今回は木曽殿に関係する章段だけを抜き出して、カンタンにその内容をメモってみました。とりあえず最もメジャーな「覚一本」(ベースは「平家物語」講談社学術文庫)のよりぬきです。 この段さえ読めばアナタも明日から義仲通! 逆に『平家物語』の超有名場面でも、義仲に関係なければ容赦なくとばしていきますので、ご注意。 タイトル横の★は重要度、★=情報アリ、★★=重要、★★★=最重要!
●巻第四 ----------【源氏揃】 ゲンジゾロエ ★ ●巻第六 ----------【廻文】 メグラシブミ ★★★ ----------【嗄声】 シワガレゴエ ----------【横田河原合戦】 ヨコタガワラノカッセン ★★ ●巻第七 ----------【清水冠者】 シミズノカンジャ ★★★ ----------【北国下向】 ホクコクゲコウ ★ ----------【火打合戦】 ヒウチガッセン ★★★ ----------【願書】 ガンジョ ★★★ ----------【倶梨迦羅落】 クリカラオトシ ★★★ ----------【篠原合戦】 シノハラガッセン ★★ ----------【実盛】 サネモリ ★★★ ----------【木曽山門牒状】 キソサンモンチョウジョウ ★★★ ----------【返牒】 ヘンチョウ ★★ ----------【平家山門連署】 ヘイケサンモンヘノレンジョ ----------【主上都落】 シュジョウノミヤコオチ ★ ----------【福原落】 フクハラオチ ●巻第八 ----------【山門御幸】 サンモンゴコウ ★★ ----------【名虎】 ナトラ ★★ ----------【征夷将軍院宣】 セイイショウグンノインゼン ----------【猫間】 ネコマ ★★★ ----------【水島合戦】 ミズシマガッセン ★★★ ----------【瀬尾最期】 セノヲサイゴ ★★★ ----------【室山】 ムロヤマ ★★ ----------【鼓判官】 ツヅミホウグワン ★★★ ----------【法住寺合戦】 ホウジュウジガッセン ★★★ ●巻第九 ----------【生けずきの沙汰】 イケズキノサタ ★★ ----------【宇治川先陣】 ウヂガワノセンヂン ★ ----------【河原合戦】 カワラガッセン ★★★ ----------【木曽最期】 キソノサイゴ ★★★★★ ----------【樋口被討罰】 ヒグチノキラレ ★★ ●巻第五
源頼政が以仁王(高倉宮)に「令旨をくだされたら喜んでこんなに沢山の源氏が馳せ参じますぞ」と武者の名前をいちいち申し上げる台詞の中に「故帯刀先生義賢が次男木曽冠者義仲」の名が見える。 「先づ京都には出羽前司光信が子ども伊賀守光基、出羽判官光長、出羽蔵人光重、出羽冠者光能、 熊野には故六条の判官為義が末子十郎義盛とて隠れて候。 摂津には多田蔵人行綱こそ候へども、これは新大納言成親の卿の謀叛の時、同心しながら返忠したる不当人にて候へば、申すに及ばず。さりながらその弟、多田の次郎朝実、手島冠者高頼、太田太郎頼基。 河内国には、石川郡を知行しける武蔵権守入道義基、子息石河判官代義兼(よしかぬ)。 大和国には、宇野七郎親治が子ども太郎有治、次郎清治、三郎成治、四郎義治。 近江国には、山本、柏木、錦織(にしごり)。 美濃尾張には、山田次郎重広、河辺(こうべ)太郎重直、泉太郎重光、浦野四郎重遠、安食(あじき)次郎重頼、その子の太郎重資、木太三郎重長、開田(かいでん)判官代重国、矢島先生重高、その子の太郎重行。 甲斐国には、逸見(へんみ)冠者義清、その子の太郎清光、武田太郎信義、加々美次郎遠光、同じき小次郎長清、一条次郎忠頼、板垣三郎兼信、逸見兵衛有義、武田五郎信光、安田三郎義定。 信濃国には、大内太郎維義、岡田冠者親義、平賀冠者盛義、その子の四郎義信、故帯刀先生義賢が次男木曽冠者義仲。 伊豆国には、流人前右兵衛佐頼朝。 常陸国には、信太三郎先生義教、佐竹冠者正義、その子の太郎忠義、三郎義宗、四郎高義、五郎義季。 陸奥国には、故左馬守義朝が末子九郎冠者義経、 これ皆六孫王の御苗裔、多田新発意満仲が後胤なり。(以下略)」 また、宮が決心された時に新宮十郎義盛を召し出して蔵人にし、ここで「行家」と改名、令旨の届け先に「木曽冠者義仲は、甥なれば賜ばん」と中山道で木曽に赴く。
●巻第六
【木曽】 木曽は、信濃のなかでも南端にあり美濃との境にあるので都にも近い。 【城兄弟】 平家の人々は騒ぐが平清盛は「その木曽という者など気にする事はない。越後国には余五将軍(平維茂)の子孫である城太郎助長・同四郎助茂がいる。これに命令すればすぐ討ち取るだろう」と言う。 2月1日、城太郎助長が越後守に任ぜられる。(木曽追討策) 2月7日、大臣以下各家々で書写供養が行われる。(兵乱鎮定祈願) 【謀反の報せ】 2月9日、河内国石河郡居住、武蔵権守入道義基とその子石河判官代義兼が平氏に背き、源頼朝に同心。 平清盛は源太夫判官季貞、摂津判官盛澄の3千騎を討手を差し向ける。 城内は100騎ほどで入道義基は討死、石河判官代義兼は生捕り。 【飛脚】 2月11日、鎮西(九州)から飛脚到来、九州は緒方三郎をはじめ臼杵(うすき)・戸次(へつぎ)・松浦党(まつらとう)にいたるまで平家に背いて同心の報せ。 2月16日、伊予国から飛脚到来、去年の冬あたりから河野四郎通清はじめ四国は平家に背いていた。これを備後国住人額入道西寂が伊予国に攻めて河野通清を討ち取るも、後に備後国に踏み込んだ河野の子息四郎通信に逆に討ち取られた。
【謀反続き】 四国は河野四郎に従いつき、熊野別当湛増も源氏に同心したとウワサがあった。 【清盛急病】 2月23日、公卿会議。平宗盛を大将軍として東国・北国の賊を追討すべしと法皇より仰せ下される。 2月27日、宗盛出発予定だったが清盛急病のため中止。 2月28日、清盛公重病の報が伝わる。 閏2月4日、平清盛死去。 閏2月7日、火葬。 *【築島】【慈心房】は清盛エピソードなので割愛。
メインは平清盛は白河院の皇子であったかもしれないというエピソード。 【動向】 閏2月22日、後白河法皇、法住寺殿に御幸。 3月1日、奈良の僧綱らを本官に復す。 3月3日、大仏殿の再建が始まる。 3月10日、早馬到来、東国源氏は尾張国まで攻めのぼり、道路封鎖しているとの報せ。 平知盛、清経、有盛を大将軍として3万騎で討手を出す。 対する源氏は源行家。義円を大将軍として6千騎で尾張川をへだてて陣を取る。 【州俣合戦】 3月16日、夜半、源氏軍が川を渡って攻める 3月17日、夜明け(午前4時頃)から矢合わせ、世が明け切るまで戦うも、源氏軍は川を渡った事により馬や馬具などがぬれているのが目印となってしまい攻めたてられる。 源行家は助かり、三河国へ退いて矢作川の橋板を外すが平家来襲、ここも攻め落とされる。 義円は深入りして討死。 平家はこの勢いに乗じて三河・遠江の制圧もできたはずだが、大将軍平知盛病気のため、帰京してしまう。
城助長が木曽追討にのりだす。 【動向】 6月15日、城助長3万騎で門出→夜半に大風・大雨・雷と天候が急変→にわかに空が晴れて?大きなしわがれ声が雲間から「東大寺の大仏を焼いた平家に味方するものがいるぞ、召し捕れ〜」と3声叫んで通過。 6月16日、午前4時、城を出て10町ほど進むと一群の黒雲が城助長の上を覆ったかと思うと城助長は落馬、6時間後死亡。 7月14日、年号が改められ「養和」に。大赦:治承3年に流された者らが都に戻される。 按察(あぜち)大納言資賢は信濃国から帰京、「信濃にありし木曽路川」と今様をうたい替え喝采される。
(前略) 養和2年2月21日、太白昴星を犯す(天文学) 3月10日、除目。平家方々順調に昇進。 4月15日、後白河法皇、日吉神社に御幸、山門衆徒を集めて平家追討するとの噂が立ち、平家は内裏を包囲、平重衡が3千騎で法皇をお迎えし御還幸させる。 5月24日、年号が改められ「寿永」に。城助茂を越後守に任ず。助茂を長茂に改名。 【横田河原合戦】 9月2日、城長茂、木曽追討のため、越後・出羽・会津四郡の兵を率いて4万騎で信濃国へ出発。 9月9日、城軍、横田河原に陣取る。 木曽軍は依田城を出て3千騎で向かう。 信濃源氏の井上九郎光盛の計略で赤旗7流れ作り、3千騎を7手に分けて赤旗を手に差し上げて押し寄せ、敵陣に近づくと、一つに合わさって白旗をおもむろに揚げ、城軍を川へ崖へと追い落とす。 城長茂が頼みにしていた越後の太郎、会津の乗丹坊という勇士が討死。長茂も負傷し、川沿いに越後国に撤退。 9月16日、平宗盛、大納言に再任。 10月3日、平宗盛、内大臣に。 寿永2年2月22日、平宗盛、従一位に叙され、同日内大臣を辞する。 ●巻第七
【鎌倉と木曽の不和】 寿永2年3月上旬、源頼朝と義仲は対立、不和に。頼朝は木曽追討の為10万騎で信濃国に向かって出発。 義仲は依田城を出て信濃と越後の国境にある熊坂山に布陣。頼朝は善光寺に到着。 義仲は今井兼平を使者に立て、敵意のない事を申し送る。頼朝は信用しないと返事、土肥・梶原を先鋒に攻め込むという情報をうけて、義仲は嫡子清水冠者義重(11歳)を頼朝の元に送る。(海野・望月・諏訪・藤沢という勇士を義重につけた) 【鎌倉退却】 頼朝は義重をともなって鎌倉に帰る。
【平家の動向】 都では義仲が東山道・北陸道を攻略して5万騎で都にのぼるという風聞があり、(平家は去年から”馬の草がい”の頃に戦ありと告げておいたので)山陽・山陰・南海・西海の武士、東山道は近江・美濃・飛騨の武士、東海道は遠江より西の武士が集まり、北陸道は若狭より北の武士は集まらなかった。 【北国下向】 平家はまず義仲追討後、頼朝追討する計画で北陸道へ討手を派遣。 寿永2年4月17日、午前7時半 大将軍:平維盛、通盛、経正、忠度、知度、清房 侍大将:越中前司盛俊、上総太夫判官忠綱、飛騨太夫判官景高、高橋判官長綱、河内判官秀国、武蔵三郎左衛門有国、越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清、主だった侍340余人。 総勢10万騎の軍勢で北国へ出発した。 平家=官軍は途上の国々で”片道の軽費”を徴発することが許されていたので搾取。 次の【竹生島詣】はミュージシャン経正エピソードなので割愛。
【木曽軍動向】 義仲、信濃国から指示して越中国に火打ヶ城を築かせる。 城郭に篭る勢は平泉寺長吏斎明、稲津新介、斉藤太、林光明、富樫入道仏誓、土田、武部、宮崎、石黒、入善、佐美はじめ6千騎。 火打ヶ城は天然の要害でもあり、四方を高い峰に囲まれ、前後には山、城前には能美川と新道川が流れ、これを逆茂木を組み柵を高く積み上げて塞き止め敵の侵入をはばんだので、平家軍は対岸の山に野宿し、むなしく日を重ねた。 【斎明の裏切り】 斎明は平家に心を寄せており、こっそりと山の麓をまわって蟇目矢に手紙を入れて平家の陣に射込む。 平家軍は手紙どおりに水を塞き止めている柵を切り落とし、水を抜いていっせいに渡って攻め込んだ。 火打ヶ城内の兵は多勢に無勢、落ち延びた者は加賀国まで退却し、白山河内に引きこもる。 平家軍はすぐに加賀国へ攻め込み、林・富樫の城郭をも焼き払った。 【平家、体制を整える】 5月8日、加賀国篠原で平家軍が勢揃い。10万騎を2手に分ける。 大手:大将軍=平維盛、通盛、侍大将=越中前司盛俊 7万騎で砺波山へ 搦手:大将軍=平忠度、知度、侍大将=武蔵三郎左衛門 3万騎で志保山へ 【木曽軍布陣】 義仲は越後国国府(こう)にいたが、5万騎で平家迎撃に向かい、軍勢を7手に分ける。 源行家 :1万騎 志保方面へ 仁科・高梨・山田次郎:7千騎 北黒坂へ(搦手) 樋口兼光・落合兼行:7千騎 南黒坂へ ? :1万騎 砺波山の入り口・松長の柳原 ぐみの木林に伏兵 今井兼平:6千騎 日宮林に伏兵 義仲本隊:1万騎 砺波山北端の羽丹生に布陣
【義仲の作戦】 義仲の言うには「平家は大軍だから必ず砺波山を越えて広い所に出て正面切った戦いをしてくるだろう。だが正面同士では軍勢の数量で決するものだ。大軍に攻めて来られてはこちらが不利。まず旗持ちを先頭に出して白旗を差し上げれば、平家はこれを見て『そら源氏の先陣が歯向かって来た、定石どおり大軍だろう。地の利に明るくない平家が広い場所に出て囲まれては適わん。この山は四方が険しい岩だらけだから裏手には回れまい。ちょっと馬を休めよう』と山中に留まるだろう。その時義仲はしばらくテキトーに相手をして日没を待ち、平家の大軍を倶梨迦羅が谷へ追い落とそうと思う。」 【作戦実行/平家動向】 白旗30流を黒坂の上に立てると、案の定平家は大軍だと思いこみ、砺波山の山中の”猿が馬場”という場所で馬を下りて休息を取った。 【願書】 義仲は羽丹生に陣をとり、四方を見渡すと神社を発見。土地の者を呼び出して神社の事を聞くとそれが八幡神社であり、この土地も八幡宮の御領地であると分かる。八幡は源氏の守り神、義仲はこれを喜んで、書記・太夫房覚明を呼び「後代のため、当面の祈祷のため願書を奉納したいがどうか」と言い、覚明は義仲の前で威儀を正して願書を書く。 【覚明のエピソード】 もとは儒学者の家の出で蔵人道広といい勧学院に出仕、出家しては最乗房信求と名乗って奈良興福寺に出入りしていた。 【願書文章】 割愛。 【吉兆】 願書に添えて義仲はじめ13人が上差しの鏑矢を奉納、その時雲の中から山鳩が3羽飛んで来て白旗の上を旋回した。 巻第七
【戦の流れ】 木曽軍と平家軍(官軍)は向かい合い、3町(約109m)の近さで対峙。 ↓ 矢合わせ(勝負は抑制させる) ↓ 日が暮れる ↓ 北と南の搦手の木曽軍1万、倶梨伽羅の堂(現:手向神社)のあたりで合流 箙の方立をたたいて閧の声あげ、白旗を上げる。平家は目論見どおり狼狽。 ↓ 義仲、大手から搦手に合わせて閧の声をあげる。 松長の柳原・ぐみの木林の1万、日宮林の今井6千騎も同時に閧の声をあげる。 ↓ 平家は総崩れとなり、倶梨伽羅が谷へと馬を乗り下ろして行く。 谷は平家7万騎で埋まり、渓流は血に染まり死骸は丘をなした。 【戦果】 ●平家主力武将死者 上総大夫判官忠綱 飛騨太夫判官景高 河内判官秀国 ●平家捕虜 備中国住人瀬尾太郎兼康(評判の高い勇士)←倉光成澄により捕虜 平泉寺長吏斎明威儀師→斬殺 ●平家生存者 大将平通盛→加賀へ退却、7万騎のうち2千騎のみが逃れえた。 【志保の戦】 5月12日、陸奥国の藤原秀衡のもとから義仲へ馬2匹献上(黒月毛・連戦葦毛、白山社に神馬として奉納) ↓ 志保の戦(行家隊)を案じ、義仲は4万騎中2万騎で志保へ向かう。 ↓ 途中、氷見湊が満潮→馬10頭を追い入れて浅い事が分かり、無事に対岸に着く。 ↓ 案の定、行家は打ち破られて休息中 ↓ 平家軍3万騎の中に義仲の新手2万騎を入れ替えて攻め落とす。 ●平家死者 大将軍;三河守知度 ↓ 義仲、志保山を越えて能登の小田中、親王の塚の前に布陣する。 巻第七
【神領寄進】 白山社→横江、宮丸 菅生社→能美の庄 多田八幡→蝶屋の庄 気比社→飯原の庄 平泉寺→藤島七郷 【石橋山合戦のエピソード(斉藤実盛)】 とりあえず割愛。 【篠原合戦】 平家軍、加賀国篠原に布陣。 5月21日、朝8時頃木曽軍は篠原に攻め入る。 平家軍では畠山重能・小山田有重兄弟が戦の指揮を取るため、京から派遣されてきていた。 この兄弟300騎で進んで来たのを、今井300騎で迎え撃ち、大混戦となる。 ↓ 正午頃?どちらも多くの兵を討死させ、畠山後退。 平家軍から高橋長綱500騎 × 木曽軍から樋口・落合300騎 しばらく高橋の軍は防戦するが、寄せ集めの兵のため逃走してしまい、高橋はやむを得ず退却。 ↓ 高橋がただ一騎で逃走中 ↓ 入善行重が目をつけて首を狙うが逆に捕まる ↓ 休息中、高橋のスキをついて入善は兜の内を2刀刺す。遅ればせに入善の郎党3騎が駆けつけて高橋を討つ。 平家軍から侍大将・武蔵三郎左衛門有国300騎 × 木曽軍から仁科・高梨・山田次郎500騎 有国軍の方が多く兵を失う。有国も敵陣深く攻め入り、立ち往生(立ち死に)。 大将死亡に伴い有国軍逃散。 巻第七
【斉藤実盛×手塚光盛】 篠原合戦で平家軍はみな逃走したが、斉藤実盛はただ1騎引き返して防戦する。 (考えがあって、大将にしか許されない錦の直垂を特別に許されて着用) ↓ 木曽軍(親軍)から手塚光盛がこれに目をつける ↓ 手塚の郎党が斉藤に組み付くが逆に首をかき切られる ↓ 手塚は左手に回り、斉藤の草摺を引き上げ2刀刺す ↓ 手塚は斉藤に組み付き馬から落とし、組みしき、手塚の郎党に斉藤の首を取らせ、義仲のもとに馬を走らせた。 【首実検】 錦の直垂を着て名を名乗らない奇怪な者を討ち取った、という報告。 義仲は斎藤実盛だろうと見当をつけるが首は黒髪、斉藤は70歳を越えて白髪であるはずが合点がいかないので斉藤を見知る樋口を呼ぶ。 樋口は一目みて斉藤だと言う。斉藤は生前、60歳を越えて戦場に向かう時には髪・髭を黒く染めて侮られないようにしたいと。 義仲が首を洗わせると、はたして白髪になった。 【錦の直垂エピソード】 斉藤実盛は最後のいとまごいに、平宗盛に「故郷に錦を来て帰りたい」(中国の故事)と許しを乞い、許された。 【時間確認】 去る4月17日、平家軍10万騎で京を出発→5月下旬、帰京時にはわずか2万騎に。 巻第七
【都の状況】 上総守忠清、飛騨守景家は入道逝去の折に出家していたが、北国で子がみな死んだと聞いて嘆き死にした。(史実ではない) (北国=倶利伽羅落とし/戦死した子等=上総大夫判官忠綱・飛騨太夫判官景高) これをはじめとして都ではどの家も門を閉ざし嘆くことおびただしかった。 #この嘆きと恨みの余波が後の樋口の運命にもひびいたか…
6月1日、戦乱が静まったあかつきには伊勢大神宮に行幸ある旨の勅命がある。
【玄肪エピソード】 「玄肪」とは聖武天皇の御代の僧侶。反逆者・藤原広嗣(ひろつぎ)の悪霊を調伏した際に雷に打たれ首を持っていかれた伝説があり、その玄肪にまつわるエピソード。 巻第七
【評定】 木曽軍、越前の国府(こう)で家子郎等(いえのころうどう)を集めて評定を行う。 ☆屋代本には評定メンバーが具体的に出ている 井上ノ九郎、高梨冠者、山田次郎、仁科二郎、長瀬判官、県妻(あがつま)判官、樋口次郎、今井四郎、楯六郎、禰井小野太、以下数百人 義仲: そもそも義仲、近江国から都に入ろうと思うが、例の山僧(さんぞう)どもが邪魔するかもしれん。ヤツラを駆け破って通るのは簡単だが、平家が今、仏法をものともせず寺を滅ぼすわ、僧侶は殺すわの悪行三昧だ。その平家から守ろうと上洛せんとする者が、平家とツルんでるからといって山門の大衆に向かって戦を仕掛けるのは、マッタク平家の二の舞になるに違いない。簡単そうだけど難しい問題だ、どうしたらいい? 覚明: 山門衆徒は3千人。かならずしも一心同体(一味同心)ってわけにはいきません。源氏につくという者、平氏につくという者、いろいろいるでしょうね。牒状を送ってご覧になっては?事情は返牒にて見えるでしょう。 義仲:そりゃもっともだな。じゃ、書け! 【牒状】 山門といえば比叡山、叡山といえば延暦寺。 6月10日 木曽軍、牒状を送る (書状の日付寿永2年6月10日、「恵光房律師」宛) ↓ 次の【返牒】に続く 巻第七
【返牒】 6月16日、木曽の牒状が到着 ↓ 山門の大衆で詮議 「なんで運の尽きた平家に味方し、運の開けてきた源氏に背こうか」 ↓ 7月2日、返牒をしたためる(源氏加勢の約定) ↓ 7月8日頃?(逆算して) 義仲、家子郎等を集めて覚明に返牒を開かせる 巻第七
【平家山門連署】 7月5日、平家、平家一門(10名)の連署で牒状を送る(木曽の動きは知らない) ↓ 天台座主は平家に同情し、3日間祈祷してからこれを開ける。 が、源氏に味方するという決議をあらためることはできない、とした。 巻第七
【肥後守貞能の動向】 7月14日、肥後守貞能、九州の謀反を平定し菊池・原田・松浦党以下3千騎で上洛。 【報せ】 7月22日夜半、美濃源氏・佐渡衛門尉重貞が六波羅に報告に駆けつける。 「木曽5万騎で北国から攻め上り、比叡山の東坂本はその軍勢で満ちている。郎等の楯六郎親忠、書記・大夫房覚明が6千騎で比叡山に登り、衆徒3千はこれに味方し都に攻め入ろうとしている。」 ↓ 平家、討手を差し向ける 大将軍:知盛・重衡 総勢3千騎で出発→山科に宿泊 通盛・教経 2千騎で宇治橋を警固 行盛・忠度 1千騎で淀路を守護 【伝聞】 源行家、数千騎で宇治橋から攻め入るとの伝聞 陸奥新判官義康の子、矢田判官代義清が大江山を経て都入りするとの噂 摂津・河内の源氏勢が同時に都へ乱入するとの情報 (矢田=丹波国矢田。上西門院・八条院の荘園、そこの判官代。) ↓ これを受けて、平家は討手を都に呼び戻して一カ所に集まり、決戦に挑むことに変更する。 7月24日夜更け、宗盛、建礼門院を訪問(六波羅殿) 後白河法皇は行方不明に。(法住寺殿を抜け出し極秘に鞍馬へ御幸される) 7月25日早朝6時頃、主上、建礼門院をはじめ供の者が武装し七条大路を西に向かい、朱雀大路を南へと行幸。 摂政藤原基通、行幸に不安を感じて車を返し、北山の知足院に入り離脱。 巻第七
【平維盛】 平維盛、家族との別れ。 京へ残していく子・六代御前のために斉藤五、六(斎藤実盛の子)という武士を置いていく。 【放火】 平家は都落ちにあたって、六波羅/池殿/小松殿/八条/西八条、以下一門の公卿・殿上人のいえいえ20余カ所、その従者の宿所、京・白河の4〜5万軒の民家に一度に火をかけて皆焼き払った。 巻第七
【聖主臨幸=天皇が訪れた地】 かつては天皇も訪れたこともある、焼かれた平家一門の華麗なる屋敷・家々への哀悼。 【知盛エピソード】 さる治承4年7月、皇居の警固・大番役として上京していた畠山重能、小山田別当有重(重能の弟)、宇都宮佐衛門朝綱を都に押し込め、斬首になるところであったのを、都落ちの際に平知盛により釈放、帰国を許される。
【薩摩守忠度】 五条に住まう歌師・俊成卿に、形見ににと歌集を送るエピソード。 巻第七
【皇后宮亮経正】 仁和寺の御室の御所へ暇乞いをし、琵琶「青山」を返上するエピソード。 次の【青山之沙汰】は琵琶名器「青山(せいざん)」の由来。だけなので割愛。(屋代本にはない) 巻第七
【裏切り】 池大納言頼盛(池禅尼の息子)、池殿に火をかけて出たが鳥羽殿南門あたりで馬を止め、「忘れ物がある」と言って赤印を切り捨て、3百騎を引き連れ都へ引き返し、八条女院の元に身を寄せる。(平家を見限り、妻や母の縁などのよしみで頼朝に助命を願う心づもり) 【その他一門の動向】 平維盛とその兄弟6人が千騎で、淀の六田(むつた)河原で行幸に追いつく。 ・その他落ちていく人リスト 公卿 宗盛/時忠/教盛/知盛/経盛/清宗/重衡/維盛/資盛/通盛 殿上人 信基/時実、清経/有盛/忠房/経正/行盛/忠度/教経/知章/師盛/清房/清貞/教俊/尹明/業盛/敦盛 僧 全真/能円/忠快/祐円 侍 受領・検非違使・衛府・諸司=160人 総勢7000騎 【肥後守貞能エピソード】 紆余曲折あって小松殿(故・重盛)の墓を源氏に荒らされまいと骨を掘り出して高野山に送る。貞能はそのまま東国に落ちて行き、宇都宮(朝綱)に、厚遇されたとか。
【福原】 7月25日 行幸の一行は旧都・福原に到着、一夜を明かす。 翌日26日 福原の内裏に火をかけて出立。7千騎で西海に向けて船出する。 寿永2年7月25日に、平家都を落ちはてぬ。
●巻第八
【山門御幸】 7月24日夜半 後白河法皇は右馬頭資時だけを供に連れて密かに鞍馬へ御幸(【主上都落】にも同じ記述)。鞍馬寺僧に守られて比叡山(東塔南谷・円融房)に入る。 この噂を聞いた前関白をはじめ、現関白、太政大臣、左右大臣、内大臣、大/中納言、参議、三位・四位・五位の殿上人が参集。 7月28日、後白河法皇は京に戻る。 この時木曽義仲は5万騎で守護し、山本冠者義高(近江源氏)は白旗をかかげて供の先頭に立つ。(白旗が都に入るのは20年あまり無かった事件) 行家は宇治橋を渡って入京。 矢田判官代義清は大江山を越えて入京。 摂津・河内源氏が大挙して都に乱入。
木曽義仲・行家は後白河法皇に拝謁。→平家一族対討の命を受ける。 二人は庭上でかしこまる。 また、京での宿所を拝賜。 木曽=大膳大夫業忠の宿所・六条西洞院の家 行家=法住寺殿の南殿(萱の御所)
法皇は天皇と三種神器を都へ返還するよう、西国に院宣を出すが平家はこれを受けなかった。
【高倉院の皇子】 故・高倉院の皇子には4人の皇子がおり 安徳天皇、第二皇子(皇太子)、→西国へ 第三皇子、第四皇子→京にあった 第四皇子は法皇になついた為、即位が決まる。平家の娘の腹ではないが二位尼とその兄に養育されていた。
【紀伊守範光エピソード】 西国に遅ればせに落ちようとした第四皇子と母(七条修理大夫信隆の娘)を、母の兄である紀伊守範光が京にとどめた。この功を忘れられていたのを、禁中に二首の落書をして、恩賞として正三位に叙される。(覚一本)
【除目】 8月10日 院御所の殿上間で除目が行われた。 木曽義仲=左馬頭、越後国を賜り、さらに朝日将軍の称号を院宣を下される。 →越後を嫌って伊予を賜る。 行家=備後守を賜る→備後を嫌って備前を賜る。 源氏の10人あまりが受領、検非違使、靫負尉(ゆぎえのじょう)、兵衛尉に任じられる。
8月16日 平家一門160人あまりの官職を解任。 時忠、信基(時忠従弟)、時実(時忠長男)は殿上人として残す。
8月17日 平家は筑前国三笠郡太宰府に到着。 供についていた菊池二郎高直は「大津山の関をあける」と言ったきり自分の城にこもる。 九州・壱岐・対馬の兵達も参上すると言いながら来ない。 ただ岩戸少卿大蔵種直が仕えるのみ。
8月20日 法皇宣命により高倉院第四皇子が閑院殿で皇位につく。 摂政はもとの摂政・近衛殿が継続。 これにより「天に二つの日なし」といえど、京と田舎に二人の天皇が存在する事となった。
【文徳天皇皇子エピソード】 清和天皇の即位エピソードなので割愛。
【平家の思惑】 平家では第四皇子即位の報を聞き、「第三・第四皇子も連れてくれば…」とくやしがるが、 時忠:そしたら木曽が高倉宮の御子(讃岐守重秀が養育・出家させた)を位につけただろう 人:一度出家した宮をどうして位につけようか 時忠:還俗して国王になった例は外国にもある。木曽が主と奉る還俗の君もなんの差し障りもない
9月2日 法皇より伊勢へ公卿の勅使をたてる(太上天皇が出家してから送る前例がなかった)
【太宰府還幸】 筑紫(九州)では内裏を造るべきと評議されるが、まだ都すら決まっていない。 主上は原田種直の宿所に滞在、宇佐神宮へ行幸、大宮司公通の宿所が皇居になり、社殿は公卿・殿上人の居所にあてられる。
【緒方維義の謀反】 平家は、緒方三郎維義(小松殿=重盛の御家人で豊後に住す)の謀反を聞く。 ↓ 小松の新三位中将資盛、500騎で説得するが従わない。 維義・維村親子 vs (平家侍)源大夫判官季貞・摂津判官盛澄3千騎 筑後国竹野・本庄で1昼夜戦うも平家軍撤退
維義←後白河法皇から九州より平家を追い出せとの命を受けている →3万騎で平家を攻めるとの情報 ↓ 平家は太宰府を脱出、船で豊前国柳ケ浦へ 重盛三男清経、入水 ↓ 長門国目代に大船1百艘あまりを献上され、これに乗って四国・讃岐国屋島へ (船の提供者は怪しい)
10月14日 頼朝、鎌倉にて征夷大将軍の院宣を賜る(正確にはこの日使者・左史生中原康定が到着) 兵衛介=頼朝は顔は大きく背は低い、容貌優美、言語分明(なまりがなく明瞭)。
頼朝:平家は頼朝の威勢に畏れて都を落ち、その後に木曽・行家が都入りし高名顔で昇進を思い通りにし、任国を嫌う(嫌って換えさせた)など奇怪。奥州秀衡が勝手に陸奥守に、佐竹隆義が勝手に常陸守になったなどと頼朝の命に従わない。急ぎ追討の院宣を賜りたいと思う。
使者への引出物や帰京のはなむけも十分すぎるほどに提供する。
【鎌倉から使者帰還】 中原康定、都に帰り、院参する。 【人物対比】 頼朝=かくこそゆゆしい(立派だ) 義仲=立居振舞いは無骨、言葉遣いもかたくな(頑固なまりがあって粗暴) 「これも理か、2歳の頃から信濃国木曽という山里に30歳になるまで住んでいたのだから、推して知れる事だ。」
【猫間中納言光隆卿】 ある時、猫間殿が義仲に相談事があり訪問。 郎党:猫間殿が見参においでたっス 義仲:猫が人に見参するんか(爆笑) 郎党:猫間の中納言殿と申される公卿っス、屋敷のある所の名じゃないかと思われ 義仲:そんなら(会うか) それでも猶、猫間殿と言えずに 義仲:猫殿が珍しくおわすんじゃ、なんかよそえ(膳の支度をせよ) 猫殿:ただいまは(食事は)いりません 義仲:ゴハン時においでてそれはないに。ここに「無塩」の平茸があるで。はよ、はよ。 と支度を急がせる。 根井小弥太(力自慢の大男)が給仕をする。 とても大きくてふかい田舎っぽい椀にご飯を山盛り、おかず三品と平茸汁を進める。 義仲の前にも同じ物を据える。 猫間殿は気に入らず食べない。 義仲:それは義仲が仏事に使う椀だに と言うので食べないのもやっぱり失礼かと、箸をとって食べるフリをする。 義仲:猫殿は小食だな。世にいう「猫のこし」した!もっとかきこみなされ! とか言われて猫間殿は興ざめして、相談事もせずにとっとと帰ってしまった。 【出仕〜牛車でバンバン〜】 義仲は、官位ある者が直垂(武士の平服)のままで出仕できないと、初めて狩衣を着たが、烏帽子のかぶり際から指貫のすそまで(頭の先から爪先まで)まったく着こなせてない。 それでも車にかがんで乗り込む。甲冑武装し馬に乗った(かっこいい)姿からは想像できないくらい不格好。 牛車は元・宗盛のもので、牛飼いも宗盛に仕えていたのが捕えられて、使われていた。 これをシャクに思った牛飼いは、門を出る時に逸物の牛にひと鞭くれたからさあ大変、 牛は飛ぶように走る、牛車の中で義仲は仰向けに倒れる、しかも(着慣れない衣装の)蝶のように左右の袖を広げて起きようとするのだが起き上がれない。 義仲:ちょ、子牛健児(こうじこでい)!=牛飼いという言い方を知らなかったため造語した と言うのを牛飼いは「車を走らせろ」と言ってると合点して、5〜6町も走らせた。 今井兼平が馬を飛ばしておいつき、牛飼いに「どうして車を飛ばすか」と聞くと、牛飼いは「牛の鼻息が荒くって(制御できませんで)」と言う。 牛飼いは仲直りしようと思ったのか「そこにある手形におつかまりください」というと、義仲はこれにしっかりとりつき、 義仲:これはいい仕組みだな、子牛健児の発案か、大臣殿か? と尋ねる。 院御所に着き、車を後ろから降りようとしたので雑色が「車には、乗るときは後ろからですが、降りるときは前からお降りください」と言ったが 義仲:たとえ車とはいえ、素通りをするのはどうよ と、後ろから降りてしまった。
この他にもオカシなことは沢山あったが、皆恐れて口にしなかった。
【屋島】 平家は屋島にありながら、 山陽道8カ国(播磨/美作/備前/備中/備後/安芸/周防/長門) 南海道6カ国(紀伊/淡路/阿波/讃岐/伊予/土佐) を征服。
木曽軍は平家追討軍7千騎を差し向ける 大将:矢田判官代義清 侍大将:海野弥平四郎行広 ↓ 山陽道を下って備中国水島の渡り(現在の倉敷)で船5百艘を整え、四国の屋島へ渡ろうとする。 ↓ 閏10月1日 水島に平家方から小舟で使者 これを見た木曽軍はおおあわてで船5百艘を海におろす ↓ 平家、船千艘で押し寄せる 大手大将軍:新中納言知盛 搦手大将軍:能登守教経
教経の指示で船と船を繋ぎ合わせ、歩板を架け渡して平らにする 源平は一斉に鬨の声をあげ矢合わせし、互いに船を押し合わせて戦闘 ↓ 海野行広、討死 ↓ これを見た矢田主従7名、小舟で進攻するがどういうわけか船を踏み沈めて溺死。 ↓ 平家は船に馬を用意しており上陸すると、木曽軍を蹴散らして勝利。 木曽軍は大将戦死による不在で統率もとれず敗走。
義仲、1万騎で山陽道を下る。
瀬尾兼康は倉光成氏に木曽への協力(兼康領有の備中妹尾「馬の草飼よい所」への案内)を持ちかけ、油断させて備中まで下る。(倶利伽藍戦の時に加賀の倉光成澄に生け捕られた平家の侍。剛の者ゆえ、義仲も惜しいとして斬らなかった。成澄の弟成氏に預けられている) ↓ 瀬尾の嫡男宗康(平家侍)は50騎ばかりで父を迎えにいく ↓ 播磨国国府で行き会い、備前国三石で宿を取る。 瀬尾兼康はここで成氏と家来30人に酒を飲ませ酔いつぶし、片っ端から刺し殺した。 ↓ さらに備前国(行家の)代官も押し攻めて殺す。
備前・備中・備後の主立った家来はすでに平家に出陣していたが、瀬尾の呼びかけに応じて残っていた老人も集まってきた。 ↓ 瀬尾軍2千人、備前国福隆寺畷(縄手)の篠の道を城郭に造って、木曽軍を待ち受ける。 ↓ 播磨国と備前国の国境・船坂で行家代官の下人が木曽軍と行き会い、義仲は瀬尾の逆忠(かえりちゅう)を知る。 義仲:けしからーん!斬っとけばよかった! 今井:だから何度も斬ろうと言ったのに、助けるから。 義仲:しかしたいしたことはない、追いかけて討て! 今井:まず下ってみましょう ↓ 瀬尾軍追討のため、今井軍(今井・楯・根井・宮崎三郎・諏方・藤沢ら)3千騎で急ぎ下る。 ↓ 福隆寺畷は道幅が弓一つ分程、西国道一里の距離、左右は馬の足も立たない程の深い田で足場が悪く、今井軍はなかなか進めない上、瀬尾軍の一斉射撃に苦戦。 ↓ 一日中戦い、夜になって瀬尾軍の駆武者は助かる者少なく、篠の迫(ささのせまり)を破られ退却。 ↓ 備中国板倉川のほとりに掻楯を巡らして待ち受ける ↓ 今井は間もなく押し寄せて攻め立てたので、矢を討ち尽くした瀬尾軍は敗走。瀬尾主従3騎に。 ↓ 倉光成澄が瀬尾兼康と組むが板倉川の渕に転がり込み、泳げない倉光は逆に首を取られる。 ↓ 瀬尾の嫡男宗康(22〜3歳であまりにも太っている)は馬に乗らず、武具も脱ぎ捨てて歩いて郎党と落ちていたが、1町と走れない。 父・兼康は敵将・倉光の馬で、息子を打ち捨てて10町ほど逃げのびるが、思い直して息子の元に戻ると、はたして息子は足を腫らして横たわっている。父は「覚悟を決めた上は」と休む。 ↓ 今井軍50騎ばかり、追いかけてくると散々に戦ったが主従3騎は討たれる。 首は備中国鷺ヶ森に晒す。これをみた義仲、 義仲:あっぱれ剛の者かな、これこそ一騎当千の兵というべきだ。惜しいかな、この者らの命、助けたかった
【木曽の動向】 木曽軍、備中国万寿の庄で勢揃いし、屋島に攻めようと画策。
一方その頃、都の留守番・樋口から使者がつかわされ「行家が義仲のいない間に、院に讒言している。西国の戦をしばらく差し置いて、急ぎ都へ帰れ」という連絡がくる。 ↓ (これを察知した)行家、丹波路を通って(木曽軍と行き違いになるようにして)播磨国に下る。 木曽軍、摂津国から都に入る。 【平家の動向】 この間に、木曽を討つため平家2万騎が千艘の船で播磨国に入り、室山に布陣。 陣を5つに構える。 1陣 侍大将:越中次郎兵衛盛嗣 2000騎 2陣 侍大将:伊賀平内左衛門家長 2000騎 3陣 侍大将:上総五郎兵衛忠光・悪七兵衛景清 3000騎 4陣 大将軍:平重衡 3000騎 5陣 大将軍:平知盛 1万騎 【行家の動向】 何を思ったか行家500騎で室山へ。 (平家と戦って義仲と仲直りしようとしたか?) 【平家軍×行家軍】 平家軍第1陣、行家独立軍と応戦すると見せかけて進路をあける ↓ 2〜4陣も前もって打ち合わせてあったのでこれを通す ↓ 行家軍は取り囲まれて絶体絶命のピンチ。 ↓ 死にものぐるいの行家に、平家方の紀七左衛門、紀八衛門、紀九郎が打ち取られる ↓ 行家軍500騎 →30騎に →無謀を試み敵中央を割って通り逃走 →行家は無傷、郎党はほとんどが手傷を負う →播磨国高砂から船に乗って海上へ逃れ →和泉国に到着 →河内国を越えて(河内)長野城に立てこもる。 平家は室山・水島に2勝し勢いを増す。
【京中狼藉】 京中に源氏の軍勢が満ち満ちて、家々に押し入り強奪、青田の草も刈り取ってマグサにしてしまう。 賀茂や八幡といった(恐れ多い社の)御領地でも構わない。 民は「平家が源氏に代わって、いっそうひどい事になった」と嘆く。 これを受けて後白河院は京中の治安を義仲に命ずる。
【鼓判官】 後白河院の命を義仲に伝えにきた使者が壱岐判官友康、鼓の名人だったので「鼓判官」と呼ばれていた。 【木曽vs.鼓】 義仲:オマエが鼓判官と呼ばれているのにはいったいどういう訳?みんなにぶたれ(打たれ)たから?張られたから? と、木曽が聞くと、友康はあきれ果てて返事もせず院の御所に帰る。 鼓:義仲はアホ(ヲコの者)です!アレはすぐに朝敵になりますよ、はやく追討なさってください! 【木曽追討の院宣】 これをうけて後白河院は追討を命じる。 が、木曽軍と対等に渡り合えるような武士にではなく、命じられたのは延暦寺座主や園城寺長吏で、各寺々の悪僧を召集。 公家が召集したのは辻冠者(無頼の徒)や乞食法師など。 とにかく武士と対等に渡り合えるわけもない最弱軍団で、院の御所・法住寺を固める。 【五畿内の空気】 木曽に対する後白河院のご機嫌が悪いと噂が流れると、五畿内(山城・大和・摂津・和泉・河内)の兵は院方につく。信濃源氏の村上三郎判官代も院方へ。 【木曽の言い分】 今井:これこそもってのほかの一大事!とはいえ十善帝王(法皇)に向かって合戦などできようはずもない。御降伏なされよ。 義仲:我は信濃を出た時の麻績・会田の戦からはじめて、北国じゃ砺波山・黒坂・篠原、西国じゃ福隆寺畷・篠の迫、板倉が城を攻めたが、いまだ敵に後ろを見せた事はない。例え十善帝王といえど降伏なんかできるか! 都の守護者たるもの馬一匹づつ飼って乗らないわけにはいかない。いくらでもある田を刈らせ、秣にするのを(法皇と都のためだというのに)、法皇が非難できようか。 兵糧米もなく、若者達が時々そのへんの人家に押し入り掠奪するのが、どうして悪事だと言えようか。 大臣家や宮々の御所に押し入った訳でもないのに。 これは鼓判官の凶悪な讒言のせいだと思われる。 その鼓ヤローを打ち破って捨てろ! 今度が義仲最後の戦となるだろう。頼朝が伝え聞く事もあるだろうから、立派に戦え、ものども! と、言い放ち、義仲出発。 【木曽の動向】 (木曽に加勢していた)北国の軍勢は(すでに)都を落ちて本国に下っており、木曽軍は6〜7000騎。 これをいままでの戦いの吉例として7手に分ける。 北国の軍勢は都を落ちて本国に下っており、木曽軍は6〜7000騎。 これをいままでの戦いの吉例として7手に分ける。 樋口隊 搦手 2000騎→新熊野(いまぐまの)方面へ 残り6手はそれぞれ進軍し、七条河原で合流する命をうけ出発。 【法住寺合戦開始】 11月19日朝 合戦開始 ・法皇軍 法住寺殿に2万騎の軍勢(有象無象)集合 ・木曽軍 松の葉を目印として甲(兜)に着ける。 ・法皇軍 鼓判官は合戦の指揮をまかされ、どういうわけか奇妙な出で立ちをし、おかしいコトをする。 #赤地の錦の直垂に、鎧はわざと着ずに、四天王の絵が貼付けてある甲だけ着ける。 #御所の西の築地塀に上って立ち、片手に矛、もう片手に金剛鈴を持って鈴を打ち振り、時々舞う。 #若い公卿や殿上人に「ダサ!知康に天狗が憑いたwww」と笑われる。 鼓判官が木曽に向かってののしりの言葉を浴びせると、 義仲:そうは言わせん! と、どっと鬨の声をあげる。
樋口隊、新熊野から法住寺西門に押し寄せ、火矢を放つ ↓ 猛火になり、院方の指揮をとっていた鼓判官は真っ先に逃走、指揮官を失い2万の軍勢も我先にと逃げる。 摂津源氏(院方)、七条通の端を固めていたが何もせず西へ逃走。 そこを院の命で落人狩りで伏せていた西の民に、摂津源氏は散々石を投げられ、打たれる。 主水正(もんどのかみ)親業(=明経道博士)は腹巻着て賀茂河原を北に逃走中、今井に頸椎を射られ落射。 信濃源氏村上三郎判官代(木曽→院方に)、討死。 伯耆守光長・判官光経父子(木曽→院方に)、討死。 播磨少将雅賢、樋口により生け捕りにされる。 天台座主明雲、園城寺長吏円恵法親王も騎馬で河原に出たところ射落とされ、首を取られる。 【鼻豊後のとほほエピソード】 豊後国司刑部卿三位頼輔は下っ端共に衣装をはぎ取られて真っ裸で河原に立っていたのだが、本編と関係ないので割愛。 【法皇逃走】 後白河法皇は他所に御幸しようとするが、矢島四郎行綱(信濃住人)に捕えられ、五条内裏に押し込められる。 ↓ さらに後鳥羽天皇も閑院殿に移される。
【仲兼エピソード】 源蔵人近江守仲兼(院方)は50騎で法住寺殿西門を守固し木曽勢を防いでいたところへ、山本冠者義高(近江源氏)が駆けつけ「院も主上もよそにうつられた」と教える。 これを聞いた仲兼は「では」と木曽の大軍のなかへ入りさんざんに戦う。 仲兼の家来・河内国日下党加賀房という法師武者が「自分の馬は荒馬だ」というので仲兼は自分の馬を与える。 加賀房は根井小弥太が200騎で防ぐ河原坂に駆け入りついに討たれる。 また家の子・信濃次郎蔵人仲頼(27)加賀房の乗っていた仲兼の馬を見て主が死んだと思い、只一騎で討ち入り、討死。 仲兼は兄の河内守と郎等一騎で南に落ちていく途中、宇治へ逃れる摂政殿の一団に木幡山で追いつく。 この一団を宇治・富家殿まで守護し、そのまま河内国に落ちていった。 【首実検】 翌20日、義仲は六条河原に立ち、昨日斬った首を掛け並べて記録させる。その数630人余、その中に明雲、円恵(高位の僧)もあった。 木曽7千騎は馬の鼻を東に向け、鬨の声を3度あげた。 故・信西の子息宰相脩範(ながのり)が法師姿になり法皇の御前に参り、今回討たれた主な方々の事を報告。 法皇は、明雲は自分の身代わりになった、と嘆く。 【木曽のクーデター】 義仲、家の子郎等を召集して評議する。 義仲「義仲は一天の君に歯向かい、戦に勝利した。この上は天皇になろうか、法皇になろうか。天皇になろうと思ったが童姿はよくない。法皇になろうかとも思ったが坊主になるのもおかしいだろう?じゃ、関白になろう」 覚明「関白には大職冠、藤原鎌足公の子孫たる藤原氏がなるものです。殿は源氏なのでそれはできないでしょう」 義仲「では仕方ない」 と、院の御厩(みうまや)別当に勝手になり、丹後国を領有。 [院が出家したら「法皇」といい、元服していない天皇が童形なのを知らなかったとは情けないことだ]<作者コメント 義仲、前関白松殿の姫を娶り、強引に聟になった。 11月23日 大臣、公卿、殿上人49人の官職を取り上げ、押し込める。 (平家クーデター時には43人、史上最悪となった) 【一方その頃…鎌倉の動向】 鎌倉の頼朝、舎弟の蒲冠者範頼・九郎冠者義経を都に向かわせる。 すでに木曽軍は法住寺殿を焼き払い院も主上も捕込めた、と聞いた鎌倉軍は、簡単に都に上って戦を仕掛けるわけにもいかない。 鎌倉軍は、ここから関東へ詳しい情況報告をせんと尾張国熱田大宮司の元に留まっていた。 そこへ院の北面に仕えていた宮内判官公朝・藤内左衛門時成が事情を経過とともに伝える。 義経「公朝殿が関東に直接下るべきだ。詳細を知らない使者を立てても問いただされた時不審が残る。」 と言うので、公朝は嫡子公茂を連れて関東へ下向し、頼朝に報告する。 頼朝「鼓判官知康が非常識なことを言って御所を焼失させ、高僧貴僧を滅ぼしたのはひどい。知康は勅命に背いた者。なおも院がお召使いになるなら重ねて大事が起こるだろう。」 と、都に早馬立てる。 知康は昼夜問わず急ぎ下向し、頼朝の屋敷に出向いたが相手にされず、陳述もできず、面目をつぶして都に戻り、没落した。 【平家への使者】 義仲、平家方に使者を出し「都にお上りなされ。東国を一緒に攻めようぞ」と申し立てる。 宗盛は喜ぶが時忠、知盛は「いかに平家の世も末とはいえ、義仲の要請で都に上るなどありえません。しかも平家が(安徳)天皇と三種の神器を擁しているのだからこっちが『甲脱ぎ、弓はずして降伏せよ』と言うべきではないのか」といさめる。 このまま返事をしたところ、義仲は受け入れなかった。 【松殿】 松殿は屋敷に呼んで義仲を諭し、解官した人々の復官を許させる。(現実の復官は義仲討死後) 松殿の子・師家は義仲の計らいで中納言中将だったのを大臣摂政(内大臣)に昇進。 世間の噂ではこの新摂政を「かるの大臣」(借り≒迦留←伝説のキャラとかけたギャグ)
●巻第九
【院の動向】 寿永3年1月1日 院の御所を六条西洞院(義仲の宿所)に移す(御所としての体裁が整わないために正月の儀式等、一切行えず) 【平家の動向】 讃岐国屋島で新年を迎える(天皇があってもこちらも儀式等行えず) 【木曽軍の動向】 寿永3年1月11日 義仲は院の御所に参上し、平家追討のため西国へ出立する旨を申し上げる。 *玉葉:寿永2年閏10月18日「ウラミます、院!」
【木曽軍×鎌倉軍】 寿永3年1月13日 木曽討伐軍(鎌倉勢)が美濃・伊勢に到着したという情報が都に入り、義仲はおおいに驚く。 この情報をうけて宇治・瀬田の橋板を外し(川底に乱杭うち大綱をはり、逆茂木を結んで流しかける)、軍兵を分けて派遣する。 ・木曽軍配置(軍勢少なし) 瀬田橋→今井兼平800騎(東国勢防御の正面・大手) 宇治橋→仁科・高梨・山田次郎500騎 一口(いもあらい)→信太義憲300騎 ・東国(鎌倉)軍配置 (大名30名あまり、6万騎/尾張国からは二手に分かれる) 大手:3万5千騎で近江国の野路・篠原に布陣 大将軍=蒲の御曹司範頼 大名=武田信義、加賀美遠光(信義の弟)、一条忠頼(信義の子)、板垣兼信(忠頼の弟)、 稲毛重成(畠山の従兄弟)、榛谷(はんがえ)重朝(稲毛の弟)、熊谷直実、猪俣小平六則綱ら 搦手:2万5千騎で伊賀国を通って宇治橋のたもとへ 大将軍=九郎御曹司義経 大名=安田義定、大内維義(信濃源氏)、畠山尚司次郎、梶原源太景季、佐々木四郎高綱、糟屋藤太有季、渋谷右馬允重資、平山武者所季重(西党)ら *正確には大名の名前、布陣については【宇治川合戦】冒頭に記してある 【生ずき拝賜エピソード】(この緊迫した情況で何故この話が…T_T) あまりにも有名なので割愛。 そのうち別項で紹介するかもです。 【佐々木と梶原】 京への行軍途中、駿河国浮島が原で「いけずき」を軍勢の中に見つけた梶原はくやしがって、佐々木を殺そうと待ち構える。その時の台詞が 「ちくしょー!この俺を差しおいて佐々木を優遇するとは(頼朝め!)!都に上って、木曽殿の四天王名高い今井・樋口・楯・根井に組み討って死ぬか、でなきゃ西国に行って一騎当千と名高い平家の侍どもと戦って死んでやろうかと思ってたが、主(頼朝)がそういうお考えならそれもせんないなあ!ここで佐々木と戦ってさし違えて、使える侍を二人(梶原と佐々木)殺して頼朝に損をさせてやる〜!」 しかし佐々木の機転で、いけずきは頼朝は賜ったのではなく盗んできたというのを聞き、梶原は溜飲を下げる。
【いけずきとするすみエピソード】 各馬の名前の由来。
【鎌倉軍/搦手/宇治川の先陣争いエピソード】 寿永3年1月20日すぎ早朝 宇治川は雪解け水で増水、川霧も深く立ちこめている。(←作者の創作?) 義経が川端に進み出て「迂回するか、水かさが減るのを待つか」と言った所、佐々木と梶原が激しく馬を走らせて出てくる。 ここからは有名な「宇治川の先陣争い」なので割愛。(まったくこのコンビは笑わせてくれるwww) 先陣争いは佐々木の勝ち。
【宇治川開戦/大串のギャグ】 畠山重忠500騎が渡河中、木曽方の山田次郎が放った矢が畠山の馬の頭部に命中。 畠山は弓を杖に歩いて川を渡り、岸に上がろうとした際、大串重親(烏帽子子)につかまれる。 畠山は大串を岸に投げ上げてやり、大串は「宇治川の先陣であるぞ」とギャグをかまして敵味方にウケる。
【畠山×長瀬判官】 木曽方の長瀬判官代重綱は名乗りをあげて戦うも、畠山に首をねじ切られた。 宇治川の木曽軍勢はしばらくのあいだは防御していたが、鎌倉の大軍に押し切られ、ちりぢりになって木幡山・伏見をさして逃走。
【一方その頃/瀬田】 稲毛重成の計略で、田上供御の瀬(瀬田から4km下流の浅瀬)を渡り突破される。
【頼朝日記】 宇治川合戦の先陣争いの結果報告。 鎌倉に飛脚で木曽軍敗退を報告、頼朝の日記には「宇治川先陣・佐々木四郎高綱」と書いてあった。 【義仲と六条の女房の…】 義仲は、宇治・瀬田とも敗戦の報を聞く。 それで義仲は最後のいとまを告げようと院の御所・六条院を参じる。 が、門前まで来た所で鎌倉軍が賀茂河原まで攻め入って来たという報告を受け、ただちに引き返す。 ↓ その近所の六条高倉に、最近付き合いはじめた女房(延:松殿ノ姫君)がいたので、最後の名残を惜しもうと屋敷に入り出てこない。 木曽軍の新参家来・越後中太家光は、義仲を諌めて腹を切る。 それで「ワシを励ます自害よのう」と義仲は出立する。 義仲の手勢は上野国住人・那波(なわ)太郎広純(旧平家家来)はじめわずか100騎。 ↓ 六条河原まで進軍すると、鎌倉軍と思われる30騎がまず現れ(三国無双っぽい)、そこから2騎、 鎌倉軍の塩谷維広(児玉党)、勅使河原有直(丹党)が進み出る。 義仲は今日が最期と、これらと戦う。 【院の御所・義経参上!】 義経、院の御所が気がかりで戦は兵に任せ、自身と武装兵5〜6騎を伴って六条に向かう。 御所では大膳大夫業忠が御所東の土塀に上り、白旗を掲げた武士5〜6騎を見つけ、「また木曽が来た」と法皇に報告、法皇も臣下も大慌て。「しかし笠印が違ってる、もしかしたら東国軍かも」と業忠が話しているうちに門で義経が大声で名乗る。 法皇は喜び、義経以下に名乗らせる。 大将・源義経、安田義定、畠山重忠、梶原景季、佐々木高綱、渋谷重資 【戦況中間報告】 また、法皇は義経を広廂のそばまで呼んで戦況を報告させる。 頼朝は義仲謀反の事を聞き、驚いて範頼・義経をはじめ主立った武士30人、総勢6万騎を派遣した。 範頼は瀬田をまわり、まだ到着していない。 義経は宇治の木曽郡を攻め落として、まず御所に馳せ参じた。 義仲は賀茂河原をのぼって逃走中。追撃隊を送った。
義経は法皇の命を受け、御所の警固をして待つうちに、義経旗下鎌倉軍は1万騎になった。 【義仲の動向】 義仲は、もしもの時には法皇を拉致し西国へ落ちて、平家と和睦し合流しようと考えて、力者(輿をかついだりする剃髪した下人)も20人揃えていた。 が、御所はすでに義経が警固していると聞き、法皇連れ出しを断念、もはやこれまでと数万騎の敵軍に喚声をあげて駈け入り、何度も討ち取られそうになりながらも駆け破り通り抜ける。 義仲は涙を流し「こんな事なら今井を瀬田にやらなきゃよかった」と、加茂河原を馬で北上、六条から三条の間で敵の大軍に襲われ、小勢で引き返し引き返ししながら5・度追い返す。 主従7騎で鴨川を渡り、粟田口、松坂、四の宮河原(逢坂山の西口)を通る。(瀬田方面に逃走) ○巻第九
【巴の紹介】 義仲は信濃から巴・山吹という二人の便女(召使い)を連れて来た。山吹は病のために京に留まった。なかでも巴は色白く髪長く、非常に容姿が優れている。ありえないくらい強弓をひく精鋭で、騎馬でよし徒歩でよし、刀を取ったら鬼にも神にも相手になろうという一騎当千の兵(つわもの)。究竟の荒馬乗りで、足場の悪い場所も乗りおとし、戦となれば(義仲が)札よき鎧を着せて、太刀・強弓を持たせ、一軍の大将として差し向けた。 度々の戦功は比類く、今度の戦いでも7騎になるまで巴は討たれなかった。
【義仲の行方】 義仲は長坂を通って丹波路に向かうとか、龍花越(りゅうげごえ)から北国にいくとか噂されていたが、義仲は今井の行方を知りたいと瀬田方面へ向かっていた。
【今井の動向】 今井軍800騎→50騎まで鎌倉範頼軍に打ち破られ、旗を巻いて京に引き返す。
【主従再会】 その途中、大津・打出の浜で義仲主従7騎と行き会う。 互いに1町(約109m)くらいでそれと分かり、主従とも馬の足を速めて寄り合う。(以下読み飛ばしてもOK)
義仲は今井の手を取り「義仲、六条川原でどうにでもなる覚悟だったが、お前の行方が恋しさに多くの敵中を駆け割ってここまで逃げてきた」 今井「おことば、ありがたく思います。兼平も瀬田で討死つかまつる所、あなたの行方のおぼつかなさにここまで参りました」 義仲「契(約束)はいまだなくなっていなかった。木曽の軍勢も敵におしへだてられたりして山林に逃げ散って、この辺にもいるだろう。お前が巻かせて持たせているあの旗を揚げさせよ」
【一条・土肥戦】 義仲は今井に旗を上げさせ、これを見つけて京や瀬田から落ちてきた者どもが300騎ほど集まってくる。 ↓ 義仲、この300騎で甲斐の一条忠頼6000騎に最後の戦をしかける。 ↓ 名乗り→戦ううちに300騎が50騎に→打ち破って出た先に土肥実平2000騎で布陣→これも破って立ち回るがとうとう主従5騎に。(延:5騎=手塚別当・手塚太郎・今井兼平・多胡家包で、巴は行方知れず) 5騎の内まで巴は討たれず。
【義仲と巴】 義仲「おのれは女なれば、はやいとこどこへでも行け。俺は討死したい。もし人手にかかるくらいなら自害するが、その木曽殿最後の戦に女を連れていたと言われては具合が悪い」 そう言われた巴はなおも落ちなかったが、あんまり言われて 巴「よい敵に会わないかなあ!最後の戦をしてお見せしたい!」 と待ち構えていた所に武蔵国の力持ち、御田師重30騎で登場。 巴、御田の首をねじ切って捨てると、鎧兜も脱ぎ捨てて東国を指して落ちていった。
手塚太郎討死。手塚別当落ちる。
【粟津の松原】 今井・義仲主従2騎に。(以下読み飛ばしてもOK)
義仲「日頃は何とも思わない鎧が、今日は重くなったよなあ」 今井「まだお疲れじゃないでしょう。馬も弱ってないし。なんでたった一領の鎧を重いと感じられるのか?味方勢がもういないから臆病になってるからじゃないですか?兼平一人といっても他の武者千騎と思ってください。矢が7〜8本あるのでしばらく援護射撃しますから、あそこに見える粟津の松原の中で御自害なされよ」 と打って出ると新手の武者50騎が出てくる。 今井「あなたはあの松原へお入りに!兼平はこの敵を防ぎましょう」 義仲「義仲は(本当なら)京でどうにかなってたのを、ここまで逃げてきたのはお前と一所で死のうと思ったからだ。別々で討たれるより同じ場所で討死しよう」 今井は馬から飛び降りて主の馬の口に取り付き 「弓矢取り(戦士)は日頃どんな勲功をあげても、最後の時に不覚を取れば永い疵となります。もうあなたはお疲れです。続く軍勢もありません。敵におしへだてられ、しょうもないどっかの家来なんかに組み落とされて討たれたら『日本に名を馳せた木曽殿をだれそれの家来が討ち取ったぞ』などと言われるだろう事こそくやしいです。さあ、あの松原へお入りください」 義仲「じゃあな」 と松原に駆けていく。
【今井奮戦】 今井ただ1騎で50騎のなかに駆け入り名乗る。(以下読み飛ばしてOK)
「日頃は音にも聞いただろう、今日は目にも見よ!木曽殿の御めのと子、今井の四郎兼平、生年33にまかりなる!こういう者ありと、鎌倉殿までもご存知だろうよ。兼平討って(鎌倉殿に)ご覧に入れてみろ!」 と、射残した8本の矢を散々に射ると、生死はわからないがやにわに8騎射落とす。 その後刀を抜き駆け合い切り合うが面と向かえる者もない。敵は内に取り囲んで雨のように矢を射かけるが鎧がよいので傷一つ負わない。
【木曽の最期】 1月21日日没頃 義仲は、薄氷がはり薄暗くなる中、深田があると知れず馬を乗り入れ、馬はハマり込んで馬の頭も見えなくなる。 馬は動かず、今井の行方を気にして振り返った、その甲の内(急所)を射られ重傷。 射手は三浦の石田為久、石田の家来が2人が義仲に駆けつけて首を取ってしまう。 今井は、義仲の首をとったという名乗りを聞き、 「今はもう、誰をかばおうと戦うこともない。これを見よ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本じゃ!」 と、太刀の先を口に含むと馬から真っ逆さまに飛び落ち、貫かれて死んでいった。 こうして粟津の戦いはなくなった。 ○巻第九
【一方その頃の樋口】 樋口は裏切り者の行家を討とうと河内国の長野城へ向かったが討ちもらす。 ↓ 紀伊国の名草にいると聞きすぐに赴くが、京で合戦が始まったと聞き急ぎ駆け戻る途中、淀の大渡の橋で今井の下人と行き会い「君は討たれ、今井は自害」との報告を受ける。 ↓ 「兼光は京にのぼり討死して、冥途で君(義仲)に見参し、今井に今一度会おう」と上京。 樋口旗下500騎はぽろぽろと落ちていき、鳥羽殿の南門を出た頃には20騎になっていた。
【茅野太郎】 樋口軍は今日京に入るとの噂に、党の武士・高家とも七条朱雀、四塚方面に向かう。 その四塚で、樋口軍の武士・茅野光広が「一条次郎軍の者はいるか」と聞いてまわる。 その理由は、信濃に残してきた二人の子に立派な死に様であったと確実に聞かせるために、一条軍に組している弟・茅野七郎の前で討死するためだった。 ↓ はたして茅野は敵を3騎斬り、4人目で刺し違えて討死。
【児玉党助命】 樋口は児玉党と縁を結んでおり(結婚か?)、児玉党は寄り集まって勲功に樋口の助命を請う事を決め、 ↓ 樋口に使者を送り、降伏させる。 ↓ 九郎義経にこれを申し出る ↓ 義経は法皇にこれを奏上し、法皇は許すが側近・殿上人・女房らが助命に納得をせず、死罪と決まる。
【樋口斬られる】 1月22日 元の摂政が再任される。 1月24日 義仲並びに残党5名の首が都大路を引き回された。樋口は首の供をしたいと申し出て一緒に引き回される。 1月25日 樋口はついに斬られる。 範頼、義経とも樋口の助命をしたが「今井・樋口・楯・根井と、木曽の四天王のその一人である。これを許すのは虎を養うような憂いとなろう。」と法皇が許さず斬られた。 もし義仲が先に都に入ったとしても、頼朝の命に従っていたら、中国の故事の沛公の計略に劣る事は無かった(愚行をせず今日のような結果にはな らなかった)だろう。 【平家の動向】 平家はこの間に屋島を出て、摂津国難波潟に押し渡り、福原の旧都に居を構える。 西は一の谷、東は生田の森を城戸口として固め、福原・兵庫・板宿・須磨に立てこもり、その軍勢は山陽道8カ国、南海道6カ国、あわせて14カ国からの軍兵召集で10万騎とも。