よりぬき木曽殿第4弾!延慶本平家物語(ベースは大東急記念文庫蔵本) 古態。 平家物語としては成立が古く延慶(えんぎょう)年間に書写されたといわれる。巻数は6巻と少ないながら、覚一本にないネタがあったり事件のニュアンスや時間軸が違ったり、と気の抜けない内容。「状」の内容は気がむくと読み下し文にしてあります。ピンクになってるのが該当部分。漢字表記も読みやすく変換して、原文とは異なる部分も多数。あと、原文そのままにしている所はなるべくライトブルーにかえてあります。 *毎度イイカゲンな読解力!注意! タイトル横の星は重要度、★=情報アリ、★★=オモシロ、★★★=超オモ!
巻四(第二中) ---------- ★ 八 頼政入道の宮謀反申勧事 付/令旨事 (略) ---------- 廿四 高倉の宮の御子(おんこ)達事 巻六(第三本) ---------- ★★ 七 木曽義仲成長する事 ---------- 八 源氏尾張国まで責上事 ---------- △ 九 行家與平家美濃国にて合戦事 ---------- 十 武蔵権守義基法師頸被渡事 (略) ---------- 十八 東海東山へ被下院宣事 ---------- ▲十九 秀衡資永等に可追討源氏由事 (略) ---------- ▲廿三 十郎蔵人與平家合戦事 ---------- 廿四 行家大神宮へ進願書ヲ事 (略) ---------- ★★廿六 城四郎與木曽合戦事 ---------- 廿七 城四郎越後国々司に任る事 ---------- 廿八 兵革の祈秘法共被行事 (略) 巻七(第三末) ---------- 二 大伯昴星事 ---------- 五 宗盛大納言に環成給事 ---------- ★ 七 兵衛佐與木曽不和に成事 ---------- ★ 八 為木曽追討軍兵向北国事 ---------- ★★★ 九 火燧城合戦事 ---------- ★★★ 十 義仲白山進願書事 付/兼平與盛俊合戦事 ---------- ★★★十一 新八幡宮願書事 付/倶利迦羅谷大死事 並/死人中に神宝現る事 ---------- ★十二 志雄合戦事 ---------- ★★十三 実盛討死する事 (略) ---------- ★★★十七 木曽都へ責上事 付/覚明が由来事 ---------- ★十八 木曽送山門牒状事 付/山門返牒事 (略) ---------- 廿 肥後守貞能西国鎮めて京上する事 ---------- ▲廿八 筑後守貞能都へ帰り登る事 (略) ---------- 卅四 法皇天台山に登御座事 付/御入洛事 ---------- ★卅五 義仲行家に可追討平家之由被仰事 (略) ---------- ★卅七 京中警固の事義仲注申事 巻八(第四本) ---------- ★ 一 高倉院第四宮、可位付給之由事 ---------- ★ 二 平家一類百八十余人解官せらるる事 (略) ---------- ★ 四 源氏共勤賞被行事 (略) ---------- ★ 九 四宮践祚有事 付/義仲行家勲功を給事 (略) ---------- ▲十五 兵衛佐蒙征夷将軍宣旨事 (略) ---------- ★★十八 木曽京都にて頑なる振舞する事 ----------★★★十九 水嶋津合戦事 ----------★★★ 廿 兼康與木曽合戦する事 ---------- ★廿一 室山合戦事 付/諸寺諸山被成宣旨事 付/平家追討の宣旨の事 ---------- ★★廿二 木曽都にて悪行振舞事 付/知康木曽が許へ被遺事 ---------- ★廿三 木曽可滅之由法皇御結構事 ---------- ★廿四 木曽怠状を書して送山門事 ---------- ★★廿五 木曽法住寺殿へ押寄事 ---------- ★廿六 木曽六条河原に出て頸共懸る事 (略) ---------- ★★廿八 木曽院御厩別当に押成事 ---------- 廿九 松殿御子師家摂政に成給事 ---------- ★ 卅 木曽公卿殿上人四十九人を解官する事 (略) ---------- ★卅四 木曽八嶋へ内書を送る事 (略) ---------- ★卅六 木曽依入道殿下御教訓法皇を奉宿事 ---------- ★卅七 法皇五条内裏より出させ給て 大膳太夫成忠が宿所へ渡らせ給事 巻九(第五本) ---------- 一 院拝礼並殿下の拝礼無事 (略) ---------- ★ 三 義仲為平家追討発下西国事 ---------- ★ 四 義仲可為征夷将軍宣下事 ---------- ★★ 五 樋口次郎河内国にて行家と合戦事 (略) ---------- ★ 七 兵衛佐の軍兵等着宇治瀬田事 (略) ----------★★★ 九 義仲都落る事 付/義仲被討事 ---------- ★ 十 樋口次郎成降人事 ---------- 十一 師家摂政を被止給事 ---------- ★十二 義仲等頸渡事 巻十二 ---------- 十二 十郎蔵人行家被搦事(その後のオマケ)
巻四
八 【以仁王紹介】 一院第二の御子・以仁王、御母は加賀大納言季成卿の御娘。三条高倉の御所にいたので高倉宮という。永万元年12月6日15歳で皇太后宮の近衛河原の御所にて密かに元服したが、30歳になるまで未だ親王の宣旨もなかった。 【頼政の説得、源氏揃】 四月十四日夜更け、源三位入道頼政は高倉宮の御所に密かに参上し、平家の横暴を説き蜂起を促し、不安を示す宮に、重ねて味方になるであろう源氏の名を言い連ねる。 「京都には、出羽判官光信が子、伊賀守光基、出羽蔵人光重、源判官光長、出羽冠者光義。 熊野には、為義が子十郎蔵人義盛。 摂津国には、多田蔵人行綱、多田二郎知実、同じく三郎高頼。 大和国には、宇野七郎親治が子、宇野太郎有治、同じく次郎清治、同じく三郎義治、同じく四郎業治。 近江国には、山本、柏木、錦古利(にしごり)、佐々木が一党。 美濃尾張の両国には、山田二郎重弘、河辺太郎重直、同じく三郎重房、泉太郎重満、浦野四郎重遠、葦敷(あじき)二郎重頼、その子太郎重助、同じく三郎重隆、木田三郎重長、開田(かいでん)判官代重国、八島先生齋時(ただとき)、同じく八島時清。 甲斐国には、辺見冠者義清、同じく太郎清光、武田太郎信義、加々美次郎遠光、安田次郎義定、一条次郎忠頼、板垣次郎兼信、武田兵衛有義、同じく五郎信頼、小笠原次郎長清。 信濃国には、岡田冠者親義が子、岡田太郎重義、平賀冠者盛義、同じく太郎義延、帯刀の先生義賢が子、!木曽冠者義仲。 伊豆国には、兵衛佐頼朝。 常陸国には、為義が子義朝が養子三郎先生義憲、佐竹冠者昌義、同じく太郎義季。 陸奥国には、義朝が末子九郎冠者義経。 これらは皆六孫王の苗裔、多田の新発地満仲が後胤なり。(以下略)」 【令旨の発行】 また「人相見」の少納言という人が高倉宮を見て「位につき給ふべき相をはします。天下の事思召しはなつべからず」と申したので「しかるべき事にてこそ有らめ」とお思いになり令旨を諸国へ出す事にする。 令旨の内容は以下。 下す 東山東海北陸三道諸国の軍兵等所 早く清盛法師並に従類叛逆の輩を追討せらるべき事 右前伊豆守従五位下行源朝臣中綱奉るに、最勝親王の勅宣を承るに曰く、清盛法師並びに宗盛等、威勢を以って帝王を滅ぼし、凶徒を起こして国家を滅ぼす。 百官万民を悩乱して、五畿七道を掠領す。皇院を閉籠し、臣公を流罪す。奸(かだまし)く官職を奪いて、欲しいままに超昇を盗む。これによって、巫女は宮室に留まらず、忠臣は仙洞に仕えず。或いは修学の僧徒を戒め、獄舎に囚禁し、或いは叡山の絹米を以って、謀叛の粮に宛つ。時に天地悉く悲しみ臣民みな憂う。よって一院第二の御子、且つうは法皇の幽居を休め奉らんが為、且つうは万民の安堵を思し召すによって、昔上宮太子、守屋の逆臣を破滅せしが如く、叛逆の一類を誅して、旡何(むか)の四海を治むるなり。しかれば則ち、源家の輩、兼ねては三道諸国の武勇の族(やから)、宜しく与力を厳命に加えて、誅罰を清盛に致すべし、若し殊功有らんに於いては、御即位の後、宛て行わるべきなり者なれば、宣によって之を行う。 治承四年四月□日 伊豆守従五位下源朝臣謹 前右兵衛佐殿 【令旨の行方】 新宮十郎(行家)を呼び出して(現在は勅勘の身なので正規の使者と認められるよう)八条院蔵人とし、「義盛」を改名し「行家」と名乗らせる。治承四年四月廿八日、令旨を受け取った行家は密かに都を出る。 同五月八日、行家は伊豆の北条に到着、頼朝に宮の令旨を奉る。 頼朝はこの令旨を受取り、各国の源氏等に通達。 その状の内容は以下。 「最勝親王の勅命を被るにいわく、東山東海北陸道の武勇(ぶよう)に堪ん輩召具して、令旨を守て、用意を洛陽に致すべし者には、近国の源氏ら定めて参加し奉らむか。北陸道の勇士(ようじ)等は、瀬田の辺に参向令(せし)めて上洛を相待て、洛中に供奉致すべき也。親王の御気色によつて、執達件の如し。 治承四年五月 日 前右兵衛権佐源朝臣」 「鳥羽殿にいたち走廻事」〜以下略
巻六
七 【木曽殿の旗揚げ】 信濃国安曇(あづさ)郡木曽に、故六条判官為義が孫で帯刀先生義賢が次男、!木曽冠者義仲という者がいる。 九日、(義仲に)国中の兵従うこと千余人に及ぶ。 【木曽殿の生い立ち】 (父の)義賢は仁平三年夏の頃から上野国多期郡に居住、秩父次郎大夫重隆の養君になり武蔵国比企郡へ通ったので、上野国だけでなく隣国も従った。 久寿二年八月十六日、故左馬頭義朝の一男・悪源太義平に大蔵の館にて義賢重隆は討たれた。 その時義仲二歳、母は泣く泣く連れて信濃国に逃れ、木曽仲三兼遠に「これ養いて置き給え。世の中はやうある物ぞかし」と頼む。兼遠はこれを受け取って「あないとほし」と木曽の山下で育てた。二歳より兼遠の懐の内で大きくなる。 【木曽殿にデレ兼遠】 よろず愚かならずぞ有ける。この児顔かたち悪しからず、色白く髪多くして、やうやう七才にもなりにけり、小弓なむどもてあそぶ有様、誠に末たのもし。 人これをみて、「この児の見目のよさよ、弓射たるはしたなさよ。誠の子か、養子か」なむど問いければ、「是は相知る君の父なし子を産みて、兼遠にたびたりしを、血の中より取置きて候が、父母と申者なうて中々よく候ぞ」とぞ答えける。 十三歳になる年、元服。 打ふるまひ物なむど云いたる有様、誠に賢げなり。 かくて二十年ほど隠し養育する。 成長するほどに武略の心武くして弓箭の道人に過ぎければ、兼遠が妻に語るには、 「この冠者君、幼きより手ならして、我も子と思い、彼も親と思て、睦まじげなり。 朝夕の召物、夏冬の装束ばかりはわびさせず。 法師になって真の父母、養いたる我等が後生をもとぶらへと思いしに、心さかざかしかりしかば故こそ有らめと思て男に成たり。誰がをしうとなけれども弓箭取りたる姿のよさよ。 又細公の骨もあり、力も余の人には過ぎたり。馬にもしたたかに乗り、空を飛ぶ鳥、地走る獣の矢頃なる、射外す事なし。徒立ち、馬の上、まことに天の授けたるわざなり。酒盛りなむどして、人もてなし遊ぶ有様もあしからず。 さるべからう人の娘がな云い合わせんと思う、さすがに其れも思うやうなる事はなし、さればとて無下なるわざをばせさせたくもなし。万頼きわざかな」とほめる。 【義仲、京を偵察】 ある時この冠者が、「今はいつを期すべしともあらず。身の盛なる時、京へ上りて公家の見参にも入りて、先祖のかたき平家を討ちて、世を取らばや」と言えば、兼雅*(ママ)は「その料にこそ和殿をば、これ程までは養育し奉りつれ」と言って笑う。 義仲はいろいろな策を講じて密かに京に上り、平家の様子を見ようと市井にまぎれ夜昼隙を伺ったが失敗。信濃国に帰る。 兼雅*に「都の物語し給へ」と聞かれ、 「京を王城と云けるもよくぞ申ける。西方に高き峯あり。若しの事あらば逃げ籠りたらむに、きと恥にあふまじ。六波羅は無下の戦処、西風の北風吹たらむ時、火をかけたらむになにも残るまじとこそみへて候へ。何事も都ある事で候ぞ」 と答えた。 【兼遠の起請文】 平家は義仲の噂のことを知って仲三兼雅*を召し出し 「義仲養い置き謀叛を起し、天下を乱るべき企てあるなり。不日(ふじつ)に汝が首を刎ぬべけれども、今度ばかりは宥めらるるぞ。詮ずる所いそぎ義仲を召取て進らすべき」 と起請を書かせ、兼雅*を信濃国へ返した。 兼雅*は命を失うことを顧みず、義仲が世を取ることを思いながら起請文を書いた。 【根井の後見】 その後、世間の噂を恐れて、信濃国の大名・根井小矢太滋野幸親に義仲を託す。幸親は義仲を大切に扱って信濃国中に披露し「!木曽の御曹司」と呼ばれた。また父・多胡先生義賢の恩顧の者で上野国の足利一族以下も!木曽に従った。 【頼朝の動向と対策】 やがて、伊豆国の流人兵衛佐が謀叛を起こして東八ヶ国を管領したと聞き、義仲も木曽の懸路を強く固めて信濃国を押領した。 木曽は信濃国の西南の角で美濃国の境、都からは言うほど遠くもないと平家は騒ぎ慌てる。 「東海道は兵衛佐に打ち取られぬ。東山道又かかれば、周章するも謂れあり」とヒトに言われ、これを聞いた平家の侍共は 「何事か候べき。越後国城太郎資長兄弟、多勢の者なり。!木曽義仲、信濃国の兵を語らうとも、十分が一にも及ぶべからず。只今に討ちて献りなむずぞ」と言ったが、「東国背くだにも不思議なるに北国さへかかれば是只事にあらず」と懸念が広がる。
八 【京の混乱】 廿八日、東国の源氏が尾張国まで攻め上る、と尾張国目代から早馬で京に報告があった。 亥の刻(21時〜23時)頃、六波羅の辺りが騒がしくなる。 既に都へ打入りたるやうに、もの運び隠し、東西南北へ持ち彷徨ふ。馬に鞍置き、腹帯をしめければ、京中騒ぎて、こはいかがせむずると、上下惑ひあへり。畿内より上る所の武士の郎党ども、兵糧米の沙汰なく、うゑにのぞむ間、人家に走り入りて、着物食ひ物奪ひ取りければ、一人としてをだしからず。 廿九日、右大将宗盛卿、近(江)国総官に捕任。天平三年の例という。
九 【行家叔父の動向】 十郎蔵人行家は美濃国蒲倉に立籠っていたので、平家はこれを追討に向かう。 行家軍は上の山より火を放たれて堪えきれず追い落とされ、美濃国中原に千余騎の勢で立篭もる。 ・官軍(平家) 征夷大将軍:左兵衛督知盛卿、中宮亮通盛朝臣、左少将清経、 薩摩守忠度 侍:尾張守貞康、伊勢守景綱以下三千余騎 平家軍は行軍途中、近江・美濃・尾張三カ国の凶奴、山本・柏木・錦古利・佐々木の一族を従え五千余騎になり、尾張墨俣川に到着。 【尊勝陀羅尼書供養可奉由宣下】 二月七日、大臣以下の家々に「尊勝陀羅尼」「不動明王」を書き供養するよう宣下される。これは兵乱の御祈という。この他、諸寺の読経や諸社の幇幣師、大法秘法すべて行ったが戦乱が終わる効果もみられない。
十 【義基法師の顛末】 (二月)九日、武蔵権守義基法師の首とその子息石川判官代義兼の身柄が、七条河原で検非違使に引き渡される。首は獄門の木にかけられ、捕虜は禁獄された。 【義基出自】 故陸奥守義家孫、五郎兵衛尉義時(義明)子、河内石河郡の住人。 兵衛佐頼朝に同意しあっというまに討取られてしまった。 【その頃の宗盛】 右大将宗盛は東国討伐の宣旨に対し「我下らむ」と言い、平家家人などが国中から募兵する。
十八 【頼朝追討の院宣】 二月八日、東国へは本三位中将重衡を大将として遣される。 鎮西(九州)へは貞能が下向する事と決まった。 伊予の国へはまず召次を行かせ、その後兵衛佐頼朝以下東国北国の賊徒を追討すべき、との東海東山へ院庁の御下文を下される。 其状に云、 右仰奉るに曰く、前右兵衛佐源頼朝、去る永暦元年に□(シ)坐して伊豆国に配流せらる。須(すべから)く身之過(とが)を悔て、永く朝憲に従べき之處、尚も梟悪之心懐て、旁企狼戻之謀、或寃陵国宰之使、或侵奪土民之財、東山東海両国之徒を、伊賀伊勢飛騨出羽陸奥之外皆赴其勧誘之詞、悉随布略之中、因茲差遣官軍、殊令防禦之處、近江美濃両国之外者、即績績、尾張参河以東之賊、尚以固守、仰源氏等皆悉可被誅之由、依有風聞、一姓之人々共起悪心云々、此事尤虚誕也、於頼政法師者、顕然の罪科、所被加刑罰也。其外源氏指無過怠、何故誅、各守帝猷可、抽臣忠、自今以後莫信浮説、兼存此子細、早可帰皇化、者奉仰下知如件、諸国宜承知依宣行之敢不可違、故以下 十五日、頭中将重衡、権亮少将維盛、数万騎を率いて東国に向け出発。 前後の追討使美濃国に集結し、一万余騎に及ぶ。 太政入道が亡くなって今日十二日になるが、遺言とはいえ仏経供養もせず戦に趣くとはけしからん、と噂される。 [モクジ]
十九 【城資長と藤原秀衡に追討の宣旨が下る】 十九日、越後国城太郎平資長(是は余五将軍維茂が後胤、奥山太郎永家が孫、城鬼九郎資国が子也。国中に争ふものなかりければ境の外までも背ざりけり)と 陸奥郡藤原秀衡(彼は武蔵守秀郷が末葉、修理権大夫経清が孫、権太郎清衡が子なり、出羽陸奥両国を管領して肩を並ぶる者なかりければ隣国までも靡にけり)の二人に仰せて、頼朝!義仲を追罰すべき由、宣旨を申し下される。 【雲上の声】 去年十二月廿五日除目の聞書が今年二月廿二日に到来し、資長当国守に着任。 資長朝恩を喜び、!義仲を追罰の為に、同廿五日に五千余騎にて暁に打立つ所に、雲の上に音有て「日本第一の大伽藍、聖武天皇の御願たる、東大寺盧遮那仏焼たる太政入道の方人するもの、唯今召とれや」と罵る声がして、これを聞くと城太郎は中風になる。 片身すくみてつやつやはたらかねば、思ふことを書置かず、舌もすくみければ、思ふ事をもいひ置かず、男子三人女子一人有けれども、一言の遺言にも不及、其日の酉の時ばかりに死しけり。 怖しなど云ばかりなし、同く舎弟城次郎資職、後には城四郎長茂と改名す、春のほどは兄の孝養して、本意を遂げんと思ひけり。 秀衡は頼朝弟九郎義経を承安元年の春の比より相憑て来を養育して、去冬兵衛佐の許へ送遣して、多年のよしみを空しくして今宣旨なればとて彼に敵対するに不及とて領状申さりけり。
廿三 【一方その頃の鎌倉・平家・木曽】 二月七日、東国勢(鎌倉軍)は相模国鎌倉を出発との風聞。 平家は四国・九州の武士を召集し東国へ向かわせるが、西国勢が遅々としているうちに、源氏の軍兵は美濃尾張まで責上る。 また信濃国では!木曽の冠者義仲、十郎蔵人行家二人が北陸道を塞くとの風聞。 【墨俣合戦】 二月廿八日、左衛門佐知盛、頭中将重衡・権亮少将惟盛以下追討使は美濃国杭瀬河まで下ったが、源氏の大軍は尾張まで向かったと聞き、二万余騎で墨俣川の南(西の端)に布陣。 三月十一日未明、東の河原に十郎蔵人行家の武者千騎が到着し、東の端に布陣。 さらに鳥羽卿公円全率いる鎌倉武者千騎が行家軍の陣より二町隔てて布陣。 夜明けて卯刻に東西の矢合わせが始まるという。 【悪土佐全蓮エピソード】 同巳刻、"墨染の衣に桧笠頸に懸たる乞食法師"一人が源氏の陣屋に来て経を読み物を乞うので警固の者に捕えられる。しかし法師は縄を引き切って河に飛び込むと、矢を射かけられる中泳いで対岸に渡り、平家方から出された舟に取込まれる。 しばらくしてこの法師が褐衣の直垂に渋皮の鎧着てもみ烏帽子引き入れ、鹿毛なる馬に乗り、川端に歩ませて川越しに言うには「人は高名をしてこそいみじけれ。逃げて名乗るはをかしけれども、只今取られて河を越たりつるはこの法師、かく申は主馬判官盛国が孫、越中前司盛俊が末子、近江国石山法師に悪土佐全蓮」と名乗り戻っていった。 これを見た円全は焦り、供の者も連れずただ一騎で二町ほど歩かせ、烏森を渡ると敵陣の正面岸の陰に隠れて待つ。 一方そのの頃十郎蔵人は、夜明けに鬨をあげて渡河する時にはここから「円全今日の大将軍」と名乗って駆けようかなあと思いつつ東の空を見ながら夜明けを待っていた。 【円全討死】 平家の夜回りの兵に見つかった円全は落ち着いて「味方の者、馬の足ひやし候」と答え馬に乗ると陸地に上がり「兵衛佐頼朝が弟、鳥羽卿公円全といふ者也」と名乗り、十騎の内に入り三騎討取ったが、二騎に手傷を負い、残る五騎に取り囲まれて討たれた。 【行家不意打ちを決行】 行家はこの事を知らず、円全の陣に進軍の使者を送るが「大将軍は見へさせ給はず」との連絡に出発。千騎のうち八百余騎を陣に留め、二百余騎を率いて稲葉河の瀬を歩ませ、河を渡って平家の陣に駆け入る。 明け方になって平家は「敵の軍勢が夜討ちに来た」と騒いで火をつけて見れば、敵(行家勢)はわずか二百騎。 行家は多勢の中に駆け入り戦ううちに二百余騎がわずか二騎になり、河を東へ後退。 (行家は二騎の内に残り)赤地の錦の直垂に小桜を黄にかへしたる鎧に鹿毛なる馬に黄覆輪の鞍置てぞ乗たりける。平家は行家を追わなかった。 【泉重光討死】 尾張源氏泉太郎重光は百騎で前日から搦手に向かっていたが、大手の鬨の声を聞き平家の軍勢の中に駆け入り、半分討たれ残りは退却。泉太郎は討死。 【平家の布陣】 行家、墨俣の東にある小熊という場所に陣をとる。 平家は二万余騎を五手に分ける。 一番に飛騨守景家大将軍、三千余騎にて押寄たり。射しらまされて引退く。 二番上総守忠清大将軍にて、三千余騎差向たり。これまた射しらまされて引退く。 三番には越中前司盛俊、三千余騎にて差向たり。これもしらみて引退く。 四番には高橋判官隆綱、三千余騎にて向たり。是もしらみて引退く。 五番には頭中将重衡、権亮少将惟盛、両大将軍にて八千余騎にて入替たり。 行家は持ちこたえられず小熊を退却、柳津、熱田と転戦、三河国矢作(川)の東の岸で防戦するがすぐにここも落とされる。 平 家は矢作川西に控える。 【行家の謀】 行家の軍に額田郡の兵達が合流し戦うがかなわない。行家は謀をし雑色三人に旅人の格好をさせて平家方に向かわせる。 「平家何にと問ば、『兵衛佐頼朝東国より大勢、只今矢作に付候つる、時に今落候つる源氏は其勢と一になり候ぬらむ』といへ」とて遣わした。案の如く平家は彼らに「これに落つる源氏は何程か延つる」と問うと、教えられたように申すと、「さては聞ゆる関東の大勢に取籠られて何にかせむ」と、平家は取る物も取あへず退却。 同廿七日、平家は帰京をはじめる。 行家は乗替等に「美濃尾張の者共、平家を一矢をも射ざらむ者源氏の敵」と触れ回らせたので、源氏に志ある者らは平家に追いかかると散々に射かけた。平家はこれに答える矢にも及ばず西を差して逃走。 行家は諸々の戦に負けては走り帰り「水澤を後ろにする事なかれとこそいふに、河を後にして戦争は尤も僻事なり。今は源氏の謀あしかりけり」とぞ申合ける。 [モクジ]
廿四 行家は三河国府から「治承五年五月十九日 正六位朝臣行家」名義で伊勢大神宮に願書を奉納する。(ちなみに書いたのは覚明) 本文略。 [モクジ]
廿六 城四郎長茂は当国廿四郡出羽まで募兵し、雑人も交じえ六万余騎で信濃国へ出発。 六万余騎を三手に分け、 千曲越には、濱の小平太大将で一万余騎。 上田越には、津帳庄司大夫宗親大将で一万余騎。 大手には、城四郎長茂大将として四万余騎を引率して、越後国府に到着。 【城軍の先陣争いの面々】 明日は信濃へ越えようとする所、先陣を争うのは、 笠原平五、尾津平四郎、富部の三郎、閑妻(あがつま)の六郎、風間の橘五、 家子には立河次郎、渋川三郎、久志太郎、 冠者将軍・郎党には相津の乗堪坊、其子平新大夫、奥山権守子息藤新大夫、坂東別当、黒別別当等。 城四郎は味方を討たせまいといずれも許さず、四万余騎を率い熊坂を越えて、信濃国筑摩川横田河原に布陣。 【木曽勢の動向、楯の斥候】 !木曽はこれを聞いて信濃上野両国より募兵し、その数二千騎。 当国白鳥河原に布陣する。 楯六郎が「親忠馳向て敵の勢見て参らむ」と乗替一騎のみ連れて塩尻まで斥候に出ると、敵は横田河原石川ざまへ火を懸けて焼き払っている。 是を見て大本堂に寄り、下馬し八幡宮を伏し拝んで「南無帰命頂礼八幡大菩薩今度の合戦に!木曽殿勝給ば、十六人の八乙女、八人の神子男、所領へ寄進せむ」と祈る。 親忠が帰営し報告すると「敵に八幡焼かせぬ前に打ばや者共」と駆け通して未明に本堂に到着し願書を八幡に納めつつさらに進軍。 【木曽陣内の先陣争いの面々】 先陣争う輩には 上野には、木角(こずみ)六郎、佐井七郎、瀬下(せしも)四郎、桃井(もものゐ)五郎、 信濃には、根津の次郎、同三郎、海野矢平四郎、小室太郎、注同次郎、同三郎、志賀七郎、同八郎、櫻井太郎、同次郎、野澤太郎、臼田太郎、平澤次郎、千野太郎、諏訪二郎、手塚別当、手塚太郎等。 !木曽は皆の恨みを買わぬよう「郎党、乗替をば具せず宗との者共懸けよ」と下知し「この計ひ然るべし」と皆も心得て、百騎の勢は轡を並べて筑摩川を渡す。 敵の陣を南より北へ駆け破り後ろへ通り抜ける。又取返して南へ駆け通る。 【笠原平五vs.高山党】 城四郎は木曽軍の小勢に二度まで破られて戦を危ぶみ、笠原平五に相談する。笠原は「頼真*今年五十三にまかり成て候。大小合戦に廿六度あひぬれども一度も不覚仕らず。ここに懸けて見参入む」と、百騎を率いて「当国の人々、あるいはちじんとくいにして見参せぬはすくなし。他国の殿原は音にききたまふらむ。笠原頼真*よき敵ぞ。討取りて!木曽殿の見参に入よや殿原」と名乗ってみせる。 これを聞いて、高山の人々(党)は三百余騎で笠原勢の中へ駆け入って戦う。互いに退却してみると、高山の三百余騎は五十余騎まで討たれ、笠原の百騎は五十七騎討たれて残り四十三騎。笠原は城四郎にこれを報告し絶賛される。 【佐井七郎vs.富部三郎】 !木曽軍の一隊・佐井七郎弘資が五十余騎で筑摩川を渡る。 (佐井の装束は)緋縅の鎧に白星の甲の緒を締て、紅の母衣かけて、白葦毛なる馬に、白覆輪の鞍置て乗たりけり。 是を見て、城四郎軍からは富部三郎家俊十三騎で進み出る。 富部は赤革縅の鎧に鍬形の甲の緒を締て、母衣はかけざりけり。連銭葦毛なる馬に黄覆輪の鞍置てぞ乗たりける。 互に弓手すがわせて「信濃国の住人、富部三郎家俊」と名乗るを、佐井七郎はたとにらまへて「さてはわ君は弘資にはあたはぬ敵ござむなれ。聞たるらん物を、承平の将門を討て名を上げし俵藤太秀郷が八代末葉、上野国佐井七郎弘資」と名乗ければ、富部三郎取あへず「わぎみは次がな、氏文よまむと思ひけるものかな。家俊が品をば何としりて嫌ふぞとよ、是にて名乗ずは、富部三郎はいか程の者なれば、横田の軍に佐井七郎に嫌はれて名乗返さであるぞと、人のいはんずるに、わぎみたしかに聞け、鳥羽院の御時北面にさうらいし、下野右衛門大夫正弘が嫡子、左衛門大夫家弘とて、保元合戦の時、新院の御方に候て合戦仕たりし。其故に奥州に流されき。其子にふせの三郎家光、富部三郎家俊とて、源平の末座に附ども嫌はれず。汝をこそ嫌ひたけれ。正なき男の言葉かな」と云ひも果てず十三騎のくつばみを並べて、五十騎の中をかけわって、後へつと通りにけり。又取て返して、縦横に散々に駆けたり。 富部三郎家俊は四騎まで討たれ、善戦するが佐井七郎に首を捕られる。 【杵淵小源太エピソード】 富部三郎の郎党に、杵淵小源太重光という勘当された武士がおり、赦されたいと思いチャンスをうかがっていた。戦ありと聞き、駆けつけると主の富部はすでに討たれていた。 主人の馬と武具を見つけ駆寄り杵淵は「上野の佐井七郎殿とこそ見奉れ。富部殿の郎党、杵淵の小源太重光と申す者なり。軍より先に御つかひにまかりて、戦ひにはづれて候ばや。その御返事申さむ。かつうは主君の御顔をも今一度見せ給へ」と言う。 佐井七郎は体力を消耗していたため味方側に逃げようとするが杵淵に追いつかれ、馬から引き落とされる。 杵淵は佐井七郎の頸を取り、主の頸と並べて、「重光こそ参りて候へ。生をへだて給ふとも、魂魄といふ魂のあむなれば、たしかに聞給へ。人の讒言につき給ひて、勘当ありしかども、聞なほしたまふことも候わむずらむと待ち候ひつるに、かく見なしまゐらせて候ことの悲しさよ。重光御供にこうぜば、御前にてこそうたれ候べきに、遅れ参せて候こそ口惜しけれ。御敵討て候。死出の山、三途の川、やすく渡給へ」 と、二つの首のもとどりを結び合わせて左手で捧げ持ち、右手には太刀を持って 「敵も味方もこれ見給へ。佐井七郎に富部三郎討れ給ひぬ。富部三郎が郎党に杵淵の小源太重光が主の敵討ちていづるを留めよ、者共」 と言って佐井七郎の家の子郎党三十騎と善戦するが、杵淵は、人手にかかるよりはと思い、大刀を口に差し込んで、逆さまに落ちて貫かれて死ぬ。是を見て惜しまぬ人はなかった。 【井上光盛の計略】 城四郎は数の上では大軍だったものの皆借武者で手勢の者は少なく、対して!木曽は無勢だったが、源氏の末葉であり年来の郎党を従え、一味同心で入れ替えつつ巧く戦った。 信濃国源氏の井上九郎光盛が内々!木曽に申すには 「大手においては任せ奉る。搦手においては任せ給へ」 と合図すると大本堂の前で俄に赤旗を作り、里品(保科)党三百余騎を先行させる。 これを見て!木曽は怪しんで「あれはいかに」と聞けば「光盛が日頃の約束たがへ奉るまじ。御覧ぜられ候へ」と筑摩川の端を丑寅に向かい、城の四郎の後陣へ歩ませる。 !木曽の下知には「井上ははや駆いでたり。搦手渡しはてて、義仲渡あはせてかけむずるぞ。一騎も遅るな、我党共」と甲の緒を締めて待つ。 城四郎は井上の掲げる赤旗をみつけて、搦手に向かわせた津破庄司家親が勢と思い込んで 「こなたへなこそ。新手なり。敵に向へ。新手なり」 と、使をたてて下知するが井上はこれを聞かず、筑摩川を渡る。敵陣の前に大きな堀(広さ二丈ばかり)があったが井上はこれを越す。部下には続いて渡る者も掘の底に落ちる者もあった。堀を越すと井上は赤旗をかなぐり捨てて白旗を差上げた。 「伊予の入道義頼の舎弟、乙葉三郎頼遠が子息、隠岐守光明が孫、やてはの次郎長光が末葉、信濃国住人井上九郎光盛。敵をばかふこそたばかれ」 と、三百余騎で北より南へ駆通る。大手は!木曽二千余騎で南より北へ駆通る。 搦手大手とりかへしとりかへし、七寄り八寄り駆ければ、城四郎方勢、四方へ群雲だちにかけられて、たちあふものは討れにけり、逃ぐる者はおほやう河にぞはせこみける。馬も人も水に溺れて死にけり。 城四郎長茂は越後へ退却。 笠原平五は出羽国へ逃走。 【横田河原合戦の戦果】 !木曽(軍)が横田合戦で斬り、懸けた首は五百人という。城四郎は会津に逃走。 越後国国府に到着すると、北陸道七カ国の兵は皆!木曽に従う。 越後国には、稲津新介、斎藤太、平泉寺長吏斎明威儀師、 加賀国には、林、富樫、井上、津幡、 能登国には、土田の者共、 越中国には、野尻、河上、石黒、宮崎、佐美太郎。 これら牒状を遣て、「!木曽殿こそ、城四郎追落して、越後の府につきて、責上ておはすなれ。いざや、志あるやうにて、召れぬ先に参らむ」といひければ、「子細なし」とて、うちつづきまゐりければ、!木曽は悦び、信濃馬を一匹づつ与える。 こうして木曽の軍は五万余騎に。 !木曽は「定て平家の討手下らむずらむ。京近き越前国に火燧城を拵へて籠候へ」と命じ、自身は信濃に帰り横田城に居住。 【養和改元】 七月十四日に改元。養和元年という。 八月三日、肥後守貞能鎮西に向かう。太宰少弐大蔵胤直謀叛の噂により追討の為。 九日、官庁にて大仁王会行われる。 承平の将門が乱逆の時に法性寺の座主が承り行われた先例といい、その時には朝綱宰相の願文を書いて験があったというが、今度はそのような沙汰もないらしい。 [モクジ]
廿七 廿五日、除目で城四郎長茂は越後の国守に任命される。(兄・城太郎資長、去十二月廿五日他界間) 奥州住人藤原秀衡も陸奥の国守に任じられる。 両国とも頼朝・義仲を追討するための対応だというが、越後国は既に!木曽が押領して長茂を追い出しており、国務が出来る状態ではなかった。 [モクジ]
廿八 廿六日、中宮亮通盛、能登守教経以下、!木曽追討のため北国に向かう。 城太郎資長も任じられていたがさらに遣わされた。 九月九日、官兵等は越後国にて源氏と合戦するが敗走。 廿八日、左馬頭行盛、薩摩守忠度、大軍数千騎を率いて越後国へ出発。 (以下略) [モクジ]
巻七
二 二月廿三日の夜半、太伯昴星を犯す。 これ方々もつて重変也。天文要録に云、「太伯昴星は、大将軍国の境を失ひ、四夷来たりき、兵起こる事有り」と云へり。世は只今乱れなむずとて、天下の嘆にてぞ有ける。 (以下略)
五 九月四日、右大将宗盛大納言に還任し、十月三日、大臣になる。 大納言の上臈五人を超えての叙任で、中にも後徳大寺大納言実定の一の大納言は「花族英雄、才覚優長」だったにもかかわらず、大将の時と今度と二度まで超えらたのは不憫な事である。 七日、兵仗を賜る。 十三日、平家は慶び申(叙任御礼の儀式)に当家他家の公卿十二人が参列、蔵人頭以下、殿上人十六人前駈(せんぐ)し、きらびやかな衣装をまとってきたのでとても素晴らしかった。とはいえ東国北国の源氏が今にも攻めて来ようとしている時にこのように華やかな事があってもむなしい。 南都北嶺の大衆、四国九国の住人、熊野、金峯山の僧と、伊勢大神宮の神官宮人に至るまで、ことごとく平家を背きて源氏に心を通はす。四方に宣旨を下し、諸国へ院宣を下さるといへども、宣旨も院宣も皆平家の下知とのみ心得てければ、従ひつく者一人もなかりけり。 廿一日、大嘗会御禊三条が末、十一月廿日、大嘗会近江丹波行はる。かくて年も暮ぬ。 寿永二年正月一日、節会以下常のごとし。 三日、八条殿の拝礼あり。今朝より俄に沙汰有けり。鷹司殿の例とかや。内々摂政殿に仰せ合せられければ、然るべき由申させ給けるにや、建礼門院、六波羅の泉殿に渡らせ給ふ。その御所にてこの事あり。(以下略) 【官軍の動向】 三月廿五日、官兵出発ときく。 来たる四月十七日北国へ発向して!木曽義仲を追討の為也。 六 廿六日、宗盛公従一位に叙せらる。 廿七日、内大臣を辞すも御赦されなし。只重任を遁れんがためだからである。八条高倉の邸にてこの事があったのだが平大納言時忠卿、按察大納言頼盛卿、新中納言知盛卿、本三位中将重衡卿、右大弁親宗朝臣ばかりがいただけでその他の人は見られなかった。
七 【木曽殿と頼朝の不和の理由】 先頃より、兵衛佐と!木曽冠者の間に不和があり(鎌倉は)!木曽を討とうと考えていた。 【行家叔父と頼朝の不和、行家叔父の出奔】 ・兵衛佐は先祖の土地として相模国鎌倉に住し、叔父十郎蔵人行家は太政入道の鹿島詣の為に造営された相模国松田御所にいた。 ・所領が同じ土地にも関わらず、行家は近隣在家から強奪・夜討強盗していた。 ・ある時行家は、兵衛佐の許に文をよこし『行家は御代官として、美濃国墨俣へ向ふこと十一度、廿箇度は勝て三箇度は負ぬ。子息を始めとして、家の子郎党共多く討取られて、嘆き申すはかりなし。国一カ所預けたべ是等が孝養せむ』と言ってきた。 ・兵衛佐の返事は『!木曽冠者、信濃上野両国の勢にて北陸道七ケ国打取りて既に九ケ国が主になりて候。頼朝は六ケ国こそ打しなへて候へ。御辺もいくらの国を打取らむとも御心にてこそ候はめ。さてこそ院内の見参にも入せ給ひて、打取る国何ケ国とも、注し申されて給わらせ給はめ。当時頼朝が支配にて、国庄を人に分け給べしと云ふ仰せをもかぶり候わず』とあり、 ・行家は兵衛佐に見切りをつけ、木曽冠者を頼もうと千騎の勢で信濃国に行く。 【武田信光の讒言】 ・兵衛佐はこれを聞き「十郎蔵人の云わむ事に付きて!木曽の冠者、頼朝を責むと思ふ心付きてむず。襲(ねら)われぬ先に!木曽を討む」と思っていたところに、 ・甲斐源氏武田五郎信光が兵衛佐に「信濃の!木曽次郎は一昨年六月に、越後の城長茂しを打落としてより以来、北陸道を管領して、その勢雲霞の如し。梟悪の心を挿しはさみて『平家の聟になりて、佐殿を討奉らむ』とはかる由承る。平家を責めむとて、京へ打上る由は聞ゆれども、実(まこと)には、平家の小松内大臣の女子の十八になり候なるを、叔父内大臣の養子にして、!木曽を聟に取らむとて、内々文ども通はし候なるぞ。その御用意あるべし」と密告したので、兵衛佐は激怒。 「十郎蔵人の語らひに付て、さる支度もあるらむ」とすぐにも鎌倉より北国に立とうとするが、その日が坎日(かんにち=凶日)だったので老輩が「いかが有るべき。明暁にて有べき物ぞ」と諌めるが 兵衛佐は「昔、頼義の朝臣貞任が小松館を責め給ける時『今日往亡日也。明日合戦すべし』と人々申しければ、武則先例を考へて申しけるは『宋の武帝敵を討ちし事、往亡日なり。兵の習ひ、敵を得るを以て吉日とす』と申して、やがて小松館を責め落したりけり。況や坎日なにの閑かあるべき。先規を存ずるに吉例なり」と言い出発。 【木曽殿の対応】 !木曽殿はこの由を聞き、国中の勇士を卒し越後国へ越えて、越後と信濃との境の関山に陣を取り、厳しく固めて兵衛佐の軍を待ち構える。 【頼朝、安曇川に布陣】 兵衛佐は武田五郎を先遣とし武蔵上野を通り、碓井坂に至った時には八ケ国の軍勢が参加し十万余騎となり、信濃安曇川の端に陣を取る。 【木曽殿、信濃関山まで退却】 !木曽義仲はこの事を聞き「軍は無勢多勢によらず。大将軍の冥加の有無によるべし。城四郎長茂は八万余騎と聞こへしかど、!義仲二千騎にてけちらかしき。されば兵衛佐十万余騎とは聞ゆれども、さまでの事はよもあらじ。ただし当時兵衛佐と義仲と中を違はば、平家の悦びにてあるべし。いとどしく都の人の云ふなるは『平家皆一門の人々思ひ合ひてありしかばこそ、をだしうて廿余年も保ちつれ。源氏は親を討ち、子を殺し、同士討ちせむほどに、又平家の世にぞならむずらむ』と云ふなれば、当時は兵衛佐と敵対するに及ばず」と信濃へ引き返したが、どういうわけか関山に留まった。 【頼朝の伝言】 兵衛佐は!木曽が退却したと聞いて、義仲の言い分を聞こうと思い立ち使者を立てる相談をする。 北条四郎が「伊豆国住人天野藤内遠景こそ、さやうの事も心へて口もきき、さかざかしき者にて候へ」と取り計らうと、遠景を召して「!木曽の次郎に合ひて云はむ様はよな、『平家、内にはゐちよくの輩也、他には相伝の敵也。然るに今頼朝彼等を追討すべき院宣を承る。あにしやうがいのてんおんにあらずや。かつうは君を敬ひ奉り、かつうは家を思給はば、もつともかふりよくあるべき所也。一族の儀を忘れて、平家と同心せらるる由、もれ承る間、じつぷを承らむが為に、これまでさんかうする所也。十郎蔵人のいはむ事につきて頼朝を敵とし給ふか。さもあるべくは蔵人をこれへ返し給へ』と申さるべし。『帰らじ』と申さば、『御辺は公達あまたおわす也。成人したらむ子息一人頼朝にたべ。一方の大将軍にもし候はむ。頼朝は成人の子も持ち候はねば、かやうに申し候ふなり。かれをもこれをも子細を宣はば、やがておしよせて勝負を決すべし』と確かに云べし。おもてにまけて云わぬか云ふか、確かに聞け」と伝言し、安達の新三郎清経という雑色を添えて木曽の陣へやった。 天野藤内は(木曽の前で)堂々と兵衛佐の伝言に加えて自分の言葉を交えながら伝えた。 【木曽、人質をどうするか会議】 !木曽殿は是を聞き、根井、小室の者共を召し集め「我が心にて我が身の上の事は計らひにくきぞ。これ計らへ」と云うと、郎党共は一同に「日本国は六十余カ国と申すを、僅かに廿余カ国こそ、源氏はうち取り給ひたれ。今四十余カ国は平家のままにて候。うちあけたる所もなくて、鎌倉殿と!木曽殿と御仲違わせ給ひなば、平家の悦びにてこそ候わむずらめ。蔵人殿『帰らじ』と候はば、何か苦しく候べき。清水の御曹司を鎌倉殿へ渡しまひらせ給へかし」と申しあげる。 !木曽が乳母子今井四郎が進み出て「恐れにて候へども、各々悪しく申し給ふものかな。弓矢をとる習ひ、後日を期する事なき者をついとしては、御仲よかるべしとも覚え候はず。多胡先生殿をば悪源太殿うち参らせてましましせば、つしに親の敵と思ひ給ふらむと、鎌倉殿は思ひ給ふらむ。いかさまにも一度軍は候わむずらむ物を。只事のついでに、御返事したたかに仰せられ返へして、一軍して、御冥加の程をも御覧ぜよかし」と云う。 !木曽は「今井は乳母子なり。根井、小室は今参なり。乳母子が云わむ事につきて、これらが云ふことを用ゐずは、定めて恨みむず。又彼らに棄てられなば、悪しかりなむ」と考えた末、 11才になる清水冠者義基を呼び寄せて「人の子をわ君ほどまで育てて、他人の子に成すべきにてはあらねども、十郎蔵人は『帰らじ』と宣ふ、わ君をやらずは、ただいま兵衛佐と仲違ひぬべし。なにかは苦しかるべき。急ぎ佐殿の方へ行け。果報なからむには、一所にありとてもかなふまじ。冥加あらば、所々にありとも、それにもよるまじ。とくとく出でたつべし」という決断をする。 清水冠者は心細く思いながらも子細を云うべき事ではないと、母や乳母に暇を請い、鎌倉殿の元に出発する。 【木曽殿、使者をもてなす】 !木曽は、鎌倉の使いの天野藤内遠景と対面し、酒勧め、馬引き、引出物などして「御使ひ心得よくよく申給へ。まづ人はいかがおもひ給ふらむ、!義仲にをきては全く意趣を存ぜず。ただ平家を滅ぼして、先祖の本意を遂げむと思ふ他は、又二心なし。これ人のわざん也。ただし十郎蔵人殿こそ、御辺を恨み奉る事ありとて、信乃へうち越えられて候へ。!義仲さへすげな当り候わむ事もいかにぞや覚へて、うち連れ申て候。もしその御不審にて候か。これまたさしも御意趣深かるべしと存ぜず。蔵人殿は帰り参らじと宣へば、嫡子の小冠義基十一歳になるを参らせ候。!義仲が参りて、番宿直を仕ると思ひ給ふべし。是も又一方へ向かふも、かつうは御代官にてこそ候へ。ゆめゆめをろかの義を存ぜず。もし御為に二心もあらば。!義仲」など起請代の文まで書いて、清水の冠者を兵衛佐の元へ遣わす。 清水の冠者と同年になる、海野(かいの)小太郎重氏、産小屋の太郎行氏という者たちも付けた。 道すがら(義基が)泣くので「いかにかくはわたらせ給ぞ。幼けれども、弓矢の家に生まれぬれば、さは候はぬ物を。いかにかくはわたらせ給ふぞ」と(重氏が)申し上げると、義基はこういった。 わがてつる道の草葉や枯れぬらむ あまりこがれて物を思へば すると重氏は、 おもふには道の草ばもよも枯れじ 涙の雨のつねにそそけば と詠む。 【武田五郎の讒言/頼朝撤退】 武田五郎信光が兵衛佐に木曽殿の事を讒言した意趣は、武田が「かの清水の冠者を信光が聟にとらむ」と木曽殿にもちかけたところ返事に「同じき源氏とてかくは宣ふか。娘持ちたらば参らせよかし。清水の冠者につがわせむ」と言われて恨みを持ち、どうにかして木曽殿を貶めようとやったことだと後にわかった。 それはそうと、兵衛佐は木曽の返答を聞き「もつとも本意なり。もとよりさこそあるべけれ」と、清水冠者を伴って鎌倉へ引返した。 【妻達の起請文エピソード】 !木曽殿は信乃へ帰り、切者(寵愛している者)三十人の妻を呼び集めて 「各々が夫共の命を、清水冠者一人が命にかへつるは、いかに」と云うと、妻達は手を合わせて悦び「あらかたじけなや。かやうにおわします主を、京筑紫の方よりも見棄て奉て、妻を見む子を見むとて帰りたらむ夫にみやうたいあはせば、もる日月の下にすまじ。やしろやしろの前渡らじ」などと口々に申し起請を書いて退出した。夫達もこれを聞いて、顔を合わせて悦んだ。
八 【源氏追討の官軍の構成】 四月十七日、!木曽義仲追討のために官兵(平家軍)は北国に発向(出発)。続けて東国へ攻め入り兵衛佐頼朝を追討するという。 大将軍には、 権助三位中将惟盛卿、越前三位通盛卿、薩摩守忠度朝臣、左馬頭行盛朝臣、三河守知度朝臣、但馬守経正朝臣、淡路守清房朝臣、讃岐守維時、刑部大輔広盛。 侍大将軍には、 越中前司盛俊、同子息越中判官盛綱、同次郎兵衛盛次、上総守忠清、同子息五郎兵衛忠光、七郎兵衛景清、飛騨守景家、同子息大夫判官景高、上総判官忠経、河内判官秀国、高橋判官長綱、武蔵三郎左衛門有国以下、受領、検非違使、靭負尉、兵衛尉、有官の輩三百四十余人、大略数を尽くす。 其外畿内は、山城、大和、摂津、河内、和泉、紀伊国の兵共、去年の冬比より催集られけり。 東海道には、遠江より東の者共こそ参らざりけれ、伊賀、伊勢、尾張、参河の者共、少々参けり。武蔵国住人長井斎藤別当実盛なむども候ひけり。 東山道には、近江、美乃、飛騨三か国の兵共少々参けり。 北陸道には、若狭以北の者共惣(そうじ)て一人も参ぜず。 山陰道には、但馬、丹後、因幡、伯耆、出雲、石見。 山陽道、南海道、西海道には、四国の者共は参らざりけれども、播磨国、美作、備前、備後、安芸、周防、長門、豊前、豊後、筑前、筑後、大隅、薩摩、この国々の人々も去年の冬より召集らる。 「年明けば馬の草飼につきて合戦あるべし」と内儀有けれども、春もすぎ、夏に成てぞうつたちける。 【官軍平家の出発セレモニー】 その勢十万余騎、大将軍六人、宗徒の侍廿余人くらい。 先陣・後陣を決めないで進め、十万余騎の軍勢を引き連れて洛中を出れば「異国をば知らず、日本(につぽん)我朝に取ては、いかなる者か手向かひをすべき。源氏等なましゐなる事し出だして、今度ぞあとかたもなく滅びむずる。あなゆゆしの事や」と京中の人は言いあう。六人の大将軍達は五色のきらびやかな装束でセレモニーに登場。 (以下略) 【官軍、行軍先で追捕】 平家軍はおびただしい数で京を出発。「片道賜りて」いたので道中で貴族達への税(権門盛家の正税官物)、神社仏事の神物仏物といわず強奪した。 逢坂関から先、大津、辛崎、三津、川尻、眞野、高嶋、比良の麓、鹽津、海津に至るまで、在々所々の家々を次々に追捕。民は山野に逃げ隠れて「昔よりして朝敵を鎮めむが為に、東国北国に下り、西海南海に赴く事、その例多しと云へども、かくのごとくの、人民を費やし国土を損ずる事なし。されば源氏をこそ滅ぼして、かの従類を煩はしむべきに、かやうに天下を悩ます事は只事に非ず」と叫んだという。 【火燧城】 !義仲は信乃に居たが、これを聞いて、平泉寺の長吏斎明威儀師を大将に、稲津新助、斎藤太、林、富樫、井上、津幡、野尻、川上、石黒、宮崎佐美が党、落合五郎兼行らを始めとして、五千余騎で越前国火燧城を固めた。 火燧城は 南:荒血の中山、近江の湖の北の端、塩津海津の浜に続き 北:海津、柚尾山、木辺(きのべ)、戸倉と一つに連なっている。 東:かへる山の麓、越の白根に続き 西:能美、越の海山ひろく打めぐりて、越路はるかに見渡る。 盤石をそばたて山高くあがり登りて、四方に峰を連ねたりければ、北陸道第一の城郭なり。山を後ろとして、山を前にあつ。両岸の間、城郭の前に西より東へ大河流れ出でたり。大石を重ね柵をかきて水を防ぎ留めたり。あなたこなたの谷をふせぎ、南北の岸を潤し、水の面遥々見え渡りて、水海の如し。陰南山を浸して青くして簇々たり。波西日を沈めて紅にして陰倫たり。かかりければ舟なくしてはたやすく渡すべきやふなかりけり。 という様子で堅固と思われた。 [モクジ]
九 【火燧城合戦】 廿一日、平家の軍兵は燧城に到着。 城の外観から落とせるようにも見えず、十万騎の勢は向かいの山に宿営し有効な手段もなく日を送る。 源氏の大将斎明威儀師は、平家の勢十万騎に恐れをなしたのか裏切る。 ある時、城内より平家の方へ文をつけた蟇目を射かけた。文面には 「この川の端を五町ばかり上に行て、川の端に大きなる椎の木あり。彼の木の本に瀬あり。をそが瀬と云。その瀬を渡って東へゆけば、細々としたる谷あり。谷のままに三町ばかりゆけば、道二つに分かれたり。弓手なる道は城の前へ降りたり、馬手なる道は城の後ろへ通ひたり。 この道を通りて、城の後ろへ押し寄せて、軍の鬨つくり給へ。 鬨の声を聞くものならば、城に火をかけ候はむずるぞ。しからば北へのみぞ落ち候はむずる。そのとき大手をし合はせて、中に取り籠めてうち給へ。又この川は堰あげて候へば、川尻へ勢をまはして、しがらみを切り落とされ候はば、水は程なく落ち候ふべし。 斎明が一党は五十余人候へば、城の後ろへ一手にて落候べし。敵かとて、暗まぎれにあやまち給な。やがて御方へ参りくははり候べし」と詳しく記す。 (斎明と)外戚で親しかったので宛名に「越中次郎兵衛殿へ」とあり、これを見た平家の兵は「一代聖教(しやうげう)の中にも、これほど貴き文はあらじかし。かの平泉寺は叡山の末寺なり。医王山王の計らひにてや」とか「厳嶋の明神の斎明に御託宣あるにこそ」と喜んだ。 (*前漢の蘇武エピソードは略) 但馬守経正は「敵をはかることは、山を隠して海を変じ、河をつくして岩を集むるは、弓矢取る者の習ひなり。これもいかなるべきやらむ。各々はからひ給へ」と言い、 三河守は「さればとて、かくてあるべきにもあらず。その上、斎明が城の体さもありぬべし。たばかるともそれによるべからず」と、よい兵五百余騎を選んで差し遣わし、文に書いてある通りに行くと城の後ろに出て、塞き止めた水も柵を切り落とすと流れてなくなる。 平家軍は鬨をつくると呼応して城内から火が出、城内の者(北陸武士達)は浮き足立って木戸口を開けて北へ逃走。平家の大手は押し合わせてこれを取籠め、討ち取った源氏の軍兵数を知らず。 斎明は平家の方へ加わり道案内を申し出る。平家は燧城を追い落としたので、勢いに乗って加賀を越え越中国砺波山を目指す。 【木曽殿、行動する】 !木曽はこの事を聞き大変驚いて五万余騎で出兵、関山を越えて砺波山へ向かった。また合戦の祈祷として願書を書いて白山へ奉る。
十 【白山に願書提出】 敬白 大願を立申す事 一 加賀の馬場白山の本宮卅講を勤じし奉るべき事 一 越前の馬場平泉寺卅講を勤じし奉るべき事 一 美濃の馬場長滝(ちやうりゆう)寺卅講を勤じし奉るべき事 右 白山妙理権現は、観音薩?の垂迹、自在吉祥の化現なり。三州高嶺の岩窟を卜(しめ)て、四海率土(そつと)の尊卑(そんぴ)を利す。参詣合掌の輩(ともがら)は、二世の悉地(しつぢ)を満たし、帰依低頭の類ひは、一生の栄耀に誇る。 惣て鎮護国家の宝社(ほうしや)、天下無双の霊神なる者か。しかるを近来よりこのかた、平家たちまちに不当の高位に登り、飽くまで非巡の栄爵に誇りて、忝く十善万乗の聖主を蔑ろにし、恣(ほしいまま)に三台九棘(きゅうきょく)の臣下を陵辱し、或は太上法皇のすみかを追捕し、或は博陸殿下のみを押へ取る。或は親王の仙居を打囲み、或は諸宮の権勢を奪ひ取る。五畿七道、何れの処かこれを愁へざる。百官万人、誰の人かこれを歎かざる。已に王孫を断たんと欲す。あに朝家(ちょうか)の御敵にあらずや。是一。 次に南京七寺の仏閣を焼きて、東漸八宗の恵命(ゑみやう)を断ち、園城三井の法水を尽くして、智証一門の学侶を滅ぼす。その逆しま調達にも勝り、その過(とが)波旬にも越えたり。月支の大天の再誕か、日域の守屋重ねて来たれるか。已に仏像経巻を摩滅し、また堂塔僧坊を焼き払ふ。いづくんぞ法家の怨敵にあらずや。是二。 次に源氏平氏の両家、古より今に至るまで、互角の如く、天子左右の守護し、朝家前後の将軍なり。しかるを事にふれ雌雄を決し、隙(ひま)を伺ひ矛盾を致す。仍て代々合戦を企て、度々勝負を争ふ。已に宿世の怨心あり。是私の大きなる敵か。是三。 是によつてかたじけなく神明の冥助を蒙り、仏法の怨敵を降せむがために、大願を三州の馬場に立てて、感応を三所権現に仰ぐのみ。就中(なかんづく)先代王敵を伏す。皆仏神の贔屓による。この時謀叛を降せんに、いづくんぞ権現の勝利なからむや。しかのみならず、白山の本地・観音大士なれば、怖畏急難(ふゐきゅうなん)の中において、能く無畏を施す。たとひ謀臣の凶徒呪詛を加へ怨念を致すといへども、本人の誓約に還著する事疑ひなからむ。然れば、権現の本誓を還念す。感応踵を廻らすべからず。如何に況や我が家先祖より、八幡大菩薩の加護を仰ぐ。威を振る人徳を施す。しかるに八幡の本地は、観音の本師阿弥陀なり。白山の御体(ごたい)は、弥陀の脇士(きょうじ)観世音なり。師弟力を合はせば、感応潜(ひそ)かに通ぜんものか。況や弥陀に無量寿の御名まします。あに千秋万歳の算を授けざらむや。観音に薬於王の身を現ず。寧(いづくん)ぞ不老不死の薬を食せざらんや。本地と云ひ垂迹と云ひ、勝利結縁なり。公(おほやけ)につけ私(わたくし)につけ、素懐を遂げむと欲す。志す所私なく、奉公頂きに在り。偏に王敵を降せむが為、専ら天下を治めんがため、たちまちに仏法を興さむがため、とこしなへに神明を仰がんが為なり。伝聞く、天神に怒りなし、ただし不善を嫌ふ。地祇に祟りなし、ただし過患(くわげん)を厭ふ。ゆゑに平家王位を奪ふ、是不善の至りか。謀臣仏法を滅ぼす、また過患のもとゐなり。日月未だ地ちに堕ちず、星宿なほ天に懸かれり。神明の神明たる者は、この時験を施し、三宝の三宝たる者は、この時威を振るひ給へ。然れば則ち権現我等が懇誠(こんぜい)を照らし、みやうには平家の族(やから)を罰せしめて、我等権現の加力(かりよく)を蒙りて、顕に謀叛の輩(ともがら)を討たむと思ふ。 若(も)し丹祈(たんき)に応へて、感応速やかに通ぜば、上件(かみくだん)の大願解怠(けだい)なくは、果たし遂ぐべきなりてへれば、いよいよ氏(うじ)の面目を悦びて、新たに社檀の荘厳を添へ、とこしなへに道の冥加に誇りて、ますます仏法の興隆を致さむ。仍て申し立つる所、件の如し。敬ひて申す。 寿永二年四月廿八日 源義仲 敬ひて申す と書いた。 【林・富樫の動向】 五月二日、官軍が六郎光明・富樫太郎等の城郭二ヶ所を落とし(北国に)攻め入っている、という報告が道中から早馬で都に入った。これに都の人々は喜んだ。 林・富樫一党を追い落して、平家は白山の一の橋を引いて立て籠った。 【兼平與盛俊合戦事】 十一日、平家は十万余騎の兵を三手に分けて、三万余騎をば志雄の手へ差し向ける。 七万余騎を大手に差し向け、さらにその内より越中前司盛俊の一党五千余騎を先遣として加賀国〜徹夜で砺波山を越え〜越中国へ入る。 そこに!木曽が乳母子・今井四郎兼平、六千余騎で待ち受けて数時間合戦する。 合戦は夜まで及び、盛俊隊は敗戦、討たれた者は三千余人という。 盛俊は加賀国まで敗走、全軍を集めて軍議する。 大手: 維盛、通盛、知度、経正、清房、忠度、教経以下七万余騎=加賀越中の境なる砺波山を越え、越中国へ向かう。 搦手: 大将軍越中前司盛俊以下三万余騎=能登、加賀、越中三が国の境に志雄坂へ向かう。 【般若野軍議】 !木曽義仲は軍を越中国に急がせ、池原、般若野に控えた。五万余騎の勢を三手に作る。 十郎蔵人行家大将軍にて、楯の六郎親忠、八嶋四郎行綱、落合五郎兼行等を引き連れて一万騎、志雄坂へ向かわせる。 木曽は「今井四郎兼平も一万騎にて砺波山の後ろの搦手に回れ。義仲三万余騎にて大手へ向かおう」と言うと 宮崎佐美の太郎は「黒坂、志雄山を突破されれば(平家に)後はありません。平家は夜じゅう山に籠るでしょう。黒坂口を暫く支えてみては」と申し上げ !木曽は「確かに大勢は夜中には馳せ合わせられない。黒坂口へ手を向けられればなあ」と評定する。 【東国北陸逆賊の追討宣旨】 北陸道叛逆輩の事、宣旨を下さる。 其状に云、 「源頼朝、同じく信義等、頃年以来、猛悪の逆心に住して、狼戻の奸濫を企つ。その同意与力の輩、東国及び北陸より、数カ国の州県を虜掠し、そこばくの黎民を劫略す。謀叛の甚だしき、和漢に類ひ少なし。仍て前内大臣に仰せて、よろしく北陸道の逆賊を追討せしむべしてへり。 寿永二年五月廿日 左中弁」 【木曽殿の策】 六月一日、「平家の大手、すでに砺波山を越えて、黒坂、柳原へ出た」という。 !木曽は「聞くがごとくは平家多勢なり。柳原の広みへ打出づる物ならば、馳合の合戦にて有べし。馳合の戦は勢の多少による事なれば、大勢の中にかけられて悪しかるべし。敵を山に籠めて、日暮れて後、倶利伽藍が谷の巌石に向けて追ひ音落さばやと思ふなり。義仲先づ急ぎて、黒坂口に陣を取るべし。敵向ひたりと見ば、『この山四方巌石なれば、左右なく敵よも寄せじ。いざ馬の足休めむ』とて砺波山の猿馬場におり居て休まむずる。その後ろへ搦手を廻して、谷へ向けて追掛けよ」と言い、すぐに旗差を一人、強馬に乗せて駆けさせる。巳刻ばかりに黒坂口に馳着くと、白幡一流を高く立てて結びつけた。 案の定、平家は是を見て「あわや源氏の先陣向ひてけるは。敵は案内者なり、味方は不案内なり。左右なく広みへ打出でて、四方よりかけたてられて悪しかりなむ。この山は四方巌石なり。敵寄つとも見へず。馬の草飼、水のたよりともによきところぞ。山をかかせて馬の蹄も弱りたり。ここに降居てしばらく休めや」と、砺波山中に留まった。 平家の戦の吉凶を占ふ男によれば「九月以前に軍不利なり。引き退きて後陣をかためよ」ということだったが、景家に邪心あって、これを信じずに合戦を急いだ。その理由は、肥後守貞能が菊地高直を責め落して入洛する由を聞き、これに先立って功を上げようと考えたのだった。 【木曽殿の戦占】 義仲、馬三十匹に鞍を置き、四手を付けて天神地祇に奉り、誓って曰く「神明もし祈請の趣を納受し給はば、此の馬相引きて、敵の陣の中に入るべし。納受し給はずは、馬みな離散すべし。これをもつて今日の軍の進退思ひ定むべし」と祈念して追ひ放つと、この馬は一列に群をひいて、摂津の判官盛澄の陣中へ三十匹そのまま突っ込んで行ったので官軍も驚く。義仲はこれを深く信受した。 一方その頃、安宅の勢、石黒の太郎忠直も今日初陣し、馬にて般若野の陣へ参り来る。折りしも同国の住人中村三郎忠綱、むくたの荒次郎村高、も来合わせたので、大将軍!木曽は「義仲は幼少よりして信乃国に居住して、今日初めてこの山へは向かひたり。然る間、山の案内存知せず。殿原は朝夕住みなれ給たる所なれば、定めて案内はよくよく存じせられたるらむ。今度の合戦に、義仲をかたせうかたせじは、しかしながら殿原の計らひなり。いかやうにあるべきやらむ」と案内を頼む。 それぞれが言うには「さん候。この国に住して人となれるみどもにて候へば『木の本、萱の本、谷の深きに悪所あり。峰の嶮しきに岩石あり。ここは間道なればいづくの郷へ出づる道。かれは大道なれば、それがしの村へ続きたり。敵はかの方より寄せこば、我は違いていづれの方より向かふべし』と存知して候へば、各々案内しやつかまつり候ふべし。 この山は砺波山の郡のうちにてさうらへば、砺波山とも申し候。または黒坂山とも名付けたり。黒坂に取て三つの道候。北黒坂、南黒坂、中黒坂とて候。北にはまた安楽寺越、南にはかむだ越、ほら坂越とて、道は多く候へども、余の方へはいづれの道へも、敵向かひたりとも承り候はず。中黒坂の猿の馬場と申すところに陣を取りて候ふなれば、かしこは無下に文内せばき所也。先陣後陣押し合はせて攻めむに、無下にやすく覚え候」ということだった。 【埴生八幡を発見】 !木曽は十三騎で、まず中黒坂口へ到着。山の山中に鳥居の立つ社を夏みつけたので郷の長を呼んで「あれをば何の宮と申すぞ。またいかなる神をあがめ奉りたるぞ」と問うと「これは埴生の社と申して、八幡宮と申し候」という。 !木曽はうれしく思って、祐筆の木曽の大夫覚明を呼んで「義仲幸ひに当国新八幡宮の御宝前に近づき奉りて合戦を遂むとす。今度の戦には疑ひなく勝ちぬと覚ゆるぞ。かつうは後代の為、かつうは当時の祈りの為に、願書を一筆書きて参らせばやと思ふは、いかがあるべき」と言うと、覚明も「もつとも然るべく候ふなり」と、箙の中から小硯を取り出して畳紙に是を書く。 覚明のその日の衣装は、褐衣の鎧直垂に首丁(すつちやう)頭巾して、伏縄目の鎧に黒つばの征矢負い、赤銅造の太刀佩いて、塗籠藤の弓脇に挟み、この状態で!木曽の前に跪いて書いたので、まさに文武両道の達者と、かっこよく見えた。
十一 【願書】 帰命頂礼、八幡大菩薩は、日域(じちゐき)朝廷の本主、累聖明君の曩祖なり。 宝作(ほうそ)を護らんがため、衆生を利せんが為に、三身の金容を顕し、三所の権扉を開く。ここ頃年の間、平相国と云者あり。四海を管領して万民を悩乱せしむ。 是既に仏法の仇、王法の敵なり。義仲苟も弓馬の家に生まれて、箕裘の芸を継ぐ。かの暴悪を見るに、思慮を顧みる事能わず。運を天道に任せ、身を国家に投ぐ。 試みに義兵起こして凶器を退けんと欲す。然るを闘戦両陣を合はすといへども、士卒未だ一陣の勇みを得ざる間、まちまちの心わんわんたる処に、今一陣の旗を揚ぐる戦場に於いて、忽ちに三所和光の社壇を拝す。 機感の純熟既に明らかなり。匈徒の誅戮疑ひなし。歓喜の涙を降らせて渇仰肝に銘む。なかんづく、曾祖父前陸奥守義家朝臣、身を宗廟の社族に寄附して、名を八幡太郎と号せしよりこのかたその門葉たる者の、帰敬せずといふことなし。 義仲その後胤として、首を傾けて年久し。今この大功を興す。たとひ嬰児の櫂を以て、巨海を量り、蟷螂の斧を取りて立車に向かふが如し。然れども君の為国の為是を興す。全く身の為に是を興さず。志の至り神カンそらに在り。頼もしきかな、悦ばしきかな。伏して願はくは妙見威を加へ、霊神力を合わせて、勝つ事を一時に決し、仇を四方に退け給へ。丹祈冥慮に叶ひ、顕加護有るべくは、先づひとつの瑞相を見せしめ給へ。敬て申す。 寿永二年六月一日源義仲敬白 と、その状(願書)に書いた。 【埴生八幡に願書提出】 この願書に十三騎の表矢を抜いて、雨の降る中を蓑を着た男の蓑の下に隠し持せて社旦へ奉る。 頼しい事に八幡大菩薩がこれを聞き届けたかの如く、霊鳩が空から飛んできて白幡の上を舞った。 これを見た義仲は馬よりおりて甲を脱ぎ、頭を地につけて拝し奉る。平家の軍兵も遠くからこれを見、身の毛をよだたせる。 【木曽軍布陣】 こうしているうちに!木曽の軍勢三千余騎が到着。敵に軍勢の数が分かってはよくないと松永、柳原に隠す。しばらくして五千余騎が到着。同じく柳原に隠す。さらに七千余騎、一万騎、三万余騎の勢が次々到着し、すべて柳原に隠した。 【平家布陣】 平家は砺波山の口、倶利伽藍が岳の麓に、松山を背にして、北向に陣をとる。 !木曽は黒坂の北の麓、松永柳原を後ろにして、南向に黒坂口に陣をとる。 【倶利伽藍谷対峙の事(矢合わせ)】 両陣の間はわずかに五六反を隔てて、おのおの楯をついて向かい合う。 !木曽は軍勢が揃ったが、合戦を急がない。 平家の方も進攻してこない。鬨の声を三回上げた後は静まり返っていた。 しばらくして、源氏の陣から精兵十五騎を楯の前へ進ませて、十五騎が上矢の鏑を一斉に平家の陣へ射入れる。 平家も落ち着いて十五騎を出し、十五の鏑を射返させる。 今度は両方から十五騎づつ共に楯の前に進み、次には三十騎進み、五十騎出せば五十騎、百騎を出だせば百騎、と矢合わせするが勝負を決する戦いにしなかった。これは辰刻より未刻まで六回に及び、源氏軍の、搦手に軍勢を廻そうと日が暮れるのを待つ作戦に、平家は気づかなかった。 【倶利伽羅谷大死】 日が暮れると、今井四郎兼平、楯六郎親忠、矢島四郎、落合五郎を先頭に一万余騎の勢で、平家の陣の後ろの西の山の上より廻って、鬨をどっと作ると、黒坂口、柳原に控えた源氏軍大手の三万余騎も同時に鬨を作る。前後五万余騎が叫ぶ声がひとつになって谷峯に響いた。 平家は夜討ちはないだろうと油断していたので慌て騒ぐ。 日はすでに暮れ、道もわからないので東の谷に横に逃げようとするが、崖を落ち杭に貫かれ、岩に当って死ぬ。先に落とす者は後に落とす者に踏み殺され、後に落とす者は今落とす者に押し殺される。父が落とせば子も落とす、子が落とせば父も続く。主が落とせば郎党も落ち重なる。馬には人、人には馬、上や下に落ち重なって、倶利伽藍が谷一つを平家七万余騎で埋めた。 谷の底には大きな栃の木がありひとつの枝は20丈もあったが、これが隠れる程に人馬が谷を埋めた。 大将軍三河守知度以下、侍には飛騨判官景高、高橋判官長綱以下、衛府、諸司、並に有官の輩百六十人、宗徒の者共二千余人は倶利伽藍が谷で失われた。 【死人の中に神宝現るる事】 !木曽はこのように平家の大勢を攻め落とし、黒坂峠で弓杖突いて控えていたところ、平家が馳せ重なって埋めた谷の中から俄に火炎が燃上るのを見つける。 !木曽たいへん驚き、郎党を偵察に行かせると、これは炎ではなく金劒宮(かなつるぎのみや)の御神宝だった。金劒宮とは白山の劔宮のことである。 !木曽は馬から降り、甲を脱いて、三度是を拝し奉って「この軍は義仲が力の及ぶ所にてはあらざりけり。白山権現(しらやまごんげん)の御計らいにして、平家の勢は滅びにけるにこそ。劔宮はいづれの方に当りて渡らせ給ふやらむ。御悦び申さむ」と、鞍置馬20疋に手綱を結び、白山の方へ追いやってこれを捧げた。 これほどの神験があろうかと、加賀国林六郎光明が所領横江庄を白山権現へ寄進したが、今まで神領として伝わっている。
十二 【安宅湊〜志雄】 同二日、志雄の戦では十郎蔵人行家敗色の色濃く、越中前司盛俊、勝ちに乗じてこれを攻める。 !木曽砺波山の戦に勝ち、五万騎の勢で志雄坂へ向けて安宅の湊を渡そうとしたところ、橋を引かれ(て無くなっており)河は深く見えるので、鞍をつけ手綱を結い付けて(空馬に偽装した)七八疋を追い渡す。 平家の勢はこの馬を見て「源氏落しなむとするにこそ。ここに馬落したり」と、馬を我先に捕まえようと川に入ったので、!木曽は是をみて「河は浅かりけり。渡せや渡せや」と、海野、望月、仁科、村山を先として五百余騎、で川に入る。平家は取るものも取りあえず落ちるが逃げられたものは少なく、多くは河へ入った。こうして志雄の手を追い落とすと加賀国篠原浪松まで攻めた。 平家もひき返しては戦ったが、三万余騎は殆ど篠原にて討たれた。 備中国住人妹尾の太郎兼康は!木曽郎等で加賀国住人倉光六郎成澄に生け捕られる。斎明威儀師も生け捕られた。
十三 【実盛の最期】 平家の家人武蔵国の住人長井斎藤別当実盛「遂に遁れまじき命也。いづくにても死む命は同事」と思い、赤地の錦の直垂に黒糸縅の鎧を着て、死生不知に戦った。 !木曽の手の者に、信濃国住人手塚太郎光盛という者がいたが、実盛が隠れるのをみて「たそや。只一人残留て戦こそ心にくけれ。名乗れや名乗れや。かう申は誰とか思ふ。信濃国諏訪郡住人、手塚太郎金刺光盛と云者ぞ。吉敵ぞや」と名乗りかけた。 実盛「さる者有と聞き置たり。ただしわぎみを下ぐるにはあらず。思様があれば名乗はすまじ。只頸を打て源氏の見参に入よ。!木曽殿は御覧じ知たるらむ。思切りたれば、一人残り留りて戦ぞ。敵は嫌まじ。寄りこよ、手塚」と言うやいなや、弓を脇に挟んで歩み寄る、 手塚は郎等一人を馬手(右手)に並べて囲もうとする。実盛に押並べて手塚が組むと、 実盛「さしたり」と、手塚郎等の押付の板を掴み、左手で手綱をかいくり、立ち上がって「えい」と引くと手塚郎等は馬から引き落とされ持って行かれそうになる。 これを見た手塚は馬を馳せ並べ、実盛の鎧の袖を掴むとかけ声を出して引くが、鐙を越えて先に落ちた。 実盛も二人を敵にして馬から引き落とされる。実盛が手塚郎等を押さえて首を落とす間に、手塚は実盛の鎧の草摺を引き上げて、柄も拳も通れと刺すや上に乗りかかり、実盛の首を落とす。 【首実検】 手塚は、遅れてきた自分の郎等に実盛の鎧を剥ぎ取り持って来させ、!木曽の前で「光盛こそかかるくせ者打て候へ。『名乗れ』と申候つれども、名乗り候はで『!木曽殿は御覧じ知たるらむ』と申て、終に名乗り候はず。侍かと存候へば、錦の直垂を着て候。大将軍かと存候へば、続く勢も候はず。京者か、西国さまの御家人かと思候へば、音(こえ)は坂東音にて候つ」と申せば、 !木曽「哀れ、これは武蔵国長井斎藤別当実盛にこそあむなれ。若(もし)其ならば、一年(ひととせ)義仲をさなめに見しかば、白髪糟尾なりしぞ。今は事の外に白髪にこそなりぬらめ。鬢の髪の黒こそ怪けれ。樋口は古同僚にて見知りたるらむ。見せよ」と、樋口次郎を呼んで首を見せる。 樋口は実盛のもとどりを取って一目見ると、涙をはらはらと落として「あな無惨や、実盛にて候也」 !木曽「いかに鬢髯の黒きは」 樋口「さ候へばこそ、子細を申候はむとし候が、心弱く涙の先づこぼれ候也。弓矢とる者は、いささかの事にも言葉をば申し置べき事にて候ひけり。実盛年頃兼光に申し候ひしは、『実盛六十に余て後、軍の陣に向ひたらむには、白髪のはづかしからむずれば、鬢髯に墨を塗て、若く見えむと思ふなり。その故は、これほどの白髪にて、いかほどのさかえを思て軍をばしけるぞやと、人の思わんもはづかし。その上敵も、老武者とて、侮らむ事も口惜しかるべし。又若殿原に争ひて先を駆くるも大人気なし。小野小町が老苦の歌に、 さわにをうるわかなならねどをのづから としをつむにもそではぬれけり と云けむも理なりけり』と申候しが、たわぶれと思ひて候へば、げに墨を塗て候ひけるぞや。水を召寄て、洗はせて御覧候へ」 (木曽)「まことにさも有らむ」 と、洗わせてみると白髪に戻る。 【錦の直垂の理由】 錦の直垂を着ていた事は、実盛が京を立つ日、内大臣に「実盛東国の討手に罷下りて候ひしに、一矢も射ずして蒲原よりまかり上りて候しが、実盛が老の恥、此事に候と存じ候へば、今度北陸道に罷下りて候わむには、善悪生返候べからず。年は罷よりて候へども、ま先駆けて討死に仕り候べし。其れに取て、実盛元は越前国の住人にて候しが、近年所領につきて武蔵国に居住仕る。事の譬へ候へば、故郷へは錦の袴を着よと申事の候へば、今度最後の所望には、錦の直垂を御免被り候べし」と申し上げ、 大臣「さうに及ばず」と、赦されたので直垂を着ていた。これを聞いて、大名小名皆鎧の袖を濡した。 【官軍敗走】 伊藤九郎、大庭五郎、ましもの四郎などという者達も、そこかしこで討たれた。今度の砺波山、志雄坂より始めて、雲津、松ヶ崎、金崎、浪松、越して色の濱、天の橋立、安宅の松原、竹の泊、所々の戦で平家の官兵は毎度打落とされ、然るべき人々も馬を降り物具を脱ぎ捨てて、あるいは東山道、あるいは北陸道を、都めざして敗走していった 維盛、通盛希有にして帰り上った。 去る四月に十万余騎で下り、今六月に戦に負けて帰り上った勢は三万余騎、残る七万余騎は北陸道で屍を路頭に晒したのだった。 内大臣が棟とも頼んでいた弟・三河守も討たれ、長綱も帰らない。 大臣殿の乳母子景高も討たれた上は心弱く思われる。(景高の)父・高家も「景高におくれ候ひぬる上は、今は身のいとまを給わて、出家遁世して後生を弔うべし」と申し上げる。 (十四、十五、十六、割愛)
十七 !木曽は度々の合戦に勝ち、六月上旬には東山北陸二つの道を二手に分けて都に上る。 東山道の先陣は尾張国墨俣川に到着。北陸道の先陣は越前の国府に着く。 木曽は北陸道を通っていったが、(その途中で)評議の時に「そもそも山門の大衆は未だ平家と一つなり。その上ことさらに頃年(きやうねん)は弓箭を松扉(しようひ)の月に輝し、戈延於羅洞(らとう)の雲に蓄ふ。勇敢の凶奴道路に遮り、往還の諸人怖畏を抱く。然れば則ち学窓の冬の雪、永く邪見の焔を消し、利劔の秋の霜、頻りに不善の叢に深し。各々西近江を打上むずるに、東坂本の前、小事なる、辛崎、三津、河尻なむどよりこそ、京へ通り候わむずれ。定めて防ぎ戦ひ候わむずらむ。たとひ打破らしめて上りて候はば、平家こそ佛法とも云はず、寺をも亡し僧を失へ。かやうの悪行を致すに寄て、是を守護のため上る我等が、平家と一つなればとて、山門の大衆を滅さむ事少しも違わず二の舞たるべし。さればとて、又この事をためらひて、登るべからむ道を逗留するに及ばず。是こそ安大事(やすだいじ)なれ。いかがあるべき」と言うと、 大夫房覚明は「山門の骨法粗あら承り候に、衆徒三千人必ずしも一味同心なる事候わず。思ひおもひ心ごころなり。されば三千人一同に平家と一つなるべしと云ことも不定なり。牒状を送りて御覧候へ。事の様は返牒に見えぬと覚え候」と申し上げる。 「確かにもっともだ」と、木曽は覚明に牒状を書かせ、山門へ遣す。 【覚明が由来の事】 覚明は元禅門で勧学院の衆徒で信士蔵人道康といったが、出家して西乗房信救とした。 信救が奈良にいた時に三井寺からの牒状が南都に届き、その返牒を信救が「太政入道浄海平氏の糟糠(さうかう)、武家の塵菩薩」と書いた。 これを入道(清盛)が怒り「いかにもして信救を訊ね取て誅せむ」と手を打った事を聞き、南都は都にも近く逃げ切れないと思い、どうにかして脱出しようとする。が、道々に放免が配備されたと聞いて、さすがにこの姿では検問にひっかかるだろうと、漆をお湯に溶いて涌かして浴びる。と、体は膨張してまるで白癩のようになった。かくて南都を真っ昼間に出たがふれる者もなかった。 信救はさらに追手をのがれ都から離れて鎌倉に逃げる。 一方其の頃、十郎蔵人行家は平家追討の為に東国より都へ責め上っていたが、墨俣川にて平家と合戦をし、散々に打落されていた。行家が三州の国府あたりに逃げてきたところに信救は行き会い行家についた。信救の風貌も本当の癩病ではないので、次第に膨張も治って元の姿に戻る。行家が三河の国府にて伊勢大神宮へ奉った願書も信救が書いた。 その後、信救は!木曽を頼って「木曽の大夫覚明」と改名。 六月十六日、大講堂の庭に衆徒が会合する中、山門は牒状を披露した。
十八 源義仲謹言 親王の宣を奉りて平家逆乱を停止(ちやうじ)せしめむと欲する事 右平治より以来(このかた)、平家跨張の間、貴賤手を捧げ、錙素足を戴く。恭く帝位を進上し、恣(ほしいまま)に諸国を虜掠す。或は権門勢家を追捕して、悉く恥辱に及ばしむ。或は月卿雲客を搦め取りて、その行方を知しむることなし。 就中(なかんづく)治承三年十一月、法皇の仙居を鳥羽の古宮に移し、博陸の配流を夷夏の西鎮に行ふ。之に加へ、侵さずして咎を蒙り、罪無くして命を失ふ、功を積みて国を奪はれ、忠を抽んでて解官せらる、輩勝計すべからざるものか。然して衆人道理を言はずして、自ら以て重きに処す。去し治承四年五月中旬に、親王の家を打囲み、刹利の種を断んと欲する處に、白皇治天の御運未だ其の数尽きざるに因って、本朝守護の神冥、尚し本宮に在るがゆゑに、仙駕を園城寺に保し奉ること、既にをはんぬ。 其の時義仲が兄源仲家、芳恩を忘れがたきに依て、同じく以て扈従し奉る。翌日に青鳥飛来たり、令旨密かに通じて、義仲急ぎ参ずべき催し有り。恭く厳命を奉り、預参を企てむと欲する處に、平家この事を聞きて、前右大将、義仲の乳人中原兼遠の身を召し籠む。その上重ねて義仲が住所に人を重(つ)けて之を伺き、路を固めて打取らんと欲す。然りといへども、義仲身命を捨てて遁参す。是京上の初めなり。然るに怨敵国中に満ちて、郎従相従こと無きの間、心神山野に迷い、東西に徃反(おうへん)を覚えず。 未だ参洛を致ざるの時、御詮議有て云く「三井寺の躯為らく(ていたらく)、地形平均にして、敵を防ぐこと能ず」と。仍て仙蹕(せんひつ)を南都の故城に進め奉り、宇治橋の辺に於いて合戦を遂げ令(し)めんと欲するの刻み、頼政卿父子三人、仲綱兼綱以下、率爾に打立つ。心事相違するの間、東国郎従一人として相順ふ者なしといへども、家の名を惜しむに依て、身命を捨てて防ぎ戦う庭に、骸(かばね)を壟門原上の土に埋み、名を鳳凰城都の宮に施しをはんぬ。哀れなる哉、令旨数度の約、一時に参会しがたし。悲しき哉、同門親昵(しんぢつ)の契り、一旦に面謁を隔つ。然れば平家に於いては、公私に付けて、会稽の恥を散んと欲する者なり。是に於いて幸ひに令旨を東山東海の武士に下さる。雌雄を越後越前の凶党に決せしめて、平家の軍兵等首を刎ねられ命を終ふるの者、幾千万と云ふことを知らず。今前(さき)兵衛佐源頼朝、同じく義仲等、親王の宣を承りて以後、尾張、三河、遠江、伊豆、駿河、安房、上総、下総、上野、下野、武蔵、相模、常陸、出羽、陸奥、甲斐、信濃、越後、越中、能登、加賀、越前等、総じて二十三ケ国、已に打随へをはんぬ。 是を以て、東山道の先陣於いては、尾張国墨俣の辺に打立たしむ。北陸道の先陣は、已に越前国府に着きて、平家の悪党を征伐許なり。然るを貴山親王の善政に同心し奉るや否や。平家の悪逆に与力せしめむや否や。若し彼の党に与力せしめば、定めて親王の御使を相防がむものかは。我等不慮に天台の衆徒に対して、非方の合戦を企てむこと、甚だ益なからむもの哉。忍辱の衣の上に、とこしなへに甲冑を着し、慈悲の心の内に猥(みだりがはし)く合戦を巧くちば、僧侶の行儀、豈然るべけん哉。速やかに平家値遇の詮議を翻して、源氏安穏の祈祷を修せられば、これ則ち叡山の仏法を仰ぎ、浄行の必芻を優たわぶるる思ひ切なる故なり。若し猶承引なくば、自らら慈覚の門跡を滅ぼし、定めて宗徒の後悔有らむものか。此の如くふれ申す事、全く宗徒の武勇に畏るるにあらず。ただ常住の三宝尊ばむが故なり。 伝聞、天台の仏法は皇法を護り、王法は仏法を崇む。これに依て、興福園城両寺の大衆、親王の味方に力を与え奉る故に、平家の悪行の為に、園城寺の坊舎より始めて、南都七大諸寺に至るまで、堂塔僧坊等、一宇も残さず、しかしながら焼き払わされおはんぬと云々。其の中に東大寺は、聖武天皇の御願、吾が朝第一の奇特なり。金銅(堂)盧舎那の仏像烏瑟、たちまちに花王の本土に帰り、堂閣空しく相海の波涛に訴ふ。 嗟呼(ああ)、八万四千の相好(さうがう)、秋の月四重の雲に隠れ、四十一地の瓔珞(やうらく)、夜の星、十悪の風に漂ふ。この事を聞く毎に、不覚の涙面を洗ひ、随分の歎き胸を焦がす。専ら在俗の武士の心也といへども、なんぞ仏法魔滅の悲しく思はざるぞや。僅かに仏法の破滅せざるは、貴山而巳なり。但し台嶺四明の洞独り静かなるに非ず。園城寺三井の流れ半ば尽きぬ。根本中堂の燈独く輝かず。七大諸寺の光忽ちに消えぬ。三千の僧侶、豈に此の愁ひを懐(いだ)かざらむや。 一山の衆徒、むしろ此の事を歎かざらむや。此の道理を存じて、令旨に従はれば、いよいよ十二願王を恭敬し、共に三千の浄行に帰依せん。それ八幡大菩薩は、三代聖朝の権化、賀茂平野明神は二世の皇帝の応跡に非ずや。その子孫を護りて、神慮なんの疑ひかあらむか。いかに況や叡山の衆徒、殊に国家を護持するは、則ち先ジョウなり。彼の恵亮脳(なづき)をくだき、尊意劔を振るひて、かくの如く身命を捨てて、聖朝安穏之旨を祈り奉らば、勝利人口に有るものをや。或る詔書の命に云く「朕は是右丞相の末葉なり。なんぞ慈覚大師の門跡を背かんや。」これ則ち、慈恵大僧正の修験の致す所なり。早く彼の先規を遂げ、上(かみ)百里無為の由を祈り奉り、下(しも)万民豊饒(ぶねう)の計らひを廻らされば、七社権現の威光いよいよ盛りに、三塔衆徒の願力いよいよ新たならむか。そもそもここに義仲等、不屑之身を以て、二十四餘国のケイ渭を打廻る間、或はは神社仏寺の御願と云ひ、或は権門勢家の荘園と云ひ、年貢の運上を遂げず。誠に是自然の恐惶、申して餘り有り、謝して遁れ難し。 側(ほのか)に聞く、七道諸国より所済の年貢、併せて兵糧米と号して、平家より之を點じ取る。縦ひ辨済の深志有りといへども、全く領主の依估(えこ)たらざるものか。仍て密に路頭之通じ難きを歎き、現には平家の兵糧を断たんが為なり。ゆめゆめ将門純友の類に慮すなかれ。神は非礼を稟(うけ)たまはずは、恭く心中の精勤を知見せしめ給ふのみ。宜しく是等の趣を以て、内には三千の衆徒に達し、外(ほか)には九重(きうちよう)の貴賤に聞かせられば、生前の所望也。一期の懇志也。 義仲恐惶謹言、 寿永二年六月十日 源義仲申文進上 恵光房律師御房 番の所司にこれを読み上げさせると、山門三千の衆徒は!木曽の牒状を見てあれこれ詮議する。 源氏に運が開けているとの結論に達し、返牒を送る。 【返牒事】 右 六月十日御書状、同じき十六日に到来。披謁の處、数日の鬱念一時に解散(げさん)す。 故何となれば、それ源家は、古へより武弓に携はりて、朝廷に威勢を振るひ王敵を防ぐ。爰に平家は朝章に背き兵乱を起こして、皇威を軽んじて謀叛を好む。平家を征伐せられずは、いかでか仏法を保たむや。しかるを爰に源家、かの類を制伏せらるる間、本寺の千僧の供物を追捕し、末社の神輿をを侵し損ずるに依つて、衆徒等深く新詔をいだきて、案内を達せんと欲するの處に、青鳥飛び来たり、幸に芳札を投ぐ。今に於いては、永く平家安穏の祈祷を翻して、速やかに源家合力の詮議に従ふべきなり。是すなはち朝威の陵遅を歎き、仏法の破滅を悲しむ故なり。それ漢家の貞元の暦に、圓宗興隆の前、本朝延暦の天、一乗弘宣の後、桓武天皇平安城を興して、親しく一代五時の仏法を崇敬し、伝教大師天台山を開きて、遠く百里無為の御願を祈り奉りてより以来、金輪を守り玉躰を護ること、偏にに三千の丹心に在り。天変を翻し、地変を掃ふこと、ただ是一山の群験なり。これに因つて、代々の賢王、皆蘿洞の精誠を仰ぎ、世々の重臣、ことごとく台岳の信心を恃む。いはゆる一條院の御宇、慈覚大師の門徒の旨、綸旨の言は明白なり。九條の右丞相、並びに御堂の入道大相国、発願の文に云く「黄閣の重臣に居りといへども願はくは白衣の弟子とならむ。子々孫々久しく帝皇皇居の基を固め、代々世々に永く大師遣弟の道を伝へむ。同じく賢王無為の徳を施さむ」之に加へ、永治二年、鳥羽法皇恭しく叡山の御願に云く「昔は九五の尊位を踐ぎ、今は三千の禅徒に烈(つらな)らむ」てへれば、つらつら之を思ふに、感涙抑へがたし。静かに之を案ずるに、随喜尤も深し。星霜四百廻、皇徳三十代、天朝久しく十善の位を保ち、徳化あまねく四海の民に施さむ。国を守り家を守る道場なり。公の為家の為の聖跡なり。本寺の千僧の供物を運上し、末社の神輿末寺の荘園を改め造りて、しかしながら安堵せしめられば、三千の衆徒合掌し玉躰を東海の光に祈り、一山手を揚げて平家を南山の色に移さむ。凶徒首を傾けて来詣し、怨敵手を束ねて降を乞はむ。十乗の床の上には、とこしなへに五日(ごじつ)の風を扇ぎ、三密の壇の前には、遥かに十旬の雨を濯がむてへれば、衆徒の詮議に依て、執達件の如し。 寿永二年七月日大衆等 !木曽義仲はこの返牒におおいに喜び、以前より話をつけていた悪僧の白井法橋幸明、慈雲房法橋寛覚、三神阿闍梨源慶らに先導させて比叡山に入る。 【一方、平家も牒状を送る】 平家はこれを知らず「興福園城両寺の大衆は鬱憤を含る折節也。大師に祈精し三千の衆徒を語む」と、一門の卿相十余人、同心連署して、願書を書き比叡山に送る。(以下略)
廿 十八日、肥後守貞能が鎮西より上洛する。 謀叛を起こした菊池・原田を捕獲・連行して六波羅に入った。その勢はわずか九百騎。 西国はなんとか平定したものの東国は勢いを増していると聞き、平家は心弱く思って天皇、院を一緒にお連れして西国に逃げようと考える。(途中略) 七月十三日の暁より、理由は分からないが都が騒がしくなる。都の人々は歎き合う。 この暁の騒ぎは、近江源氏筑前守重貞(近江国八嶋に所領を持つ)が、夜半に勢多を回って六波羅に馳せ上り報告したことによる。「北国の源氏已に近江国へ打入ぬ。道々を塞ぎて人を通わさざる」「重貞同じ源氏にて、源氏の打入るをば喜びこそすべきに、いかに平家に追従するやらむ」と人には言われたが「去(いん)じ保元の乱に鎮西八郎軍に負けて近江国石山寺に居たりけるを、搦めて平家に奉りたりける勤賞に、左衛門尉に成りて平家にへつらひける間一門に擯出せられたりける故に、源氏にうたれなむずと思ひてかく振舞ふなり」と平家に恩があると説明。 このため新三位中将資盛卿大将軍として、貞能以下が田原の北へ向かおうと宇治を廻って近江国へ出発。その夜は宇治に留まる。その勢二千余騎。 また新中納言知盛卿、本三位中将重衡卿などを大将として瀬田より近江国へ出発。これもこの夜はは山科に宿す。その勢三千余騎。 源氏はかねてより山の大衆を味方につけていたので、宇治瀬田を廻らず、山田、矢馳(やばせ)、堅田、木濱(このはま)、三津、川尻、所々の渡りに舟を用意して湖の東の浦より西の浦へ渡った。 十日、林六郎光明を大将軍として五百余騎、天台山へ登り惣寺院を城郭とした。三塔の大衆も皆味方につき只今大嶽(おほだけ)を下って「平家を討むとす」と大声をあげる。東坂本は源氏の軍兵でいっぱいになる。 これを知った新三位中将も宇治より京へ帰り入り、新中納言、本三位中将も山科より都へ帰る。 東は十郎蔵人行家、伊賀国を廻って大和国の奈良法師と共に伊勢の木津に到着しているといい、 西は足利判官代義清が丹波国を越えて、大江山を塞ぐという。 南は多田蔵人行綱以下摂津河内のあぶれ源氏共が、川尻、渡辺を打塞ぐ、と叫ぶのを聞いた平家の人々は青ざめて大騒ぎする。 (廿一〜廿七割愛)
廿八 川尻に源氏が回り込んだと聞き、筑後守貞能が急ぎ向かったがこれは偽情報だったため京に戻る。 戻る途中に、(都落ちする)平家の人々と丁度行き合う。 貞能は大臣殿に都を固めて徹底抗戦するよう進言するが却下される。 貞能は再度「弓矢をとる習ひ、妻子をあわれむ心だにも深く候へば、おもひきられず候。さこそをびたたしく聞へ候とも、源氏たちまちによも責寄せ候わじ。又法皇をばいかにして失ひ参らせて渡らせ給ぞや。宵よりも参りこもらせ給て、目を放ち参らせでこそ、勧め参らせ給べく候ひけれ。すゑやすなむどぞつげ申して候ひつらむ。さりとも女房達の中に知り参らせぬ事はよも候わじ。足をはさみてこそはといたださせ給はめ。すゑやすがめと申すやつこはみうちには候はざりけるか。しやつがちゆうげんにてぞ候らむ。にくさもにくし。貞能に於いては屍を都にてさらすべし」と言うや都に返り上る。その勢二千余騎ばかり。 !義仲はこれを聞いて「筑後守貞能が最後の軍せむとて帰り上りたんなるこそ哀れなれ。弓矢を取る習ひ、さこそはあるべけれ。あひ構へて生捕りにせよ」と下知。 貞能は酉の刻まで待ったが、大臣殿以下の人々は都に戻って来なかった。今朝には(六波羅の)家々を皆焼いてしまった。 誰につくわけでもなく法性寺の辺に一宿したが、やはり誰も来ないので、六波羅にある小松殿の御墓を「東国人共の馬の蹄にかけさせるのは口惜しい」と墓を掘り起こし骨を拾って首にかけ、泣く泣く福原へ落ちる。 貞能都へ帰り入るとの噂に加え「盛継、景清等を大将軍として、残りとどまる平家共討たむとて都へいりぬ」と叫ぶ声に、池大納言は蒼白になって騒ぐ。しかし源氏は未だ都に入らず、平家とは分かれてしまい、池大納言はただ八条院に「もしの事あらばたすけさせ給へ」と頼る。 平家方の者がやったのか、池殿の門前に歌が札に書いて立ててあった。 年来(としごろ)のひらやをすててはとのはにうきみをかくすいけるかひなし 大納言はこの歌に恥じて出仕せず。 院御所では、女房達が慌て騒いで徹夜で物を運んだりしていると、北面の者共「いたく物さわがしくさわぎ給べからず。たとへば平家の方より、院の渡らせ給ふところを尋ね申さむずが、山に渡らせ給由聞ゆれば、そのむねをいひてむず」と、それぞれ眠る事も出来ず夜が明ける。 朝、貞能が御所へ押し入り、何事も無いかのように厩の御馬を選び出して引き出すと、さっさと御所を出る。 盛継・景清の入洛の事は、偽情報だった。 法皇は行方知れず。主上は西国に行幸。 関白殿は吉野の奥に籠ると聞く。院宮の宮原は、八幡、賀茂、嵯峨、大原、北山、東山などに遁れ隠れた。 平家は西国に落ちて行ったが、源氏はいまだ入れ替わらない。この都は既に主もなく人(政治を司る貴族)もいなくなった。 日頃より召し置いていた東国の者共、宇都宮左衛門丞ともつな、畠山庄司重能、小山田別当有重などは、丁度在京しており大番を勤めていたが、鳥羽まで御供して「いづくの浦にも、落ち留まらせましまさむ所をみをき参らせむ」と申し上げると、大臣殿は「志は誠に神妙なり。さはあれども、汝等が子ども多く源氏につきて東国にあり。心はひとへに東国へこそ通ふらめ。抜け殻ばかり具してはいかがはせむ。とくとく帰れ。世にあらばわするまじきぞ。汝等も尋ねきたれ」と言うので(東国の武者達は)「いづくまでも御供して、身をき参らせむと思けれども、弓矢の道にこれほど心ををかれ参らせて参りたらば、なにごとのあらむぞ」と足を止める。 二十年あまりのよしみだったので名残惜しくも思うが、各々よろこびの涙を押さえて見送る。そのなかにいた宇都宮左衛門などは貞能預かりの者で、日頃も何かと親切(はうじん)にされていた。 源氏の世に成ってのち、貞能が宇都宮を頼って東国へ下ると昔の恩を忘れずに申し預かりもてなした。 平家は、あるいは磯辺の波の浮き枕・八重の汐路に日を経ながら船に竿さす人もあり、あるいは遠く険しい路をしのぎつつ馬に鞭打つ人もあり。せんどをいづくと定めず、しやうがいをとうせんの日にごして、思い思いに落ちていった。 権佐三位中将のほかは大臣殿を始めとして衆徒の人々・北の方を引き連れていたが、下の者共は妻子を都に留め置いてきたので、各々別れを惜しみつつある者は都に留まり、ある者は去っていった。
卅四 【法皇の動向】 法皇は鞍馬寺より、えぶみ坂、薬王坂、ささの峯という嶮しい山を越え、横川へ登り、解脱谷の寂場房にお入りになる。本院へお移りいただきたいと大衆が申し上げ、東塔へお移りいただき南谷の圓融房へお渡りになる。 衆徒も武士も力つきて、圓融房の御所近くに控える。 明くる廿五日、法皇が天台山にお渡りになったと聞いた貴族の人々が我先にと馳せ参じる。 摂政殿、近衛殿、左大臣経宗卿、九條大臣兼実卿、内大臣左大将実定卿より始め、大中納言、参議、非参議、五位、四位、殿上人、上下北面の輩に至るまで、世に人と数へらるる輩が一人ももれず参られたので、圓融房の堂上堂下、門内門外は隙もなかった。誠に山門の繁盛は、門跡の面目とぞ見えた。 【御入洛の事】 平家が都を落ちていったので法皇は山に居る必要がなくなり、廿八日御下山。 近江国の源氏錦織冠者義弘、白旗を差して先陣を仕り、この20餘年絶えて久しい源氏の白旗を見る事となった。 卿相雲客勢々として、蓮華王院の御所へ入御。 その日の辰時に、十郎蔵人行家、伊賀国より宇治木幡をへて京へ入った。 未刻に!木曽の冠者義仲、近江国より東坂本を通りて同じく入る。 又そのほか、甲斐、信濃、尾張の源氏共もこの両人に相伴って入洛する。その勢六万騎に及んだ。入り終ると在々所々を追捕し衣装を剥ぎ取って食物を奪い取ったので、洛中の狼藉はなはだしい。
卅五 廿九日、さっそく!義仲行家を院の御所へ召し、別当左衛門督実家卿、頭右中弁兼光より「前内大臣以下平家の一類を追討すべき」由を仰せになる。 両人は庭上にひざまづいてこれを承る。 行家は褐衣(かちん)の鎧直垂に黒皮威の鎧を着て右に、義仲は赤地の錦の直垂に唐綾威の鎧着て左の方にひかえる。 各々京での宿所がない旨を申し上げ、行家は南殿の萱御所を賜り東山を守護し、!義仲は大膳大夫信業が六條西洞院の亭を賜り洛中を警固する。 この十餘日が先までは、平家こそ朝恩に誇て源氏を追討せよとの院宣宣旨こそ下しに、今は又加様に源氏朝恩に誇て、平家追討せよと院宣を下さる。いつのまに引替へたる世の有様ぞと哀れなり。 ( 卅六【新帝可奉定之由評議事】割愛)
卅七 八月一日、京中の保々守護の事、!義仲が注進する名簿に任せ、警備を強化する旨の院宣を右衛門権佐定長が承り、別当実家卿に仰される。 出羽判官光能、右衛門尉有綱 頼政卿孫、十郎蔵人行家、高田四郎重家、泉次郎重忠、安田三郎義定、村上太郎信国、葦敷太郎重澄、山本左兵衛尉義恒、甲賀入道成覚、仁科次郎盛家と記されていたという。
一 【四宮が選ばれた理由】 寿永二年八月五日、 高倉院の御子は先帝の他に三人あったが、二宮は儲の君にするため平家に連れられて西国にあった。 法皇は三・四宮それぞれ会うと、三宮はおびたたしく法皇を嫌って泣くので「とくとく」とて入れ替える。四宮は、「是へ」という仰せに法皇の御膝の上に来てなつく。 「わが末ならざらんには、かかる老法師をば何しにかなつかしく思ふべき。この宮ぞ我が孫なりける」と御髪をなでて「故院の幼くおはせしに、少も違はず。只今の事のやうにこそ覚ゆれ。かかる忘れ形見を留め置き給ひけるを、今まで見ざりける事よ」と御涙を流す。浄土寺二位殿(丹後殿)はこれを見て「とかふの沙汰にも及ぶべからず。御位はこの宮にてこそ渡らせ給はめ」と申し上げたので「さこそあらめ」と定まった。この宮がのちの後鳥羽院と申す。 内々御占をするが「四宮子々孫々までも日本国の主にてなり給ふべし」と、神祇官・陰陽寮とも占いに出た。(以下略) 【木曽の内々の心積り】 大蔵卿泰経卿、!義仲を召して内々勤賞の事所存を尋ねると「たちまちに賞を蒙るべき由は存ずる處。ただし行はるるをばいかでか辞し申すべきや」と申し上げ、頼朝の事を問うと「今度誰か戦功なからむ。已に事を起こす者なり。賞の事叡慮あるべきか」と申し上げる。また、行家の事を問うと 「行家は頼朝に追放せられて!義仲が許にきたる。叔父たりといへども已に猶子たり。!義仲に対して賞を行はるべき者にあらず。行家賞を蒙らば、安田三郎義定、同じく行はるべき由申さしめむ。謂れなきにあらざるか。能々計らひ行はるべし」と申し上げた。 また、内々に「今度の△降人等預けられざることその意を得ず。忠清父子出家して能盛が許にあり。貞頼同じく出家して行家が許にあり。然るに知康、貞頼を迎へ取て種々に饗応す。甚だ然るべからず。およそかの知康は和讒無双の者なり。行家・!義仲参上の時は、偏に郎従と称す。今敵対を成す。尤も奇怪なり。就中、書状を!義仲之許に給はり『謹上!木曽冠者』と書きけり。この条殊に狼藉也」などと細々その理由を申したという。知康との災いの種はこの頃から起こっていた。 除目の事、法皇の仰せに依て行はるべき事、大外記頼慶例を勘へ奉りけり。 「平城、嵯峨、並びに嘉承の詔例等也。また周公殊管蔡し七年、成王之心にあらず。準へらるべし」とぞ申たりける。 [モクジ]
二 八月六日、 平家一類解官のこと、頭弁経房朝臣、法皇の仰せを承りて外記に仰す。 (解官された平家の名簿・略)月卿雲客・衛府諸司、都合百八十二人也。 さる治承三年に、太政大臣師長公を始めとして、群公卿士受領廷尉三十九人、入道相国の命に依て見任を解却せられ、殿上人十三人仙籍を除かれ今後一族永く跡を削られたのは、今更驚くことではないとはいえ不慮の事である。 同七日、上総介忠清帥並びに男忠綱、法皇より!義仲の許へ遣わされた。 同九日、西海道の返報が到来。 女房からの返事には「三種の神器の還御は難しい、是非不分明」とあり、貞能の私の申状には「秘計を廻らして、追て左右を言上すべし」とあった。 【木曽殿高倉宮の御子の件奏上】 !義仲、高倉宮の御子即位の事、内々泰経卿に申す旨ありければ、 同十四日、俊暁僧正をもつて!義仲に伝えると「国主の御事、辺鄙の民として是非を申すにあたはず。但し故高倉宮、法皇の叡慮を休め奉らむが為に御命を失はれき。御至考の趣、天下に其の隠れなし。いかでか思し召し知られざらむや。就中、かの親王の宣を以て源氏等義兵をあげて、すでに大事を成しをはんぬ。然るに今受禅の沙汰の時、此の宮の御事偏に寄せ置かせられて、議定に及ばざるの條、尤も不憫の御事なり。主上すでに賊徒の為に取り籠められ給へり。かの御弟、なんぞあながちに尊崇し奉らるべけむや。これらの子細更に!義仲が所存にあらず。軍士等が申状を以て、言上許すなり」と申し上げ、この意向を人々(貴族)に問うと「!義仲が状、その謂れなきにあらず」と申された。 (三【惟高惟仁位争事】割愛)
四 十日、法皇は蓮華王院の御所より南都へ移り、三条大納言実房、左大弁宰相経房が参内し、総除目が行われる。 !木曽冠者義仲、左馬守に任じられ越後国を賜り、十郎蔵人行家は備後守に任じられた。 それぞれが賜った国を嫌がったので、 十六日の除目に、!義仲は伊予国を賜り、行家は備前守に移された。安田三郎義定は遠江守に任官。 その他の源氏十人、勲功の賞として、靭負(ゆげひ)尉、兵衛尉、受領、検非違使に任じられた上、便宜の旨を蒙る者もあった。 院の殿上にて除目が行われることは未だ先例がないことだった。 (五〜八割愛)
九 十八日、 左大臣経宗、堀河大納言忠親、民部卿成範(しげのり)、皇后宮権大夫実守、前源中納言雅頼、梅小路中納言長方、源宰相中将通親、右大弁親宗、参入せられ、即位の事並びに劔鏡璽宣明の尊号の事等議定した。 頭弁兼光朝臣、諸通の勘文を左大臣に下す。次第に伝へ下されけり。 (勘文内容・略) 【義仲行家勲功給事】 同日、平家没官の所領などを源氏の輩に分配。総じて五百餘箇所。 !義仲には百四十餘箇所、行家には九十箇所也。 行家が「相従ふ所の源氏ら、更に通籍の郎従にあらず。戦場に相従ふばかりなり。私に支配の条、彼等恩賞の由を存ぜざらむか。尤も分かち下さるべし」と申すのを(義仲は)「この条いかでか悉に功の浅深を知ろし召さるる。!義仲相計らひて分かち与ふべし」と申した。どちらの言い分ももっともだと思われた。 本日、行家!義仲等は、上北面に候じたのがもう院の昇殿を許される。 「この条驚くべきにあらずといへども、官位俸祿已に存ずる如きか。奢れる心は人として皆存せる事なれども、今勲功と称して、日々重畳す。尤も頼朝の所存を思慮すべきか」とぞ人々申しあわれける。 【四宮踐祚】 同二十日、法住寺の新御所にて高倉院の第四の皇子踐祚。 春秋四才、左大臣、内記光輔を召して「踐祚の事、太上法皇の詔の旨を載すべきなり。先帝不慮に脱シの事、また摂政の事、同じく載すべし」と仰す。 次第の事は先例に違はざれども、劔璽なくして踐祚の事、漢家には光武の跡ありといへども、本朝には更にその例なし。この時ぞ始まれりける。内待所は如在の礼をぞ用ゐられける。(以下略) 【一方その頃平家のゴタク】 四宮が既に踐祚されたと聞き、平家の人々は「三宮をも四宮をも皆取り具し奉るべかりし物を」申せば「さらましかば、高倉宮の御子、!木曽が具し奉りて上りたるこそ、位につき給はましか」と申す人もあり。平大納言、兵部省まさあき等は「出家の人の還俗したるは、いかが位にはつかむずる」と話し合う。 「天武天皇は東宮にておはしまししが、天智天皇の御譲り請けさせ給べきにて有けるに、位につきたまはば大伴皇子うち奉らんと云事を聞給ひて、ごきよびやうを構へさせ給て遁れ申させ給けるを、帝あながちに留め申させ給ければ、仏殿の南面にして鬢髯を剃らせ給て、吉野山入らせ給たりけるが、伊賀、伊勢、美濃三ヶ国の兵を興したまひて、大伴皇子をうち奉りて、位につき給にけり。かうけんてんわうも位をじせさせ給て、尼にならせ給て、みなをばほふきにと申けれども、又位にかへりつきたまへりしかば、唐のそくてんたいそうくわうていの例にまかせて、出家の人も位につき給事なれば、木曽が宮、なん条事かあらむ」と申して、笑いあわれた。 九月二日、院より伊勢神宮に平家追討の御祈の為、公卿の勅使を立てる。 勅使は参議修範卿という。『太上天皇の伊勢の公卿の勅使を立てらるる事、朱雀、白河、鳥羽三代の蹤跡有り』と云うが皆御出家前で、御出家後の例は今度が初めてである。 八幡の御放生会も九月十五日に行われた。 この日法皇日吉社へ御幸する。公卿殿上人束帯にてうるわしき御幸となった。神馬などが引かれ、御車の御供には中納言朝方、検非違使などが仕る。 (十〜十四割愛)
十五 兵衛佐頼朝はたやすく都へ上るのが難しいであろうと、鎌倉にいながらにして征夷将軍の宣旨を蒙る。 左弁官下す吾畿内諸国 まさに源頼朝の朝臣五畿内東海東山北陸山陰南海西海の征夷の将軍たるべき事 使 左史生中原康定 右史生同景家 右、左大臣藤原朝臣兼実宣じ奉る。勅を承るに、従四位下行前右兵衛佐源頼朝朝臣、征夷将軍たらしむべしてへれば、宜しく承知せしめんによつて之を行ふべし。 寿永二年八月左大史小槻宿禰 左大弁藤原朝臣在判 御使は廳官左史生中原康定という。 (十六【康定関東より帰洛して関東事語申事】十七、割愛)
十八 【見目形よき田舎者】 !木曽義仲は都の守護だが、見目形清げにてよき男なのに立居振舞の無骨さや言葉の訛りがひどくかなりの田舎者である。 それも道理のことで信濃国の!木曽の山下という所に二歳より廿七年の間隠れ住んでいたので、都人に慣れ親しむこともなかったのだからおかしくもない。 【猫間】 猫間中納言光隆卿が!木曽の邸を訪ね、雑色に「参たる由云へ」と取り次がせ、 雑色「猫間中納言殿のこれまで参るにこそ候へ。見参に入れと申せと候」と伝えたところ、!木曽方に、今井、樋口、高梨、根井(ねのゐ)という四人の腹心がいたが、その根井が取り次ぐ。 根井「猫殿の参りてこそ候へと、仰せられ候」 !木曽はよく分からない様子で「とはなむぞ。猫の来たとはなにと云う事ぞ。猫は人に見参する事か」と腹を立てるので、 根井は再度出て行って使の雑色に「猫殿の参りたとは何事ぞ」「御料にしからせ給ふ」と言う。 雑色はおかしいと思い「七条坊城三生の辺をば北猫間、南猫間と申し候。是は北猫間に渡らせ給ひ候、上臈猫間中納言殿と申し参らせ候人にて渡らせ給候。ねずみ取り候猫にては候わぬなり」と、細々説明する。 やっと理解した根井が!木曽に詳しく話すと!木曽「さては人ごさむなれ。いでさらば見参せむ」と中納言を迎え、対面する。 !木曽「とりあへず、猫殿のまれまれわひたるに、根井物まひらせよ」 猫間殿はあきれて「只今あるべくもなし」 !木曽「いかが、け時にわいたに、物まひらせではあるべき。無塩の平茸もありつ。とくとく」 猫間殿「由なき所へ来たりて今更に帰らん事もさすがなり。かばかりの事こそなけれ」と思い話したい事も言い出せない。 猫間殿が困っていると、いつしかくぼくおほきなる合子の、帯引付て渋ぬりなるに、黒々として毛立ちたる飯を高く大きに盛り上げて、御菜三種、平茸の汁一つ折敷にすへて、根井が持ってきて中納言の前にすえた。 !木曽の前にも同じものが運ばれた。 !木曽は箸を取ってガッツリ食べるが、中納言は青ざめるばかりなので「いかにめさぬぞ。合子を嫌ひ給ふか。あれは!義仲が観音講に一月に一度すうる精進合子にて候ぞ。ただよそへ。無塩平茸汁もあり。猫殿あひ給ふや」と言うので 猫間殿「食わでも悪しき事もぞある」と食べる真似をする。 !木曽はぺろりと食べ終わり、自分で合子も皿も取り重ねて(<高貴の身分ではマナー違反)猫間殿を眺める。 木曽「ああ猫殿は天性小食にてわしけるや。猫殿今少しかい給へ」 根井は猫間殿の膳を下げ「猫殿の御殿人や候」と呼んで「因幡のさくわんと云ふ雑色候」と出てきた雑色に「是は猫殿の御わけぞ。給われ」と残したものをとらせると、言うまでもなく提(ひさげ)の下へ投入れてしまったとか。 【牛車エピソード】 !木曽は役職についたが、出仕に直垂ではよくないと布衣(=狩衣)を着て、(乗った事もない)車に乗り院へ参られけるが、着慣れぬ立烏帽子から指貫の裾までダサいことこの上ない。牛童は『大臣殿の二郎丸』といって高名の遣手だったが、木曽を「我主の敵」と快く思っていなかったので、車にかがんで乗る有様を『人形か道祖神かとぞ見へし』あざ笑う。 牛車も牛童も元は宗盛のもので、牛は聞ゆる「小あめ」という逸物。ひと鞭あてると猛スピードで走り出し、車の中で!木曽は仰向けにあって転がる。牛はまいあがって躍る。これはどうしたことだ、と!木曽はあきれて起き上がろうとするが起きられない。 袖は蝶の羽をひろげたるが如くにて、足を空にささげて、なまり聲にて「しばし、やれやれ」と云けれども、牛童空聞かずして四五丁ばかりあがかせたりければ、 供の郎党共が走って追いつき「いかに、しばし、御車留めよ」と言うと 牛童「御車、牛の鼻の強くて留かねて候。そのうへ『しばし、やれやれ』と仰せ候へばこそ仕りて候へ」とあやまる。 車を留め、やっと!木曽は起き上がるがなお危なく見えるので、牛童は近寄って「其れに候手形に取り付かせ給へ」と言う。木曽はどれが手形とも分からない様子で見まわすと「其れに候穴に取り付かせ給へ」と言われ、やっと取り付いて「あはれ支度や。是はわ牛小舎人の支度か、殿の様か、木の成りか」と言う。院の御所に着いて車懸を外したら、今度は車の後ろより降りようとするので「前よりこそ下りさせ給ひ候わめ」と雑色が申し上げると「いかがすどをりをばせむずる」と言ったのはおかしかった。
(十九) 【屋島】 平家は讃岐の屋島にありながら、山陽道を制圧。 !木曽左馬頭これを聞き、信濃国住人矢田判官代、海野平四郎ゆきひろ大将軍として、五千余騎の勢を向かわせる。 平家は讃岐の屋島、源氏は備中国水嶋が津に控え、海をへだてて対陣。 【水嶋合戦】 さる十月一日、水嶋津に平家方の牒の使の小船が一艘現れる。 これを見て源氏軍は千餘艘の船を海に下ろし、平家も是を見て五百餘艘の船を、二百餘艘を直接差し向け、残る三百餘艘は百艘づつわけて水嶋津を取り巻いた。 源氏軍(水嶋津) 大将:海野平四郎行広 搦手大将軍:矢田判官代 平家軍 大将軍:本三位中将重衡、新三位中将資盛、越前三位通盛 搦手大将軍:新中納言知盛、門脇中納言教盛、次男能登守教経 能登守は「東国北国の奴原に初めて生取られて、従い仕へむ事をば顧みるべからず。各々心をひとつにして命を惜しむべからず。軍はかうこそするなれ」と、五百余艘の船ともづなを結び合わせてつなぎ、船上には踏み板を渡して平地のようにした上で、船から遠いものには射撃、近い者は打物で戦う。 巳尅より未の下まで勝敗は見えなかったが、源氏が負け戦となり大将軍矢田判官代も討たれる。 海野平四郎行広は、鎧武者八人と共にはし船に乗りて沖に漕ぎ去ったが、小船に浪風も激しく、踏み沈めて一人残らず水死。 平家は船中に鞍置馬を用意、ここで五百余艘の船ともづなを切り放つと渚に船をよせ、船腹を傾けて馬を降ろし教経を先頭に源氏の郎党を打ち破る。 【木曽殿備中へ下る】 !木曽義仲はこの連絡を聞き、昼夜かけて備中国へ進軍。 六月の北陸道加賀国安宅篠原の戦では、この備中国の妹尾太郎兼康を捕虜にしていた。
廿 【妹尾兼康】 (同罪の斎明は六条河原で斬ったのだが)この兼康は西国へ下る道案内にしようと斬らずにおいた。 兼康は有名な古参兵で、木曽に二心なきかのように従い「去六月より、甲斐なき命を生けられ奉りて候へば、今はそれにすぎたる御恩何にかは候べき。自今以後戦仕り候わむには、真前かけて命を君にまひらせ候わん」と言いながら、心中では「いかにもして故郷へ帰て、舊主を見奉り、本意を遂む」と思っていたのを、!木曽は知らなかった。 【妹尾の計略】 !義仲、寿永二年十月四日の朝、都を出て播磨路にかかり、今宿に到着。 今宿から妹尾を先達に備中国へ下る。 古坂という所で、兼康「いとまを給はりて先に立ちて、親しき奴原あまた候へば、御馬の草をも儲けさせ候はばや」 !木曽尤も然るべしと「さらば!義仲はここに三日逗留すべし」とぞ申ける。 兼康は子息小太郎兼道、郎党宗俊を連れて下る。 兼康は加賀国住人倉光五郎という者が生捕りにしたのだが、この倉光に 兼康「や、たまへ、倉光殿。兼康生取にし給たる勤賞未だ行はれずは、備中妹尾はよき所ぞ。兼康が本領也。勲功の賞に申し給はりて下り給へかし。同じくは打具し奉らう」ともちかけると倉光五郎も誠にと思って、妹尾を望んだ所!木曽も下文をくださる。倉光五郎はすぐに兼康を先に立てて下った。 兼康は道中「倉光を妹尾まで具して下りぬる者ならば、新使とて国の者共もてなしてむ。又悦びする者もあらば、倉光に勢つきてはいかにも叶はじ」と思い 兼康「備前国に和気渡と云所あり。かかる乱世なれば、所も合期せむ事かたし。兼康先立ちて、所の者にもふれ巡り、親しき者共にも『かかる人こそ下り給へ』と申て御儲をもいとなませ候わむ」と言い、和気渡に倉光を置いて兼康は先に立つ。 草加部という所に寄宿し、その夜倉光を夜討ちすると、西河三の渡りをして、近隣の者共駈り催して、福龍寺畷を堀切る。 (原文)かのなわてと申は、遠さ廿餘丁なり。 北は峨々たる山にて、南は南海へ続きたる沼田也。西には岩井の別所とて寺あり。これらを打過ぎて、当国一之宮の伏拝み、佐々が迫りにかかりにけり。佐々が迫りは、西方は高山なりければ上には石弓をはり、!木曽を待懸けたり。 後ろは津高郷とて、谷口は沼なり。何万騎の敵向ひたりとも、たやすく落とし難し。 ここに兵共差置きて、我身ばかりはから河の宿に引籠る。 (妹尾方の兵達が)「倉光五郎は元よりすくやか立ちて妹尾太郎を生取にするのみにあらず、度々高名したる者のいかにして兼康には云ふ甲斐なく置き出だされて、打たれにけるやらむ」とある者が言えば、別の者が「理や。北国の住人ながら案内者立てで、ここかしこ穴ぐりありき、昔より馬の鼻も向かぬ所へも武士を入れなむとして、!木曽殿に悪しき事を勧め奉れば、年来本社の御とがめもや有らむ、そも知らず。又斎明威儀師が六条河原にて首を切られしも、倉光が讒言なり。されば末寺の長吏なれば、白山権現の御祟りにて、いふ甲斐なく打たれもやしつらむ」などと噂し合った。 「妹尾太郎兼康こそ、北陸道の軍に生取られてありつるが、!木曽をすかして暇えて、平家の御方へまいれ。!木曽は已に船坂山に着きたり。御方に志思ひ奉る者共は兼康につきて!木曽を一矢射よや」と叫んで通る。物具、馬鞍、郎党を持った妹尾の輩は、すでに平家について屋嶋へ渡っており、物具も持たない者しか郷に残っていなかった。しかし是を聞き武器をかきあつめて2~300人が集まってきた。物具をしている者は七八十人に過ぎない。 妹尾太郎の夜討ちで討ちもらされた倉光の下人が、船坂山に退却してきて!木曽に申けるは「倉光殿こそ夜討ちに打たれて候へ。妹尾太郎殿は『妹尾へ先立ちて罷り候ひて、馬草をも尋ね、御儲をも所の者にせさせ候べし。その程は、この寺におわしませ』と申て、倉光殿をば古堂に置止め奉りて『急ぎ使を奉るべし』と申て罷り候ひしが、使いも候わず」と申ければ、 !木曽大に驚きて、「さて夜討の勢はいか程か有りつる」と問へば 「四五十騎にはすぎ候はじ」と云ければ 「さては兼康めが仕業にこそ。さ思ひつる物を。安からぬものかな」とて、!木曽腹を立てて、三百余騎にて今宿を打出でて、夜を日に継ぎて馳下る。その暮方に三石着く。 それよりしてあくる日藤野について「倉光さてはここにて討たれにけるよ」と念仏し、そこを打過ぎると和気の渡りをして河の郷へ打ち入る。 【福隆寺畷合戦】 福輪寺の縄手堀切ると河の郷惣官を尋所にて、北の烏岳を廻り、佐々が井を落とした。 妹尾は、!木曽は今宿に三日逗留と話していたからと未だ城郭も構えていなかったところに、!木曽軍が押し寄せので、妹尾の謀ではあったがあわてるも暫くこらえて支えた。駈武者共は耐えきれず皆落ちる。少しでも恥をも知り、名を惜しむ程の者は一人も残らず討たれてしまった。 多くは深田に追いはめられ首を切られた。妹尾太郎は矢種射つくすと主従三騎みどり山に籠り、相構えて屋島へ行こうと考えるが、妹尾が嫡子小太郎兼道は、父には似ず肥太った男だったので歩くこともできず、足が腫れて山の中に留まっていた。 父は小太郎を捨てて落ちようとするが、御愛の道(仏教用語)のため思い切れない。 郎党宗俊に向かって「兼康は年来数千騎の敵に向かひて戦ひしかども、四方は晴れてこそ思ひしに、只今行先の見えぬは、太郎を捨てて行く時に、眼に霧かぶりて行先見えずと覚ゆるぞ。いづくへ行き分かれたりとも、死なば一所でこそ死にたけれ。屋嶋へ参りて、北国の軍に!木曽に生取られてこの日頃朝夕仕へつる事をも申さばやとこそ思ふとも『妹尾こそ最後にあまりにあわてて、子を捨てて落ちふためきけれ』といわむ事も心憂し。その上又、小太郎も恨みてこそ有らめと思へば、これより取帰して小太郎と一所にていかにも成らばやと思ふはいかに」と言えば 「宗俊もさこそ存じ候へ。急ぎ帰らせ給ひて、小太郎殿と一所にて清き御自害候ふべし」という。ならば、と十余丁を馳せ帰り、小太郎が休む場所まで走り「行けども行く空も覚えねば、汝と一所にて死なむと思て帰りたるぞ」というと、小太郎も起きあがり手を摺り涙を流す。 そしてしか木を刺し矢間をあけ後ろには大木を木楯にして、!木曽を待ちかまえる。 【妹尾最期】 さるほどに、!木曽は三百余騎で妹尾の跡を見つけて追いかけて来た。 「兼康がこの山に籠りたんなるは。いづくにあるやらむ。勢子を入れてさがせ」と言うのを聞き終わらないうちに、妹尾は「妹尾太郎兼康ここに有りや」と言い、指しつめさしつめ散々に射掛けると、十三騎に手を負わせて、馬九疋を射殺す。ここで妹尾は矢種射尽くし、腹をかき切って伏す。 子息小太郎兼道も散々に戦い、敵五人を射取り、同じく自害して伏した。 郎等宗俊も敵あまた射とり、しか木の上より「妹尾殿の郎等に宗俊と云、かうの者の自害する、見よや」と言い、大刀のきつさきを口に含み、まつ逆さまに落ちて貫かれて死んだ。 !木曽は、妹尾父子の自害の首を取ると、備中国鷺が森へ退却し、万寿庄に陣を取り勢を揃える。
廿一 【樋口からの使い】 そうこうしているうちに、京の留守に置いておいた樋口次郎兼光が早馬を立てて「十郎蔵人殿こそ、いたちのなき間に貂誇るらむ風情、院の切人して殿を討ち奉らむと支度せられ候なれ」と告げてきたので!木曽は大変驚き、平家を打ち捨てると夜を日に継いで都へ馳上る。 十郎蔵人は是を聞き、!木曽とすれ違いになるよう、十一月二日、三千余騎で京を出て丹波国を通って播磨路へ下る。 !木曽は摂津国を通り入京。 【室山合戦】 平家は門脇中納言教経父子、本三位中将重衡を大将軍として、その勢一万余騎、播磨の室に着く。 十郎蔵人三千余騎にて、室坂で行き合ったのでこれと合戦になる。 平家の方には打手を五手に分ける。 一陣、飛騨三郎左衛門景行五百騎。 二陣、越中次郎兵衛盛次五百騎。 三陣、上総兵衛忠経五百騎。 四陣、伊賀平内左衛門家長五百騎。 五陣の大将軍には新中納言七千余騎で、室坂に歩ませ向かう。 十郎蔵人三千余騎にて出て来る。一陣の勢是を防ぐ。暫く支え、弓手のこぐれの中へ落ちていった。 源氏はそこを通りかかり、二陣の勢に馬を進める。この手防ぐ様に馬手の林へ落ちくだる。 そこを落として三陣の勢に向かう。是もこらえきれず、北の山の麓へ追い落とされる。 四陣に寄合い、是も叶わず、南の山ぎわへ追い落とさキがあるかもしれないtと、五陣の大勢に寄合う。 新中納言の侍に、紀七、紀八、紀九郎という兄弟が三人あったが、精兵の手聞であったのを先として弓勢を揃えて射させたが、面を向べき様もなく、行家が勢が引き返してくると、平家の軍兵は時をつくって追い懸かる。 時の声を聞いて、四陣、三陣、二陣、一陣の勢、山の峯へ馳上がりて源氏の勢を待つところに、四陣を破ってやうとする。 源氏は四手の勢に向かい心をひとつにして支えた。 行家、敵にたばかられたと心得ると、敵に向い弓も引かず、太刀もぬかず「行家に付きてここ落とをせや、若党」と云うままに四陣破りてかけ通る。 三陣同じくかけ通る。 二陣一々通りはて、十郎蔵人後ろを顧みれば僅かに五十余騎。 この中にも手傷を負った者はあまたあり、大将軍一人だけが薄手も負わず行家は九死に一生を得て摂津国へ落ちる。 平家の勢を後ろにしこみければ、行家散々に射破られて、播磨では平家を恐れ、都には!木曽を怖れて、和泉国へ落ちていった。 平家は室山水嶋両度の戦に打ち勝ち、多少は会稽の恥を清めたのだった。 【諸寺諸山被成宣旨事】 十一月九日、諸寺諸山の神社仏寺は元の如く香花之勤めを致すべき由宣旨を下された。 彼の状に云く、 東海東山道の諸国同じく神社仏寺院宮王臣諸司諸家庄領彼是の妨げを停止し元の如く使を遣し、宜しく頻繁の費えを令領せしむべし。香花之勤、其事空しく断て、漸く年序を経。しかのみならず人の恨みの積もる所天心測り難し。たしかに輪旨を守り敢て稽留する事なかれ。但し尚違監有る所は前右兵衛佐頼朝に仰せて厳しく禁制を加へ速やかに遵行せしめよてへり。 寿永二年十一月九日 左中弁 平家の餘党責落とすべき由、宣旨を下さる。 其の状に云く 平氏餘党猶其群を成し或は官軍に挑み戦ひ或は州懸を劫略す。風聞の趣、罪科愈重し。備前守源行家に仰て、山陽南海両道暁勇の輩を相卒して、宜しく彼の賊徒等を征伐せしむべしてへり。 寿永二年十一月十一日 左中弁
廿二 【源氏軍の悪行】 源氏の世になったといってもその縁がない者にはなんの徳もなく、民衆は平家が弱ったと聞けば喜び、源氏が勢いを増したときけば興に入る。とはいえ平家が西国に落ちて行ってからは治安も悪くなった。 資材雑具を東西南北へ運び隠すうちに失ったものは数知れず、穴を掘って埋めたはよいが破損したり朽ちたりして、あきれるも愚かな事だ。 まして北国の夷が都に入ってきてからというもの、八幡や賀茂の領すら憚らず青田を刈らせて馬の糧食にし、人の倉を打ち壊して物を取る。然るべき大臣公卿の許はさすがに憚ったが、その周りでは武士が入り乱れ、家々に強盗に入り、今食べようと手にした物まで奪われる。そんなわけで家々に武士がいる居ないに関わらず、門々に白旗立て並べて難を避けようとした。 路を歩く者も安全ではなく、皆衣装をはぎとられ見苦しい有様である。平家の世には六波羅殿の御一家有りしと老いも若きも歎き合う事並一通りでない。 !木曽がこのような狼藉をしたのは、後に加賀国井上次郎師方の教訓のためであったという。 【知康木曽が許へ被遺事】 院の北面の壱岐判官知康は鼓判官といった。彼を御使にたて狼藉を止めるよう仰せられけれども、!木曽は単に遠国の田舎者といいながら、その実は全くの物知らずの乱暴者だったので院宣もものともせず、散々に振舞う。 見かねた前入道殿下が不憫に思し召して、内々!木曽に「平家の世には、加様に狼藉なる事やはありしなむど、諸人云ひ歎くなり。又在々所々に強盗・窃盗隙なくて、人を殺し火を放つ事、愚かならずと聞ゆ。急ぎ鎮むべし」と仰せられたが、その甲斐もなかった。 院は知康を御使に立てて「上洛して叛逆の輩を追落としたる事は本意也。誠にや、室山より備前守行家が引退きにける由聞ゆ。尤もおぼつかなし。さてはこの間洛中狼藉にて諸人の歎きあり。早く鎮むべし」と仰せられ、これに !木曽義仲畏って「先づ行家が引退き候ひける条、様こそ候ひけめ。さればとてやはか平家世を執り候べき。計らふ旨候。騒ぎ思し召すべからず。京都の狼藉の事、つやつやしらず候。尋ね沙汰仕るべく候。下人共多く候へば、さ様の事も候らむ。又!義仲が下人に事をよせて、落ち残る平家の家人もや仕り候らむ。又京中の古盗人もや仕り候らん。目に見へ耳に聞え候わむには、いかでかさ様の狼藉せさせ候べき。今より後、!義仲が下人と名乗りて仕らむ者をとらへて給はるべし。一々に首切りて見参に入れ候べし」と尋常に申したので、知康は御前に帰り参ると!義仲が申したとおりに細々と申しあげ「及ぶところよく申すにこそ」と仰せがある。 【鼓判官エピソード】 !義仲はこのようにきらきらしくは申したものの京都の狼藉は猶とどまらなかったので、又知康を御使に出して「相構へてこの狼藉留めよ。天下太平とこそ祈る事なるに、乱りがわしき事詮無し」と仰せありければ、!木曽この度は気色あれて、目も持ちあげず「わ御使をば誰と云ぞ」と問う。 「壱岐判官知康と申なり」と云ければ「や殿、わ殿を鼓判官と京童部の云なるは、万の人に打たれたうかはられたうか。鼓にてもわせ、銅拍子にてもわせ、!義仲が申したる旨を院に申されねばこそ、さ様に狼藉をするすると云ふ沙汰有るなれ。道とも覚えず」と云て、事の外にしかりければ、知康「さらば帰らむ」と云ければ、!木曽「そへに帰らでは何事をし給ふべきぞ」とあららかに云ければ、知康にがわらひて帰り参りて「!義仲鳴呼の者にて候ひけり。向かふ様にかくこそ云われて候ひつれ。勢を給はりて追討仕り候はばや」と申す。 この知康は究竟の「しててい打ち」の上手にてありければ、人が「鼓判官」というのを!木曽も人から聞いたのだろうか。!木曽かかる荒夷にて院宣をも事ともせず加様に散々に振舞ひければ、平家には事の外に替え劣りしてぞ思し召しける。そのころ奈良法師、法皇を歌によみまひらせてぞわらひける。 白さひて赤たなごひに取替てかしらに巻ける小入道かな
(廿三) 【法住寺】 後には山々寺々へ乱れ入って堂塔をこぼち、仏像を壊して焼いたので、釈尊在世時の提婆の化現もかくやと思われた。言うまでもなく神社にも憚らず狼藉は留まるところを知らず、早く!義仲を追討して洛中の狼籍を留むべき由、知康が申し行ひける上、法皇も奇怪に思い、はかばかしく人に仰せあはせらるるにもおよばず、ひしひしと感じて法住寺殿に城郭を構え、兵共を召し集められると松の葉をもって御方の笠印にした。 明雲は天台座主に成り返ると、八条の宮の寺の長吏を法住寺殿へ呼び、山、三井寺の悪僧共を召して参上させよとの仰せを下す。 そのほか君(法皇)に志を寄せる者の御方へ参るべき由を仰せになると、!義仲に日頃従っていた摂津国、河内の源氏、近江、美濃の駈武者、北陸道の兵共は、!木曽を背いて我も我もとやってきてたて籠る。 これだけでなく、諸寺諸山の別当長吏に仰せて兵を召されたので、北面の者共、若き殿上人、諸大夫なむどは面白い事に思い興に入たりけり。物の心をわきまえた分別のある人々は「こはいかになりぬる世の中ぞ。あさましきことかな。只今天下に大事出で来なむ」と驚きあきれあった。 知康は御方の大将軍にて門外にしやうじに尻かけて、赤地の錦直垂に脇太刀ばかりを佩き、廿四差したる征矢を一筋ぬき出すとさらりさらりとつまありて「あはれ、しれ者の首の骨を、この矢をもつて只今射貫かばや」とぞののしりける。 又よろづのだいしの御影をかきあつめて、御所の四方の陣に広げかけたり。 御方の人々の語らひたりける者共は、堀河のあきびとまちの冠者原、つぶて、印地、乞食法師原なり。 合戦のやうもいつかならふべき。風もあらくふかばたふれぬべくて、逃足をのみふみたる者共ぞ、多く参りこもりたりける。 物のえうにたちぬべき者はなかりけり。 !木曽が是を聞いていうには「平家謀叛をおこして、君をも君ともし奉らず、人をも損じ、民をもなやます事としひさし。然るを!義仲命を捨てて責落して、君の御世になし奉るは、稀代の奉公にあらずや。それに何の咎あつてか只今!義仲を誅せらるべき。東西の国々塞がりて、京都へ物も上らず、もちきたる者はなし。がきすべく、死ぬべければ、命を生きむが為、兵糧米をも取り、いくらも見ゆる青田をも刈らせて馬に飼ふは力及ばぬ事なり。さればとて、弓矢とる者は馬をもつてこそ軍合戦をもすれ。王城を守護して有らむ者が、馬一疋づつのらでもいかがあるべき。さりとても、みやばらへも打入り、大臣家へもみだれいりて狼藉をもせばこそ奇怪ならめ。片辺につきて少々入取なむどせむをば、院あながちに咎め給べきやうやはある。是は鼓めが讒言也。安からぬものかな。鼓めを打破りて捨てむ」と云ければ「さうにおよばず」と云者もあり。 樋口次郎兼光、今井四郎兼平などが「十善帝王に向かひ参らせて、弓を引き矢を放たせ給わむ事いかがあるべく候らむ。ただあやまたせ給わぬ由を何度も申させ給て、甲を脱ぎ弓をはづして、降人にまゐらせ給ふべくや候らん」と申すと「!義仲年来何度の軍かしつる。北国は信濃のをみあいだの軍を始めとして、北陸道には、黒坂、志雄口、横田河原、安宅、篠原、砺波山、西国には、備前の福龍寺の縄手、佐々が迫り、備中の板倉の城を落ししまで、以上九ヶ度かの軍をしつれども、一度も敵に後ろを見せず。十善帝王にておわすとても、甲を脱ぎ弓をはづして、をめをめと降人になるべしとはおぼへず。鼓めに首切られなばくゆるにえきあるまじ。法皇は無下に思ひしり給わぬものかな。!義仲にをいては今度は最後の軍なり」と言う。 !木曽がこのように言ったという噂に、知康は大変な憤りをなして、急ぎ!義仲を追討すべき由を申し進める。
巻八(第四)【木曽怠状を書して送山門事】 ★
廿四 !義仲は北国の合戦で、ところどころにて官兵をうちおとして都へ攻め上っていたが、比叡坂本を通る時には衆徒はたやすく通すまいと、越前の国府より牒状を書いて山門へ送ったコトにより衆徒も!木曽に味方したので、源氏の軍兵はついに天台山へ上った。その後!木曽は都へ打入り、狼藉斜めならず。山門の領二所もおかざりければ、衆徒は約定を破棄し!木曽を背くとの由も聞こえてきた。そのため、!義仲急ぎ怠状を書いて山門へ遣わす。 その状に云く、 山上のきしよ、!義仲慎みて下す。 叡山の大衆、かたじけなくしんよをさんじやうにふりあげ、みだりがはしく城郭を東西に相かまへて、さらにしゆがくのまどをひらかず。偏に評定のいとなみをもつぱらにすと云々。 こんげんをたづぬれば、!義仲あくしんをけつこうして、さんじやう坂本を追捕すべき由風聞す。この条きはめたる僻事に候。 かつうはまんざんのさんぼう、ごほふしやうじゆ、ちけんをたれしめ給ふべし。みづからしやうらくをくはたてしひ、みやうにはいわうさんわうのみやうじよを仰ぎ奉り、けんにはさんじやうの大衆の与力を恃む。いまはじめてなんぞこつしよをいたすべけむや。きえのこころざしありといへども、きようあくのおもひなく候ものなり。 ただしきやうとにおいてさんぞうをからむるよし、そのきこえある条、もつともおそれぞんじ候。さんぞうとかうして、みやうあくをこのむ輩これあり。 よつてしんぎをたださむがために、あらあらたづねうけたまはる間、自然に狼藉出できたるべく候か。 まつたくへんぎをみたすべし。そうじてさんじやうには、軍兵をのぼらしむべき由を聞く。 これによつて、だいしゆげらくせらるべきよしこれをうけたまはる。 ひとへにこれ天魔のけつこうするところか。相互ひに信用すべからず候。 かつうはこの旨をもつて、さんじやうに披露せしめ給ふべき条、件の如し。 十一月十三日 伊予守源!義仲 進上天台座主御坊 と書く。 山上には是にもしらけず、いよいよ蜂起する由聞えてきた。
(廿五) 【周の武王】 昔周の武王、殷の紂王を討たむとしけるに、冬天に霜寒へて、雪の降る事高さ廿丈餘也。五馬二車に乗れる人、門外に来たりて、「王を助けて紂を討つべし」と云て去る。又深雪に車馬の跡なし。此れ則ち海神の天の使として来たれるなるべし。然る後紂を誅つ事を得たり。漢の高祖は、韓信が軍が囲まれて危かりけるに、天俄に霧降りて闇をなして、高祖遁るることを得たりき。 【法住寺合戦】 !木曽人倫の為に讎(あだ)有り、仏神に憚りをなさず。何に依てか天助にも預かり人の憐れみも有るべきなれば、法皇の御憤りもいよいよ深く、知康も日にしたがひて「急ぎ追討せらるべし」とのみ申し行ひけり。 知康は赤地錦の鎧直垂にわざと鎧をば着ず、甲ばかりをぞきたりける。 四天王の像を絵に書て甲にはをし、右の手には金剛鈴を振り左の手には鉾をつきて、法住寺殿の西面の築垣の上に昇りて事をおきてて時々はまひけり。是を見る者「知康には天狗つきにけり」とぞ申ける。 !木曽が軍の吉例には、陣を立つるには七手に分けて末は一手二手に行くと云ひけり。 先づ今井四郎を大将軍として、三百余騎を以て御所の東、瓦坂の方へぞ廻しける。残る六手は一つになりたるらも一千余騎には過ぎざりけり。 十一月十九日辰時に、!木曽義仲すでに打立つ由聞へければ、大将軍知康以下、近国の官兵、北面の輩、公卿殿上人、中間、山法師以上二万余騎、騒ぎののしりける程に、!木曽が方の兵には、仁科次郎盛家、高梨ノ六郎高直、根井(ねのゐ)行親、同じく男楯六郎親忠、樋口次郎兼光、今井四郎兼平以下の者共一千余騎にて七条より河原へ打出でて時を作る事三ヶ度、をびたたしくこそ聞へけれ。 やがて西面の際へ責寄せければ、知康進み出でて申けるは「汝等忝くも十善帝王に向かひ奉りて弓を引き矢を放たむ事、いかでか仕るべき。昔は宣旨を読み懸けければ、枯れたる草木も花さき菓なり、水なき池には水たたへ、悪鬼悪神隋ひ奉りけり。末代と云はむからに、東の夷の身にていかでか公を背き奉るべき。況や汝等が放つ矢は還りて己等が身に当るべし。抜く太刀は身を切るべし。御方より放たむ矢は征矢とがり矢をすげずとも、己等が甲冑にはよもたまらじ。すみやかに引きてのき候へや」と云ければ、!木曽大きにあざわらひて「さないわせそ」とて、をめいて懸く。 やがて御所の北の在家に火を懸けてければ、北風はげしく吹て猛火御所に吹き覆へり。 御所の後ろ今熊野の東の方より今井四郎三百余騎にて時を作て寄せたりければ、参籠られたりける公卿殿上人、山々寺々の僧徒、駈武者共、肝たましひも身に副はず、足手の置所も知らず太刀の柄をとらへたれども指はだかりて握られず、長刀を逆さまについて己が足をついきりなむどぞしける。まして弓を引き、矢を放つまでは思ひ寄らず。加様の者のみこそ多く参籠もりたりける。 西には大手責向かふ、北よりは猛火燃え来たる、東の後ろには搦手廻りて待ち懸けたりければ、南の門を開けてぞ人々迷ひ出でられける。 西面の八条が末の門をば山法師固めたりけるが、楯六郎懸け破りて入りにければ、築垣の上にて金剛鈴振りつる知康もいづちか失せぬらむ、人より先に落ちにけり。 知康落ちにける上は、残り留まりて軍せんとする者なかりけり。 名をも惜しみ恥をも知る程の者皆打死に死にけり。その外ははうはう御所を逃げ出でて、かしこここに射伏せられ切り伏せらる。無漸とも云ふはかりなし。 七条が末は摂津国源氏多田蔵人、豊島冠者、大田太郎等固めたりけるも、七条を西へ落にけり。 軍以前に在地の者共に「落ちむ折は打伏せよ」と知康下知したりければ、在家人等家の上に楯をつき、をそいの石を取り集めて待つ所に、御方の落つるを敵の落つと心得て、我をとらじと打ければ「是は御方ぞ」「是は院方ぞ」と面々に名乗れども「院宣にてあるぞ。只打伏せようちふせよ」と打ちければ、軒下へ馳せより門内へ逃げ入りて物具脱ぎ置きて、はうはうぞ落ちにける。 御方にもよきもの少々在りけり。 出羽判官光長がその頃伯耆守にてありけると、同子息光経が左衛門尉にて使の宣旨を蒙りたると、父子二人打死してけり。 信濃国住人赤塚判官代父子七人参籠もりてありけるが子息三郎判官代ばかりぞ打死にしてける。残る六人落ちにけり。 【高貴の人々の顛末】 天台座主明雲僧正は香染の御衣に皆水晶の御念珠持ち給ひて、殿上の小侍の褄戸を差出でて馬に乗らむとし給けるが、楯六郎が放つ矢に御腰骨を射させて犬居に倒れ給けるを、兵よつてやがて御首を取奉る。 寺長吏圓恵法親王は、御輿にて東門より出でさせ給ひけるを、兵馳つづいて追落とし奉りければ、小家の内へ逃げ入らせ給ひけるを、根井小野太が射る矢に、左の御耳の根をかせぎに射貫かれ給てうつぶしに臥し給ひけるを、兵よつて御首を切り奉りてけり。 法皇は御輿に召して南門より出でさせ給けるを、武士多く懸り責めければ、御力者も命のをしかりければ、御輿を捨ててはうはう逃げ失せにけり。 公卿殿上人も皆立て隔てられて散々になりて、御供を仕る人なかりけり。 豊後少将宗長ばかりぞ木蘭地の直垂小袴に括り上げて御共に候われける。宗長は元よりしたたかなる人にて法皇に少しも離れ奉らざりけり。武士間近く追懸かりて既に危ふかりければ、少将立ち向かひて「これは院の渡らせ給ふぞ。誤(あやまち)仕るな」と申されたりければ、武士共馬より下りて畏まる。 「何者ぞ」と尋ねければ「信濃国住人根井小弥太、並びに楯六郎親忠が弟、矢嶋四郎行綱と申者にて候」と申。 二人参りて御輿に手あげまひらせて五条内裏へ渡し奉りて守護し奉る。宗長ばかりぞ御供には候われける。 その外の人は一人も見えず。大方とかく申すはかり更に無し。うつつとも覚えず。 主上の御沙汰し参らする人もなかりければ、いかになるべき様なし。兵共は入り乱れぬ。御所に火懸けたり。 七条侍従信清、紀伊守範光、只二人候われけるが、池にありける御船に乗せ奉り差しのけたりけれども、流矢まきかくるが如し。 信清「これは内の渡らせおはしますぞ。いかにかくは射まひらするぞ」と申されけれども、猶狼藉なりければ心憂く悲しくて、主上を御船の底に伏せまひらせて、かかえまひらせてぞ居たりける。 夜に入りて坊城殿へ渡し奉りて、それより閑院殿へ入らせ給ひにけり。行幸の儀式只おしはかるべし。いまいましとも愚か也。 法住寺殿は御所より始めて人々の家々檐をきしりて造りたりつるも、なじかは一宇も残るべき、皆焼け亡びにけり。 播磨中将雅賢は、させる武勇の家にあらねども武勇の人にておわしければ、面白く思はれければにや、兵杖を帯して参籠られたりけり。重目結の直垂に紺糸威の腹巻をぞ着られたりける。 殿上の西面の下侍の褄戸を押開けて出でられけるを、楯六郎懸入りて、首の骨を射たりけるが烏帽子の上を射こすりて褄戸に矢立ちにけり。その時「我は播磨中将と云ふ者にてあるぞ。あやまちすな」と、騒がぬ躰にて宣ひたりければ楯六郎馬より飛び下りて、生取りて我宿所に誡め置きてけり。 越前守信行と云ふ人ありけり。布衣に下括りでありけるが供に具したりつる侍も雑色もいづちか失せにけむ、一人もみえず。二方よりは武士責来る、一方よりは黒煙覆へり。いかにすべき様もなうて、大垣のありけるを越えむ越えむとしける程に、なじかは越えらるべき。後ろより前へ射貫かれて、空様に倒れて死にけるこそ無漸なれ。 主水正親乗は大外紀頼幸直人が子なり。薄青の狩衣に上括りで葦毛なる馬に乗て七条河原を西へ馳せけるを、!木曽の郎党今井四郎馳せ並べて馬手の脇を射たりければ、馬より逆さまに落ちて死にけり。狩衣の下に腹巻を着たりけるとかや。「明経道の博士也。兵具を帯する事然るべからず」と人傾け申しけり。 河内守光資が弟源蔵人仲兼は南門を固めたりけるが落ちざりけるを、近江源氏錦古利冠者義広が打通り様に「殿原は何を固めて今まではおわするぞ。已に行幸御幸他所へなるぬる物を」とて落ちければとて河内守は上の山に籠りぬ、源蔵人は南へ向けて落ちにけり。 河内国住人草刈の加賀房源秀と云ひける者、葦毛なる馬のきはめて口強きに乗たりけるが、源蔵人に押並べて「この馬のあまりはやりて、乗りたまるべしとも覚えず候。いかがし候べき」と申ければ「いてさらば仲兼が馬に乗かへむ」とて、馬の下尾白かりけるに乗替たり。主従八騎打うちつれて、瓦坂の峠に三十騎ばかりにてひかへたる中へ、をめいてかけ入りぬ。 半時ばかり戦ひて、八騎が内加賀房を始めとして五騎は打たれにけり。蔵人仲兼主従三騎は懸破りて通りにけり。 加賀房が乗たりける下尾白き馬走出でたりければ、源蔵人の家子に信濃次郎頼成と云者は、源秀が乗替たるをば知らで舎人男の有けるに「この馬は源蔵人の馬と見るは僻事か」 「さん候。はや打たれにけりなれ。さ候へばこそ御馬ばかりは走出でて候らめ」と云ければ、 「あな心うや。蔵人殿より先に死てこそ見へむと思うひつるに、いづちへ向かひて懸けつるぞ」 「あの見へ候勢の中へこそ」と申ければ、信乃二郎「さごさむなれ」とて、をめいて懸入りて打死してけり。 さて源蔵人大夫仲兼は木幡山にて近衛殿の御車にて落ちさせ給ひけるに追いつき奉りぬ。 「あれは仲兼か」 「さむ候」 「人もなきに近く参れ」と仰せ有りければ、宇治まで御供仕りてそれより河内国へぞ落ちにける。 【鼻豊後エピソード】 刑部卿三位は迷い出でて逃げられけるが、七条川原にて物取に表裏皆はがれにけり。烏帽子さへ落失せにければ、十一月十九日の事なれば、河風さこそは寒く身にもしみたまひけめ、すごく赤裸にて立たれたりけるに、この三位の兄に越前法橋章救と云人ありけり。かの法橋の許に有ける中間法師、さるにても軍はいかがなりぬらむと思ひて立出でたりけるが、この三位の有様を見て目もあてられず、あさましく思ひて、我が着たる衣を脱ぎて着せ奉りたりければ、衣うつをにほうかぶりて、この中間法師に相具して、法橋の宿所へおわしけり。 かの宿所は六条油小路にてありければ、六条を西へ、中間法師を先にたてておわしけり。 法師も白衣なり。三位の躰もをかしかりければ、万人目をたてて、あさましげに思ひて見ければ「とくとく歩み給へかし」と中間法師思ひけるに、急ぎも歩まれず「『ここはいづくぞ。あれはたが家ぞ』なむど、しづしづと問はれたりしこそ、あまりにわびしかりしか」と、のちに人に語けるとかや。これのみならず、をかしくあさましく心憂き事共多く語りけり。 寒中に一衣をも着たる者をば、上下をいわずはぎとりければ、男も女も皆赤裸にむかれ、心うき事限りなし。僅かに甲斐なき命ばかり生くる人々も逃隠れつつ、都の外なる山野にぞ交はりける。 [モクジ]
廿六 【六条河原での首実検】 廿日辰時に!木曽六条河原に出でて、昨日切る所の首共、竹に結び渡して取りかけたり。 左の一の首には天台座主明雲大僧正の御首、右の一には寺の長吏圓恵法親王の御首をぞ懸けたりける。 その外七重八重にかけ並べたる首、惣じて三百四十余人とぞ数へて申ける。 是を見ては、天に仰ぎ地に倒れてをめき叫ぶ者多かりけり。父母妻子なむどにてこそありけめ、無慚とも愚かなり。 越前守信行朝臣、近江前司為清、主水正近乗なむどが首もこの中にありけり。 「法皇は古にもこりさせ給わず、又かかる云ふ甲斐無き事引き出ださせ給ひて万人の命を失はせ給ひ、我御身も禁獄せられさせ給へる事、せめての御罪のふかさ、先の世までもうたてくなむ」とぞ、貴賤上下、遠近親疎、躰をしてぞ申し合ける。 八条宮の房官に大進法橋行清と云ふ者有りけり。宮打たれさせ給ひぬと聞えければ、こき墨染の衣につぼみ笠きて六条川原に出でて、懸け並べたる首共を見るに、明雲僧正の御首と宮の御首とをば左右の一番にかけたり。行清法橋これを見奉りて、人目はつつましけれどもあまりの心憂さに、衣の袖を顔にあてて、しのびの涙せきあゑず。さこそは思ひけめと押はかられて無慚也。 御首にも取付き奉らばやと思ひけれども、さすがそも叶はねば泣く泣く帰りにけり。 其夜行清忍びて彼の御首を盗み取りて高野へ詣でて奥の院に納め奉りて、やがて高野に閉じ籠りて宮の御菩提をぞ弔ひ奉りける。 ( 廿七【宰相修憲出家して法皇の御許へ参事】割愛)
廿八 【木曽殿クーデター】 !木曽は昨日の軍に打勝ちて今日首かけて六条河原より返りて「今は万事思ふ様なれば、内にならむとも院にならむとも我心成り。ただし内は小童なり。又院は一目見しかば小法師なり。内にならむとて童にもなりたくもなし。院にならむとて法師にもいかがならむ。関白にやならまし」と云ければ、今井が申けるは「関白には藤原氏ならではえならぬとこそ承り候へ。公は源氏にてわたらせ給に」と云ければ、「さらば判官代にやならまし」と申ければ、今井「判官代はいたくよき官にては候はぬごさむめれ」と申ければ、「院御厩別当にならむ」とて、押して御厩別当にぞなりにける。
廿九 【摂政師家】 廿一日、摂政を止め奉りて松殿の御子大納言師家とて十三になり給ひけるを内大臣に成し奉りて、やがて摂政の詔書を下さる。 折節大臣あかざりければ、後徳大寺の左大臣実定、内大臣にておわしけるを、暫く借りて成り給たりければ「昔はかるの大臣と云人ありき。是をばかるる大臣と云べし」とぞ、時の人申しける。 かやうの事をば大宮の大相国伊通こそ宣ひしに其の人をはせねども申人もありけるにや。
三十 【公卿等の大量解官】 廿八日に、三条中納言朝方卿以下、文官武官諸国の受領、都合四十九人を!木曽解官しけり。その中に公卿五人とぞ聞へし。 僧には権少僧都範玄、法勝寺執行安能も所帯を没官せられき。 平家は四十二人を解官したりしに!木曽は四十九人を解官す。平家の悪行には猶越えたりけり。 ( 卅一〜 卅三割愛、【宮内判官公朝関東へ下事】【知康関東へ下事 付/知康関東にてひふつく事】【兵衛佐山門へ牒状遺す事】)
卅四 【平家への使者】 平家は又西国よりせめのぼる。 !木曽は東西より追い詰められ、せむかたなくぞ思ける。せめての事にや、平家と一つになりて、関東をせむべき由思ひ立ちにけり。さまざまの案をめぐらして、ひとにしらすべき事にあらねば、をとなしきらうどうなむどにいひあはするにもおよばず、「世にもなき人の手、能書やある」とたづねければ、東山よりある僧を一人、郎等しやうじてきたれり。!木曽まづこのそうをひとまなる所によびいれて、ひきでものにこそでにりやうわたして、酒なむどすすめて、へだてなくたのみまうすべきよしいひて、書状を書かせる。 !木曽がいふにたがわず、このそうふみをかく。二位殿へは「見目よき娘やおわする。聟になり奉らむ。今より後は少しも後ろめたなく思給べからず。もしそらごとを申さば、諏訪明神の罰あたるべし」なむどかかせけり。 そうじて文二通かかせて、一通は「平家の大臣殿へ」とかかす、一通はその母の「二位殿へ」とかかせて、雑色男を使ひにて西国へつかはしけり。 この文を見て、大臣殿はことに悦び給ひけり。 二位殿も「さもや」と思はれたりけるを、新中納言の宣ひけるは「たとひ故郷へ帰りのぼりたりとも『!木曽とひとつに成てこそ』とぞ人は申し候わんずれ。頼朝が思わん所もはづかしく候。弓矢取る家は名こそ惜しく候へ。君かくて渡らせおわしませば、甲を脱ぎ弓を外して、降人に参るべしと返答あるべし」とぞ宣ひける。 !木曽都へうち入りて、在々所々をついふくして貴賤上下を悩まし、仏門じんもつを横領して、ひほふ悪行斜ならず。 はては院の御所法住寺殿におしよせ合戦を致し、貴僧高僧をさへ討ち奉り、公卿殿上人をいましめおき、すこしもはばかる所なきよしを平家聞て申されけるは「君も臣も山も奈良も、この一門を背きて源氏の世に成したれども、さもあるか」と、大臣殿よりはじめ奉りて、人々きようげんせられけり。 (卅五【維盛卿古京を恋給事】割愛)
卅六 【松殿、木曽を諌める】 !木曽は五条内裏にて厳しく守り参らせる間、公卿殿上人一人も参らない。 合戦の日に生け取りにした人々も許さず、猶いましめ置いていたので、前入道殿下が内々に!木曽に仰せられるには「かくは有るまじき事を。僻事ぞ。よくよく思惟あるべし。故清盛は神明も崇め奉り仏法にも帰し稀代の大善根をもあまた修したりしかばこそ一天四海を掌中にして廿余年まで保ちたりしか。大果報の者なりき。上古にも類ひ少なく、当代にもためし無し。それが法皇を悩まし奉りしにより、天の責めを蒙りて忽ちに滅びにき。子孫又絶えはてぬ。恐れてもおそるべし、敬ひてもうやまひ奉るべし。只悪行をのみ好みて世を保つ事は少なきぞ。免し奉るべし」と。すると戒めおきたる人々をも免し、きびしかりつる事共も止めてけり。 物の心も知らぬ夷なれども、かきくどき細かに仰せられければ靡き奉りけり。しかしなお本心は失はざりけり。 「仏事善事をしたる人の世にあらば平家こそ百廿年までも保ため。弓矢を取る習ひ、二なき命を奪はむとせむ敵をば、今より後も対向せではよもあらじ。我が腹の居むまでは」と思ふとも「入道殿をこそ親と頼み申したれ。親方のあらむ事を子として背くべからず」と云事よげなるぞをかしき。
卅七 【院の身柄】 十二月十日、法皇は五条内裏を出でさせ給て大膳太夫成忠が六条西洞院の家へ渡らせ給ふ。やがて其日より歳末の御殲法始められにけり。 【木曽除目】 同十三日、!木曽除目行ひて思ふ様に官ども成りにけり。 !木曽が所行も平家の悪行にをとらずこそ聞へしか。我身は院御厩別当に押して成る。 左馬頭伊予守なりし、丹波国を知行して、其外畿内近国の庄園、院宮の御領、又上下の所領をも併せて押取り、神社仏寺の庄領をもは憚らず振舞ひけり。 前漢後漢の間に、王莽、劉玄と云ける者二人世を執りて、十八年我ままに行ひけるが如く、平家は落ちたれども源氏は未だ打入らず、その中間に!義仲行家二人して京中を己がままにしけるも、いつまでと覚えて危うくぞ見へける。 【大晦日】 されどもあぶなながら年も既に暮れにけり。 東は近江国、西は摂津国まで塞がりて、君の貢物も奉らず、私の年貢も所当も上せず。 京中の貴賤上下、小魚のたまり水に集まれるが如くほしあげられて、命も生きがたくぞ見へける。 (※以下は上本にあるべきか) !木曽北国の軍にうち勝ちて都へ責上るべき由聞えければ、北国の匈奴悉く源氏に従ひつきにけり。之に依て去夏の頃白山宮に免を奉る状に云く 加賀国白山宮の御領事 右管石河郡西條内宮丸保 四至在本巻 右鎌倉殿の仰せられて曰く「諸国は須(すべから)く宰史の進止なり。他人之下知能はざるか。然るに近来或は関路を塞ぎて北陸往反の路を断ち、或は海辺に就きて東路発向の謀を企つ。是に於いて愚忠をぬきんでんが為、民の肩をあはれまんが為、義兵を進め催して、多く朝敵を誅つ。偏に皇化之しからしむることを仰ぐといへども、これ神明之加護を蒙るに非ずや。然るに永く乱行を鎮めんが為、暫く国務を宥行す。但し自由に任せず、院奏を惶る所也。治国の政、霊神を崇むるにしかず。崇神の察、田地を寄するに過ぎたるはなからむ哉。是を以て恐らくは便宜の一保を割き、当国の白山に免し奉るもの也。官物雑事を停止して神事の勤行に備へしむ。神納受を垂れていよいよ冥助を施し給へ。然れば則ち今日より始めて千百年に至るまで、一天之下、安穏太平、当国の中、抜苦與閑せんてへれば、有司状を察して免を奉る事件の如し。 寿永二年五月 日 散位大江朝臣在判 散位橘朝臣在判 勧農使藤原朝臣在判 内舎人藤原在判
一 【元暦元年正月】 元暦元年甲辰正月一日、院は去年十二月十日、五条内裏より大膳大夫業忠が六条西洞院の家へ渡らせ給ふ。世間も未だ落居せざる上、御所の体、礼儀行なはるべき所にもあらねば拝礼もなし。 院の拝礼なかりければ、殿下の拝礼も行はれず。 内裏には主上渡らせ給へども、例年寅一點に行はるる四方拝もなし。清涼殿の御簾も上げられず。解陣とて南殿の御格子三間ばかりぞ上げられたりける。 (二【平家八嶋にて年を経る事】割愛)
三 【木曽殿、西国下向奏問】 十日、伊予守!義仲、平家追討の為に、西国へ下向すべき由奏問しけり。 仰せられけるは「我朝に神代より伝はりたる三種の宝物あり。すなはち、神璽、宝剣、内侍所、是也。事故なく都へ返し入れ奉れ」と仰せ下されければ、畏まりて罷出でぬ。 【鎌倉出兵】 已に今日門出すと聞えしほどに、東国より前兵衛佐頼朝、!義仲追討の為、舎弟蒲冠者範頼、九郎冠者義経大将として、数万騎の軍兵を差しのぼする由聞えけり。 その故は、!義仲朝恩に誇りて上皇を取奉り五条内裏に押籠め参らせて、除目を行ひ摂祿を改め奉り、人々を解官して、平家の悪行に劣らず、朝威を忽緒にし奉る由、頼朝聞かれて「!義仲を差上せし事は、仏神をも崇め奉り王法をも全くし天下をも鎮め君をも守奉るべしとてこそ上せしに、いつしかさやうの狼藉奇怪なり。既に朝敵となりぬ」とて、怒りをなし勢を差し上せらる。 その勢既に先陣は美濃国不破関に着きぬ。後陣尾張国鳴海潟までつづいたる由聞こえければ、!義仲是を聞て、宇治、勢多二つの道を打塞がむが為に、親類郎従等を分かちて遣はす。 【平家進軍】 平家は又福原まで責上るとののしる。
四 十一日、!義仲再三申請くるによりて、なましゐに征夷大将軍たるべき宣下せらる。
五 【行家追討】 同十七日に、備前守行家河内国に住して逆心有る之由聞へければ、!義仲かの行家を追討の為に、樋口兼光を差遣はす。その勢五百余騎なり。 同十九日に、石河の城によせて合戦。 蔵人判官家光、兼光が為に射取られにけり。行家軍に敗れて逃げ落ちて、高野にぞ籠りける。生捕三十人、首切懸けらるる者七十人とぞ聞へし。 (六【梶原與佐々木馬所望の事】割愛)
七 【鎌倉軍到着】 同廿日の辰刻に、東国の軍兵六万余騎二手に作りて、宇治勢多両方より都へ入る。 勢多の手には蒲冠者大将軍として、同じく相従ふ輩は、武田太郎信義、加々見太郎遠光、同次郎長清、一条次郎忠頼、板垣三郎兼信、侍大将軍には、稲毛三郎重成、飯谷四郎重朝、土肥次郎実平、小山四郎朝政、同中治五郎宗政治、猪俣小平六則綱、小山宇都宮、山名里見の者共を始めとして、三万五千余騎には過ぎざりけり。 宇治の手には九郎冠者を大将軍として、相従ふ人々、安田三郎義定、大内太郎惟義、侍大将軍には、畠山庄司次郎重忠、舎弟長野三郎重清、三浦十郎義連、梶原平三景時、嫡子源太景季、熊谷次郎直実、同子息小次郎直家、佐々木四郎高綱、渋谷馬允重助、糟谷藤太有季、ささをの三郎義高、平山武者所季重を始めとして二万五千余騎、二手の勢六万余騎には過ぎざりけり。 【木曽軍動向】 !木曽が方には折節都に勢ぞなかりける。 乳母子樋口次郎兼光、五百余騎にて十郎蔵人行家を責めむとて、河内国石河と云所へ差遣はす。 今井四郎兼平、五百余騎の勢を相具して、勢多を固めに差遣はす。 方等三郎先生義広、仁科、高梨、小田次郎等、三百余騎にて宇治を固めに向かひけり。 京には力者廿余人を支度して、もしの事あらば院を取奉りて西国へ御幸なし奉らむと用意して、上野国住人那波太郎弘澄を始めとして、!義仲が勢百騎には過ぎざりけり。 今井四郎兼平、方等三郎先生義広等、宇治勢多両方の橋をば引きて向かひの岸には乱杭を打ち大綱はへ、逆茂木を繋ぎて、流しかけて相待つ所に、九郎義経は雲霞の勢をたなびきて「木曽冠者、都にては叶はじとて平等院に立て籠りたり」と申す者有ける間、さらばとて伊賀国へ廻りて平等院に押寄せたりけれども、空事なりける間、さてはとて入洛せむとする処に宇治橋を見れば橋もなし。 【宇治川増水】 宇治川は折しも増水し底も見えず、橋も引かれ逆茂木も隙間無く張り巡らされている。二万五千騎の軍兵は川岸に控えるが渡る手だては見つからない。 その時九郎御曹司(義経)は、雑色歩行走りの者共を呼んで「家々の資材雑具一々にとり出ださせて、川端の在家を皆焼き払ふべし。分内を広くして、二万余騎を皆川端に臨ませよ」とぞ下知歩行走りの者共が家々に走り廻って伝えようとするが住人は一人出て来ない。 家々を焼払う事、三百餘家也。宿に置かれたままの馬牛や、隠れていた老親、あるいは逃げる力もない姫君や小者など皆焼死。 義経に応えて、平山武者所季重という小冠者が只一人渡りはじめると他の四人の武将(佐々木定綱、渋谷重助、熊谷直実父子)も次々に渡し始める。 渡り終わった熊谷直実は扇をひろげて敵に「汝等は抑木曽殿の郎従にてはよもあらじ。一旦の駆武者共にても有らむ。生ある者は皆命を惜しむ習ひなり、無詮合戦して大事の命を失はむとするこそ不憫なれ、落ちはば落ちよかし」と言いながら矢を射かけると、木曽郎党に藤太左衛門兼助という者が真っ逆さまに射落とされる。これを始めに多くの郎党が討たれ、その間に渡河する者共に矢を射かけることもなかった。 【佐々木と梶原】 鎌倉二万五千余騎の軍兵が我も我もと進む中、梶原源太景季と佐々木四郎高綱が先陣を争うエピソード。 【山田の郎党、畠山の馬を射る】 !木曽の手に山田次郎が郎党、黒皮縅の腹巻着て、三枚兜に左右の小手に大太刀佩きて、中黒の征矢負ひたるが、正面からよくひいて放つ矢が河中にて畠山の馬の額に立つ。畠山馬を降りたがは少しもひるまない。 【大櫛彦次郎エピソード】 武蔵国住人、大櫛彦次郎季次は、宇治川の急流の中、畠山の甲の鉢にとりつく。 畠山は目をかけていた大櫛をぶんなげて岸に上げてやると「河へうち入るる事は畠山一番也。向かひの岸へつくことは、武蔵国住人大櫛彦次郎季次まつ先也」と名乗って敵味方一同を笑わせる。 【宇治川合戦顛末】 向かひの方より三百余騎、矢さきを調へて引取ひきとり射させけれども、二万五千余騎の大勢責めかかりければ、宇治の手破れて都の方へぞ落ちゆきける。 九郎義経は敵の跡を目につけて、都の方へぞ責入りける。 勢多をば稲毛三郎、榛谷四郎が計らひにて、たなかみの貢御を渡して追ひ落とす。 さて今井四郎兼平、三郎先生等防ぎ戦ひけれども、無勢なりければ散々に駆け散らされて、同じく京へ帰り行く。 宇治勢多を渡した日記を鎌倉へお送りしたところ、「宇治河の先陣は近江国住人佐々木四郎高綱」と書き込んであった。 義経は馬次第に京へ入る。 【木曽殿の行動】 !木曽は宿所に帰りて、松殿の姫君を取て置たりける、別れ惜しみて、振り捨てがたさに打出でざりければ、!木曽が仕ひける今参越後中太家光が申けるは「雲霞の如く大勢已に近付きたり。如何にかくておはしますぞ」といへども打立たず。!義仲をともせざりければ、家光「世の中今はかうとて終に遁がるべきにあらず」とて、腹かき切て臥しにけり。 !木曽是をみて「!義仲勧めむとて家光いしうも自害したるものかな」とて、やがて打出でにけり。 !義仲先づ使者を院御所へ奉りて申けるは「東国の匈奴すでに責来たる。急ぎ醍醐の辺へ御幸あるべし」と申たりければ「更にこの御所をば御出あるべからず」と仰せ遣わされけり。 ここに!義仲、赤地錦の直垂に紅の衣を重ねて石打の胡?に紫威の鎧を着て、隋兵六十余騎を卒して、院の御所へ馳参る。 劔をぬきかけ目をいからかして、砌(みぎり)の下に立てり。 御輿を寄す。臨幸あるべき由を申す。上下色を失ひ、貴賤魂を消す。公卿には、花山院大納言兼雅、民部卿成範、修理大夫親信、宰相中将定能、殿上人には、実教、成経、家俊、家長、祗候したりけるが、各々皆藁沓を着して、御供に参ぜむとて、庭上に下り立たれたり。人々涙に咽びて東西を失ひ給へり。叡慮只をしはかり奉るべし。 !義仲が郎党一人馳来たりて申けるは「敵すでに最勝光院、柳原まで近付く」と申ければ、さして申す旨も無き臨幸の事を抛(なげう)って、門下にして騎馬す。東を差して馳行きて河原に出づ。 【河原合戦】 六条河原にして根井行親、楯六郎親忠二百余騎にて!義仲に行き逢ひぬ。 院中の上下手をにぎり、立てぬ願もなかりけるしるしにや、其の後急ぎ門々をさされけり。河原をみれば、東国の武士隙を争ひて充満たり。 !義仲申けるは「合戦今日を限りとす。身をも顧み命を惜しまむ人々は、ここにて落つべし。戦場に臨みて逃げ走りて、東国の輩に欺かれむ事、生前の恥也」と申せば、行親、親忠等を始めとして申けるは「人生まれて誰かは死を遁れむ。老いて死ぬるは兵の恨みなり。就中、その恩を食てその死を去らざるは、又兵の法也」と云て退く者なし。 畠山次郎重忠五百余騎にて控へたり。 !義仲馬の頭を八文字に立て寄せて、聲を挙げて鞭を打て駆入れば、重忠が隋兵中をあけて入れ、組み入れちがへ、弓手にあひ馬手にあひ戦ふ。 !義仲うらへ通れば、二河左衛門尉頼致を始めとして、三十六騎打取られぬ。 川越小太郎重房三百余騎にて控へたり。 !義仲馬の頭を雁行乱さず立て下し駆入れば、重房が兵の外をかこみ内をつつむで、をりふさげて戦ふ。 !義仲うらへ駆通れば、楯六郎親忠を始めとして、十六騎は討たれぬ。 佐々木四郎高綱二百余騎にて控へたり。 !義仲馬の足を一面に立て並べて、敵を弓手に駆背けて、前輪にかかり甲をひらめ、馬を馳並べてうらへ抜くれば、高梨兵衛忠直を始めとして、十八騎打取られぬ。 梶原平三景時三百余騎にて控へたり。 !義仲馬の足一所に立て重ねて、敵をさきに駆けあましてうらへ駆通れば、淡路の冠者宗弘を始めとして、十五騎打取られぬ。 渋谷庄司重国二百余騎にて控へたり。 !義仲馬の足を立て乱して思ひおもひに駆入る。 重国が隋兵をしかこみて、ひまを争ひつめよせて、をりかけをりかけ戦ふ。 !義仲うらへ通れば、根井行親を始めとして、廿三騎は打取られぬ。 ここに源九郎義経此れを見て、三百余騎馬の足をつめならべかさなり入れば、敵両方へあひわれけるを、四方に懸乱り駈立てて、矢前(やさき)をととのへて射取りければ、!義仲が軍忽ちに敗れて、六条より西を指して馳行く。 !義仲忽ちに三軍の士を威し、万囲の陣を敗るといへども、義経又必勝の術を廻らして、強太の兵を退く。 !義仲左右の眉の上を共に鉢付の板に射付けられて、矢二筋相駈けて、院御所へ帰参せむとしけるを、少将成経門を閉ぢて錠を指したりければ、再び三たび門を押しけるを、源九郎義経、梶原平三景時、渋谷庄司重国以下十一騎、鞭を打て轡をならべ、矢前をそろへて射ければ、!義仲堪へずして落ちにけり。 義経は!木曽と見てければ「!義仲もらすな若党。!木曽にがすな者共」と下知して院の御所へ馳せ参る。 義経が郎党馳せつづきて!義仲を追ひけり。 (八【義経院御所へ参事】割愛)
九 【木曽殿都落】 !木曽は「若しの事あらば、院取り進らせて西国へ御幸成し進む」と、力者廿余人そろへて置たりけれども、院の御所には九郎義経参り籠りて守護し進らせければ、取り奉るべき様もなかりけり。 !義仲、今はかうと思ひ切りて、数万騎の勢の中へをめいて係入りて戦ひけり。打たれなむとする事度々に及べりと云へども、係破りかけやぶりとほりけり。 「かかるべしとだに知たりせば、今井を瀬多へやらざらまし物を。幼少竹馬の昔より『君の若しの事あらば手を取りくみて一所(ひとところ)にて死なむ』とこそ契りし物を。所々に臥さむ事こそ口惜しかるべけれ。今井がゆくへを見ばや」とて、河原を上りに係くるほどに、大勢追てかかれば、六条河原と三条河原との間にて、取返しとりかへし五六度まで係け靡(なび)かして、つひに三条河原を係け破りて、東国へぞ落ちにける。 【鞆絵登場】 去年(こぞ)の秋、北国の大将軍として上りしには五万余騎なりしかども、今粟田口に打出の関山へかかりしかば其の勢僅かに主従七騎に成りにけり。まして中有の旅の空思い遺られて哀れなり。 七騎が中(うち)の一騎は鞆絵といへる美女也。 紫皮のけちやうのひたたれに、萌黄の腹巻に、重藤の弓にうすべうの矢を負ひ、白葦毛なる馬の太く逞しきに小さき舳絵(ともゑ)すりたる貝鞍置きてぞ乗りたりける。 !木曽は幼少より同様(おなじやう)に育ちて、うでをし頸引きなむど云力態(わざ)係け組みてしけるに少しも劣らざりける。かかりしかば!木曽身近くつかはれけり。 ここに誰とは知らず、武者二人追ひかかる。鞆絵馬引かへて待つ處に、左右(さう)よりつとよる。 其の時左右の手を差しい出して、二人が鎧のわたがみを取りて左右の脇にかひはさみて一しめしめて捨てたりければ、二人ながら頭(かしら)をもじけて死にけり。 女なれども究竟の甲(剛)の者、強弓精兵矢つぎ早の手ききなり。軍(いくさ)ごとに身を放たず具せられけり。 齢三十計り也。童部を仕(つか)ふ様に朝夕仕へけり。 【木曽殿と今井】 !木曽は龍花(りゅうげ)を越えて北国へ赴くとも聞えけり。 又、中坂(長坂)にかかりて丹波国へ落つるとも云けるが、さはなくて乳母子の今井が行くへを尋ねむとて勢多の方(かた)へ行きけるが、打出の浜にて行き合ひぬ。 今井は五百余騎の勢にて有りけるが、勢多にて皆係け散らされて幡を巻かせて三十騎にて京へ入りけるが、!木曽、今井の四郎と見てければ互ひに一町計りより、それと目をかけて小馬(こま)を早めてより合ひぬ。 轡(くつばみ)を並べて!木曽と今井と手を取り組みて悦びけり。 !木曽宣ひければ「去年栗柄か谷(←倶利伽藍谷)を落してより以降(このかた)、敵(かたき)に後ろをみせず。兵衛佐の思わむ事もあり、都にて九郎と打死にせむと思ひつるが、汝と一所にてともかうも成りなむと思ひて、是までのきつる也」と云へば、今井は涙を流して申しけるは「仰せの如く敵に後ろを見すべきには候わず。勢多にて如何にもなるべきにて候ひつるが、御行方へのおぼつかなさに是まで参て候ふなり。主従の契りくちせず候ふなり」とて涙を流して悦びけり。 !木曽が旗指は射散らされてなかりけり。 !木曽宣ひけるは「汝が旗指し上げてみよ。若し勢やつく」と宣ひければ、今井高き所に打上がりて今井が幡を指し上げたりければ勢多より落つる者と京より落者ともなく、五百余騎ぞ馳せ参る。 !木曽是をみて悦びて「此の勢にてなどか今一度火出づるほどの軍せざるべき。哀れ死ぬとも吉(よか)らむ敵に打向ひて死なばや」とぞ宣ひける。 【一条軍登場】 さるほどに「ここに出来たるは誰が勢やらむ」と宣へば「あれは甲斐の一條殿の手とこそ承われ」 「勢いかほど有るらむ」と問ひ給へば「六千余騎とこそ承われ」と申ければ、 「敵もよし勢も多し。いざや係けむ」とて、 !木曽は赤地の錦の直垂にうす金と云唐綾をどしの鎧に白星(しらほし)の甲きて廿四指したる切文(きりふ)の矢に塗ごめ藤の弓に金(こがね)作りの太刀はいて白葦毛の馬に黄伏輪の鞍置きて厚ぶさのしりがいかけてぞ乗りたりける。 ま先に歩ませ向かひて名乗りけるは「清和天皇十代の末葉(ばつえふ)六條判官為義が孫・帯刀(たちはき)先生(せんじやう)義賢が次男・!木曽の冠者、今は左馬頭兼伊與守、朝日の将軍!源の義仲。あれは甲斐の一條の次郎殿とこそ聞け。!義仲打取りて頼朝に見せて悦ばせよや」とて、をめいて中へ係けいりて十文字にぞ戦ひける。 一条次郎是を聞て「名乗る敵を打てや者ども、組めや若党」とて六千余騎が中に取り籠めて一時計りぞ戦ひける。 !木曽散々に係け散らして敵あまた打取りていでたれば、其の勢三百余騎にぞ成りにける。 鞆絵が見へざりければ「打たれにけるにこそ穴無惨やな」と沙汰する處に鞆絵出来たり。近付くを見れば矢二つ三つ射残して太刀うちゆがみ血うて付きてうちかづきて出来たり。 「いかに」と人々問ひければ「敵あまた打たり。打死せむと思ひつるが君の是に渡らせ御坐(おは)します由承りて打破りて急ぎ馳せ参りて候」とぞ申ける。 !木曽是を聞て「いしくもしつる物哉」とてかへす返すがへすほめられけり。 【本馬ノ五郎登場、木曽殿の主従はバラバラに】 さて勢多の方へ行くほどに「相模国住人本馬ノ五郎」と名乗りて追ひて係かる。 取りて返してよくひいて兵(ひやう)ど射たり。 本馬が馬のむながひづくしに羽房までぞ射こみたる。馬逆さまにまろびけり。本馬は落ち立ちて太刀を抜く。 !木曽「馬がつまづいて射損じぬる。やすからず」とぞ宣ひける。 勢多の方へ行くほどに、土肥次郎実平三百余騎にて行き合ひたり。 中に取り籠められて半時計り戦ひて、さつと破りて出でたれば、百余騎にぞ成にける。 なほ勢多の方へ行くほどに、佐原十郎義連五百余騎にて行き合ひたり。 係け入りて散々に戦ひてさと破て出でたれば、五十余騎に成にけり。そののち、十騎、二十騎、五十騎、百騎、所々にて行き合ひゆきあひ戦ふほどに、粟津の辺に成にければ、主従五騎にぞ成にける。手塚別当、同じく甥手塚太郎、今井四郎兼平、多胡次郎家包也。 鞆絵は落ちやしぬらむ、打たれしぬらむ、行方を知らずなりにけり。 猶勢多へ行くほどに、手塚太郎は落ちにけり。手塚別当は打たれぬ。 多胡次郎家包は係けいでて、「上野国の住人多胡次郎家包と云者ぞ。よき敵ぞや。家包打ちて勲功の賞に預かれ」と申して、散々に駆けければ、「鎌倉殿の仰せらるる家包ごさむなれ。『!木曽義仲が手に、上野国の住人、多胡次郎家包と云者付きたり。相構へて生取りにせよ』と仰せられたるぞ。誠に多胡次郎家包ならば軍を止どめ給へ。助け奉らむ」と申けるを、「何條さる事の有るべきぞ」と申して、今はかうと戦ひけれども、終には生取られにけり。 【義仲被討事】 今井と主従二騎にぞ成。 !木曽、今井に押並べて「去年北国の軍に向ひて栗柄が城を出でしをりには五万余騎にて有りし物を、今は只二騎になれる事の哀れさよ。まして中有の旅の空思ひ遣られて哀れ也。南無阿みだ佛なむあみだぶつ」と申して勢多のゆかへぞあゆませける。 「さていかに、例ならず!義仲が鎧の重くなるはいかがせむ」 今井涙を流して「仰せの如く誠に哀れに覚ゆる。未だ御身も疲れても見えさせ給わず。御馬も未だ弱り候はず。何故にか今始めて一両の御きせながをば重くは思し召され候ふべき。只御方(みかた)に勢の候わぬ時に憶してばしぞ思し召され候ふらむ。兼平一人をば余の武者千騎と思し召せ。あの松原五町計りにはよもすぎ候はじ。松原へ入らせおわしませ。矢七つ八つ射残して候へば、しばらく防矢仕りて御自害なりとも心閑(しづか)にせさせ進らせて御共仕らむ」とて大津の東の河原粟津の松をさしてぞ馳せける。 大勢未だ追ひつかず。 勢多の方より荒手の者共卅騎計りにて出来たり。 今井申けるは「君は松の中へ入らせ給へ。兼平は此の敵に打向ひて死なば死に死なずば返り参らむ。兼平が行へを御覧じはててに御自害せさせ給へ」とぞ申ける。 !木曽宣ひけるは「都にて打死すべかりつるに、爰(ここ)までゐつるは汝と一所にて死なむと思ひてなり。纔(わづか)に二騎に成りて、所々に臥さむ事こそ口惜しかるべけれ」とて馬の鼻を並べて同じく係らむとし給ひければ、!木曽が馬の轡(くつばみ)に取付きて申けるは「年来日来いかなる高名をしつれども、最後の時に不覚しつれば長き代の疵にて候ふぞ。人の乗替、云う甲斐なき奴原に打落とされて『!木曽殿は某(それがし)が下人に打たれ給ふ』などいわれさせ給わむ事こそ口惜しけれ。只松の中へとくとく入り給へ」と申ければ、理とや思ひ給ひけむ。 彼の松の下と申けるは、道より南へ三町計り入りたる所也。 其れを聞きて後ろ合はせに馳せ行く。 爰に相模国の住人石田小太郎為久と云者追ひかけ奉りて「大将軍とこそ見奉り候へ。まさなしや源氏の名をりに返し給へ」と云ければ、!木曽射残したる矢の一つあるを取てつがれて、をしもちりて、馬の三つしの上より兵どいる。 石田が馬の太腹をのずくなに射たてたりければ、石田ま逆さまに落ちにけり。 !木曽はかうと思ひて馳せ行く。 比(ころ)は正月廿一日の事なれば、粟津の下の横なわての馬の頭もうづもるるほどの深田に薄氷のはりたりけるを馳せ渡りければ、なじかわたまるべき、馬のむながひづくし、太腹まで馳せ入れたり。 馬もよはりてはたらかず、主もつかれて身もひかず。 さりとも今井はつづくらむと思て後ろを見返りたりけるを、相模国住人石田小太郎為久よくひいて兵どいたりければ、!木曽が内甲を矢さきみへてぞ射出だしたりける。 しばしもたまらず、まかうを馬の頭にあててうつぶしに臥したりけるを、石田が郎等二人馬より飛び下り、俗衣(たうさぎ)をかき深田に下りて!木曽が頸をばかきてけり。 今井は歩ませ出でて敵に打ち向かひて「聞きけむ物を今はみよ、!木曽殿には乳母子、信乃国住人!木曽仲三権守兼遠が四男今井四郎中原の兼平、年は三十二、さる者有りとは鎌倉殿も知ろし召したるらむぞ、打ち取りて見参に入れや、人共」とて、をめいて中へぞ係け入りける。 聞こゆる大力の甲の物、強弓精兵なりければ、敵臆憶してさと引てぞのきにける。 さるほどに勢多の方より武者三十騎計り馳せ来たる。 兼平待ちうけて箙に残る八筋の矢にて八騎射落して、其の後太刀を抜てをめいてかくるに面を合はする敵ぞなかりける。 「押し並べてくめや殿原。をしひらいて射取れや人々」と係け廻りけれども、只ひそらひて遠矢には雨のふる様に射けれども鎧よければうらかかず、あきまを射させねば手もをわず。 「!木曽打たれぬ」と聞きて馳せ来たり「吾がきみを打奉る人は誰人ぞや。其の名を聞かばや」とののしりけれども、名乗る者なかりけり。 「軍しても今はなににかせむ」とて「日本第一の甲の者の主の御共に自害する。八ケ国の殿原見習ひ給へ」とて、高き所に打あがり太刀を抜きてきさきを口にくわへて馬より逆さまに落ちてつらぬかれてぞ死ににける。 大刀のきさき二尺計り後ろへぞ出でにける。今井自害して後ぞ粟津の軍は留まりける。
十 樋口次郎兼光は十郎蔵人行家誅すべしとて五百余騎の勢にて河内国へ下りたりけるが、十郎蔵人をば打逃がして、兼光の女共生取りにして京へ上りけるが、淀の大渡の辺にて!木曽殿打たれぬと聞きければ、生取り共皆免して「命惜しと思わむ人々は是よりとくとく落ち給へ」と云ひければ、五百余騎の物共思ひおもひに落ちにけり。残る者僅かに五十騎ばかりぞ有ける。 鳥羽の秋山の程にては二十騎ばかりにな成りにけり。 【庄三郎四郎エピソード】 ここに小(児)玉党に、庄三郎、庄四郎とて兄弟ありけり。 三郎は九郎御曹司に付き奉りたりけり。 四郎は!木曽殿にありけるが、樋口が手に付きて上ると聞えければ、兄の三郎使者をたてて四郎に云ひけるは「誰を誰とか思ひ奉るべき。!木曽殿打たれ給ひぬ。九郎御曹司へ参り給へかし。さるべくは其の様を申し上げ候わむ」と云つかはしたりければ、四郎申けるは「兄弟の習ひ、今に始めぬ事にて候へば、喜び入りて承り候ひぬ。善悪参り候ふべし」とぞ返答したりける。 兄三郎、さればこそと相待ちけれども、見へざりけり。 重ねて使を使わしたりければ、四郎申けるは「誠に両度の御使然るべく候。尤も参るべきにてこそ候へとも思へども、御辺の御為にも面目なき御事なり。弓箭を取る習ひ、二心あるをして今生の恥とす。昨日までは!木曽殿の御恩を蒙りて、二なき命を奉らむと思て、今又打たれ給ひて後、幾程なき命をたばわむとて、本主の御敵、九郎御曹司へ参らむ事、口惜しく候へば、御定然るべく候へども、えこそ参り候まじけれ。この御悦びにはまつ先かけて打死して名を後代にあげ、三郎殿の面目をほどこし奉るべし」と申たりければ、三郎力及ばず。 「さては四郎さる者なれば、詞たがへじとて、まつ先に出で来なむず。人手にはかくまじ。善悪打取りて御曹司の見参に入るべし。弓箭取る者のしるし是」と思てまちかけたり。 案の如く庄四郎打輪の旗指して、まつ先に進みて出で来たり。 これを見て庄三郎「あわや四郎は出で来たるは」とて、とかうの子細に及ばず、押し並べて組むで落ちたり。 しばしはからひけるが、兄弟同じほどの力にて有ける間、互ひにひつ組みて臥したりけるを、三郎は多勢にて有ければ、郎党あまた落合ひて四郎を手取りに取てけり。 判官殿に参らせたりければ「庄三郎神妙に仕りたり。この勤賞には四郎が命を助くる也」と宣ひければ、四郎申けるは「命を賜り候忠には、自今以後軍の候わむには、まつ先かけて君に命を参らすべし」とぞ申たりける。 皆人是を感じけり。 【千野兄弟エピソード】 さるほどに樋口次郎兼光、造路を上りに四塚へむけて歩ませけり。 兼光京へ入ると聞えければ、九郎義経の郎党共我も我もと七条、朱雀、四塚へ馳せ向かひて合戦す。 樋口が甥、信濃武者に千野太郎光弘三十騎ばかりにて先陣にすすむ。 武者に行き向かひて、すすみいでて申けるは「いづれか甲斐の一条殿の御手にて渡らせ給ひ候らむ。かく申は信濃国の住人、諏訪上の宮の千野大夫光家が嫡子、千野太郎光弘と申す者」と云けるを、筑前国住人原の十郎高綱進み出でて申けるは「わ殿、必ず一条殿の御手のかぎりに軍はするか。誰にてもあれ、向かふ敵とこそ軍はすれ。近く寄り合ひ給へ。互ひの手なみ見たり見へたりせむ」とぞ申ける。 千野太郎「左右に及ばず」とて、弓手にすらひて二段ばかり寄り合ひて、十二束よくひいて兵ど射る。 「高綱」と云ふ口を射通して、鉢付の板に射付けたり。馬にもたまらず落ちむとする所を、千野太郎押し並べて、弓手の脇にかひ挟みて、腰刀にて首をかき切りて、太刀のさきにさしつらぬき「敵も御方も此れを見給へ。向かふ者をかふこそ習はせ。敵を嫌ふにあらねども、一条殿の御手を尋ぬる事は、光弘が弟千野七郎が一条殿の御手にある間、彼が見む前にて打死せむと思ふ。その故は、信濃に男子二人もちたるが、幼き者にて候也。成人して『我が父は軍にこそ死にたんなれ。光弘最期の時、よくてや死につらむ、悪しくてや死にけむ』と、おぼつかなく思わむも不憫なれば、子供に確かに語らせむ料に、一条殿の御手をば尋ねらるる也」と申して、太刀のさきにつらぬきたる首をば投げ捨てて、大刀を額にあてて大勢の中に馳入り、散々に戦ひて、究竟の敵十三騎切伏せて、終に自害してこそ死にけれ。 其の弟の千野七郎もかけ出でて、樋口が勢に打向かひて、敵二人に手負はせて打死にしてむげり。 【樋口、児玉党に投降】 さるほどに、千野太郎打たれぬと聞きて、樋口次郎歩ませ出だして申けるは「音にも聞け、今は目にも見給へ、殿原。信乃国住人!木曽の中三権守兼遠が次男、!木曽の左馬守殿の御乳母、樋口次郎兼光。打取りて鎌倉殿の見参に入れ」とて、をめいて駆くる処に、児玉党打輪の旗ささせて、卅騎ばかりにて出できて申けるは、樋口は児玉党の声にて有ければ「や、殿、樋口殿。人の一家ひろき中へいると云は、かかる時のためなり。軍をとどめ給へ。わ殿をば御曹司に申て助けうずるぞ」と云て、樋口を中に取り籠めて、大宮を上りに具して、判官の宿所へ入る。 九郎義経に申ければ「義経がはからひに叶ふまじ。院御所へ申せ」とて、樋口を相具して奏問す。「その期過ぎたれば、大将軍にてもなし、末の奴原を切るにおよばず。九郎冠者に預けよ」とて、義経に預け置かる。
十一 廿二日、新摂政師家を止め奉りて、本の摂政基通返らせ給へり。 僅かに六十日と云ひ留められ給へり。ほどのなさ、見はてぬ夢とぞ覚へたる。 粟田関白道兼のと申すは内大臣通る隆盛の御子、正暦元年四月廿七日関白に成り給ひて、御拝賀の後只七カ日こそおわしまししか。かかるためしもあるぞかし。 これは六十日が間に除目も二カ度行ひ給ひしかば、思ひでおわしまさぬには非ず。一日も摂禄を穢し、万機の政を執行ひ給ひけむこそやさしけれ。
十二 廿六日、伊予守!義仲が首を渡さる。法皇御車を六条東洞院にたてて御覧ぜらる。 九郎義経、六条川原にて検非違使の手へ渡す。これを請け取りて、東洞院の大路を渡して、左の獄門のあふちの木にかく。 首四つあり。伊予守!義仲郎等には、信乃国住人高梨六郎忠直、根井滋野幸親、今井四郎中原兼平なり。 樋口兼光は降人なりしを、渡して禁獄せらる。 これはさせるそのものにても無し、死罪に行はるべきにてはなけれども、法住寺殿へ寄せて合戦しける時、御所の然るべき女房を取り奉りて、衣装をはぎ取り、兼光が宿所に五六日まで籠めおき奉りたりける故に、かの女房かたえの女房たちを語らひて「兼光切らせ給はずは身を桂川淀川に投げ、深山へ入り、御所を罷出でなむ」と口々に申ければ力及ばずとて、同じき廿七日に五条西朱雀にて引出だして、樋口次郎兼光が首を刎ねられぬ。 かの兼光は降人なるに依て、昨日大路を渡して禁獄せらる。されども!義仲が四天王のその一なり、死罪を宥められば、虎を養ふ愁あるべしとて、殊に沙汰ありて切られにけり。 伝聞く、寅狼の国衰へて諸将蜂の如く競ひ起こりしに、沛公先づ感陽宮に入ると云へども、項羽が後ろにきたらむことを恐れて、金銀珠玉をも掠めず、履物、馬、美人をも犯す事なかりき。只徒に凾谷の関を守りて項羽が命に従ひき。而して後、謀を翠帳の中に廻らして、勝つ事を千里の外に決す。漸々に敵の軍を滅ぼして、終に天下を保つ事を得たり。 !義仲も先づ都へ入ると云へどもそれを慎しみて、頼朝が下知を待たましかば、沛公が謀には劣らざらまし物をと哀れなり。 !義仲は悪事を好んで天命に従わず。あまつさえ法皇を抑え奉り叛逆に及んだ。積悪あまりありその身に積もり、首は京都にもたらされた。前業のつたなき事をはかられて無惨なり。 いかなる者がやったのか札に書いて立てられた。 宇治川を 水つけにしてかきわたる!木曽の御れうは九郎判官 田畠の つくりものみなかりくひて !木曽の御れうはたへはてにけり 名にたかき !木曽の御れうはこぼれにき !よしなかなかに犬にくれなむ !木曽が世にあった時には「!木曽の御料」などと呼んでいたが、草木もなびいてこそ、いつしか天下の口ずさみにまで及んだ。はかなき世のならいとは云いながら、今は咎めるべき人もない。 日頃振舞ひしふぜんふたう、自業自得はその理なれば、とかく申すに及ばず。
廿二 こんな場合でも鎌倉より使いが鏡宿に馳せ来て北条に申すには「十郎蔵人行家、信太三郎先生義範、河内国に隠れ籠りたる由、その聞へあり。道より馳帰りて、急ぎうちて奉るべし」とあったが「我が身は大事の召人を具してこれまで下りたるに、かへり上るべきにあらず」とて、北条の甥で北条の平六時貞という、都の守護に置いていた者が見送りに宿まで来ていたので、彼等の討伐の由申し付ける。 平六は京へ馳帰り、郎党おほげんじむねやすと云者を召して「いかがはすべき。かの人々の在所を知たらばこそ搦めもせめ」と云ければ、むねやすは「十郎蔵人の在所知たり」と云う寺法師を探し出した。すぐにその僧を召してたづねけるに「我はしらず。かのひとしりたり」と云ければ「さらばかの僧の有らむ所へ引導せよ」とて、件の僧を先にたてて、寄せて搦めんとするに、かの僧申しけるは「なにゆゑに搦めらるべきぞ。十郎蔵人が在所知りたむ也。さらば、をしへよとこそいはめ、搦めらるべきやうやある」と云ければ「しるほどなれば、どういしたるらむとて搦むるなり。いづくへゆくべきぞ」「天王寺なる処にこそあらめ。人をさしそへよ。下りてをしへん」と云ければ、兵共をさしそへて下しけり。 信濃国の住人笠原の十郎国久、同国の住人桑原次郎、井上九郎、常陸国の住人いはしたの太郎、同次郎、しもづまの六郎、伊賀国の住人服部平六らをはじめとして、都合卅余騎を差し向ける。 十郎蔵人は、窪津の学頭金春といふ怜人の元と、秦六・秦七というこれら三人の元に通っているというので、二手にわけて押寄せてみると、この事が漏れたのか既に落ちていた。金春には娘が二人あり、二人とも行家の想いものになっていた。これらを捕らえて問うが「われもしらず」「われもしらず」と云う。 「げにも世をおそれておつる程の者が、在所を女に知らする事はあらじ」と、二人の女を召取て京へのぼる。又あるもの京へのぼる。北条の平六にあひて「それがしがもとにこそこの四五日あやしばみたる人はしのびてたちやどりて候へ。いちぢやう十郎蔵人殿にて渡らせ給ふと覚え候」と申ければ、平六よろこびて「いかなる人ぞ」と問ければ、「和泉国八木郷の住人、八木のがうしと申者也」と云ければ「折節人はなし。いかがせんずる」と思て、又おほげんじむねやすをよびて「いかにや、おのれがみやだてたりしさんぞうはあるか。めして参れ」とて、宗安をつかはす。 是はさいたふの法師に常陸房昌命と云者也。昌命やがてきたりければ、平六いであひて「十郎蔵人のおはする所をけさ人のつげたるぞ。ごばうくだりてうちたまひて、鎌倉殿の見参にいれ給へ」とて、家の子郎等をさしそへて天王寺へ下して、人もなかりければ、やがておほげんじをはじめとして、中間雑色ともなく廿余人つきたりければ、具してくだる。天王寺よりかへりのぼる勢は河内路を上る。 昌命は江口のかたを下りければ、道にはゆきあはざりけり。行家は天王寺をにげいでて、熊野のかたへおちけるが、徒歩にては有けり、一人具したるさぶらひは足をやみてのびやらざりければ、かの八木のがうしが元にたちいりたりけるを、家主の男つげたりけるなり。 昌命鞭をあげてかのところへはせよりて、人を入れてみするに、かの家にもなかりければ、こめろうをうちやぶり、いたじきをはなちて天井をこぼちてさがしけれども、みえざりければ、昌命力及ばず、おほちへたちいでてみれば、ひやくしやうの女と覚しきげすをんなの通りけるを捕へて「これにこのほどあやしばみたる旅人のあむなるは、いづくの家にあるぞ。申さずはしや首をうちきりてすてむずるぞ」とて、太刀の柄に手をかけければ、 女おそろしさのあまりに、さがし給つる家のとなりにおほきなる家の有けるをさして「あれにこそ主従のもの、いかなる人やらん、しのびて侍ふとはききさぶらへ」と云ければ、昌命やがておしよせてうちいりて見れば、四十ばかりなるぞくの、かちんの直垂に小袴きて、紅梅のだんじにてくちつつみたる唐瓶子とりまかなひ、銚子ひさげとりをきて、さかなくだものなむど取ちらして、既におこなわむとする所に、昌命がうちいるをみるままに、かの男うしろのかたへ北をさして逃ければ、昌命「あますまじきぞ」とて、太刀を抜ておひてかかる。 十郎蔵人は内にゐたりけるが、是を見て「あの僧、やれ、それはあらぬ者ぞ。行家をたづぬるか。行家はここにあるぞ。返れ返れ」といわれければ、昌命声につきてはせかへる。 昌命はたちうちつけたる黒革縅の腹巻に、さうのこてさして、さんまい甲きて、三尺五寸ある太刀をぞ佩きたりける。 行家は白き直垂小袴に、打烏帽子にえぼしあげして、右の手に大刀を抜き、左手に黄金作りの大刀の鍔もなきを抜て、額にあてて、塗籠の前にて待ちかけたり。かの太刀のつばは熊野権現へじゆぎやうにけんぜられたりけるとかや。 昌命馬よりとびおりて、「あのたちなげられ候へや」と云ければ、行家おほきにあざわらう声、家の内ひびきわたる。わらはべのかめの中にかしらをさしいれてわらふに似たり。 昌命すこしもはばからずよせあはせたり。昌明三尺五寸の太刀にて、諸手うちに打ければ、行家は三尺一寸の大刀をもつて、右の手にてちやうとあはせて、左の手にては黄金作りの大刀をとりのべて、物具のあきまをささむとすれば、昌明さされじとをどりのく。 昌命又つとよせておほだちにてきれば、行家ははたとあはせて、又左手にてささむとすれば、をどりのく。 昌明しばしささへけれども、しらまずうちあはすれば、行家こらへず、塗籠の内へしりへさまににげいりければ、昌命もつづきて入る所を、こだちにて左のももをぬいさまにぞつきたりける。 昌命さされて「きたなくもひかせたまふものかな。いでさせ給へ。勝負つかまつらむ」と申せば「さらばわ僧そこをいでよ」と云ければ、昌命「承りぬ」とて、大刀を額にあてて後ろ様へつとをどりのけば、行家つづきていでてちやうと切れば、昌命又むずとあはせける程に、いかがしたりけむ、太刀とたちときりくみたり。 昌命大刀をすてて「えたり、をう」と組たりければ、いづれもおとらぬしたたか人にて、上になり、下になり、つかみあへども、勝負なかりけるに、北条の平六がつけたりけるおほげんじむねやす、おほきなる石を取て、十郎蔵人の額をつよく打て、うちわりてければ、蔵人あけになりて「おのれは下郎なれ。あらさつなの振舞かな。弓矢とるものは太刀、刀にてこそ勝負はすれ。どこなる者のつぶてを以てかたきをうつやうやはある」と云ければ、昌命「ふかくなるものどもかな。足をゆへかし」と云ければ、 むねやすよりて昌命が足をこして、行家の足をゆいたりければ、蔵人少もはたらかず。 さてひきおこしたりければ、蔵人息を静めて「そもそもわ僧は山僧か、寺法師か。又鎌倉よりの使か、平六が使か」「鎌倉殿の御使、西塔の北谷法師、常陸坊昌命と申者也」と云ければ「さてはわ僧は行家に使はれむといひし者か」「さんざうらふ」「手なみはいかがおもふ」といわれけれ、昌明「さんじやうにておほくの悪僧共とうちあひて候つれども、走りむかひには、殿のおんたちうつほどにはしたなき敵にあひ候わず。就中左の御手にてささせたまひつるが、あまりにいぶせく、こらへがたくこそ候つれ。さて昌命がてあてをばいかがおぼしめしつる」と申ければ「それはつつむかへに取られなむ上は、とかくいふに及ばず」とぞ云われける。 「太刀みむ」とて、二人の大刀を取よせて見ければ、四十二箇所きれたり。 昌命「さていちぢやう殿は鎌倉殿をばうちたてまつらむとおぼしめされて候しか」と云ければ「是程になりなん上は、おもひたりしとも、おもはざりしとも、しかしながらもせんなし。早く首を切て兵衛佐に見せよ」と宣ひければ、 昌命さすがあはれに覚えて、干飯をあらわせてすすめると、水を飲もうと引よせられたが、額の傷より血がさつとこぼれかかったので、捨ててしまった。 昌命是を取てくひて、こよひは江口の長者がもとにとどまりぬ。 よもすがら京へ使をはしらかしたりければ、あくる日の午刻ばかりに、北条平六五十騎ばかりにて、旗差させて赤井河原に行きあひぬ。 「都の内へはいるべからず」と云院宣にて有ければ、ここにて首を刎ねてけり。首をそんぜじとて、なづきをいだして、頭の中に塩をこみてぞもたせける。 この人の兄信太三郎先生義範は、醍醐の山に籠りたる由聞へければ、服部の平六案内者にて山をふませけるに、やまづたひに伊賀国へぞ移りける。既にかたき近づきければ、次第に物具脱ぎ捨てて太刀をも捨てて、ある谷の奥に行て、あはせの小袖に大口ばかりにて、腹かひ切て伏しにけり。すなはち平六首をとりてけり。 昌命、十郎蔵人の首をもたせて鎌倉へ下りたりければ「神妙なり」と感じ給ければ「いかなる勧賞にかあづからむずらむ」と人々申けるに、勧賞にはあづからずして、下総国葛西と云所へ流された。。 しよにん「こはいかなる事ぞや」とおどろき申しけれども、その心をしらず。 二年と申に「行家うちたりし僧は下総の国へ流し遣はされにき。いまだあるか。召せ」と呼び戻し、鎌倉殿の宣うには「いかにわ僧、わびしとおもひつらむな。下郎の身にてたいしやうたる者をうちつるは、冥加のなき時に、わ僧の冥加の為にながしつかはしたりつる也」と、勧賞には摂津国はむろの庄、但馬国におほたの庄、二か所を与えた。これ昌命が面目にあらず。 二月七日、右大臣殿つきのわどのせつろくせさせ給べきよし、源二位とりまうさるときこえし程に、内覧の宣旨の下りたりしを、「しやうたいのころをひ、北野の天神、ほんゐんの大臣あひならびて内覧の事ありしほか、えうしゆの御時ならびて内覧の例なし」と、右のおどどおほせられければ、つぎのとしの三月十三日、せつろくのぜうしよくだりき。さきの日、院より右少弁さだながを御使にて、右大臣殿せつろくの事、頼朝の卿なほとり申す由、こんゑのゐんふげんじ殿へ申させ給たりければ、たちまちにかどさしにけり。ごぶんの丹波の国じしまうさせたまひつつこもらせおはしましてけり。右大臣殿えらばれましましき。こんゑどのはしばしなれども、平家の為にむすぼをれておはしまししかば、りじおもかりければ「力及ばず」とおほせられけるとぞ。右の大臣はかうさびて九条におはしましけるが、保元平治よりこのかた、世の乱れ打つづきて、人のそんずる事ひまなきを、朝夕歎きおぼし召しけるいんしんむなしからず、やうほうたちまちにあらはれにけるやらむ、かかる御悦びありけり。かひがひしく乱れたる世ををさめ、すたれたる事ををこし給けり。 二月十日、左府経宗の使者、筑後介かねよし、関東より帰洛す。これは義経が申したまはるくわんぷの事に、しんかくをのがるといへども、なほふゐせられて、しやしつかはされたりければ、謀叛の輩におほせて、頼朝を誅せらるべき由風聞の間、きようきようしたまふところに、いまふしんをさんずる由返答せられける間、左府安堵の思ひをなされけり。 [モクジ]