏におほせて、平家を追討せらるべし。慎しみすごさせ給ふとも、終に安穏にて果てさせおはしまさん事もありがたし。君さやうにも思召し立ば、入道も七十に余り候へども、子ども一両人候へば、などか御供仕候はざるべき。世のありさまを見候に、うへこそしたがひたる様に候へども、内々は平家をそねまぬものやは候、就中ほうげん平治以後ほろびうせたりとは申候へども、その外の源氏どもこそさすが多く候へ」とて申つづく。

【源氏揃】
「京都に出羽判官光信子、伊賀守光基、出羽蔵人光重、源判官光長、出羽冠者光義
熊野には為義が子、十郎義盛とて、平治の乱より熊野の御宮にかくれて候。
津の国には多田蔵人行綱、多田次郎知実、同三郎高頼
大和国には宇野七郎親治子、宇野太郎有治、同次郎清治、同三郎義治、同四郎業治
近江国には山本、柏木、錦古利八島一党
美濃尾張には山田次郎重弘、河辺太郎重直、同三郎重房、和泉太郎重光、浦野太郎重遠、葦敷次郎重頼、同太郎重助、同三郎重隆、木田三郎重長、関田判官代重国、八島先生斉時、同三郎時清
甲斐国には逸見冠者義清、同太郎清光、武田太郎信義、加賀見次郎遠光、一条次郎忠頼、板垣次郎兼光、武田兵衛有義、同五郎信光、小笠原次郎長清
信濃国には岡田冠者親義、平賀冠者盛義、同四郎義信、帯刀先生義賢子、!木曾冠者義仲
伊豆国には兵衛佐頼朝、為義子( 義朝養子 )志田三郎先生義憲、佐竹冠者昌義、同太郎忠義、同次郎義宗、同四郎高義、同五郎義孝
陸奥には義朝末子九郎冠者義経
また頼政法師が一党にも、仲綱、兼綱以下少々候らん。是等は皆六孫王の苗裔多田新発意満仲が後胤也。
また佐々木が一党も源氏と申、此等は皆大衆をも防ぎ、凶徒をも退け、
朝賞にもあづかりしゆく望をとげし事、源平両家は互に勝負なかりしかども、当時は雲泥の交りをへだてて、主従の礼よりも猶ことなり。
わづかにかひなき命ばかりは生くれども、国々の民百姓となりて、所々にかくれ居たり。国には目代に従ひ、庄には預所に使れ、公事雑事にかり立られて、夜昼安き心なし、いかばかり心うく候らん。
君思召し立て、令旨をだに下されば、
夜を日に継ぎてうち上て、平家を亡さん事、時日をめぐらすべからず。平家を滅して法皇の打籠られておはします御心も、休め奉り給たらば、且うは御至孝にてこそ渡らせたまひ候はめ。なかんづく今年尋、治承四年庚子者、相当如陽子平相国被追討之時代、何当此時而令黙止哉。
爰浄海当時之謀叛者、
超先代事、稍過千万億矣、昔将門者出都城外而企濫悪、今浄海者於洛陽之内発謀叛、所謂捕納言宰相、搦関白大臣、而配流、或追籠当今聖主、奪位譲子孫責出新本天皇入楼、留理政哉、此謀叛絶古今、先代未聞之処也。
仍云院宣、云勅宣、令宣下事、皆以漏宣也。是則下何君勅定、
何院之宣旨哉。抑自平治元年以降、平家持世廿一年、是故一昔帝氏而相当源氏世之持乎、而今案事情捧平氏赤色持世、是火性也。今既果報之薪尽而無可令放光之処、又平氏以平治元年号而持世之事、治承之比、上下之字具水以黒色水可滅赤色火、昔平治、今治承以三水之字作年号、只本末以水火事、古今不可有疑者也。兼又今年支干金与水也。
故色者白与黒也。爰尋其先跡者、
八幡太郎義家捧白色則金性也。
刑部卿忠盛、捧黒色黒色則水性也。金与水和合生長之持相也。浄海生年六十三歳支干共土也。死冬季、水者冬旺、当冬季而可破滅時也。然者被討平氏之事、更不可有其疑者也。就中八幡大菩薩百王守護八十一代也。全其誓不可誤給、此時不被報会稽之恥者、
又何時乎、当冬季而水性也。利令滅火有徳、事不可被延今明、日本国中之挙向源氏可令入洛也。是又機感相応之時也。早打入王宮静天下可奉改国土、凡如風聞者、飽与財産相語山門南都僧徒云々、是則御発起遅々故也」
などと細々と申たりければ、此事いかが有べからんと返々思召されけれども、少納言伊長と申ける人は、右大臣とし家の息阿古丸大納言むねみちの孫、肥後の前司すゑみちの子也、めでたき相人にておはしければ、時の人相少納言とぞ申ける。その人の「此宮をば位につき給ふべきさうまします、天下の事思召しはなさせ給ふまじ」と申しかば、是も然るべき事にてこそ、頼政入道もかく申勧むらめと、かつうは天照太神の御使にてやあるらんと思召ければ、既に令旨を国々へつかはされて、思召し立せ給ひにけり。
その令旨云、

【以仁王の令旨】
 下東山東海北陸三道諸国軍兵等所
  可被追
討早清盛法師并従類叛逆輩事
右前伊豆守正五位下源朝臣仲綱宣、奉最勝親王勅?、清盛法師并宗盛等、威勢職而起凶徒、亡国家、令悩乱百官万民掠領五畿七道閇籠皇院流罪臣公、視命沈身、込楼潔資則領勅奪官職、赴配過、即冠超昇、巫女宮室不留尤多或不守高僧威徳、禁獄修学之僧徒、或給下叡岳之絹米、相具於謀叛粮米、失百皇懇切一人之験、帝皇違逆、仏法破滅、無古代者也、于時天地悉悲之、臣民皆愁之、仍一院第二皇子呼天武皇帝旧、俄追討王位催凡下之輩、任上宮太子古、打亡諸仏法破滅之党類、唯非憑人之稱位仰天地臣理也、帝皇如有三宝神冥也、何况無四岳合力哉、則源家之人藤氏之人、兼三道諸国之旨〓莫任被聞食与力追討清盛、可行配流追禁之罪主者若於有勝功者、先諸国之使庄兼御即位之後、必依宣行之、治承四年五月九日 伊豆守正五位下源朝臣

とぞ書かれたりける。
此令旨を兵衛佐給はりて、国国へ令旨の趣、書き下給状云、

【頼朝の廻文】
 被最勝親王之勅命?、
召具東山東海北陸道湛武勇之輩、守令旨可致用意、今明行幸於洛陽者、近江国源氏令執行国務、廻北陸道、之而令参向勢多之辺、相待御上洛可被供奉洛陽也、依親王之御気色、執達以宣、
  治承四年七月日 前兵衛佐源朝臣
と書きてぞ国々へ下されけり。これに依て勇士等皆兵衛佐の下知に従ひければ、背くもの一人もなかりけり。


[モクジ]

巻十二【木曽義仲成長事】 ★★

【木曽殿の旗揚げ】
信濃の国安曇郡!木曾といふ所あり。
故六条判官為義が孫、帯刀先生義賢が二男、!木曾冠者義仲と云者有、
国中の兵を隨ひ付たること一千余人に及べり。

【木曽の生い立ち】
彼義賢、去る仁平三年の夏のころ、上野国多胡郡に居住したりけるが、
秩父次郎大夫重隆が養子に成て武蔵国比企郡へ通ひける程に、当国にも不限、隣国迄もしたがひけり。
かくて年月を経ける程に、
久寿二年八月十六日、故左馬頭義朝が一男、悪源太義平が為に、大蔵の館にて義賢重隆共に誅せられにけり。其時!義仲は二歳になりけるを、母泣々相具して信濃に越て、木曾の仲三兼遠と云者を見て「これを養ひて置たまへ、世の中は用ある者ぞ」など打頼ければ、兼遠是を得て「あないとをし」と云て、!木曾の山下と云所にて育てけり。
二歳より兼遠が懐の内にて人と成より、万おろそかならずぞありける。

【木曽殿にデレ兼遠】
此稚児見目形あしからず色白く髪美しくて、やうやう七歳に成にけり。弓など翫(もてあそ)ぶありさま殊に末頼もしく、人これを見て「此稚児の見目のよさよ、
弓射たるはしたなさよ、誠の養子か」など問ひければ、これは相知たる遊君の父なし子を産て、兼遠にたびたりしを、乳の中よりとり置きて候が、父母と申候也、扨其のち男になしてけり。打ふるまひ物などいひたる有様もまことにさかりしげなり。かくて廿年が程、隠し置て養育す。成長する程に武勇の心猛くして、弓矢の道人に勝れたりければ、兼遠妻に語りけるは、「此冠者君少より手習学問させ、法師になして誠の父母の孝養をもせさせ、我等が後世をも弔はせんと思ひしに、心さかさかしければ、用有と思ひて男になしたり。たが教たる事なけれども、弓矢を取たる姿のよさよ。力もこの比の人にはすぐれたり。馬にもしたたかに乗り、空飛ぶ鳥地を走るけだ物、矢所にまいるもの、射はづすと云ことなし。歩行立馬の上の風情、誠に天の授ける業なり。酒盛などして、人をもてなしあそぶ有様もあしからず。さるべき人の娘がな、いひ合せんと思ふに、流石無下成はいかが」とためらひけり。

【義仲、京を偵察】
或時この冠者、「今はいつを期すべしとも不覚、身のさかり成時京へ上りて公家の見参にも入て、先祖の敵平家を討て世をとらばや」といひければ、兼遠打笑ひて「其ためにこそ和殿をば、是ほどまでは養育したりけれ」とぞいひける。
!義仲様々の謀を廻らして、平家を窺ひ見ん為に、忍びて京へ上り、人に紛れて日夜窺ひけれども、
平家さかりなりければ、本意を遂ざりけり。
!義仲本国へ帰り下りけるに、兼遠「都の物語し給へ」といひければ「京を王城とはよくぞ申ける、三方に高き嶺あり、もしものことあらば、逃籠りたらんにきと恥に逢まじ。六波羅は無下のひとへ所、西風北風吹たらんとき、火をかけたらんに、いづれも残るまじとこそ見えて候へ」とぞ云ける、

【兼遠の起請文】
明暮れ過ける程に、平家此事をもれ聞て大におどろき仲三兼遠を召て、「汝義仲を養ひ置、謀叛を起し天下を乱すべき由企てあんなる、不日に汝が頭をはぬべけれども、今度はゆるめらるるぞ、急ぎ!義仲を召進すべき」由、起請文を書せて本国へ返しつかはす。
兼遠起請文は書ながら、年来の養育むなしく成らんことを歎て、己が命の失んことをばかへり見ず、
!木曾が世を取んずる謀をのみぞ、明ても暮ても思ひける。

【根井の後見】
其後は世の聞えをおそれて、当国の大名根井小弥太滋野幸親と云者に!義仲を授け、幸親これを請取て、
もてなしかしづきける程に、国中挙て!木曾御曹司とぞいひける。
父多胡先生義賢が好にて、上野国勇士、足利が一族以下、皆!木曾に従付にけり。

【頼朝の動向と対策】
去程に伊豆国の流人、兵衛佐頼朝謀叛を起して、東八ヶ国を押領するよし聞えければ、
!義仲も木曾のかけはしを強く固めて信濃国を押領す。

彼所は信濃国にとりては、西南の隅、美濃国の境なれば、都も幾程も遠からずとて、平家の人々さわぎあへり。東海道も兵衛佐に打とられぬ。東山道も又かかれば、あわてさわぐもことわりとぞ申ける。是を聞て平家の侍ども「何事かは有べき、越後国には城太郎資長兄弟あり。多勢の者也。!木曾!義仲が信濃国の兵を語ふとも十分が一にも及ぶべからず。只今誅して奉りなんず」といひけれども、
東国の背くだにも不思議なるに、北国さへかかればこれすぐなる事にあらずとぞ申あひける。


[モクジ]

巻十二【源氏尾張国攻上】

【京の混乱】
廿八日東国源氏、尾張国迄せめ上る由、彼国目代早馬を立て申たりければ、亥時ばかり六波羅辺騒あへり。
都に打入たるやうに、物を運び東西南北へ隠し持さまよふ。馬に鞍置き腹巻しめなんどしければ、京中さわぎて、こはいかにせんずるぞと上下迷ひあへり。畿内より上る所の武士の郎等ども、兵粮の沙汰はなし、飢にのぞむ程に、人の家に走り入、食物を奪ひとりければ、一人としておだしからず。

廿九日 右大将宗盛卿、近江国の総官に捕せられ、天平三年の例とぞ聞えし。

[モクジ]

巻十二【行家與平家美濃国合戦】 △

【行家叔父の動向】
十郎蔵人といふ源氏、美濃の国蒲倉と云所に楯籠りたりけるを、平家の征夷大将軍
左兵衛督知盛卿、中宮亮通盛朝臣、左少将清経、薩摩守忠度、侍大将には尾張守貞康、伊勢守景綱以下、三千余騎にて馳下りて、上の山より火を放ちければ、堪へずして追落されて、当国の中原と云所に、千余騎にてたて籠りたるとぞきこえし。
平家、近江美濃尾張三ヶ国の凶徒、山本柏木錦古利佐々木の一族打従てければ、平家の勢五千余騎に成て、
尾張国墨俣川といふ所につくとぞ聞えし。


【尊勝陀羅尼書供養可奉由宣下】
二月七日大臣以下家々にて、尊勝陀羅尼、不動明王を書き、供養し奉るべきよし宣下せらる、兵乱の御祈とぞ聞えし。諸寺の御読経、諸社の御奉幣使、大法秘法残る所なく行はれけれども、其験なし。源氏は只せめにせめ上る。何としたらばはかばかしき事のあらんずるぞ、ただ人苦しめなり。神は非礼を受け給はずといふ事あり。誤りは心の外のことなれば、ざんげすれば助かることなり、平家の振舞は余りなりつる事なりといひて、僧侶も神主もいさいさとておのおの頭を振合やみけり。(以下略)


[モクジ]

巻十二【武蔵権守義基法師頸被渡事】 

【義基法師の顛末】
九日武蔵権守義基法師が首、并子息石河判官代義兼を生捕にして、検非違使七条河原にて、武士の手より請取て、
頭を獄門の木にかけて、生捕を禁獄せらる。
見物人数を不知、馬車衢に充満して夥し、諒闇の歳、賊首大路を渡さるる事まれなり。康和二年七月十八日、堀河天皇崩御、同三年正月廿九日、対馬守源義親が首を渡されし例とぞ聞えし。彼義基は、故陸奥守義家孫、五郎兵衛尉義明の子、河内国石川郡の住人なり。
兵衛佐頼朝に同意の間、忽ち誅戮せられぬとぞきこえし。

(以下「九国者共平家背事」「沼賀入道與河野合戦事」「太政入道他界事」「太政入道慈恵僧正再誕事」「白河院ナントカカントカ」「太政入道経島突給事」「太政入道白河院御子事」略)


[モクジ]

巻十二【東海東山院宣被下事】 ▲

【東国(鎌倉)北国(木曽)追討の院宣】
二月八日東国へは、本三位中将重衡を大将として遣はさるべし、鎮西には貞能下向すべし、伊予の国へは召次を下さるべきに定め、
其上兵衛佐頼朝以下、東国北国の賊徒を追討すべき由、東海東山へ院庁の御下文を下さる。
其文に云、

応早令追討流人右兵衛佐源頼朝事右奉仰曰、件頼朝去永暦元年、坐□配流伊豆国、須悔身之過、永可従朝憲之所、而尚懐梟悪之心、旁企狼戻之謀、或虐陵国宰之使、或侵奪土民之財、東海東山両道国々、除伊賀伊勢飛騨出羽陸奥之外、皆従其勧誘之詞、悉随彼謀略之中、因茲差遣官軍、殊令防禦之処、近江美濃両国之叛者、即敗績、尾張三河以東之賊、尚以同、仰源氏等皆悉可被誅戮之由、依有風聞、一姓之輩発悪云々、此事於頼政法師者、依顕然之罪科、所被加刑罰也、従院宣之趣帰皇化者、仍奉仰下知件諸国、宜承知依宣行、敢不可違失之、故下

養和元年閏二月十二日 左大史小槻宿禰奉

【平家官軍出発】
十五日、頭中将重衡、権亮少将維盛、数千騎の軍兵を相具して東国へ発向す。
前後追討使美濃国に聚会して、既に一万余騎に及べり。太政入道失せ給ひて、今日十二日にこそなるに、さこそ遺言ならめ、
仏経供養の沙汰にも及ばず、合戦におもむき給ふ事、けしからずとぞ申合ける。


[モクジ]

巻十二【秀衡資永等可追討源氏由事】 ▲

【城資長、藤原秀衡】
十九日、越後国城太郎平資長と云者あり。
是は余五将軍維茂が後胤、奥山太郎永家が孫、城鬼九郎資国が子也、
国中に争ふものなかりければ、境の外までも背かざりけり。
又陸奥国奥郡に、藤原秀衡と云者あり、彼武蔵守秀郷が末葉、修理権大夫経清が孫、権太郎清衡が子なり。出羽陸奥両国を管領して、肩を並ぶる人なかりければ、隣国までも靡きにけり。彼二人に仰せて、
頼朝!義仲を追罰すべき由、宣旨を申下さる。

【嗄れ声エピソード】
去年十二月廿五日除目の聞書、今年二月廿二日に到来。資長当国守に任ず。
資長朝恩の忝なき事を悦びて、
!義仲を追罰の為に、同廿五日に五千余騎にて暁に打立つ所に、雲の上に音有て「日本第一の大伽藍、聖武天皇の御願たる、東大寺盧遮那仏焼たる太政入道の方人するもの、唯今召とれや」と罵る声しければ、これをききける時より、城太郎中風にあひ、片身すくみてつやつやはたらかねば、思ふことを書置かず、舌もすくみければ、思ふ事をもいひ置かず。
男子三人女子一人有けれども、一言の遺言にも不及、其日の酉の時ばかりに死しけり。
怖しなど云ばかりなし。同く舎弟城次郎資職、後には城四郎長茂と改名す。春のほどは兄の孝養して、本意を遂げんと思ひけり。秀衡は頼朝の舎弟九郎義経、承安元年のころより打頼みて来りしを、十ヶ年の間養育して、兵衛佐の許へ送り遣しき。多年のよしみを空しくして、今宣旨なればとて、彼に敵対するに不及とて、領状申さざりけり。

(以下「五条大納言邦綱卿死去事」「法皇法住寺御幸成事」「興福寺常楽会被行事」略)


[モクジ]

巻十二【墨俣河合戦事】 △

【行家叔父の布陣】
知盛重衡維盛以下の追討の使、去ぬる二月廿日、美濃国杭瀬河まで下りたりけるが、源氏の大勢、尾張国まで向ふと聞えければ、
平家の軍兵、墨俣河の南の鰭に陣を取て、源氏を相待つ所に、三月十一日の曙に、東の河原に武者千騎計り馳せ来る。
すなはち東の河端に陣をとる。「是は兵衛佐には伯父十郎蔵人行家」と名乗る。
又千騎計り馳せ来る、是は兵衛佐の弟、鳥羽の卿公円全と云僧也。常盤が腹の子九郎一腹一姓の兄也。十郎蔵人に力を付んとて兵衛佐千騎の勢を付て差上りたりけるなり。
十郎蔵人が陣に二町計り隔てて陣を取る。

【悪土佐全蓮エピソード】
平家は西の河端に七千余騎、源氏は東の河原に二千余騎、河を隔てて陣を取る。
明る卯の刻に東西の矢合せと聞ゆ。行家と円全と互に先を心にかけたり。
同巳刻計に、墨染の衣に桧笠頸に懸たる乞食法師一人、源氏の陣屋に来て、経を読て物を乞ひけるを、
警固見る者にこそあんなれとて、是非なく搦め捕てけり。結付て置たりければ「乞食殺させ給ふや、あら悲しや、飯たべや」など申き、「其法師め、足挟みて問へ」などいひけるを聞て、此法師縄を引切て河へさと飛び入て、およぎてにげけるを、あはさればこそとて人あまた追懸て射ければ、矢の来る時は水の底へつと入、射止めばうき上る。浮きぬ沈みぬおよぎける程に、平家のかたよりふねに楯をつかせて、河中に押合せて船にとりのぼせて帰りにけり。さればこそ、すなはち首を切ばやといひけれども叶はず。去程に暫く有て、この法師褐衣の鎧直垂に、黒革威の鎧着て、もみゑぼし引入て、鹿毛なる馬に乗て、河端に歩ませいだして河ごしに申けるは、「人は高名して名乗こそいみじけれ、にげて名乗はおかしけれども、只今捕はれて、河をおよぎけるは此法師なり、かく申は主馬判官盛国が孫、越中前司盛俊が末子、近江の国石山寺の住僧、悪土佐全蓮」と名乗て入にけり。

【円全先走りエピソード】
卿公は平家けこみて一定渡されなんず、十郎蔵人に先を懸られては、兵衛佐に面を合すべきかと思ひければ、
明日の矢合せを待けるが、余りに心もとなさに、人一人も召し具せず、只一人馬に乗て陣より二町計り歩せ上て、烏森といふ所をするりとわたして、敵陣の前岸の陰にぞ扣へたる。
十郎蔵人は夜の明ぼのに、余波をつくりて河を渡さんと聞くより、
円全今日の大将軍と名乗懸んとおもひて、東やしらむ、夜や明ると待懸たり、平家の勢十騎計、松明をてにてに灯して河ばたを巡りけるに、峯の陰に馬を引立て、其側に人こそ立たりけれ。是をみて、爰なる者は敵か御方かと問ひたりければ、これを聞きて円全少しも騒がず、御方の者の馬かひひやし候と答へたり。
御方ならばかぶとをぬぎて名乗れといひければ、馬にひたとのりて陸へ打あがり「兵衛佐頼朝が舎弟、
鳥羽卿公円全といふ者なり」と名乗て、十騎が中へかけ入、十騎の者共中をさとわけて通しけり。円全は三騎を打とりて二騎に手を負せて、残五騎に取籠められて討れにけり。

【困る行家叔父】
十郎蔵人是を知らずして、卿公に先をかけさせじとて、使を遣して卿公が陣を見せけるに、大将軍見え給はずと申ければ、さればこそとて十郎蔵人打立にけり。千騎の勢をば陣に置きて、二百騎を相具して、稲葉河の瀬を歩ませて、河を西へさと渡して、平家の中へぞ駈入ける。
去程に夜も明がたに成ければ、平家敵の大勢にて夜討に寄たりとさわぎけるが、火を出して見れば、
わづかに二百騎計なり。無勢にて有けるものをて、七千余騎にて差向ひたり。
十郎蔵人大勢の中にかけ入りて、
時をうつす迄戦ふに、大勢に取こめられて、手取足取に捕はれし程に、二百余騎わづかに二騎に打なされて、河を東へ引退く。
二騎の中一騎は大将軍とみえたり、赤地の錦の直垂に、小桜を黄にかへしたる鎧に、鹿毛成馬に金ふくりんの鞍置てぞ乗たりける、
東の汀につきて、鎧の水はたはたと打て歩み行、大将軍とは見けれども、平家無左右追はざりけり、尾張源氏泉太郎重光百騎の勢にて、きのふより搦手に向ひたりけるが、大手の鬨の声を聞て、平家の大勢の中へ馳せ入けり。是も取こめられて、半分は討れて残りは引退く。大将軍和泉太郎も討れにけり。

【小熊布陣】
十郎蔵人は、墨俣の東に小熊と云所に陣を取る。
平家は七千余騎の勢にて押寄せたり、射しらまかされて引退く。
二番には上総守忠清、一千余騎にて差向ひたり、是も射しらまかされて引き退く。
三番には越中前司盛俊、千騎の勢にて向ひたり、是も射しらまかされて引退く。
四番には高橋判官隆綱、千騎の勢にて向ひたり、是もしらみて引退く。
五番には頭中将重衡、権亮少将維盛、両大将軍二千余騎にて入替りたり。
平家七千余騎を五手に分て戦ひければ、十郎蔵人心計は猛く思へども、堪へずして小熊を引退く。
折津宿に陣を取る。折津の陣をもおひ落されて熱田へ引退く。
熱田にて在家をこぼちて、かいだてを構へ、爰にて暫く支へたりけれども、熱田をも追落されて、
三河の国失矧河の東の峯に、かいだてを構へてささへたり。平家頓て矢矧へ追かくる。河より西に扣へたり。
額田郡の兵共走り来て、源氏について戦けれども、叶ふべくもなかりければ、十郎蔵人謀をして、
雑色三人旅人の体に装束せさせて、笠蓑持せて平家の方へ遣はす。
何と聞く事あらば、兵衛佐東国の大勢、只今矢矧に着て候時に、今落ち候つる源氏は、其勢と一つに候ぬらんといひて遣しけり。
案のごとく平家聞ければ、教のごとく申ければ、聞ゆる東国の大勢にとり籠られてはいかがせんとて、平家取物も取あへず、
思ひ思ひに逃ふためきて、同廿七日に都へかへり上りにけり。

十郎蔵人は乗替を方々へはせさせて、美濃尾張の者ども、平家を一矢も射ざらん者は、源氏の敵なりと申させたりければ、源氏に心ざし有者ども、平家を追かけてさんざんに射る。
平家は答の矢をも射ずして、西をさしてぞ馳せ行ける。
十郎蔵人は軍に負てはせ帰る。水沢を後にすることなかれとこそいふに、河を後にして戦ふ事尤も僻事なり。今源氏の謀あしかりけりとぞ申合ける。


[モクジ]

巻十二【十郎蔵人伊勢進願事】 △

【行家叔父、伊勢神宮に願書を出す】
十郎蔵人三河国府より伊勢太神宮へ、願書をぞ奉りける。
其願書に云、

伊勢野度会乃、伊鈴乃河上乃、下津磐根仁、大宮柱広敷立天、高天原仁千木高知天、奉称申定、天照皇太神乃広前仁、恐美申給恵止申、正六位上源朝臣行家、去治承三年之比、蒙最勝親王勅、云、太相国入道、自去平治元年以来、昇不当之高位、令随百官万民之間、去安元元年、終不蒙勅定、正二位権大納言藤原成親、同子息成経等、処遠流、夫称同意之輩、院中近習上下諸人、其数令殺害、其身或流、遠近無指事、智之前太相国入道以下四十余人、処罪科、或今上聖主、奪位、譲于謀臣之孫、或本新天皇入楼、已留於理政、又為一院第二皇子当国之器、同四年五月十五日夜、俄可被配流之由風聞、呑園城寺退入之処、以左少弁行隆恣称漏宣、放天台山副於与力、或仰護国之司集軍兵、已絶於皇法擬滅仏法之処、早尋天武天皇之旧儀、討王位押取之輩、訪上宮太子之古跡、已仏法破滅之類如元、国之政奉仕一院、令諸寺之仏法繁昌、無諸社神事違例、以正法治国、誇万民鎮天許、爰行家先跡者、昔天国押開給御宇、清和天皇王子、貞純親王七代孫、自六孫王下津方、励武弓護朝家、高祖父頼信朝臣、搦忠常蒙不次之賞、曾祖父頼義朝臣、康平六年鎮奥州之党、後代為規摸、祖父義家朝臣、寛平年中雖不経上奏、為国家不忠、討武平家平等、威振于東夷、名上于西洛、親父為義、奈良大衆之発向討止、鎮護王法、無宝位驚、太上天皇之威及夷域、普照四海掌内、懸百司心中、王事靡監、而去平治元年、此氏被止出仕、後入道偏以武威、都城内蔑官事、洛陽之外放謀宣、然則行家訪先代、天照太神初日本国岩戸扉天、新豊葦原水穂濫觴之給、彼天降給聖体忝行家三十九祖宗也、垂跡以来、鎮護国家之誓厳重天、冥威无隙之処、入道不恐神慮、企逆乱、是所致愚意也、遙昇高位、所致朝恩也、又行家親父朝臣、如太相国、誇私威非于起謀反、依上皇之仰参白河御所許、然称謀反之仇、依不仕朝廷、相伝所従、塞於耳目天不随順、普代之所領者、被止知行無衣粮、独身不屑行家、彼入道万一所不及也、然入道忽依起謀反天、行家為防朝敵、東国下向天、頼朝朝臣相共、且誘於源家子孫、且催相伝之所従、所企於上洛也、如案任意、東海東山諸国已令同意畢、是朝威之貴所致、且所令神明之然、百王守護之誓、所令感応也、随又如風聞者、自太神宮放鏑、入道其身已没、見之聞之上下万人、況宮中民等、何人不恐於霊威、誰人不仰於源家、仰東海諸国之神宮御領事、依先例分神役、可令備進之旨、雖加先下知、或恐平家不可下使者、或人令下使者、有奉納備進之所、不令制止於神領、僅兵粮米催計也、早可令停止、又始自院宮諸家臣下之領等、国々庄々之年貢闕如之事、全不誤也、数多軍兵、或云源家、云大名、参集思々之間、不慮外難済歟、就中、国村閭住人百姓等之愁歎、同難制止有多其煩、行家同哀歎不少、雖切撫民之意、徒送数月、爰行家帰参於王城、奉護於王尊、於頼朝者居東州之辺堺、耀西洛之朝威也、神明必垂神願、早鎮於天下給、縦云平家之兄弟骨肉、於護国家之輩、速施於神恩給、又云源家之子孫累葉、度有二意者、必令冥罰給、皇太神此状平安聞召天、無為無事令遂於上洛、速成鎮護国家之衛官給、天皇朝廷之宝位無動、源家大小従類、無患夜守昼護幸給、恐々申給へと申、
治承五年五月十九日 正六位源朝臣行家

とぞ書たりける。


四月廿日、兵衛佐頼朝を討べき由、常陸国の住人佐竹太郎高義が元へ院の庁の御下文を申さる。
其故は、高義が父佐竹三郎昌義、去年の冬、頼朝がために誅罰せらるる間、定めて宿意有るらんとて、彼よしをぞんして、平家かの国の守に高義を以て申任ず。
これに依て高義頼朝と合戦を致す。然れ共物のまねかさんざんに打ちらされて、
高義奥州へにげ籠りたり。
去々年小松内大臣被薨ぬ。今年又入道相国も失せられぬ。此上は平家の運尽ぬる事顕れたり。然れば年来の恩顧の輩の外は従付もの更になし。
去程に去年諸国七道の合戦、
諸寺諸山の破滅もさることにて、春夏の炎旱夥しく、秋冬の大風洪水打続きてしかば、いつしか東作の業を致すといへども、西収の業もなきがごとし、かかりければ、天下大に飢饉して多く餓死に及ぶ。

かくて今年も暮にけり。
明年はさりとも立直ることもやとおもひしほどに、ことしは又疫癘さへ打そへて、餓死病死の者数を知らず、死人砂の如し。されば事宜しきさましたる人も、姿をやつし、又さまをかくしてへつらひありくかとすれば、病付きて打臥
し、ふすかとすれば軈て死しけり。
かしこの木のもと築地の脇、大路中門の前ともいはず、死人の横たはれふす事算を乱せるが如し。されば車なども直にかよはず、死人の上をぞやり通はしける。臭香充満して行き通ふ人もたやすからず、さるままには、人の家を片はしよりこぼちて、市に持ち出して薪のために売けり。
其中に箔や朱やなどの付ける木の有けるは、すべき方なき迷人の卒塔婆や、古き仏像などやぶりて売りけるにや。誠に乱世乱漫の世といひながら、口惜かりしことどもなり。
(巻十二終)


[モクジ]

巻十三【横田河原合戦事】 ★★★

【城長茂の動向】
去二月廿五日、城四郎長茂、当国廿七郡出羽迄催して
敵の勢かさを聞せんと雑人まじりにかり集めて六万余騎とぞ記したる、信濃の国へ越んとぞ出立ける。
先業限あり、あすを越べからずとよばひて打立つ。
六万余騎を三手に分て、築摩越には浜小平太、伴太郎、大将軍にて一万余騎を差遣はし、
植田越には津張庄司大夫宗親、一万余騎を差遣はし、
大手には城四郎長茂大将軍にて、四万余騎の勢を引具して、越後国府に着きにけり。
明日信濃へ越えんとする所に、先陣争ふ者ども誰々ぞ、笠原平五、其甥平四郎、富部三郎、閑妻六郎、風間橘五、
家の子には三河次郎、渋谷三郎、庇野太郎、将軍三郎、郎等には相津乗湛房、其子平新大夫、奥山石見守、子息藤新大夫、坂東別当、里別当、我も我もと争ひければ、城四郎味方打せさせじとて、何れも何れも争はずして、四万余騎を引具して、信濃国へうち越えて、築摩川横田の庄に陣を取る。
城四郎はあはれ急ぎ寄せて聞ゆる!木曾を見ばやとぞ申ける。

【木曽軍、白鳥河原に布陣】
!木曾これを聞て兵を召けるに、信濃、上野両国より走参ると云条、其勢千騎には過ざりけり、当国の内白鳥河原に陣を取る。
楯六郎申けるは「親忠にいとまを給候へかし、横田河原に打向ひて城四郎が勢見て参らん」とぞ申ける。此儀然るべしとて親忠を遣はす。
親忠乗替ばかり相具して、白鳥河原をうち出て、塩尻ざまへ歩せ行て見渡せば、
城四郎が方より、横田、篠野井、石河ざまに火を懸て焼払ひ、親忠是を見て大本堂に走せ寄せて、馬よりおりて甲を脱ぎ、八幡宮を拝して「南無帰命頂礼八幡大菩薩、今度の合戦に!木曾殿勝給はば、十六人の八乙女、八人の神楽男、同じく神領を寄進し奉ん」とぞ祈申ける。
親忠帰参してしかじかと申ければ、八幡宮焼せぬ先に討や者共とて、引かけ引かけ歩ませて、
夜の暁に本堂に馳付て、願書を八幡に納めつつ、すなはち打立けるに、瀬下四郎、桃井五郎、信濃には木角六郎、佐井七郎、根津次郎、海野大平四郎、小室太郎、望月次郎、同三郎、志賀七郎、同八郎、桜井太郎、同次郎、野沢太郎、本沢次郎、千野太郎、諏訪次郎、平塚別当、手塚太郎ぞ争ひける。
!木曾は人々の恨をおはじとて下知せられけるは「郎等乗かへを具すべからず、むねとの者どもかけよとぞ」いはれける。
此計ひ然るべしとて、百騎の勢くつばみを並べて、一騎もさがらず築摩川をさつと渡す。
敵の陣を南より北へはたと懸渡して、後へつと通り、又引返して南へ駈通りけり。

【笠原平五vs.高山党】
城四郎十文字にかけ破られたるこそ口惜けれ。今度の戦ひ如何有んずらんと危くて、笠原の平五を招きていひけるは「無勢にたやすく破られたるこそ口惜けれ、ここかけ給へ」と云ければ、笠原平五申けるは「頼直今年五十に成候ひぬ、
大小事合戦に廿六度合ぬれども、不覚を仕らず、爰をかけて見参に入候はんとて、百騎計りの勢を相具して、河をさつと渡して名乗けるは、当国の人々知音とくいにて見参せぬはすくなし、他国の殿原も音には聞らん、笠原頼直ぞよき敵なり、打取て!木曾殿の見参に入よ」と呼はりてかけ廻る。
是を聞て上野国に高山の人々三百余騎計かけ出て、笠原が勢の中へかけ入てさんざんに戦ひける。両方の兵ども目をすます。しばしこらへて東西へさつと引て退にける。
高山が三百余騎の勢は五十余騎にせめなされ、笠原が百騎の勢は五十七騎討れて、残る四十三騎に成にけり。大将軍の前にのけ甲に成て、馬よりおりて「合戦のやう如何御らんぜられつるぞ」と申せば、城四郎是を感じて「御辺の高名今に始ぬことにて候、中々余人ならば嘆く所いくらも候ものかな」といはれて、誉るに増る詞なれば、
すずしげにこそおもひたれ。

【富部エピソード】
!木曾の方には高名の者ども残り少く討れて、安からぬ事におもひてある所に、佐井七郎五十余騎にて、築摩川をかけ渡る。緋威の鎧に白星の甲着て紅の母衣懸て白芦毛なる馬に白覆輪の鞍置て乗たりけり。
是を見て城四郎が方より富部三郎十三騎にて歩せ出たり。富部は赤革威の鎧に鍬形打たる甲の緒をしめて、
母衣をば懸ざりけり。連銭蘆毛なる馬に、金覆輪の鞍置てぞ乗たりける。
互に弓手に懸合せて「信濃国の住人富部三郎家俊」と名乗を、佐井七郎はたとにらまへて「扨は君は弘資にはあたはぬ敵ござんなれ、
聞たるらんものを、承平の将門を討て名を上し俵藤太秀郷が八代のすゑ、上野国の住人佐井七郎弘資」と名乗ければ、富部三郎取あへず「わぎみは次かな、氏文よまんとおもひけるは、家俊が品をば何としりて嫌ふぞとよ、今に是名乗ずしてあらば、富部三郎はいか程の者なれば、横田の軍に佐井七郎に嫌はれて名乗返さであるぞと、人のいはんずれば、名乗ぞとよ、わぎみ慥に聞、鳥羽院の上北面に有し下野兵衛大夫正弘が嫡子左衛門大夫家弘とて、保元の合戦の時、新院の御方に候て合戦仕たりし、其故に奥州に流され、其子に富部三郎家俊とて、源平の末座に附ども嫌はず、汝をこそ嫌ひたけれ、正なき男の言葉かな」と、いひもあへず十三騎くつばみを並べて、佐井が五十余騎の中をかけ破て、後へさつとぬけては又取て返して、堅様横様にさんざんにかく。
佐井面もふらず戦ひけり。佐井五十騎は十三騎に討なされにけり。富部が十三騎は四騎に成、佐井は敵を嫌ひて爰を引けば、人に笑はれなんずとおもひて退かず。富部は嫌れし詞を安からず思ひて、佐井も富部も互に目を懸て、弓手を弓手とにさし向て組ん組んとしけれども、家の子郎等押隔て押隔てしければ組ざりけり。
両方ひしめきて戦ふ程に、あなたこなたの旗差も討れにけり。やみやみと成て大将軍と引組んで落もしらざりけり。富部三郎軍にも疲れたる上薄手数多負たりければ、佐井七郎に首を捕れにけり。佐井七郎此首を高らかに差上て、富部をこそ討たれやとて引退く。

【杵淵小源太エピソード】
富部が郎等に、杵淵小源太重光と云死生不知の兵あり。此程主に勘当せられて、越後国の供もせざりけるが、今度城四郎に付ておはすなれば、よからん敵一騎討取て、勘当ゆるされんと思ひて居たりけるが、軍有と聞て急ぎ馳来りて、富部殿はいづくにと問ければ、あそこにただ今佐井七郎と戦けるこそそよと教へければ、むちを上ておめいて馳入て見れば、敵も味方も死臥り、旗ざしもうたれて見えず。
我主の馬と物の具とを見てそこへ馳よりて「上野佐井七郎殿とこそ承れ、
富部殿の郎等杵淵重光と申なり、軍より先に御使に罷りて軍に外れて候ぞや、その御返事を申且は主君の御顔をも、今一度見参らせばや」とて参りたり、持せ給たる御首に向奉て御返事申さんと言ければ、新手の奴には叶はじと思ひて、鞭を上て逃る。重光は馬も疲れず、佐井七郎は我身もよわりたり、二反ばかり先立たりけれども、五六反が内に追ひ詰て、馳並て引組でどうと落たり。
重光は聞ゆる大力の剛者にて有ければ、佐井七郎を取て押へて首をかく。水もさはらず切れにけり。重光は鞍のとつけに、我主の首の附たるを切落して、敵の首に双べ置て、泣々申けるは、重光こそ参りて候へ、
人のざん言に依て、あやまちなき重光を勘当せられて候つれども、聞も直られ候はんずらん、始たる人に使はれて今参りといはれ候はんこと口惜候へば、今度の軍によき敵打取て御勘当をゆるされ候はんとこそおもひつるに、かく見なし参らせ候こそ悲しけれ、重光候はば先討れ候て、後にこそ討れ給べきに、遅く参りて討れさせ給たるこそ口惜けれ、去ながら御敵の佐井七郎が首は直にとりて候ぞ、死出の山をば安く越させ給へと申て、二の首を左右の手に差上て、敵も味方も是を見給へ、佐井七郎殿の手に懸りて富部三郎殿は討れ給ひぬ、富部殿の郎等に杵淵小源太重光、主の敵をばかくこそうてやとぞ申ける。
其時佐井七郎が家の子郎等三十七騎おめいてかく。重光二つの首を結び合せて、取付につけて、馬にひたと乗て太刀を抜き、
中に馳入てさんざんに戦ひ切落けるは、胡人が虎がり、縛多王が鬼がりとぞ覚えける。
敵廿余騎打取て後へさつと出にけり、追つくるものこそなかりけれ。
其時重光申けるは、敵も味方も御らんぜよ、終に遁るべき身ならねば、主の供するぞやとて、
太刀の先を口に含みて逆さまに貫ぬかれて死にけり、是を見て惜まぬ者こそなかりけれ。
!木曾是を見て「哀けのやつかな、あれ程の者五十騎あらば一万騎の敵なりとも面は合すまじ」とぞ宣ひける。

【井上の謀略】
城四郎は多勢なれども、皆かり武者にて、手勢の者はすくなし。
!木曾は僅の無勢なれども、或は源氏の末葉、或は年頃の思ひ附たる郎等共なれば、一味同心に入れ替へ入れ替へ戦ひけり。
信濃源氏に井上九郎光盛とて、殊にいさめる兵あり。
内々!木曾に申けるは「大手に於ては任せ奉る、搦手に取ては光盛に任せ給へ」と、相図をさしたりければ、
本堂の前にて俄に赤旗を作りて、赤鈴を付て、保科党三百余騎を引具してかけ出る。
!木曾これを見て怪しみをなし「あれはいかに」と問ければ、光盛日頃の約束違へ奉るべき者と御覧ぜられ候か、
只今御らんじ候へとて、築摩川の端を艮にむかつて、城の四郎が後陣へぞあゆませける。
!木曾下知しけるは、井上は早駈出たり。からめて渡しはてて、!義仲渡し合せてかけんずるぞ、一騎もおくるな若党共とて、
甲の緒をしめて待所に、城四郎は井上が赤旗を見付て、搦手に遣しつる津破庄司宗親が勢と心得て、こなたへはな渡しそ、敵はむかへぞと使を立て下知する所に、そら聞ずして築摩川をさつと渡して、敵の陣の前に打上る。
彼陣の前には大きなる堀あり、広さ二丈計なり。光盛さしくつろげて堀を越す。
向へのはたにとび渡り、続いて渡る者あり、
堀の底に落る者もあり。光盛越はつれば赤旗かなぐり捨、白旗をさつと上て申けるは、伊予入道頼義舎弟乙葉三郎頼遠が子息、隠岐守光明孫浅羽の次郎長光が末葉、信濃国住人井上九郎光盛、敵をばかくこそたばかれとて、三百余騎の馬の鼻をならべて、北より南へかけ通る。
大手の!木曾二千余騎にて南より北へかけ通る。
搦手も大手も取て返し取て返し、七より八よりかけければ、城四郎が大勢四方へかけ散されて、むら雲だちにかけなされて、
立合ふ者は討れにけり。
逃る者は大やう川にぞ馳こみける、馬も人も水におぼれて死にけり、

【笠原退却】
大将軍城四郎、笠原平五返合せて戦けるが、長茂はこらへかねて、越後へ引退く。
川に流るる馬や人は、くがより落る人よりも先に湊へ流れ出づ、
笠原平五山に懸りて、かひなき命生きて申けるは「世世生々子々孫々に伝ても、頼むまじきは越後武者の方人なり。今度の大勢にては!木曾をば生捕にもしつべかりつるものを、逃ぬることこそ運の極なれ」とて出羽国へぞ落にける。

【合戦の戦果】
!木曾横田の軍に切かくる所の首五百余人なり。
即城四郎が跡につきて、越後の国府に着たれば、国の者ども皆源氏に従ひける。城四郎安堵しがたかりければ、会津へ落にけり。
北陸道七ヶ国の兵皆!木曾に附て、従ふ輩誰々ぞ、
越後国には稲津新介、斎藤太、平泉寺長吏斉明威儀師
加賀国には林、富樫、井上、津能
能登国には土田の者共、越中国には野尻、石黒、宮崎、佐美太郎等、
是等互に牒状を遣して申けるは、「!木曾殿こそ城四郎打落して、越後の国府に着てせめ上て御座すなれば、いざや志ある様にて、召されぬ先に参らん」と言ければ、仔細なしとて打連れ打連れ参れば、!木曾悦で信濃馬一疋づつぞ給りたりける。
扨こそ五万騎に成にけれ、定めて平家の討手下らんずらん、
京近き越前国の火打城を拵へて籠候へと下知し置て、我身は信濃へ帰りて、横田の城にぞ住しける。

【養和に改元】
七月十四日改元有て、養和元年とぞ申ける。
八月三日、肥後守貞能鎮西へ下向す。
太宰少弐大蔵権亮が謀叛の聞え有に依て、為追討也。

九日官庁にて大仁王会被行。承平将門が乱逆の時、座主奉にて是を被行例とぞ聞えし。其時朝綱の宰相の願文を書てしるし有と聞えしかども、今度はさる沙汰も聞えず。

【城四郎越後国国司任事】
廿五日除目に城四郎長茂彼国守に被成。同兄城太郎資長、去十二月廿五日他界間、長茂任国す。奥州の住人藤原秀衡彼国守に被任。両国ともに似頼朝義仲為追討也とぞ聞ゆ。書には被載たりけれども、越後国は!木曾押領して、長茂を追落す上は、国務にも及ばざりけり。

【兵革去祈秘法共被行事】
廿六日中宮亮通盛、能登守教経以下北国へ下向す。!木曾義仲を追討の事は、城四郎長茂に仰附たれども、猶下し遣す官兵、九月九日越後国にして源氏と合戦す。平家終に追落されにけり。
(略)

かかりければ、廿八日、左馬頭行盛、薩摩守忠度、軍兵数千騎を率して、越後国へ発向す。
(以下略)


[モクジ]

巻十三【太白犯昴星事】 

【皇嘉門院崩御事】
十二月三日皇嘉門女院失させ給ひぬ。御年六十一、是は法性寺の禅定殿下の御娘、崇徳院の后、院讃岐へ遷されましましし時の御物、思いか計なりけん、おもひやるこそ哀なれ。命限りある御ことにて、思ひには死なれぬなれば、頓て御出家ありて、一向後生菩提の御いとなみより外は、他事おはしまさざりければ、院の御ぼだいの賽共也。我御身の御得道も疑ひなし。したがひて時を覚えさせ給て、最期の御あり様目出たく、仏前に霊香有、御善知識には大原来迎院の本成坊湛敬とぞ聞えし。昔の御名残とて残らせ給たりつると覚えて哀也。

【覚快法親王失給事】
同六日戌の刻計に、前座主覚快法親王失させ給ぬ。是は鳥羽院第七の宮にて渡らせ給ふ、御年四十八とぞ聞えし。

【院御所有移徒事】
十三日院御所わたましあり。公卿十人、殿上人四十人供奉して、うるはしき粧ひにてぞ有ける。もと渡らせ給ひし法性寺殿の御所をこぼちて千体御堂の旁に作れり。女院方々すへ並べ参らせて思召すさまにてぞ渡らせ給ひける。

【踏歌節会事】
養和二年壬寅改元あり、寿永元年と号す。
正月一日諒闇に依て節会も行はれず。
十六日踏歌の節会もなく、当帝御忌月たるに依て留めらる云々。


【太白犯昴星事】
二月廿三日、太白犯昴星、是重変也、天文要録云、太白犯昴星、大将軍失国堺。
又云、四夷来在兵起事といへり。
四月十四日、前権少僧都顕真、貴賎上下をすすめて、日吉の社にて如法に法華経一万部を転読することありけり。法皇御結縁のために御幸成たりける程に、何者がいひ出したりけるにや、山門の大衆法皇を取奉て、平家を討んとすると聞えしかば、平家の人々さわぎ合て六波羅へはせ集る。
京中の貴賎まどひあへり、軍兵内裏へ馳参て四方の陣をかたむ。



十五日、本三位中将重衡卿大将軍として三十騎の官兵を相具して日吉の社へ参向す。
山上には又衆徒源氏と与力して、北国へ通ふよし平家洩れききて、山門追討の為に軍兵既に東坂下に寄すると聞えければ、大衆くだりて大宮門楼の所に三塔会合す。かかりしかば山上、洛陽騒動夥しきこと斜ならず。法皇大に驚かせおはしまして、供奉の公卿、殿上人色を失へり。北面の輩の中には黄水をつく者もありけり。此上はむやくなりとて急ぎ還御なりぬ。重衡の卿穴穂辺にて向へとり奉りて帰りにけり。誠には大衆平家をせめんと云事もなし。平家又山門を追討せんと云事もなし。何れも何れもあと方なきこと共なり。是偏に天狗の所行也。御結縁も打さましつ、かくのみあらば、御物詣も今は御心に任すまじきやらんとぞ思召ける。


五月廿四日臨時に廿二社の奉幣使を立らる、飢饉疾疫によつてなり。


九月四日、右大将宗盛大納言に還任して、
十月三日内大臣に成り給ひ大納言の上臈五人超られにき。中にも後徳大寺左大将実定一の大納言にて、花族英雄才覚優長にて御座ますが、大将の時といひ此度といひ、二か度まで超られ給ひしこそふびん成しか。
七日兵仗を給はりぬ。
十三日賀申ありき。当家他家の公卿十二人、扈従蔵人以下、殿上人十六人前駈す。我劣らじと面々にきらめき給ひしかば、目出たき見物にてぞ有ける。東国、北国の源氏蜂のごとくに起り合ひて、只今せめ上らんとするに、浪の立、風の吹やらんも知らず、花やか成ことのみ有も、いひがひなくぞみえし。かく花やか成ことはあれども、世の中は猶静まらず。南部北嶺の大衆、四国九国の住人、熊野、金峯山の僧徒、伊勢太神宮の神官、宮人に至るまで、悉く平家を背きて源氏に心を通はす。四方に宣旨を下し、諸国へ院宣を下さるといへども、宣旨も院宣も皆平家の下知とのみ心得ければ、したがひ附もの一人もなかりけり。

廿一日大嘗会御禊( 
三条が末 )、
十一月廿日大嘗会( 
近江丹波 )行はる、かくて年も暮ぬ。


寿永二年正月一日、節会以下常のごとし。
三日八条殿の拝礼あり。今朝より俄にさたありけり。鷹司殿の例とかや、建礼門院は六波羅の泉(池)殿に渡らせ給ふ。其御所にて此事あり。中次は左少将清経朝臣、公卿九人、内大臣宗盛、平大納言時忠、按察使頼盛、平中納言教盛、新中納言知盛、修理大夫経盛、三位侍従清宗、三位中将重衡、新三位中将維盛、殿上人十三人、頭蔵人右大弁親宗朝臣、右中将隆房朝臣、右中将資盛朝臣、薩摩守忠度朝臣、但馬守経正朝臣、右中将清経朝臣、勘解由次官親国、左馬頭行盛、八条殿の御方に可有拝礼由は、御せうとの左衛門督申行はれたりけり。
皇后宮母后に准じ給ひければ、拝礼なかりけり。八条殿の拝礼さし過てぞ覚ゆる。二条の大宮にも上西門院母后に被准けれども、拝礼なかりしものを、東国北国の乱天下静ならず。
世すでに至極せり。今は入舞にやとぞ宰相入道成頼は被申けるとかや。世を遁れ深き山に籠り居たまへ共、折節に附てはかくのみぞ申されける。うるはしき人に思ひ奉りけり。


二月二日、当今始て朝拝の為に、院御所、蓮花王院の御所へ行幸あり。鳥羽院六歳にて朝覲行幸あり、其例なり。正月御忌月なれば此月に及べり。
建礼門院夜拝ありと聞ゆ。新中納言帛袷敷新めたりけるが、女院の御座上敷したり。平大納言時忠卿見とがめて、新中納言知盛を以て敷直されにけり。
三月廿五日官兵今日門出すと聞ゆ。来る四月十七日に北国へ発向して、!木曾義仲を追討のためなり。
廿六日宗盛公従一位に叙せらる。
廿七日内大臣を辞し申さるれども御許なし。只重任を遁れむがため也。八条高倉の亭にて此事あり。
平大納言時忠卿、按察大納言頼盛卿、新中納言知盛卿、左三位中将重衡卿、右大弁親宗朝臣ぞ御座ける。その外の人は見えざりけり。

【皇嘉門院崩御事】
十二月三日皇嘉門女院失させ給ひぬ。御年六十一、是は法性寺の禅定殿下の御娘、崇徳院の后、院讃岐へ遷されましましし時の御物、思いか計なりけん、おもひやるこそ哀なれ。命限りある御ことにて、思ひには死なれぬなれば、頓て御出家ありて、一向後生菩提の御いとなみより外は、他事おはしまさざりければ、院の御ぼだいの賽共也。我御身の御得道も疑ひなし。したがひて時を覚えさせ給て、最期の御あり様目出たく、仏前に霊香有、御善知識には大原来迎院の本成坊湛敬とぞ聞えし。昔の御名残とて残らせ給たりつると覚えて哀也。

【覚快法親王失給事】
同六日戌の刻計に、前座主覚快法親王失させ給ぬ。是は鳥羽院第七の宮にて渡らせ給ふ、御年四十八とぞ聞えし。

【院御所有移徒事】
十三日院御所わたましあり。公卿十人、殿上人四十人供奉して、うるはしき粧ひにてぞ有ける。もと渡らせ給ひし法性寺殿の御所をこぼちて千体御堂の旁に作れり。女院方々すへ並べ参らせて思召すさまにてぞ渡らせ給ひける。

【踏歌節会事】
養和二年壬寅改元あり、寿永元年と号す。
正月一日諒闇に依て節会も行はれず。
十六日踏歌の節会もなく、当帝御忌月たるに依て留めらる云々。


【太白犯昴星事】
二月廿三日、太白犯昴星、是重変也、天文要録云、太白犯昴星、大将軍失国堺。
又云、四夷来在兵起事といへり。
四月十四日、前権少僧都顕真、貴賎上下をすすめて、日吉の社にて如法に法華経一万部を転読することありけり。法皇御結縁のために御幸成たりける程に、何者がいひ出したりけるにや、山門の大衆法皇を取奉て、平家を討んとすると聞えしかば、平家の人々さわぎ合て六波羅へはせ集る。
京中の貴賎まどひあへり、軍兵内裏へ馳参て四方の陣をかたむ。



十五日、本三位中将重衡卿大将軍として三十騎の官兵を相具して日吉の社へ参向す。
山上には又衆徒源氏と与力して、北国へ通ふよし平家洩れききて、山門追討の為に軍兵既に東坂下に寄すると聞えければ、大衆くだりて大宮門楼の所に三塔会合す。かかりしかば山上、洛陽騒動夥しきこと斜ならず。法皇大に驚かせおはしまして、供奉の公卿、殿上人色を失へり。北面の輩の中には黄水をつく者もありけり。此上はむやくなりとて急ぎ還御なりぬ。重衡の卿穴穂辺にて向へとり奉りて帰りにけり。誠には大衆平家をせめんと云事もなし。平家又山門を追討せんと云事もなし。何れも何れもあと方なきこと共なり。是偏に天狗の所行也。御結縁も打さましつ、かくのみあらば、御物詣も今は御心に任すまじきやらんとぞ思召ける。


五月廿四日臨時に廿二社の奉幣使を立らる、飢饉疾疫によつてなり。


九月四日、右大将宗盛大納言に還任して、
十月三日内大臣に成り給ひ大納言の上臈五人超られにき。中にも後徳大寺左大将実定一の大納言にて、花族英雄才覚優長にて御座ますが、大将の時といひ此度といひ、二か度まで超られ給ひしこそふびん成しか。
七日兵仗を給はりぬ。
十三日賀申ありき。当家他家の公卿十二人、扈従蔵人以下、殿上人十六人前駈す。我劣らじと面々にきらめき給ひしかば、目出たき見物にてぞ有ける。東国、北国の源氏蜂のごとくに起り合ひて、只今せめ上らんとするに、浪の立、風の吹やらんも知らず、花やか成ことのみ有も、いひがひなくぞみえし。かく花やか成ことはあれども、世の中は猶静まらず。南部北嶺の大衆、四国九国の住人、熊野、金峯山の僧徒、伊勢太神宮の神官、宮人に至るまで、悉く平家を背きて源氏に心を通はす。四方に宣旨を下し、諸国へ院宣を下さるといへども、宣旨も院宣も皆平家の下知とのみ心得ければ、したがひ附もの一人もなかりけり。

廿一日大嘗会御禊( 
三条が末 )、
十一月廿日大嘗会( 
近江丹波 )行はる、かくて年も暮ぬ。


寿永二年正月一日、節会以下常のごとし。
三日八条殿の拝礼あり。今朝より俄にさたありけり。鷹司殿の例とかや、建礼門院は六波羅の泉(池)殿に渡らせ給ふ。其御所にて此事あり。中次は左少将清経朝臣、公卿九人、内大臣宗盛、平大納言時忠、按察使頼盛、平中納言教盛、新中納言知盛、修理大夫経盛、三位侍従清宗、三位中将重衡、新三位中将維盛、殿上人十三人、頭蔵人右大弁親宗朝臣、右中将隆房朝臣、右中将資盛朝臣、薩摩守忠度朝臣、但馬守経正朝臣、右中将清経朝臣、勘解由次官親国、左馬頭行盛、八条殿の御方に可有拝礼由は、御せうとの左衛門督申行はれたりけり。
皇后宮母后に准じ給ひければ、拝礼なかりけり。八条殿の拝礼さし過てぞ覚ゆる。二条の大宮にも上西門院母后に被准けれども、拝礼なかりしものを、東国北国の乱天下静ならず。
世すでに至極せり。今は入舞にやとぞ宰相入道成頼は被申けるとかや。世を遁れ深き山に籠り居たまへ共、折節に附てはかくのみぞ申されける。うるはしき人に思ひ奉りけり。


二月二日、当今始て朝拝の為に、院御所、蓮花王院の御所へ行幸あり。鳥羽院六歳にて朝覲行幸あり、其例なり。正月御忌月なれば此月に及べり。
建礼門院夜拝ありと聞ゆ。新中納言帛袷敷新めたりけるが、女院の御座上敷したり。平大納言時忠卿見とがめて、新中納言知盛を以て敷直されにけり。
三月廿五日官兵今日門出すと聞ゆ。来る四月十七日に北国へ発向して、!木曾義仲を追討のためなり。
廿六日宗盛公従一位に叙せらる。
廿七日内大臣を辞し申さるれども御許なし。只重任を遁れむがため也。八条高倉の亭にて此事あり。
平大納言時忠卿、按察大納言頼盛卿、新中納言知盛卿、左三位中将重衡卿、右大弁親宗朝臣ぞ御座ける。その外の人は見えざりけり。


[モクジ]

巻十三【兵衛佐與木曽不和事】 ★★

【兵衛佐と木曾の不和】
去比より兵衛佐と!木曾冠者と不和の事ありて、!木曾を討たんとす。
其故は兵衛佐は先祖の所なればとて、相模国鎌倉に住す。
伯父十郎蔵人行家は、太政入道の鹿島詣でと名付て、東国へ下あるべかりけるに、大庭三郎が沙汰として、
作りまうけたりける相模国松田の御所にぞ居たりける。所領一所もなければ、近隣の在家を追捕し夜討強盗をして世をすごしけり。
或時行家兵衛佐の許へいひ遣しけるは「行家御代官として美濃国の墨俣へ向ふ事十一ヶ度なり、八ヶ度は勝て三ヶ度は負ぬ。子息を始として家の子郎等ども多く打取られぬ。其歎き申ばかりなし、国一ヶ国預けたまへ候へ、
是等が孝養せん」とぞ書たりける。
兵衛佐の許より則返事あり。
其状に云、
『!木曾冠者は信濃、上野両国の勢を以て北陸道七ヶ国を討取て、已に九ヶ国の主に成て候也。頼朝は僅六ヶ国こそ打従へて候へ。御辺もいくらの国を討んとも御心にてこそ候はめ。院、内よりも当時頼朝が支配にて国庄を人に分与ふべし』
と云仰をも
蒙り候はずと有ければ、行家兵衛佐を頼て、世に有ん事有がたし、!木曾を頼まんとて、千騎の勢にて信濃へ越にけり。
兵衛佐是を聞て、十郎蔵人がいはんことに附て、!木曾は頼朝をせめんと思ふ心附てんず、
おそはれぬ先に急ぎ!木曾を討んとぞ思ひける。
折節甲斐源氏武田五郎信光兵衛佐に申けるは「信濃!木曾次郎は去年六月に越後城四郎長茂を討落してより以来、北陸道を管領して、
其勢雲霞のごとし。梟悪の心をさしはさみて、平家の婿になりて佐殿を討奉らんとはかる由承る。平家をせめんとて京へ打上る由聞ゆれども、まことは平家の小松内大臣の女子の十八に成候なるを、伯父内大臣の養子にして、!木曾を婿に取らんとて、内々文ども遣し候なるぞ、其御用意有るべし」と密かに告申たりければ、佐大に怒りて、十郎蔵人が語ふに附て、さる支度有るらんとて、鎌倉を立て北国へ向はんとしけるを、其日坎日と成ければいかが有るべき、明る暁にて有べき物をと老輩諌め申ければ、佐宣ひけるは、昔頼義朝臣貞任が小松の館をせめ給ひける時、今日往亡日也。明日合戦すべしと人人申されければ、武則先例を勘へて申けるは、宋の武帝敵を討しこと往亡日也。兵の習ひ敵を得て以て吉日とす」と申て、小松の館を打落したりけり。
況や坎日何の憚か有べき、先規を存ずるに吉例なりとて打立たり。

!木曾此由を聞て、国中の勇士を卒して、越後国へ越て、越後と信濃の境関山と云処に陣を取て、厳敷固めて兵衛佐を待懸たり。
兵衛佐は武田五郎を先に立て、武蔵・上野を打通り、臼井坂に至ければ、八ヶ国の勢共我劣らじと馳重なりて、
十万余騎に成にけり。信濃国佐樟川の端に陣を取。
!義仲此事を聞て「軍は勢の多少に寄るべからず、大将軍の冥加の有無に寄るべし。城四郎長茂は十万余騎と聞えしかども、
!義仲二千余騎にてけちらしき。されば兵衛佐十万余騎と聞ゆれども、さまでのことはよも有らじ。但当時兵衛佐と!義仲と中たがひたるは、平家の悦にて有べし。いとどしく都の人の、平家は皆一門の人々思ひ合ひて有しかば、おだしくて廿余年をも保ちつれ。源氏は親を討ち子を殺し同士討せん程に、又平家の世にぞならんずらんと云なれば、当時兵衛佐に敵対するに不及」とて引返し信濃へ越えけるが、又いかが思ひけん、猶関山を固めさせて、越後の国府へ帰りにけり。

!木曾是より兵衛佐の許へ文を遣はす、
其状に云、
『殿は源氏の嫡子の末なれば、大将軍と仰ぎ奉り、!義仲は次男の末なれば、如本意平家をせめんと思ふ心ざし深し、
然るを今何の故を以て!義仲をせめらるべきぞ』と申、兵衛佐此文を見て、たばかりいふらめとて返事なし、
!木曾重ねて状を遣はす。
『顕には八幡大菩薩御照覧わたらせ給ふべし、内には鎌倉殿の御代官と存る所に、
!義仲追討の由存外の次第也、内に附外に附虚言を申ならば、仏神の冥罰神罰を!義仲罷蒙るべし』と詳に書れたり。
此文を兵衛佐驚きて返事はせず、天野藤内遠景と岡崎四郎義実二人を使者として、
佐宣ひけるは「!木曾次郎にあひて言んずる様はよな、平家内には違勅の族なり、外には相伝の敵也、然るを今頼朝かれを可追討之由、承院宣条、生涯の天恩にあらずや、且は君を敬奉り、且は家をおもひ給はば、尤可有合力の処、一族の義を忘れて、平家と被同心之由洩承る間、実否を承らん為に是迄参向する所なり。十郎蔵人がいはんことに付きて、頼朝を敵とし給ふか、さも有るべくば蔵人を是へ返し給へと申さるべし。返さじと申さば、御辺の子息清水太郎義守を頼朝にたべ、隔てなき人と頼み奉らん。頼朝は成人の子を持ねばか様に申す也。彼をも是をも仔細を申さざれば、頓て押寄せて勝負を決すべしと慥にいふべし。面まけて云かいはぬか慥に聞け」とて、足立新三郎清経と云雑色を差添へて遣しけり。
此こと申さんとて罷り向ふ所に犀川の水増りて三日逗留す。此事聞えて犀川に浮橋を渡して、二人の御使を迎へよす。天野藤内罷向ひて、面も振らず少しもおとさず、兵衛佐の詞の上に己が詞を加へてしたたかにぞいひたりける。

【木曽、人質をどうするか会議】
!木曾是を聞て、根井小室の者共を召集めて「我心にて我身の上の事ははかりにくきぞ、是計へ」と云ければ、郎等ども一同に申けるは「日本国は六十余ヶ国と申を僅に二十余ヶ国をこそ源氏は討取らせ給ひて候へ。今四十余ヶ国は当時平家の儘にて候、打あけられたる所もなくて鎌倉殿と御中違はせ給候ては、平家の悦にてこそ候はんずらめ。蔵人殿返らじと候はば、何かくるしく候べき。清水の御曹子を鎌倉殿へ渡し参らせさせ給へかし」と申ければ、
!木曾が乳母子今井四郎進み出で申けるは「恐れたる申事にて候へ共、おのおの悪く申させ給ふ者哉、弓矢取の習は後日を期する事はなき者を、遠くしては御中よかるべし共覚え候はず。多胡先生殿をば悪源太殿の討参らせておはしませば、親の敵とぞ思ひ給ふらんと、定めて鎌倉殿もおもひ給ふらん。何様にも一軍さは候はんずらんものを、唯はや事のついでに、御冥加のほどをも御らんぜよかし」と云ければ、
!木曾是を聞て「今井は乳母子也、根井小室は今参なり。乳母子が云はん事に附て、是等がいふことを用ひずば定めて恨みなんず。是等に捨てられてはあしかりなん」とて、使をたぞと聞すれば、天野藤内遠景、岡崎四郎義実と申ければ「聞ゆる者共也、
岡崎の四郎は三浦介が弟、東国にはおとな也、天野藤内は鎌倉殿のきり者也、能き者共にて有けり、是へ」とて出屋へ請じ入て、!木曾殊に引繕ひて対面す。
!木曾申けるは「御使おのおの心得て申給へ。十郎蔵人殿は鎌倉殿の御為にも、!義仲が為にも、
伯父にておはする人の打頼みて越され候間、すげなくあたり奉らん事、其憚少なからず候ほどに、只有か無かにてこそ候へ。それを出すか出さぬかとの仰せは、存の外におぼえ候、おやかたなどをいかでか出し参らせ候はんとも、出し参らせじとも申候べき。清水の冠者は子にて候へば、何事も仰に従ひて参らせ候べく候、!義仲が参りて宿直宮仕のごとくに思召され候べし、!義仲一方へむかひ候とも、御代官にてこそ候へと、能々心得て申され候べし」
とて、
歳十一歳に成清水冠者を呼出して
「おのれは子共多しといへども、初めに儲けたる子なれば、身を放じと思へども、
鎌倉殿の子にせんと乞はるれば遣すぞ。!義仲に宮仕と思ひて、鎌倉殿を背べからず。少も命を背くものなれば切られんずるぞ、そこを心得てふるまへ。平家を攻んといふ志も、子どもを世に有せんが為なり。!義仲にはなれたればとて心細く思ふべからず。たとへ副たりといふとも、果報なくば運命縮まるべし。はなれたりと云とも果報あらば親子の契り浅からじ。一所に寄合ふべきなり。そこを心得て鎌倉殿の命を少しもたがふべからず」と宣ひければ、

【清水冠者の笠懸エピソード】
清水御曹子さすが十一歳の人なれば、とかく返事もし給はず、
父の宣ふ事ごとに「さ承候ぬ」と計宣ひて、母や乳母の方へ行て宣ひけるは「冠者をば鎌倉殿の子にせんと宣へばとて遣はされ候なり。二たび見参らせ又みえ参らせ候はんこともかたく候べし。其故は鎌倉殿と父御前とは、親しくおはしまし候と承候に、させるすごしたる御ことも候はねども、父御前を討参らせんとて越られて候也。去程に情なき人にておはしまさんずる上は、少しも御命を背くならば切られんずるぞと、父御前も仰候、是最期の別れにて候はんずるにこそ、自らかひなき命ながらへて、罷帰らんほどのかたみにせさせ給へ」とて、笠懸七番射て、母やめのとにみせければ、母もげにも是がみ果にや有らんとて、泪を押へて見給けるこそ悲しけれ。
其後木曾二人の使に酒をすすめて、
種々の引出物の上に信濃馬一疋づつひかれけり。心得て申されよとて、清水冠者をぞ遣はしける。二人の御使共御曹子を請取てぞ帰りにける。
清水冠者には同じ年成侍二人うぶごやの太郎行氏、海野小太郎重氏と云ける者をぞ
附たりける。清水冠者は道すがら歎きければ、いかにかくは渡らせ給ふぞ、幼けれども弓矢の家に生れぬるは、さは候はぬものを、まさなしと申ければ、義隆かくぞいひける。

はや来つる道の草葉や枯ぬらんあまりこがれてものをおもひば

といひたりければ、重氏思ふには

道の草葉もよもかれじ涙のあめのつねにそそげば

【武田五郎の讒言】
武田五郎信光!木曾をあたみて、兵衛佐に讒言しける意趣は、彼清水冠者を信光聟に取らんと云けるを、!木曾請ひかで返事に申けるは「同じ源氏とてかくは宣ふか、娘持たらば参らせよ、清水冠者につがはせん」といひけるぞ荒かりける。信光是を聞て安からず思ひて、いかにもして!木曾を失はんと思ひて、兵衛佐に讒言したりけると後には聞えけり。

【鎌倉殿、帰る】
兵衛佐!木曾が返答を聞て「尤本意也、元よりさこそ有べけれ」とて、清水冠者を相具して鎌倉へ引返しけり。

【妻達の起請文エピソード】
!義仲は!木曾に帰りて、
きり者三十余人が妻どもを呼び集めて申けるは「各々が夫共の身代に清水冠者を遣しつる也、いかにと云に、冠者を遣さぬ物ならば、鎌倉殿打越えて軍あるべし、軍あらば!義仲も恥をおもへば手は引まじ、和人共の夫々も討死すべし。されば世の中を鎮めんとて、清水冠者を嫡子なれども引放ちてやりつるぞ」と宣ひて、猛き心なれども涙をぞ流されける。
三十余人の女房ども是を聞て「あな忝なの御ことや、か様に思召されたる主を打すて参らせて、妻子共が恋にければとて、何くの浦よりも落来らん夫共をば、あひみ候はじ、照る日月の下にすまじ、社社の前を通らじ」と、おのおの起請を書てぞ立たりける。夫共は是をみて手を合せて悦びけり。


[モクジ]

巻十三【為木曾追討軍兵向北国事】 ★

【官軍平家、義仲追討のため出発】
四月十七日、!木曾義仲を追討の為に官兵等北国へ発向して、次東国にせめ入て、兵衛佐頼朝を追討すべき由聞えけり。
大将軍には権亮三位中将維盛卿、越前三位通盛卿、薩摩守忠度朝臣、三河守知度朝臣、但馬守経正朝臣、淡路守清房朝臣、讃岐守維時朝臣、
刑部大夫広盛、
侍大将には越中前司盛俊、同子息越中判官盛綱、同次郎兵衛盛次、上総守忠清、同子息五郎兵衛忠光、同七郎兵衛景清、
飛騨守景家、同子息大夫判官景高、上総判官忠経、河内判官季国、高橋判官長綱、武蔵三郎左衛門尉有国以下、受領検非違使、靱負尉、兵衛尉、有官輩三百四十余人、大略数を尽す。
其外畿内は山城、大和、摂津、河内、和泉、紀伊国の兵共、去年の冬の頃より催し集められたり。
東海道には遠江已東の者共こそ参らざりけれ。
伊賀、伊勢、美濃、尾張、三河の者共少々参りけり。
東山道には近江、美濃、飛騨三ヶ国の者共少々参りけり。
北陸道には若狭已北の者ども惣て一人も参らず。
山陰道には丹後、但馬、因幡、伯耆、出雲、石見、
山陽、南海、西海道、四国の者どもは参らざりけり。
播磨、美作、備前、備中、安芸、周防、長門、豊前、筑前、筑後、大隅、薩摩、此国の人々も去年の冬より召集められ、
明年は馬の草飼に附て、合戦有べしと内儀有けれども、春も過夏に成てぞ打立ける。
其勢十万余騎、大将軍六人、宗徒の侍廿余人、先陣後陣を定むる事もなく、思ひ思ひに我先にと進みけり。
此勢には何か面をむくべき、只打従へなんずとぞ見えし。片道を給てければ、路次に逢たる者をば、権門勢家をいはず、正税官物といはず、
逢坂より奪ひ取ければ、狼藉斜ならず。
大津、唐崎、三津、山田、やばせ、まの、高島、比良の麓、塩津、海津に至る迄次第に追捕す。人民山野に逃隠る。

【燧城の詳細】
!義仲此事を聞て、我身は信濃に有ながら、平泉寺長吏斉明威儀師を大将にて、稲津新介、斎藤太、林、富樫、井上、津幡、野尻、川上、石黒、宮崎、佐美が一党、落合五郎兼行等を始として、五千余騎にて越前国火打城をぞ堅めける。
火打城元より究竟の城なれば、南は荒地、中山、近江の湖、北の橋、塩津、海津、浅妻の浜に続き、北は海津、柚尾山、木辺、戸倉と一なり、東は帰山の麓、越の白根に続きたり。西は能美、越海山ひろく打廻りて、越路はるかにみえ渡り、磐を峙て山高く立上て、四方峯を連ねたりければ、北陸道第一の城郭也。
山を後にして山を前に当つ。両峯の間城郭の前、東より西へ大き成山河流れ出たり。大きなる巌を重ねて柵にかきて水をせき留たり。あなたこなたの谷をふさぐ、南北の岸夥し。水の面遙に見え渡りて水海のごとし。かげ南山を浸して、青くして滉瀁たり。浪西日を沈めて、紅にして陰淪たり。かかりければ舟なくしては輙く渡すべきやうもなかりけり。


[モクジ]

巻十三【火打城合戦事】 ★★★

【斎明の裏切り】
四月廿七日、平家の軍兵火打城にせめ寄せたり。
城の有様いかにして落すべしともみえざりければ、十万余騎の勢向への山に宿して、徒に日を送る程に、源氏の大将軍斉明威儀師、平家の勢十万余騎に及べり。かなはじとや思ひけん、忽に変ずる心有て、我城をぞせめさせける。
或時城の中より平家の方へ鏑矢を一射懸たり。怪しと思ひて取てみれば中に結びたる文あり。是をとりて見れば、城の内へ寄すべき様をぞ書たりける。
『此川のはたに五町ばかり行て、河の端に大き成椎の木あり、彼木のもとに瀬あり、おそが瀬と云。其瀬を渡りて東へ行けば、ほそぼそしたる谷あり、谷のままに二三町計行けば道二わかれたり。弓手なる道は城の前へ通りたり、めでなる道は後へ通りたり。
此道を城の後へ押寄せて、軍の鬨を作り給へ。鬨の声を聞ならば城に火を懸候べし、然ば北へのみぞ落候はんずる。其時大手を押合せて中に取込めてうち給へ。又川は山川をせき上て候へば、河尻へ足軽を廻してしがらみを切落し候はば水は程なく落候べし。
斉明が一党五十余騎にて城の後へ落候べし。若敵かとて闇紛れにあやまちし給な、頓て御方へ参候べし。外戚に附て親しかりければ、越中次郎兵衛殿へ』とぞ書たりける。
平家の軍兵是を見て、是はたばかりておびくやらんと思ひけれども、ことの体さも有なんと思ひければ、よき兵五百余騎を選びて遣しけり。
状に書たる旨に任せてあゆませ行けば、河端に椎の木あり、瀬あり、打入て渡せば、鐙のはなも濡ざりけり。
打越て見れば谷あり、道あり馬手なる道を行けば、案のごとく城の後へぞ出たる。
又教のごとくしがらみを切落しければ、夥しく見えつる水もへりぬ。
甲の緒を締やなみかい繕て、勢を待揃へて声を整て鬨を作る。
頓(やが)て城のうちより火を出す。是をみて敵既に打入て火を懸たりとて、城のうちに籠りたる者どもあわてさわぎて、我劣らじと木戸を開き、北へぞまどひ落ける。
平家の大半押寄せて、中に取込めて戦ひければ、源氏の軍兵数を知らず討れにけり。斉明頓て平家の方に落加りて、北陸道の案内者は斉明に任せ給へとぞ申ける。
源氏の軍兵火打城を追落されて、加賀の国へ引退く。安高の橋を引て支へたり。

【安宅(一回目
)】
平家の先陣越中前司盛俊、五千余騎にて安高の湊へ打入て、渡せや渡せやと下知しつつ、我劣らじと渡しけり。加賀の国の住人富樫の太郎、越中国の住人宮崎太郎二人馳帰りて「一人も渡すな、河に射はめよ者共」とて、河中へ落ふさがりて戦けり。
富樫の太郎は越中前司盛俊がはなつ矢に首の骨射させて、河中に真逆に落にけり。
宮崎太郎も内兜を後へ射ぬかれて河中に落たりけるを、郎等四五人寄て肩に懸て上りたり。河端に置たれば僅に目計働きけり。郎等共今は力及ばず「敵は已に近付候、人手にかけ参らせんよりは、御首を給て本国に帰りて女房にみせ参らせん」と云ければ、一門の者ども五十余人さし集りて「いかでかはゆく目の働くほどの人の首をばかくべき、我等今は生きても何かはせん、死なんまで防ぎ矢は射んずるぞ、あをだにかいて行け」とて、あをだにかかせて先に立て、一門の者共五十余人防ぎ矢射て戦ひければ、平家の大将やがても続かずこと故なく越中国へぞ越にける。
宮崎は宿所へかき入て、それにて薬師をつけて医療する程に、療治に叶ひて、廿日と云に療治やめつ、畏(かけま)くぞ首をかかざりける。

去程に平家越中前司盛俊が一党五千余騎にて加賀国を馳せ過る所に、富樫太郎宗親、林六郎光明、一城に籠る。
件の城の構へ様は前は深田の細縄手也、後は大竹しげくして巌石なり。上の段に矢倉を箕のふちの様にかきて、下手には所もなく石弓を張て、何万騎の勢襲ひ来るとも、一騎も遁るべからざる構へなり。平家の侍越中前司盛俊、飛騨判官景高六千余騎にて押寄せたれども、大方落べき様もなかりけり。

【斎明(!)による火牛の計】
城の内には頻りに招く、いかにしてよすべきと議する所に、夜に入て斉明威儀師が謀に、野にいくらも放ちたる牛共を取集めて、松明に火をともして牛の角に結付て、五千余騎城の木戸口の上の坂へ向て追上げたり。
後にはどつと鬨を作りたりければ、牛は陣の上へ走り向ふ。
敵已に夜討に寄せたりと心得て、急ぎ石弓を切放ちければ下り坂になじかはたまるべき。転ぶ間、牛共頭の火の熱さといひ、石弓転ぶに驚きて走り廻る。或は城に向ひて角をかたぶけて走り入り、或は深田に落ひたりておめき狂ふもあり、又打殺さるるもあり、牛の為こそ不祥なれ。
かくひしめく間に、平家入替々々攻ければ、林、富樫しばしこそ戦ひけれども力及ばず、皆追落されにけり。

【田単の計】
昔斉燕両国の軍有けるに、田単と云者、斉の将軍にて有けるが、燕国より斉を討たんとするに、田単五十余頭の牛を設けて、赤衣をきせて龍の文を書き、剱を牛の角に結付て、葦を束ねて尾に結付て、油を濯ぎて火を附て、城の内より燕の軍の中へ追入つつ、早走の剛の者五千人、牛のあとに附きて追ふ。牛の尾の火もえ上りければ、燕の兵是を見るに、龍文にて物怖しけなる牛共が、尾の火のあつさにたへずして、軍の中に走りさわぐほどに、当る人は皆角の剱に切突れて死にけり。城中には鼓を打鐘をうち、おめきののしる声天地を響かしけり。燕の兵大に敗れて、斉国勝にける。斉明その事を思出して、我身の謀のほどをあらはしけるこそゆゆしけれ。

【林敗走、木曽殿と子の別れ】
林六郎光明城をば追おとされて、山に籠りて有けるが、早馬を立て、!木曾にこの由を告たりければ、
是を聞て!木曾大に驚きて打立ける所に、子息清水冠者の弟四人有、力寿とて十歳、鶴王とて八歳、余名王とて三歳、又当歳の女子あり、十と八とを呼び寄せて宣ひけるは「おのれ等は十四五とだに思ひなば、弓手馬手にうたせてこそ上るべけれども、幼ければとどむるぞ、清水冠者をば鎌倉殿へ乞はれぬ。一あれば一はかくる習ひにて、物を思ふこそ悲しけれ。世を取らばやと思ふもおのれ等が為也。北陸道より帰らば二月三月にはよも過じ。頓て京へも上らば、一二年も有んずらん。其程のつれづれならであれよ、常には精進して八幡へ参りて祈をせよ。心も慰めよ」などいひて、五万余騎を引率して上る。
是が最期にて有けるとも後にこそ人に申出して悲しみけれ。


[モクジ]

巻十三【義仲白山進願書事】 ★★

!木曾既に国山を越て、砺波山へ向ひける、合戦の祈祷にとて、願書を書きて白山へ奉る。
彼願書云、

立申大願事 三ヶ条何れも馬長
一可奉勤仕加賀馬場白山本宮卅講事、
一可奉勤仕越前馬場平泉寺卅講事、
一可奉勤仕美濃馬場長滝寺卅講事、
右白山妙理権現者、観音薩スイ之垂跡、自在吉祥之化現也、卜三州高嶺之巌窟、利四海率土尊卑、参詣合掌輩、満二世之悉地、帰依低頭類、誇一生之栄耀、惣鎮護国家之宝社、天下無双之霊神者歟、而自今年以来、平家登不当之高位、飽誇非巡之栄爵、忝蔑如十善万乗之聖主恣陵辱三台九棘之臣下、或追捕太上法皇之陬、或押取博陸殿下之身、或打囲親王之仙居、或奪取諸宮之権勢、五畿七道何処不愁之、百官万人誰人不歎、已欲断王孫、豈非朝家之御敵乎、( 
是第一 )、次焼南京七寺之仏閣、断東漸八宗之恵命、尽三井園城之法水、減智証一門之学侶、其逆勝調達、其過越波旬、月支大天之再誕歟、日域守屋重来歟、已磨滅仏像経巻、并焼払堂塔僧坊、寧非法家怨敵哉、( 是第二 )、次源平両家、自昔至自今如牛角、天子左右之守護、朝家前後之将軍也、而觸事決雌雄、伺隙致鉾楯、仍代々企合戦、度々諍勝負、已有宿世之怨、是私之大敵歟、( 是第三 )、因忝蒙神明之冥助、為降伏仏法王法之怨敵、立大願於三州馬場、仰感応於三所権現、就中先代伏王敵、皆由仏神贔負、此時降謀叛輩、寧無権現之勝利哉、加之白山本地観音大士者、於怖畏急難之中、能施無畏、雖平家軍兵如雲集如霞下、衆怨退散之金言有憑、縦雖謀臣凶徒加咒咀致怨念還著於本人之誓約无疑、然者還念権現本誓、感応不可廻踵、何況我家自先祖、仰八幡大菩薩之加護、振威施徳、而八幡本地者観音本師阿弥陀也、白山御体弥陀脇士観世音也、師弟合力者、感応潜通者歟、況弥陀有無量寿之号、豈不授千秋万歳之算哉、観音現薬於王之身、寧不食不老不死之薬、云本地云垂迹、勝利掲焉也、附公附私、欲遂素懐、所志无私、奉公在頂、偏為降王敵、為守天下、忽為興仏法、為仰神明、伝聞天神无怒、但嫌不善、地祇無崇、唯厭過失所以平家奪王位、是不善之至歟、謀臣滅仏法、亦過患之甚也、日月未堕地、星宿懸天、神明為神明者、此時施験、三宝為三宝者、此時振威、然則権現、照我等之懇誠、宜令罰平家之族、我等蒙権現加力、顕欲討謀叛之輩、若酬丹祈、感応速通者、上件大願无解怠可果遂也、而者弥悦源氏面目、新添社檀之荘厳、鎮誇神道之冥加、倍致仏法之興隆矣、仍所立申如件、敬白
寿永二年四月日 !源義仲敬白

とぞ書たりける。


五月二日林六郎光明並に富樫太郎が城廓二ヶ所を打破られて次第に攻入る由、官兵国々より早馬を立て申ければ、都には嘉〓けり、平家は白山の一橋を引てぞ籠りける。
十一月平家十万余騎の勢を二手に分て、三万余騎をば志雄の手に向けてさし遣し、
七万余騎をば大手へ向けて、越中前司盛俊が一党五千余騎を引分て、加賀国を打過て、終夜砺波山を越て、中黒坂の猿が馬場にひかへたり。

【宮崎による砺波山布陣進言】
!木曾是を聞て、五万余騎を相具して越中国へ馳せ越て、池原の般若野にこそ控へたれ。
越中国住人!木曾に付中にも、宮崎太郎は安高の湊の軍に内甲を射させて、前後不覚なりけるを、あをだにかきて越中国へ越て、
宮崎にていたはりけるに、廿日と云に疵は愈ぬ。
うひだちに鎧着て、!木曾殿へ参りたりければ、!木曾殊に是を感じ給「弓矢とる身こそ哀なれ、
二つもなき命を的に懸けて大事の手を負て、已に死ぬべかりける人のよみがへりて、又鎧着て出給たるこそいとをしけれ、今度の軍は殿原を頼むぞ、!義仲は小勢なり、平家は大勢と聞ゆ、面白く計ひて敵を討たんずるぞ、此山の案内者をば殿原にて有らんずるぞ、今度の軍にかたせうかたせじは殿原の計ひぞ」と宣ひければ、
宮崎申けるは「誠に山の案内はいかで知らで候べき、此砺波山には三の道候なり。
北黒坂、中黒坂、南黒坂とて三候。平家の先陣は中黒坂の猿が馬場に向へて候也。
後陣は大野、今湊、井家、津幡、竹橋なんどに宿して候也、
中の山はすいてぞ候らん。
よも続き候まじ、
南黒坂のからめては楯六郎親忠千騎の勢にてさし廻して、鷲が島うち渡りて弥勒山へ上るべし。
中黒坂の大将軍は根井小弥太、千騎の勢にて倶利迦羅を廻りて、弥勒山へ打合せよ。
北黒坂の大将は、といふ美女千騎の勢にて安楽寺を越て、弥勒山へ押寄て、三手が一手に成て鬨を作るならば、搦手の鬨はよも聞えじ。
平家後陣の勢続きて襲と思ひて後へ見返らば、白旗のいくらも有らんをみて、源氏の搦手廻りたりと心得て、
あわてながら鬨を合候はんずらん。其時鬨の声聞え候はんずらん、其時搦手は廻りにけりと心得て、是より大勢に押寄に押寄すならば、前にはいかでよるべき後には搦手あり。
逃べき方なくて、南の大谷へ向けて落候はんずらん。矢一射ずとも安く討んずるぞ」と申ける。
!木曾是を聞て「あら面白や、弓矢取の謀はかくぞとよ、平家何万騎の勢有りとも安く討ちてんずるな、殿原」とて、
宮崎が計ひに附きて搦手をぞ廻しける。

楯六郎親忠千騎の勢にて、南黒坂を打廻りて弥勒山へぞ上ける。
根井小弥太千騎の勢にて中黒坂を打廻り、くりからを廻りて、是も弥勒山へぞ上りける。
も千騎の勢にて北黒坂を打廻り、安楽寺を越て、弥勒山へぞさし合する。
去程に!木曾は搦手を廻して後、!木曾宣ひけるは「平家の大手すでに砺波山を打越て、黒坂柳原へ打出づと聞ゆ、聞てい大勢也、
柳原の広く打出たる物ならば、馳合の合戦にて有べし、はせ合の合戦は勢の多少によることなれば、大勢のかさにかけられて、あしきこともや有んずらん、敵を山に籠めて日を暮して後、くりからが谷の巌石に向けて追落さんと思ふなり。其儀ならば!義仲先急ぎて、黒坂口に陣を取るべし、敵すでに向ひたりといはば、此山四方巌石なり、無左右敵よも寄せじ、いざ馬の足安めんとて山に下り居たり、但平家の先陣山を越さじ」とて、はたさじ一人強き馬に乗せて、砺波山の東の麓なる大宮林の高木の末に白旗一流結立たり。

【平家、猿が馬場に布陣】
案のごとく平家是を見て「あはや源氏の先陣向ひたりとて敵は案内者也。各は無案内なり。無左右広みへ打出て
四方よりかけ立られてあしかりなん。此山は四方巌石也、敵無左右よせつとも見えず、馬の草飼水の便りともに能き所也。山をからせて馬の蹄もよわりたるままにおり下りて休めばや」とて、砺波山に下り居つつ猿が馬場にぞ陣をとる。

[モクジ]

巻十三【砺波山合戦事】 ▲

【埴生八幡宮】
!木曾殿は平家が山を越ぬ後にとて、強き馬をかきえりかきえり取乗て、十三騎にてあゆませをどらせつ、あがらせつきて砺波山の東の麓に馳せ着ぬ。
四方をきつと見まはすに、一村の森あり、夏山の緑りの木の間より朱の玉垣ほの見えて、かたそぎ作りの社あり。前には鳥居ぞ立にける。
里の長を召て「あれは何の宮と申ぞ、如何なる神を崇め奉りたるぞ」と問ひ給へば、「是は埴生の社とて、八幡大菩薩をいはひ奉る、
当国の新八幡宮と申候」と云ければ、
!木曾先喜び思て、手書きに大夫坊覚明と云者有けるを呼びて云けるは、「!義仲幸に当国の新八幡宮の御宝前に近付き奉りて合戦を遂げんとす。今度の軍には疑なくかちぬと覚ゆるぞ、
それに取ては且は後代の為め、且は当時祈祷にも願書を一筆書て進せばやと思ふぞ、いかが有るべきと云ければ、尤可然候なん」と云て、箙の中より小硯を取出して、帖紙を押広げて書く、覚明其日褐衣の鎧直垂に首丁頭巾して、ふしの縄目の鎧に黒羽の矢負ひて、赤銅作りの太刀の少し寸長なるに、ぬりごめ籐の弓脇に挟みて、!木曾が前に膝まづきて書たり。
あはれ文武の達者かなとぞみえたりける。
其状に云、

【願書】
帰命頂礼八幡大菩薩者、日域朝廷之本主、累聖明君之曩祖也、為護宝作、為利衆生、顕三身之金容、扉三所権扉、爰頃年之間、平相国云者、管領四海而令悩乱万民、是既仏法〓、皇法敵也、!義仲苟生弓馬家、僅継箕裘芸、見彼暴悪、不能顧思慮、任運於天道、投身於国家、試起義兵欲退凶器、而闘戦雖合両陣、士卒未得一致勇之間、區心忙処、今於一陣揚旗為戦場、忽拝三所和光社壇、機感之純熟既明也、凶徒誅戳無疑、歓喜降涙渇仰銘肝、就中、曾祖父前陸奥守義家朝臣、寄附身於宗廟之社族、号於名八幡太郎、以降、為其門葉者莫不帰敬、!義仲為其後胤、傾首年久、興今此大功、縦以嬰児蠡量臣海、蟷螂取斧如向立車、然而為君為国興之、志之至神〓在暗、〓哉悦哉、伏願冥慮加威、霊神合力、決勝於一時、退〓於四方、然則丹祈叶冥慮、顕有加護、先令見一瑞相給、敬白、
寿永二年六月一日 !源義仲敬白

とぞ書たりける。
此願書と十三表矢をぬきて雨降けるに、簑笠着たる男の簑の下にかくし持せて、忍びやかに大菩薩の社壇へ送り奉る所に、〓哉八幡大菩薩、其二なき志をや〓給ひけん、霊鳩天より飛来りて、白旗の上に翩翻す、!義仲馬よりこぼれ落て、甲をぬぎ、首を地に附て是を拝し奉る、平家の軍兵は遙にこれを遠見して、身の毛立てぞ覚えける。

【砺波山合戦開戦】
去程に!木曾が勢三千余騎
にて馳せ来る。敵に勢のかさを見られてはあしかりなんとて、松長、柳原に引かくす。
とばかりありては五千余騎、とばかり有ては一万余騎、
三万余騎の勢を四五度十度にぞ馳せ付にける、皆柳原に引かくす。

平家砺波山の口、倶利伽藍が岳のふもとに松山を後にして、北向に陣を取る。
!木曾は黒坂の北の麓に松長、柳原を後にして、南向に陣をとる。
両陣の間僅に五六段隔てて、おのおの楯をつき向へたり。!木曾は勢をまち得ても合戦を急がず、平家の方よりも進まず、鬨の声三ヶ度合て後は、静り返りてぞみえける。
しばらくあひしらひて、源氏の陣の方より精兵十五騎を楯の表へ進ませて、十五の鏑を同音に平家の陣へぞ射入ける。平家少しもさわがず十五騎を出し合せて、十五の鏑を射返さす。両方十五騎づつともに、楯の表へ進み出て、
互に勝負を決せんとはかりけれども、内より制して招き入れつ又とばかり有て三十騎を出せば、三十騎を出して射返さす。五十騎を出せば五十騎を出す、百騎を出せば百騎を出合て、矢を射て返させたる計にて、両方勝負に及ばず、本陣へ引退く。
かくすること辰の刻より巳の時迄六ヶ度に及べり。平家は源氏の搦手のまはるを待て、日を暮さんとする謀は知らずして、共にあひしらひて日を暮しけるこそはかなけれ。

【倶利伽羅谷大死】
去程に日もくれがたに成にければ、今井四郎兼平、楯六郎親忠、八島四郎、落合五郎を先として、一万余騎の勢にて平家の陣の後、
西の山の上よりさし廻して鬨をどつと作り懸たりければ、黒坂口、柳原に扣へたる大手二万余騎、同時に鬨を作る。
前後四万余騎がをめく声、谷をひびかし峯にひびきて夥し、平家は北は山巌石也。夜軍よもあらじ、夜明けてぞ有らんとゆだんしける処に、鬨を作り懸たりければ、東西を失ひてあわてさわぐ。
後は山深くして嶮かりつれば、搦手へ向ひぬべしともおぼえざりけるものを、いかがせんずる、
前は大手なればえすすまず、後へも引返されず、鳥にあらねば天へものぼらず。日はすでに暮れぬ、案内は知らず、力及ばぬ道なれば、心ならず南谷へ向けてぞ落しける。
さばかりの巌石を闇の夜に我先にと落ちける間、杭につらぬかれ岩に打れても死にけり。前に落るもの後に落す者にふまれ死ぬ。後に落す者は今落す者に踏殺さる。父落せば子も落す。子おとせば父もつづく。主落せば郎等も落重なる。
馬には人、人には馬、上が上に落重なりて、倶利伽藍が谷一をば平家の大勢にて馳埋てけり。谷の底に大なる柳あり、一枝は十丈計有けるが、かくるるほどに埋たりけるこそ無惨なれ。
大将軍三河守知度以下、侍には飛騎判官景高、衛府、諸司、有官の輩百六十人、宗徒の者ども二千人はくりからが谷にて失せにけり。巌泉血を流し、死骸岡をなせり、されば倶利伽藍が谷には、箭の孔、刀痕、木の本毎に残り、枯骨谷にみちて、今の世まで有とぞ承る。


!木曾か様に平家の大勢打落して、倶利伽藍が黒坂口の手向に弓杖突て扣へたる所に、平家の馳重て埋たる谷の中より俄に火炎もえ上る。!木曾大に驚きて郎等を遣して見するに、今剱の宮の御宝殿にてぞ渡らせ給ひける。今剱の宮と申は白山の剱宮の御こと也。
!木曾馬より下り、甲をぬぎて三度拝し奉りて「此軍は!義仲が力の及ぶ所にあらず、
白山権現の御計ひにて平家の勢は亡びにけるこそ」とて、剱の宮はいづくに当りて渡らせ給やらん。
御悦び申さんとて鞍置馬廿疋手綱結びて打かけ、白山の方へ追遣す。これほどの神験をばいかでかさて有べきとて、加賀国林六郎光明が所領横江庄を白山権現に寄進し奉る。今に違はず神領にて伝はりけるとかや。
(巻十三終)

[モクジ]

巻十四【平氏侍共亡事*】 

*延慶本ではここに実盛最期のエピソードが入る。

【平家敗走】
去四月には十万余騎にて下りしに、今七月の軍に負て帰り上るには、其勢僅に二万余騎、残る七万余騎は北陸道にて討れて、
屍(かばね)を道のほとりに晒けり。
「平家今度然るべき侍、大略数をつくして下されけるに、かく残少く討たれぬる上は
とかくいふかひなし。流を尽して漁時は太く魚を得といふとも、明年に魚なし。林を焼て狩時は多く獣をとるといへども、明年に獣なし。後を存て壮健にすくやかなるを遣はして、少々は官兵を残さるべかりけるものを」と申人もありけり。
内大臣むねと頼み給ひたるつる弟の三河守も討れ、又長綱も返らず、一所にていかにもならんと契り給ひたりつる。乳母子の景高も討れぬる上は、大臣殿も心細く覚されけるに、父景家申けるは「景高におくれぬる上は、生ても何かはせん、今は身のいとまを給て、出家遁世して、後生を弔ふべし」とぞ申ける。
今度討れたる者どもの父母妻子のなきかなしむ事限なし、
家々には門戸をとぢて声々に念仏申あひければ、京中はいまいましき事にてぞありける。


【雲南瀘水事】
昔天宝大きに兵徴駆向て何処にか去、五月に万里に雲南に行、雲南に瀘水有、大軍徒より渉に、水湯の如し、未戦十人が二三は死、村南村北に哭声悲し、児は爺嬢に別れ、夫は妻に別る、前後蛮に征者千万人行て一人し帰る事なし、新豊県に男あり、雲南の征戦を恐れつつ、年二十四にて夜深人静りて後、自ら大石を抱て臂を鎚折き、弓を張り旗を挙るに倶にたへずして、右の臂は肩により、左の肘は折たりといへども、雲南の征戦を免かれ、又骨くだけ筋傷て昔はさにあらざれども、臂折てよりこのかた六十年、一支はすたれたりといへども、一身は全し、今に至るまで風吹雨降空くもりさゆる夜は、天の明にいたるまで痛で不眠、されども終悔ず、悦処は老の身の今に有事を、然らざらましかば、当初瀘水の頭に死て、雲南の望郷の鬼となりて、万人の塚の上に哭こと幻々たらまし。齢は八十八、頭(かしら)は雪に似たりといへども其孫に助けられて店前に行。命あればかかる事にもあへるにや。

一枝を折らずばいかに桜ばな八十余りの春にあはまじ


【院御所の動向】
五日、北国の賊徒事、院御所にて定有。
左大臣経宗、右大臣兼実、左大将実定、皇后宮大夫実房、堀河大納言忠親、梅小路中納言長方、此人々を召されけるに、堀河右大臣は参り給はざりけり。
右大将、大蔵卿泰経を御使にて、堀河大納言忠親は唯よくよく御祈祷行はるべき由を申されける。左大臣は門々をかためらるべしと申されけるぞ云がひなかりける。右大臣は東寺にて秘法あり、かやうの時行はるべきにや、宗の長者に仰せらるべきかと申させ給ふに、長方卿軍兵の力今は叶ふまじきかと、前内大臣に尋らるべし、其後の儀にてあるべきかとぞ申されける。


【於延暦寺薬師経読事】
廿一日より延暦寺にて薬師経の千僧の御読経を行はるべし。是も兵革の御祈也。御布施には手作布一反、供米袋一、院別当左中弁兼光朝臣仰を承て、催沙汰有り。
行事の主典代、庁官、御布施供米を相具して西坂本赤山堂にて是を引くほどに、小法師原をもてうけとる。一人してあまたをとる法師もあり、又手を空しくしてとらぬものもありけり、然る間、行事官と法師原と事をいたす。
主典代、庁官、烏帽子打落されて、散々の事にてぞありける。はては主典代とらへて山へ上せけり。平家の主とする神事仏事の祈り一として験なかりけり。

【大神宮へ可成御幸事】
同日、蔵人右衛門権佐定長承て、祭主神祇大副大中臣親俊、殿上口に召して兵革平がば、太神宮へ行幸あるべきよし申させ給ひけり。
太神宮と申は、昔高天原より天降りましまししを、垂仁天皇御宇廿五年と申し戊申三月に、伊勢の国度会郡五十鈴川の上、したつ岩ねに大宮柱ふとしきたてて、祝ひ始め奉り給ひしより、宗廟社稷の天照御神にて、御代ごとに崇敬奉行事、吾朝六十余州の三千七百余社の、大小神祇冥道にも勝てましまししかども、代代帝の臨幸はなかりしに、ならの御門の御時、右大臣不比等の孫式部卿宇合の御子、右近衛権少将兼太宰大弐藤原広継と云人ましましき、天平十二年十月に肥前国松浦郡にて一万人の凶賊を相語らひて謀叛を起し、帝をかたむけ奉らんと計る由聞えしかば、大野東人と申し人を大将軍にて、国々の官兵二万余人かり集めて、さし遣して打落されにき。
其御祈に同十一月に始めて太神宮へ行幸ありき、今度其例とぞ聞えし。

彼広継討れて後、其亡霊あれて恐しき事ども多かりけり。
同十八年六月に、太宰府の観世音寺供奉せられけるに、玄肪僧正といひし人を導師に請られしを、俄に空かき雲り、黒雲の中より龍王下りて、彼僧正を取りて天に上りにけり。恐しなどいふばかりなし。是により彼霊を神と崇められき、今の松浦の明神是也。
其僧正は吉備大臣と入唐して法相宗を吾朝へ渡したりし人也、入唐の時宋人其名を難じて、玄肪とはいかに還て亡といふ通音あり、本朝に帰りて事に逢べき人なりと申たりけるとかや。
さて遙にほどへて後、彼首を興福寺西金堂の前に落して、空にはと笑ふ声のしけり。
此寺は法相宗の寺なるが故なり、昔もかかる兵乱の時の御願を立らるる事有にや、嵯峨天皇の御時、大同五年庚寅平城帝尚侍の勧により世乱れにしかば、其時の御祈に、始て帝の第三皇女有智子内親王を、加茂の斎に立奉らせ給ひき、是又斎院の始也。
朱雀院の御時、天慶二年( 
乙亥 )将門純友が謀反の時の御願に、八幡臨時の祭始れり。今度もか様の例ども尋ねらるとぞ聞えし。


[モクジ]

巻十四【木曽都責上事】 ★

【木曽軍、越前国府会議】
!木曾冠者義仲は度々の合戦に打勝ちて、六月上旬には、東山北陸二道の二手に分て打上る。
東山道の先陣は尾張国墨俣川に着く。
北陸道の先陣は越前国府に着く。
評定しけるは「抑山門の大衆は未だ平家と一也、
おのおの西近江を打上らんずるに、東坂本の前小事なをかとつ、唐崎、三津、河尻などよりこそ京へは入らんずるに、例の山の大衆の憎さは留めやせんずらん打破りて通らんずるも安けれども、当時は平家こそ仏神をもいはず、寺をも亡し僧をも失ひ、か様の悪行をばいたせ、我等は此守護の為に上る者が平家と一なればとて、山門の大衆を亡さん事、少しも違はぬ二の舞たるべし。さればとて、此事にためらひて、上るべからん道を逗留するに及ばず、是こそやす大事なれ、いかがあるべき」といひければ、
手書に相具したりける!木曾大夫覚明申けるは「山門の骨法粗承り候に、衆徒は三千人必定一味同心する事候はず、思ひ思ひ心々なれば、いみじう申奉る事も異儀を申者あらば、破る事も候、されば三千人一同に平家と一なるべしといふ事も不定なり、源氏に志思ひ奉る大衆もなどかなかるべき、牒状を遣して御覧候へ、事の様は返牒に見え候ぬと覚え候」といひければ、もつとも然るべしとて牒状を山門へ遣す。彼牒状をばやがて覚明ぞ書きたりける。

【覚明の身上話】
彼覚明は元は禅門なり、勧学院に進士蔵人とて有けるが、出家して西乗房信救とぞ申ける。信救奈良に有ける時、三井寺より牒状を南都へ遣したりける。
返牒をば信救ぞ書たりける。『太政入道浄海は、平家の糠糟武士の塵芥』と書たりける事を、安からぬ事に思ひて、いかにもして信救尋取て、誅せんとはかるよし聞えければ、南都も都のほど近ければ叶はじと思ひて、南都を逃出べきよしおもひけれども、入道道々に方便をつけて置かれたるよし聞えければ、いかにももとのすがたにては叶まじとおもひて、漆を湯にわかしてあみたりければ、膨脹したる白癩の如くになりにけり、かくして南都を真白昼に逃げちれども、手かくる者なかりけり。
信救猶都の辺りにてはとられなんずと思ひて、鎌倉へ下りけるに、十郎蔵人行家平家追討の為に、東国より都へ攻上りけるが、墨俣川にて平家と合戦をとぐ。行家さんざんに打落されて引き退く。三河国府に着きてありける所に、信救行合て行家に付にけり。

真の癩にあらざりければ、次第に膨脹も直りてもとの信救になりにけり。
行家三河国府にて伊勢太神宮へ奉ける願書も、信救ぞ書たりける。
其後行家兵衛佐に中たがひて、信濃へ越て木曾に付たりける時よりして、信救、!木曾を頼みて、改名して!木曾大夫覚明とぞ申ける。


[モクジ]

巻十四【木曽送山門牒状事】 ★

【山門牒状】
山門への牒状六月十六日山上に披露す。大講堂の庭に会向して是を披見す。
其状に云、

奉親王宣欲令停止平家逆乱事
右、平治以来、平家跨張之間、貴賎〓手、緇素戴足、忝進止帝位、恣虜掠諸国、或追捕権門勢家、令及恥辱、或搦取月卿雲客、無令知其行方、就中治承三年十一月、移法皇之仙居於鳥羽故宮、遷博陸之配流於夷夏西鎮、加之不依蒙咎、無罪失命、積功奪国、抽忠解官之輩、不可勝計者歟、然而衆人不言、道路以目之処、重去治承四年五月中旬、打囲親王家、欲断刹利種之日、百王治天之御運未尽、其員本朝之守護之神冥尚在本宮、故奉保仙駕於園城寺既畢、其時!義仲兄源仲家依難忘芳恩、因以奉扈従、翌日青鳥飛来、令旨密通、有可急参之催、忝奉厳命、欲企頓参之処、平家聞此事、前右大将喚籠義仲乳母中原兼遠之身、其上住所付之伺之、怨敵満国中、郎従無相順、心身迷山野、東西不覚間、未致参洛之時、有御僉議云、園城寺為体、地形平均、不能禦敵、仍奉進仙蹕於南都之故城、遂合戦於宇治橋之辺之刻、頼政卿父子三人、仲綱兼綱以下卒爾打立、心中相違之間、被討者多、遁者少、骸埋龍門原上之土、名施鳳凰城都之宮、畢、哀哉令旨数度之約、一時難参会、悲哉同門親眤之契、一旦絶面謁事、抑貴山被同心当家、忠戦哉否令与力平家悪逆哉否、若被党令与力者、定我等不慮対天台衆徒、企非分之合戦歟、速飜平家値遇之僉議、被修当家安穏之祈祷、若猶無承引者、自滅慈覚門徒、定有衆徒後悔歟、如此觸申事、全非恐衆徒之武勇、偏只尊当住三宝故也、何況叡山衆徒、殊護持国家者先蹤也、詔書云、朕是右丞相之末葉也、慈覚大師之門跡也、是則慈恵僧正終所致給験也、早遂彼先規、上祈請百皇無為之由、下被廻万民豊饒之計者、七社権現之威光益盛、三塔衆徒之願力新成歟、爰!義仲以不肖之身、誤打廻廿余国、〓渭之間、北国諸庄園、不遂乃貢之運上、誠是自然是恐戦也、申而有余、謝而難遁、努々莫処将門純友之類、神不禀非礼者、忝令知見心中之精勤耳、宜以此等之趣内令達三千之衆徒、外被聞重貴賎者、生前之所望也、一期之懇志也、!義仲恐惶謹言

寿永二年六月十日 !源義仲申文

進上 恵光坊律師御房

山門三千の衆徒!木曾が牒状を見て、僉議まちまち也。
或は平家の方へ寄者も有り、或は源氏の方へ寄んといふ者もあり、
されば心々の僉議まちまちなりけれども、所詮我等、専、金輪聖王天長地久を祈り奉る。
平家は当帝の御外戚、山門にして帰敬を致されば、
今にいたるまで彼の繁昌を祈りき、されども頃年よりこのかた平家悪行法にすぐるる間、四夷乱を起し万人是を背くによて、討手を遣はさるといへども、諸国へ還て異賊に追落されて、度々逃帰り畢、是偏に仏神不加加護運命末に臨めるによりて也。
源家は近年度々の合戦に打勝て、官外皆以帰伏す、機感時至り運命既開たり。何当山獨宿運傾たる平家に同意して、運命さかんなる源氏を背くべきや、此条山王七社いわう善逝の冥慮はかりがたし。


【山門返牒事】
就中今の牒
送之趣、道理非無半、須平家値遇の思ひを飜して、速に源家合力の思ひに任すべき旨、一同に詮議して返牒を送る、
其状に云、

右、六月十日御書状、同十六日到来、披閲之処、数日之欝念一時解散、故何者源家者、自古携武弓、奉仕朝廷、振威勢禦王敵、爰平家者背朝章起兵乱、軽皇威好謀叛、不被征平家者、争保仏法哉、爰源家被制伏彼類之間、追取本寺之千僧供物、依侵損末社之神輿、衆徒等深訴訟、欲達案内之処、青鳥飛来幸投芳札、於今者永飜平家安穏之祈祷、速可随源家合力之僉議也、是則歎朝威之陵遅、悲仏法之破滅故也、夫漢家貞元之暦、円宗興隆、本朝延暦之天、一乗弘宣之後、桓武天皇興平安城、親崇敬一代五時之仏法、伝教大師開天台山、遠奉祈百王無為之御願以来、守金輪護玉体、在三千之丹心飜天変払地天、唯是一山之効験也、因茲代々賢王、皆仰蘿洞之精誠、世々重臣、悉恃台岳之信心、所謂一条院御宇之時、偏慈覚大師門徒之日綸言明白也、九条右丞相并御堂入道太相国、発願文曰、雖居黄閣之重臣、願為白衣之弟子、子々孫々、久固帝王皇后基、代々世々、永得大師遺弟之道、同施賢王無為之徳、加之永治二年鳥羽法皇忝叡山御願文云、昔践九五之尊位、今列三千之禅徒者也、倩思之感涙難押、静案之随善尤深、星霜四百廻、皇徳三十代、天朝久保十善之位、徳化普四海之民、守国守家之道場、為君為家之聖跡也、運上本寺千僧供物、雖作末社神興、末寺諸庄園併如旧被安堵者、三千人衆徒合掌、而祈玉体於東海之光、一山揚声、而傾平家於南山之宮、凶徒傾首来詣、怨敵束手乞降、十乗床上、鎮扇五日之風、三密壇前、遙濯十旬之雨者、依衆徒僉議執達如件

寿永二年七月日 大衆等

!木曾冠者牒を見て、大に悦で、もとより語ふ所の悪僧白井法橋幸明慈雲房法橋寛覚三神闍梨源慶等を先として登山す。


[モクジ]

巻十四【平家送山門牒状事】  

【平家の牒状】
平家又是をも知らずして、興福寺園城寺は大衆憤りを含みたる折節なれば、語ふともなびくまじ、山門は当家の仇を結ばず。当家又山門のために不忠を存ぜず。山王大師に祈請して三千の衆徒を語らはばやとて、一門卿相十余人同心連署して、願書を山上へ送。
其状云、

敬白

可以延暦寺帰依准氏寺以日吉神尊崇如氏社一向仰天台仏法事
右、当家一族之輩、殊有祈請、旨趣何者、叡山者桓武天皇御宇、伝教大師入唐帰朝後、弘円頓教法於斯処、伝舎那大戒於其中以来、為仏法繁昌之霊跡久備鎮護国家道場、方今伊豆国流人前右兵衛権佐源頼朝、不悔身過、還嘲朝憲、加之与奸謀致源氏!義仲行家以下凶党同心、抄掠数国土貢、押領万物、因茲且追累代勲功之蹤、且任当時弓馬之芸、速追討賊徒、可降伏凶党之由、苟〓勅命頻企征伐、魚鱗鶴翼之陣、官軍不得利、星旗電戟威、逆徒似乗勝、若非仏神之加被、争鎮叛逆之凶乱、是以一向帰天台之仏法、不退恃日吉之神恩而已、何況忝憶臣等之曩祖、可謂本願余〓、弥々可崇重、弥々可恭敬、自今以後、山門有慶為一門之慶、社家有鬱、為一家之鬱、付善付悪成喜憂、各伝子孫、永不失墜、藤氏者以春日社興福寺、為氏寺氏社、久帰依法相大乗宗、当家者以日吉社延暦寺、如氏社氏寺、親値遇円実頓悟之教、彼者遺跡也、為家思栄幸、是今之精祈也、為君請討罰、仰願山王七社王子眷属、東西満山護法聖衆、十二上願、医王善逝、日光月光、十二神将、照無二之丹誠垂唯一之玄応然則邪謀逆心之賊、束手於軍門、暴虐残害之徒、伝首於京都、我等精苦、諸仏神其捨給哉、仍当家公卿等、一口同意作礼、而祈請如件、敬白、

寿永二年七月 日

従三位行右近衛権中将平朝臣資盛
従三位平朝臣通盛
従三位行右近衛権中将兼丹波権守平朝臣維盛
正三位行左近衛権中将兼但馬守平朝臣重衡
正三位右衛門督平朝臣清宗
参議正三位行太皇太后宮権大夫兼修理大夫備前権守平朝臣経盛
征夷大将軍従二位行権中納言兼左兵衛督平朝臣知盛
従二位行中納言平朝臣教盛
正二位行権大納言兼陸奥出羽按察使平朝臣頼盛
前内大臣従一位平朝臣宗盛
近江国佐々木庄領家預所得分等、且為朝家安穏且為資故入道菩提、併所回向千僧供料候也、件庄早為寺家御沙汰可令知行給候、恐々謹言、
七月廿九日 平宗盛
謹上 座主僧正御房

とぞ書たりける。
大衆を語ひし事は、延暦二年伝教大師当山に上り給ひて、鎮護国家の道場を開。
「一乗円宗の教法を弘め給しより此方、仏法盛にして
王法を守奉る事年久し。然るを此二三年が間東国北国の凶徒等、多くの道々を塞ぎ、国税官物を不奉、庄には年貢所当をよくりうし、朝家を敵として綸言に随はず、剰へ都へ攻上らんとす。防戦に力既に尽ぬ。仍神明の御資にあらざらんよりは、争か悪党を退けん。山王大師憐みを垂給へ、三千の衆徒力を合せよ」と也。是を聞人々親しきも疎きも、心あるも心なきも涙を流し、袖を絞ぬはなかりけり。
されども年頃日頃のふるまひ神慮にも叶はず、人望も背き果しかば、及ばず、既に源氏同心の返牒を送る。
かるがるしく今又其儀を変るに能はず、誠にさこそはとて大衆事のよしを憐みけれども、許容する衆徒もなかりけり。かかりければ人口のにくさはあは面白き事を、源氏は勢も多く手もきき心もたけかんなれば、一定源氏勝て平家負なんずとて、己が上に徳つき官なりたる様に、面々にささやき悦びけるぞ浅ましき。


[モクジ]

巻十四【肥後守貞能西国鎮めて京上る事】  

十八日、肥後守貞能鎮西より上洛。西国の輩謀叛の由聞えければ、其儀鎮めん為に、去去年下りたりけるに、菊池次郎城郭を搆へてたて籠る間、輙くせめ落し難く有りけるに、貞能九州の軍兵を催してこれをせむる。軍兵多く打落されてせめ戦に力なし、ただ城を打囲て守る。日数積りにければ、城の内に兵粮米つきて菊池終に降人になりにけり。貞能九国に兵粮米あて催す。
庁官一人宰府使二人貞能使一人其従類八十余人、権門勢家の庄園をいはず責催す。菊池原田が党類帰伏す。
彼等を相具して今日入洛す。未尅ばかりに八条を東へ河原を北へ、六波羅の宿所へ着にけり。其勢僅に九百余騎千騎に足らざりけり。前内大臣宗盛車を七条に立てて見給へり。鎧着たる者二百余騎、其中に前薩摩守親頼うす青のすずし、魚綾(ぎよれうの直垂に赤威の鎧着て、白蘆毛なる馬に乗て、
貞能が屋形口にうちたりけり。預刑部卿憲方孫相模守頼憲が子也、勧修寺の嫡々なり。指武勇の家に非ず、こはいかなる事ぞやと見る人ごとにそしりあへり。今日の武士には目もかけず、ただ此人をぞ見ける。西国は僅に平ぎたれども、東国は弥勢付て、すでに都へ打上ると聞えしかば、平家次第に心よわくなりて、防ぎ支へる力もつきて都にあとを留め難ければ、内をも院をも引具し参らせて、一まどなりともたすかりやすると、西国の方へ落行給ふべきよしをぞ議せられける。

七月十三日、暁より何といふ事は聞分けねども、六波羅の辺大に騒ぐ。
京中も又静かならず、資財雑具東西に運び隠す、こはいかにしつる事ぞやとて、魂をけす事斜ならず。大方は帝都は名利の地鶏鳴安思なしといへり。治れる世だにも此の如し、況んや乱れたる時は理也。吉野の奥までもいらまほしく思へども、諸国七道一天四海の乱なれば、深山遠国もいづくの浦かおだしかるべき。三界無安、猶如火宅、衆苦充満、甚可怖畏と説き給ふ。如来の金言一乗の妙文なり。なじかは違ふべきや、如何して此度生死をはなれて、極楽浄土へ往生すべきとぞ歎きあへりける。
此暁俄にさわげる事は、美濃源氏佐渡右衛門尉重実といふ者あり。一年筑紫八郎為朝が、近江国北山寺に隠れて有りけるを搦めて出しけるに依て、右衛門尉になり。源氏にはなたれて平家にへつらひけるが、乗替一騎ばかり相具して、瀬多を廻りて夜半ばかりに六波羅に馳上て、北国の源氏既に近江の国へ打入て、道々をうちふさぎ、人を通さざるよしを申たりければ、六波羅京中騒ぎあへり、

かかりければ新三位中将資盛卿大将軍として、貞能以下宇治橋をめぐりて近江国へ下向す。
其夜は宇治にとどまる。其勢二千余騎、又新中納言知盛卿、本三位中将重衡大将軍として瀬多より近江国へ下向す。それも今夜は山科に宿す。
其勢三千余騎、去程に源氏の大衆と同心してしかば、宇治勢多をば廻らずして、山田、矢馳、堅多、多木の浜、三津、河尻所々の渡より、小舟をまうけて湖の東浦より西浦へ押渡して、十日は林六郎光明を大将軍として、五百余騎天台山へ競ひあがる。惣持院を城郭とす。三塔の大衆同心して、ただ今大嶽を下て平家を討とすとののしる。凡東坂本には、源氏の後陣じうまんせり。此上は、新三位中将も宇治より京へせめ入、本三位中将も山科より都へせめ入ぬ。又、十郎蔵人以下摂津国河内のあぶれ源氏ども、河尻、渡辺を打ふさぐとののしる。
足利判官代義清も丹波に打越えて、大江山生野の道をうちふさぐと聞ゆ、かかりければ平家の人々色を失ひて、さわぎあひけり。

【維盛北方事】
権亮三位中将維盛北方にのたまひけるは、「我身は人々に相具して都を出べきにて候ぞ、いかならん野のすゑ山のすゑまでも、相具し奉るべきにてこそ候へども、おさなき者ども候へば、いづくに落付べきともなき旅のそらに出て、波にただよはんこと心うし、行先にも源氏道をきりてうち落さんとすれば、おだしからんことも有がたし。世になきものと聞なし給ふとも、あなかしこあなかしこ、さまなどやつし給ふべからず、いかならん人にも見え給ひて、幼きものどもをはごくみ、我が身もたすかり給へ。あはれいとをしといふ人もなどかなかるべき」とのたまへば、北の方是を聞給て、袖を顔におしあてて、とかくの返事もし給はず、引かづきてふし給ぬ。やや久しくありて起上りてのたまひけるは、「日頃は志浅からぬやうにもてなし給ひければ、人しれずこそ深く頼み奉りしに、いつの間にかはりける御心ぞと恨めしけれ、いかならん所へも伴ひ奉りて、同野の露ともきえ、同底のみくづともなりなん事こそ本意なれ、父もなし母もなし、あはれをかくべき親しき方もなし、人を頼み奉るより外は又頼む方なし、先世の契りあれば、御身濁りこそあはれと思ひ給ふとも、人ごとに情をかくべきに非ず、いかならん人にも見えよなど承る事の恨めしさよ、別奉らん後は又誰にかはみえ候べき、幼き者共も打捨られ奉らせては、いかにして明し暮し候べき、誰かはごくみ誰か憐むべしとて、か様に留め置き給ふやらん」とて、涙もかきあへずなき給へば、
三位中将又のたまひけるは、誠に人は十四維盛は十六の年より見そめ奉りて、今年は十年になりぬとこそ覚ゆれ。
火の中水の中にもいらばともに入、沈まばともに沈み、限ある道にも後れ先立ち奉らじとこそ思ひつれども、かく心うき有様にて合戦の道に思ひ立ちては、ながらへん事も不定なり。行衛も知らぬ旅の空にてうきめを見せ奉らん事も、心苦しなど思ふ故にてこそあるに、かやうに怨給ふこそ立別れ奉る悲しさにまさりて、心苦しく覚ゆれとてなき給ふ、若君姫君のさうにましますも、女房どもの前に並居たるも、是を聞て声ををしまずなき合ひけり。げにことわりと覚えて哀也、此北の方と申は、中御門新大納言成親卿の御娘也、容顔世に越えて心優におはしますことも、尋常にはあり難し、かかりければ、なべての人にみえん事いたはしく覚されて、女御后にもと父母思ひ給けり、かく聞えければ、人々哀と思はぬはなかりけり。


法皇此よし聞召て、御色に染める御心にて忍びて御書ありけれ共、是もよしなしとて御返事申させ給はず、

雲井より吹来る風のはげしくて涙の露のおちまさるかな

と口ずさみ給ひけるこそやさしけれ。父成親卿法皇の御書ありけるよし聞給て、あわて悦び給けれども、姫君あへて聞入給はねば、親のため不孝の人にてましましける也。父子の儀おもひけるこそ悔しけれ、けふより後は父子のちぎりはなれ奉りぬ。御方へ人行通ふべからずとのたまひければ、上下恐れ奉りて通ふ人もなし。めのとごの兵衛佐と申ける女房一人ぞわづかに許されてかよひける。是に付きても姫君は世のうき事を御もとゆひにてすさみ給ける。

結びつる歎きもふかき元結にちぎる心はほどけもやせし

と書きて引むすびてすてたまひけり。

兵衛佐是を見て「後にこそ思ふ人ありともしりにけれ。色に出ぬる心の中をいかでか知るべきと、さまざま諌め申けるは、
女の御身とならせ給ては、かやうの御幸をこそ神にも祈り、仏にも申させ給て、あらまほしき御事にて候へ」と申ければ、姫君涙を押へて、我身には人しれず思ふ事あり、いく程ならぬ夢幻の世の中に、つきせぬ思ひの罪ふかければ、何事もよしなきぞよとて引かづきてふし給ふ。
兵衛佐申けるは、幼きより立去る方もなくなれ宮仕ひ奉るに、かく御心置せ給ひけるこそ心うけれと、さまざまに終夜恨み奉ければ、
姫君まげてありし殿上人の宴醉に見初めたりし人の、ひたすら愛顕ていひし事を聞かざりしかば、此世ならぬ心の中をしらせたりしかば、いかばかりかくと聞かば、歎かんずらんと思ひてぞよとのたまへば、小松殿の公達権亮少将殿こそ申させ給ふと聞しが、さては其御事にやと兵衛佐思ひて、小松殿へ忍で参りてしかじかの御事など申ければ、少将さることありとて、忍びやかに急ぎ御車を遺はして迎へ奉りけり。
年ごろにもなり給にければ、若君姫君まうけ給へる御中なり。若君は十歳姫君は八にぞ成給ける、我をば貞能が五代とつけたりしかばとて、是をば六代といはんとて、若君をば六代御前とぞ申ける。姫君をば夜叉御前とぞ聞えし。

【主上、六波羅に行幸】
廿四日亥の刻計りに主上忍びて六波羅に行幸あり。
例よりも人少にて、こといそがはしく人々あわて騒たり。
ある北面下臈法住寺殿へ馳参て、潜に法皇に申けるは、「小山田別当有重とて相親しく候が、此二三年平家に番勤め候けるが、唯今語申候つる平家の殿原は、暁西国へ落らるべく候とて、
以外にひしめき候なるが、具し参らせんとて既に公家を迎へ参らせて候也、君をば程近う渡らせ給へば、安しきと渡し参らせよ」とて、人々少々参候よし申ければ、法皇は御心よげなる御気色にて嬉しう告げ申たり。此事又人に語るべからず、御はからひあるべしと仰の有けるを、承りもはてず、いそぎ御所をばまかり出にけり。
其後に夜ふくるほどに、内大臣は薄塗の烏帽子に、白帷子に大口ばかりにて、ひそかに建礼門院御方に参りて申給ひけるは、
此世の中さりともとこそ思ひつれども、今はかなふまじきにこそ候ぬれ。都の中にて最後の合戦して兎も角もならんと申さるる人も候へども、それも然るべしとも覚え候はず。主上の御行衛君の御有様、いといたはしく忝く思ひ参らせ候へば、かなはざらんまでも、西国の方へおもむきて見候ばやとおもひ候、主上皇宮をも具し奉り参らせ候はんずれば、鎮西の輩よもそむき候はじ、源氏はいみじく都へ入て候とも、誰をか頼み候べき、唯天を仰で主なき犬のやうにてこそ候はんずれ。其の時にならば与力のやつばらも、一定心がはりして思ひ思ひになり候はんず。其後は主上都へ帰し入参らせ候べきよし存候と申されければ、女院は御涙にむせばせましまして、兎も角もただよき様にとぞ仰ありける。
内府又申されけるは、主上の御事はさる事にて、儲君の二宮をも具し参らせ候へ、やがて法皇をもぐし参らせ候べし。院、内をだにも方人にとり参らせ候なば、いづくへまかりたりとも、世の中はせばかるまじ、源氏の奴原いかに狂ひ候とも、
誰を方人にしてか世をも取候べきなど申て、其夜は女院の御前に、終夜越方行末の事共細々と申承に付ても、御袖もいたく萎れにけり。女院は御衣の袂に余る御涙、いとどところせきてぞ見えさせ給ける。秋の長夜の明方ちかくぞなりにける。

【法皇忍て鞍馬御幸事】
さても同夜半計に法皇密に殿上に出御ありて、今夜の番は誰そと御尋あり、左馬頭資時と申されたりければ、北面に伺公したらん者、皆召して参れと御定あり。
壱岐判官知康、薩摩判官信盛、源内左衛門尉定安候けるを、資時召して参られたりけるを、「やおのれらは是にあれ、
ただ今きと忍びてあるかばやと思ふぞ、かやうの事を下臈に聞かせければ、披露する事もあり、各々心を一にして此女房ごし仕れ」と法皇仰せありければ、「御前立さらば後あしき事もこそあれ」とて、各々畏て頓て御輿をつかまつる。
下簾かけられたり。西の小門と仰ありて出させまします、浄衣着たる男一人参りあふ、
あれは誰ぞと申ければ、為末と名乗る。
法皇聞召ししらせ給て、御供仕れと仰ありければ、参りけり。年来伊勢氏人為末とて北面に候ける者也、七条京極を北へいそげと仰せ有りければ、各々あせ水になりて仕る、
為末近き御幸かとおもひたれば、遠き御幸にてありけるよとて、知りたる人を尋ぬるに二所まで空し、二条京極にて、征矢に黒ぬりの弓をかりえて、浄衣のそばたかくはさみてはしる、これを待ちつけんとや思召けん、いそがずともくるしきにと仰有り。一条京極にて弓のつるつけするおと聞ゆ、其こゑいかめしく聞ゆ。
院は糺の明神をふし拝ませ給て、東のしらむほどになりにければ、
法皇御後を御覧ずれば、為末矢おひながら脇ごしに参るぞ、頼もしき武者かなと仰ありて笑はせ給けり。かくて夜もほのぼのと明ければ鞍馬寺へぞ入せ給ける。


【平家都落事】

廿五日橘内左衛門尉季康と申ける平家の侍は、院にも近く召仕はれければ、折しもその夜法住寺殿にうへぶしたりけるが、常の御所のかたさわがしくささめき合ひて、しのび声にて女房たちなかるる声のしければ、怪しと思ひて聞ければ、御所の渡らせ給はぬは、いづちへやらんとて騒ぎあへり。
季康浅ましと思ひて、急ぎ六波羅へはせ参りたり。
内府はいまだ女院の御所より出給はぬほど也。やがて女院の御所へ参りて、内大臣殿呼び出し奉りて此由を申。
内府大に慌て騒ぎて、ふるひ声にて「よもさる事あらじ、僻事にてぞ有るらん」と宣ひながら、急ぎ法性寺殿へ馳参り給ひて、
尋ね参らせられければ、夜番近く候はれける人々皆候はれけり。
まして女房丹後の局を始めとして、一人もはたらき給はず。
大臣殿、君は何処に渡らせ給ふぞと申されけれども、我こそ知り参らせたれといふ人もなし、ただ各々なきあへり、
浅ましなど云ばかりなし。
去程に夜も明ぬ。
法皇渡らせ給はずと披露ありければ、上下諸人はせ集りて、御所中まどひさわぐ事斜ならず。まして平家の人々、唯今家々にかたきのうち入たらんも限りあれば、これには過じとぞ見えし。軍兵落中に充満してありければ、
平家の一門ならぬ人も、さわぎ迷はぬは一人もなかりけり。
日比は法皇の御幸をもなし奉らんと、支度せられたりけれども、
かく渡らせ給はねば、内府は頼む木下に雨のたまらぬ心地して、さりとては行幸ばかりなりともなしまいらすべしとて、御輿さしよせたり。忝き鳳輦を西海の浪にいそぐべきにはあらねども、主上いまだいとけなき御よはひなれば、何心なく奉りぬ。
神璽宝剱とり具し、
建礼門院も同じ輿に奉る。内侍所も渡し奉りぬ。印鑑、時簡、玄上、鈴鹿に至る迄、とり具すべしと平大納言時忠下知し給ひけり。れどもあまりにあわてにければ、とりおとす物多かりけり。昼御座の御剱も残しとどめてけり、
御輿いださせ給ひければ、
前後に候人は、平大納言時忠、内蔵頭信基ばかりぞ、衣冠正しうして供奉したりける。其外の人人は、公卿も近衛司も、御綱佐も皆鎧を着給へり。女房は二位殿をはじめ奉りて、女房輿十二ちやう、馬の上の女房は数をしらず。
七条を西へ朱雀を南へ行幸なる。夢などの様なりし事どもなり。一年都うつりとてあはただしかりし御幸は、かかるべかりししるしにてありけるよと、今こそ思ひ合すれ。
かかるさわぎの中に何者かたてたりけん。六波羅の惣門に札に書てたてけるは、

あづまよりともの大風吹来れば西へかたぶく日にやあるらん


六波羅の旧館西八条の蓬屋よりはじめて、池殿、小松殿以下の人々の宿所三十余所、一度に火をかけたれば、余炎数十町に及びて、日の光も見えざりけり。
或階下誕生の霊跡、龍楼幼稚春宮、博陸補佐の居所、或相府丞相旧室、三台槐門の故亭、九棘怨鸞の栖也、門前繁昌堂上栄花砌、如夢如幻、強呉滅長有荊蕀、姑蘇台之露〓々、暴秦衰長無虎狼、咸陽宮之煙片々たりけん、漢家三十六宮の楚項羽の為に亡されけんも、是には過じとぞ見えし。
無常春花随風散、有涯暮月伴雲隠、誰栄花如春花不驚、
可憶命葉与朝露共易零、蜉蝣戯風懇逝之楽幾許、螻蛄諍露合散之声伝韻、崑閣十二楼上仙之楼終空、雉蝶一万里中洛之城不固、多年経営一時魔滅、法皇仙洞を出させおはしまして見えさせ給はず、主上は鳳闕を去て、西国へとて行幸なりぬ。

関白殿は吉野山の奥に籠らせ給ぬと聞ゆ。
院宮みやばらは、嵯峨、大原、八幡、賀茂などの片辺にかくれさせ給ひぬ。
平家は落ちたれども、源氏もいまだ入かはらず。此都すでに主もなし。人もなきやうにぞなりにける。天地開闢より以来、いまだかかる事あるべしとは誰かしらまし。
彼聖徳太子の未来記にも、今日の事こそゆかしけれ。平相国禅門をば八条太政大臣と申き、八条より北、坊城より西方に一町の亭有し故也。彼家は入道の失せられし暁にやけにき、大小棟の数五十余に及べり。六波羅とてののしりし所は、故刑部卿忠盛の世にいでし吉所也。南は六はらが末、賀茂河一町を隔てて、もとは方一町なりしを此相国の時造作あり。これも家数百七十余宇に及べり。
是のみならず、北の鞍馬路よりはじめて、東の大道をへだてて、辰巳の角小松殿まで廿余町に及ぶ迄、造作したりし一族親類の殿原の室、
郎等眷属の住所細かにこれをかぞふれば、五千二百余宇の家々一どに煙と上りし事、おびただしなどいふばかりなし。

法住寺の院内ばかりはしばしやけざりければ、仏の御力にて残るかと思ひしほどに、筑後守家貞が奉行にて、故刑部卿忠盛、入道相国、
小松内府の墓所どもを掘りあつめて、かの御堂の正面の間に並べ置きて、仏と共にやきあげて、骨をば首にかけ、あたりの土をばならし、家貞主従落ちにけり。
此寺は入道相国、父の孝養のために多年の間造磨て、代々本尊木像と云、画像と云、
烏瑟を並べ金客を交てましまししが、荘厳美麗にして時にとりてならびなし。今朝まで住侶貝を吹、禅侶声をならし、たうとかりし有様の、須臾の間に永く絶にけり。されば仏のとき置きたまへる畢竟空の理は是ぞかし。あはれ也、諸行無常眼前なり。

権亮三位中将の方に人参りて申けるは、源氏既に打入て候、暁より法皇も渡らせ給はずとて、六波羅にはあわて騒ぎ、
西国へ行幸ならせたまひ候、大臣殿以下の殿原、我も我もとうち立ち給ふに、いかに今までかくて渡らせ給ふぞと申ければ、三位中将は、日頃おもひ儲たりつる事なれども、さしあたりては、あな心うやとおもひ給ひて出給ひぬ。つかの間もはなれがたき人人を、頼もしき人一人もなきに、捨てて出なんずる事こそ悲しけれと思召すに、涙先立ちてせきあへ給はず、北の方おくれじと出立給へども、兼て申しやうに具し奉りては人のためいとをしきぞ、ただ留り給へとのたまへば、いかにかくはのたまふぞとて、涙もせきあへずさけび給へば、さまざまに拵へ給へども更に叶ふべくもなし、程もふれば、大臣殿さらぬだに、維盛をば二ある者とのたまふなるに、今まで打出ねば、いとどさこそ思ひ給ふらめとて、なくなく出給へば、北の方袖をひかへてのたまひけるは、父もなし母もなし、都に残し留めては、いかにせよとてふりすてて出給ふぞ、野の末、山のすゑまでも、引具してこそともかくも見なし給はめとて、人目をつつまずなきこがれ給ふぞ心ぐるしき、さりとてはいづくにも落留まらん所より、急ぎ迎へとり参らせんとなぐさめ給ふほどに、新三位中将、左中将以下の弟たち四五人はせ来りたまひて、我等は此御方をこそ守り参らせ候に、行幸は遙かに延びさせ給ふに、いかなる御遅参ぞやとのたまへば、弓の筈にてみすをかきあげて、これ御覧ぜよとのばら、ただ軍の先をこそかけめ、是をばいかがやるべきとて、弟なんどにもはばからず涙をぞながされける。
さても有るべきにあらねば、
思ひきりて出給けり。中門廊にて鎧取てきて馬引寄せて、既に打出んとし給ひければ、六代御前姫君中門に走り出。鎧の左右の袖に取つきて、父御前はいづくへわたらせ給ふぞや、我等も参らんとて慕ひ給ひしこそ、げにうき世のほだしとは見えけれ、誠に目もあてられずぞ有ける。
斎藤五宗貞、斎藤六宗光とて、年来身近く召仕ひ給ふ侍あり、兄弟也。中将此二人を召してのたまひけるは、己等をば年頃かげの如く、身をはなさず召仕つれば、召ぐしていかにもなりたらん所にて、
恥をも隠させんとこそ思ひつれども、いとけなき者ども留置くが覚束なければ、己等二人は留りておさなき者どもの杖柱ともなり。もし安穏にて帰る事あらば、汝等西国へ下らん志にはおもひ落すまじきぞ、己等ならでは此等がために心ぐるしかるべきぞと、こしらへ給へば、二人の者どもくつばみの左右にとりつきて申けるは、君に仕へまゐらせしより、もしもの事あらば、いのちをすて候はんと思ひきりて候き、こんどすてられまいらせば、ほうばいに再おもてをあはせ候なんや、理をまげて御供に候べしと申ければ、多くの者共の中に思ふ仔細ありてこそ留めおけ、など口をしくかくは申やらん、かかるをりふしなれば、ただとてもかくても思ふにやとうらみたまへば、心うく悲しくは思ひけれども、涙を押へながら留りぬ、遙に見送り奉りて、なほも走りつきてしたひけれども、まこと思召すやうのありてこそ留め給ふらめ、しきりにこしらへ給へる事を、そむき申さん事もかへりて不忠なるべければ、追こそまいらめと思ひて、なくなく留りにけり。
中将はかく心づよくふりすて出給ひけれども、なほさきへは進み給はず。
うしろへのみ引返すやうに覚えて、涙にくれて行先も見え給はず。鎧の袖もいたくしほれにければ、弟たちの見給ふもさすがつつましくぞ
思召す。
北の方は年頃ありつれども、これ程なさけなき人とはしらざりけり、
いつよりかはりける心ぞやとて、引かづきてふし給へば、若君姫君も前にふしまろびてなき給ふ、かく捨られ給ひぬれば、いかにして片時もあかし暮すべしともおぼしめさず、世の恐しさも堪へ忍ぶべき心地もし給はず、身一人ならばせめてはとにもかくにもありなん、幼き人々の事を思ひ給ふぞ、いとど道せばくかなしかりける。

池大納言頼盛は、池殿に火
かけて子息保盛、為盛、仲盛、光盛等引具して打出らる。侍ども皆おち散りて、わづかに其勢百騎、鳥羽の南の赤井河原に暫くやすらひており居られ、大納言四方を見廻してのたまひけるは、行幸にはおくれぬ、かたきは後にあり、中空なる心地のするはいかにとの原、此度などやらんにげ憂きぞとよ、ただ是より帰らんと思ふなり、都にては弓矢とりの浦やましくもなきぞ、されば故入道にも従ひてしたがはざりき、さうなく池殿を焼つるこそ返々もくやしけれ、いざさらば京の方へ鎧をば各々用意のために着るべし、人は世にあればとて、奢るまじかりけることかな、入道のすゑは今はかうにこそあんめれ、いかにもはかばかしかるまじ、都を迷ひ出ていづくをはかりともなく、女房をさへ引具して旅立ぬる事の心うさよ、侍ども皆赤印取すてよとのたまひければ、とかくする程に、未の時ばかりになりにけり。
京へ今は源氏打入ぬらん、いづちへか入らせ給ふべきとさぶらひども申ければ、何様にも京を離れてはいづちへか行べき、
とくとくとて大納言前に打て馬を早めて帰給ふ。みるもの怪しくぞ思ひける。
九条より朱雀を上りに、八条女院御所、仁和寺の常葉殿へ参り給ふ。大納言は女院の御めのと子、宰相殿と申女房に相ぐせられたりければ、此御所へ参らるる。
女院より始め参らせて女房たち侍ども、いかに夢かやと仰あり。
大納言は鎧ぬぎ置給ひて、
直垂計りにて御前近く申されけるは、世の中の有さまただ夢のごとくにて候、池殿に火をかけて心ならず打出て候つれども、つらつらあんじ候へば、都に留りて君の見参にも入、出家入道をも仕りて、静に候て後生をも助からんと存候て、かく参りて候と申されければ、女院、三位殿を御使にて、誠にそれもさる事なれども、源氏既に京へ入て平家を亡すべしと聞ゆ、さらんにとりては、此内にてはかなふまじ、世の世にてあらばや、仰も仰にてあらめと仰ありければ、頼盛畏て申されけるは、誠に左様の事になり候はば、いそぎ御所をもまかり出候なん、なじかは御大事に及候べきと申されければ、女院又いかにもよくよく相はからはるべし、但源氏とののしるは、伊豆の兵衛佐ぞかし、それはのぼりぬるやらん、のぼりたらばさりともよも別事あらじ、かしこくこそ故入道と一心におはせざりけれ、今は人もよし、平家の名残とて世におはしなんずと仰の有ければ、頼盛世にあらんと申候はんでう今何事か候べき、ただ今落人にてここかしこさまよひ候はんことのかなしさにこそ、かやうに参りて候へ、故母池尼上が事申出して、其かたみと頼朝は思はんずるぞ、世にあらんと思ふもその為也と、頼朝が度ごとに申遣はして候し也、其文どもこれに持ちて候とて、中間男の首にかけさせたる皮袋よりとり出して見参に入られけり。
同じ筆なるもあり、
またかはりたるもあり。然れども判はいづれもかはらずと御覧あり其上討手づかひ上るにも、あなかしこあなかしこ、池殿の殿原に向ひて弓をも引くべからず、弥平佐衛門宗清に手かくなと、国々軍兵にも兵衛佐いましめられけるとかや。


越中次郎兵衛盛次、大臣殿御前に進み出て申けるは、池殿は留まらせ給ひ候にこそ、あはれ安からず口惜く候ものかな、上はさる御事に候とも、侍共が参り候はぬこそいこんに候へ、矢一射かけて参り候はんと申ければ、中々さなくともありなん、年比の重恩をわすれて、いづくにもおちつかん所を見送らずして、留まる程の者は、源氏とても心ゆるしせじ、さほどの奴ばらありとてもなににかはせん、とかくいふに及ばずとぞ大臣殿のたまひける、三位中将はいかにと問たまひければ、小松殿の公達もいまだ一所も見えさせ給はずと申ければ、さこそ有んずらめとて、よに心細げにおぼして、御涙の落ちけるを押のごひ給ふを、新中納言見給ひて、皆おもひまうけたる事也、今更驚くべきに非ず、都を出ていまだ一日だにも過ぬに、人々の心も皆かはりぬ、行先こそおし計らるれ、都にていかにもなるべかりつる物をとて、大臣殿の方を見やり給て、つらげにおほされたり、げにもと覚えて哀也、


去程に、権亮三位中将維盛、新三位中将資盛、左中将清経以下兄弟五六人引具して、淀東、六田河原を打過て、関戸院のほどにて行幸に追ひ付給へり。其勢僅に三百騎ばかりぞありける。
大臣殿は此人々を見つけ給ひて、すこし力付きたる心地して、
今まで見え給はざりつれば、覚束なかりつるに、うれしくもとのたまひければ、三位中将幼き者どものしたひ候つる程に、今までとて御涙の落けるを、さりげなき様に紛らかし給ける有様、まことに哀にぞみえける。
大臣殿又いかに具し奉り給はぬぞ、
留置き奉りては心ぐるしき事にこそとのたまへば、行末とてもたのみ候はずとて、問につらさといとど涙ぞ流しける。
池大納言の一類は、今や今やと待給けれども終に見え給はず、其外の公卿には、前内大臣宗盛、平大納言時忠、平中納言教盛、新中納言知盛、
修理大夫経盛、左衛門督清宗、本三位中将重衡、権亮三位中将維盛、越前三位通盛、新三位中将資盛、殿上人には、内蔵頭信基、皇后宮亮経正、左中将清経、薩摩守忠度、小松少将有盛、左馬頭行盛、能登守教経、武蔵守知章、備中守師盛、小松侍従忠房、若狭守経俊、淡路守清房、僧綱には、二位僧都全親、法勝寺執行能円、中納言律師忠快、侍には受領、検非違使、衛府、諸司亮、百六十余人、無官の者数を知らず、此二三ヶ年の間、東国北国度々の合戦に皆討れたるが、僅に残る処也。
其時近衛殿下と申は、普賢寺内大臣基通の御事也、太政入道の御聟にて平家に親み給たりける上、法皇西国へ御幸なるべきよし聞えければ、
摂政殿も御供奉あるべきよし御領状ありければ、内大臣殿より已に行幸なり候ぬと告げ申されたりければ、摂政殿御出ありけれども、法皇の御幸もなかりければ、御心中に思召し煩はせたまひけるに、御供に候ける進藤左衛門尉頼範が、法皇の御幸もならせ給候はず、平家の人々も多く落ち留らせ給ひ候ぬ、これより還御あるべくや候らんと申たりければ、平家の思はん所はいかがあるべきと御気色ありければ、頼範しらぬ顔にて頓て御車を仕る。
御牛飼に目を見合せたりければ、七条朱雀より御車をやり返す、一ずはえへあてければ、究竟の牛にてありければ、飛がごとくにて、
朱雀を上りに還御なりにけり。

平家の侍越中次郎兵衛盛次これを見奉て、殿下も落させ給ふにこそ口をしく候ものかな、
留め参らせ候はんと申ままに、片手矢はげて追ひかけけり、頼範返合せて戦けるを、大臣殿見給て、年頃の情を思ひ忘れて、落ん人をばいかでもありなん、一門の人々だにもあまたみえたまはず、せんなしとよと制し給ひければ、盛次引帰にけり、摂政殿へ都へは帰らせたまはで、西林寺といふ所に渡らせたまひて、それより知足院へぞ入せたまひける、是を知らずして、摂政殿は吉野の奥へとぞ申あひける、河尻に源氏廻りたりと聞えければ、肥後守貞能馳向たりけるが、僻事にてありければ、帰り上りけるに、此人々の落たまふに行合ひけり、貞能はこむらごの直垂に、黒かは威しの鎧着て、大臣殿の御前にて馬より下りて、弓脇にはさみて、爪弾をして申けるは、あな心うや、これはいづちへとて渡らせ給ふぞや、都にてこそとにもかくにもならせ給はめ、西国へ落させ給たらば、遁れさせ給べきか、又たひらかに落着かせたまふべしとも覚え候はず、落人とてここかしこにうち散らされて、かばねを道の辺りにさらしたまはん事こそ心うけれ、こはいかにしつることぞや、新中納言、本三位中将殿引返らせたまへ、興あるいくさ仕て、後代の物語にせさせ候はん、弓矢取る習ひ、かたきに討るる事全く恥にて非ず、何事も限り有る事なれば、平家の御運こそつきさせ給ひぬらめ、さればとてかなはぬもの故、かたきに後を見えんことうたてく候と申ければ、新中納言は大臣殿の方をにらまへて、誠に心うげに思ひたまへり。
大臣殿のたまひけるは、貞能はまだ知ぬか、源氏天台山に上りて谷々に充満したん也、此夜半ばかりより、院も渡らせ給はず、
各々が身一ならばいかがはせん、女院二位殿を始め奉て、女房あまたあり。忽にうきめをみせん事もむざんなれば、一まどもやと思ふぞかし、かつうは又、禅門名将の御墓所にまうでて、思ふほどのことをも申置きて、塵灰ともならばやと思ふ也とのたまへば、
貞能又申けるは、「弓矢取習ひ、妻子を憐む心だに候へば、おもひきらぬ事にて候、さこそ夥しく聞え候とも、
源氏忽によもせめ寄り候はじ、又法皇をばいかにして逃し参らせて、渡らせたまふにか、よひより参りこもらせ給ひて、御目をはなち参らせでこそすすめ申させたまふべく候けれ、季康などぞ告げ申て候らん、さりとも女房達の中に知り参らせぬ事はよも候はじ、足をはさみてこそ糾問せさせ給ひ候はめ、季康が妻と申候奴は、御内には候はざりけるか、しやつが中げんにてぞ候らん、憎さはにくし、貞能に於てはかばねを晒すべし」とて帰上る。
盛次、景清、同貞能につきて帰上る、其勢二千余騎ばかりぞ有ける。


!義仲これを聞て申けるは、貞能が最後の軍せんとて、かへり上りたるこそ哀なれ、弓矢取の習さこそあるべけれ、相構へて生捕にせよとぞ下知しける、酉の時まで待てども待てども大臣殿以下の人々帰り上り給はず、今朝家々は皆焼ぬ、何に着べしともなくて法住寺の辺に一夜宿す、貞能都へ帰り上りぬと聞えける上、盛次、景清大将軍として都に残り留る、平家ども討べしと聞えければ、池大納言は色を失ひて騒がれける、されども源氏もいまだ打入ず、平家には引わかれぬ、波にもいそにもつかぬ心地して、八条院にもしもの事候はば、助させ給へと申されけれども、それもかかる乱れの世なれば、いかがはせさせ給べき、院の御所には、さればこそいかにも事の出来ぬと、女房たちあわてさわぎて、終夜物をはこびなどしければ、北面の者どもいたく物さわがしくあわて給ふべからず。
たとへば平家の方より院の渡らせ給ふ所を尋ね申さんずるか、
山に渡らせ給ふよし聞えければ、其旨いひてんずとて各々いもねず。
其夜も明けぬれば、貞能御所へをし入て、
何といふ事もなく御厩に立られたりける御馬を、かいえりかいえり引出して、則御所をば出にけり。
盛次、景清が入洛の事は僻事にてぞ有ける。
貞能はたけく思へども力及ばずして、西をさし落にけり。心の中こそかなしけれ。日ごろ召置たりつる東国の者ども、宇都宮左衛門尉朝綱、畠山庄司重能、小山田別当有重在京してありけるが、
子息所従等皆兵衛佐に属しにければ、是等は召籠られて有しを、西国へぐし下て斬るべしとさた有りけるを、貞能是等が首ばかりを召されたらんによるまじ、妻子けんぞくもさこそ恋しく候らめ、ただとくとく御ゆるしあて、本国へ下さるべく候と、再三申ければ、誠にさもありなん、汝等が首を切たりとも、運命尽きなば世をとらん事かたし、汝等をゆるしたりとも宿運あらば、又立帰ることもなどかはなかるべき、とくとくいとまとらするぞ、若世にあらば忘るなよとてゆるされにけり。
是等も廿余年のよしみ名残なれば、さこそ思ひけめども、各々悦びの涙をおさへて罷りとどまりにけり。其中に宇都宮左衛門は、貞能が預りにて日来も事にふれて芳心有りけるとかや、源氏の世になりてのち、
貞能宇都宮を頼みて東国へ下りければ、昔のよしみ忘れず、申預り芳心しけるとかや。

平家の人々は淀の渡せの程まで、
船を尋ねて乗給ふ。御心の内こそかなしけれ、或はしきつの浪枕、八重の塩路に日を経つつ、船に棹さす人もあり。或遠きはげしきを忍びつつ、馬に乗人もあり。前途をいづくとも定めず、生涯を闘戦の日に期して、思々心々にぞ落られける。
権亮三位中将の外は、大臣殿を始めて宗徒の人々皆妻子を引具し給へども、侍共はさのみ引しろふに及ばねば、皆都に留置しかば、
各別れを惜みつつ、夜がれをだにも心苦しく思ひし者どもの、行も留るも互に袖をしぼりけり。ただかりそめのわかれをだに恨みしに、後会其期を知らず、別れけんこそ悲しけれ。相伝譜代の好も、年ごろ浅からざる重恩も、いかでか忘るべきなれば、悲しみの涙を押へつつ、大方催されては出けれども、進まれず、都をはなれがたし。留め置し妻子も忘れがたければ、いづれも行やらざりけり。
淀の大渡にてぞ男山ふし拝み、南無八幡三所今一たび都へ返し入させ
給へとぞ各々祈念し給ひける。されども神慮もいかがありけんはかりがたし、誠に古郷をば一片の煙りに隔てて、前途万里の波を分け、いづくに落付べしともなく、あこがれ落給ひけん心の内、おしはかられて哀なり。

其中にやさしく哀なりしことは、薩摩守忠度は当世随分の好士なり。
其頃皇太后宮大夫俊成卿、勅を奉て千載集を撰れけり。忠度乗かへ四五騎がほど相具して四づかの辺より帰て、彼俊成卿の五条京極の宿所の前にひかへて、門をたたかせければ、
内よりいかなる人ぞと問へば、薩摩守忠度と名乗りければ、落人にこそと聞きて、世のつつましさに、返事もせられず、門も明ざりければ、其時忠度別の事にては候はず、此程百首をつらねて候を、見参に入ずして外土へ罷り出ん事の口惜さに、持て参りて候、何かくるしく候べき、立ながら見参に入候はばやといひたりければ、三位哀と思して、わななくわななく出合給へり。
世静り候なば、定て勅撰の功終候はんずらん、身こそかかる有さまにて候とも、なからんあと迄も、此道に名をかけん事、
生前の面目たるべし、集撰ばれ候中に、此巻物の中にさるべき句も候はば、思召立て一首入られ候なんや、かつうは又念仏をも御弔ひ候べしとて、箙の中より百首の巻物を取出して、門より内へ投入て、忠度今は西海の浪に沈む共、此世に思ひ置く事候はず、さらば入せ給へとて、涙をおさへて帰りにけり。
俊成卿涙をおさへて内へ帰り入て、燈のもとにて此巻物を見られければ、歌どもの中に古さとの花といふことを、

さざ波やしがの都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな

忍恋
いかにせんみかきが原につむ芹のねのみなけども知る人のなき

其後いく程なくて世静りにければ、かの集撰ばれけるに、忠度此道にすきて道より帰りたりし志浅からず。但勅勘の人の名を入る事、はばかりある事なればとて、此二首をよみ人知らずとぞ入られたりける。延喜天暦は年号を名によばれ、花山一条皇居を御名に付給ふ。その身朝敵とはいひながら、口惜かりしこと也。
左馬頭行盛も、幼少より此道を好て、京極中納言入道定家卿、其比少将にてましましけり。彼行盛常にましましてむつび給ひき、
此道をのみたしなみ給き、さるほどに一門都を落し時、日頃の名残を惜みて、何となくよみたる歌ども書集て、後の思ひ出にもとやおぼされけん、文こまかに書て袖書にかくぞ書たりける。

ながれ名のなだにもとまれ水ぐきのあはれはかなき身はきえぬとも

定家少将、此歌を見たまひて、感涙をながして、若撰集あらば必ずいれんとぞ思はれける。俊成卿忠度の歌をよみ人知らずとて、千載集に入られたりし事を心うき事におぼして、後堀河院の御時、新勅撰を撰ばるるとき、三代名を顕すことこそ恐れなりつれ、今は三代過給ひたれば、何かくるしかるべきとて、左馬頭行盛と名を顕はして、此歌を入られたりしこそ優しく哀れに覚えしか。


皇后宮亮経正は、幼少より仁和寺守覚法親王の御所に候はれしが、昔のよしみ忘れがたく思されければ、これも引返して侍二人打具して、五宮御所へ参りて、人して申入ければ、一門運尽ぬるに依て、けふ既に帝都を罷出候上は、身を西海の浪に沈め、かばねを山野の辺に曝し候はん事疑ひ候まじ、但此世に心留り候事は、君を今一度見参らせ候はで、万里の波にただよひ候はんことこそ、かなしみの中の悲みにて候へと申入たりければ、宮は世おほきに憚り思召しけれども、またも御覧ぜぬこともこそあれとて、則御前へ召されけり。
経正は練貫に鶴を縫ひたる鎧直垂に、萌黄糸をどしの鎧をぞ着たりける、二人の侍教朝重時も冑きたり。
経正なくなく申されけるは、十一歳と申候ひし時より、此御所に初参仕て、朝夕御前をたちはなれ参らせ候はず、叙爵仕て後も、禁裏仙洞の出仕のはばかりには、いかにもして此御所に参らんとのみ存候しかば、一日に二度参る日は候へ共、参らぬ日は候はざりしに、都をまかり出候て鎮西の旅泊にただよひ、八重のしほ路を漕へだて候なん後は、帰京其期を知らず候、されば今一度君を見参らせんと存候て、きげんをかへりみ候はず、推参仕て候と申て、藤九郎有盛にもたせたりける御琵琶を取寄て、あづけ下されて候青山をば、いかならん世までも、身をはなち候まじと存候つれども、名宝を西海の底に沈め候はん事、心うく候て持ちて参りて候也とて、錦の袋に入れながら御前に差おかる。
是を御覧じて御涙にむせばせましまして、御返事に及ばず御衣の袖もしぼる計也。
此青山と申御琵琶は、村上天皇の御時、秋の夜月くまなく風の音身にしみて、何となく物哀なるに、此御琵琶をかきならし、帝万秋楽の秘曲を弾ぜさせたまひしに、更闌夜閑かになるままに、御ばち音いつよりもすみのぼりて、身にしみて聞えけるに、五六帖の秘曲に至りて、天人あま下りて、廻雪の袖をひるがへして、則雲をわけてのぼりにけり。其後かの御琵琶を、凡人ひくことなかりけり。代々の帝の御財にて有けるを、次第に伝はりて、この宮の御方に参りて、御宝物の其一にてありけるを、此経正十七歳にて初冠して、宇佐の宮勅使に下されし時、申下して宇佐の拝殿にて、わうしきてうにて海青楽を弾きたりしに、神明御納受ありて、天童の形をして、社壇にてまひ給ふ。
経正此奇異の瑞を拝して、神明御納受ありけりとて、楽をば引やみて、三曲の其一流泉の曲を暫くしらべられければ、宮人心ありければ、各々袂をうるほしけり。村上御宇より此かた、凡人此びはをひく事経正一人ぞありける。
かかる宝物なりければ、経正身にかへて惜くはおぼされけれども、是を御覧ぜんたびごとに、思召出つまとなれかしなど
おぼされければ、御びはを参らせあぐるとて、

呉竹のもとの筧はかはらねど猶すみあかぬ宮の中かな

宮御涙を押へさせ給ひて、

あかずしてわかるる袖に涙をば君がかたみにつつみてぞおく

御前に浅からずちぎりし人々あまた有ける中に、侍従律師行経といひける人、ことに深く思ひ入られたり。

皆ちりぬ老木もこきも山ざくらおくれさきだつ花も残らじ

経正なくなく、

旅衣よなよな袖をかたしきて思へば遠く我はゆきなん

との給ひて、今は心にかかる事候はねば、いかになる身の果までも、おもひ置事露候はずとて、御前を立れければ、朝夕見たまひし人々、鎧の袖に取付きて衣の袖をしぼられけり。誠に夜を重ね日を重ぬとも御名残は尽候まじ、行幸は遙にのびさせたまひ候ぬらん、さらばいとま申てとて、甲の緒をしめて、馬に打乗、宮の御前へ参る時は、世をも御憚ありとてつつみつれども、まかりいでける時は、赤旗一ながれささせて、南をさしてあゆませけり。
かく心づよくは出たれども、住なれし古京を、ただ今を限りにて、打出られければ、鎧の袖もしぼるばかりにて、
行幸に追付参らせんと、ふちを上げられける心の内こそ哀なれ、さて行幸に追付参らせて、何となく心のすみければ、かくぞ思ひつづけける。

御幸するすゑも都と思へども猶なぐさまぬ浪のうへかな


平家は福原の旧里に着きて、一夜をぞ明されける。
各々禅門の御墓所に参りて、過去聖霊、出離生死、往生極楽、頓証菩提と祈念して、存生の人の前に物をいふ様に、つくづくとくどき給ふ。
岩木もいかで哀と思はざるべき、さても主上は島の御所へ入らせ給へば、月卿雲客みな故入道の墓所へ参られけり。女院二位殿も参らせ給ふ。
其間主上をば時忠卿いだき奉て、雪御所の馬道(めんだう)に立給ふ。
内大臣以下の一門の人々みなつれて、墓所を見給へば、五輪落散りて苔むせり。忍草生茂りて牛馬の蹄も行かふ道なく、円実法眼が書写供養したりし、法華経八軸の石御経も所々に〓壊したり。女院自ら是を拾ひ直させ給こそ哀なれ。
二位殿御袖を顔に押当て仰られけるは、たとへ業報限ありて他界し給ふとも、いつしかかかるべしや、さしも執ふかくましまししに、草の陰にも守りたまへ、女院も是に渡らせ給候ぞ、さしもいとをしくし給し小松内府の子共も、みな是にありなどかきくどき、涙もせきあへずのたまへば、答ふる者もなかりけり。
さらぬだに秋に成行旅の空、物うからずといふ事なし。
さこそ心細くおぼされけめ、其後主上は島の御所へ入せ給ふ。二位殿いだき参らせて南面にまします、内大臣宗盛、新中納言知盛、大床の左右より参り給て、知盛卿申されけるは、兵どもを見候へば、例ならず見え候、心がはりして候やらん、召して仰含めらるべきよし申されければ、肥後守貞能、飛騨守景家、越中前司盛俊以下侍共を召て二位殿仰られけるは、積善余慶家に尽て積悪の余殃身に及び、神明にも放たれ奉り、君に捨てられ奉り、帝都を迷ひ出て旅泊にただよへる上は、さこそ心細く頼み少くあるらめども、一樹のかげに宿るも前世のちぎり浅からず、一河の流を汲むも他生の縁猶深し、何ぞいはんや、汝等は一旦語ひをなす家人に非ず、累祖相伝の門客也、或は親近の好み異他もあり、或は重代の芳恩これふかきもあり、家門繁昌の昔は、恩潤によて私をかへり見き、楽み尽きて悲しみ来る、今は何の思慮をめぐらしてか救はざらんや、
其上十善帝王、三種の神器御身に随へてましませば、天照太神も立帰て、我君をこそ守りはぐくみ給ふらめ、つらつら此事を思ふに、宿運強き我也、速に合戦の忠を励まして、再び都へ返し入奉て、逆徒を討取て、徳は昔に超、名をば後代に留めんと、思ふ心を一にして、野の末、山のはてまでも、君の落付せましまさん所へ送り奉るべし、火の中へ入水の底に沈むとも、今は限りの御有さまを見はて奉るべし、とのたまへば、三百余人御前に並居たる者ども、老たるも若きも、涙を流し袖をしぼりて申けるは、心は恩のためにつかへ、命は義によて軽ければ、命をば相伝の君に奉候ぬ、あやしの鳥獣だにも、恩を報じ徳を報ふ志候とこそ承はれ、いかに申さんや、人としていかでか年来日来の重恩を忘れて、君をば捨参らせ候べき、廿余年の間官位と云ひ俸禄といひ、身に於て名にあげん事も、妻子をあはれみ、郎従をかへりみしことも、しかしながら君の御恩にあらずといふ事なし、就中弓矢の道に二心を存をもて、長く世の恥とす、たとへ日本国の外なる新羅、高麗、百済国、雲のはて海の果なりとも、おくれ奉るべからずと一同に申候れば、二位殿大臣殿も今更に頼もしく思召て、嬉しきに付きてもつらきに付きても、涙にむせばせ給ふ。
薩摩守忠度かくぞくちずさみ給ひける。

はかなしや主は雲井にわかるれどやどはけぶりとのぼりぬるかな

修理大夫経盛卿、

古さとを焼野の原にかへりみてすゑも煙りの波路をぞゆく

平大納言、

こぎ出て波とともにはただよへどよるべき浦のなき我身かな

同北の方、

磯なつむ海人よをしへよいづくをか都のかたを見るめとはいふ

誠にしばしと思ふ旅だにも、別行は悲しきぞかし。是は心ならず立はなれて、いづくをさすともなく、ただよはれけん。さこそ心細かりけめとおしはかられて哀なり。
中にも入道の立置き給ひし花見の春の岡の御所、初音を尋ぬる山田の御所、月見の秋の浦の御所、雪の朝の萱の御所、島の御所、馬場殿、泉殿、二階のさじき殿より始て、五条大納言の作り置れし里内裏、人々の家々にいたるまで、いつしか三年のほどにいたくあれ果てて、みすもすだれもなかりけり。
旧苔道をふさぎ、秋の草門をとぢ、かはらに松生ひ、垣につた茂りて分入袖も露けく、行かふ道も絶えにけり、ただ音づるる物とては松吹風の音計也。つきせずさし入ものとては、もりくる月のみぞ面がはりせざりけり。さらぬだに秋に成行、大方は物うきに、昨日は東海の東にくつばみを並べ、けふは纜を西国の西にとく、雲海沈々として、蒼天既に明けなんとす、孤島に霞立ちて、月海上に浮ぶ、長松の洞を出て駒の蹄を早むるは、嶺猿の声に耳を驚かし、極浦の浪を分て、潮に引れて行船は半天の雲にさか上る、夜深起きて見れば、秋の初の廿日余の月出て、弓張に深行空もしつ嵐の音すごくして、草葉にすがる白露も、あだの命によそならず、秋の初風立ちしより、やうやう夜寒に成行ば、旅寝の床の草枕、露も涙も争ひて、そぞろに物こそかなしけれ、二位殿大臣殿も一所にさしつどひて、さてもいづくに落付せ給ふべき。故入道かかりける事をかねてさとられけるにや、此所をしめて家を立て、船を作りおかれたりける事の哀さよなど、こし方行末の事どものたまひかよはして、互に涙を流し給ひけるほどに、夜もほのぼのと明にけり。
平家の跡と源氏に見すなとて、浦の御所より始て御所に火を掛て、主上女院をはじめ奉りて、二位殿北の政所以下人々皆船に召して、
万里の海上に浮びたまひければ、余炎片々として海上赫奕たり。都を立ちしほどこそなけれども、これも名残は惜かりけり。
海人のたくもの夕しほ(煙)、尾上の鹿の暁の声、渚々によする波の音、袖に宿かる月の影、目に見耳にふるる事、一として涙を催さずといふ事なし、平家は保元の春の花とさかえしかども、寿永の秋の紅葉とちりはてて、八条、峯里、六波羅の旧館より始めて、福原の里内裏に至る迄、暮風塵を揚げ煙雲焔をはく。龍頭鷁首を海上に浮べて、波の上の行幸安き時もなかりけり、いそ辺の躑躅の紅は、袖の露より咲くかと疑はれ、五月の旅寝の苔の雫は、
故郷の軒のしのぶにあやまたれ、月をひたす潮の深き愁に沈み、霜おほへる蘆の葉のもろきいのちを危ぶむ。すざきにさわぐ千鳥の声は、暁のそへはいにかかるかぢ浪は、夜半にこころを砕くかな、白鷺の遠き松に群居るを見ては、源氏のはたをなびかすかとうたがひ、夜雁の遼海になくを聞きては、兵の船をこぐかと驚き、青嵐に膚を破て、翠黛紅顔の粧ひ漸く衰へ、蒼波眼を穿て懐土望郷の涙おさへがたし。
卿相雲客の朝敵と成て、都を出そめしをきくに、昔藤原の仲麿といふ人有けり、贈太政大臣武智麿の子也、高野女帝の御時、帝の従父兄弟にて、内外執行して候給ひける程に、御寵臣と成て、天下の政を心のままに執行して、世をも世と思はず、驕て一族親類悉く朝恩に誇れり。
帝御覧ずれば心にゑまほしく思召さるとて、二文字を加へて恵美仲麿と名付、それをもあらためて後には押勝とぞつきにける。大保大師に至りしかば、恵美大臣とぞ申ける。日を経年を重ぬるに随ひて、威雄重くして、人の怖畏るることいまの平家のごとし。
めでたかりし程に、昔も今も世の恐しき事は、河内国弓削といふ所に、道鏡法師といふものあり、召されて禁中に候けるが、如意輪法を行けるしるしにやありけん、帝の御寵愛はなれがたくて、恵美大臣の権勢事の数ならずおしさげられてけり。
法師の身にて太政大臣になされ、御位を譲らんと思召して、大納言和気清麿を御使として、宇佐宮へ申させ給ひたりけるが、御許されもなかりければ、力及ばせ給はず。ただ法皇の位を授けられて弓削法皇とぞ申ける。
恵美大臣は弓削法皇をそねみて、帝を恨み奉けるあまり、天平宝字八年九月十八日、国家をかたぶけ奉らんとはかる。罪逆にあたりしかば、寵臣なりしかども官をやめられて、死罪に行はんとし給ひしかば、大臣兵を集めて防ぎたたかひせんずれども、坂上苅田丸を大将軍として、官兵多くせめかけければ、たまらずして一門引具して都を出で、東国へ赴きて凶徒を語ひて、猶朝家を打たんとたくみけるを、官兵騒て、瀬多の橋を引ければ、高島へ向ひて塩津海津を過て敦賀の山を越て、越前国へ逃げ下り、相具したりける輩をば、是は帝にて渡らせ給ふ。
彼は大臣公卿なりとて、人の心をたぶらかしし程に、官兵追ひつづきてせめしかば、船にこみ乗てにげけれども、風はげしく波荒く立ちて、既におぼれなんとしければ、船よりおりて戦し程に、大臣こらへずして、同つゐに近江国にて討れにけり。一族親類同心合力の輩、
首あたま都へ持参られけり。公卿だにも五人首を刎られぬ。上古もかかる浅ましき事ども有けるとぞ承る。
平家栄えめでたかりつる有さまも、又朝敵と成りて家々に火かけて、都を落ぬる事がらも、恵美大臣にことならず、西国へ落ち給たりとも、幾月かあるべき、ただ今亡びなんずる物をとぞ人々申あひける。

法皇は鞍馬寺より薬王坂小竹が峯などいふ、さかしき山を越えさせ給ひて、横川へ上らせ給て、解脱の谷、寂場坊へぞ入せ給ひける。本院へうつらせ給べきよし大衆申ければ、東塔へうつらせ給ひて、南谷の円融房へぞわたらせたまひける。かかりければ衆徒も武士も弥々力付きて、円融房の御所近く候けり。

【法皇天台山に登御座事】
あくる日廿五日、法皇天台山に渡らせ給ふと聞えければ、人々我先にと馳参らる。
摂政殿近衛殿、左大臣経宗、右大臣兼実公九条殿、内大臣実定公後徳大寺より始奉り、大中納言、参議、非参議、四位、五位、殿上人、上下北面の輩に至るまで、世に人ときざまるる輩、一人ももれずさんぜられければ、円融坊には、堂上堂下門外ひまなかりけり。誠に山門の繁昌門跡の面目とぞ見えし。

【入洛事】
平家は落ぬ。さのみ山上に渡らせましますべきならねば、廿八日御下洛あり。
近江源氏錦古利冠者白旗をさして先陣に候けり。此程は平家の一族赤旗赤印にて供奉せられしに、源氏の白旗今更珍しくぞ思召されける。卿相雲客済々として蓮花王院の御所へ入らせ給ひけり。去程に其日の辰の時計り。
十蔵蔵人行家伊賀国より木幡山を越て京都に入る。
未刻計に!木曾冠者近江国より東坂本を通りて、同く京へ入りぬ、
又其外甲斐信濃美濃尾張の源氏ども、此両人に相従ひて入洛す、其勢六万余騎に及べり。
入はてしかば在々所々を追捕し衣裳をはぎとり、食物を奪ひとりしかば、洛中の狼藉なのめならず。

[モクジ]

巻十四【法皇天台山に登御座事】  ★

【法皇天台山に登御座事】
あくる日廿五日、法皇天台山に渡らせ給ふと聞えければ、人々我先にと馳参らる。
摂政殿近衛殿、左大臣経宗、右大臣兼実公九条殿、内大臣実定公後徳大寺より始奉り、大中納言、参議、非参議、四位、五位、殿上人、上下北面の輩に至るまで、世に人ときざまるる輩、一人ももれずさんぜられければ、円融坊には、堂上堂下門外ひまなかりけり。誠に山門の繁昌門跡の面目とぞ見えし。

【入洛事】
平家は落ぬ。さのみ山上に渡らせましますべきならねば、廿八日御下洛あり。
近江源氏錦古利冠者白旗をさして先陣に候けり。此程は平家の一族赤旗赤印にて供奉せられしに、源氏の白旗今更珍しくぞ思召されける。卿相雲客済々として蓮花王院の御所へ入らせ給ひけり。去程に其日の辰の時計り。
十蔵蔵人行家伊賀国より木幡山を越て京都に入る。
未刻計に!木曾冠者近江国より東坂本を通りて、同く京へ入りぬ、
又其外甲斐信濃美濃尾張の源氏ども、此両人に相従ひて入洛す、其勢六万余騎に及べり。
入はてしかば在々所々を追捕し衣裳をはぎとり、食物を奪ひとりしかば、洛中の狼藉なのめならず。


【義仲行家に可追討平家之由仰らるる事】
廿九日いつしか!義仲、行家を院の御所へ召して、別当左衛門督実家、頭左中弁兼光をもて、前内大臣宗盛以下平氏の一類追討すべき由両将に召仰す。
両人庭上に膝まづきて是を承る。
行家は褐衣の鎧直垂に、黒革威の鎧を着て右に候。
!義仲は赤地錦の直垂に、唐綾をどしの冑着て左に候けり。
各々宿所候はぬ由を申ければ、行家は南殿の萱の御所給て、東山を守護す。
!義仲は大膳大夫信業が六条西洞院の亭を給て、
洛中を警固す。

此十余日の前までは、平家こそ朝恩にほこりて、源氏を追討せよといふ院宣宣旨を下されしに、今又かやうに源氏朝恩にほこりて、平家を追討せよとの院宣を下さる、いつの間に引かへたる有さまぞと哀なり。
主上外家の悪党に引かれて、西国へ赴給ふ事もつとも不便に思召されて、速に返し入奉るべきよし、平大納言時忠卿の許へ院宣を下さるるといへども、平家用ひねば力及ばずして新主をすへ奉るべき由、院殿上にて公卿僉議あり。
主上還御あるべきよし御心の及ぶほどは仰せられて、今はとかくの御さたに及ぶべからず、但びんきの君渡らせ給はずば、法皇こそ、還り殿上せさせましますべけれと申さるる人々もあり。重祚の例は、百五十*
六代皇極天皇、三十八代斉明天皇、是は女帝なり、男帝の重祚は先例なしと申さるる人もありけり。
或は鳥羽院の乙姫宮八条院、即位あるべきかと申さるる人もあり。女帝は第十五代の神功皇居より始め奉て、推古、持統、元明、元正也、法皇思召し煩はせ給けり。丹後の局申されけるは、故高倉院宮王子二をば平家拘引奉りぬ、三四の宮は慥に渡らせ給ふ。平家の世には、
御世をつつませ給てこそ渡らせ給ひけれども、今は何かは御はばかりあるべきと申されければ、法皇うれしく思召して、もつとも其儀左もありぬべし。同くば吉日に見参すべしとて、泰親に日次を御尋ありければ、来八月十五日と勘申、その儀なるべしとて、事定らせ給けり。

(第十四終)

[モクジ]

巻十五【四宮可位付給之由事】 

【高倉院の御子】
寿永二年八月十五日、高倉院御子、先帝外三所おはしましけるを、二宮をば、儲の君とて平家取立まつりて、西国におはしけり。
三四宮を法皇迎へたてまつりて、見参せさせ給ければ、三宮は法皇を面嫌まいらせて、おびただしくむつがらせ給ければ、とくとくとて帰し参らせさせ給にけり。
四宮をば法皇是へと申させ給ければ、無左右御膝の上にわたらせ給て、なつかしげにぞおもひまいらせさせたまひたりける。そぞろならんものの、かかる老法師をばなにとてかなつかしくおほすべき。
この宮ぞまことの孫なりけるとて、御ぐしかきなでて、故院のおさなくおはせしにたがはざるものかなとて、只今のやうにぞ覚ゆる。
かかる忘れがたみを留めおき給へるを、今までみざりける事よとて、御涙をながさせ給へば、浄土寺の二位殿、其時は丹後殿と申て御前に居給けるも、御袖をしぼりつつ、とかくの御さたも力及ばず。
御位はこの宮にてこそ渡らせ給はめと申させ給ければ、法皇さこそあらめと仰ありて、定まらせ給にけり、後鳥羽院と申は此御事なり。
内々御いきどほりのありけるにも、四の宮子々孫々迄も、日本国の主にて渡らせ給ふべしとぞ、神祇官陰陽寮ともに占申ける。
四歳にならせ給、御母は七条修理大夫信隆の女にておはしけるが、建礼門院の中宮と申せし時、中納言内侍とて上臈女房にてありけるが、忍びつつ内の御方へ召されさせ給ひける程に、皇子さしつづき二所出来らせ給けるを、修理大夫平家の辺をも、
中宮の御きそくも深くおそれさせ給ひけるを、八条二位殿御乳母に付き奉らんとせられけり。
此宮をば法勝寺執行能円法眼養ひ奉りけるが、西国へ平家に具しておちける時も、あまりにあわてて、北の方をもぐせられざりければ、宮も京に留まらせ給ひたりけるを、西国より人をかへして宮相具し参らせて、急ぎ下給ふべしと申されたりければ、御母の妹の紀伊守範光、かしこここを尋ね参らせて留め参らせたりけり。
それもしかるべき事なれども、範光ゆゆしき奉公とぞ申されける。只今御運は開けんずるものを、ものにくるふかとてとどめまいらせたりけるに、その次日院は御尋ねありて、御車を御迎に参らせられたりけり。

【名虎】
六日、平家の一類、公卿、殿上人、衛府、諸司、百八十人官を止めらる。時忠卿父子三人は此中にもれにけり。十善の帝王三種の宝物かへし入させ奉らしめ給へと、かの人の許へ仰せくだされたりけるによりて、被宥けるとぞ聞えし。
昔田邑帝と申御門おはしましける。王子十二人、姫宮十七人ぞましましける。第一の皇子をば惟喬の親王と申、御母は紀氏、三国町と申けるとかや。
御門この御子を殊にいとをしく思召しければ、春宮に立せ奉りて、御位をもつがせたてまつりたく思召しけれども、惟仁親王とて后の腹にてまします、后の御父は白河太政大臣良房公、天下の摂政として御後見にておはしける上は、世の人重く思ひ奉りて、此御子東宮に立給ふべきを、御門猶惟喬の親王をいとをしき御事に思ひわづらはせ給ひて、惟喬の御子、惟仁の御子の御方を合せて、十番の競馬あるべし、その勝負に付て東宮には立せ奉らんと仰下さる。惟喬の御方には、よき乗尻を召しあつめて、寮の御馬をもよきをゑり奉らせ給へば、一定勝給ふべしと人思ひけり。
御母の妹に柿本の紀僧正真済と申は、東寺の長者にて貴人御祈し給ひけり。惟仁の親皇の御かたよりは、相撲の節あるべしと仰下さる。御祈の師には、比叡山に恵良和尚とて、慈覚大師の御弟子にて、目出たき上人御祈し給ひけり。
和尚は比叡山の西塔に平等坊といふ坊にて、大威徳の法をぞ行ひ給ひける。惟喬の親王の御方よりは、六十人が力もちたりと聞えし、名虎兵衛佐と言ける人を出されたりけり。
惟仁親王御方には能雄少将とて、なべての力の人なりけるをぞ出されたりける、方々の御祈師肝胆を砕き給けり。その日になりしかば、名虎はもとより大力なりければ、能雄の少将を提てなげけるを、見物の人々あはやと思ひける程に、能雄一丈ばかり投られて、つくとして立たりける。やがて寄合てゑ声を出してからかひけり。競馬は右近馬場にて侍けるに、和尚は番勝負を知度思ひ給ひて、右近馬場より平等坊迄、人を立置給ひける事櫛のはの如し、勝負を云ひ伝ふることほどなく聞えけり。惟喬の御方引つづけて四番勝にけり。和尚是を聞給ひて、今六番つづけてこなたかたずば、惟仁親王かち給べからず、四番既に彼御方勝ぬれば、後の頼みなしとおぼして、年来の所持の獨古を以て、自御頂を突破て脳を取出して、炉壇の火に置給ひたりければ、絵像の本尊大威徳の水牛、忽に声を出してほえたりけり。
それよりして引つづけて、惟仁親王御方六番勝にけり。又相撲節にも惟喬の御方の名虎負にけり。能雄少将勝にければ、惟仁位に即せ給にけり。清和の御門と申はすなはちこの御
門の御事なり。帝無本位思召給ひし事限なし。
其時三超といふ落書あり。御兄惟喬、惟修、惟彦、此三人の親王を超えて、春宮にたて給事を落書にしたりけるなり。此君御年三十にて御ぐし下して、水尾といふ所にましまして、行ひすまし給ひて、次年うせさせ給にけり。水尾の天皇とも申けり。惟喬御祈師柿下紀僧正真済は、此事を鬱し思ひて、恵良和尚の御弟子をぞ取失ひける。平等坊の座主慈念僧正と申人は、和尚の末の門弟にてましましけり。彼僧正尊勝陀羅尼を満てて、〓行道しておはしけるに、庭上にほれぼれとある物の、おろおろとしたる物をきて、老法師の眼おそろしげなるが、うづくまり居たりけるを、僧正ただものにあらずと見給ひければ、あれは何者ぞと問給ひければ、我は真済なり、和尚の御弟子をば末までとり奉んと思て、僧正を思ひ懸け奉りてうかがひ侍るほどに、尊勝陀羅尼を尊くじゆせさせ給へるを聴聞仕て、悪念忽にとけて、信心発り侍れば、このよしをしらせ申さんとてみえ奉るなり。
今は御弟子となりて縁を結び奉るべし、御弟子の中に異様のもの出来ば、我と思召すべしと云てうせにけり。僧正は真済の顕れて出し事を不思議に思して、年月を送り給ふに、兵部卿の親王と申人の御子の若君をぐし奉りて、僧正の御もとにおはして、弟子になしてかへり給ける。
この君の食物をば、あれより奉るべしとて出で給ければ、僧正も心得ず思召ける程に、京より若君の御召物とて、大豆を送らせ給ひけり。この若君大豆より外は召さざりければ、僧正思召けるは、真済の異様の者出来ば、我としれとのたまひしかば、此君は紀僧正の再誕とぞ知り給ける。出家の後は鳩の禅師とぞ人申ける。文徳天皇、惟喬親王を春宮の位に即奉り給はぬ事、心元なく覚しめして左大臣信公を召て、東宮をしばしやりて、惟喬をなして後に、清和に返しつけ奉らばやとて、仰せあはされければ、東宮とならせ給て、たやすく改めがたく候と申せしかば、力及ばずぞ有ける。此大臣信公は嵯峨の天皇の御子北辺の大臣と申て、河原大臣融の御兄なり。東宮位につき給て後、貞観八年閏三月十日夜半に、大納言善男、応天門を焼きてけり。
西三条右大臣良相公と心を合て、此門をやく事を、堀川関白基経公の宰相中将にてましましけるに仰て宣被しけるを、宰相中将、太政大臣は知り給へりや、と申給ければ、大納言、太政大臣は偏に仏法に帰して、朝議を知る事なしと申されければ、宰相中将無宣下ばたやすく難行とて、太相国の直廬にましまして、此山を申給ければ、相国驚き給ひて、左大臣は君の御ために奉公の人なり、いかでか無左右とがおこなひ
侍るべきとて、退参して留め給ひけり。
堀川関白と申は、白河太政大臣忠仁公の御甥ながら、御子にし給
たりける。後には照宣公と申、平等坊の座主は延昌僧正なり。慈念は御いみ名なり。尊勝陀羅尼にて往生し給へる人なり。
されば帝王の御位は、凡人の申さんにはよるべからず、天照太神正八幡宮の御はからひなれば、四の宮の御事もかかるにこそとぞ人々申さ
れける。

[モクジ]

巻十五【義仲行家任官之事】 ★

八月十日法皇蓮花王院の御所より南所へ移らせ給て、小除目行はる。!木曾の冠者義仲左馬頭になされて、越後国を給はる。十郎蔵人行家、備後守になされにけり。各国を嫌申されければ、十六日除目に、義仲は伊予国を給り、行家は備前守にうつされぬ。
安田三郎義宣は遠江守になされけり。その外源氏十人勲功の賞とて、靱負尉、兵衛尉、受領、検非違使になされける。上使の宣旨を蒙る者もありけり。
此十余日先には、源氏を追討せよとのみこそ宣旨は下されて、平家こそかやうに勧賞にあづかりしに、今は平家を追討せよとのみ宣旨を下されて、源氏朝恩にお
ごるこそ、いつしか引かはりたるこそあはれなれ。心ある人々は思ひつづけて、袂をぞしぼりける。院の殿上にて除目を行はれし事、昔より未だ承及ばず、先例なし、今度始とぞ聞えし、珍しき事なり。

同十七日、平家筑前国御笠郡太宰府につき給へり。
都はすでに雲のよそにぞなりにける。はるばる来にけりと思すにも、いとど古郷こそ恋しく思召されけれ。
したがひ奉るところのつはもの菊池次郎高直、石戸小将種直、臼木、戸続、松浦党を始として、各々里内裏をぞ営みつくりける。かの内裏は山の中なれば、木丸殿もかくやとこそ覚えしか、人々の家々は野中田中なりければ、麻の衣はうたねども、とをぢの里とも申つべし。萩の葉向の夕嵐、ひとりまろねの床の上、かたしく袖もしほれにけり。思ひやりぬれば都もはるかにへだたりぬ。かの在原の業平の都鳥に事とひし、すみ田川のほとりもかくやと覚えてあはれなり。

「宇佐参詣事」〜以下略

[モクジ]

巻十五【兵衛佐蒙征夷大将軍宣旨事】 

都には法皇の御嘆なのめならず。その故は三種の神器外土にまします事、月日多く重りぬれば、追討の使を遣はさんとするに付ても、異国の財ともなり。海底の塵ともやならんずらんとぞ思召し、代のすゑになるといひながら、我目の前にかかる不思議のあるこそ心うけれ、御禊大甞会もすでに近くなりたり。いかがして都へ帰入奉り候はんと、さまざまの御祈どもを始めらる。
人々に仰合せられなどしければ、御使を下されて時忠卿に仰候べしと議定ありけり。誰か使節をつとむべしと評定ありけるに、時光をめし、かれを下さるべきよし諸卿はからひ申されければ、法皇修理大夫時光にのたまひけるは、「吾朝の大事唯この事にあり、西国へまかり下て、子細を委しく時忠に仰含よ」と仰られければ、時光申けるは、「朝家の御大事君の仰、かたがた申すべき子細にては候はず、急ぎまかり下るべく候、但まかり下候はば、帰参候はん事ありがたかるべし、その故は西国へ平家おもむき候し時、必相伴ふべき由を時忠申候しかば、君の御幸なり候はば力及ばず候、しからずばおもひよらずと、心中に存候し程に、君の御幸も候はざりしかば止り候き、その後もまかり下るべきよし度々申遣して候しかども、たとひ万人の肩をこえて、三公に至り候べく候とも、君をはなれ参らせて、外土へ赴くべしとも、かねておもひよらず候事なれば、返答にも及ばずして、罷りすぎ候なり」と申されたりければ、さては帰り上らん事誠にかたかるべしとて、修理大夫時光は留められけり。
かの時光、は平大納言の北方、安徳天皇の御乳母、帥典侍の妹にてありければ、時忠にしたしくて、西国よりも左様に申されけるとかや。さらば院宣を下さるべしとて、蔵人左兵衛権佐宣長院宣を書て、御壷の召次にて平大納言のもとへ下されたり。
その院宣を平大納言見給ひて大に瞋て、彼院宣をなげすて、御使を召出して顔に火印をさして追上せらるる。是によるべき事にあらず。大納言の所行返々おとなげなく情なしとぞ申あはれける。天性腹あしき人にて、思ひの余りにかくせられけり。
兵衛佐頼朝は輙く都へは上りがたかるべしとて、鎌倉に居ながら征夷大将軍の宣旨を蒙る。
その状に云、

左弁官下、
五畿内、東海、東山、北陸、山陰、山陽、
南海、西海已上諸国、可令為早源頼朝朝臣征夷大将軍事使 左史生中原康定右史生同景家右、左大臣藤原兼実宣、奉勅、従四位下行前右兵衛権佐源頼朝之朝臣可令為征夷大将軍、者宜令承知、依宣行之、

寿永二年八月日 左大史小槻宿禰

左大弁藤原朝臣在判

とぞ書れたりける。
御使左史生中原康定同九月四日鎌倉に下着して、兵衛佐に院宣を奉り、勅定の趣を仰含て、兵衛佐の請文を請取て、同廿七日に上洛して、院御所の御壷の内に参りて、関東の有様をくはしく申たり。
兵衛佐の申され候しは、頼朝は勅勘を蒙といへども、御使を奉て朝敵を退て、武勇の名誉を長じたるに依てなり、忝征夷将軍の宣旨を蒙る、都へさんぜずして宣旨を奉請取事、其恐不少、若宮にて可奉請取と申され候しかば、康定若宮の社だんへまいりむかふ。又康定は雑色男に宣旨袋をかけさせて候き、若宮とは、鶴が岡と申所に八幡を遷し奉て候なり。地形石清水に相似て候、其に宿院あり。四面の廻廊あり、作り道十余町見下たり。
さて院宣をば誰してうけとり奉るべきと評定候けるに、三浦の介義澄をもて可奉請取と被定候。かの義澄は東八ヶ国第一の弓取、三浦平太郎為継とて、柏原天皇の御末にて候なる上、父の大介義明は君の御為に命をすてたる者なり。然れば義明が黄泉の冥暗をも照さんがためなり。義澄は家の子二人郎等十人相ぐして候き。家の子二人と申一人は、比企藤四郎能員、一人は和田三郎宗実と申者にて候、郎等十人は大名十人して俄に出したてて候なり。以上十二人はみなひた甲、義澄は赤威の鎧を着て、甲をば着候はず、弓わきばさみて、左のひざをつき、右のひざをたて、宣旨をうけとり参らせんと仕る。
宣旨をばつづらのはこのふたに入参らせて、抑御使はたれたれにて候ぞと尋申候しかば、三浦介とは名乗らで、三浦荒次郎義澄と申て、宣旨をうけとりたてまつらせて後、良久しく候て、らん箱のふたに、砂金百両入られて返し候ぬ。拝殿にむらさき縁のたたみ二帖しきて康定を居候て、高杯肴二種にて酒をすすめ候に、斎院次官を陪膳にたて、五位一人出し肴に馬引候しに、大宮の侍の一臈にて候し工藤左衛門祐経是を引候ぬ。
其日兵衛佐の館へは、請じ候はず。五間なる萱屋をしつらひて、〓飯豊にして、厚絹二領小袖十重長櫃に入ておき、此外上品の絹百疋、次絹百疋、白布百端、紺藍摺百端づつ積て候き。馬十三疋送て候しに中に、三疋はくら置候、あくる日兵衛佐の館へ罷越候しに、内外に侍候、ともに十二間にて候、外侍には国々の大名ども肩を並べて居候、内侍には源氏どもひざを組で並居候、末座には郎等ども居たり。少引のけて、紫縁の畳しきて康定を居候しが、良久しく有て兵衛佐の命に随て、康定寝殿へ高麗縁のたたみ一帖しきて、簾を上られたり。広簷に紫縁のたたみを一帖敷て、康定を居させ候ぬ、兵衛佐出合たり、布衣に葛袴にて候、容顔あしからず、顔大にして少しひきぶとにみえ候。かたち優美にて言語分明なり。仔細とうこまかに述べられしなり。
行家!義仲は頼朝が使に都へは向ひ候ぬ。平家は頼朝に討れて、京都に跡をとどめず、西国へ落うせ候。その跡にはいかなる尼君なりともなどか打入ざるべき。それに!義仲行家われ高名がほに、恩賞に預り、剰へ両人ともに国をきらひ申候なる。返々奇怪に候、!義仲僻事仕候はば、
行家に仰て誅せられ候べし。
行家ひが事仕候はば、!義仲に仰て誅せられ候べし、当時も頼朝が書状の表書には、!木曾冠者、十郎蔵人と書て候へども、返事はしてこそ候へと申され候し程に、折ふし聞書到来候とて、兵衛佐是を見てよに不得心気に思ひて、秀衡が陸奥守になされ、資職が越前守になさる。隆義が常陸介になりて候とて、頼朝が命にしたがはず候しも、無本意次第に候へば、早く彼等を追討すべきよし、院宣を仰下され候べしとこそ申候しか、其後康定色代仕候て、故名簿をして参るべく候へども、今度は宣旨の御使にて候へば、追て申候べし。舎弟にて候史大夫重良同心に申候きと申て候しかば、当時頼朝が身として、争か各々名簿をば給はり候べき。さ候はずとも、疎略の儀候まじと返答してこそ候しか、都にも覚束なく思召され候らんに、頓てまかり立べきよし申て候しかば、今日ばかりは逗留あるべしと申候間、其日は宿へまかり帰て候しに、追様に荷懸駄卅疋送りたびて候き、次の日兵衛佐の館へ向て候しかば、金作の太刀に九指たる征矢一腰給て候き、其上鎌倉を出で候し日よりして、かがみの宿迄宿々には米五石あて置候間、沢山なるに依て少々は人にとらせて候、又みちみち施行に引てこそ候つれと、
こまかに申たりければ、人にとらせて康定が得分にはせでとぞ、法皇は仰あて笑ばせたまひける。
むかし武蔵権守平将門以下の朝敵首両獄門に収められ、文覚白地に獄に宿入られたらん者の、いかでか輙く左馬頭義朝が首を掠取べき、只偽て兵衛佐に謀叛を申すすめんが為に、野原にすてたる頸を取て、かく申たりけるに依てなり。石橋の軍には兵衛佐負たりけれども、次第に勢付て、所々の軍に打勝てのち、父の恥を清め、誠に義朝死て後、会稽を雪たりと覚て哀なり。


[モクジ]

巻十五【木曽都にて頑振舞事】 ★

【京の木曽殿評価】
!木曾冠者義仲は都の守護にて候けるが、みめかたちは清く美男にてありけれども、起居の振舞の骨なさ、物など云たる詞つづきの頑なる事、堅固の田舎人にて浅猿くおかしかりけり。
実にも理なりとぞ人々申ける。信濃国!木曾の山下といふ所に、二歳よりして廿余迄隠居たりければ、さるべき人ともなれ近付たる事もなし。今始めて都人となれける程に、なじかはおかしからざるべき。

【猫間中納言】
猫間中納言光隆卿、!木曾が方へおはして、雑色をもて参てこそ候へ。見参に入れ候はんと申せといはせ入させ給たりければ、!木曾が方に
今井四郎、樋口次郎、高梨子、根井といふ四人ありけり。
其中に根井といふ者、!木曾に猫殿の参りてこそ候へと仰せられ候と云たりければ、!木曾心得ずげにて、とはなんぞ、猫の来るとは何といふ事ぞ、猫の人に見参する事やあると云て、腹立ける時、根井又立返て、使の雑色、猫殿参りたりとは何事ぞ、御料のしからせ給ふといひければ、雑色おかしと思て、七条坊城壬生の辺をば南猫間と申候、是は北猫間に渡らせ給ひ候、上臈の猫間中納言殿と申参らせ候人にて渡らせ給候なり、鼠取候猫にては候はぬなりと、こまごまと云たりければ、其時能々心得たりげにて、根井委しく!木曾に申たりければ、さては人ござんなれ、いでさらば見参せんとて、中納言殿を請じ入奉りて出合けり。
!木曾取あへず猫殿のまれまれわしたるに、根井やもの参らせよといひければ、中納言浅ましく覚て、只今何も所望なしと宣ひけれども、いかが食時にわしたるに物参らせではあるべき、無塩平茸もありつ、とくとくといひければ、よしなき所へ来にけりと、今更帰らん事もさすがなり、かばかりの事こそなけれと思して、の給ふべき事もよろづ興さめて、かたづを呑みてましましけるに、いつしか黒々としてけだちたる飯を、高く大にもりあげて、御さい三種平茸の汁一折敷にすへて根井持来りて、中納言の御前に据たり。
大かたとかく云ばかりなし。!木曾がまへにも同じ様にすへたり。
すへはつれば、!木曾箸を取ておびただしきさまにくひけり。中納言は青醒ておはしければ、いかにかめさぬぞ、がうしをきたなみたまふか、あれは!義仲が観音講に毎月にすふる精進合子にて候ぞ、ただよそへ無塩平茸の汁もあり、猫殿かひ給へやといひければ、食てもあしき事もやありとて食まねせられたりければ、!木曾はつかとくひて、手づから合子も皿も取かさねて、中納言を打みて、あの猫殿は天性小食にておはしけるや、猫殿今少しかひ給へと申けり。
根井よりて猫間殿のそなへをあげて、猫殿御供の人や候と申たりければ、因幡潤と云雑色是に候とて参たりければ、是は猫殿の御わけぞ、給はれとて取らせたりければ、とかく申すに及ばず、縁の下へなげ入たりけるとかや。是のみならず、かやうにおかしき事ども数を知らずぞ有ける。

【牛車エピソード】
!木曾官なりたるしるしもなく、さのみ直垂にてあるも悪しとて、布衣取装束して車に乗て、院参しけるが着も習はぬたてゑぼしより始て、さしぬきのすそまでかたくなさ、事もいふばかりなし、牛飼童は平家の内大臣の童を取たりければ、高名のやつなりけり。我主の敵ぞかしとめざましく心うかりければ、車にこそ乗たるありさまいふばかりなし。おかしかりけり。人形か道祖神かとぞみえし、鎧うちきて馬に乗たるにはにず、あぶなく落つべしとぞ見えける。牛車共に、屋島大臣殿のをおさへとりたりけり。牛飼童も大臣殿次郎丸なり。世にしたがへばとられて
使はれけれども、主の敵なればめざましく思ひて、いと心にも入ざりけり。牛は聞ゆるこあめなり、逸物のこの二三年すへかうたるが、門出に一ずはえにてあてたらんに、なじかは滞るべき、飛出たりければ、!木曾あふのけに車の内にまろびけり。牛はまひあがりてをどる。
いかにと!木曾浅ましく思ひて、起き上らんとしけれども、なじかは起上るべき、袖を蝶の羽を広げたるがごとくにて、足を空にささげて、なまり声にてしばしやれしばしやれといひけれども、牛飼そらきかずして、四五町ばかりがほどあがらせたりければ、供奉にある郎等ども走り付て、いかに御車をとどめよといひければ、御牛のはなこはくて留り兼て候、其上しばしやれしばしやれと候へばこそ仕て候へとぞ陳じける。
車留て後、!木曾ほれぼれとして起上りけれども、猶あぶなく見えければ、牛飼童さしよりて、それに候手形にとりつかせ給へといひければ、いづ
れを手形ともしらぬげにて、見まはしければ、それに候穴に取つかせ給へといひける折、取付てあはれしたくや、是は牛小舎人の支度か、主殿のやうが木のなりかとぞとひたりける。車の後よりおりんとしける間、前よりこそ下させ給はめと雑色申ければ、天性はり魂の男にて、いかでかすどほりをばせんずるといひけるぞ、おかしかりける事どもなり。

平家は讃岐国八島にありながら、山陽道をぞ打取ける。


[モクジ]

巻十五【水嶋合戦事】 ★★

【矢田、海野行軍】
!木曾左馬頭只今是を聞て、信濃国住人矢田判官代、海野矢平四郎行広を大将軍として、五百余騎の勢を差遣しけり。
平家は讃岐国屋島にあり。源氏は備中国水島がみちにひかへたり。源平たがひに海を隔て支へたり。
閏十二月一日水島が途に小舟一艘出来。海舟釣舟かと見る所に、それにはあらず、平家の牒使の船なりけり。
源氏是を見てともづなをといて、ほしあげたる船どもをめき叫びておろしけり。
平家是を見て、五百余艘の船を二百余艘をば敵の方へ差うけ、残る三百余艘をば、百艘づつ手々に分て、源氏の船を一そうも漏さじと、水島が途を押まひたり。
源氏大将軍海野矢平四郎行広、搦手の大将軍矢田判官
平家の大将軍には本三位の中将重衡、新三位中将資盛、越前三位通盛、搦手の大将軍には新中納言知盛、門脇の中納言教盛、次男能登守教経也。
教経の給ひけるは、東国北国の奴原に始めて生捕にせられ、随仕へん事をば返りみるべからず、軍こそゆるなれ、船軍はやうある物也とて、唐巻染の小袖に、精好の大口に黒糸威の鎧のすそ紅に端匂ひしたるをきて、小船に乗て三尺にすぎたる大長刀の、銀のひる巻したるを取持て、敵の船にのりうつりて、ともよりへ、へよりともざまになぎてめぐりければ、面を向る者もなし。或は切たをされ、或は海へ落入しけるほどに、敵多く亡びうせぬ。其上五百余艘のともづなを結合て、中にはもやひを入て上には歩の板を引渡たれば、平々として足立よし。船の中にて遠者をば射、近者をば打物にて勝負をする。熊手にかけてとるもあり。組て落るものもあり。さしちがへて死ものもあり。思ひ思ひこころこころに勝負をぞ決しけ
る。巳の刻より未の下刻に至るまで、隙ありとも見えざりけり。
然るに源氏終にまけ軍になりて、大将軍矢田判官代も討れにけり。
海野矢平四郎行広は、今は叶はじと思ひて郎等我身ともに鎧武者八人はし舟にのりて、沖の方へこぎさりける程に、舟はほそし浪風烈しかりけり、踏沈で一人ものこらず皆死にけり。
平家は船中に鞍置馬ども用意したりければ、五百余艘の船のともづなを切放て渚に舟をよせて、船腹を乗傾けて、馬をさつとおろす。ひたと乗て教経を先として、をめいてかけ給ひければ、討漏されたる源氏の郎等ども、取物もとりあへず、はうはう
都へ逃上る。

【義仲軍出発】
!義仲是を聞て安からぬ事に思ひて、夜を日についで備中国へ馳下る。
去六月北陸道加賀国安高篠原の戦に、備中の妹尾太郎兼康、平泉寺長吏斉明威儀師を生捕にしたりけるが、斉明をば六条河原にて切られ、又兼康はさる古兵にて、!木曾に二心なきやうに随けり。
「去六月頃よりかひなき命を助けられ参らせて候へば、今は夫に過ぎたる御恩何にかは候べき、自今以後命候はんずる限は、御先をかけて命は君に参らせ候はん」と申て、内々はひまあらば!木曾を討んとぞ狙ひける。
蘇子卿が胡国にとらはれ李少卿が漢国へ帰らざりしがごとし、遠く異朝に着すること昔の人の悲しめりし所なり、〓は〓〓の幕これらを以て寒温を防ぎ、〓き肉を酪漿、彼等を以ては飢饉を養。夜はいぬる事あたはず、昼は悲の涙をたれて明しくらす。薪をとり草を切らずといふばかりなり。何事に付ても心うく悲しからずといふ事なし。されども二心なく!木曾につかはれけり。心中にはいかにもして故郷へ帰てふるき主をも見奉り、本意をも遂げんと思ふ心深かりけり。さる間謀にかくは振舞けるをば、!木曾つゆも知らざりけるにこそ。

[モクジ]

巻十五【兼康與木曽合戦する事】 ★★★

【木曽殿、播磨に到着】
寿永二年十月四日、!木曾都を出て播磨路にかかりて今宿といふ所に着ぬ。
今宿より妹尾を先達にて備中の国へ下り、船坂といふ所にて兼康!木曾にいひけるは、「今に兼康いとまを給て、先立て親き奴原数多候へば、御馬の草をも儲させ候ばや」と申ければ、!木曾もつとも然るべしとて、「さらば!義仲はここに三日逗留すべし」と申ける。
兼康!木曾をばよくすかしおほせつと思て、子息に太郎兼道宗俊等を相具して下らんとす。
兼康をば加賀国の住人倉光五郎といふ者に生捕られて、!木曾には仕へけり。兼康倉光にいひけるは、「や給へ倉光殿、兼康を生捕にし給ひたりし勧賞いまだ行ひ給はず、備中の妹尾はよき所也、兼康が本領也、勲功の賞に申給て下り給へかし、同くは打具し奉て」といひければ、倉光の五郎、実と思ひて妹尾を望申ければ、!木曾下文をなしてけり。
倉光五郎頓て兼康を先に立て、下りける道にて思ひけるは、倉光を妹尾まで相ぐし下りぬるものならば、新司とて国の者どももてなしてんず、又悦ぶ者もあらば、倉光勢付てはいかにもかなはじと思ひて、備前国に別の渡といふ所より東に藤野寺といふ所にて、兼康、倉光に申けるは、「斯る乱の世なれば所も合期せん事かたし、兼康先立て所にもふれ廻り、親き者どもにもかかる人こそ下り給へ」と申て、御儲をもいとなませ候はんとて、彼所に倉光をばすかし置て、兼康先に立にけり。

【倉光ちゃん暗殺】
草加部といふ所に宿して、その夜倉光を夜討にして、西川、三のわたりして、近隣の者ども驅催して、福龍寺なはてを堀切る、
かの畷と申は、遠さ廿町ばかりなり。北は峨々たる山、南は海へつづきたる沼なり。西は石ばいの別所とて寺あり、この寺を打すぎて、当国の一宮を伏拝みて、ささが迫に懸りにけり。小竹が迫は西の方は高山なりければ、上に石弓をはりて!木曾を待かけたり。
後は津高町とて谷口は沼也、何万騎の敵向ひたりとも輙くおとしがたし。爰に兵どもをさしおきて、我身は唐皮の宿に引籠る。
倉光五郎もとよりすくやかなる者にて、妹尾太郎を生捕にするのみにあらず、度々高名したる者にてあるに、いかにして兼康にはいふかひなくおびき出されて、うたれにけるやらんと人申ければ、或者の申けるは、「ことわりや、北国の住人ながら傍輩をかへり見ず、案内者たたでここかしこにあなぐりありき、もとよりも馬のはなも向はぬ所へも武士を入なんどして、!木曾に悪き事を申すすむれば、悪行積りて本社の御咎めやあるらん、それも知らず、又斉明威儀師を六条河原にて首をきられしも、倉光が讒言なり、末社の長吏なれば白山権現の御祟にて、倉光もいひ甲斐なくうたれにけり」とも申けり。
妹尾太郎申けるは、「兼康こそ北陸道の軍に生捕にせられてありつるが、!木曾をすかいて、いとまをえて平家の御方へ参れり。!木曾は既に船坂に着たり。御方に志思ひ参らせん者どもは、兼康に付て!木曾を一矢射よや」と、山彦、木だまのごとくののしりて通りければ、妹尾の者どもは、馬鞍郎等をも持たる輩は、皆平家について屋島に参りぬ、物の具持たぬ者は妹尾に留まつてありけるが、是を聞て或は柿のひたたれに、つめひぼゆひたる者もあり。
或は布小袖にあづまをりしたる者もあり、狩うつぼにさび矢四五さいてかきおひ、箙に鷹俣五六指てかきつけたる者、あなたこなたより二三百人ばかり集りにけり。物具したる者七八人には過ぎざりけり。

【妹尾の返忠発覚】
妹尾太郎に夜討にうちもらされたる倉光が下人、船坂山に罷り向て!木曾に申けるは、「倉光殿こそ夜討に討れて候へ、妹尾太郎殿は先立て馬草をも尋、御儲をもせさせ候べし、其程は此寺にましませと申て、倉光殿をば古堂に止置奉りて、急ぎ使を奉るべしと申て罷候しが、使も参らせ候はぬ」と申ければ、木曾殿大に驚て、「さて夜討の勢は何ほどかありつるととへば、四五十騎には過候はじといひければ、さては兼康めがしわざにこそ、さ思ひつる物を安からぬものかな」とて、!木曾腹立て、三百余騎にて今宿を打出で夜を日についで馳下り、その暮方には三石につき、明る日藤野につきて、倉光さてはここにてうたれ候けるよとて、それをも打すぎて、別のわたりをして福龍寺畷堀切りたりければ、加波郷へ行て、惣官をしるべにて北の方の鳥岳を廻りて、小竹が井をこそおとしけれ。
妹尾は!木曾は今宿に三日の逗留といひしかばとて、いまだ城郭をもかまへぬに、!木曾はと押よせたりければ、思ひまうけたる事なれども、あわて騒ぎたりけり。さはあれども、暫くこらへて支へたり。走り武者どもはこらへずして皆落てうせぬ。
少恥をもしり名をも惜むほどの者は、一人も残らず皆討れにけり。多くは深田に追はめられて、頸をぞ被切ける。
妹尾太郎は矢種つくして、主従三騎千本山へぞ籠りけるが、相構へて屋島に伝らんと心ざしたりけるが、妹尾嫡子小太郎兼道は、父には似ず肥ふとりたる男にて、歩みもやらず、足をはらして、山の中に留りにけり。
父は小太郎をもすてて、思ひ切りて落行けるが、恩愛のみち力及ばざる事なれば、小太郎が事を思ふに行もやらず、郎等宗俊にいひけるは、兼康は年来数千騎の敵の中に向て戦しかども、四方はればれとしてぞ覚えしに、只今は行先もみえ
ぬは、小太郎をすてて行時に、眼に霧ふりて行先もみえぬと覚ゆるぞ、いづくへ行たり共、しなば一所にてこそ死にたけれ、屋島へ参じて今一度君をも見奉り、又軍に!木曾殿に生捕られて、此日比朝夕仕へつる事共をも、語り申さばやとこそ思へども、妹尾こそ最期にあまりにあわてて、子をすてて落たりといはれん事も心うし、そのうへ小太郎も恨めしくこそあるらめと思へば、もとより取て返し、小太郎と一所にて死ばやと思ふはいかにといへば、宗俊もさこそ存候へ、急ぎ帰らせたまへとて、十余町走り帰て、小太郎が足病て臥たる所に走付て、汝と一所に死なんと思ひて、帰りたるなりと云ければ、小太郎おきあがりて手を合せて涙を流し、前にはしがきをさし矢間をあけ、うしろには大木を当てて、!木曾をまちかけたり。
さるほどに!木曾三百余騎にて、妹尾が跡めに付て追かけたり。兼康此山に籠りたるは、いづくにあるやらんとて、人を入てさがさせよものどもといひければ、聞もあへず妹尾太郎兼康ここにありといふままに、さしつめさしつめ射る。十三騎をば射おとしつ、馬九疋をば射ころしぬ。妹尾矢だねつきてければ、腹を切てふしにけり。子息小太郎もさんざんに戦て、同じく自害して臥にけり。郎等宗俊はしがきの上より、妹尾が郎等に宗俊といふ剛の者の、自害するを見よや殿原と云て太刀の先を口に含て、さかさまに落ちつらぬかれて死にけり。

!木曾、妹尾が父子自害の頸を取て、備中国鷺の森へ引退き、万寿庄に陣を取て勢を揃へける。去程に京の留守に置たりける樋口次郎兼光、早馬をたて申けるは、十郎蔵人殿こそいたちのなきまに貂ほこる風情して、院の切人して!木曾殿を討奉らんと、支度せらると告げたりければ、!木曾大に驚て、平家をば打すてて、夜を日についで都へはせのぼる。

[モクジ]

巻十五【室山合戦事】 △

【行家叔父、京から逃走】
十郎蔵人是を聞て!木曾にたがはんと
て、十一月二日、三千余騎にて丹波国へかかりて、播磨路へぞ下りける。
!木曾は津国より京へいる。
平家は門脇の中納言教盛、本三位中将重衡を大将軍
にして、其勢一万余騎、播磨国室の津につく。平家討手を五にわかつ。
一陣には飛騨の三郎左衛門
景経五百余騎、
二陣は越中次郎兵衛盛次五百余騎、
三陣は上総五郎兵衛五百余騎、
四陣は伊賀平内左衛
門家長五百余騎、
五陣は大将軍新中納言七千余騎に
て、室坂を歩ませ向ふ。

ここに十郎蔵人出来。
一陣の
勢是を防ぎ、暫く支へて二陣に向ひたり。此手も防様にてめての林へおち下る。
それを追ひ落て三陣の
勢にあゆませ向ふ。そこをもこらへずして北のふもとを射落さる。
四陣によせ合ひたり、是もかなはず
南の山際へ追ひ落さる。
五陣の大勢によせ合たり、
新中納言の侍に紀七、紀八、紀九郎とて兄弟三人ありけるが、精兵の手ききなりけるを先として、弓の上手をそろへていさせければ、面をむかへ寄べきやうもなかりけり。
行家かなひがたくて引退きければ、
軍兵ときを作りておつかくる。鬨の声を聞て、四陣三陣二陣一陣の勢、山のみねよりもとの跡に来り集りて、是をささへたり。
行家は敵にたばかされけり
と心得て、中にとりこめられじとて、敵に向て弓をひかず、太刀をもぬかず、ここを通せや若党どもとて、四陣をけやぶり三陣につぎ、爰をもかけとほり、一陣同じくかけ破りて通つつ、十郎蔵人後を返りみれば、三千余騎の勢皆討とめられて、わづかに五十余騎になりにけり。
此中にも手負数多ありける、大
将軍行家ばかりぞ手一ヶ所もおはざりける。

行家あ
まの命生て津国へおちにけり。
平家の勢いふしろ
にしこみければ、さんざんに射払ひてのぼる。播磨の方は平家に恐る。都は!木曾に恐れて、和泉国へぞ落ちにける。

【書き手の感想文】
平家、室山・水島両度の軍に打勝てこそ、
会稽の恥をば清めけれ。
源氏の世になりたりとも、さ
せるゆかりならざらん者は、何の悦かあるべきなれども、人の心のうたてさは、平家の方弱ると聞けば悦び、源氏の方つのると聞ては興に入てぞ悦びあひける。さはあれども、平家西国へおち給しかば、其騒ぎにひかれて安き心なし。妻子を東西南北へはこびかくし候ほどに、引失ふこと数をしらず。穴を掘て埋みし物をも或は打破り、或は朽損じてぞ失せにける。浅ましともおろかなり。
まして北国の狄打入て
後は、八幡、加茂の領地をも憚らず、麦田を刈らせて馬に飼ひ、人の倉を打あけて物をとる。可然大臣家などをばしばしは憚りけれども、かたほとりに付ては、武士乱入して少しも残す所なし。家々を追捕し、家々には武士ある所にもなき所にも、門々に白旗を立置て、道をすぐる者安き事なし。衣裳をはぎ取ければ、男も女も見苦しき事にてぞありける。平家の世には六波羅殿御一家と云てければ、ただ恐をなしてこそありしか、か様に目を合て食物着物を奪ふ事やはありし、老たるも若きも歎あへる事なのめならず。

[モクジ]

巻十五【木曽都にて悪行振舞事】 ★

【知康木曽が許へ被遺事】
!木曾かかる悪事を振舞ける事は、加賀国井上次郎師資が教に依てとぞ後には聞えし。
院の北面に候ける壱岐の判官知康をば、異名には皷の判官とぞいひける。
それを御使にて、狼藉をとどむべきよし被仰下ければ、!木曾遠国の夷とはいひながら、無下にひたすら者不覚の荒夷にて、院宣をも事ともせず、さんざんにふるまひければ、前入道不便に思召て、内々!木曾に仰せられけるは、平家の世にはかやうの狼藉なる事やはありしと諸人云歎く也。人を殺し火を放つ事不尽と聞ゆる。急ぎ鎮めらるべしと被仰けれども其しるしなし。
院よりなほ知康をもて上洛して、叛逆の徒を追ひ落したる事は本意也。誠にや室山より備前守行家が引退きける由聞ゆ。尤覚束なし。さては此間洛中狼藉にて諸人の歎きあり、はやく可鎮」と仰有ければ、
!木曾義仲畏申けるは、「先行家が引退候なるも、やうこそ候らめ、さればとてやは平家世をば取候べき、はからふむね候、驚き思召さるべからず候、次に京都の狼藉つやつや不存知仕、いかさま尋ねさた仕候べし、下人など多く候へばさやうの事
も候らん。又!義仲が下人に事をよせて、落たる平家の家の子もや仕候らん、又京中なる古盗人もや仕候らん、目に見え耳に聞え候はんには、いかでかさやうの狼藉仕らせ候べき、今日より後!義仲が下人と申て、左様の事仕候はん者をば、直に搦め給はるべく候、一々頸を切て見参に入奉るべし」と申ければ、知康帰り参じて!義仲が申つる様にこまこまと申上たりければ、存知の所よく申にこそとぞありける。
!義仲かくはきらきらしく申たりけれ共、京中の狼藉はあへて止まらざりければ、猶知康をもて相構々々狼藉を止めよ、天下泰平とこそ祈申事なるに、かく乱れがはしき事せんなしと仰下されければ、!木曾今度は気色あれて目も持ちあけず、「和御使殿をば誰といふぞ」と問ければ、壱岐の判官知康と申也とぞ答へける。「わどのを皷の判官と童のいひけるは、よろづの人のたたくか、はられたるか、皷にておはせばとひやうしけれ
ば、!義仲が申たる旨を院に申されねばこそ、さやうに狼藉するらん者をも、搦めて遣はさざるらめ」など云事、さたの道をも不覚とて殊の外いかりければ、知康さらば罷帰りなんといひければ、!木曾そへに帰らでは何事をしたまふべきと、あららかにいひければ、知康帰参して「!義仲は鳴呼の者にて候けり、向ふさまにかくこそいひ候つれ、勢を給て追討仕候はばや」とぞ申ける。
此知康は究竟の皷の上手にてありければ皷の判官とぞ申ける。是を!木曾伝聞てかくは申たりけるにや、!木曾かかる荒夷にて院宣をも事ともせず、さんざんに振まひければ、平家にかへおとりとて、院の御所の御前に札に書て立たりけり。

赤さいて白たなごいにとりてかへて頭にまける小入道かな


[モクジ]

巻十五【木曽可滅之由法皇御結構事】 ★

【法皇の軍備】
後には山々寺々に乱入して、堂塔仏像を破り焼払ければ、とりどり云に及ばず。
神社にも不憚狼藉とどめざりければ、早く!義仲を追討して、洛中の盗人をとどむべき由、知康申ける上、法皇も奇怪に思召されければ、はかばかしく人々に仰合せらるるにも不及して、ひしひしと思召立て、法住寺殿に城郭を構て、兵共を召集められ、松葉をもて笠印にすべし、明雲天台座主に帰り給たりけると、八条宮の寺の長吏にましましけるを、法住寺へよび参らせて、山、三井寺の悪僧共を召て参らすべき由仰けり。
其外君に心ざし思ひ参らせん者は、御方へ可参由仰られけ
れば、!義仲に日来随ひたる摂津国、河内の源氏近江美濃のかり武者、北陸道の兵者ども、!木曾を背て我も我もと参り籠にけり、これのみならず、諸寺諸堂の別当長吏に仰て兵を召されければ、北面の者どもわか殿上人諸大夫などは、面白きことに思ひて、興に入たりけり。
少しも物の心をわきまへおとなしき人どもは、こは浅ましき事哉、只今天下の大事出来などすとあざむきあへりけり。知康は御方の大将軍にて、門外に床子に尻かけて、赤地の錦の直垂に脇楯具足計りにて、廿四さいたる征矢を一筋ぬき出して、さらりさらりとつまよりて、あはれしれ者の頸の骨を、此矢を以て只今射貫かばやとぞ詈りける。又よろづの大師の御影を書集めて、御所の四方の隣に広げかけたり。御方の人々のかたらひたりける者共は、堀川商人町冠者原、向礫、関地、乞食法師、合戦の様もいつか習ふべき、風も荒く吹ば倒れぬべくて、逃足のみぞふみたる者多く参籠りける、物の用に可立もの一人もなかりけり。

【木曽殿あきれる】
!木曾是を聞て申けるは、「平家の謀叛を起して君を君ともし奉らず、人をも損じ民をもなやまし、悪行年久しきによりて、!義仲命をすてて責
落して、君の御代になし奉りたるは、希代の奉公にあらず哉、それ何の咎あて、只今!義仲をうたるべきや、東西の国々ふさがつて都へ物ものぼらず、もて来る方もなし、餓飢して死ぬべければ、命を助からんために兵粮米をとり、青田を刈らせて馬に飼ふ、力及ばざる事也、さればとて王城を守護してあらん者が、馬一疋宛のらせではいかでかあるべき、さりとて宮原へも打入り大臣家へも乱入て、狼藉をもせばこそ奇怪ならめ、かた畔に付て、少々物とりなどせんをば、院強ちに咎め給ふべき様やある、是は皷めが讒言也、やすからぬもの哉、皷めを討破てすてん」といひければ、左右に及ばずといふ者もあり。
樋口次郎兼光、今井四郎兼平など申けるは、十善の帝王に向参らせて、弓を引き矢を放たせ給はん事、いかがあるべからん、只あやまたせ給はぬよしを、幾度も陳じ申させ給ひて、甲をぬぎ弓をはづして、降人に参じ給ふべくや候はんと申ければ、!木曾申けるは「!義仲年来何ヶ度か軍しつる。北国、信濃、たけをみ間の軍を始として、横田川、砥並山、安高、篠原、黒坂口、備中国板倉の城を落ししまで、以上九ヶ度の軍をしつれども一度も敵に後を見せず。十善帝王にてましますなればとて、甲をゆぎ弓をはづして、おめおめと降人に参ずべしとは覚えず。皷めに頸打切られて悔とも益あるまじ、法皇は無下に思ひ知りおはせぬものかな、!義仲に於ては今度最後の軍也」とぞ申ける。
!木曾かく云けりと聞きければ、知康いとど嗔をなして、急ぎ!義仲を可追討由をぞ申行ひける。


[モクジ]

巻十五【木曽怠状を書して送山門事】 ★

【木曽怠状を書して送山門事】
!義仲北国の合戦に、所々にて官兵を打落して都へ責上るに、比叡坂本を通らん時、衆徒輙く通さじとて、越前国府中より書状を書て、山門へ送りたりしに、衆徒!木曾に与力してければ、源氏の軍兵天台山へ登りにけり。
其後!木曾都へ打入て、狼藉なのめならず。山門の領に所を置かず、悪行法に過ければ、衆徒契を変じ
て!木曾を可背由聞えければ、依之!義仲怠状書て山門へ遣しける。
其状に云、

山上貴所!義仲謹解

叡山之大衆、忝振上神輿於山上、猥構城郭於東西、
爰不開修学窓、偏専兵仗之営云云、尋其根源者、
!義仲結構悪心、可追捕山上坂本之由風聞、
此条極僻事候、且満山三宝護法可令垂知見給、
自企参洛之、奉仰医王山王之冥助、顕者憑山上大衆之与力、
今始何致忽諸哉、雖有帰依之志、無凶悪之思者也、
但於京中搦山僧之由、有其聞之条、尤恐怖、
号山僧好猛悪之輩在之、仍為糺真偽、粗尋承之間、
自然狼藉出来候歟、全不満通儀、
惣山者聞可令軍兵登山之由、依之大衆下洛之由承之、
是偏所天魔之構出歟、相互不可有信用、
怱以此旨可令披露山中之給状、如件、

十二月十三日 伊予守!義仲

進上 天台座主御房へ

とぞ書たりける。
山上には是にも鎮まらず、弥蜂起する由聞えたり。


[モクジ]

巻十五【法住寺合戦事】 ★★★

【法皇憤る】
昔周の武王殷の王を討んとしけるに、冬天に雲寒て、雪降る事高さ二十丈に余れり。
五車二馬に乗れる人、門外に来て王を助け紂を誅すべしと云てさんぬ。深雪に車馬のあとなし、是則海人の天使として来るなるべし、然る後紂を討事を得たりき、漢の高祖は韓信が軍に囲れて危くありけるに、天俄に霧降闇して遁るる事を得たり。

!木曾為人倫有讎、仏神に憚りをなさず、何によてか天の助にも預り、人の憐みあるべきなれば、法皇の御憤も弥深く、知康も日に随て急ぎ可追討之由申行ひけり。
知康は赤地の錦の直垂にわざと鎧は着ざりけり、甲計をぞきたりける。四天王の像を絵に書て、甲にはさし、右の手には金剛鈴をふり、左には鉾をつき、法住寺殿の四面の築地の上にのぼりて、事を招きて時々舞にけり。是を見る者、知康には天狗の付にけりとぞ申ける。


【法住寺合戦】
!木曾が軍の吉例に、陣をとるに七手に分けて、一手は二手に行合けり。
樋口次郎兼光は三百余騎にて新熊野の方へさし遣す。
残六手は各々居たる家小路より河原へ馳出、七条河原へ行合べしとて二条を駆る者もあり。
楯、根井は三条をかく、物井、蛭川は四条をかく、
滋秋兄弟は楊梅をかく、手塚別当、手塚太郎は佐妻牛をかく、仁科、高梨、
山田次郎は六条をかくれば、左馬頭、今井四郎を始として、七条河原に馳向ふ、
六手が一に行合たり。其勢千騎に過ざりけり、
!義仲既に打立由聞えければ、大将軍知康以下近国の官兵北面の輩、公卿殿上人侍中間山法師以下二万余騎とぞ詈りける、
!木曾河原へ打出るほどこそあれ、鬨をどと作て高くをめき、荒くはせて西面の門際へ責寄せたり。
知康進出て申けるは「汝等忝も十善帝王に向て、弓を引矢を放ん事いかでかあるべき、昔は宣旨を読懸られしかば、枯たる草木も花開き菓なり、無水池には水湛へ、悪鬼神も奉随けるとかや、末代と云ながら、夷の身としていかでか君をばそむき奉るべき、汝等が放む矢は還て己等が身にあたるべし、ぬきたる剱にては吾身を切るべし、御方より放矢は征矢とがり矢をすけずとも、己等が甲はよもたまらじ、速に引退き候へや」と云ければ、
!木曾大にあざ咲て「さないはせそ」とて、をめいてかく。
やがて御所の北の在家に火をかけてければ、折節北風烈しく吹て、猛火御所へ吹覆て東西を失へるに、御所の後口今熊野の方より樋口次郎三百余騎にて鬨を作て寄たりければ、参り籠りたりける公卿殿上人、山々寺々の僧徒駈武者肝魂も身にそはず、手足の置所を知らず。
太刀の柄をとらへたれども、さしはたらかで逃られず、長刀を逆に突て己が足を突き切りなどぞしける上は、まして弓を引矢を放ん事までは、思ひもよらず、か様の者のみ多く参り籠りたりけり。
西は大手せめ向ふ、北は猛火もえ来る、東の後からめてまはりて待かけたり。
南門を開いてぞまどひ出られける。
西面の八条が末をば山法師のかためたりけるが、楯の六郎懸破て入にければ、築地の上にて金剛鈴を振つる知康も、いつちへ失ぬらん人より先に落にけり。知康落失ける上は、残留りて防んと云者なかりけり。
名をも惜み恥をも知るほどの者はみな討死しけり。其外の者どもは、匐々御所を逃出て、あそこここにて打伏切伏らるる事其数を知らず、無惨とも云ばかりなし。


七条末は摂津国源氏多田蔵人、豊島冠者、左田太郎固めたりけれ共、七条を西へ落にけり。軍以前に在地の者どもに、落ん者をば打伏よと知康下知したりければ、在地人等、家の上に登りて楯をつき、石つぶてをもて拾ひ置きて待処に、御所の兵どもの落けるを敵の落ると心得て「我おとらじとうちければ、是は御方ぞ院方ぞと面々名乗て助よ」と云ければ、「さはいはせそ、院宣にてあるぞ、落武者は唯打伏よ打伏よ」と打ければ、多くの人々打損ぜらる、はうはうにして軒の下に立寄て助らんとする者をば、向の屋の上より打間、こらへずして物具ぬぎすてはうはうにぞ落にけり。御所にもよきものども少々ありけり。
出羽判官光長は伯耆守に成、子息左衛門尉光経は検非違使に成たりけり。父子共に懸出、散々に戦て討死する、
信濃国住人村上判官代父子七人籠たりけるが、三郎判官代計ぞ討死してけり。残六人は落けり。
天台座主明雲僧正は香染の御衣に、みな水精の念珠をもち給ひて、殿上の小侍の妻戸をさし出て、馬に乗らんとし給けるを、楯の六郎が放矢に御腰骨を射させて、犬居に倒給けるを、兵よりてやがて御頸をとり奉りけり。
寺の長吏円恵法親王御輿にて東門より出させ給けるを、兵馳せつづき追落し奉りければ、或は小家に逃入せ給はんとせしところを、根井小矢太が射ける矢に、右の御耳の根よりかぜに射貫かれさせ給て臥給けるを、兵よりて御頸を切奉りけり。
法皇は御輿にめし、南の門より出させおはしましけるを、武士ども多く責かかり参らせければ、御力者御輿を捨て奉りて、面々に逃失せにけり。公卿、殿上人も皆立隔られてさんざんになりて、御供にも参る者もなかりけり、
豊後の少将宗長計ぞ木蘭地の直垂小袴にくくりあげて、御供に候はれける。宗長はもとよりしたたかなる人にて、法皇に少しもはなれ参らせで附たりけり。
武士追付て既に危かりけれども、少将立向て、「是は院の渡らせ給ふぞ、誤り仕るな」と申たりければ、武士馬より下りて畏。何者ぞと尋ければ、「信濃国住人根井小矢太并楯六郎親忠弟八島四郎行綱と申者にて候」と申て、三人制参らせて五条内裏へ奉渡て、守護し奉る。宗長ばかりぞ御供に候はれける。
其外の人々は一人も不見、大かたとかく申計なし、更にうつつとも覚えず、主上の御事をもさたし参らする人もなし。兵ども乱入ぬ、御所には火かかりたり。
七条侍従信清、紀伊守範光只二人候けるが、池にありける御船に乗まいらせて、さしのけたりけれども、流矢まきかくるやうに参りければ、信清「是は内のわたらせ給ふぞ、いかにかくは射参らするぞ」と申されけれども、猶狼藉なりければ心うく悲くて、主上をば御船の底に伏参らせ奉りてぞ居たりける。
夜に入て坊城殿へ渡し参らせて、それより閑院殿へ入せ給ふ、行幸の有さま只推量るべし、いまいましとも愚なり。法住寺殿は御所より始て、人々の家々軒をきしりて作たりつるを、一宇も残らず皆焼亡にけり。

【貴族たちのエピソード】
播磨中将雅賢はさせる武略の家にはあらねども、天性武勇の人にておはしけるが、糸威の腹巻に重目ゆひの直垂を被着たりけるが、殿上の西面の下侍の妻戸を押開て被出けるを、楯の六郎能引て頸の骨を志て射たりけるが、烏帽子の上を射付て、妻戸に矢は立にけり。其時「我は播磨の中将と云者ぞ、過ちすな」と騒がぬ体にて宣ひければ、楯の六郎馬より飛下り、生捕にして我宿所に戒め置き奉る。
越前守信行と云人有けり。布衣に下括して有けるが、供に具したる侍も雑色も、いづちへか失けん一人も見えず、二方よりは武士せめ来り、一方よりは黒けぶり押覆て、いかにともすべきやうもなし。大垣の有けるを越えむ越えむとしける程に、後より射貫かれて死にけり。無惨とも云ばかりなし。
主水正近業は大外記頼業真人が子、薄青の狩衣に上ぐくりして葦毛の馬に乗て、七条河原を西へ馳けるが、!木曾の郎等今井四郎馳並て、妻手の脇つぼを射たりければ、馬より逆に落て死にけり。狩衣の下に腹巻着たりけるとかや。明経道の博士也、兵具を帯する事不可然と人傾申けり。
河内守光資、弟蔵人仲兼は南の門を固めたりけるが、近江源氏錦古利冠者義弘打通りさまに、殿原は何をかためて今までおはするぞ、院他所へ行幸成たるものをとて落ければ、さてはとて河内守はうへの山に籠りぬ。源蔵人は南へ向て落にけり。
河内国の住人加賀坊源秀と云ける者、葦毛なる馬の極て口強なるに乗たりけるが、源蔵人に打並で申けるは、此馬のあまりにはやりて、乗給へるべしとも覚えず、いかにし候べきと
申たりければ、いざさらば仲兼が馬に乗替んとて、栗毛なる馬に裏尾白かりけるに乗かへたり。
主従八騎打つれて、瓦坂の手向に三十騎計にてひかへたる中へかけ出ぬ。半時計り戦てさつと引てのきければ、加賀坊を始として五騎討れぬ。仲兼主従三騎計破て通りけり。
加賀坊が乗たる裏白馬走り出たりければ、源蔵人の家子に信濃次郎頼成と云もの、源秀が乗かへたるをばしらで、舎人男のありけるが、此馬は蔵人殿の馬と見たるは僻事か、さん候、我主は討れにけり、さ候へばこそ御馬は候らんといひければ、あな心うや、蔵人より先に討れてこそみえんと思ひつる
に、何地へむきてかけつるぞや、あの見えつる勢の中へこそと申ければ、信濃治郎さござんなれとて、をめいてかけ入討死してけり。
源蔵人は木幡山にて、近衛殿御車にて落させ給ひけるに追付奉りぬ。あれは仲兼か、さん候、人もなきに近く参れと仰ありければ、宇治まで御とも仕て、それより河内国へぞ落にける。

【鼻豊後エピソード】
刑部卿三位は迷ひ出で帰られけるが、七条河原にて表裏皆はがれけり、烏帽子さへ落にければ、十一月十九日の事にてはあり。
河原風さこそ寒く身にしみ給けんに、赤裸にて立れたりけるに、此三位の姉聟に越前法橋章救といふ人なりけり。彼法橋のあとにありける中間法師、さるにても軍はいかが成ぬらんと思て立出たりけるが、此三位の有さまを見て、目も当られず、浅ましく思ひて、我着たる衣をぬぎて着せ奉りたりければ、衣を空(うつ)にほうかぶりて、この中間法師を先に立てぞおはしける、御供の法師も
白衣也。
三位もほうかづきしたる人なれば、人々おかしげに思ひしかば、とくとく歩み給へかしと思ひけれども、急ぎ歩み給はで、ここはいづくぞ、あれは誰家ぞとしづしづとの給ひけるぞ、余りにわびしかりしかとぞ、後に人々に語りけるとかや、是のみならず、おかしく浅ましかりしことども多かりけり。寒中に一衣着たる者をも、上下をいはずとられければ、男も女も皆赤裸にはがれて心うき事限りなし。かひなき命ばかり生たる人もにげかくれつつ、都の外なる山へぞまじはりける。


[モクジ]

巻十五【木曽六条河原に出て頸共懸る事】 ★

【木曽六条河原に出て頸共懸る事】
廿一日辰の時に、!木曾六条河原に出で、昨日きる所の頸ども竹に結でかけさせたり。
左の一の頸には、天台座主明雲大僧正の御頸、右の一には寺の長吏円恵法親王の御頸をぞ懸たりける。
其外七重八重にかけ並べたる首ども、惣じて三百余とぞ人かぞへ申ける。
是を見て天に仰ぎ地に倒てをめきさけぶ者多かりける。父母妻子などにてもこそありけめ、無惨とも愚なり。
越前守信行朝臣、近江前司為清、主水正近業などが首も此中にありけり。
先にこりさせ給はで、かかるいひがひなき事引出させ給ひて、万人が命を失はせ給のみならず、我身も禁囚せられさせ給ふ事、せめての御罪の報かと、後世迄もいかならんとぞ、貴賎上下遠近親疎爪弾をして申あひける。

八条の宮坊官大進法橋行清と云者ありけり。宮の討れさせ給ひぬと聞ければ、こき墨染の衣につぼね笠を着て、六条河原へ出て頸どもを見るに、明雲僧正の御頸と宮の御頸をば、左右の一番に懸たり。行清法橋見奉て、人目もつつましかりけれども、余りの心うさに衣の袖を顔にあてて、御頸に取付き奉らばやと思ひけれども、さすがそれもかなはねば、泣々帰りにけり。
其夜行清忍びて彼御頸を盗み取りて、高野に閉籠りて宮の御菩提をぞ奉訪けり。


[モクジ]

巻十五【宰相修憲出家して法皇の御許へ参事】 

【宰相修憲出家して法皇の御許へ参事】
故少納言入道の末子宰相修憲と云人おはしけり。此合戦の有さま心うく思はれける上、院をも!木曾奉取て、兵物厳しく奉守と聞えければ、いかにしてか今一度見参らせんと思はれければ、俗体にてよもゆるされじ、出家したらんのみぞ宥されんずると思ひて、俄にもとどりを切て頭をそり、五条内裏へ参られたりければ、守護の武士ゆるして入てけり。
法皇の御前に参り給て、俄に出家を思立候事、今一度龍顔を拝し奉らんが為にと申されたりければ、法皇聞召されて、真実の志かなとて、感涙をぞ流させ給ける。
人多く誅せられたりと聞召つれば、覚束なく思召しつるに、命全かりけるこそうれしく思召せとて、御涙を流させ給ければ、宰相入道墨染の袖をしぼりあへず、良久あて、仰有けるは、抑今度の軍に誰々か討れたると御尋ありければ、宰相入道涙を押へて申されけるは、八条の宮も見えさせ給ひ候はず、山の座主明雲僧正もながれ矢に当て失せ給ぬ。
信行、為清も討れ候ぬ。能盛も手負て万死一生とこそ承り候へと申されたりければ、むざんや明雲は非業の死をすべき人にてはなき物を、今度は我いかにもなるべかりけるに、かはりにけるこそとて、御涙を流させ給けるこそ忝かりける。
良久ありて、又仰ありけるは、我国は辺地の悪敷とはいひながら、我前生に十戒の力有て、十善の位に生ながら、先世の罪報に一度ならず斯るうきめをみるらんと、国土の人民の思ふらんこそ恥かしけれとて、御涙をうかめさせ給ひければ、宰相入道被申けるは、龍顔をあやまち奉る事、是言語の及ぶ所にあらず、いはんや法体を苦しめ奉らんに於てをや、日月天にかがやけり、照さぬもの誰かある、神明地を照し給へば、災害を起す者いき給はんや、さりとも宗廟すて給はじものを、只神慮をはからせ給はずして、知康如きの奴原が奏し申けるを、御許容候けるのみこそ口惜く覚え候へとて、墨染の袖をばしぼりける。


[モクジ]

巻十五【木曽院御厩別当に押成事】 ★

【木曽院御厩別当に押成事】
!木曾は昨日の軍に打勝て、「今日頸ども六条河原にかけて返て万事思ふさまなれば、内にならんとも院にならんとも我心也。但内は小童なり、一日みしかば院は小法師なり、内にならんとても、童にもなりがたくもなし。院に成んとて法師にもいかでかなるべき、関白にかならまし」と云ければ、今井以下の郎等どもいひけるは、「関白には藤原氏ならでは、えならぬとこそ承り候へ、君は源氏にて渡らせ給へば、難叶こそ」と云ければ、判官代にならばやと申ければ、今井、代は吉官にては候はぬござんめれと申ければ、さらば院の御厩の別当にならんとて、押て御厩の別当になりにけり。


[モクジ]

巻十五【松殿御子師家摂政に成給事】 

【松殿御子師家摂政に成給事】
廿一日に摂政を奉止、松殿御子権大納言師家とて十三に成けるを、大臣に奉成て、頓て摂政の詔書を被下。
大臣折節あかざりければ、後徳大寺の左大将実定の内大臣にてましましけるを、暫く借て成給たりければ、昔こそ迦留の大臣と申人おはしけれ。これはからるるの大臣とぞ時の人申ける。かやうの事をば大宮太相国*伊通卿こそ宣けるに、其人おはせねども、申人もありけるにや。


[モクジ]

巻十五【木曽公卿殿上人四十九人を解官する事】 

【木曽公卿殿上人四十九人を解官する事】
廿八日、三条大納言朝方卿以下、文官諸国受領都合四十九人を!木曾解官してける其中に、公卿五人とぞ聞えし。僧には権少僧都範玄、法勝寺執行安能も所帯を没官せられき、平家四十二人をこそ解官したりしに、!木曾は四十九人を解官す、平家の悪行にはなほこえたりけり。


[モクジ]

巻十五【宮内判官公朝関東へ下事】 

【宮内判官公朝関東へ下事】
かかりしほどに、北面に候ける宮内判官公朝、藤左衛門尉時成、二人夜昼尾張国へ馳くだる。
その故は兵衛佐の弟蒲冠者範頼、九郎冠者義経、両人熱田大宮司の許におはすとききければ、!木曾が僻事したるよしを申さんとなり。この人尾張まで被上けることは、平家世をみだられし後、東八ヶ国の年貢を不進送之間、領家本家は誰人やらん、国司目代も何やらんとも不知、そのうへ道のらうぜきもありければ、平家落て後三ヶ年が未進、皆たづねさたして、千人を兵士を着副て、兄弟二人を法住寺殿によせて合戦をいたし、御所をやきはらひたりける最中に、東国より大勢のぼるときこえければ、なにごとやらんとて、今井四郎をさしつかはして、鈴鹿不破関をかためたりときこえけるあひだ、この人人兵衛佐に申あはせずして、さうなく!木曾といくさせん事あしかりなんとて、引しりぞく。
熱田の大宮司の許にゐて、鎌倉へ飛脚をたてて、其返事をあひまちけるをりふし、公朝、時成馳下て、このよしを申ければ、九郎義経申されけるは、ことの次第分明にうけたまはりぬ、別の使あるべからず、やがて御辺はせくだりて、申さるべしと宣ひければ、公朝夜を日に継で鎌倉にはせくだる。
軍の時皆逃失せて、下人一人もなかりければ、生年十五歳になりける嫡子宮内公朝を下人にしてくだりけり。夜は子を馬に乗せ、昼は父を馬にのせて程なく下着す。

[モクジ]

巻十五【知康関東下事】 

【知康関東下事】
知康が凶害にて、このたび乱を発したる由申ければ、兵衛佐大に驚て、!義仲奇怪ならば、いくたびも頼朝に仰せてこそ誅候はめ、無左右君を申勧まいらせて、御所をやかせたるこそふしぎなれ、さやうのものを召つかはれんにおいては、自今以後ひがごとのもの出来べし、知康めしつかふべからざるよし申たりければ、知康陳ぜんとて、追付鎌倉へ下て、兵衛佐の許へ参て、見参に入らんと伺申けれども、めなみせそとの給ければ、申入るる人もなかりけり。

知康関東にてひふつく事
侍所に推参したりければ、兵衛佐簾中より見出して、子息左衛門督頼家の未だ稚くましましけるに、あの知康は究竟の比布の上手にてあんなるぞ、是にて比布あるべしとて、砂金十二両若君に奉り給たりければ、若君此をもて、比布あるべしと宣べしとありければ、知康十二両の金を給て、砂金は吾朝の重宝なり。
輙く争か玉にはとるべきやとて、懐中するままに、庭より石三を取て、やがて挺を上りさまに、目より下にて数百千の比布をかた手にてつき、左右の手にてつき、さまざまに乱舞して、応といふこゑをあげて、一時ばかりついたりければ、簾中より始めて、参会したる大名小名興に入て、ゑつぼのおもひにてぞありける。
誠に名をえたるもの、しるしはありけりとて、其後見参せられたりければ、知康、!木曾が都へせめ入て、在々所々を追捕し、大臣公卿に所をおかず、権門勢家の御領をもはばからず乱入して、狼藉なのめならず、神社仏寺にもおそれたてまつらず、堂塔をやぶりたきはてて、院の御所法住寺殿へ押寄て合戦をいたし、八条宮も討れさせ給ひぬ、天台座主明雲僧正も討れ給ぬなど、あることもなきこともくはしく申けれども、兵衛佐先立てこころ得たりければ、よろづ無返事にてましましければ、知康棹をのみたるここちして、すくみて匐々にげのぼりにけり。
人も能はあるべきものかな、知康をばさしもいきどほりふかくして、院にてもめしつかはせ給べからずと申されたりけるに、はかなき比布にめでて、兵衛佐見参せられたりけり。


[モクジ]

巻十五【兵衛佐山門へ牒状遺す事】 

【兵衛佐山門へ牒状遺す事】
さる程に、東国より兵衛佐の舎弟、蒲の御曹司範頼、九郎御曹司義経を大将軍として、数万騎の軍兵差副、都へ上せ、!木曾を可討之由申のぼせらる、山門にも牒状あり、其状云、

牒、遠尋往昔、近思今来、天地開闢以降、世途之間、依仏祖之鎮護、天子治政、依天子敬礼、仏祖増威光、云仏祖、云天子、奉守故也、于茲云源氏、云平民、以両氏之奉公者、為鎮海内之夷敵、為誅国土之〓士也、而当家親父之時、依不慮之勧誘処叛逆之勅罪、其刻頼朝被宥幼稚、預于配流、然而平氏獨歩洛陽之楼、恣究爵賞之位、家之繁昌、身富貴而誇両箇朝恩、偏蔑如皇威、奉討三条宮、因茲頼朝為君為世、追討凶徒仰相伝之郎従、起東国之武士、去治承以後、励勲功之間、以山道北陸之余勢、先令襲之処、平氏退散、落向西海之浪、爰!義仲等忽忘朝敵之追討、先申賜勧賞、次押領国庄、無程追平家之跡、専逆意、去十一月十九日、奉襲一院、焼払御所、追捕卿相、就中当山座主并御子宮、令入其列、叛逆之甚古今無比類、仍催上東国之軍兵、可追討逆徒也、権其首雖無疑、且祈請仏神且大衆之与力、殊欲被引率、仍牒送如件以牒

寿永二年十二月廿二日 前右兵衛佐源頼朝


とぞかかれける。
山門の衆徒此牒状を見、三塔会合して既に兵衛佐に与力してけり。
平家又西国よりせめのぼる。

[モクジ]

巻十五【木曽八嶋へ内書を送る事】 ★★

【木曽八嶋へ内書を送る事】
!木曾東西に通じて、平家と一に成て、関東をせむべき由おもひたち、さまざま謀をめぐらして、人にしらすべき事にあらねば、おとなしき郎等などにも云合するにもおよばず、世になし人の手能書やありと尋ねければ、東山より或僧を一人語ひて、郎等具してきたりたり。
!木曾此僧を一間なる所に入て、引出物に小袖二給て、酒などすすめ、ぎやく心なきよし申文をかかせけるに、!木曾がいふにすこしもちがはず、此僧文を書、二位殿へは見めよきひめやおはする、聟に成たてまつらん、いまより後は、すこしもうしろめたなく思ひ給ふべからず、もしも空事を申さば、諏訪大明神の御罸をあたへらるべしなどかかせたり。
惣じて文二通かかせ、一通をば平家大臣殿へと書す、一通をば其母の二位殿へと書かせて、雑色男を召よせて、西国へつかはしけり。此文を見て大臣殿ことに悦給けり。二位殿もさもやとおもはれたりけるを、新中納言の給けるは、故郷にかへりのぼらんはうれしけれども、!木曾と一に成てこそと人は申さんずらめ、頼朝がおもはん所もはづかしく候、弓矢をとる家は名こそをしく候へ、君かくてわたらせおはしませば、甲をぬぎ弓をはづして降人にさんずべしと返答あるべしとぞの給ける。

【平家の詮議】
!木曾都へうち入て、在々所々を追捕し、貴賎上下をなやまし奉り、院の御所法住寺殿を焼き、殿上人を誡めおきて、少しもはばかる所なき由を、平家伝聞て申されけるは、「君も臣も山も奈良も、此一門をそむいて源氏の世になしたれども、さもあるにや」と、大臣殿よりはじめたてまつりて、人々興に入てぞ申されける。
権亮三位の中将は、月日の過行けるままには、あけてもくれても、故郷の事をのみ恋しくおぼして、唯かりそめの新まくらもかたり給はずあまりに、左兵衛重景、石童丸などを近く御そばにおき、北のかた、若君、ひめぎみの御事をのみぞの給いだし、いかなる有様にてかあるらん、誰かあはれみたれかいとをしといふらん、我身のおきどころだにあらじ。
おさなきものどもをひきぐして、いかばかりの事をおもふらん、ふりすてていでしこころつよさもさることにて、いそぎむかへとらんとこしらへおきし事も、程へぬれば、いかにうらめしく思ふらんとの給ひつづけて、なみだをながし給ふぞいとをしき、北方はこのありさまをつたへききて、只いかならん人をもかたらひて、心をもなぐさめ給へかし、さりとておろかにおもふべきにあらずとて、つねには引かづきふし給ふも無慙なれ。

【松殿のいさめ】
!木曾は五条内裏に候て、法皇をきびしく守護しまいらせける間、公卿殿上人一人も参らず、合戦の時生捕にしたりし人をも赦さず。
なほいましめおきたりければ、前入道殿下、内々!木曾におほせられけるは、「かくはあるまじき事ぞ、ひが事なり、能々思慮あるべし、故清盛入道は神明をもあがめたてまつり、仏法にも帰依し、希代の大善をもあまた修したりしかばこそ、一天四海を掌の内にして、二十余年までたもちたりしか、大果報の者也、上古にも類すくなく当代にもためしすくなし、其が法皇をわづらはしたてまつりしより、天の責をかうむりて忽に亡びにき、子孫又たえはてぬ、おそれてもおそるべきは悪行なり。非道をのみ好で世を保つ事はあるべからず」と仰られければ、誡め置たりし人々をもあはれみ、禁獄しつる事をもやめてけり。
物の心をも知らぬ荒夷なれども、かきくどき細に被仰ければ奉靡けり。されどもなほもとの心は失せざりけり。
仏事にも報いたらば、平家こそ百年まで世を保ため、弓矢をとる習ひ、二なき命を奪れん敵は、今より後も手向ひせではよもあらじ。我腹のゐんまではと思へども、入道殿をこそ親とも申したれ、親のおほせのあらん事を、子とてはいかでかただはあるべきと云ける事こそおかしけれ。

[モクジ]

巻十五【木曽依入道殿下御教訓法皇奉宿事】 ★

【松殿のいさめ】
!木曾は五条内裏に候て、法皇をきびしく守護しまいらせける間、公卿殿上人一人も参らず、合戦の時生捕にしたりし人をも赦さず。
なほいましめおきたりければ、前入道殿下、内々!木曾におほせられけるは、「かくはあるまじき事ぞ、ひが事なり、能々思慮あるべし、故清盛入道は神明をもあがめたてまつり、仏法にも帰依し、希代の大善をもあまた修したりしかばこそ、一天四海を掌の内にして、二十余年までたもちたりしか、大果報の者也、上古にも類すくなく当代にもためしすくなし、其が法皇をわづらはしたてまつりしより、天の責をかうむりて忽に亡びにき、子孫又たえはてぬ、おそれてもおそるべきは悪行なり。非道をのみ好で世を保つ事はあるべからず」と仰られければ、誡め置たりし人々をもあはれみ、禁獄しつる事をもやめてけり。
物の心をも知らぬ荒夷なれども、かきくどき細に被仰ければ奉靡けり。されどもなほもとの心は失せざりけり。
仏事にも報いたらば、平家こそ百年まで世を保ため、弓矢をとる習ひ、二なき命を奪れん敵は、今より後も手向ひせではよもあらじ。我腹のゐんまではと思へども、入道殿をこそ親とも申したれ、親のおほせのあらん事を、子とてはいかでかただはあるべきと云ける事こそおかしけれ。

[モクジ]

巻十五【法皇大膳太夫成忠宿所被渡給事】 

【法皇、西洞院に軟禁】
十二月十日は、法皇五条の内裏をいでさせ給て、大膳大夫業忠が六条西洞院へわたされ給にけり、かくてその日より歳末の御懺法は始められけり。

【クーデター後の除目】
同十三日!木曾除目を行て思ふさまに官途も成てけり。
!木曾が所行も、平家の悪行に劣ずぞ聞し。我身は御厩の別当に押成て、左馬頭伊予守になりし上に、丹波国を知行して、其外畿内近国の庄国、院、宮の御領、又上下の所領をしかしながらおさへとり、神社仏寺の庄領をも不憚振舞けり。
前漢後漢の間、王莽といひけるものに、世を取て、十八年我侭に行ひけるが如く、平家はおちたれども、源氏は未だうちいらず、其中間に!義仲行家二人して、京中を亡しけるも、いつまでとおぼえて、危くこそ見えけれ、されどもあぶなながら今年も暮れぬ。
東は近江国、西は摂津国まで、道塞つて、君の貢物も奉ず。京中の貴賎上下、すこしき魚の水に集れるが如く、ほしあげられて命もいきがたくぞ見えられける。

(巻第十五終)

[モクジ]

巻十六【院拝礼並殿下拝礼無事】 

【京の正月の様子】
元暦元年正月一日、院は去年十二月十日五条内裏より、大膳大夫業忠が六条西洞院の家へ渡らせ給たりけるが、世間未だ落居せざる上、御所の体礼儀行はるべき所にもあらねば、拝礼もなし。
院の拝礼なかりければ、殿下の拝礼も行はず。
内裏に主上渡らせたまへども、例年は寅の一天に被行四方拝もなし。清涼殿の御簾も上げられず、解陣とて南殿の御格子三間ばかりを上たりける。


[モクジ]

巻十六【平家八嶋にて年を経る事】 

【平家八嶋にて年を経る事】
平家は讃岐国屋島の磯に春を迎へて、年の始めなりけれども、元日元三の儀式こそよろしからざりけれ。先帝おはしませども四方拝もなく、小朝拝もなし、節会も行はず。
氷のためしも奉らず、〓使も奏せず、世乱たりしかども、都にてはさすがにかくはなかりし物をと哀なり。青陽の春も来て、浦吹風も和に日影も長閑になり行けども、平家の人々は寒苦鳥にことならず、いつとなく氷にとぢられたる心地して、春の朝、月の
夜、詩歌、管絃、小弓、扇合、絵合、様々興ありし事思ひ出して、長き日暮しかね給ふぞ哀なる。


[モクジ]

巻十六【義仲為平家追討発下西国事】 ★

【義仲為平家追討発下西国事
十日伊予守!義仲、平家追討のために西国へ下らんとて、今日門出すと聞えし程に、東国より兵衛佐の弟蒲冠者、源九郎等を大将として、数万騎の軍兵をさしのぼせて、!義仲を追討すべき由聞えけり。
其故は!義仲上皇を取籠め奉り、人々を解官して、平家の悪行にも劣らず、朝威を忽諸し奉る由頼朝是を聞きて、「!義仲を差上するは、仏神をもあがめ奉り、王法をも恭くし、天下をも鎮め君をも守護し奉れとてこそ上せしに、さやうに狼藉をいたす条甚奇怪也。既に朝敵なり」とて、怒をなして差のぼする所の勢、既に先陣は美濃国不破関につきたり。
後陣尾張国鳴海がたまでつづきたる由聞えければ、!義仲これを聞きて、宇治勢多二道をふさがんが為に、親類郎従を分ち遣す。

平家又福原へ責上る。



[モクジ]

巻十六【梶原與佐々木馬所望の事】 

【梶原與佐々木馬所望の事】
其比兵衛佐の許に、摺墨、池月とて二疋の名馬あり。京へ立さまに、池月が事を蒲殿を始めとして、梶原源太景季以下の侍、我も我もと所望しけれど、自然の事あらん時、頼朝物の具して乗んずるとて惜まれければ、力及ばずして、さもあれ今一度申て見んとて、かさねて申たりければ、摺墨を与へんとてたびてけり。景季悦でまかりいでぬ。
その後佐々木四郎高綱、上洛のいとま申に参りたりければ、兵衛佐いかがおもはれけん、この馬に乗りて宇治川の先かけて高名せよとて、かの秘蔵の池月をたびてけり。
面目いふばかりなし。高綱申けるは、今度の合戦に高綱死にけりと聞召させ候はば、宇治川の先陣に於ては、人にせられ候けりと思召され候べし。生て候と聞召し候はば、一番してけりと御心得候べしとて出にけり。各々鎌倉を打出て、浮島が原に人々おりゐて、馬かひける所にて、多くの馬共をみるに、景季がするすみにまさる馬こそなけれ。さもあれ猶も見んとて、高き所に打あがりてこれをみる。引馬ども何千疋といふ事を知らず、思ひ思ひの鞍に色々のしりがひかけて、或はもろくちに引くもあり。或は片口に引せ、乗引に引せて引通し引通ししける中に、池月とおぼしき馬に金覆輪の鞍置きて、こぶさの鞦かけて、しらあはかませて、舎人二人して引て出来、梶原打よて見ればまことの池月也。
ふり事がら少しもたがはず、あれは誰が馬ぞと問、佐々木殿の御馬候、佐々木殿とは三郎殿か四郎殿か、四郎殿御馬候、其時景季思ひけるは、同じ侍にて景季が先に申たるには給らで、佐佐木にたびたりけるこそいこんなれ、日本国の大将軍も時によりては偏頗したまひけるものを、これほどに思はれ奉りて、奉公して何にかはせん、平家の侍に組んで死も同じ事也。今は是こそ敵なれ、佐々木に言葉をかけんに悪く返答せば、真中いて射落して、景季自害して、大事を前にかかへておはする兵衛佐殿に、よき侍二人失はせてそんとらせんと思ひて、佐々木を待所に、高綱何心もなく出来り。
景季思ひけるは、おし並べてや組む、又向ふさまにやあて落すといろいろになりて、や殿、佐々木殿、池月をば給はられたりけるなと言葉をかく。
高綱梶原がけしきを見て、前に心得てければ、少しも騒がず、さればこそ折ふし申つれどもたまはらず、時にびんぎよかりつれば、盗みて宵にさかはまで遣はして、かくして乗りたるぞ、昔天竺の国王の千頭の象をもち給ひたりけるに、他国よりせめ来りし間、せめ戦はんがために、兵をあつめて九百九十九頭の象をたびて軍に向はせけり。
今一頭の象をばもしの事あらば、国王召さんとて残されたりけるを、或兵密に夜かの象を盗みて乗りつつ、一番をかけてかたきの大将を討取りて、勲功に預る由申伝へたり。
高綱私の用にあらず、兵衛佐殿の御為なり。和殿も所望せらるるこそ聞つれと申ければ、梶原打うなづきて、腹ゐたりげにて、ねたびさらば、景季もぬすまでとぞ申ける。此馬を池月といひける事は、馬をも人をも食ふ馬也。八寸(やき)の馬とぞ聞えし。摺墨は黒き馬のふとくたくましきにてぞありける。


[モクジ]

巻十六【義仲可為征夷将軍宣下事】 ★

【鎌倉軍到来】
十一日伊予守!義仲可為征夷大将軍由、宣下されける程に、
!木曾義仲を追討の為、廿日辰の刻に東国より軍兵二手に宇治勢多両方より都へ入る。
勢多の大将軍には蒲冠者、武田太郎、加々見太郎、同次郎、一条次郎、板垣三郎、
侍大将には、土肥次郎、稲毛三郎、半替(榛名)四郎、小山、宇都宮、山田、里見者共を始めとして、三万五千余騎也。
宇治の大将には、源九郎義経、侍大将には畠山庄司次郎、梶原平三、嫡子源太、佐々木四郎、渋谷庄司、糟屋藤太、平山武者所を始めとして二万三千余騎、伊賀国を廻て宇治橋に至る。二手の勢六万余騎にはすぎざりけり。

【木曽軍の動向】
!木曾義仲折節勢こそなかりけれ。
樋口の次郎兼光をば、十郎蔵人行家が河内国石河と云所にある由聞えければ、それを責んとて五百余騎にて下してけり。
今井四郎兼平を勢多を固めにさし遣はす。
方等三郎先生義弘、仁科、高梨子、三百余騎にて宇治へ向ふ。
京には力者三十人を副て、もしの事あらば、院をもとり奉り西国へ御幸なし奉らんと支度して、上野国那和太郎弘隆を相具して、!義仲が勢僅に百騎には過ざりけり。
今井四郎兼平、方等三郎先生義弘、宇治勢多両方橋引て河には乱杭打、大綱をはへ、逆茂木を緤ぎながしかけたりければ、輙く渡すべき様なかりけり。



[モクジ]

巻十六【兵衛佐軍兵等付宇治瀬田事】 ★

【宇治瀬田事】
九郎義経宇治川の端に打寄せて見れば、比は正月廿日余りの事なれば、比良の高根、志賀の山、昔ながらの雪消えて、雪しるに水は増りけり。
両岸さかしくして白波おびただし、瀬まくら頻りにたぎりて、さかまく水も早かりければ、川ば端兵共くつばみを並べて、水の落あしを待べきなんど云所に、畠山庄司次郎重忠生年廿一、長絹の直垂に赤綴の鎧に、重籐の弓取直して、大中黒の矢負て、いか物作りの太刀をはき、黒き馬にいかけ地の鞍置てぞ乗たりける。
川端に打よせて向の岸を見渡して申けるは、「兵衛佐殿も、定めて宇治川勢多両所の橋は引んずらん
とこそ仰せられ候き、かねて知し召されぬ海川の、俄に出来らばこそ扣へてかくとも申さめ、此河、近江の水海のすゑなれば、待とも更に引かじ、誰かは橋をも渡して参らすべき、此河の体を見るに、馬の足立ぬ所五六反にはよもすぎじ、高倉の宮の御時足利又太郎も渡せばこそ渡しけめ、神のなりてはよも渡さじ、いでいで重忠瀬踏仕らん、武蔵の若党ども続けや」とて、丹党を始として五百余騎くつばみを並てさとおとす所に、平等院の丑寅の隅、橘の小島が崎より、佐々木四郎高綱と梶原源太景季とは、素より挑む敵なれば、我先にと二騎ひきかけひきかけ急ぎたり。
いまだ卯の時ばかりの事なれば、河霧深く立こめて、馬の毛も鎧の毛もさだかならず。
梶原、三段ばかり差進みたり。高綱、河の先せられんと思ひて、「やとの梶原殿、此河はやうある河ぞ、上も下も早くて馬の足いく程ならず、はるびのびたるとみゆるぞ、しめよかし」と云ければ、さも有るらんと思ひて、鐙を踏すかしてつゐ立上りて、はるびを二三度ひつめひつめしけるまぎれに、佐々木馬手の脇より馳抜て、河へさとぞ打入れける。
「和殿にはだしぬかるまじきぞ」といひて、続て打入たり。
河の半ばかりまでは、佐々木に近付たりけるが、河中よりは梶原少し押流されて見ゆ。
佐々木は河の案内者なる上、池月といふ第一の馬にぞ乗たりける、馬の首に大つなかかりたりけれども、兼てぞんぢしまうけたる事なれば、三尺二寸の太刀を抜きてふつと切て、十文字に向への岸の思ふ所にさと着ぬ。
近江国住人佐々木四郎高綱、この河のまさき渡したりとて、五百余騎が中へはせ入たり、是を見て橋の下にひかへたる畠山も渡しけり。

【大串着岸エピソード】
!木曾が手には山田次郎が郎等表に立ちて放つ矢に、畠山が馬の額に深くたつ。射られて馬よわりければ、鐙を越しており立たり。水は早し底は深し、甲の星をあらはせてぞ通り
ける。水も早く鎧も重けれども、畠山少しもたゆまず渡りて行く。
武蔵国住人大櫛次郎川の面を見下して、あらいしの河の早さよといひいひ流れて、すでにあぶなかりけるを、下手をきとみれば、弓だけばかり下に甲のはちこそみえたれ。
大櫛、畠山とみてければ、是を目にかけてするりとよつて甲の鉢にぞ取付たり。
畠山は是をも知らず渡し行ほどに、何となくいしう甲の重きは、水の増るか我身のよわるかと思ひて、ふりあふのいてうしろをみれば、褐衣の直垂に洗革の鎧着て、黒つはの矢負たる武者也。其時畠山甲に取付たるはいかなる物ぞ、とりあへず大櫛次郎安則にて候と申せば、いしう取付たりとて、渡りけり。
畠山乱杭に渡りつきて申けるは、「向への岸へは三弓たけばかりにはよも過じ、河岸深くてなんぢがためには叶ふまじ、是より向へに投げ越さんいかに」大櫛「とも角も御はからひにて候べし」と申ければ、畠山、大櫛を弓手のかひなに乗せてなげこしたり。
大櫛足をかがめて弓杖をついてぞ立ちたりける。大櫛かぶとのををしめて弓取直して申けるは、橋より下先陣は畠山先とは見ゆれども、向への岸に着事は、武蔵国住人大櫛次郎安則渡したりやと申ければ、敵も味方もわとぞ笑ひける。
畠山渡りければ、二万五千余騎の勢ども、我も我もと渡しけり。水はせかれて下は浅し。雑人共は下手につきて渡りければ、膝よりかみは濡さざりけり。
爰に渋谷右馬允重助、佐々木五郎義清は、馬よりおりて橋桁に渡りければ、平山武者所末重、糟屋藤太有季ぞ続きたる。

三百余騎矢先を揃へ、弓のほこを並べて射けれども、大勢責かかりければ、宇治の川の手は破れて、都の方へぞ落にける。
勢田は稲毛三郎、榛谷四郎が計らひにて、たながみの、貢御の瀬といふ所を渡して追落す。
今井四郎、三郎先生防ぎ戦ひけれども、素より無勢なりければ、散々に駈ちらされて、同く京へ帰り入る。

【ヨリトモの先陣メモ】
さて宇治勢多渡したる日記鎌倉へ下りければ、兵衛佐取あへず、高綱ありやと問たまふに、候と申ければ、此者ははや先してけりと覚して、日記を見たまふに、今度宇治川の先陣は、近江国住人佐々木四郎高綱とぞ有ける。義経は馬次第に京へ馳入る。


[モクジ]

巻十六【義仲都落る事】 ★★★

【木曽殿の失敗】
!木曾は、宇治勢多両方落されぬと聞て、十四五騎計りにて、院の御所六条殿へ馳参りて、!義仲こそ勢多もおとされて、さいごの見参に参て候へと申ければ、法皇を始め参らせて、公卿殿上人北面の輩に至るまで、またいかなる事をかせんずらんとて、おのおの色を失ひておぢ騒ぎたまひける程に、敵すでに最勝光院、柳原まで責近づくと聞えければ、南庭までは馬に乗ながら参りたりけれども、さして申旨もなくて、!木曾まかりいでにけり。
院中には上下手を挙、立ぬ願もなかりける験にや、其後は急ぎ門々さされにけり。

【ある宮腹の女房】
!木曾はある宮腹の女房とりて置たりけるが、別を惜みて引物の中に有けるを、越後中太家光といふ者、「敵すでに近付たり。いかにかくてはおはしますぞ」といへども、!木曾は音もせざりければ、家光終にのがるべからずとて、腹かき切て臥にけり。
!木曾是を見て、!義仲をすすめける自害にこそとて五百余騎の勢にて打立て河原へいづる。

【義経登場】
九郎義経が郎等、六条河原にて行あひて合戦す。!義仲最期の戦ひと思ひ切て戦ひけれども、運のきはめになりにければ、!義仲散々に駆散されて、思ひ思ひに落にけり。
義経が郎等はせ付きて是を追ふ。
大膳大夫業忠は、御所の東の築垣の上に上て四方をみるに、「六条東洞院より武者六騎、御所をさしてはせ参り候」と申ければ、法皇大に驚せおはします。!義仲帰り参るにや、此度こそ君も臣もうせはてよ、こはいかがすべきとて、人々ふるひわななきけるに、業忠能々見て、「!義仲が与党にては候はざりけり、笠印ばかり見え候、只今京へ入候は、東国兵と覚え候」と申程に、九郎冠者門近くはせよて、馬より飛下りて業忠に向て、「鎌倉兵衛佐頼朝舎弟源九郎義経と申者こそ参りて候へ、見参に入させたまへ」と申たりければ、業忠余りのうれしさに、急ぎ築垣の上より飛降るとて、腰をつきそんじてけり。
いたくじゆつなかりけれども、悦ばしさに紛れて、はふはふ御所へ参りてそうしければ、上下大に悦給けり。門を開きたりければ、義経赤地錦の直垂に、萌黄の唐綾、裾紅の綴の冑に、鍬がた打たる甲をば着ずして持せたり。金作りの太刀をはきたりける。弓とりうちの程に、紙を一寸ばかりに切て、南無宗廟八幡大菩薩とかきて左巻に巻たりけり。
九郎義経に相具して六人ぞありける。残り五人が中一人は、武蔵国の住人秩父末葉畠山庄司次郎重忠、白き唐綾の冑直垂の射向の袖には、紺地の錦をいろへたるに、紫綴の鎧に大中黒のそやの篦には、やきゑをしたるを負たりけり。一人は同国の住人河越太郎重頼、しげめゆひの直垂に、いむけの袖には赤地の錦をいろへたるに、黒糸をどしの冑、に大きりふの征矢のうはやに、あまのをもてはぎたるをおひたりけり。一人
は相模国の住人渋谷三郎庄司重国、褐衣の直垂に、大あらめの洗がはの冑に、烏がをの征矢をおひたり。
一人は同国の住人梶原源太景季、蝶目ゆひの直垂に、薄紅の綴の冑きて、妻白の征矢おひたり。一人は近江国住人佐々木四郎高綱、萌黄のすずしの冑直垂に、小中黒の征矢をぞ負たりける、重忠より始て次第に名乗り申、六人の兵共甲をば皆持せたり。直垂も冑も思ひ思ひ色々に変りたりけれども、弓は皆塗籠にてぞ有ける。
義経を始として中門の外車宿の前に立並びたり。
頬魂ひ、骨柄、何れこそ劣りたり共覚えず、法皇中門のれんじより叡覧有て、ゆゆしげなる奴原哉とて仰有けり。
大膳大夫業忠仔細承て尋ねければ、義経申けるは、「!義仲が謀叛の由頼朝承候て、舎弟蒲冠者并に義経を始として、宗徒の郎等三十人参らせ候、其勢六万余騎に及候、二手に分け宇治勢多両方より罷り入候、範頼は勢多よりまかり入候が、いまだ見えず候、義経は宇治を渡して先に参りて候、!義仲は河原を上りに落候つるを、郎等どもあまた追かけ候つれば、今は定て討候ぬらん」と、いと事もなげにぞ申たる。
院宣には、!義仲が与党なども帰参りて狼藉も仕らば、義経は此御所にて、よくよく守護仕れと仰下されければ、何条事か候へきと申て、門々堅めて候けり。
その後義経が勢三十騎ばかり六条河原に打立たり。三十騎が中に大将二人有けり。一人はしほの屋五郎通成、一人は勅使河原権三郎有直なり。しほの屋が申けるは、後陣の勢を待つべきか、勅使河原申けるは、一陣破れぬれば、残党全からず、ただかけよやとぞ申ける。

【木曽殿落ちる】
去程に追つづきて三万余騎馳来り、
!木曾は上野国住人那和太郎弘隆相具して、その勢百騎にて三条河原と六条河原との間にて、返し合せ返し合せ五六度まで駆なびかして、終に三条河原を駆破りて、北国の方へぞ落にける。
去年の春は北国の大将軍として上りしには五万余騎にて有しかども、今粟田口に打出にければ其勢七騎也。まして中有の旅の空、思ひやるこそ哀けれ。

【巴の行方】
七騎が中一騎は女鞆絵といふ美女也、紫格子のちやうの直垂に、萌黄の腹巻に、重籐に弓うすべうの廿四さしたる矢負ひて、白蘆毛なる馬のふとく逞しきに、二どもゑすりたる貝鞍置てぞ乗たりける、ここには誰とは知らず武者二騎追かけたり。
ともゑ叶はじとや思ひけん、馬をひかへて待処に、左右よりつとよる。
その時左右の手をさし出して、二人が冑のわたがみを取て、左右の脇にかいはさみて、一しめ絞て捨たりければ、二人ながら首ひしげて死ににけり。
女なれども究竟の剛の者、強弓の精兵、矢次早の荒馬乗の悪所落し也。
!木曾軍毎に身を放さず具したりけり。齢三十二にぞなりける、わらはべを仕ふ様につかひけり。
ともゑはいかが思ひけん、逢坂より失にけり。後に聞えけるは越後国友椙といふ所に落留りて、尼になりてけるとかや。

【木曽殿と今井】
!木曾もろば山の前、四宮河原に打出でてみれば、今井四郎勢田を落て、五十騎ばかりにて旗を巻て、京の方へ入る。
!木曾、今井と見てければ、急ぎ歩ませより、轡を並べて打立たれども、夢の心地して物もいはざりけり。
良久く有て「!木曾、都にて討死すべかりつれども、今一度汝に見えもし見んと思て来たる也」といへば、「兼平勢多にて討死すべく候つれども、御行衛の覚束なさに、今一度見参らせんとて参りて候」とぞ申ける。
!木曾が旗差は射殺されてなかりければ、兼平が旗をさせとてささせければ、勢多より落加るともなく、京より追つく者ともなく、五百余騎馳くははる。木曾是を見て、などか此勢にて一軍せざらんとて、甲斐の一条次郎忠頼六千余騎にてひかへたるに、!木曾赤地の錦の直垂に、薄金といふ唐綾縅の鎧に、白星の甲きて、廿四差たる切生の矢に、金作の太刀はきて、塗籠籐の弓取直し、蘆毛なる馬に金覆輪の鞍おきて、厚房の尻がいかけて乗たりける。
あゆませ向て、「清和天皇の十代の御末、八幡太郎義家に四代の孫、帯刀先生義賢が次男!木曾冠者、今は左馬頭兼伊予守朝日将軍!源義仲、甲斐一条次郎と聞は誠か、!義仲はよき敵ぞ、打取て頼朝に見せて悦ばれよ」とて、くつばみを並べて、をめいて駆入て、十文字にぞ戦ひける。
忠頼是を聞て、「名のる敵討てや若党ども」とて、六千余騎が中に取こめて火出るほど戦てければ、其勢三百余騎計に打なされて、佐原十郎義連五百余騎にてひかへたる中へかけ入て、しばし戦てかけ破り出ければ、百騎ばかりに討なさ
る。
土肥次郎が五百余騎が中へ駈入て、しばし戦ひて駆破て出たれば、五十騎に討なさる。其後かしこに百騎、ここに四五十騎、所々行合ゆきあひ戦ふほどに、粟津の辺にては主従五騎にて落にけり。
手塚別党、同甥手塚太郎、今井四郎兼平、多胡次郎家包と云者つづきたり。
相構へて生捕にせよと、仰せられたるぞ、家包ならば軍をやめたまへ、助け奉らんと申けるを、何条さる事あるべきぞとて、今はかうと戦ひけれども、終に生捕られてけり。

【木曽最期】
!木曾、今井に向ひて云けるは、「日頃何とも思はぬ薄金の重く覚ゆるぞ」と云ければ、今井が申けるは、「日頃にかねもまさず、べちのものもつかず、何か今にはじめぬ御きせながの重く思召され候べき、御身の疲れにて渡らせ給らん、勢のなしと思召して、臆病にてぞ候らん、兼平一人をばよの者の千騎と思召され候べし、あれに見え候松のもとへ打よらせ給て、しづかに念仏申させ給ひて御自害候べし、射残して候矢七八候、防矢仕候べし」と申て、粟津の松のもとへはせ寄けり。
去程に勢多の方より武者三十騎計り出来る。
是を見て「殿ははや松中へ入せ給へ、兼平はこの荒手に打向ひて死なば力及ばず、いきば帰り参らん、兼平が行衛を御らんじ果て、御自害候へ」とて、かけんとする所に、!木曾申けるは、「都にて討死すべかりつるに、是まで来る事は、汝と一所に死なんが為也、二騎に成てここかしこにて死なん事こそ口惜けれ」とて、馬の鼻を並べんとする所に、今井申けるは、「武者は死て後こそさねはかたまるものにて候へ、年比日比はいかなる高名をして候へども、最後の時ふかくしつれば、ながき世の疵にて候也、いふかひなき郎等共にこそ、!木曾殿は討れ給ひにけれと、いはれさせ給はん事こそ口惜く候へ」と云ければ、理とや思はれけん、後合せに馳せておはしけり。
彼松の本と申は、道より三町計り南へ入たる所なり。それを守りて!木曾落行。

ここに相模国の住人石田小次郎為久といふ者追かけて、「大将軍とこそ見参らせ候へ、きたなしや、源氏の名をりに返し合せ給へ」といひければ、!木曾射残したる矢一ありけるをとてつがひて、おしひらいて射たりければ、石田が馬のふと腹にのすくなく立たりけり。
石田はまさかさまに落にけり。
!木曾は松の方へ落行。頃は元暦元年正月廿日の事なれば、粟津の下のひろなはての、馬の頭もうづもれる程の深田に、氷の張たりけるを、馳渡らんと打入たりければ、馬も弱て働かず、主も疲れて身も引かず、さりとも今井は続くらんと思ひて、後を見かへりけるを、為久よひいて射たりければ、!木曾が内甲に射つけたり。
甲のまかうを馬の頭にあてて、うつぶしに伏たり。
為久が郎等二人馬より飛びおりて、たうさぎをかき、深田におりて!木曾が頸を取る。
今井は!木曾討れぬと見て、新手にむかひ命を惜まず戦ひけり。今井あゆませ出して申けるは「音にも聞き目にも見よ、信濃国住人!木曾仲三権守兼遠四男、今井四郎兼平とは我事ぞ、!木曾殿には乳母子、鎌倉殿もさる者ありと知し召されたり、兼平が首とて、あれ功の一所にもあへや殿原」とて、数百騎の中へをめいてかけ入。
縦様横様に散々に駆けれども、大力の剛の者なれば、寄て組むものなかりけり。ただ引つめて遠矢にぞ射ける。されども鎧よければうらかかず、あき間を射ねば手もおはず、さる程に八の矢にて八騎の敵は射殺す。
「日本第一の剛の者、主の御供に自害する、見習や八ヶ国の殿原」とて、太刀を抜てきつ先をくはへて、馬より前に落て、つらぬかれてこそ死にけれ。太刀の先二寸ばかり草ずりのはづれに出たりけり。

是よりしてこそ粟津の軍はとどまりにけれ。

[モクジ]

巻十六【樋口次郎成降人事】 ★★

【樋口次郎、捕虜になる】
樋口次郎兼光は、十郎蔵人行家を討べしとて河内国へ下りたり。
蔵人を討逃して、兼光女どもを生捕にして京へ上りけるが、淀の大渡の辺にて!木曾討れぬと聞きければ、生捕ども皆赦して、「命惜と思はん人は是よりとくとく落給へ」といひければ、五百余騎の者ども思ひ思ひに落にけり。

【庄三郎兄弟エピソード】
残る者僅に五十騎ばかりもありけるが、鳥羽の秋山の程にもなりければ、三十騎ばかりになりて、ここに児玉党に庄三郎・庄四郎とて兄弟ありけり。
三郎は九郎御曹司につき奉りけり、四郎は木曾殿にあり。
然るを!木曾討れ給ひて後、樋口が手に付きて上ると聞えければ、兄の三郎使者をたてて弟四郎にいひけるは、「誰を誰とか思ひ奉るべき、!木曾殿は討れ給ひぬ、九郎御曹司へ参り給へかし。さるべくば其様申あげ候はんといひ遣しければ、兄弟のよしみ今にはじめぬことに候へども、誠に喜入て承り候ぬ。急ぎ参らん」とぞ返事したりける。
兄三郎「さればこそ」といひ待ちけれども見えざりければ、重て使を遣したりければ、四郎申けるは、「誠両度の御使然るべく候へば参るべくこそ候へども、且は御辺の御為も面目なき御事也。弓矢取習ひ二心有を以て今生の恥とす。昨日までは!木曾殿に付奉りて、御恩を蒙り、二なき命を奉らんと思ひき、今は又討れ給て、幾程なく命を助らんとて、本主の敵九郎御曹司に参らん事口惜候へば、御定は然るべく候へども、えこそ参り候まじけれ。御悦には先かけて討死して名を後代にあげ、三郎殿の面目をもほどこし奉るべし」と申たりければ、三郎力及ばず、「さては四郎さる者なれば、言葉違へずして死すべきなんずらん、人に討せじ、同くは我討取て御曹司の見参に入べし、弓矢取者のしるし是こそ」と思ひて待かけたり。
案の如く庄四郎うちはの旗ささせて、真先に進んで出で来る。是を見て庄三郎、あはや四郎は出来るはと思ひて、とかくの仔細に及ばず、扨並べて組で落たり。しばしはからかひけるが、兄弟同じ程の力にてやありけん、互に組で伏したりけるを、三郎は多勢なりければ、郎等数多落合ひて、四郎をば手取に取てけり。
御曹司に参らせたりければ、庄三郎神妙に仕たり。「四郎が命はたすくる也」とのたまひければ、四郎申けるは、「命を助られ参せたらん印には、自今以後軍の候はんには真先かけて君に命を参らせ候べし」とぞ申ける。皆人是を感じけり。

【千野兄弟のエピソード】
去程に樋口次郎兼光、作り道を上りに四塚へ向きて歩せけり。兼光京へ入と聞えければ、義経の郎等我も我もと七条朱雀四塚へ向て合戦す。
樋口が甥信濃国の武者千野太郎光弘、進み出て申けるは、「いづれか甲斐一条殿の御手にて渡らせたまひ候ぞ、かく申は信濃武者諏訪上宮
千野大夫光家が嫡子、千野太郎光弘と申者ぞ」と云けるを、筑前国の住人原十郎高綱進出申けるは、「やとの必一条殿の御手に限りて軍は有か、誰にてもあれ、かたきな嫌ひそ」といひければ、十郎にてもあれとて、十三束よひいて射たりければ、高綱が物いふ口をむかはせはたと射通して、鉢付の板にぞ射付たる。
光弘いひけるは、「しれものをばかくならはすぞ、敵を嫌ふにはあらねども、光弘が弟千野七郎が一条殿の御手にある間、かれが見る前にて討死して、信濃に有る妻子ども、光弘が最期の時、いかが有けんと思はん事も不便なれば、弟七郎を証人に立んと思ひてこそ、一条殿の御手とも申つれ」とて、引取引取さんざんに射る。
敵余多射落して自害してこそ失にけれ。其弟千野七郎も駈出て、敵四騎討取て討死してうせにけり。

【児玉党】
去程に児玉党うちわの旗ささせて出来る。樋口は児玉党が聟にてありければ、人の一家の広き中へ入らんと云は、かかる時のため也、軍とどめよ、わどのをば助けんといひて、樋口を中に取こめて忽に河を上りに具して、九郎御曹司に申ければ、院に申べしとて、樋口をゐて、参りて奏聞す。


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巻十六【師家摂政を被止給事】 

【師家摂政を被止給事】
廿日新摂政師家を留め奉りて、元の摂政基通になし帰らせ給へり。わづかに六十日程のなさ見果ぬ夢なり。粟田関白兼通と申は、内大臣通隆の御子、正暦元年四月廿七日ならせ給ひて、御拝賀の後只七日こそおはせしか、斯るためしもあるぞかし。これは六十日の間に除目も二ヶ度行ひ給ひしかば、思出おはしまさぬにはあらず。一日にても摂を黷し、万機の政を執行し給ひしこそやさしけれ、いはんや六十日をや。


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巻十六【義仲等頸渡事】 ★

【義仲等頸渡事】
廿六日、伊予守!義仲が首渡さる。
法皇御車を六条東洞院に立て御覧ぜらる。九郎義経六条河原にて検非違使の手へ渡す。検非違使是を請取て、東洞院大路を渡して左の獄門の前の椋の木にかく。
首四あり、伊予守!義仲、郎等には高梨六郎忠直、根井小弥太幸親、今井四郎兼平也。
樋口次郎兼光は降人也、大路を渡して禁獄せらる。是れはさせる其物にもなし、死罪に行はるべきにあらざるを、法住寺殿へよせて合戦しける、御所へ打入。然るべき女房達を取奉りて衣裳をはぎとて、兼光が宿所に五六ヶ日迄こめ置き奉りける故に、彼女房達以下かたへの女房達を語らひて「兼光を伐せ給はずして宥められば、淀川桂川へ身を投げ深き山へ入、御所をも出なん」と口々に申されければ、力及ばずとて、樋口次郎兼光頸をはねらる。
彼兼光は昨日大路を渡して禁獄せらるれど、!義仲が四天王の其一也、死罪を赦されば虎を養ふ愁有るべしとて伐れにけり。
伝聞く虎狼国衰て諸将如蜂起りしに、沛公先咸陽宮に入といへども、項羽後に来らん事を恐れて、金銀朱玉をも掠めず、
細馬美人をもをかさず、徒に函谷関を守て、漸々に敵を亡て、終に天下を治むる事を得たり。
!義仲先都に打入と雖も、其慎を以て頼朝の下知を待ましかば、沛公の謀には劣らざらまし物をと哀也。!義仲悪事を好みて天命に従はず、剰叛逆及余殃身に積て、首を京都に伝ふ。前業の拙き事おしはかられて無惨なり。いかなる者かしたりけん、札に書てたてたり。

宇治川を水つけにしてかき渡る!木曾の御料を九郎判官

田畠の作り物皆かりめして!木曾の御料は絶果てにけり

名に高き!木曾の御料はこぼれにきよし中々に犬にくれなん

!木曾が世にありし時は、御料といはれて草木も靡きてこそありしに、いつしか天下口遊に及べり。はかなき世の習といひながら、咎むべき人もなし、日頃の振舞も不当也、自業自得果の理なれば、とかく云に及ばず。
(以下略)



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