ReturnTopMainMenu

よりぬき木曽殿・源平盛衰記

よりぬき木曽殿第2弾、懲りずに「源平盛衰記」編。
(ベースは芸林舎「源平盛衰記」)

木曽殿の読み比べにお役立ちかも…;
超有名場面でも木曽殿に関係なければ容赦なくとばす…はずが中途半端。イチオウ「木曾」の文字が出る項目に反応してます。モクジにない段もたまにフォロー、ヒマな時にスクロールで見ると時間軸が解りやすいカモシレマセン。
*和漢文の読み下し方が自己流なのでカナリ間違ってます、注意!


タイトル横の星は重要度、★=情報アリ、★★=重要、★★★=最重要!

モクジ

----------  ★ 高倉宮廻宣 附源氏汰事 
----------  ★ 行家使節事
----------    三位入道入寺事
----------    宇治合戦 附頼政最後事
----------  ▲ 宮御子達事
----------  ▲ 頼朝鎌倉入勧賞 附平家方人罪科事
----------★★★ 木曾謀叛事
----------★★★ 兼遠起請事
----------    尾張国目代早馬事
----------    平家東国発向 附大臣家尊勝陀羅尼事
----------    宇佐公通脚力 附伊予国飛脚事
----------    太神宮祭文東国討手帰洛 附天下餓死事
----------★★★ 信濃横田川原軍事
----------  ☆ 周武王誅紂王事
----------  ▲ 資永中風死事
----------  △ 顕真一万部法華経事
----------★★★ 頼朝義仲悪事
----------  ★ 源氏追討使事
---------- ★★ 斉明射蟇目事
---------- ★★ 源氏落燧城事
----------★★★ 北国所々合戦事
----------★★★ 般若野軍事
---------- ★★ 平家礪 並志雄二手事
----------  ★ 三箇所馬場願書事
----------★★★ 倶梨迦羅山事
----------★★★ 源氏軍配分事
----------★★★ 新八幡願書事
----------★★★ 砥並山合戦事
---------- ★★ 平家落上所々軍事
---------- ★★ 俣野五郎 並長綱亡事
---------- ★★ 妹尾並斉明被虜事
----------★★★ 真盛被討付朱買臣錦袴 並新豊県翁事
----------  ★ 平氏侍共亡事
----------  ★ 平家延暦寺願書事
----------  ★ 平家兵被向宇治勢多事
---------- ★★ 木曾山門牒状事
---------- ★★ 覚明語山門事
---------- ★★ 山門僉議牒状事
---------- ★★ 木曾登山 付勢多軍事
----------  ★ 義仲行家京入事
----------  ★ 法皇自天台山還御事
----------  ▲ 福原管絃講事
----------  ★ 四宮御位事
---------- ★★ 義仲行家受領事
----------  ★ 還俗人即位例事
----------    頼朝征夷将軍宣 付康定関東下向事
---------- ★★ 光隆卿向木曾許 付木曾院参頑事
----------★★★ 源平水島軍事
---------- ★★ 木曾備中下向斉明被討 並兼康討倉光事
---------- ★★ 兼康板蔵城戦事
---------- ★★ 依行家謀叛木曾上洛事
----------  ★ 行家与平氏室山合戦事
---------- ★★ 木曾洛中狼藉事
----------★★★ 木曾可追討由 付木曾怠状挙山門事
----------★★★ 法住寺城郭合戦事 
---------- ★★ 明雲八条宮人々被討 付信西相明雲事 
---------- ★★ 法皇御歎並木曾縦逸 付四十九人止官職事 
----------    公朝時成関東下向 付知康芸能事 
----------  ★ 範頼義経上洛 付頼朝遣山門牒状事 
----------  ★ 木曾擬与平家 並維盛歎事 
----------  ★ 木曾内裏守護 付光武誅王莽事 
----------  ★ 京屋島朝拝無之付義仲将軍宣事
----------    東国兵馬汰 並佐々木賜生食付象王太子事
----------  ★ 範頼義経京入事 
---------- ★★ 高綱渡宇治河事 ----------
----------★★★ 木曾惜貴女遣事 
----------  ★ 義経院参事 
----------★★★ 東使戦木曾事 
----------★★★ 巴関東下向事 
----------★★★ 粟津合戦事 
----------  ★ 木曾頸被渡事 
----------  ★ 兼光被誅 並沛公入咸陽宮事


【高倉宮廻宣附源氏汰事】 ★

以仁王(高倉宮)の不遇なプロフィール紹介。
治承四年卯月九日、夜更けに源三位入道頼政が以仁王の許にやってきて平家追討の令旨を書くようそそのかし「急ぎ令旨を下され早く源氏等を召さるべし」と源氏の名を挙げる。

京都には、出羽判官光信が男(なん)伊賀守光基、出羽蔵人光重、出羽冠者光義、
熊野には、六条判官入道為義が子に新宮十郎義盛、平治の乱より彼に隠れ居たりしが、折節上洛して此にあり、
摂津国には、多田蔵人行綱、同次郎知実、同三郎高頼、
大和国には、宇野七郎親治が子に宇野太郎有治、同次郎清治、同三郎義治、同四郎業治、
近江国には、山本冠者義清、柏木判官代義康、錦織冠者義広、
美濃尾張には、山田次郎重弘、河辺太郎重直、同三郎重房、泉太郎重満、浦野四郎重遠、葦敷(あじき)次郎重頼、其子太郎重助、同三郎重隆、木田三郎重長、関田判官代重国、八島先生斉助、同次郎時清、
甲斐国には、逸見冠者義清、同太郎清光、武田太郎信義、同弟に、加々美次郎遠光、安田三郎義定、一条次郎忠頼、同弟板垣三郎兼信、武田兵衛有義、同弟伊沢五郎信光、小笠原次郎長清、
信濃国には、岡田冠者親義、同太郎重義、平賀冠者盛義、同太郎義信、帯刀先生義賢が子に木曾冠者義仲、
伊豆国には、左馬頭義朝が三男に前兵衛権佐頼朝、常盤国には、為義が子義朝が養子に信太三郎先生義憲、佐竹冠者昌義、子息太郎忠義、次郎義宗、四郎義高、五郎義季、
陸奥国には、義朝が末子に、九郎冠者義経とて候。
此等は皆六孫王の苗裔、多田新発意(ただのしぼち)満仲が後胤、頼義、義家が遺孫なり。

廻宣の令旨を源頼政に下すが、それとは別に源家の嫡流ということで源頼朝には別に令旨を下す。

【行家使節事】 ★

たまたま京にいた新宮十郎義盛が頼政に呼ばれ使節を任じられる。十郎は(無官では威厳がないんで)蔵人の位をたまわり、義盛を改名して行家と名乗る。
9日、令旨をいただき、10日夜半、山伏に身をやつして海道(≒東海道)を下る。以下の地を回り案書を与える。

近江国/山本、柏木、錦織
美濃尾張/山田、河辺、泉、浦野、葦敷、関田、八島
信濃/岡田、平賀、木曾次郎(義仲)
甲斐/武田、小笠原、逸見、一条、板垣、安田、伊沢
伊豆国北条/右兵衛佐殿
常陸/(兄なれば)信太、佐竹
あとは甥(義経)なれば告げんとて奥州へこそ下りにけれ。

【頼朝施行事】 

【頼朝の動向】
兵衛佐殿(頼朝)は頼朝(源氏の嫡流)専用の令旨をいただき国々の源氏関係者に連絡をとり、(連絡をうけた)各国の源氏縁故の者はことごとく従った。

被最勝親王勅命、併召具東山東海北陸道堪武勇之輩、可追討清盛入道并従類叛逆輩之由、廻宣二通如此、早守令旨、可有用意、美濃尾張両国源氏等者、勧催東山東海便宜之軍兵可相待、北陸道勇士者、参向勢多辺、相待上洛、可被供奉洛陽也、御即位無相違者、誰不執行国務哉、依廻宣之状、執達如件。
 治承四年五月
  前右兵衛権佐源朝臣

【鳥羽殿鼬沙汰事】 

【法皇の動向】
五月十二日午刻、後白河法皇の滞在する鳥羽殿で、赤くて大きな鼬(いたち)がどっかからやってきて法皇の前を走り回って大騒ぎ。(ハショリ過ぎ)
法皇はひかえていた源蔵人仲兼陰陽頭泰親に遣わしてこのことを占わせる。
と「三日の内の御悦、後には大なる御歎」との結果。
三日の内の御悦=やっと軟禁されてた鳥羽殿から出られる事、じゃあ大いなる御歎って何?と気になる後白河法皇。

*源蔵人仲兼は宇多源氏、後に法住寺合戦で院側につく。


【高倉宮籠三井寺事】 

【以仁王の行方・三井寺】
五月十五日、三井寺に到達。 三井寺は乗円坊阿闍梨慶秀、修定坊阿闍梨定海といった古悪僧らの主導で大衆らによって法輪院に御所をしつらえて以仁王を守固。

【木下馬事】【周朝八匹馬事】【小松大臣情事】

【頼政蜂起の原因/名馬「木の下」エピソード】
源頼政の嫡子伊豆守仲綱は星鹿毛の名馬を「木の下」と名付けて秘蔵していた。(という有名エピソードだけど以下略)結果、辱めをうけたと頼政が反乱を起こすきっかけとなった。

【周朝八匹馬事】
昔、大陸の周帝は八匹の蹄を愛して遂に滅びた。今度の仲綱は一匹の馬の為に一門を絶やすことになった。という中国の故事をひいた喩え話。

【小松大臣情事】
小松大臣(重盛)が生きていればこの馬の事件も穏当に解決しただろーなというエピソード。

【三位入道入寺事】

【頼政の息子達/義仲の兄・仲家の記載】
五月二十日、頼政の息子達が集結。 源三位入道嫡子伊豆守仲綱、次男源大夫判官兼綱〈甥を養子にする〉、三男判官代頼兼、木曾冠者義仲の兄で六条蔵人仲家、その子蔵人太郎。 *六条蔵人は帯刀先生義賢の子。義賢討たれて後孤児になったのを三位入道が養子にした。

【宇治合戦附頼政最後事】 ▲

【以仁王の行方その2・宇治平等院】
以仁王は馬に乗って三井寺を出発。乗円坊阿闍梨慶秀(70)は自分の代わりに刑部房俊秀を供につける。相模国住人で山内須藤刑部丞俊通(平治合戦のとき義朝軍で戦い六条河原で討死)の遺児。 他に三位入道の一類、并寺法師ほか三百余騎が供につき、一行は宇治に向かった。 約12kmのうちに以仁王は6度落馬、休息をとるため平等院に入り、衆徒も武士も宇治橋の橋桁を三間上げて警固する。

【平家の対応】
平家は以仁王が南都(=興福寺)を目指していると聞き、追討使二万騎を差し向ける。 大将格:左兵衛督知盛卿、蔵人頭重衡朝臣、中宮亮通盛朝臣、薩摩守忠度朝臣、左馬頭行盛朝臣、淡路守清房朝臣 侍大将:上総忠清、上総大夫判官忠綱、摂津判官盛澄、高橋判官長綱、河内判官季国、飛騨守景家、飛騨判官景高。

【宇治川合戦】
平家の兵は宇治川に対陣、この中に信濃国住人、吉田安藤馬允、笠原平五、常葉江三郎をはじめとして二百余騎が進み出て(弓矢で)戦うが常葉が内甲を射られて退く。 夜も明けかけた頃、以仁王側で戦う悪僧・筒井の浄妙明春という者が進み出てミラクルな戦いぶりをみせる。これをみた一人当千と言われた一来法師(17)も強さを見せつけたいと狭い橋桁の上で明春を飛び越えて前に出て戦うがこれは最後に討たれてしまう。 他にも源頼政の指揮で渡辺党の省、連、至、覚、授、与、競、唱、列、配、早、清、進なども続いて戦う。 ラチがあかないので平家方は渡河を計画、下野国住人・足利又太郎忠綱(17)がガイドをし、ついに平等院の惣門の前に進む。 大夫判官兼綱(頼政の嫡子)に平家の侍、飛騨兵衛尉景康・上総次郎友綱はじめ三百余騎でかかる。
源三位入道(頼政)は、薄墨染の長絹直垂に品革威の鎧を着て今日を限りとや思いけん、甲は着けざりけり。紫革威とは、藍皮に文にしたをぞ付たりける。 嫡子伊豆守仲綱は、赤地の錦直垂に黒糸威の鎧着たり、これも甲は着けざりけり。矢束を長く引かんとなり。 同舎弟源大夫判官兼綱は、萌黄の生絹直垂に緋威の鎧着て白星の甲に芦毛の馬にぞ乗たりける。 父子兄弟矢先を揃て散々に射る。 その間に以仁王は南を指して逃走、頼政も続いて退却。 上総太郎判官忠綱は七百余騎でこれを追う。

【兼綱の最期】
源大夫判官兼綱は一人残って敵を食い止めていたが重傷を負い、頼政と合流しようとしていた所を忠綱に呼び止められて交戦、内甲を射られ戦死。 兼綱の家来播磨次郎省(はぶく)は、敵に取らせまいと主の首を持ち運んで戦ったが、頼政・仲綱ともに自害の知らせをきいて首とともに河に身を投げる。 一方その頃、頼政は右膝を射られ、以仁王の後を追ったが兼綱討死の知らせを聞いて引き返した。

【頼政の切腹】
兼綱の討死に頼政は自害を覚悟、渡辺丁七唱を呼び敵に自分の首を取らせないよう自害の後自分の首を取って隠せと命じ、唱はこれに泣く泣く従う。
<埋木は花咲事もなかりしに身のなるはてぞ哀なりける> と言い終わらぬうちに、太刀の先を腹にあて倒れかかって貫いて死ぬ。(←老人で体力がないので重力に任せてなんとか自害を遂げた) 入道の首は下河部藤三郎が取り、平等院の後戸の板敷の壁をつき破って隠す。

【仲綱の最期】
同子息伊豆守仲綱も散々に戦った後、平等院の御堂に入り物具脱ぎ捨てて切腹。 弥太郎盛兼はその頸を(敵に渡さぬために)落とし、入道の首と一所に隠し置いた。

【兄・仲家の最期】
弥太郎盛兼から頼政・仲綱自害の知らせを聞き、六条蔵人仲家・蔵人太郎父子二人も太刀を抜き、腹と腹をさし違えて死ぬ。 以仁王方の宗徒、渡辺党もほとんどが自害・討死し逃げた者は少なかった。渡辺党の競も討死。 伊豆守仲綱の郎党の公藤四郎、同五郎兄弟は御室戸より伊勢路に向けて落ちていった。

【宮御子達事】 ▲

【以仁王の御子】
以仁王は八条院に仕える女房・三位殿(伊予守盛章の娘)との間に若宮姫宮をもうけていた。 前右大将宗盛は池中納言頼盛をつかわして御子の引き渡しを要求。若宮は出家させられるがのちに18歳で亡くなった。 殷富門女院に仕える治部卿局とも若宮姫宮をもうけていたがこれも強制的に出家。

【還俗の宮の出自】
この他に南都にも書写の宮という女房との間に御子が1人おり、以仁王の乳人讃岐前司重秀が北国へ連れて逃げていた。 これを義仲が保護、越中国宮崎に御所を造って迎え元服させる。 それゆえこの御子を「木曾が宮」とも「還俗の宮」ともいう。

【頼朝鎌倉入勧賞附平家方人罪科事】 ▲

【頼朝の信賞必罰】
頼朝(兵衛佐殿)は鎌倉へ帰り勧賞する。 遠江→安田三郎/駿河→一条次郎/上総→介八郎/下総→千葉介をそれぞれ与える。 そのほか奉公の忠により国々庄々を分け与えた。 次に罪科のあるものを裁断。大場三郎景親を介八郎あずかりにしておいたが、大場の舎兄・懐島平権頭に斬らせる。景親の子・太郎は足利又太郎が斬る。俣野五郎は京へ逃げ去る。 その他戦場での臆病者の首を斬ること60あまり。 他にも【長尾五郎エピソード】などあるが割愛。
この信賞必罰により八箇国の大名小名が頼朝に従い、其勢四十万余騎といわれる。

【源姓各氏の動向】
(頼朝の動向により)今は東国には平家の攻め来るおそれもないということで、十郎蔵人行家、木曾冠者義仲を始めとして一性の源氏、一条・安田・逸見・武田・小笠原等と平家追討の談義を様々にしていた。

【木曾謀叛事】 

【義仲の生い立ち】
木曽という土地と義仲の出自の説明。平家物語よりも若干経緯が詳しい。
(以下ほぼ原文) 信濃国安曇郡に木曾と云ふ山里あり。 彼所の住人に、木曾冠者義仲と言うは、故六条判官為義が孫、帯刀先生義賢には二男なり。 義仲ここに居住しける事は、父義賢は、武蔵国多胡郡の住人秩父二郎大夫重澄が養子なり。 義賢武蔵国比企郡へ通りけるを、去久寿二年二月に、左馬頭義朝が嫡男悪源太義平、相模国大倉の口にて討ちてけり。

【義仲生い立ちエピソード】
義賢は義平には叔父なれば、木曾と悪源太とは従父兄弟なり。 父が討れける時は木曾は二歳、名をば駒王丸と言う。 悪源太は義賢を討ちて京上しけるが、畠山庄司重能に言い置けるは、駒王をも尋ね出して必害すべし、生き残っては、後悪しかるべしと。 重能確かに承りぬとは言いたりけれども、いかゞ二歳の子に刀をば振うべき、不便なりと思いて、折節斎藤別当真盛が武蔵へ下りたりけるを悦びて、駒王丸を母にいだかせて、是養い給えと言いやりたりければ、真盛請け取りて、七箇日おきて案じけるは、東国というは皆源氏の家人なり、憖(なまじい)に養い置きて、討れたらんも頼む甲斐なし、討たれじとせんも身の煩いたるべし、兎も角も叶いがたしと思いて、「木曾は山深き所なり、中三権頭は世にある者なり、隠し養いて人と成りたらば、主とも頼めかし」とて母に抱かせて信濃国に送りよこす。 斎藤別当情あり。 母懐に抱えて、泣々信濃へ逃げ越えて、木曾中三権頭(兼遠)に見参していだき出して言う様は、「我女の身なり、甲斐甲斐しく養い立てんとも覚えず深く和殿を頼むなり、養い立てて神あらば子にもし百に一も世にある事もあらばかこちぐさにもし候え、悪しくば従者にも仕い候え」という。 兼遠哀れと思いける上、「この人はまさしく八幡殿には四代の御孫なり、世の中の淵は瀬となる喩えあり、今こそ孤子(みなしご)にて御座すとも、知らず世の末には日本国の武家の主とも成りやし給わん、如何様(いかさま)にも養い立てて北陸道の大将軍になし奉って世にあらん」と思う心有りければ、頼もしく請け取りて、木曾の山下という所に隠し置きて二十余年が間育み養いけり。

【義仲成人後】
然るべき事にや、弓矢を取りて人に勝れ、心剛(ごう)に、馬に乗りてよし。 保元平治に源氏ことごとく亡びぬと聞えしかば、木曾七八歳のをさな心に安からずと思いて、あわれ平家を討ち失いて、世を取らばやと思う心あり。 馬を馳せ弓を射るも、是は平家を攻むべき手習(てならい)とぞあてがひける。 長大ののち兼遠に言いけるは「我は孤なりけるを、和殿の育(はぐくみ)に依て成人せり、かかるたよりなき身に思い立つべき事ならねども八幡殿の後胤として、一門の宿敵を余る所に見るべきに非ず、平家を誅して世に立たばやと存ず、いかゞ有るべきと問う。 兼遠ほくそ笑みて、「殿を今まで育み奉る本意、偏えにその事にあり、はばかりたまう事なかれ」と言いければ、その後は木曾、種々の謀を思いめぐらして京都へも度々忍び上って伺いけり。 片山陰(かたやまかげ)に隠れ居て、人にもはか/゛\しく見知らざりければ、常は六波羅辺にたゝずみ伺けれども、平家の運尽きざりける程、本意を遂げざりけるに、高倉宮の令旨を給わりけるより、今は憚るに及ばず。色に顕れて謀叛をおこし、国中の兵を駆り従えて、既に千余騎に及べりと聞ゆ。

【土地案内】
木曾という所は究竟の城郭なり、長山遥かにつづいて禽獣猶希に、大河漲り下って、人跡また幽(かすか)なり。 谷深く梯(かけはし)危くしては足をそばだててて歩み、峰高く巌(いわお)きびしゅうしては眼を載せて行く。尾を越え尾に向って心をくだき、谷を出で谷に入って思いを費やす。 東は信濃、上野、武蔵、相模に通って奥広く、南は美濃国に境、道一にして口狭し、行程三日の深山なり。 たとい数千万騎を以ても攻め落すべき様なし、況や桟梯引落としてたてこもらば、馬も人も通うべき所にあらず。 義仲ここに居住して謀叛を起こし、攻め上って平家を滅ぼすべしと聞こえければ、木曾は信濃にとりても南の端、都も無下に近ければ、こはいかゞせんと上下騒ぎけり。

【兼遠起請事】

【木曽に対する平家の対応】
(義仲の謀反のウワサに)平家は驚き、中三権頭を呼びつけ「兼遠は木曾冠者義仲を養育し、謀叛を企てているというのが本当ならば速やかに義仲を捕縛せよ、命令に叛けば兼遠の首を刎ねる」と命じる。

【兼遠の陳情】
「義仲の父・帯刀先生義賢は、去る久寿の頃相模国大倉の口にて甥の悪源太義平に討たれた。義仲その時二歳、母が連れて逃げてきたのを一旦受取りこれまで育ててきたが、謀叛の件は人の虚言である。ただし命令とあらば国へ戻り、自分の息子や家人らと心を入れ替えて義仲を捕縛しよう」と陳情する。 これを聞いた右大将家はさらに、義仲捕縛の誓約書(起請文)の提出を求める。 兼遠は(嘘の)起請文を書かない訳にはいかず、義仲を世に知らしめす為には神仏も赦すだろうと、命を懸け熊野の午王の裏に起請文を書く。

謹請再拝再拝   
早依有謀叛企、可搦進木曾冠者義仲由、起請文事 右上奉始梵天帝釈、四大天王、日月三光、七耀九星、二十八宿、下内海、外海、竜神八部、竪牢地祇、冥官冥衆、日本国中、七道諸国、大小諸神、鎮守王城、諸大明神、驚申而白、木曾冠者義仲者、為六孫王之苗裔、継八幡殿後胤弓馬之家也、武芸之器也、依之被引源家之執心、為謝宿祖之怨念、相語北陸諸国之凶党、擬滅平家一族之忠臣之由、有其聞、甚以濫吹也、早仰養父中三権頭兼遠而可搦進彼義仲云云、謹蒙厳命畢、任被仰下之旨、速可搦進義仲、若偽申者、上件之神祇冥衆之罰於、兼遠之八万四千之毛孔仁蒙天、現世当来、永神明仏陀之利益仁可奉漏之起請状如件。
  
治承五年正月 日 中原兼遠

これにより平家は兼遠を国に帰す。 兼遠は本望を遂げ起請にも背かぬ様にと考えて、根井滋野行親を招いて令旨の件など全て打ち明けて木曽殿を託す。 行親は木曾(殿)をあずかると異計を近隣にめぐらし木曾に軍兵を集める、故帯刀先生義賢のよしみで上野国の勇士、足利の一族已下も木曽殿に従う。

【城太郎資永】
木曽に兵が集まっているという報告に、平家は越後国住人城太郎資永を召還。資永は木曽の兵は資永の軍の1/10にも満たず、自分が討ってくれば大騒ぎするほどでもないと言う。

【尾張国目代早馬事】

 【早馬】
二十四日亥刻に、尾張国目代からの早馬(速達)が六波羅に到着。 熊野の新宮十郎蔵人行家、東国の源氏等数千騎の軍兵を率いて尾張国に入り、これから美濃近江(源氏)をも従えて入京する由を伝える。 六波羅ではこれを聞いて右往左往。京中の貴賎の人々もパニック状態になり治安も悪化。 二十五日、前右大将宗盛卿は近江国の惣官に補せらる。

【平家東国発向附大臣家尊勝陀羅尼事】

【義基法師頸渡事】
【知盛所労上洛事】

【源氏追討軍の編成】
二月一日に源氏(行家軍)追討軍を編成し、三千余騎にて東国へ出発。 征東大将軍:左兵衛督知盛卿/中宮亮通盛朝臣/左少将清経/薩摩守忠度 侍(大将):尾張守実康/伊勢守景綱 追討軍ルートは 一日:粟田口、山階、関山、関寺、粟津原、勢多長橋、野路 二日:野州の河瀬、篠原、堤鳴橋、鏡宿 鏡宿に三日間逗留し、近江国の源氏(山本、柏木、錦織、佐々木)を従えて美濃国赤坂に到着。 また、美濃国の凶徒を従えて、五千余騎にて尾張国墨俣川に到着。 【追討軍vs源氏(行家)軍】 十郎蔵人行家は、美濃国板倉にたてこもっていたが平家に背後の山を火攻めにされて退却。 同国中原に陣をとるがその軍勢は千騎に過ぎない。

【尊勝陀羅尼不動明王エピソード】
二月七日大臣已下の家々にて、尊勝陀羅尼・不動明王(経)を奉書し供養せよとのこと。 このほかにも諸寺の御読経、諸社の奉弊、大法秘法数を尽くして兵乱の平定イベントを行う。

【義基法師頸渡事】
二月九日、武蔵権守源義基法師(源義家の血統)の首が、頼朝の同意を得て獄門にかけられる。 子息の石川判官代義兼は生捕りに。
【知盛所労上洛事】
二月十二日、征東将軍左兵衛督知盛卿は病気で墨俣から帰還。 副将軍の左少将清経も同じく帰還、それ以外の者は美濃国に待機。 戦況がはかばかしくないので、今度は右大将宗盛が下向すると言い出す。

【宇佐公通脚力附伊予国飛脚事】

【九州謀反の知らせ】
二月十三日、宇佐大郡司公通から手紙が六波羅に届く。 九国の住人、菊地次郎高直・原田大夫種直・緒方三郎惟義・臼杵・部槻・松浦党はじめ併せて謀叛、東国の頼朝に味方し、西府の下知には従わぬとのこと。 肥後守貞能は、この知らせは虚言と捉える。「加様の時は虚言多き事なり、東国北国の輩は、誠に義仲頼朝に相従ふ事も侍るらん、西海の奴原は平家大御恩の者共なり、いかでか君をば背きまいらすべき、貞能罷り下りて、誡に鎮め侍るべし」

【伊予謀反の知らせ】
二月十六日、近江美濃両国の凶賊の首が七条川原にて検非違使に引き渡され、東西の獄門にかけられる。 同二月十七日、伊予国より飛脚が六波羅に着く。 伊予国住人河野介通清、去年の冬ごろから謀叛をおこし道前道後の境にある高縄の城に引き籠っていたが、これに対し備後国住人額入道西寂、鞆の浦より数千艘の兵船を整えて高縄城を攻略。 通清を討取ったが、四国はなお静まらず、西寂は正二月もなお伊予に逗留している、とのこと。 通清が子息に四郎通信は、高縄城を脱出すると安芸国の奴田郷より三十艘の兵船をそろえて漁船にみせかけて伊予国へ渡った。 遡ること二月一日、室高砂の遊君を集めて船遊していた西寂を生け捕り、高縄城で磔(はりつけ)にした。また、鋸でなぶり切りに頸を切ったともいう。 西寂死亡により新井武智の一族、河野に従い、東国(頼朝)の味方となった。

【那智新宮の不穏】
また、熊野別当田部法印堪増已下、那智新宮の衆徒、吉野十津川の輩までが東国側についたというウワサが立つ。 【東国北国の凶徒征伐の宣旨】 同二月十七日、太政入道(清盛)、子息前右大将宗盛を以て法住寺の御所(後白河法皇)にこの度の謀反騒動の件を報告。法皇の反応は生温かかった。 同二月十九日、東国北国の賊衆・頼朝義仲与力同心の凶徒征伐の宣旨が、越後国住人余五将軍が末葉城太郎平資永と陸奥国住人藤原秀衡に下される。

【太神宮祭文東国討手帰洛天下餓死事】 

【行家の進軍と動向】 十郎蔵人は所々の戦に負けて参河国の国府で休息。ついでに伊勢太神宮へ治承五年五月十九日 付で祭文を書き、神馬三匹/銀剣一振/上矢二筋をつけて太神宮へ奉納。 去る三月十一日より、尾張国墨俣川から度々戦ってきたが源氏軍は敗退をくりかえす。三河国矢矯川の戦いでは平家も多く討たれた上に東国源氏が雲霞のごとく攻め上ってくるとの噂に臆して、同三月二十五日に、重衡維盛以下討手の使いが帰京。

【飢饉の様子】
三月雨風起り、麦苗不秀でず多く黄死す。九月に霜降り秋早く寒し、禾穂熱せざり、皆青乾す、という本文あり。 加様によからぬ事のみ在しかば、天下大に飢饉して、人民多餓死に及べり。 僅に生者も、或は地をすて境を出でて此彼に行き、或は妻子を忘れて山野に住む、浪人ちまたに伶弊し、憂の音耳に満てり。かくて年も暮れにき。 明年はさりとて立直る事もやと思ひし程に、今年は又疫癘(えきれい)さへ打副(そ)えて、飢えても死に、病みても死ぬ、ひたすら思ひ侘びて、事宜しき様したる人も、形をやつし様を隠して諂(へつら)い行く。さるかとすればやがて倒れ臥して死ぬ。路頭に死人のおほき事、算を乱せるが如し。されば馬車も死人の上を通る。臭香京中に充満ちて、道行人もたやすからず。 かかりければ、あまりに餓死に責められて、人の家を片はしより壊(こぼ)ちて市に持ち出でつゝ、薪の料に売りけり。その中に薄く朱などの付きたるも有りけり、是は為方(せんかた)なき貧人が、古き仏像卒都婆などを破って、一旦の命を過ぎんとてかく売けるにこそ、誠に濁世乱漫(じょくせらんまん)の折といいながら、心うかりける事共なり。 仏説にいわく、我法滅尽、水旱不調五穀不熟、疫気流行、死亡者多と、仏法王法亡つゝ、人民百姓うれへけり。 一天の乱逆、五穀の不熟、金言さらに違わざりけり。

【頼朝追討庁宣秀衡系図事】 

【頼朝追討御下文】 四月二八日、頼朝追討の院庁の御下文を(治承五年四月二十八日付で)陸奥国住人藤原秀衡の許へ下す。 *左大史小槻宿禰 奉(差出人) 秀衡はこの御下文をたまわったが頼朝の勢いを知っていたので命令をスルー。

【信濃横田川原軍事】 ★★★

【城資永の動向】
越後国住人城太郎平資職(後に資永と改名/与五将軍維茂が四代の後胤、奥山太郎永家が孫、城鬼九郎資国が子也)は木曾冠者義仲を追討のため、同じく庁下文をたまわる。 同六月二十五日、資永は越後・出羽両国で募兵、信濃国住人で源氏に背いて平家方につく者もあり、その勢は六万余騎。
【城軍の進軍】
同国住人小沢左衛門尉景俊を先として信濃国へ進軍、六万余騎を三手に分ける。 浜小平太、橋田の太郎大将軍、一万余騎で筑摩越へ 津波田庄司大夫宗親大将軍、一万余騎で上田越 資永は四万余騎で越後国府へ→信濃国境関山へ 先陣を争い、勝湛房が子息に藤新大夫奥山権守、その子の横新大夫伴藤別当、家子には立川承賀将軍三郎、信濃武者には笠原平五、その甥に平四郎星名権八等をはじめ五百余騎が参上。
【白鳥川原布陣】
(城軍は)信濃国へ打越て、筑摩河の端、横田河原に陣をとる。 木曾は、落合五郎兼行、塩田八郎高光、望月太郎、同次郎、八島四郎行忠、今井四郎兼平、樋口次郎兼光、楯六郎親忠、高梨、根井、大室、小室をはじめ信濃・上野両国の兵二千余騎を率いて白鳥川原に陣をとる。 楯六郎親忠は横田川原に斥候に出ると申し出、白鳥川原から塩尻方面へ出て見渡すと、横田、篠野井、石川あたりに城軍が火をかけて焼き払っている模様。 親忠は大法堂の前で甲を脱いで八幡社を伏拝む。乗替(の馬をあずかる家人?)を使い木曾殿に報告し、このままでは八幡の御宝殿も焼失のおそれもあるので急遽来いという。 木曾は通夜(よもすがら)大法堂に馬をかけさせ、八幡社を伏拝み願を立てた。

【木曽軍出陣と開戦】
養和元年六月十四日の辰の一点。 源氏方より進む輩、
上野国には那和太郎、物井五郎、小角六郎、西七郎、
信濃国には根井小弥太、其子楯六郎親忠、八島四郎行忠、落合五郎兼行、根津泰平が子息根津次郎貞行、同三郎信貞、海野弥平四郎行弘、小室太郎、望月次郎、同三郎、志賀七郎、同八郎、桜井太郎、同次郎、石突次郎、平原次郎景能、
諏訪上宮には諏訪次郎、千野太郎、
下宮には手塚別当、同太郎、
木曾党には、中三権頭兼遠が子息樋口次郎兼光、今井四郎兼平、与次、与三、木曾中太、弥中太、検非違所八郎、東十郎進士禅師、金剛禅師
郎等乗替もなく百騎轡(くつばみ)を並べて筑摩河を渡り、北上する。 城太郎軍四万余騎、入れ替りながら戦うが木曾軍百騎の勢に苦戦し退却、木曽軍も河を渡って帰陣。

【笠原のエキシビジョン】
城太郎は信濃国住人笠原平五頼直に劣勢の事態を相談すると「越後信濃は境近き国なれば伝(つて)にも聞き給ひけん、頼直今年五十三、合戦する事二十六度、未だ不覚の名を取らず。但し年明け盛り過ぎぬれば、力と心と相叶はず、今此仰を蒙むる事面目なり、今日の先蒐て見参に入らん」と、自軍三百余騎のうちの精鋭八十五騎を引き連れて筑摩河を渡り、名乗りを上げる。 上野国住人高山党三百余騎がこれに応じ取り囲むようにして戦うが、九十三騎まで兵を減らす。 一方、笠原方の八十五騎は四十二騎になり、両軍は本陣に引き返した。 。源平どちらもこの戦いぶりには感動。
【西エピソード】
上野国住人西七郎広助は同国高山の者共が笠原に討たれたので、五十騎の勢で河を渡ってくる。 敵の陣からは信濃国住人富部三郎家俊が十三騎で進み出て互いに名乗り合うが、西は自分に不釣り合いの身分の低い敵だと袖にしようとした。これに富部は反論し合意して戦闘。富部三郎は先程の笠原のエキシビジョン戦闘の八十五騎の一人として活躍した後だったので疲れていたため、最終的に西七郎に討たれた。
【杵淵エピソード】
この富部の郎等で杵淵小源太重光という者がいたが、主に勘当されていた。なんとか手柄を取って勘当を許されたいと考えて近くにいたのだが気がつけば主の富部は首をとられていた。 西七郎を見つけて声をかけるが西は逃走。杵淵は追いかけると、大力の剛の者らしく取りて押さえて首を掻く。 取り返した富部の首に無念を語ると、西七郎の家子郎等三十七騎とただ一騎で戦う。 いよいよ重傷を負い「主の共に、剛の者自害するを見給へ」と、持っていた西七郎の頸を捨て、富部三郎の頸を抱いて、太刀を口に含み馬より大地に飛び落ちて貫かれて死ぬ。 敵も味方も感嘆し、なかでも木曾は「あはれ剛の奴かな、弓矢取る身は加様の者をこそ召し仕ふべけれ」と、返すがえす惜しんだ。 ここで両軍休憩。

【木曽軍/井上の計略】
木曾は軍議で信濃源氏の井上九郎光基を呼ぶと、井上は「加様の馳合の軍は勢による事なれば、御方の勢は少なし、如何にも軍兵数尽きぬと覚ゆ、されば敵を謀落さん為に、御辺赤旗赤符付て、城太郎が陣に向ひ給へ、さあらば敵御方に勢付けたりとて、荒手の武者を指し向けて戦せよとて休み居べし、その間に白旗白符取り替へて蒐け給はん処に、義仲河を渡して、北南よりさし挟んで蒐け立てば、などか追ひ落とさゞるべき」と策をうちだし、星名党三百余騎引き連れ、赤旗を俄かに作って赤符を白符の上に付けて隠すと、静々と筑摩河を渡って敵陣に向かった。 案の定、城太郎は援軍と考えて使いを出してきた。ここで光基は馬の鼻を返す様にして赤符をかなぐり捨てると白旗にサっと差し挙げて名乗りをあげる。 木曾軍の残りの兵一千五百余騎もこれに合わせて渡河、南北から攻める。 城軍は援軍に気を緩めていたところを襲われて散々に討たれ、城太郎資永は、わずか三百余騎で、越後の国府に退却。越後国住人らも木曾軍に従ってしまったので、城は出羽国金沢に逃走。 木曾軍は関山を固めて越後の国府に落ち着く。

【周武王誅紂王事】 ★

【周の武王エピソード】
武王は謀で誅王を討った話。

【木曽軍の評定(会議)】
木曾は計略で城太郎を攻め落とした。 木曾殿は平家追討の為に越中?国府を拠点にする。 越前国の平泉寺長吏斎明威儀師、稲津新介、 越中国の野尻、河上、石黒党、 加賀国の林、富樫一族 らが集まり評定する。 平家、木曾殿を誅戮の為に北国下向と聞こゆ、源氏に力をや合すべき、平家に忠をや尽くすべきと様々議しけるに、東国は既に兵衛佐殿に随ふと聞ゆ、北国又木曾殿になびきけり、平家の方人等皆国中に安堵せず、されば定めて召されずらん、召に随はずんば平家に同意とて討手を向けらるべし、しかず召されて参らんより、同は志ある体にて、急ぎ木曾殿へ参らんと議しければ、この儀然るべしとて三箇国の兵皆、我も/\と馳参ず。 木曾は北国三ヶ国の木曽軍参戦に対し、にわかに参加するのは不審なので平家のスパイでないという証拠に起請文を書くよう求める。皆、命令に従って起請状を注し、判形を添えて提出。 これに対する恩賞ということで、木曾は信濃駒を一匹づつ贈り、好感度アップ。

【改元(治承→養和)】
七月十四日に改元有り、養和元年。
【内裏の動向】
同七月十五日、左衛門権佐光長によって奏上「興福園城両寺僧侶、依謀叛之罪在繋囚之中、非常之断人主専之、須厚免之処、件輩浴恩蕩、帰本寺之後、若無悔過之思不変野心者、為世為寺、自在後悔歟、戦国之政可思慮之由、有義奏之人、然而彼寺等、不慮之外、空為灰燼、因茲蒼天不変、明神成崇歟、若依此儀者不免彼寺之僧侶者、非赦之本意歟、免否之間叡慮未決、可令計申、左大将実定卿に被問ければ、謀叛之者減死罪一等、可処遠流、而今件輩在繋囚之中免遠流之罪、今度会赦、殊驚司天之奏、為止降相之歎、厚免之条、叡慮之趣、相叶徳政歟」 八月三日、肥後守貞能鎮西へ下る。これは菊地、原田、臼杵、部槻、松浦党等、朝廷に背き東夷(頼朝)に助力したかどで、これを鎮静化するため。 八月九日、官庁にて大仁王会を行う。 同八月廿五日、除目。 陸奥国住人藤原秀衡、征将軍に補された上に当国守に任ぜられる。 越後国住人城太郎資永、越後守に任ぜられる。  #秀衡は頼朝追討のため、資永は義仲追討のためという注文つき さる四月に院庁の御下文により木曾追討を資永に命じ、これは四万余騎を率いて信濃国横田川原で戦ったが敗北、今なお義仲勢力が強まっているので官軍を派遣することを決定。 同八月廿六日、中宮亮通盛、能登守教経已下北国へ進軍開始。 九月九日、通盛教経等の官兵が越後国で源氏と戦ったが敗退。

【資永中風死事】 ★

【資永死亡の連絡】
九月廿日、城次郎資茂(城太郎資永が弟、改名して永茂)から六波羅へ早馬(速達)。 『さる八月廿五日、除目の聞書九月二日到来し、舎兄資永当国の守に任ぜられた。明くる三日、義仲追討の為に五千余騎で再度信州へ出発する夜の戌亥の刻に、天地鳴動し雲上から声が聞こえて曰く「日本第一の大伽藍、金銅十六丈の大仏焼たる平家の方人する者ありや」と、一晩中うなり続けた。 資永は病(中風=脳血管障害)に倒れ、翌早朝(巳刻)死亡。 よって永茂が兄の軍を率いて信濃進軍したいところ、資永任国の越後は木曾が押領しており国務及ばず、北陸の諸国は木曾をおそれて一人も従わず。』 同九月二十八日、この報告に驚いた平家は再度、左馬頭行盛、薩摩守忠度を大将軍として数千騎の軍兵を率いて北国に出発。

【源氏追討祈事】

【院の動向】
兵革の御祈一品ならず、様々の御願を立て、社々に神領を寄せ、神祇官人諸社の宮司、本宮末社まで祈り申すべき由院より召仰せらる。諸寺の僧綱神社仏閣まで調伏の秘法行われる。 天台座主明雲僧正をば、摂政近衛殿承りて根本中堂にして七仏薬師法、 園城寺円恵法親王をば、新宰相泰通承りて金堂にして北斗尊星王の法、 仁和寺守覚法親王をば、九条大納言有遠承りて当寺にして孔雀経法、 このほか諸僧勅宣に依って、北斗尊星、延命大元、弁才陀天、内法外法、数を尽くして行われる。 院御所には、五壇法、房覚前大僧正は降三世、昌雲前権僧正は軍荼利、覚誉権大僧都は大威徳、公顕前大僧正は金剛夜叉、澄憲新僧正は不動明王、各忠勤を抽で殊に丹精を致す。 縦逆臣乱を成す共、争か仏神の助けなからんと、上下頼もしくぞ申しける。

【顕真一万部法華経事】 ▲

【法皇御幸・山門の噂】
同四月十四日、前権少僧都顕真、貴賎上下を勧め、日吉の社にして如法真読の一万部の法華経あり。 御結縁の為にとて、法皇日吉社へ御幸なる。 山門の大衆は院を取り進らせて平家を討つというウワサが立ち、平家の一門周章騒いで六波羅へ馳せ集まる。京中の貴賎途を失って東西に迷へり。軍兵内裏に馳せ参じて、四方の陣を警固す。牛馬人畜足いそがはしく、資財雑物遠近に運びあへり。 十五日に、本三位中将重衡三千余騎を相具して、法皇の御迎えにとて日吉社へ参向しけるを、又何者か云ひたりけん、山門の大衆源氏に与力して頼朝義仲に心を通じて平家を背く間、衆徒をせめん為に、重衡卿大将軍として、既によすると聞きければ、山上坂本騒動して、大衆下僧走迷へり。 大講堂の大鐘ならし、生源寺の推鐘扣てをめき叫ければ、すはや提婆がよするなるは、南都三井の仏法亡し果てて、今又我山の仏法亡さんとや、如何がせんとて、甲冑兵仗太刀長刀、大衆も法師原も有に任て出立つゝ、坂本早尾に充満たり。 法皇大に驚き思召し、公卿殿上人色を失へり。 北面の者の中には、黄水を吐者も有けるとかや。 懸りしかば法皇還御、重衡卿穴穂の辺に参会ひて、迎へ進せて入洛す。 大衆平家を亡さんと云うも虚言、平家の大衆を責めんと云うも実ならず、法皇の御結縁も打醒進せ、山上洛中の騒ぎも斜めならず、よく天狗の荒れたるにこそ不思議。 かくのみあらんには、御物詣も今は御心に任すまじきやらんと、法皇は御心憂くぞ思召されける。

【改元(養和→寿永)】
養和二年五月二十七日、改元あって寿永という。 五月十九日、蔵人左少弁光長は宣旨により、叡山の悪徒永雲を薩摩国、顕真は土佐国へ配流。 これは高倉宮の御子、ならびに伊豆守仲綱が子息を木曾義仲の許へ逃がした罪科とのこと。

【頼朝義仲悪事】 ★★★

【官軍(木曾追討軍)出発】
三月廿六日、木曾追討の官軍出発。 同三月二十七日、宗盛は重任をおそれて内大臣を辞職。
【武田の讒言】
同年三月のころより兵衛佐(頼朝)と木曾冠者との関係が悪化。 甲斐源氏武田太郎信義が子の五郎信光が讒言による。 信光の娘を木曾の嫡子清水冠者を聟にと持ちかけたところ、木曾は娘は貰い受けるはいいが妻ほどの事もない、との返事を遺恨に思い、兵衛佐殿に「木曾義仲、去々年越後の城太郎資永を打落としてより以来、北陸道を打領じて、その勢雲霞の如し、今平家誅戮のために上洛の由披露あり、実には小松大臣の女子の十八に成給ふを、伯父宗盛の養子にして木曾を聟にとらんと、忍々に文ども通ずと承る、かくして平家と一に成りて、当家を亡さんと云ふ梟悪の企てあり、知り召さずもや」と告げ、頼朝はこれに驚く。 また、大場三郎景親が頼朝に「(頼朝の)伯父十郎蔵人行家は平家と八箇度合戦し、二勝六敗、討たれた家子郎等の孝養の為に一箇国欲しいと願い出てきたが、佐殿(頼朝)の『頼朝は十箇国を従わせ、木曾は信濃上野の軍勢で北陸道五箇国を従える、御辺(あなた)も何れの国でも従わせて院に手柄を報告し打取の国として正式に知行すればどうか?』という返事に行家は納得できず『兵衛佐(頼朝)を頼りににしてもダメだ、木曾を頼ろう』と、千余騎の勢を引き連れ信濃国へ越えていった」と報告。
【鎌倉軍出立】
大場の話を聞いた佐殿(頼朝)は「木曾と十郎蔵人(行家)が一つになり、また義仲が平家と親しくなって頼朝に背いてはゆゆしき大事、先手を打って木曾を討たねばイカン」と十万余騎で鎌倉を起ち、上野と信濃との境にある臼井坂を越える。
【木曾の相談】
木曾はこれを聞き、今井樋口等を招集して相談する。 皆は口々に「富部太井に城を構えて応戦しましょう、早く兵に命令を下しましょう」と言う。 木曾はしばらく考えて「そうは言うが、源氏は父を殺し親類を滅ぼして出世する一族よと世間にいわれ、平家追討の大事を前に兵衛佐と戦闘になれば、一門の滅亡他人の嘲哢最も恥だ」と、木曾は越後へ退却する。 頼朝も、この穏便な対処に引返した。 武蔵国月田川の近く青鳥野に陣を取り、天野藤内民部遠景、岡崎四郎義真、副使に安達新三郎清経を木曾へ使いに出す。 「平家朝威を背き奉り、仏法を亡に依て、源家同姓の輩に仰て、速に追討すべきの由院宣を下訖されぬ、尤夜を以て日に続で、逆臣を討て宸襟を休め奉るべき処に、十郎蔵人私の謀叛を起し、頼朝追討の企てありと聞ゆ、而るを彼人に同心して扶持し置かれるの条、且は一門の不合、且は平家の嘲なり、但し御所存を弁ぜず、もし異なる子細なくば、速かに十郎蔵人を出歟され、それさもなくば、美妙水(清水)殿を是へ渡し給へ、父子の儀をなし奉るべし、両条の内一も承引なくんば、兵を指遣して誅し奉るべしと慥に云ふべし」
【木曾の対鎌倉評定】
木曾は使いの話を聞き、郎等たちを招集してこれを議論する。 小室太郎は「先度の穏便今更変改有るべからず、若し承引なくんば東国北国の大合戦、軍兵数尽きて朝敵追討に力あるまじ、本より御意趣なき上は、早く御曹司を渡し奉るべきか」と言う。 今井四郎兼平は「兵衛佐殿と終に御仲よかるまじ、故帯刀先生殿をば悪源太殿討給ひぬ、意趣定て御座らんと佐殿も思召すらん、幼き御曹司を他所に置き奉って、所々にて思し召さんも心苦し、平家を討たんと云ふも御家門の為なり、只一度に思し召し切って兎も角も成し給へ」と言う。
【清水冠者エピソード】
この御曹司は今井四郎兼平が妹の腹で十一歳になる。 義仲は小室太郎の案を採用し、清水を呼んで「己をば兵衛佐の子にせんと宣へば遣すなり、相構へて悪びれずして、一方の固め共なれ」と言うと、清水冠者返事をせず、かしこまって父の前を立つと母や乳母に向かって「我をば鎌倉へ遣わされ候、帰り参らん程の形見に」と言って笠懸を七番を射て見せる。
【木曾の返事/清水冠者の出発】
木曾は頼朝の使者に会い、様々にもてなす。 頼朝への返事には「十郎蔵人に意趣御座ましけん事は存知らず、又呼越したる事もなし、打憑み見え来給ひたれば、只自然の情を存る計に候、誠に平家追討の大事を閣て、何の遺恨ありてか謀叛の企みあるべき、人の讒言に侍ふか、信用に及ぶべからず、又清水冠者の事は、未東西不覚えの者候、仰を蒙て進せねば所存を籠たるに似たり、召に随て是を進す、不便にこそ思召されめ」と伝え、清水殿を岡崎四郎藤内民部に託す。 両使は(清水冠者を)鎌倉へ連れ帰る。このとき宇野太郎行氏(美妙水冠者と同年)を供につける。
【郎党の妻らの起請文】
木曾は宗徒の郎等三十余人の妻を集めて「美妙水冠者をば、汝等が夫の身替りに鎌倉へ遣しぬ、若冠者惜しむならば、兵衛佐、東国の家人催集めて推寄すべし、両陣矢さきを合せば共に討死ぬべし、世中を鎮めんとの計ひにて冠者をば兵衛佐に渡さぬ」と言うと、女房らは皆「穴目出の御計ひや、加程に思召す主君の御恩を忘れ奉りて、妻子悲しとて、いづくの浦よりも落来夫共には面を合せじ、ちゝの社の前渡せし、照日月の下に住まじ」と涙ながらに各起請を書いて、木曾殿に差し出した。

【源氏追討使事】 ★★

【官軍の北陸進軍】
寿永二年四月十七日、官軍は木曾追討の為に北国へ進攻開始。 さらにその後東国に向かい頼朝を誅罰するとのこと。 官軍はその勢十万余騎、大将軍六人、宗徒の侍二十余人、先陣後陣を定めそれぞれに駒を早めて下向。
大将軍:権亮三位中将維盛卿、越前三位通盛卿、薩摩守忠度、左馬頭行盛、参河守知度、但馬守経正、淡路守清房、讃岐守維時、刑部大輔度盛、
侍大将:越中前司盛俊、子息太郎判官盛綱、同次郎兵衛尉盛嗣、上総守忠清、子息五郎兵衛尉忠光、七郎兵衛景清、飛騨判官景家、子息大夫判官景高、上総判官忠経、河内判官季国、高橋判官長綱、武蔵三郎左衛門有国 以下、受領検非違使、靱負尉、兵衛尉、有官の輩三百四十余人。
上記のほかにも畿内は去年から、山城、大和、摂津国、河内、和泉、紀伊国より徴兵。 伊賀、伊勢、尾張、参河(の武士)は参加、近江、美濃、飛騨は少々参加。 西国では、播磨、美作、備前、備中、備後、安芸、周防、長門、豊前、豊後、筑前、筑後、大隈、薩摩、去年の冬より召し上げられ開戦の準備をしていた。 中でも武蔵国住人長井斎藤別当実盛は、元々は加賀国の者であるという。
不参加:東海道の遠江以東、北陸道の若狭以北、山陰道の但馬、丹後、因幡、伯耆、出雲、石見、山陽、南海、西海、四国

【官軍出発セレモニー】
神功皇后より以来天下に丞相の合戦は廿三度、うち十万余騎の軍兵が一つの戦いに進軍するのは、今回を含め七度。 六人の将軍が立つのは(日本では)過去一度もなく、京の人々は源氏は完全に滅ぶなこりゃと思う。 六人の大将軍、各一色の装束で(華麗に)馬の轡を並べて西八条の南庭に参列する。 容顔美麗の気色、馬鞍錦繍の有様は、絵師の筆も及ばないと上下男女とも賛美した。 盛俊已下の侍共は、下馬し鎧の袖を合せて庭上に控える。
【厳島神社ファンタジー】
宗盛へ暇の挨拶をして出てきた所に、白浄衣に立烏帽子の老人が六人梅のスハエ(木若)に巻数(かんじゅ)を付けて捧げ持ち、六人の大将軍に渡す。  *実はこの翁たちは厳島明神の化身で、将軍達が馬を下りて挨拶をしようとした所消え失せるというファンタジー。 門出よしとて弓を脇に挟つゝ、各巻数をひらいて読むと各々以下のように書き付けてある。 第一維盛卿 堯雨斜灑 平家平国 頓河餓流 源子失源 厳島明神より 権亮三位中将殿と書れたり。 第二通盛卿 平家庭上 立不老門 源氏蓬苑 放毒箭鏑 厳島明神  越前三位殿 第三行盛朝臣 東海栄花 開平家園 厳島神風 破源氏家 厳島明神 左馬頭殿 第四知度朝臣 平家繁昌 白駒食庭 源氏衰浪 漁翁失船 厳島明神 参河守殿 第五経正朝臣 日本放日 平家余風 太白犯星 源氏物怪 厳島明神 但馬守殿 第六清房朝臣 平家如王 源氏能敬 源氏似鼓 平家打之 厳島明神 淡路守殿

【官軍の進軍ルートと物資調達】
(官軍はそれぞれが)権門勢家の正税、年貢、神社仏寺の供料供米奪い取り路次の狼藉おびただしい、向かう所すべて没収し、近江の湖を隔てて東西から下っていく。 粟津原、勢多の橋、野路の宿、野州の河原、鏡山に打向、駒を早むる人もあり。 山田矢走の渡して、志那今浜を浦伝ひ、船に竿さす者もあり。 西路には大津、三井寺、片田浦、比良、高島、木津の宿、今津、海津を打過ぎて、荒乳の中山に懸つて、天熊国境、匹壇、三口行越て、敦賀津に着きにけり。 其より井河坂原、木辺山を打登、新道に懸て還山まで連ねたり。 東路には、片山、春の浦、塩津宿を打過ぎて、能美越、中河、虎杖崩より、還山へぞ打合たる。
【木曽軍/燧城へ派兵】
軍兵十万余騎北国に下向との知らせに、木曾は越後国府を動かず、信濃国住人の仁科太郎守弘、加賀国住人、林六郎光明、倉光三郎成澄、匹田二郎俊平、子息小太郎俊弘、近江国住人甲賀入道成覚等を大将とし、燧城へ派遣する。 その軍勢は越前国府、大塩、脇本、鯖波の宿、柚尾坂、今城まで連なるほどで、やがて陣を柚尾の峠にとり、城を燧に構える。
【燧城の堅牢性】
平泉寺の長史斉明は木曾の命令に従って門徒の大衆一千余騎で大野郡を通り、池田越に燧城に入り立てこもる。 燧城は、南は荒乳の中山の境、近江の湖の北端、塩津朝妻の浜に連なる。北は柚尾坂、藤勝寺、淵谷、木辺峠と一つなり。 東は還山の麓より、長山遥かに重ねて越の白峯に連ねたり。 西は海路新道水津浦、三国の湊を境たる所なり。 海山遠く打廻り、越路遥かに見え渡る、磐石高聳挙げて、四方の峯を連ねたれば、北陸道第一の城郭なり。 還山の麓、西は経尾と名づけ東は鼓岡と云ふ、其間二町には過ぎず。南より北へ流れたる山河あり、日野河と名づく。能美新道の二の谷河の落合なり。 左右の山近所なれば大木を倒しがらみをかき、大石を重て水を堰留めたれば、彼方此方の岡を浸し、今城柚尾の大道を、平押にこそ湛へたれ。 水南山の陰を浸して青くして滉瀁たり。波西日の光を沈て紅にして■淪たり。 彼無熱池の渚には、金の砂を敷いて八功徳水を湛へ、昆明池の間には、徳政の船を浮て八重の波に遊びけり。 燧城のしつらひは、大石を重て水をよどみ、大木を横て流を築籠たれば、遥に見渡して湖の如し。船なくしては難渡かりければ、平家の軍兵は、能美新道の境なる岩神山に陣をとる。 源氏は柚尾坂、鼓岡、燧山に陣をとる。両陣海を阻て支へたり。 官軍と隔たる距離は三町に過ぎなかったが難攻不落の城なれば、いたずらに日数をかさねて評定を様々にする。

【斉明射蟇目事】 ★★

【斉明の裏切り】
但馬守経正の祈願が通じたのか、斉明は平家に返忠を企てる。
 #平家は聞体十万余騎、対する木曾はわずかに1/10、負けて平家に生捕られるよりはと思う
薄い切紙に細々と状を書いて、蟇目の中に入れて平家の陣へ射渡したり。 平家はこの蟇目の鳴らぬ事こそ恠しけれとて、取上げ見れば中に切紙の文あり。 ひらいて是を見るにいわく、源平の合戦に依って意ならず木曾が為に駈催されて此城に籠て候。 身は源氏に加わりて心は平家に通ず、此城難所に非ず、谷川を塞で下に堤を築き、しがらみを掻水を関止たれば、東西の山の根に湛て海の如く見ゆれ共、夜に入て、水に心得たらん足軽共を東の山の根へ指遣して、しがらみを切下ならば、山川の習にて、水は程なく旱落候べし、其後案内者して後矢仕るべし、これは越前国平泉寺の長吏斉明が申状なりとぞ書たりける。 平家はおおいに喜び、夜に入り足軽部隊を廻して大石を崩しどけてしがらみを切って流す。海のようにみえた要害の溜池もすぐに水は落ち、燧城は防御機能を失う。

【源氏落燧城事】 ★★

【燧城合戦】
二十七日、平家十万余騎は鬨の声をあげて攻める。 源氏(北国木曽軍)も鬨を合わせて応戦、しかし斉明裏切りで一千余騎を率いて平家方に付き、後箭を射る。源氏はこれに耐えられず越前国河上城まで退却。 平家は斉明を先頭に河上城へ押し寄せる。 源氏はしばらく持ちこたえるが兵糧もなく、河上城も退却して三条野に布陣。 平家は勝ちに乗じてさらに追撃。
【今城寺光平エピソード】
寄手の鬨の音があがるのを待ちかねる源氏(北国木曽軍)の中に、加賀国住人林六郎光明が嫡子今城寺(いまきでら)太郎光平という者があった。 その日の出で立ちは、褐の直垂に袖に紺地の錦を付け、紫糸威の鎧に、大中黒の矢頭高に背負い重藤の弓を持って、八寸に余たる大栗毛という馬に白覆輪の鞍置いて乗る。この馬は非常に口強く(荒馬)、国中に乗りこなせる者はなかった。 実はこの荒くれ馬は林六郎光明の郎等で六動太郎光景という者しか乗りこなせてないのだが、今度の戦いに光平はこれに乗って出陣したいと父に申し出る。 父光明は「弓取りは口の強き馬に乗りては必犬死する事あり、有らざるべき事なり、光景を乗せよ」と言うが、光平は「弓矢取の身は戦場こそ晴にて候へ、此日比労り飼い置て、此大事にのらではいつか乗るべき」と父の戒めにも従わず、とっとと乗って名乗りを上げる。 平家はこれを見て鬨の声をあげ、源氏もこれにあわせる。 鬨の声に驚く馬も多々あったが、なかでも光平の乗る大栗毛は国中第一の荒馬なので抑えられず、仕方なく馬の好きに走らせ、平家も暴れ馬に左右に避ける。 平家の侍で武蔵国住人長井の斎藤別当真盛は、「加賀国には誠に此者共こそあるらめ、彼も斎藤我も斉藤、共に利仁公の末葉なり、恥ある者は名ある者に逢てこそ死ぬるとも死なめ、況一門なり、押並て組ばや」と思い、近づくと「同流の斎藤に、別当真盛」と名乗り、弓を捨てて太刀の鞘も外して組みかかる。実盛が老齢ゆえに危なくなったところを実盛の郎等が二人落ち合って光平の頸を取る。 光平の郎等は押隔てられ一人も近づけなかったので犬死した。 馬は敵の中から走り帰ったが(馬上に)留る者なし。親が云事に少しも違わない。 父の命に従えばこんな犬死にはしなかったのにと、人は皆是を惜んだ。
【三条野退却】
源氏は、矢合わせに光平を討たせ三条野を退却、加賀国篠原の宿に陣をとる。 平家は越前国長畝城に入ってしばし休息をとる。 越中国住人、石黒太郎光弘、高楯二郎光延、泉三郎、福満五郎、千国太郎真高、向田二郎村高、水巻四郎安高、同小太郎安経、中村太郎忠直、福田二郎範高、吉田四郎、賀茂島七郎、宮崎太郎、南保二郎、入前小太郎など集まって評定する。 源氏は越前国燧城を落とされ、既に加賀国へ入と聞く。木曾殿は北国の大将だがいまだ越後国府を動かない。平家にひと戦仕掛けるか、このままに木曾殿の所へ行くべきか議論。 吉田四郎は「我等は無勢なり、平家は十万余騎と聞こゆ、中々小勢の分限見えても悪かりなん、急木曾殿へ馳参、大勢の前を蒐べきやらん」という。 石黒太郎は「弓箭とる身は猿事なし、大勢小勢をばいうべからず、如何にも御方を後に当て、敵に向ふは武者の法なり、戦せずして参りたらば、定めて尋ね給はんずらん、勢はいくら程ぞ、陣をば何くに取ったるぞ、御方には誰が手負い討たれたるなど問はれん時は、如何が陣じ申べきなれば、大将軍の思ひ給はん事もいう甲斐なし、又東国の聞えもしかるべからず、さらばまず平家に打向って、敵をも一矢射、我等も一矢射られて、疵をこうむって参りたらんこそ面目なれ」と言えば、皆賛成して石黒宮崎を先陣に五百余騎で起つ。

【北国所々合戦事】 ★★★

【安宅渡戦】
五月二日、平家は越前国を従えて長畝城を起ち、斉明を先行させ加賀国へ進攻。 源氏(木曾北国武士団軍)は篠原に城郭を構えていたが官軍の勢力に耐えられず、佐見、白江、成合の池を過ぎ、安宅の渡、住吉浜まで退却して陣をたてなおす。 先陣は安宅に到着し、後陣は黒崎、橋立、追塩、塩越、熊坂山、蓮浦、牛山が原まで連なる。 権亮三位中将維盛已下、宗徒の人々一万余騎、篠原の宿に陣をとる。 (木曽軍の)越中・加賀の武士団らは安宅の渡しに集まり、橋板三間引き落として城を構え、垣楯を掻いて平家を待つ。 そこに越中前司盛俊の一党五千余騎が押し寄せるが渡河できず、南の岸に控える。 源平は川を隔てて遠矢を射るが日数が立っても決着がつかない。 盛俊は子息の盛綱を呼び、浅瀬を渡らせて渡河ポイントを見つける。 源氏はこれを見て、平家を渡らせるな、陸に上げる前に射殺せと、一千余騎轡並べて散々に射ると、平家の先陣三百余騎は射たれ海に流される。 水巻の四郎安高は父子六騎で馬を水に入れ散々に戦うが飛騨守景家の一党の中に囲まれて、三騎討たれ三騎は手負いをおって退く。 石黒太郎兄弟五騎は馬の腹際まで水に入って散々に射るが、越中前司盛俊の中指しの矢が石黒太郎に当たって落馬、水面に投げ出されたが舎弟福満五郎に引き上げられ助けられた。 石黒隊は朴坂越に帰って灸治(治療)。十日ばかりたって砺波の戦に参戦。
【安宅退却】
林、富樫、下田、倉光も追い立てられて、安宅城を退却。 加賀国住人井家二郎範方は十七騎の勢で根上の松(東は沼、西は海で道狭く逃げ場がない場所)あたりまで十一度戦うが、大勢に取り囲まれてついに討たれる。 富樫次郎家経(黒糸威の鎧に鴾毛の馬に乗る)は三十余騎で防戦しつつ逃げていたが、騎馬の腹を射られて跳ね落ちる。富樫の外戚の甥で安江二郎盛高、近くの四五騎の郎等に馬の提供を求めると、新参者の新三郎家員が馬を提供し、北をさして落ち延びる。 こんなかんじで源氏(北国木曽軍)は安宅の湊から退却、今湊、藤塚、小河、浜倉部、双河を過ぎ、大野庄に陣をとる。 平家はもぬけの殻になった林富樫の館に入ってしばらく休息し、京に飛脚を立てる。 この報告書によると、『四月廿七日、越前国燧城で当国平泉寺長吏斉明が投降し先陣を申し出たので、これに案内させて当国の敵を平定した。 五月二日、加賀国へ進攻、源氏軍は安宅の渡に城郭を構えたがこれも破り、林富樫の二箇所の城も追い落とし、北国は今や手の内にあり、とのこと。これにより加賀国を安堵。』
【越中前司盛俊の般若野布陣】
源氏(木曽北国軍)は木曾殿へ早馬を立てる。 燧城を斉明の返忠により攻め落とされ、あちこちで負けて加賀国に退却、安宅の城でも味方の兵多く討たれ、林、富樫の党類も打ち落とされた、と。 斉明は(黒糸威の腹巻に長刀脇に挟み)、平家の陣で三位中将の前にひざまづき「木曾は現在越後国府にあり、今度の勝ち戦で越前加賀を従えた上は、早馬を立てて打ち上ってはどうか。越中越後の境に寒原という難所があり、ここを越えて敵が越中へ入ったなら一大事、急ぎ官兵を派遣し、寒原を夫妻で越中国を従えましょう」と提案。 盛俊五千余騎を引き連れ加賀と越中との境・倶梨伽羅山を越えて、越中国小矢部河原を過ぎて、般若野に陣をとる。
【今井先遣隊】
木曾は早馬に驚き、今井四郎に命じ六千余騎を越中国に向かわせる。 兼平は鬼臥寒原を過ぎ、四十八箇瀬を渡して越中国婦負郡御服山に陣を取った。

【般若野軍事】 ★★★

【般若野合戦】
五月九日卯刻、源氏(今井軍)六千余騎は白旗を三十流揚げて般若野に押し寄せる。 平家も応戦、未刻まで戦って夕方まで戦闘が及ぶと退却。 源氏は勝ちに乗じて追撃。 平家は礪並郡小矢部の河原まで応戦しつつ退却するが、二千余騎を失う。 残る三千余騎は、夜に入って礪並山倶梨伽羅が峯を越えて加賀国に戻る。

【平家礪並志雄二手事】 ★★

【官軍(木曾追討軍)の進軍状況】
平家は一カ所に集結し、木曾追討の為には十万余騎を二手にけて越中国の国中の兵を攻め従えてはどうかと評定し、実行する。
搦手大将軍:越前三位通盛、三河守知度、 侍(大将):越中前司盛俊、上総守忠清、飛騨守景家、 三万余騎を率いて、志雄山(能登加賀越中三箇国の境)へ向かう。
 #能登路白生→日角→見室尾→青崎→大野→徳蔵宮腰
追手大将軍:三位中将維盛、左馬頭行盛、薩摩守忠度、 侍(大将):上総判官忠経、河内判官季国、高橋判官長綱、越中権頭範高一党五千余騎を先遣、都合七万余騎は加賀と越中の境なる倶梨伽羅山へ向かう。
 #加賀国、井家津、播多、荒井、閑野、竹橋、大庭、崎田、森本まで連なる
【木曾軍の新参】
平家は倶梨伽羅と志雄山の二手に分かれて進軍中と聞き、木曾は越後国府を出て越中に入り、(近隣)各国の兵も続々木曽軍に加わる。
越前国:本庄、樋口、斎藤一族
加賀国:林、富樫、井家津、播多
能登国:土田、関、日置
越中国:野尻、河上、石黒、宮崎など

【三箇馬場願書事】 ★

【白山妙理権現への願書】
木曾は六動寺の国府に到着、その勢五万余騎。 木曾は物書・大夫房覚明を呼び軍兵の内で「戦は策略とはいうが平家はあまりの大軍、神仏の加護が必要、今さいわいにも白山妙理権現の近くに居る事だし願書を進せたい」と言えば、兵らも覚明も確かにと思い、覚明は箭立を取り出して旨趣を顕す。 寿永二年五月九日付で願文を書き、木曾の前で読み上げると、武士はみな感涙を流した。
【白山妙理権現エピソード】
…は割愛、 そういうわけで木曾義仲も、眼を塞いで白山を礼拝し手を合わせ、敬先致祈を誓う。

【倶梨迦羅山事】 ★★★

【御河端での軍議】
木曾は六動寺の国府を出発し、般若野御河端に着くと軍議を開く。 「平家は多勢、味方は無勢。礪並山を越えて松永辺、柳原、小矢部の河原に出れば馳合い戦になるだろうが馳合の戦の習いは必勢、となれば義仲は、倶梨伽羅山の北麓に陣をとろうと思う。源氏が礪並郡倶梨伽羅山の麓に陣を取れば平家は山の峠を過ぎて馬場のあたりに控えるだろう。その時義仲は搦手へ廻っておき追手搦手北南から押し寄せて、平家を倶梨伽羅南谷へ攻落さんと思う、いそぎ馳せ向かい陣をとらん」と、信濃国住人星名党を向かわせる。 巳時、礪並山の北麓に着き、日宮林に旗三十流を立てる。
【倶利伽藍山の由来】
倶梨伽羅山というのは加賀と越中との境にあり、嶺に一宇の伽藍があり。昔、越大徳が諸国修行中、倶梨伽羅明王の行をしたことからこの山を倶梨伽羅岳というらしい。険しい山で馬の人もすれ違う事もできないほど道も細い。

【源氏軍配分事】 ★★★

【木曽軍の砺波山周辺布陣】
五月十一日、(平家十万余騎を2分し礪並、志雄二の道より越中国へ進軍と聞き)木曾は乳母子の今井四郎を呼び、「義仲、信濃国横田河原の戦には三千余騎にて四万余騎を追い落とした。今度は敵十万余騎、味方五万余騎、一人あたり敵二人、敵は馳せ疲れた京家西国の駈武者、こっちは在国案内(地元民で地理にも詳しい)の荒武者、そう思えば安平、吉例に任せてはじめは七手に分けて、後は一つに寄せ合わせ、南の谷に追い落とそう!」と隊を分ける。
志雄山(搦手):十郎蔵人行家、足利矢田判官代義兼、楯六郎親忠、宇野弥平四郎行平、成合、落合をはじめ一万余騎 一手:大将/根井小弥太 二千余騎
  #越中国住人蟹谷二郎に案内させ鷲島を廻り→松永の西の外れ→小耳入を通って→鷲尾へ上り→弥勒山。 一手:大将/今井四郎兼平 二千余騎
  #越中国住人石黒太郎光弘、高楯二郎光延に案内させ松永の日宮林へ。
一手:大将/樋口次郎兼光 三千余騎
  #加賀国住人林、富樫を率い笠野冨田を廻り、竹橋の搦手に向かう。
一手:大将/信濃国住人余田次郎、円子小中太、諏訪三郎、小林次郎、小室太郎忠兼、同小太郎真光の三千余騎 越中国住人宮崎太郎、向田荒次郎兄弟二人に案内させ安楽寺を通り→金峯坂を上り→北黒坂を廻って→倶梨伽羅の峠の西のはづれ葎原へ向かう。
一手:大将/巴女 一千余騎
  #越中国住人水巻四郎、同小太郎に案内者させ鷲岳下へ向かう。
  #巴は木曾中三権頭が娘で、養和元年の信濃国横田の軍にも参戦し敵七騎を討取った功績によりどこへも連れて行き、この大将にした。
一手:木曾 三万余騎
  #小矢部河を渡り→垣生庄に陣を取る。様子見で胡頽子木原、柳原に兵を隠す。
【官軍の動向】
平家は礪並山倶梨伽羅が峯を越え下って東へ進む。 途中ふもとを見下ろすと日宮林に白旗が四五十流立ててあるのを見つける。 この山は四方岩石だらけで敵も滅多に近づくまい、と能登路志雄山方面を固める。 西は味方の勢、東は道ひとつ。 源氏に矢種を射つくさせよと、倶梨伽羅の堂・国見猿馬場の塔橋のあたりにひかえて、赤旗山々岡々に立て並べる。 源氏の策略に違いないと、平家は動かない。 源平の陣は合わせて二町(の近さ)にすぎない。

【新八幡願書事】 ★★★

【垣生新八幡への願書】
木曾は北山の外れに神社を見つけると当国住人池田次郎忠康に由来を尋ね、八幡大菩薩を祀る(垣生庄にあるので)垣生新八幡だと聞き、手書の大夫房覚明を呼ぶ。
【覚明エピソード】
この僧、元は勧学院の文章博士で進士蔵人通広という。出家して西乗坊信救と名乗り、南都で便宜の物書をしていた頃、高倉宮御謀叛の時に三井寺から南都へ牒状をよこして「協力して宮を助け、仏法の破滅をも見継ぐべし」とあり、返牒をこの信救に誂す。 元よりお家芸、様々に返牒を書いたがその内容に『太政入道浄海は、平家の糟糠、武家の塵芥』とあったのを、清盛に見とがめられ「信救め、いかにもして打殺せよ」と内々に命ぜられる。南都に居られなくなって漆を湯に沸して身に浴びて、膨張して癩人のようになって人知れず南都を迷い出る。 命惜しさに東国に落ちる際、(墨俣合戦のあと)三河の国府で十郎蔵人行家に行き会う。行家を頼んで境遇をしかじかと語り、不便だと湯をあびせいたわると、本当の癩病ではないため次第に治る。 行家が参河の国府で伊勢太神宮へ提出した祭文も、この信救の書いたものである。 行家が頼朝と仲違いして信濃へ赴いた際に、同じく木曾についた。 木曾は信救改め古山法師に造り成して、木曾は大夫坊覚明と呼ぶ。白山三箇之馬場願書もこの覚明が書いた。
【話を戻して願書の件】
筆に得於自在詞に兼於徳たれば、木曾は「やゝ大夫殿、幸に当国新八幡宮御宝前に近づき奉て合戦を遂んとす、今度の軍勝ん事疑なし、但且は後代の為、且は当時の祈に、願書一紙、社殿に進せばやと存ず、其相計ひ給へ」という。 覚明は馬から下り、木曾の前にひざまづいて箙の中より矢立を取り出し、墨和筆染畳紙押しひらいて古物を写すが如く、考えて手が止まる事もなくスラスラと書く。
帰命頂礼、八幡大菩薩、日域朝廷之本主、累世明君之嚢祚、為守宝祚為利蒼生、改三身之金容、開三所之権扉、爰項年之間、有平相国、恣管領四海、悩乱万民、猥蔑万乗、焚焼諸寺、已是仏法之讎(あだ)、王法之敵也、義仲苟生弓馬之家、僅継箕裘之塵、見聞彼暴悪、不能顧思慮、任運於天道、投身於国家、試起義兵、欲退凶器、闘戦雖合両家之陣、士卒未得一塵之勇之処、今於一陣上旌之戦場、忽拝三所和光之社壇、機感之純熟已明、兇徒之誅戮無疑矣、降歓喜之涙、銘渇仰於肝、就中曽祖父前陸奥守義家朝臣、寄附身宗廟氏族、自号名於八幡太郎以降、為其門葉者無不帰敬矣、義仲為其後胤、傾頭年久、今起此大功、喩如嬰児以蛤量巨海、蟷螂取斧向奔車、然間為君為国起之、為身為私不起志之至、神鑒在暗、憑哉、悦哉、伏願冥慮加威霊神合力、勝決一時、怨退四方、然則丹祈相叶冥慮、幽賢可成加護者、先令見一之瑞相給、仍祈誓如件。
 寿永二年五月十一日 源義仲敬白

覚明この日の装束は、褐衫の鎧直垂に、首丁(しゅちょう)頭巾して、節縄目の冑に、黒つ羽の征矢負い、三尺一寸の赤銅造の太刀帯き、塗籠籐の弓脇に挟んで、左の手に捧願書、右の手に筆を持つ。 この願書と十三の表矢とを抜き、折節雨が降っていたので、蓑を来た男に蓑の下に隠し持たせて、忍びやかに大菩薩の社壇へ寄進する。 御納受あったのか、白鳩が空より飛んで来て、白旗の上に翩翻する。 木曾は馬から下りて、甲を脱ぎ、首を地につけて是を拝し奉る。 大将軍このようにしたので兵も皆下馬して同じくこれを拝する。平家の先陣もはるかに是を見て、身の毛の逆立つのを覚えた。

【砥並山合戦事】 ★★★

【木曽軍と官軍布陣】
木曾は礪並山黒坂の北の麓、垣生社八幡林から、松永、柳原を後に、黒坂口に南に向けて陣を取る。 平家は倶梨伽羅が峠、猿の馬場、塔の橋はじめ、これも黒坂口に進み下り北に向けて陣をとる。 両陣隔てる事五六段にすぎず、たがいに楯突きあわせる。 鬨の声を三度あわせてから、両陣しずまりかえったまま、木曾も平家も布陣したまま動かない。 しばらくして源氏の陣より精兵十五騎を楯の前に出し、十五の表矢の鏑を一斉に射させれば、平家も十五騎を出し、これも十五の鏑矢を射返す。 互いに勝負せんと進めば、陣より制されて源氏は楯の内に入り、平家も引き返す。 こんな調子で、二十騎出して射さすれば、また二十騎を出しあしらう。三十騎五十騎と射けれども、たがいに勝負はなし。 これを繰り返すうちに夜になったところを、後の山より搦手を待って追手搦手で押し寄せて、南の谷へ追い落とさんと計画し、平家はこれに気付かず。
【倶利伽藍落とし】
五月十一日、夜半。 五月の夜空に月もおぼろ、夏山の木下暗き細道に、源平互いに姿も見れない。 平家は夜討を危惧し軍装を解かなかったが、疲れて眠る者もあった。 源氏は追手搦手に策をいろいろ用意していた。 そのうちに、樋口次郎兼光三千余騎は搦手に廻っていたが、太鼓、法螺貝、千ばかり持っていく。 木曾は追手にいて牛を四五百疋集めておき、ツノに松明をゆわえつけ、夜のふけるのを待つ。 樋口次郎は、林・富樫とともに中山を駆け上がり、葎原へ押し寄せる。 根井小弥太二千余騎、今井四郎二千余騎、小室太郎三千余騎、巴女一千余騎、五手を一手に集めて一万余騎を北黒坂から南黒坂から引き回し、鬨をつくり太鼓を打ち、法螺を吹き、木や萱を打って音を立て、蟇目鏑を射あげると、やまびこも響いて幾千万の勢のような騒ぎになる。木曾は搦手を廻し、鬨をあわせよと、四五百頭の牛のツノに松明を燃して平家の陣に追い入れる。 胡頽子木原、柳原、上野辺に控えた木曽軍の軍兵三万余騎も鬨の声をわせて叫び、黒坂表へ押し寄せる。 前後四万余騎の鬨の声は山も崩れ岩も揺するがごとし。 道は狭くパニックの中、人馬とも押され弓を引く事も刀を抜くこともできない。 平家は、西は木曽軍の搦手、東は追手に囲まれ、北は岩石高く登れそうもなく、南は深い谷、と四方逃げ場がない。 この山は左右は極めて悪所、後ろは加賀の味方の方角、三方は安全だと思っていたところを打ち破られ「加賀国へ引や者共々々」と呼んだが木曽軍に攻め立てられて先陣は後陣に押され、道より南の谷へ下った。
【白装束の三十騎】
ここに不思議なことがあった。 白装束の人が三十騎ほど南黒坂の谷へむかって「落とせ、殿原あやまちすなすな」と深谷へ打ち入れた。 平家はこれを見て五百余騎つらなって落とすと、後陣の隊もこれを見て、谷をうまく下りられたから先陣も戻ってこないのだと判断して、父落とせば子も落とす、主落とせば郎等も落とす。 大勢の人馬が折り重なって、平家一万八千余騎、十余丈の倶梨伽羅が谷を埋めた。 適谷をのがれた者は木曽軍の兵杖に打たれ、兵杖をのがれた者は皆、深谷へ落とされ、後から後から落ちる者に押し殺され、このように死んで行ったので敵と組んで死んだものは一人もいなかった。

【夜明け、官軍の反撃】
そのうちに夜が明ける。 参川守知度は五十余騎を率い、西の山の麓を北にむけて敵の中へ駆け入れば、右兵衛佐為盛も同じくついて行く。このふたり、容貌優美な上に冑毛直垂の色が日の光に輝いて見える。 義仲はこれをみて「今度の大将軍と覚えたり、余すな者共」と、紺地の錦直垂に黒糸威の冑、黒き馬に乗り、ものすごい形相で二百余騎をひきいて、北の山の上から追い囲んで戦う。 知度朝臣は馬を射られて跳ね落ちたところを、岡田冠者親義がいきあう。 知度は太刀を抜いて甲の鉢を打つと甲が落ち、二の太刀で親義の頸を打落とす。 同太郎重義続いて落かさなると。知度朝臣の随兵二十余騎も折り重なって知度を討せまいと間をへだてようとする。そこに親義の郎等三十余騎、重義を助けようとおちあって戦う。 激しい戦闘に源平両氏の兵ともに多数討たれる。 知度朝臣は逃げられそうもない状況なので、自害した。 兵衛佐為盛は岡田小次郎久義に組んで、木曾が郎等樋口兼光に頸を取られた。 伊勢国住人館太郎貞康、八十余騎にて扣たり。 貞康の叔父小坂三郎宗綱は有名な猛者で、彼が貞康に言うには「前陣は已に敗れ、後陣は又囲れぬ。宗綱齢已に七旬、命旦暮にあり、戦て死るは兵の法なりと云ければ、貞康答けるは、今度の合戦、官軍は十万余騎逆徒は五万騎、而に軍を敗れて、生て帰て、面を人に守られん事、恥の中の辱なり、今示給趣日来の本意なり」と、三度鬨をつくると名乗りを上げて敵に攻め入る。宗綱をはじめとして八十余騎の輩、すべて敵と刺し違えて死ぬ。貞康は大見七郎光能に組んで互いに討たれる。 倶梨伽羅が谷は、黒坂山の峠、猿の馬場の東にあり、谷の中心に十余丈の岩滝があって、千歳が滝という。この滝の左右の岸より高い杼の木が多く生えていたが、その木の半分を過ぎるほどに死体に埋もれ、谷の河は血に染まった。 そういうわけで今でもこの谷の周辺で、矢尻古刀、甲の鉢鎧の実などが残り、枯骨が沢山あるといい、異名には地獄谷と名付け、また馳籠の谷ともいう。 三十人ばかりの白装束と見えたアレは、垣生新八幡の御はからいではないかと後で思いつく。

【金剣宮への寄進】
木曾は平家を追い落とし、黒坂の峠に弓杖突いて甲を脱いで立ち、倶梨伽羅が谷を見るとにわかに火が燃え上がったかのように見える。木曾は驚いて使いを出してこれを見て来させると、使者が帰ってきて「(火ではなく)御神宝立てて、金剣宮と顕れたり」と言う。「誠に願書の験にや」と感涙にむせび、下馬して三度拝していうには「今度の戦は全て義仲の力ではなく、ひとえに白山権現の御計いで平家は亡びたのだ。のちの事もまた頼もしいことだ」と鞍置馬二十匹に手綱を打懸け、金剣宮へ送った上に、林六郎光明の所願、横江庄も寄進する。 金剣宮とは、白山七社の内、妙理権現の第一の王子で本地は倶梨伽羅不動明王。
【志雄の戦】
十郎蔵人行家は志雄の戦の敗色が濃く、越中前司盛俊は勝ちに乗じて勢い戦っていたが「木曾は礪並山を打破り四万余騎を引率して志雄へ向う」と聞きつけて引き返す。 平家残党は礪並山を落されて、加賀国宮腰佐良岳の浜に陣をとり、佐良岳山に赤旗を少々指上げた。 谷々に討ち残された兵ら五騎六騎十騎二十騎がここに馳せ集まり、盛俊も軍兵引率してくれば、程なく大勢になった。 源氏(木曽軍)は深追いはせず、加賀国平岳野の木立林に陣をとって白旗を上げる。 源平両陣に白旗赤旗をたててあるが、霞をへだてて遠い。 五月二十五日、 源平互に馬に草をやり、兵粮をつかったりして休んでいる間にも、互いに相手の草刈り人を捕まえて軍の状況を問いただす。 平家は源氏の草刈を三人捕らえておどすと、源氏は夜に打ち寄せようと計画しているとのこと。 これほど雨が降り風が吹き暗い夜半にどう仕掛けるか作戦を問うと、「東にある木立林の中の板堂を壊してなんば平足駄というものを造り松明を拵え、直路に懸りて押し寄せ夜討ちするらしくあわただしい」という。
【官軍退却】
平家はこれを聞き評定。 三位中将が「成合の手にかゝりて、安宅の渡の橋を引いて、閑に源氏を待べかりつる者を」と言うが、侍皆我先にと、藤塚、今湊、安宅をさして逃げる。しかたなく三位中将も落ちていった。 五月廿五日夜半、降雨ひどく吹風は浜の砂を巻き上げ、ビショ濡れになりなりながら馬任せに行軍中、小川大行事の洪水に先陣後陣流され、馬も弱り人も疲れていた為、この一夜のうちに一千余騎を溺れて失う。 明くる五月二十六日、安宅の湊に到着。橋を引き上げ掻楯を立てて陣をとる。

【平家落上所々軍事】 ★★

【再び安宅の渡】
六月一日、源氏(木曾)全軍が集結し、五万余騎を率いて安宅の渡に押し寄せる。 平家は橋を上げてしまっており、水は濁って底も見えず渡河は難しく思われる。 越中国住人石黒・宮崎が案内に渚の瀬踏をさせてはどうかと提案、木曾は加賀国住人林六郎を呼び「汝は当国住人なり、河の案内知たるらん、瀬歩仕れ」という。 光明は承ると、よい馬を十匹そろえ手綱を結び水の中に追い入れて探りあてる。 木曾は「河は浅かりけり。渡せ者共者共」と命じ、信濃には、今井、樋口、楯、根井、宇野、望月、諏方上下、越中には、石黒、宮崎、向田、水巻、南保、高楯、福田、賀茂島等、加賀国には、林、富樫、下田、倉光等五百余騎、さっと渡って南岸に控える。 瀬踏の馬は平家の陣に駆けていく。
【畠山兄弟の対応】
畠山庄司重能、小山田別当有重はこの馬をみて「これは落人の馬にはあらず、河の瀬蹈の馬なるべし、敵は既に近付きたるにこそ、重能有重見て参らん」と兄弟二人は三百余騎を引き連れ、安宅港に行ってみると、案の定、河の南端に兵が多く控えている。畠山は平家の陣へ使者を立て、「源氏はすでに湊を渡っている、先陣は重能つかまつる、若い人々に戦よくせよとおおせよ」と伝える。
【安宅湊の合戦】
木曾は樋口を呼び「あそこに赤旗三流四流挿した者は誰か?」と問うと、「これは武蔵の畠山と思います」答える。 木「どうして知っているか?」 樋「兼光は武蔵へ時々越候し間、畠山の旗をば見知りて候」 木「この勢どのくらいあろうか」 樋「三百騎は候らん」 木曾が「東国には畠山こそ棟人の者よ、高見王より八代後胤、村岡五郎重門より四代孫、よい敵ぞ、これは馳合いの戦なるべし、敵も御方も一手々々押寄せ/\戦べし。まず畠山には兼光、先陣仕れ」と下知すれば、「うけたまわった」と、一番樋口次郎兼光百五十騎、畠山三百騎に打ち寄せる。 畠山は鶴翼の陣という軍構えをして待ち構える。 樋口は魚鱗の構え、先細に中太に魚の鱗を並べた様に、馬の鼻を並べる。 畠山の三百騎、樋口の百五十騎をくるりと巻き籠めると、兼光の小勢は重能の大勢をさっと打ち破り出て、出れば巻かれ巻かれては出るというのを繰り返し五六度まで戦う。 畠山の勢二百騎は討たれて百騎になり、樋口の勢百騎も討たれて五十騎になる。 ここで双方さっと退く。 二番上総守忠清が五百騎で押し寄せると、今井四郎兼平二百五十騎で応戦。 三番飛騨守景家は千騎で向かい、楯六郎親忠は五百騎で寄せ合わせる。 弓矢で勝負する者あり、太刀打ちして死ぬ者あり、引組んで腰の刀にて滅ぶものあり、しばらく戦ってまたさっと退却する。 四番越中前司盛俊二千余騎で出てくると、落合五郎兼行も千余騎でかかる。 一時戦って退却。 五番越中次郎兵衛盛嗣・上総五郎兵衛尉忠光二千騎で進み出る。 水巻、石黒、林、富樫、佐見一門、千騎で寄せる。 これもガッツリたたかって退却。 六番飛騨太郎左衛門景高五百騎、信濃国住人根井小弥太行近百五十騎で押し寄せ、何度も退却せず戦い、最後には行近景高ただ二人となる。 源平は刮目してこの戦いを見守る。 根井は四十ばかりの男で、景高は二十五歳。 最後は取っ組み合いになってついに根井は景高を押さえて切る。 七番権亮三位中将維盛已下、宗徒の大将一味同心に三万余騎。 木曾もさんざん戦う。 こうして安宅の城でしばらく戦い持ちこたえていたが、平家は敗北、逃げ始める。 源氏は、長並、一松、成合まで逃走する平家を追う。 成合で平家は一度引き返して防戦する。

【俣野五郎並長綱亡事】

【俣野エピソード】
平家の陣から一人の武者が出て「去治承の比、石橋にして右兵衛佐殿と合戦したりし鎌倉権五郎景正が末葉、大場三郎景親の舎弟俣野五郎景尚」と名乗り激しく戦う。 木曾は「恥ある敵ぞ、あますな」と取り囲む。 景尚は十三騎討取り、重傷なれば馬から下りて切腹して臥す。
【高橋(vs入善)エピソード】
平家の侍高橋判官長綱は(練色の魚綾の直垂、黒糸威の鎧著て鹿毛なる馬に乗り)、ただ一騎で引き返して成合池の北の渚に浜の方を向いて敵を待つ。 源氏方の、越中国住人宮崎太郎の嫡子入善小太郎安家も(赤革威の鎧、白星の甲着て、糟毛なる馬に金覆輪の鞍置)、ただ一騎で敵を見定めている。 入「爰にましますは敵か御方か誰そ」 高「平家の侍に高橋判官長綱、角云は誰そ」 入「越中国住人入善小太郎安家、生年十七歳」 お互いよい敵と組み合い、しまいには高橋は入善を組みしくが腰刀を落としてしまい、仕方なくそばらく押さえたまま躊躇する。 入善の伯父で南保次郎家隆は出陣の際、入善の父で兄の宮崎太郎に「安家は未幼弱なる上、今度は初たる戦なり、相構て見捨て給ふな」と頼まれていたが、連れて行こうと軍中を見回したときにははぐれていた。 南保は大声で「入善小太郎〜入善小太郎〜」と呼び回って両陣の間を通ると小さな声で「安家敵にくみたり、角尋ね給ふは南保殿かよ」と聞こえてくる。 家隆は馬より飛び下りて腰刀を抜くと、長綱の草摺を引上げて二刀刺し頸を切る。左の手には頸を持ち、右の手で入善を引き起こす。 南「如何誤ありや、戦は後陣を憑み、乗替郎等を相待ってこそ、敵には組事なるに、若者の一人立、誤ちし給はん」と神妙に小言を言うが入善は隙を伺って、南保が持っていた首を奪って逃走、木曾に報告に行く。 南保も続いて馳せ参じて「長綱が首をば、家隆捕たり」と言う。 入「我取たり」と論ずる。 南保は重ねて「入善高橋に組んで既に危なく候ひつるを、家隆落ち合ひて、入善を助けて、高橋が頸をば取りたり」と言う。 入「安家高橋に組んで、上に成り下に成り候ひつる程に、高橋が弱処を高名がほに南保傍より取りて候、家隆全く取らず、安家が今日の得分にて候ひつる者なり」 と、両者譲らない。 木曾は「入善くむ事なくば南保頸を捕べからず、落合ふ事なくば、入善実に難遁、両方共に神妙なり」と、高橋の頸は南保に付け、入善には別の勲功を行う。

【妹尾並斉明被虜事】 ★★

【妹尾と斉明捕虜】
源氏方より加賀国住人倉光三郎成澄、二十余騎で攻めかかる。 平家方より備中国住人妹尾太郎兼康、これも廿余騎でをめき出る。 妹尾と倉光は馳せ並んで組み、馬から落ちて格闘戦になるが勝負がつかない。 妹尾の郎等と倉光の郎等も競り合っているうち、兼康は倉光に生け捕られた。 平泉寺の長吏斉明は(随分と平家に忠をつくして燧城を落としたが)門徒の悪僧を率い、五騎で傍若無人にも馳せ出る。 木曾は「他の兵は逃げたければ逃がせばよいが、斉明はあますな若者共、そいつは生け捕りにせよ若者共」と下知し、岡本次郎成時はこれも主従五騎で歩みでて郎等共に「山寺法師思ふにさこそあらんずらめ、斉明は我得分ぞ目をかくな、四騎の武者を打払へ」と言い、四人の郎等は四人の法師武者を追い払う。 そのあいだに斉明と成時は押し並んで組んで落ち、斉明を生け捕った。

【真盛被討付朱買臣錦袴並新豊県翁事】 ★★★

【実盛の最期】
平家の侍の武蔵国住人長井斎藤別当真盛は七十余歳、思い残す事もなく只一人進み出ると死生不知に戦う。 木曾の手の者で信濃国住人手塚太郎光盛はこの真盛に目をつけ、真盛もまた手塚に目をつけて進み出る。手塚は近寄って「誰人ぞ只一人残り留って戦し給ふは、大将軍か侍か、心にくし名乗れ、かく申すは信濃国諏訪郡住人手塚太郎金刺光盛と云ふ者なり、能敵ぞ名乗り給へや組み給へ」と呼びかけ、互いにに駒を早める。 真盛は「戯呼さる者ありと聞く、思い様あり名乗るまじ、汝を嫌ふにはあらず、只首を取って源氏の見参に入れよ、能所領の値なるべし、いたずらに淵瀬に捨つべからず、木曾殿は見知り給はんずるなり、思ひ切ったれば一人留めて戦ふなり、敵は嫌ふまじ、いくさの習いは勝負をするこそ面白けれ、寄り合え手塚」と言うと弓を捨てて無防備に近寄り合わせる。 手塚の郎等は主に組ませまいと、馬手に並べて間に割って入るが、真盛はこの郎等と押し並んで組み、馬の腹に引付て吊り上げる。 手塚はこれを見て、郎等を討たせまいと馬を並べ、敵の鎧の袖に掴みつく。 真盛もさすがに二人の敵は手に余り、三人で組合いながら馬から落ちた。真盛はすかさず手塚の郎等を押さえて刀を抜くと頸を掻く。 手塚その間に、真盛の弓手の草摺を引き上げ脇を突き通し、上に乗って頸をとる。
【実盛の首実検】
手塚は敵の首を郎等に持たせて、木曾の前で「光盛癖者の頸取って候、名乗れと申せば、存ずる旨あり名乗るまじ、木曾殿は御覧じ知るべしと計いにて名乗らず、侍かと見れば錦の直垂を着たり、大将軍かと思へば列く者なし、京家西国の者かとすれば坂東声なりき、若き者かと思へば面の皺七十余に畳めり、老者かとすれば鬢鬚黒うして盛りと見ゆ、何者の首なるらん」と言う。 木曾は考えて「あはれ武蔵の斎藤別当にや有るらん、ただし其は一年少目に見しかば、白髪の糟尾に生いたりしかば、今は殊の外に白髪に成りぬらんに、鬢鬚の黒きは何やらん、面の老様はさもやと覚ゆ、実に不審なり、樋口は古同僚、見知たるらん」と樋口を呼ぶ。 樋口は、髻をとって引き仰いで一目見るとはらはらと泣き「あな無慙や、真盛にて候けり」という。 木曽「何れに鬢鬚の黒いは」と問えば、 樋口「されば其事思い出せられ侍り、真盛日々申し置き候しは、弓矢取る者は、老体にて戦の陣に向はんには、髪に墨を塗らんと思ふなり、其故は、合戦ならぬ時だにも、若き人は白髪を見てあなづる心あり、況軍場にして、進まんとすれば古老気なしとあやしみ、退時は今は分に叶わずと謗め、実に若人と先を諍ふも憚りあり、敵も甲斐なき者に思へり、悲しき者は老の白髪に侍れ、されば俊成卿述懐の歌に、  沢に生る若菜ならねど徒に年をつむにも袖はぬれけり と読み侍るとかや。人は聊の物語の伝にも、後の形見に言をば残し置くべき事に侍り。云ひしに違はず墨を塗て候けり」と、樋口次郎兼光は水を持って来させみずからこれを洗うと、白髪尉になる。これで真盛と知れる。 木曾は「親父帯刀先生をば悪源太義平が討ったりける時、義仲は二歳に成りけるを、畠山に仰せて、尋ね出して必ず失ふべしと伝へたりけるに、如何が稚い者に刀を立てんとて、我は知らず由にて、情深くこの斎藤別当が許へ遣して養へと云ければ、請け取り養はんとしけるが、七箇日置いて、東国は皆源氏の家人なり、我人に頼まれてこの児を養ひ立てざらんも人ならず、育みおかんもあたりいぶせしと案じなして、木曾へ遣しける志、偏に真盛が恩にあり、一樹の陰一河の流れと云ふためしも有るなれば、真盛も義仲が為には七箇日の養父、危敵中を計ひ出しけるその志、争い忘るべきなれば、この首よく孝養せよ」と言ってさめざめと泣き、兵共も各袖を絞った。
【実盛エピソード】
真盛が石打の征矢を負い錦の鎧直垂を着ていたことは理由がある。 今度北国へ下るにあたり内大臣に「真盛東国の討手に下向して、矢一つも射ず蒲原より帰上し事、老の恥と存じ候き。今度北陸道にまかり下りなば、年闌身衰えて侍り共、真先蒐りて討死勿論なり。 真盛所領に付けて近年武蔵に居住なれ共、本は越前国住人にて、北国は旧里なり。先祖利仁将軍三人の男を生み、嫡男越前に在り、斎藤と云ふ。次男加賀に在り、富樫と云ふ。三男越中に在り、井口と云ふ、彼等子孫繁昌して国中互ひに相親しむ。されば三箇国の宗徒の者共、内戚外戚に付て、親類一門ならざる者なし。 真盛討死して候はば、当国他国の者共集めて、別当は何をか着たる、如何なる装束をかしたると見沙汰せん事恥かし、故郷へは錦袴を着て帰ると云う事に侍れば、今度生国の下向に、錦直垂に石打征矢御免を蒙り候はん、且は最後の御恩なり」 と所望し、はじめは許されなかったが、真盛の思い切った顔色に、内大臣の我料と秘蔵していたものを取り出して与えた。実盛は万感の想いでこれを着る。 これを聞いた大名小名は袖を絞る。

【平氏侍共亡事】 ★

【官軍軍首脳陣の討死】
平家は要であった真盛を討たれて意気消沈、成合を退却して篠原宿に着く。源氏もこれを追撃。 平家は持ちこたえられず極楽林、小野寺林、須河林に逃げ込んで戦うが、源氏は続けて攻撃。福田、熊坂、江沼辺を越えて浜路まで追いかける。 平家は並松という場所で引き返して戦うが、三十余騎討たれたところで並松を退却。 源氏は勝ちに乗じてさらに追撃をしかけると、平家の大将軍参河守知度が「口惜しき事哉、御方に思切る者共がなければこそ直責めには攻められて大勢は討たるらめ」と勇敢に引き返して戦うが、胴に矢を十二本射られて討死。 続く侍に飛騨大夫判官景高(大臣殿の乳母子)、契深ければ三河守の最期をみるとこれも一緒に討死。 越中権頭範高も一人奮闘するが矢種がつき、敵に頸骨を射られると自害して臥す。 越中二郎判官盛綱、州浜判官高能、上総介忠清、子息太郎判官忠綱、尾張守貞安、摂津判官盛澄等も討死。 武蔵三郎左衛門有国は手勢三百余騎で戦っていたが大勢に取り囲まれ、最後は徒歩立ちになり敵三十余人切り伏せ、自身も重傷なれば「新中納言殿の侍に、武蔵三郎左衛門尉有国」と名乗っ、切腹。 巣山兵衛高頼も討死。 東国の者でましほの四郎、伊藤九郎も討死。
【安宅〜篠原戦果】
河に流され海で溺死した者の数は知らず、安宅、篠原、並松の間に竿を結え渡して懸けた首は三千七百六十人。 捕虜は兼康、斉明のみ。 この斉明は林・富樫と同様、木曾に腹黒あらじと起請を書いたにもかかわらず燧城で返忠して源氏を背き、すぐにも冥罰を蒙ると思われる。
【官軍帰京】
さる四月には平家十万余騎だったが、燧、長畝、三条野、並松、塩越、須河山、長並、一松、安宅、松原、宮越、倶梨伽羅、志雄山、竹浜所々の合戦で七万余騎を失う。 上層部も馬にも乗らず鎧を捨てて北国の浦伝い・仙道の山伝いに帰京。 この六月の上洛には三万余騎にすぎなくなっていた。 飛騨守景家(大夫判官景高の父)は子息を失い出家を決意。
【院御所での議定】
五日、院御所で北国賊徒の事の議定。 左大臣経宗、右大臣兼実、内大臣実定、皇后宮大夫実房、堀川大納言忠親、梅小路中納言長方を召集するが兼実と忠親は欠席。 右大臣は東寺の秘法をもって祈祷することを提案、左大臣経宗公は関所封鎖を提案。 長方卿は、早いとこ庁使を使わして和議すべきとの提案、これには皆が同意。

【平家延暦寺願書事】 ★

【木曽軍の動向】
木曾義仲はあちこちの合戦に勝利、六月上旬に、東山道・北陸道を二手に分かれて進攻。 東山道の先陣、尾張国墨俣川に到着。 北陸道の先陣、越前国府に到着。
【平家一族の動向】
平家の一族は、公卿も殿上人ももはや神仏に頼むしかないと寿永二年七月十九日付けで願書を捧げ、山門の衆徒、日吉の神恩を頼む。 その連名者に
 従三位行右近衛権中将平朝臣         資盛
 従三位平朝臣                   通盛
 従三位行右近衛権中将平朝臣         維盛
 正三位行左近衛権中将兼但馬権守平朝臣  重衡
 正三位行右衛門督兼侍従平朝臣        清宗
 参議正三位皇太后宮権大夫兼修理大夫備前権守平朝臣 経盛
 従二位行権中納言平朝臣             知盛
 従二位行中納言平朝臣              教盛
 正二位行権大納言兼陸奥出羽按察使平朝臣  頼盛
 前内大臣従一位平朝臣              宗盛
また、近江国佐々木庄、領家預所得分等を朝家安穏と故入道菩提のため千僧供料を寄付を約束。しかしこれに従う衆徒はなかった。 七月十二日の夜半、六波羅は大騒動、京中も騒然とする。 美濃源氏に佐渡左衛門尉重実という者がいたが、保元の戦のとき、鎮西八郎為朝が近江国石山寺に隠れていたのを捕虜として公家に引き渡した功で右衛門尉になっていたが、この一件で源氏から勘当され、平家からも左遷されて八島にいた。 その彼が乗替一騎のみ連れて勢多を廻って夜半に六波羅までやってきて「北国の源氏近江国まで責上て、道を切塞ぎ人を通さず、在々所々に火を懸て焼払ふ。御用心有るべき」と言った事によるものだった。

【平家兵被向宇治勢多事】 ★

【木曽軍と官軍?の動向】
七月十二日、源氏(木曽軍)は近江国に進攻しここを封鎖。 同二十一日、新三位中将資盛大将軍、肥後守貞能等を率いて二千余騎で、宇治路〜田原路まわりで近江国を目指し、今日は宇治に逗留。 同二十二日に、新中納言知盛、本三位中将重衡大将軍三千余騎、勢多まわりで近江国へ入る計画、その夜は山階に宿営。 京中では、十郎蔵人行家は伊勢国をまわって大和国へ入り、足利判官代は丹波路から京へ入り、多田蔵人行綱は摂津国を押領して河尻を封鎖、と噂される。

【木曾山門牒状事】 ★★

【木曾の軍議】
木曾は北陸道を服従させ、越前の国府にて戦の評議をする。 木曽「誠や平家深く山門の大衆を憑む、衆徒又平家に同心の由聞こゆ、縦湖上に船を浮べ、浜路に駒をはやむ共、大衆坂本に下り集って防ぐには、輙く攻め上り難し、又勢多の長橋引いて支へんもゆゝしき大事、此事如何が有るべき」 大夫房「覚明当初京都に在し時、山法師の心根は能き聞及き、平家たとひ所領をよせ財宝を抛ち、山門を語らふ共、三千衆徒一同に平家を引思事よも候はじ、源氏に志思ふ大衆もなどかなかるべき、先牒状を遣て試侍べし、事の体は聞えなん」 しかるべしと、覚明すぐに書札を寿永二年七月十日付で書き、恵光坊律師御房に進上する。
【木曾野州河原陣】
木曾はこの状を山門へ出してから、どうやって都周辺を攻めようかと越前の国府を出発し今城に着く。 敦賀国は山を右に能美山を越え、柳瀬に打立て高月河原を打渡し、大橋の村、八幡の里、湖上遥に見渡して、平方、朝妻、筑摩の浦々を過ぎ、千本の松原を通って、東大道に出る。 先陣は近江国三上山の麓、野州の河原に陣を取る。 木曾は返状の到来を待つ間、馬の草飼に丁度よい、と蒲生に陣を取り日数をかさね、兵粮米が尽きたので使者を百済寺へ使わして物資の提供を求める。 住侶は衆議して五百石の兵米を送る。 木曾はその志に感動し、当寺の御油料とて押立五郷を寄進。

【覚明語山門事】 ★★

【山門への催促】
山門(=比叡山)に白井法橋幸明という僧がおり、これは三塔第一の悪者、衾の宣旨を蒙って山門には安堵し難く、当山千僧供の料所、愛智郡胡桃庄に隠れ住んでいたが、大夫房覚明が木曾について都へ上ると聞いて、木曾の陣に覚明をたずねると、覚明は白井法橋と会う。 木曾は何者かと問うと 覚「是は山門に白井法橋幸明とて三塔には名ある大悪僧にて侍り、覚明上洛と聞て見参の為に見え来る由」 木曾は幸明と会見し「山門の衆徒、平家の語らひを得て源氏を背く由、その聞えあるに依って、子細を注して案内を通し畢ぬ、まだ是非の左右なし、衆徒の事深く御房を憑み申す、速かに登山して当家同心の秘計を廻し給へ、大衆の同心子細なくばこの河原に遠火を焼くべし、山上又遠火を合はせよ、それをもって験として、天台山に攀上って同心に平家を攻むべし」と論じる。 幸明『我身当時衾の宣旨を蒙れり、当今平家の御外戚なり、源氏に忠を尽くして平家を追い落としなば、自身の難も遁れなん』と思い、「仰せ承り候ぬ、心中粗略を存じ候はず、秘計仕るべき」と急ぎ(比叡山に)忍び登り、同時の大悪僧に慈雲坊法橋寛覚、三上阿闍梨珍慶と打ち合わせて大衆を発起させ、大講堂の庭で三塔会合し僉議する。
【大衆の大集会】
木曾の書状が披露され、一大僉議になる。 話し合いの結果、就中書札の内容は道理、今は平家安穏の祈を改めて源氏贔屓の思に住せらるべき歟哉とし、満山の大衆は「尤々」と激同、返状しようということになる。 また、遠火を合わせよと、惣持院の大庭に遠火を焚く。愛智河原にも遠火を焚いた。

【山門僉議牒状事】 ★★

【返状の到来】
木曾は山門(=比叡山)の遠火を見つけてよろこんでいるところに衆徒の返状が来た。 覚明は木曾殿の前にひざまづいてこれを読む。 寿永二年七月付で(七月十日御書状、同十六日到来披閲之処)大衆で詮議し、木曾に味方するとあった。

【木曾登山付勢多軍事】 ★★

【天台山惣持院】
木曾はこの山門の返状により、加賀国住人林、富樫が一党已下、北陸道の勇士等五百余騎を引き連れて、大夫房覚明を先達に、近江国の湖の浦々より漕渡って天台山に登ると惣持院を城郭とする。 悪僧白井法橋幸明、慈雲坊法橋寛覚、三上阿闍梨珍慶等をはじめとして、三塔九院の大衆老若も、甲冑を着て弓箭を帯し木曾に同意する。
【官軍?の動向】
もはや木曽軍が都に攻め入ると聞いて、新三位中将資盛は宇治から京にもどる。 勢多の大将軍知盛重衡両人のうち重衡卿は山階から引き返す。 新中納言知盛卿は五百余騎で、その夜は粟津浦に宿営していたが、帰京しようとしていた。
【太田・倉光の働き】
そこに加賀国住人大田・倉光等が、加州の輩林富樫と一緒に戦おうと粟津浜まで来た所、新中納言の五百余騎と行き会う。 「爰は平家の公達の陣の前なり、敵か御方か、何者ぞ、名乗って通れ」と問われ、大田倉光は『名乗ってはあまりよくないな』と思って、馬の鼻を返して勢多の橋二三間を引落し、当国の一宮・建部社に陣を取る。 中納言は、「敵なればこそ名乗らはせで引退らめ、思ふに北国撫案内の奴原にぞ有るらん、追懸て討ちとれ」と追うと橋が引かれて渡れない。 馬を西の橋爪につなぎ、粟津浦のつり船に一斉に乗って東の浜に渡ると勢多の在家に火をかけて攻めると、源氏も森から出ながら一斉射撃する。 二十二日の夜半のことなので月はまだ出ないが、猛火で昼のように明るい。 源平、二時ほど戦う。 新中納言の侍で進藤滝口俊方は敵二三騎討ち取るも我身も敵に討たれる。そのほか死する者十余人、負傷者は数もわからない。 源氏方も、大田次郎兼定の嫡子入江冠者親定をはじめ七八人討たれた。 戦ううちに平家は後退させられ、知盛卿も今は力及ばず、と徹夜で京に帰る。 大田次郎・倉光冠者は、勢多の戦に勝ってその夜のうちに林、富樫をたずねて東坂本に入る。宇治勢多の討手が都に戻ってきたので、平家一門はパニックに陥る。

【義仲行家京入事】 ★

【木曽軍入京】
二十六日の辰刻、十郎蔵人行家は伊賀国から宇治路へ廻り、木幡、伏見を通って入京。 木曾冠者義仲は近江国勢多を渡り、同日未刻に京へ入る。 これは天台山に登て惣持院に城郭を構へたりしかば、西坂本より入べきか、又東坂本に下つて、志賀唐崎より大関小関をへて京へ入べきにてあれ共、余勢数千騎、鏡、篠原、野州河原に陣を取たるをも打具せんが為に、又順道なり。 且は祝の京入なればとて、湖上を押し渡って野路勢多をへて京へ入る。 そのほか甲斐、信濃、美濃、尾張の源氏等、此両人に相従、其勢六万騎に及べり。 行家・義仲が都入りすると武士らがあちこちで強奪をはじめ、衣装を剥ぎ取り、食物を奪い取るなど、狼藉は目も当てられない。

【法皇自天台山還御事】 ★

【法皇還御】
(七月)二十七日、法皇は天台山より還御され、錦織冠者義広が白旗をさして先陣つかまつる。 公卿殿上人もたくさん供奉し、蓮華王院の御所へ入られる。 この二十余年、絶えてひさしい白旗を、今日はじめて御覧になる。
【平家追討の院宣】
二十八日、義仲・行家は院の御所へ召され、(検非違使の別当左衛門督実家、頭弁兼光、御前の簀子にひかえる前で)庭上にひざまづき、平家内大臣以下之党類追討すべきの由を仰せられ、承る。 義仲は赤地錦直垂に塗籠の箭負い、蒔剣を佩き折烏帽子に黒革威の冑、笠符を左右の袖につける。また甲冑を着た郎従五人と童一人を連れている。 行家は縫物の紺の直垂に同毛鎧、引立烏帽子着け、郎等三人を連れる。 別当実家は立って、北の簀子に蹲踞(そんきょ)し砌(=軒下)下に近寄れとしきりにうながすがちっとも理解されない。 内裏は、前内大臣の党類を追罰すべき旨を仰せると、行家は砌に近寄りこれを奉るが義仲は深く敬いすぎて来ない。二人の作法はどっちもひどい有様で、法皇は御簾の内よりこれを叡覧になる。義仲は院宣の返事する。 また、前右兵衛佐頼朝に上洛せよとの旨を、庁官を使いとして関東へ遣る。
【院御所の議定】
同日院御所で議定。 左大臣経宗、内大臣実定、堀河大納言忠親、別当実家、大宮中納言実宗、梅小路中納言長方、右京大夫基家、源宰相中将通親、左大弁経房、新三位季経、新宰相中将泰通卿が集まる。 議題は国主(安徳天皇)、母后、爾剣鏡(三種の神器)還御 日本でこのようなことは初めてであり、返報を待って左右あるべきかと一同で定める。
【平家追討の庁下文】
同二十九日追討の庁の下文を下される。
  五畿七道諸国、可追討前内大臣宗盛以下之党類事、 件党類忽背皇化、已企叛逆、加之盗取累代之重宝、猥出九重之都城、論之朝章罪科旁重早可令追討件輩 昨日までは源氏を追討せよと諸国七道に院宣をくだし、今日からは平家すべしの由五畿七道に院宣を下される。世の転変、政の改定、あわれなことではある…。 同晦日、頭弁兼光朝臣は、行家・義仲等勲功の賞を行うか否か、国主いまだ定まっておらず除目を行えるかどうかを勅問。 梅小路中納言長方卿は、勲功賞はおこなわれるべきで、等差の事、大陸の故事にもあるように、義仲の賞は頼朝に勝るべきかと。今頼朝義兵を挙げて威勢を振るう。 除目の事、円融院大井河御遊日に時中卿参議に任ぜられる。その後陣において除目をおこなうか、とりあえず先例のように勧賞だけ仰せて後日除目か、嘉承摂政の事は太上天皇詔だったので、この例に準じておこなわれるべし、と申す。
【行家・義仲の京中の居所】
十郎蔵人行家は、法住寺の南殿にある萱の御所に滞在する。 木曾冠者義仲は、大膳大夫信業の邸で六条西洞院の家に滞在。

【福原管絃講事】 ▲

【管絃講】
平家は荒れ果てた福原の旧里に下り、故相国禅門の墓参りしつつ各法施を行う。 御所に帰ると、管絃講をはじめた。 右衛門督清宗、讃岐中将時実は蕭の役、薩摩守忠度、越前三位通盛は笛役、左中将清経、淡路守清房は笙の役、和琴は丹後侍従忠房、羯鼓は若狭守経俊、鉦鼓は平大納言時忠、方磬は平中納言教盛、太鼓は内大臣宗盛、琴二挺琵琶三面、簾中の役、弁局大納言佐殿は琴、普賢寺殿北政所、帥佐殿、内侍局は、琵琶の役、法勝寺執行能円、中納言律師忠快は伽陀の役、経誦坊阿闍梨祐円は式役、二位僧都仙尋は法華経たえだえにこそよまれけれ。(中略) 一年法皇、故堀河院の御為に、法住寺殿にて報恩講経供養の時、階下の公卿殿上人、家をたゝして舞楽を奏し給ひしに、経盛其時は東宮の大夫にて、左のをも笛を仕しに、伶人舞曲を尽に及んで宮中澄渡、群集の諸人各袖を絞けり。 上皇も故院の御追善なれば、今は都率天上の内院に納り給らんと思召、竜顔より御涙を流させ給けり。 八条左判官忠房は、陵王の秘曲を舞い尽くす。 大ひざまづき小膝突、入日を返す合掌の手、終には皇序の袖を翻す。 其家ならぬ人には、各笛をとゞめしに、此経盛皇序の秘説を吹給しかば、法皇叡感に堪えずや思し召しけん、御前の御簾を上げさせ御座、御衣を脱て押出させ給けるを、経盛給りて階下に帰着給ひしかば、男女耳目を驚かす。 八条中納言入道長方の弟に左京大夫能方は、経盛の横笛の弟子にて秘曲を伝給ひけり。(中略) 能方はいづくまでもと慕い給ひけるを、経盛あながちに制し申されければ、名残は様々惜けれ共、福原の一夜の宿より、都へ帰り上り給ひけり。 このようにして平家は福原の旧里に一夜を明かす。
【京中警固の院宣】
寿永二年八月朔日、京中保々守護事、任義仲注進之交名、殊令警巡可加炳誡之由 右衛門権佐定長奉院宣、仰別当実家卿 出羽判官光長、右衛門尉有綱〈頼政卿孫〉、十郎蔵人行家、高田四郎重家、泉次郎重忠、安田三郎義定、村上太郎信国、葦敷太郎重澄、山本左兵衛尉義恒、甲賀入道成覚、仁科次郎盛家とぞ聞えける。

【四宮御位事】 ★

【主上奉還の院宣(新帝選考会)】
後白河法皇は、主上(安徳天皇)は外戚の悪人に連れ去られ西海の上にあることを心苦しく思って返還させる院宣を平大納言時忠の許へ下し、平家がこれを無視するならば新帝を立てる、と院の殿上で公卿僉議があった。 高倉院御子は先帝の他に三人あり、二の宮を儲君にと、これも平家は西国へ連れて行ってしまった。。今は三・四の宮から立てるか、また、十七歳になる故以仁の宮の御子もある。この以仁王の御子は還俗の人だがこのような乱世では例外もありえなくはない。 同八月五日、法皇は三・四の宮を迎える。 三の宮は五歳、法皇を嫌って泣く。次に四の宮四歳を連れて来させると、法皇の御膝の上に座って落ち着いている。 法皇は涙を流して故高倉院の忘れ形見よとこの四の宮に決め、占いもさせるが神祇官并陰陽寮も吉とする。丹後殿の局も賛成。(以下四の宮エピソード略)
【義仲の不服】
義仲は高倉宮の御子即位の事で内々に泰経卿に話したい事があるとて、同十四日、俊暁僧正を代理人に義仲におたずねがあった。 かの御弟は何故強引に可被奉尊崇哉、これらのの子細は義仲の所存ではないなどと言うので、人々は、義仲の言う事はいわれのない難癖よと言い合う。<なんか訳がヘン

【義仲行家受領事】

【木曽軍入京後の除目】
同六日、平家の一類、公卿、殿上人、衛府諸司百八十人官職を止められる、平大納言時忠卿父子三人はこのなかに含まれなかった。 八月十日、後白河法皇は蓮華王院の御所から南殿へ移る。 その後、三条大納言実房、左大弁宰相経房が参り除目が行われる。 木曾冠者義仲、左馬頭になり越後国をたまわる。 十郎蔵人行家備後守になる。 たまわった各国をいやがって、十六日の除目には義仲は伊予をたまわり、行家は備前守に移る。 安田三郎義定は近江守、その他源氏十人軍功賞として靭負尉・兵衛尉に任じられる。 院の殿上で除目の行われる事は先例がない。

【還俗人即位例事】

【即位の段取り】
同十八日、左大臣経宗、堀河大納言忠親、民部卿成範、皇后宮権大夫実守、前源中納言雅頼、梅小路中納言長方、源宰相中将通親、右大弁親宗、即位ならびに剣鏡璽(けんきょうじ)、宣命(せんみょう)、尊号(そんごう)の件について会議。 頭弁兼光朝臣諸道の勘文を下す。左大臣に次第を伝え下された。 神鏡、剣、璽とも(平家が安徳天皇と共に持ち去ったので)不在のまま前例はないが践祖。 即位は八月、受禅は九月即位、円融院で執り行うことを決定(以下略)。
【平家没官所領分配】
同日(十八日)平家没官の所領等源氏等に分配、五百余箇所。 うち義仲百四十余箇所、行家九十箇所を賜る。 この日は行家・義仲、院の昇殿を許れる。本来は上北面に候(こう)すところ。 この処置に驚くべきことではないが、官位俸禄を欲しいままにし奢れる心は皆の知る所、今勲功を称すのは悦ばしいが、「尤も頼朝の所存を思い兼ぬべきよ」と皆うわさする。
【新帝即位】
同廿日、法住寺の新御所で高倉院第四王子践祚がある。 春秋は四歳、左大臣召大内記光輔、祚祖の事、太上法皇の詣旨を載すべきなり。 先帝不慮に脱シの事、又摂政の事、同じく載すべしと仰す。 次第の事は先例を違えざれども、剣璽なくして践祚の事、漢家には光武の跡有りと雖も、本朝には更に先例無し、此時にぞ始ける。(略)
【平家のおしゃべり】
平家は四の宮が践祚と聞き、三四宮も連れてくるべきだったと話し、ある人は、そしたら木曾冠者が北国より連れてきた高倉宮の御子に決まったんじゃないかといい、平大納言時忠や兵衛佐尹明は、出家還俗の人が即位なんかできるものかと話す。(大陸の例は略) 孝謙天皇は退位して出家し、御名を法基といったが、大炊天皇を流罪にした時にはまた位について今度は称徳天皇といった。とすれば出家の人も即位できるんだから、木曾が宮も難しくはなかったんじゃないのー?、と笑ったとか。

【太神宮勅使付緒方三郎責平家事】

【太上法皇の勅使】
寿永二年九月二日、平家追討の御祈の為に、院より公卿の勅使を伊勢太神宮へ立てらる。 太上法皇の勅使の例、今度が初めての事である。
【緒方三郎エピソード】
割愛!

【平家太宰府落並平氏宇佐宮歌付清経入海事】

【平家の逃亡先】
主上は玉の御輿もなく、御伴の公卿殿上人は奴袴のすそをからげ、女房北方は裳唐衣を泥に引き、かちはだしにて我先にと、箱崎の津に逃げる。 折節降雨は車軸を下、吹風は砂を上。 箱崎津も難始終叶ければ、是より又兵藤次秀遠に具せられて、筑前国山鹿の城へぞ入らせ給ふ。 菊地次郎高直をば、大津山の関あけて進せよとて先立て通したりけれ共、此事終にはか/゛\しからじと思て、高直心替してけり。 原田大夫種直も、山鹿城へ入らせ給ひにければ、秀遠が下知に相従はん事、子孫に伝て心憂しと思、則それも心替してけり。 山鹿城にも未御安堵なかりける処に、惟義十万余騎にて押寄ると聞えければ、又取物も取敢ず山鹿城をも落させ給ひて、たかせ舟に乗移、豊前国柳と云所へ渡入らせ給ひけり。 主上女院を始進て、内府以下の人々、豊前国宇佐の宮へ有参詣。社頭は皇居となり、廊は月卿雲客の居所となる。五位六位の官人等大鳥居に候ひ、庭上には九国の輩、弓箭甲冑を帯して並居たり。 【清経入水】 柳御所には、さてもと思召て七箇日渡らせ給ひける程に、又惟義寄るなど聞えければ、此を出給ふに、海士の小舟に取乗、風に任浪に随て漂し程に、左中将清経は、船の屋形の上に上りつゝ、東西南北見渡して、哀はかなき世の中よ、いつまで有べき所とて角憂目を見るらん、都をば源氏に落されぬ、鎮西をば惟義に被追出ぬ、何国へ行ば遁べき身にあらず、囲中の鹿の如く、網に懸れる魚の様に、心苦く物思こそ悲けれとて、月陰なく晴たる夜、閑に念仏申つゝ、波の底にこそ沈みけれ。是ぞ平家の憂事の始なる。

【頼朝征夷将軍宣付康定関東下向事】

【頼朝、征夷大将軍宣下】
兵衛佐頼朝上洛できないので、鎌倉に居ながら征夷大将軍の宣旨を下される。 左弁官下、〈五畿内 東海 東山 北陸 山陰 山陽 南海 西海 已上 諸国〉  早頼朝朝臣可令為征夷大将軍事   使 〈左史生中原康定 右史生中原景家〉 右左大臣藤原朝臣兼実宣奉勅、従四位下行、前右兵衛権佐源頼朝朝臣、可令為征夷大将軍者、宜令承知依宣行之。  寿永二年八月 日 左大史小槻宿禰奉  左大弁藤原朝臣 在判 九月四日、左史生康定はこの院宣を賜って関東に着く。兵衛佐に院宣を渡し対面して勅定の趣を言い渡す。
【鎌倉の様子報告】
同廿五日、康定は頼朝の返事を受け取って上洛。院の御所・法住寺殿に報告にいくと、頼朝の様子を聞かれ、公卿殿上人らも集まって聞き耳を立てる。 以下を簡単に略すと「頼朝はものすごく礼儀正しくて気前がいいイケメンで、世を憂うインテリである!」という賞賛。あーはいはい。 康定畏みて、兵衛佐申されしは、頼朝勅勘を蒙るといへ共、既に朝敵を退け、武勇の名誉依継先祖忝征夷将軍の宣旨を下し賜る、都に罷上らず、私宅に乍居宣旨を請奉り取る事、天命其恐れ有り、若宮社にて奉請取るべしと申される之間、康定八幡若宮に参向す。 彼の若宮は、鶴岡と申しし所に八幡大菩薩を移し奉り祝、地形石清水の如くなり。四面の廻廊あり、造道十余町を見下て内外に鳥居を立たり、南は海上漫々と見渡して眺望ことに勝りたり。 さて宣旨をば誰してか奉請取るべきと評定あり。 三浦介義澄と定められる。 彼の義澄は東八箇国第一の弓取に、三浦平太郎高継が末葉なる上、父三浦大介義明が君の御為に兵衛佐謀叛を発し初めける時、衣笠城にて敵を禦命を捨てたるに依って、父が黄泉の闇を照らさんが為と承りき。義澄宣旨請取奉らんとて八幡宮へ参向す、郎等十人家子二人を相具す、郎等十人をば大名一人づつ承って出立たり。 家子二人が内、一人は比企藤四郎能定、一人は和田三郎宗真、家子郎等都合十二人、彼も此も共に直申にて、今日を晴と上下心も及ばず出立たり。 義澄は赤威鎧に甲をば着ず、右の膝を突き、左の膝を立て、累葛箱に奉入処の宣旨、袋を請取奉らんと、左右の手さゝぐる時、康定兼ねて三浦介とは承って侍ども、抑御使は誰人にて御座るぞと尋ね候しかば、三浦介とは名乗らずして、三浦荒次郎義澄と名乗し儘に、宣旨奉請取り、良久有りて、覧箱の蓋に沙金十両入れて返す。 拝殿に紫縁の畳二畳敷きて康定を居(す)え、高盃(たかつき)に肴二種して酒を勧む。 斉院の次官親義、陪膳仕て肴に馬を引く、大宮侍の一臈、工藤左衛門尉祐経一人して是を引く、其日は兵衛佐の館へは向はず、五間の萱屋を理て、椀飯ゆたかに、厚絹二両、小袖十重、長櫃に入て傍に置く。其外宿所へ十三疋の馬を送る。 其中に二疋は鞍を置き、十一疋は裸馬なり。彼馬共は、八箇国の大名に選び宛てられたりと内々承りしに合ひて、実に有難き逸物共なりき。又上品の絹百疋、白布百端、紺藍摺各百端積めり。 明る日兵衛佐より康定を請ず。 請に随って行向ふ。兵衛佐の館を見候しかば、外侍内侍共に十六間、外侍には諸国の大名膝を組て並居たり。 内侍には一姓の源氏共並居て、末座に古老郎等共を居たり。少し引き却(しりぞ)けて、紫縁の畳を敷康定を居う、やや久しうして兵衛佐の命に随つて罷向ふ。 簾を揚げて、寝殿に高麗縁のたゝみ一帖敷きて、兵衛佐座せられたり。 軒に紫縁の畳一帖敷て康定を居、兵衛佐は布衣に南袴を著せり、指出たるを見候しかば少く御座せし時には似給はず、顔大にして長ひきく、容貌花美にして景体優美なり。言語分明にして、子細を一時宣たり。 平家は頼朝が威に恐れて京都に安堵せず、西海へ落下りぬるその跡には、何なる尼公なり共、などか打入らざるべき、それに義仲行家等が、己が高名顔に恩賞に預かり、剰(あまつ)さえ両人共に国を簡(きら)い申ける条、返々奇怪なり。 但し義仲僻事仕らば、行家に仰せて討たるべし、行家僻事仕らば、義仲仰せて討たるべし、当時も頼朝が書状、表書には木曾冠者十郎蔵人と書いたるにも返事はしてこそ侍れ、折節聞書(ききがき)到来、よくよく心得ざる気に申して、又秀衡を陸奥守になされ、資職を越後守になされ、忠義を常陸守になさるゝ間、頼朝が命に随ず本意なき事に侍り、早彼輩を誅すべき由、院宣を下さるとこそ申され侍りしかば、其後色代仕って、康定こと更に名簿をして進むべきなれども、今度は宣旨の御使として、私ならず候へば追って申すべし、舎弟にて、侍史大夫重良も同心に申ししかば、定め左様にぞ侍らんずらんと色代仕しかば、当時頼朝が身として、争か名簿をば給るべき、さなしとても、怒々疎の儀あるべからずと、ゆゝしげにこそ返答され候しが、軈て罷り上るべき由相存知候しに、今日計は逗留あるべしと留められ候し間、其日は宿所へ罷帰り、軈て追様は、荷懸駄三十疋送り賜って候き。 翌日また兵衛佐の館へ向ひて、酒を勧めて金鐔太刀に目九指たる征矢一腰取副へて引く、其上京上の雑事とて、鎌倉より宿々に五石々々、糠藁に至るまで、鏡の宿まで送積んで侍りつる間、さのみは如何せんと存じて、人にたび宿にとらせ施行に引くなんどして、上洛仕りて候と奏し申す。 聞人ごとに、兵衛佐の作法如見にぞ思われける。 法皇委く聞き召され、今度儲けたる物、よしよし康定が徳にせよとぞ仰せける。 院宣請文には『去八月七日院宣、今月二日到来、被仰下之旨、跪以所請如件、抑就院宣之旨趣、倩思姦臣之滅亡、是偏明神之冥罰なり、更に非頼朝之功力、勧賞之間の事、只叡念之趣可足』とぞ載たりける。 礼紙には『神社仏寺近年以来、仏餉燈油如闕寺社領等、如本可被返付本所歟、王侯卿相以下領、平氏輩多く押領と云云、早く被下聖日之恩詔、可被払愁霧之鬱念歟、平家之党類等、縦雖有科怠、若悔過帰徳、忽不可被行斬刑』とぞ申しける。

【光隆卿向木曾許付木曾院参頑事】 ★★

【行家備前討伐隊】
同十五日、備前守行家は「経盛卿ならびに成良等、軍船をもって五百艘浮海上、国々の船を討取る。其威勢甚強して、舎弟の男為賊徒軍敗られて、備前国を打取られ畢、急ぎ罷向て討伐すべし」と言うが義仲は許さず、院から可被下遣の由義仲に仰せ、勅答に『行家は雖為勇士無冥加、毎度被敗軍、今度の追討使尤可有儀』かと申ければ、義仲罷り向ふべしの由、仰下されけり。 木曾冠者義仲は、貌形は清気にて美男なりけれ共、堅固の田舎人にて、浅猿く頑何をかしかりけり。 信濃国木曾という山里に二歳からこのかた二十余年隠れ住んでたので京風に馴れない。 はじめて都の人に馴れそめんに、なじかは誠によかるべき、かたくななるこそ理なれ。
【猫間中納言エピソード】
猫間中納言光隆卿、話したい事があって木曾の許へやってくると、まず雑色に取り次がせる。 木曾の郎等根井は取次ぎを聞いて主に伝えるが、木曾は「意得ず」と方言で「何猫のきた、猫とは何ぞ、鼠とる猫歟、旅なればとらすべき鼠もなし、猫は何の料に義仲が許へは来るべき、但し人を猫と云ふ事もや有り」と言えば、根井も確かにようわからん、と立ち返って雑色に問い直す。「抑せる猫殿とは鼠取猫か、人を猫殿と申すかと、御料に意得ずと嗔給ふなり」と言うので雑色はこらあかんちゃんと教えなと思い、「七条坊城壬生辺をば、北猫間、南猫間と申す。これは北猫間に御座す程に、在所に付て猫間殿と申すなり。譬へば信濃国木曾と云所におはすれば木曾殿と申す様に、これも猫間に御座ば猫間殿と申すなり」と細々教えると根井は理解し、木曾殿もこの説明を根井から聞いて理解すると会見する。しばらく(光隆卿と)対談。
【無塩の平茸w】
そのあと木曾は根井を呼んで「や給へ、なんにまれ饗し申せ」と言う。 (猫間)中納言はドン引き(あさまし)して「只今有るからず」と断るが 木曾は「いかが食時(げとき)におはしたるに物めさでは有るべき、食ぶべき折に食は、粮なき者と成なり、とく急げ急げ」という。 しかもなんでも生鮮食品を”無塩”というのかと勘違いして「無塩の平茸もありつな、帰り給はぬさきに早めよ早めよ」と言う。 中納言はこんなところに来て恥がましい、でも今更帰るのも流石にアレだなと思い、会話もはずまず興醒めて竪唾を呑んでいると、いつしか田舎合子(田舎風のお椀で尻高く底深に生塗りしたのがまた所々剥げている)のでっかいヤツで、毛立したる飯の、黒く籾交りなのをうずたかく盛って、おかず三種に平茸の汁一つ、折敷(おしき)にすえて根井が持って来て中納言の前にさし出す。 木曾の前にも同じ物が出される。 木曾は箸をとって食べるが、中納言は青ざめて手も付けない。 木曾はこれを見て「如何に猫殿は饗さざるぞ、合子を選び給ふか、あれは義仲が随分の精進合子、あだにも人にたばず、無塩の平茸は京都にはきと無き物なり、猫殿只掻給へ/\」と勧める。ひどく穢らわしいと思うが、(木曾は)物も知らない田舎人だし食ないとよくないことがあるかもしれないと思い、食べるフリをして中底を突き散らす。 木曾は散飯(さば)のほかには何も残さず食べ終わり「戯呼猫殿は少食にておはしけり、さるにてもたまたまおわしたるに、今少し掻き給へかし/\」と言う。 食事が終わって根井は猫間殿の下(おろし)を取ると中納言の雑色にあたえる。 雑色の因幡志(さくわん)は腹を立てて「我君昔より懸る浅猿き物進らず」と、厩の角へ合子ごと投げ捨てる。 木曾の舎人はこれを見、「穴浅増や(なんというヒドイことを)、京の者は、などや上臈も下臈も物は覚えぬ、あれは殿の大事の合子精進をや」と取ってくる。
【牛車エピソード】
これだけでなく、変なことがたくさんあったがその中でも、木曾は官位を得て、引きこもっていてはいけないだろうと直垂を脱ぎ、狩衣に立烏帽子を着ると、はじめて車に乗って院御所へ参る。 車に乗る習いもなく装束の着方も知らないので、立烏帽子のさきから指貫のすそまで、見苦しいばかり。 牛飼は元は平家内大臣の童を使っていたが、高名の遣手で、主の敵と心のうちで憎んでいた。 木曾が車にゆがみ乗った有様はひどいもので、左右の物見を開け、前後の簾を揚げる。牛小童が「そんなコトはしてはいけません」と言うと、「やをれ牛童よ、たまたま車に乗ったる時、人をも見たり人にも見ゆるぞかし、如何が無念に、車の内なればとて引籠り有るべき、且はこれほど狭き所に詰め居る事も忌々(いまいま)し」などと言っておかしかった。 馬に乗り冑着た姿とは似ても似つかず危なげに見える。 牛童は車を門外に出して逸物の強牛にひとずはえ(=鞭の当て方?)あてると、飛ぶように走り出す。 木曾は車の中であおむけにひっくり返る。 牛を止めるため、やをら童々と叫び、(牛童は)止めよと云うのは知っていながら鞭をあてると牛はまりあがって躍る。 起き上がろうとするが起き上がれる訳がない、ふだん着慣れない装束もあって起きる隙もない。 蝶の羽をひろげたように左右の袖をひろげて足をあげ「やをれやおれ」とうめくが、(牛童は)聞かないフリをして六七町ほど上がって行く。 郎等たちが走って追いつき、「ちょっと止めろとの仰せになにをやっている!?」と言うのに牛童は「『やれ小てい/\』とおっしゃるので、初めて御車に乗られ面白いと思われ車をガンガン遣れという仰せかと思いましたーw、しかもこの牛は鼻つよくて」と陳情する。車を止めると木曾はやっと起きたが、六七町はあがいただろうか。 着慣れない狩衣の襟で喉が強く締まり、汗まみれになって赤い面して息ををついている。 牛飼は、もう仲直りしようと思って「そこにある御手形に取りついてください」と教えると、どれを手形とも分からず、「それにある方立の穴につかまってください」というとはじめて掴まって「あはれ支度や、是は和牛小ていが支度か、又主の殿の構か」と(木曾は)問う。 【院御所到着】 院御所に着いて車から懸け外して降りる時も後ろから降りようとするのを、雑色は「車には後より乗て前よりおるゝ事にて候」と言うと、(木曾は)「いかが車ならんからに、忌々敷すとおりおはすべき、京の人は物におぼえずと覚ゆる」と、とうとう後ろから降りてしまう。 院御所に入ると、折節居合わせた公卿や殿上人、女房から女童部にいたるまで『すはや木曾が参なるは、死生不知の怖し者にて有なるぞ」と、局々に逃げ込み忍び隠れてて戸を細目に開け、御簾の間からのぞく。 木曾は庭上を歩き回り、あっちこっち立ち渡って、「あな面白の大戸やせとや、中戸にも絵書たり、下内にも唐紙押たり」と感嘆の声をあげている。 殿上階下、男女とも恐ろしさに笑うわけにもいかず、陰でツボに入って笑う(笑壺に入てぞ笑ひける。ってこんなかんじ?)だいたい振舞いといい言う事といい、京中の上下問わず物笑いの種だった。

【源平水島軍事】 ★★★

【水島合戦】
一方その頃、平家は讃岐国屋島にありながら山陽道(周辺国)を従えて都へ進攻するとの噂に、木曾左馬頭義仲はこれを聞いて信濃国住人矢田判官代義清、宇野平四郎行広を差し向ける。これにより山陽道の者の多くは源氏に従う。 平家は三百余艘の兵船を調達し、屋島の磯に出る。 源氏は備中国水島に陣を取り、千余艘の兵船を揃える。 寿永二年閏十月一日、水島にて源氏と平家が合戦。
【両陣の策略】
源氏等の計画は、この島の南から北の際まで三町に過ぎない。島の東の海上より寄せて島の北に船を陸まで組み合わせて、大量の兵で攻めれば、先陣は多少討たれるかもしれないがいくらもないに違いない。 あとから続いて島に上陸し、城に火をかければ敵は逃れて舟に乗る、生き残った者はそれに乗り移って討取り、島を落とせば船は寄港できず海上に漂うしかなく、だんだん追いつめて討つ、と定める。 平氏は船を島の西南につけて、城の東北の木戸口を開け、高名な武士が出てきて敵を招き、舟を並べて攻撃し、退却と見せかけて島の上へと襲わせておいて舟を島東北へ差し回し、三方から矢前揃えて討取る。敵が耐えられず退却をはじめたら舟を並べて乗り移り、分捕ろうと謀る。
【開戦】
源氏の追手の大将軍は宇野弥平四郎行広、搦手の大将軍は足利矢田判官代義清。 五千余人の兵が百余艘の兵船を出し、夜の曙に漕寄って鬨の声をあげる。 平家も待ち受けていた事なので、声を合わせて応戦。 両方の軍兵は一万余人以上、鬨の声は海上に響き渡る。 平家は本三位中将重衡、越前三位通盛卿を大将軍として七千余人が二百艘の兵船に乗り、島の西南から東北へ二手に回す。 源氏の兵船は計画通り南から島の北まで並べ、当国の住人を前に立てて二千余人が甲を傾け冑の袖振り合わせて、一面に立並べて攻撃を開始。 平家はこれを見て城の東北の木戸口を開く。 能登守教経(紺の白き糸にて群千鳥を縫たる直垂、紅威の鎧、長覆輪太刀)。 越中次郎兵衛盛嗣(滋目結の直垂に耳坐滋の冑) 上総五郎兵衛忠清(縫摺の直垂に赤威肩白の鎧) 飛騨三郎兵衛景家(褐直垂に大衿耳袖を赤地の錦をたち入たるに、黒糸威鎧) 鎧の毛直垂の色、どれもとりどりに華やかである。 このほか村田兵衛盛房、源八馬允、米田をはじめ名だたる勇士三十余人が出てきて敵を招けば、矢田判官代義清、仁科次郎盛宗、高梨六郎高直、海野平四郎幸広をはじめ三百余人、木戸口へ攻め寄せる。平氏(かねての計画どおり)退却するよう見せかけると、源氏は勝に乗じて追撃。 そこにに島の両方の船が南の沖西の島から出ると組合わせて乗り移る。 平家は精兵(スナイパー系)を揃えて、城中とに両方の船から射かけると、源氏の船はこれに堪えられず後退。 西風激しく、並んだ船々は打ち合わせ、東国北国の輩は舟戦は慣れないため、船上に立っていられず船底へ重なって入る。 逆に平家の輩は、舟戦が得意なので源氏方に攻め入り、優勢。城中では勝太鼓を叩く。
【皆既日食】
その時、空がにわかに曇って日の光も見えなくなり、あたりは闇の夜のようになる、源氏の軍兵らは日蝕とは知らず、方向を見失って舟を退却させると、何処へともなく風まかせに逃走。 平氏の兵はかねてよりこの事を知っており、ますます鬨をつくって重ねて攻撃を仕掛ける。
【矢田と海野の最期】
矢田判官代義清は、船にゆられて立てず、船べりに尻をかけて甲を脱ぎ捨て太刀を抜いて戦う。 越中次郎兵衛盛嗣はこれを見て打ってかかると、義清は立ち上がり甲の鉢をうたせ、甲は脱げ落ちる。盛嗣は、義清の右の横面をすじかいに押付の板に切付け、うつ伏したところを引あおのけて頸を掻く。 海野四郎幸広は、村田兵衛盛房と船べりで取り組んで海に入り、飛騨三郎兵衛景家は力持ちなので盛房の総角を取って舟に引き上げると、二人とも舟に引き上げられた。 幸広は刀を抜き、盛房が起あがろうとするところを踏んで押さえ、冑の草摺を引上げて刺す。 景家はこれを見、幸広の甲を引きあおのけて首を掻いた。
【高梨の最期】
能登守教経、精兵の手きき(狙いが正確)なので一つとして空矢なし。 高梨次郎高信をはじめ十三人を討ち取る。 源氏は敗北を喫し、討ち残された者らは舟から海に飛び降りて落ちてのび、平家は舟の中に兼てから用意しておいた鞍置馬で船同士の纜を切り放ち、渚に漕ぎよせて、舟を砂地に傾けて馬をおろすとまた乗り込み、能登守一陣に進んで攻撃、これで助かった者は少ない。 敗残兵は備前国へ落ち、あるいは都へ上る。海へ入って死んだ者も数知れず。 船で討たれた源氏には、矢田、高梨、海野はじめ千二百人が頸を斬られた。

【木曾備中下向斉明被討並兼康討倉光事】 ★★

【水島敗戦の報せ】
水島は木曾方の惨敗により当国住人らは皆平氏に帰伏。 都へ落上った者たちが木曾にこれを報告、義仲は不安とて夜を日に継いで備中国へ馳せ下る。
【遡る事数ヶ月前】
さる六月に北陸道の合戦で捕虜にした平泉寺長吏斉明を六条河原にて頸を斬る。 妹尾太郎兼康は二心なしとて、木曾は仕えさせる。 これは、なんとしても再び故郷に帰り、今一度旧主に相見え、平家の味方に戻って合戦を遂げんという謀略だった。”笑中偸銃刺人刀”という。
【時を戻して備中国】
木曾はこれを知らず、斉明と同時に切るはずだった(妹尾)を、西国の道案内に連れていた。 寿永二年閏十月四日、木曾は都を出て、播磨路にかかり今宿に着く。 今宿より妹尾に案内させて備中国にくだる。
【妹尾の騙し討ち】
当国の船坂山で、兼康が木曾に言うには「暇を給ひて先立って罷り下り、相親しむ者共に、御馬草をも用意せさせ候ばや、懸る乱世なれば、俄かの事は難治にも侍るべし」、木曾はさも有べしとて許して先に遣る。 木曾はここに三日間の逗留。 兼康はしめたと思って、子息小太郎兼通、郎等宗俊を率いて下り、加賀国住人倉光三郎兼光を招いて「やゝ倉光殿、兼康、御辺に虜され奉り、遁れ難き命を生き、剰西国の尋承を給ふ、故郷に帰って再び妻子を相見ん事も、御恩とのみ思ひ奉る、もし人手に懸りたらば、争ひか命も生き故郷へも帰すべき、さても兼康虜給ひたる勧賞に、備中の妹尾は吉所にて侍り、勲功の賞に申し賜て下し給へかし、同は打つれ奉らん」という。 倉光三郎は木曾に同行の許可を取り、喜んで妹尾について下る。 兼康は道すがら『妹尾まで連れて行ってもてなした後では精をつけられて殺りにくい』と思い、備前国和気の渡から東に藤野寺という古い御堂に連れてきて、兼康「やや倉光殿、妹尾は今は程近し、やがて打具し奉べけれ共、世間の怱々に所も合期せん事難し、兼康先立て所の様をも見廻り、又親しき者共にも相触て、かゝる人こそ下向し給へとて、御饗をも用意せさせん」と言うと、倉光は良いように取りはからってくれ、とここに留まる。 兼康は騙しおおせて先立ち、草壁に着くと使いをあちらこちらに出し、親しい者四五人を呼び夜討に出発。 倉光はそんな事とは知らず待つところに、夜半、兼康は十余騎の勢で藤野寺に押し寄せ、倉光三郎を夜討にして帰る。
【福輪寺畷】
妹尾太郎兼康は、倉光を夜討にした後、人を四方に走らせ『兼康こそ北国の軍に被虜たりつるが、平家の御行末の恋さに、兎角操て再故郷にまぬかれ帰たれ、木曾は既に船坂山に着給へり。 平家へ参らんと思はん者の、我に志あらん人は、兼康に付て木曾を一矢射よや』と触れまわる。 妹尾に限らず、この近辺の主立った者は既に屋島(平家の陣)に行っているので集まってきたのは、馬鞍も具足も持たない輩がほとんど。 其勢三百人ばかり、しかし役立ちそうなのは僅か十〜二十人に過ぎない。 この勢を率いて兼康は西河裳佐の渡を渡り、福輪寺畷(なわて)に堀を切り、管植え、逆母木引くなどして、馬も人も通れないようにする。 この阡は遠さ二十余町、北はけわしい山、南は沼田、西には岩井というところがある。 ここを過ぎ、当国の一宮も過ぎると、佐々迫にかかる。 佐々迫は、東西は高い山、谷に一つの細道しかない場所なので、左右の山の上に弩(いしゆみ)多く張って立てる。 その後には津高郷、谷口が沼になっており究竟の城。 ここには兵を待機させ、自身は唐河の宿板蔵城に引きこもって、今か今かと木曾を待つ。

【兼康板蔵城戦事】 ★★

【妹尾裏切りの報告】
夜討に討漏れた倉光三郎の下人が舟坂山に帰り木曾にこれを報告、木曾は驚いて夜討の敵勢の数を聞く。夜目でよくは分からなかったが二〜三十人もいたかとのこと。 妹尾は倉光ばかりでなく木曾殿も狙うだろう、しかも妹尾のホームグラウンドなれば勢もついて大事になる、急いで兼康を討ってくださいと下人は言う。
【板蔵城合戦】
兼康の裏切りは明白、と木曾は三百余騎で今宿を起ち、昼夜かけて下って早朝には三石に着く。次の日藤野寺に到着。倉光はここで討たれたかと悲しみつつ通過。 和気の渡を渡って可真郷に入り福輪寺畷を見ると、堀が切って逆母木が引いてあり、簡単には通れなくしてある。 間道を探して里人に聞き可真郷の住人に惣官頼隆を尋ねだし(木曾は)「妹尾太郎兼康を、西国尋承の為、死罪をなだめて古里に返遣す処に、還って義仲に腹黒を存ず、彼を攻めんとするに、きと道を得ず、通り道ありなんや」と聞くと、「あります」と頼隆が道案内し、北路の鳥岳を廻る。佐々の井にさしかかると鬨の声を突如あげて、佐々が迫に攻め寄せる。 妹尾は『木曾は今宿に三日の逗留、たとえバレてもすぐに福輪寺畷までは来れまい』と考えていたので、急いで集めた駈武者達はこれに対応できず一矢射ることもなく、皆逃げる。 妹尾方の残った兵も深田に追入れては殺す。 (木曽軍は)佐々ガ迫を攻め落として、唐皮の宿板蔵城に押し寄せて鬨をつくる。 妹尾は応戦、木曾は「妹尾逃すな兼康あますな、攻めよ攻めよ」下知し射ち合う。 妹尾、矢種が尽きると主従三人で山に籠る。
【妹尾逃走】
そこから屋島へ向けて徒歩で向かうが、子息小太郎兼通はおデブだったので歩くのに不向きで、足を痛めて山中に残る。 兼康は小太郎を捨てて逃げるが親子の情か、足が前に進まない。 小太郎が父の兼康を呼ぶと、兼康帰ってきて如何にと答える。
【妹尾の最期】
敵も近いので兼康は思い切って深く山に入るが霧が目に入り進まない。 郎等宗俊を呼び「兼康は数千人の敵に向って戦ふにも、四方晴れて見ゆれ共、小太郎を捨てて落ち行かば、涙にくれて道見えず、兼ねては相構へて屋島に参って今一度君をも見奉り木曾に仕りし事をも申しばやと思つれ共、今は恩愛の中の悲しければ小太郎と一所にて討死せんと思ふは如何有るべき」と言う。 宗俊はもっともなことだ、こうなったら三人でひと戦しましょうと答える。 兼康は山道を戻って、小太郎の許に行くと前に柴垣を掻き後には大木を楯として敵を待つ。 木曾左馬頭三百余騎が呼ぶと「兼康ここにあり」と、死を覚悟して小太郎を後に立て、我身は矢面に立って、散々射て(木曽軍の)十三騎を負傷させ馬九匹を射殺し、矢種も尽きたので切腹して死ぬ。 小太郎兼通も射掛けていたが、父の自害を見て、同じ枕に腹を切って臥せる。 郎等宗俊も力の限り戦うと柴垣に上り「剛者の死ぬる見よや」と、太刀の切錚を口に含んで逆さに落ちて貫かれて死ぬ。 木曾は妹尾父子の頸を切ると、備中国鷺森に架けて退却。 万寿庄に陣を取り、後陣の勢を待って平家追討の為に屋島議定しける。

【依行家謀叛木曾上洛事】 ★★

【行家の讒訴】 木曾は西国下向の際に乳母子の樋口次郎兼光を京の守護に置いていった。 十一月二日、樋口は早馬を立てて「十郎蔵人殿こそ”鼬のなき間の貂誇り”とかやの様に、院のきり人して院宣を給り、木曾殿を誅し奉るべき、其聞候へ」と連絡、木曾は驚いて平家のことは切り上げて、昼夜を継いで京に取って返す。

【行家与平氏室山合戦事】 ★

【行家逃走】 十郎蔵人は木曾の帰京を聞き、木曾と入れ替わりに千騎の勢で丹波路から播磨国へ下る。
【室山合戦】
一方、平家は播磨の室に到着していたがこの事を聞き、門脇新中納言父子、本三位中将重衡、一万余騎で室山坂に陣をとり、十郎蔵人を待ち構えた。 討手を五手に分ける。 一陣:飛騨三郎左衛門尉景経五百余騎、 二陣:越中次郎兵衛盛嗣、五百余騎、 三陣:上総五郎兵衛忠清五百余騎、 四陣:伊賀平内左衛門尉家長五百余騎、 五陣:門脇中納言八千余騎にて引へたり。 十郎蔵人はこれを知らずに室山に入り、(中略)五陣大勢は鬨をつくりガンガン攻める。 敵に謀られたと気付いたころには、千騎の勢は七百騎になっていた。その後もどんどん討たれ、逃散されて、わずか七八十騎になる。 能登守教経、伊賀平内左衛門家長、田太左衛門生職、駿河兵衛光成、飛騨三郎左衛門尉景経かじめ五百余騎、南山の麓より、馬鼻を並て北へ向て蒐、陣の内より豊後右衛門頼弘、越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠清、矢野右馬允家村、同七郎兵衛高村を始として三百余騎、東へ向て源氏を中に挟て蒐。 備前守行家(赤地錦の直垂に黒糸威の鎧を着てさび鴾毛の馬に乗)、山田次郎重弘は(!)(三遠雁の直垂に紫威の鎧着て黒馬に乗)、三十余騎を率いて、東の原を北へ向けて退却する。 景経、忠清、盛嗣、家村はこれを追撃、伊賀国の住人つげの十郎有重、美濃国住人をりとの六郎重行をはじめとして十一騎が折り返して戦う。 有重は盛嗣に首を取られ、重行は景家に組れて首を取られる。 この間に行家と重弘は逃れ、和泉国へ。 この時、つげの十郎有重、をりとの六郎重行をはじめ百八十人が首を取られ、これにより備前、播磨の武士は平家に従った。

【木曾洛中狼藉事】 ★★

【木曽軍の狼藉】
平家西国落の後は治安が悪化。 木曾が五万余騎を率いて上洛すると、武士達が京中に充満し家々に乱入し、門には白旗を立てて家主を追い出し財宝を強奪する。 たったいま食べようとしていた箸をも奪われ、食べる物すらない。道を通る者は衣装をはがれ、手に肩に担った荷物も奪われる。 平家の居た頃は恐れてはいたもののここまでの狼藉はなかった。 加賀国住人井上次郎師方の言うには、木曾がこれらの悪事をしたという。 一般市民ならず、賀茂、八幡、稲荷、祇園より始て、神社仏閣、権門勢家の御領を例外ではなく青田を刈り取り馬草にし、堂塔卒都婆なども壊して薪にする。 ある日、誰のやったことか院御所法住寺殿の四足の門に札が立ててあった。
『あかさいてしろたなごひに取替て頭にしまく小入道哉』 こんな非常事態の折によくこんなコト書くよね…

【木曾可追討由付木曾怠状挙山門事】 ★★★

【鼓判官】
後白河法皇は、壱岐判官知康を木曾の許へ使わし「武士洛中に充満て資財を追捕の間、人民歎々て不安堵由其聞あり、速に狼藉を鎮むべしなり」と伝えさせる。 木曾は返事もせず、院宣の御使い(という偉い人を迎えるというのに)の前で、小袴に懸直垂・烏帽子に手綱、鬢もかゝず(ラフすぎる姿)で「や殿、和主を鼓判官と京中の童部までも申すは、人に打たれ給ひたるか、又はられ給ひけるか?」と聞くので、判官は苦笑して帰る。 この知康は究竟のしててい(鼓)の上手なので鼓判官と異名をとっているのを木曾が聞いてこんなことを言ったらしい。遠国の夷といえど、情をしり礼儀をば弁るぞかし。 木曾は”竪固の田舎人の山賎”で、院宣すらものともせずひどい扱いをするので平家よりひどい者に替わってしまったと思う。 山々寺々に乱入して堂舎を壊し仏像を焼く狼藉はいうに及ばず、神社にも憚らず権門にも恐れない、この狼藉はとても止められないので義仲を追討して都の狼藉を鎮めるしかない、と知康は深刻な面持ちで言上する。
【法皇の義仲追討院宣】
法皇は天台座主明雲僧正、寺の長吏八条宮に法住寺の御所に来てもらい、延暦園城の悪僧等を召集せよと仰せる。公卿殿上人も集め、また諸寺諸山の執行別当にも兵を召集させ、日々木曾と深く契約している源氏の者達までがやってくる。 山門の大衆は法皇の勅定でしかも座主僧正より催促されたとあっては山上坂本の騒動ただ事ではない。 木曾は北国所々の合戦に勝利し都へ上ろうとしていた時、越前国府から牒状をあげ衆徒の同意があったからこそ天台山に上り平家を攻め落とす事が出来たというのに、頼みになるどころか洛中貴賎を苦しめ山門庄園の妨げになるとして、大衆は院宣に従う。 山門の木曾討つべしの噂に、義仲は怠状を送る。
山上貴所義仲謹解、 叡山大衆、忝振上神輿於山上、猥構城郭於東西、更不開修学之窓、偏専兵杖之営、尋其根源者、義仲住梟悪心、可追捕山上坂本之由、有風聞云云、此条極僻事也、且満山三宝護法聖衆、可令垂知見給、自企参洛之日、宜仰医王山王之加護、顕憑三塔三千之与力、今何始可致忽緒哉、雖有帰依之志、全無違背之思者也、但於京中、搦捕山僧之由有其聞云云、此条深恐怖、号山僧好狼藉之輩在之、仍為糾真偽、粗尋承間、自然狼藉出来歟、更不満避儀、惣如山上風聞者、義仲卒軍兵、可令登山云云、如洛中浮説者、衆徒企蜂起、可被下洛、是偏天魔之所為歟、不可及自他信用、且以此旨、可令披露山上給之状如件。
 十一月十三日 伊予守源義仲上 進上 天台座主御房

山門の衆徒はこの書状でも静まらず、いよいよ蜂起かといわれる。

【法住寺城郭合戦事】 ★★★

【法住寺合戦当日】
若殿上人や諸大夫、北面の者などは面白がってもう戦かと言い合い、物を知る者は、こは浅増事哉とて嘆き合う。 院御所法住寺殿を城郭に構え官兵が集合するが、山門・園城の大衆、上下北面の輩のほかは、役に立ちそうな兵はいそうにない。
 #役に立たなそうな人=堀川商人、向飛礫の印地、冠者原、乞食法師
味方の笠印には、青松葉を甲の鉢にさし冑の袖に付るなどしてたいへん軽卒なカンジ。 壱岐判官知康は御方の大将軍として、赤地の錦の鎧直垂に脇楯だけつけて、廿四指たる征矢負い、門外に床子に腰掛けて戦の差配をする、よろずの仏像を並べと大師の御影を集めて、御所の四方の築地の塀に立てかける。征矢一筋抜き出してさらりさらりとなでて「哀れ、ただ今この矢で、白痴の頸の骨を射抜いてやるわ」と勇ましい。一事が万事おこがましいことばかり言う。 木曾は世間を騒がせ仏神に恐れもない、法皇の憤りも増々深くなり知康の讒奏も日に日に真実味を増す。 木曾は勅勘をこうむったのを聞き「平家非巡の官に昇、君をもなみし奉り臣をも流し失ふ、天下騒動して人民安事なし。 而を義仲上洛して後、逆臣を攻落て君の御世になし奉る、是希代の奉公にあらずや。 それに何の過怠ありてか誅さるべし、但東西道塞て京都へ物上らねば、餓疲て死ぬべし、命を生て君を守護し奉らん為に、兵粮米の料に、徳人共が持余たる米共を少々とらんに、何の苦か有るべき、武士というは、殊に馬を労りて敵をも攻め城をも落とす、馬弱くしては高名なし。 さればその飲み物の料に、青田青麦を刈らんに僻事ならず。院宮々原の御所へも参らず、公卿殿上人の家にも入らず、兵粮米とては支度し給はず、五万余騎の勢にてはあり、兵共が我命を全して君の御大事にあひ進らせんとて、片辺に付き、少々入り取りせんも悪からず。 上下異といへ共、物くはでははたらかれず、馬牛強しといへ共、はみ物なければ道ゆかず、されば御制止も折に依るべし、院強に咎め給ふべからず、たゞし推するに、これは鼓めが讒奏と覚ゆ、その鼓に於いては、押し寄せ打ち破って捨つべき物を」と言うと、急げ殿原々々と命じつつ、鎧小具足取出して支度をはじめる。 今井・樋口は、「十善の君に向奉りて弓を引矢を放給はん事、神明豈ゆるし給はんや、只幾度も誤なき由を申させ給て、頸を延て参給へ、縦知康に御宿意あらば、本意を遂給はん事いと易き事なり、私の意趣を以て院御所を責られん事、よくよく御計ひ有べし」といさめるが、 「木曾は張魂の男、言った事はかならずやり曲げたことはない。我年来多の軍をして、信濃国おへあひの軍より始て、横田河原、礪波山、安宅、篠原、西国には、備前国福輪寺畷に至るまで、一度も敵に後を見せず、十善帝王にて御座ども、甲をぬぎ弓をはづして、おめおめと降人には参まじ、左右なく参て鼓めに頸打きられなば、悔とも益有まじ、義仲に於ては是ぞ最後の軍なる、よしよし殿原、直人を敵にせんよりは、国王を敵に取進せたらんこそ弓矢取身の面目よ」と、ことさら聞き入れない。 知康は戦の行司をうけたまわり、甲を着ず鎧ばかり着て、四天王の貌を絵に書いて冑に付け、左の手には突鉾、右の手に金剛鈴を振り、法住寺殿の四面の築垣の上を東西南北渡り歩いて”時々はうれしや水”とはやして舞ったりするのを見て、人は「知康には別の風情なし、よく天狗の付たるにこそ」言う。 木曾軍の吉例として、陣を七手に分ける。 搦手:今井四郎兼平三百余騎、御所の東瓦坂の方 一手:信濃国住人楯六郎親忠を大将軍に、八条端の西表の門。 一手:西河原、 追手:木曾義仲四百余騎、七条が末北門の内、大和大路西門へ 折節勢もなく、都合千余騎に過ぎない。 十一月十九日辰時に矢合と聞き、大将軍知康が騒いでいる間にも、西北両門より押し寄せてどっと鬨をつくる。 今井四郎兼平、東の門より攻め、おなじく鬨を合わせる。 知康方も型どおりの鬨をつくってみる(がシロウトなのでヘボイ)。 軍兵は門前近くまで攻め上がって見ると、いろんな仏像を築地の壁に掛け並べてあり「乞食法師が勧進所かwww」と笑う。 知康は築地の上で「如何に己等は夷の身として、忝も十善の君に向ひ進せて弓ひかんとは仕るぞ、宣旨をだにも読かくれば、王事靡塩して、枯たる草木猶華さきみなる、末代と云とも皇法豈むなしからんや、されば汝等が放たん矢は、還て己が身に立べし、是より放たん矢は、征矢とがり矢をぬいて射とも、己等が鎧をとほさん事、紙を貫よりもあだなるべし、穴無慙や阿弥陀仏々々々々」と言うと、木曾は大笑いして「さないはせそ、あの奴射殺せ。其奴にがすな」と散々に射ると、知康は築地の上から引き下がる。 木曾は「時刻な廻しそ、火責にせよ」と下知したのでやおら御所の北の在家に火をかける。冬空のなれば北風が激しく吹いており、猛火は御所にも移る。 立てこもる公卿・殿上人や僧俗の官兵らは、恐怖で足は萎え腕はすくみ武器をとることもできず、たまたま長刀をとる者があっても逆さに持ち自分の足を突いて倒れ死ぬ。 西には大手、北には猛火、東には搦手が待ち構える。 院方の兵は逃げ場を断たれて南面の門を開けて逃げ出し、八条の末西面の門は山法師が固めていたが楯六郎親忠に破られ、蜘の子を散らすように皆逃げる。 金剛鈴の知康も、人より先に逃げるがあまりに急いで金剛鈴を捨てるのも忘れカラリカラリと鳴るのを、兵達がみつけ「あの鈴を持った男こそ事の発端よ、逃すな射よ切れ」というのを聞き後ずさりいずこともしれず逃げる。
【摂津源氏の行方】
七条の末は摂津国源氏多田蔵人、豊島冠者大田太郎等が固めていたが、大将軍の知康が逃げたとあってはこれもなんとか脱出すると七条を西へ逃走。 兼てからそのあたりの地元住民に「落武者が通ったら一人も漏らさず討ち殺せ、これは院宣である」と言ってあったので、七条大路の北南の家々の上で待ち構えていた住民は、やってきた落武者は木曾方の者と思い込んで弓矢で射、石を投げ、棒で叩いたりする。摂津国源氏等は郎等を沢山射殺され打殺され、我身は家の檐(のき)で甲冑を脱ぎ捨てると這々の体で逃げる。

【明雲八条宮人々被討付信西相明雲事】 ★

【明雲・八条宮の最期】
天台座主明雲大僧正は馬に乗ろうとしていたのを、楯六郎親忠の放った矢に腰骨を射られて落馬し立ち上がれないところを、親忠の郎等が折り重なって頸を取る。 寺の長吏八条宮も、根井小弥太が放った矢に左の耳元を木に縫い付けられ、これも頸をとられる。
【御室危機】
御室もこれを見つつ、部下の勧めで車に乗ろうとしていたのを木曾がみつけてすでに射る体勢にあったが、 今井四郎兼平が「あれは御室のお乗りになっている御車、いけません!」と止めると、 木曾は弓を緩めて「御室ってだれ?」と聞く。兼平は「僧の中の王にて、貴き人にあらせられる」と答える。 木曾「さては仏さまか、仏が何の料に戦場の城に籠ってるわけないだろう」とは言いながら、楯六郎を付けて戦場から送り出す。 法皇は御所に火がまわったので、御輿(みこし)に乗り南面の門より出る。武士らが御輿に矢を射かけるので力者たちも命が惜しく、逃げ失せる。 公卿殿上人も供をするどころか打ち伏せられ身ぐるみ剥がれる。
【法皇危機】
豊後少将宗長は木蘭地の直垂、小袴にくくりあげて、只一人御伴する。多少腕力が強かったので御輿から離れることもなく、宗長「是は法皇の御渡なり、誤ちつかまつるな」大声でいうと、楯六郎親忠が弟の八島四郎行綱、馬から飛び降りて御車に移載進らせて、五条内裏へ渡し入進らせた。
【主上危機】
御所は猛火、庭は兵が乱入して手の打ちようもないので、主上を七条侍従信清、紀伊守範光は池の舟にお乗せして漕ぎだす。御舟へ矢の参る事降雨の如し。 信清は「是は内の渡らせ給なり、如何に角狼藉をば仕るぞと」と大声で言うが、木曾は国王を”内”と言い習わすのをしらず、「内とは己等が妻を云ふぞ」と納得してしまい、女といっても例外はない、只皆射殺せ、と下知し攻撃する。 信清も向こうの勘違いに気付き、「御船には国王の渡らせ給ふぞや」と叫ぶとやっと静かになる。 しかし主上はそのまま舟で時間をかせぎ、夜に入って坊城殿へ漕ぎいれるとそこから閑院殿へ行幸。 河内守光助と弟の源蔵人仲兼は南門を防いでいたが、錦織冠者義広が落とし、主上も法皇も他所へ御幸と聞き、今はなにを守るかと河内守は東の山に引籠もり、山階へ出て醍醐路から逃走、源蔵人は法住寺に出て南を指て逃走する。
【加賀房エピソード】
仲兼の郎等で、河内国住人草香党に加賀房という法師武者があり、黒糸威の鎧、葦毛の馬に乗っていたが、主に「この馬あまりに沛艾(はいがい=荒々しい)すぎるんで、主の馬に乗換えさせてほしい」と嘆願すると蔵人の乗っていた栗毛の馬の下尾白かりけるに乗換えさせてくれた。主従八騎で落ちる時、敵三十余騎と行き会い戦闘になる。 仲兼は加賀坊が乗替えた荒馬に乗り、主従三騎は敵の中を破って通る。 加賀坊は敵につかまり五騎同僚とともに討たれた。 我馬にだに乗たりせば、今度の命は生なまし。 【頼直エピソード】
仲兼は木幡で、時の摂政近衛殿の御車に追いつき、そのまま宇治殿へ送ると自信は河内国に下る。 仲兼の家子で信濃次郎頼直、大勢に押し隔てられてはぐれてしまい、蔵人の行方をたずねて南に行くと、栗毛の馬の下尾白きが、所々に血などついていなないている。 これを見て頼直は、加賀坊が乗替たのを知らずに主・仲兼は討たれたと思い込む。舎人の男にこの馬はどこの軍勢から来たかたずね、主の敵なればその勢に戦いを挑み、命を捨てるという。 頼直はただ一人、三十余騎の勢に返合い、敵四騎討取り、自身も敵に討たれた。
【各殿上人の顛末(抜粋)】
播磨中将雅賢は武勇の家の者ではなく、天性不用の人にて、単に面白そうだと思って兵杖を持って院御所にいた。滋目結の直垂、黒糸威の腹巻を着ける。 殿上の四面の下侍を出て西の妻戸を押しやぶって外に出た所を、楯六郎、頸骨を狙って矢を放つ。折烏帽子の上を貫通し、その矢は妻戸ののなか射籠める。 その時まったく騒がずもてなして「我は播磨中将と云者ぞ、誤りすな」と言うと楯六郎馬から飛び下りて、生捕りにして宿所に縛って転がしておく。 越前守信行は供の侍も雑色も逃げてしまって、猛火のなか大垣を越えようとする所を誰ともしれぬ矢に当たって倒れ、焼死する。 主水正近業は清大外記頼業真人の子で、薄青の狩衣をくくり上げて葦毛の馬に乗り、七条河原を西に移動中、これに今井四郎馳せ並んで妻手の脇を射ると落馬。狩衣の下に腹巻を着ていた。明経道の博士が兵具を帯する事いかがなものか、飾兵者不祥之器といわれる、老子経を見ざりけるやらんと、人々傾き申けり。(後略) 十一月十九日、如法朝の事なれば、さこそ河風さむかりけめ。

【法皇御歎並木曾縦逸付四十九人止官職事】 ★★

【宰相入道】
故少納言入道信西の末の子で宰相憲修は、木曾が法皇を五条の内裏に押し込めたと聞き、出家したら面会を許されるかとにわかに髻をきり出家し、墨染の袈裟衣を着、五条内裏の門を僧ならば、と通される。 宰相入道は法皇と討死した貴人について話し合う。 明雲僧正、八条宮、信行、為清、近業ら討死、能盛、親盛、痛手負て万死一生を得る。 討れた人々の首は六条河原に竿を渡して懸け並べてあるらしいと奏す。法皇は「中にも明雲僧正は、非業の死にすべき者には非ず、朕如何にも成べかりけるに、はや替にけり」と、涙を流す。
【奢れる木曾発言】
木曾は法住寺殿の戦に勝利、すべてが思うままになり今井樋口已下の兵を集めると「やゝ殿原、今は義仲何に成るとも我心なり、国王にならんとも院にならんとも心なるべし、公卿殿上人にならんと思はん人々は所望すべし、乞によりてすべし」と言うと、まず自分が何になりたいかで悩む。 「国王にならんとすれば少き童なり、若く成事叶まじ、院にならんとすれば老法師なり、今更入道すべきにも非ず、摂政こそ年の程も事の様も成ぬべき者よ、今は摂政殿といへ殿原」 と言うと、今井四郎さすがによくないと思って「摂政殿と申進するは、大織冠の御末、藤原氏の人こそする事にて候へ、二条殿、九条殿、近衛殿など申は彼藤原氏の御子孫なり、殿は源氏の最中に御座、たやすくも左様の事宣て、春日大明神の罰蒙給ふな」と言う。 では何になろうかとしばらく考えて「よき事あり、院の御厩の別当になって、思うさま馬取のらんも所得なり」と、強引に別当になる。
【摂政以下四十九人解官】
廿一日に摂政基通(近衛殿)を更迭。 木曾は近衛殿を更迭し師家を摂政にすえ、松殿最愛の娘でみめ形気高い人の美人の噂を聞いて強引に聟になり、御兄公も手の出しようがない。 廿八日、三条中納言朝方卿以下、文官武官諸国の受領、都合四十九人官職を取り上げられる。 そのうち公卿は五人。僧には権少僧都範玄、法勝寺執行安能も所帯を没官された。 平家のクーデター時には四十二人を解官し、木曾は四十九人の官職を止めた。 これは平家の悪行を越えている。

【公朝時成関東下向付知康芸能事】 

【鎌倉軍の上洛開始(途中熱田)】
東国北国の反乱により、東八箇国の正税官物がこの三箇年送られて来ていない。 平家が都を落ちると聞き、鎌倉から千人の兵を引き連れ舎弟の蒲御曹司範頼・九郎御曹司義経上洛という。 京からは北面の武士橘内判官公朝、藤左衛門尉時成が二人、木曾の狼藉、法住寺合戦、御所の回禄を連絡するために、昼夜問わず馬をとばして下っていく。 範頼・義経兄弟とも熱田大郡司の許にいると聞き、橘内判官は推参してこのことを報告。 九郎御曹司は「年貢運上の為に鎌倉殿の使節として範頼・義経上洛のところ、木曾の狼藉に御所の焼失、噂で聞いていた。また関東から大勢攻め上ると聞いて、木曾今井四郎兼平に命じて鈴鹿、不破二の関を封鎖と聞くが、兵衛佐に相談せず木曾郎等と戦うべきではない。よって閭巷(かいこう)の説に付て、飛脚を鎌倉へ立てる、その返事に随うためにしばらくここに逗留する。されば別の使いはないだろうから御辺(=あなた)馳せ下って巨細を申せ」と言うと、橘内判官は熱田から鎌倉へ向かう。 兵衛佐殿は会見し、木曾の狼藉の委細報告をきくと驚き「木曾奇怪ならば勅定被り誅すべし、知康が申状に依て合戦の御結構、勿体なく覚、知康不執申ば御所の焼失あるべからず、かかるる輩を仙洞に召し仕者、向ふ後も僻事出来べし、壱岐判官が所行、返々不思議に候、木曾義仲は重代の武者、当家の弓取りなり、北面の輩流石敵対及ぶべからず歟、依一旦我執及仙洞回禄之条、驚き承る処なり。所詮義仲に於いては追討時刻を廻すべからず」と。
【芸人知康】
壱岐判官はそうとも知らず、兵衛佐殿に一件を報告するため鎌倉へ下向。 佐殿はこれを聞き、侍たちに「知康は取り次ぐ必要なし」ときつく言い、知康近習の侍らしき者が取次ぎを頼もうと呼ぶが、誰も聞き入れる者もない。日数もたつと今度は本人が推参する。 兵衛佐は簾中にあったが、子息左衛門督頼家のまだ幼い頃で十万殿を招き寄せて「あの知康は九重第一の手鼓と、一二(ひふ)との上手ときく。これで鼓と一二と有るべし、と言いなさい」と、手鼓と砂金十二両を添えて渡すと、十万殿はこれを持って簾中から出て知康に与え、「一二と鼓と有るべし」と勧めると、知康はかしこまって鼓を取り、はじめは座って打っていたがそのううちひざまづき、直垂の肩を脱いて様々に打って、しまいには立って十六間の侍を廻り、柱の元ごとに無尽の手を踊らせる。 腰をまわし肩をまわしして打てば、女房男房心を澄まし、落涙する者も多かった。 そのあとまた十二両の金を取って「砂金は我朝の重宝なり、たやすくいかでかか玉に取るべき」と言って懐に入れると庭上に走下りて、同じくらいの石を四個拾って、片手で数百千の一二を突き、左右の手で数百万をつき、様々に乱舞してをうをう声を上げて一時も突いたので、その座にあった大名小名、興にって笑い合う。 兵衛佐も「誠鼓とひふとは名を得たる者と云ふに合ひて、その験ありけり」と感動する。 「鼓判官と呼ばれけるも理なり。などひふ判官とはいはざりけるやらん」、とまでいう。 このあと、初めて会見し、知康は合戦の報告をするが、佐殿は既に知っているのでまったく顔色を変えず、なんの返事もしないので知康はポカンとする。 芸は身を助くというが、知康は(院の)憤り深く勘当された身だが、鼓と一二と二の芸があったので、兵衛佐が会ってやったのは優しい事だ。 知康は上洛しようと稲村まで出たが、よくよく考えると、都へ上っても今は院がお仕えさせてくれるわけもない、と道を引き返してこっそり鎌倉に住んだとか。

【範頼義経上洛付頼朝遣山門牒状事】 ★

【頼朝による木曾追討軍の編成】
いっぽうその頃、兵衛佐頼朝は木曾追討軍を編成、京に向かわせる。 大将軍:蒲御曹司範頼、九郎御曹司義経両人 さら頼朝は牒状(寿永二年十二月二十一日付)を山門(=比叡山)に送り、木曾追討の件の同意を得る。

【木曾擬与平家並維盛歎事】 ★

【平家へ同盟提案】
平家は室山・水島の合戦に勝利し、これに乗じて西国から攻め上るという。 左馬頭義仲は東西から攻められてはイカンので(頼朝との関係を鑑み)、平家に頼朝を一緒に討たないかと持ちかける。 宗盛は喜んで承諾しようというが、新中納言は反対。木曾こそ平家の軍門に下れという返事を送る。
【平家の嘆き】
木曾が都に入ってからというもの、あちこちで強奪し貴賎上下は安心できず、神領寺領すら押領、国衙庄園牢籠する。あげくに法住寺の御所焼失、法皇拉致、高僧侍臣の殺害、公卿殿上人も監禁、四十九人の官職を止めた、と平家は伝え聞き「君も臣も山門も南都も、われら一門を背いて源氏の世になったが、人の嘆きは増すばかりよ」と吉報のごとく笑い合う。 権亮三位中将維盛は故郷を想い、与三兵衛重景は、石童丸など御傍近く臥して「我身の置き所だにあらじに少き者共をさへ引具ていか計の事思ふらん、振捨て出し心づよさも去事にて、急迎へとらじとすかし置し事も程経れば、如何に恨めしく思ふらん」などと泣く。 北方はこの有様を伝え聞き「只いかならん人をも語らひ給ひ、旅の心をも慰め給へかし、さりとても愚なるべきかは、心苦くこそ」と、常は引きかづき臥し給ふ。尽きせぬ物は涙ばかり。

【木曾内裏守護付光武誅王莽事】 ★

【木曽軍のクーデター】
木曾は五条内裏で、法皇を守護しており、上下は恐れを成して近寄る者もない。 合戦の際に捕虜になった者達も生きた心地がしない。 木曾は強引に松殿の御聟になり、松殿いみじとは思召さゞりけれ共、法皇のことを心痛し、内々に義仲を呼ぶと「これはあるまじき事、人臣として朝家を意のままにし悪事をもって政道をあざむく事、昔より今に至るまでない。故清盛入道は深く仏法を敬い神明に帰したので二十余年持ちこたえたのは大果報の者(奇跡)だ、こんなことをしていては云々」と片田舎の荒武士の耳元でくどくどかき口説く。木曾もなるほどと思い、監禁してあった者達を許し、ものものしい軍備も解く。
【法皇六条西洞院御幸】
十二月十日、法皇は五条内裏から出て大善大夫業忠の六条西洞院の家に御幸。 歳末の御懺法が始め行なわれた。
【木曾除目】
十三日、木曾は除目行われ、思い通りに任官する。 自身は左馬頭兼伊予守の上に院の御厩別当になり、丹波国五箇の庄を知行し、畿内近国の庄園、院宮々原の御領、神田仏田問わず好きなように管領してはばからない。
【王莽エピソード】
奸臣は討たれるという教訓。 木曾冠者は王位を取る事まではないものの、平家都を落としてからは天下を意のままにする事は王莽に異ならない。いつ滅んでもおかしくないと危ぶみつつ、今年も既に暮れた。 東は近江、西は摂津国、東西の逆賊が道を塞ぎ、徴税もままならず年貢所当も運ばれないので、京中の貴賎上下はライフラインを断たれ今日明日の命かと嘆き悲しむ。

【京屋島朝拝無之付義仲将軍宣事】 ★

【改元(寿永→元歴)】
寿永三年四月十六日、改元して元暦という。 元暦元年正月一日、正月だというのに拝礼、朝拝もない。去年の十二月十日に院は五条内裏から六条西の洞院の業忠の家に移され、御所のような設備もないため。 節会だけ行われる。
【平家の正月】
平家は讃岐国屋島の礒に春を迎て、年の始成けれ共、元日元三の儀式事宜からず、主上はおられるが四方拝もなし、朝拝・小朝拝もなし、節会も行われず。
【義仲征夷大将軍宣下】
同六日、義仲正五位下に叙され、官位はすでに頼朝より進んだ。 同九日、平氏和親の由を申請、依之仙洞より所存を可由之由、義仲が許へ仰され遣けり。 この内容には義仲容認できず。 十日、木曾は平氏追討の為西国へ下る、との噂だったが、東国より蒲御曹司・九郎御曹司を大将軍として、数万騎の軍兵が上っていると聞き、範頼義経等はすでに美濃国に到着、不破関で二手に分かれて、宇治、勢多より攻入るとのこと。義仲は西国出発を取りやめる。 平家は四国西国の軍兵を率いて福原まで攻め上り、まさに都へ入ろうとしていると聞き、木曾は不安に陥る。 同十一日左馬頭義仲、征夷大将軍の由宣下。 これは木曾がただただ荒夷で無理を言い、面倒を起こすので、東国の武士が替わりに入ってくれるまでの計らいだった。それを少しも知らず、今まさに滅ぼされようとしている義仲が、大変喜んでいるのは哀れである。
【行家謀反/石川城合戦】
同十七日備前守行家、河内国に住し謀反の噂、木曾は追討の為樋口兼光を向かわせる。その勢五百余騎。 同十九日に、石川城にて合戦。 蔵人判官家光、兼光に討ち取られる。 行家は敗走し、高野に籠る。 捕虜三十人、切って懸けた頸七十人という。

【東国兵馬汰並佐々木賜生食(口妾)付象王太子事】 

【鎌倉評定/馬揃】
(関東に知らされていた情報には)院は去年十一月一日西国へ出発とのことだった。 これは木曾義仲の狼藉によるもので、まだ平家の方が礼儀ただしくてよかった、とか。 鎌倉殿の侍所にて評定あり。木曾を討つにしても近江国には勢多の橋、山城国には宇治橋、二つの難所があり、橋が上げられてしまえばそこらの馬が渡れそうな河ではない。 しかしこんなこともあろうかと各大名小名、党も高家も良馬の用意があった。 上総国住人介八郎広経は、礒(という馬) 下総国住人千葉介経胤は、薄桜 武蔵国住人平山武者所季重は、目糟馬 同国渋谷庄司重国は、子師丸 畠山庄司次郎重忠は、秩父鹿毛、大黒人、妻高山葦毛 相模国住人三浦和田小太郎義盛は、鴨の上毛、白浪 伊豆国住人北条四郎時政は、荒礒 熊谷二郎直実は、権太栗毛 大将軍九郎御曹司は、薄墨、青海波 同蒲御曹司は、一霞、月輪 越後越中の境にある姫早川と利根川、駿河国は富士川と天中、大井川という大河を渡してきた馬なので、宇治、勢多などものともしない、と勇み立つ。 佐々木、梶原は良い馬を持っていなかったので、鎌倉殿の秘蔵の馬三匹、生食、磨墨、若白毛に目を付ける。
【生食拝領エピソード】
梶原源太景季は佐殿に生食を無心。 佐殿はよく案じ、蒲冠者も欲しがってたし、頼朝も上洛時は馬なくても困るし、と生食にも劣らぬ馬・磨墨を与える。次の日、近江国住人佐々木四郎高綱にみんなの欲しがっている事を忘れないように、と生食を与える。 以下有名エピソードが続くがここでは割愛。

【範頼義経京入事】 

【鎌倉軍の進軍】
大手搦手都合六万余騎、尾張国熱田社で分かれて、宇治・勢多へ向かう。
大手大将軍:蒲冠者範頼
武将:武田太郎信義、加々見次郎遠光、一条次郎忠頼、小笠原次郎長清、伊沢五郎信光、板垣三郎兼信、逸見冠者義清、 侍大将:稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝、森五郎行重、千葉介経胤、子息小太郎胤正、相馬次郎成胤、国府五郎胤家、金子十郎家忠、同与一近範、源八広綱、渡柳弥五郎清忠、多々良五郎義春、同六郎光義、別府太郎義行、長井太郎義兼、筒井四郎義行、葦名太郎清高、野与、山口、山名、里見、大田、高山、仁科、広瀬、 三万余騎を率いて海道沿いに進軍し、近江国勢多長橋に到着。
搦手大将軍:九郎冠者義経 武将:安田三郎義定、大内太郎維義、田代冠者信綱、
侍大将:佐々木四郎高綱、畠山次郎重忠、河越太郎重頼、子息小太郎重房、師岡兵衛重経、梶原平三景時、子息源太景季、同平次景高、同三郎景家、曽我太郎祐信、土屋三郎宗遠、土肥次郎実平、嫡子弥太郎遠平、佐原十郎義連、和田小太郎義盛、勅使河原権三郎有直、庄三郎忠家、勝大八郎行平、猪俣金平六範綱、岡部六弥太忠澄、後藤兵衛真基、新兵衛尉基清、鹿島六郎維明、片岡太郎経春、弟八郎為春、 御曹司手郎等:奥州佐藤三郎継信、弟四郎忠信、伊勢三郎義盛、江田源三、熊井太郎、大内太郎、長野三郎、武蔵坊弁慶 二万五千余騎で、伊勢路を回る。
【木曽軍の対応】
木曾義仲はこの時点で軍勢をあまり持っていなかった。 樋口次郎兼光は、十郎蔵人行家を攻めるため河内国へ(すでに出発) 今井四郎兼平、方等三郎先生義弘、五百余騎で勢多へ 根井大弥太行親、楯六郎親忠、進六郎親直、仁科、高梨、三百余騎で宇治へ 木曾は力者(御輿をかつぐ人夫)二十人を揃えて、院を拉致し西国へ連れて行こうと準備、上野国住人那和太郎弘澄を連れて院御所を守護、その勢はわずかに百騎。
【義経の計画】
九郎義経は伊勢国より伊賀路を進軍、山城国宇治郡平等院の北のあたりの、富家の渡に着く。 元暦元年正月廿日、大手搦手宇治勢多に着く。 九郎義経河岸からみると案の定橋板が取り去ってあり、向の岸に垣楯に掻き、櫓に構えている。 水かさは深さが分からない上乱杭逆茂木が隙間なく打ってある。 アいデアがないところ御曹子は雑色歩走の者を集めて近隣の家々を焼き払わせる。 大方の一般人は逃げていたが逃げられなかった老人子供らが隠れておりこれらは焼死、逃げまどう者は馬や人に踏み殺される。まして牛馬の類は助ける者もなく、多数が焼死。 広々と焼払い、二万五千余騎は河岸に集合。御曹子は河近くに高櫓を造らせて、上に登って四方に命令を出す。 向う岸には弓矢を構えた敵が四五百騎、瀬踏する者が出てきたら射ってくるだろう、馬を捨て橋桁を渡って向う岸の軍兵を追い払い、水練の者達に思様に振舞せよ、と命を下すと橋桁の先陣渡は武蔵国住人平山武者所季重にと小冠者が名乗り出る。 身は宇治川底に沈むとも、名を後代の末に流さんと平山が渡り、佐々木太郎定綱、渋谷右馬允重助、熊谷次郎直実、子息小次郎直家(16)も続いて渡る。

【高綱渡宇治河事】 

【熊谷渡河】
直実は大声で「この河を守っている者は、元から木曾殿の郎等ではなかろう、一時的に従っているだけの人ならば、命は惜しいもの、無駄な戦で命を失うな、逃げれば助ける」と言いながら矢を放ち続け、これに木曾殿の郎等藤太左衛門尉兼助は逆に打ち落とされる。 そうしている間に佐々木の郎等で常陸国住人鹿島与一という無双のスイマーが褌に鎌をさし熊手を持って、川底の乱杭逆母木を引き抜き、綱を切り捨てる。
【宇治川先陣/梶原と佐々木】
畠山庄司次郎重忠がかねてより用意した逸物の馬で渡河しようと言うところ、平等院の小島崎から武者二騎(梶原源太と佐々木四郎)出てくる。 誰が先陣かと見る処、源太がさっと水に入って先行。 高綱「如何に源太殿、御辺と高綱と外人になければ角申す、殿の馬の腹帯は以外に窕て見物哉、此川は大事の渡なり、河中にて鞍踏返して敵に笑はれ給ふな」との助言に源太は「左も有らん」と馬をとめ、腹帯を締め直している間に、高綱は二段ばかり先に行く。 源太は「たばかられた」と急ぐが、馬の足が綱に絡んでうまく渡れない。 高綱は向う岸につくと鐙ふんばり弓杖突いて、「佐々木四郎高綱、宇治河の先陣渡たりや」と名乗り終わらぬうちに、梶原源太もなんとか渡り終える。 源太佐々木は負けじ劣らじと鎌倉へ宇治川先陣報告のため早馬を立てる。 佐々木梶原が一陣二陣に渡したのを見て、秩父、足利、三浦、鎌倉、党も高家も、我も我もと渡る。 庄五郎広賢、糟谷藤太、榛谷は馬から降りて弓杖を衝き、橋桁を渡ろうとする。 武蔵国住人男衾郡、畠山庄司重能が子息重忠は手勢五百余騎と共に、河に乗り入れる。
【木曽軍大将・根井】
ここに木曾方から、信濃国住人根井大弥太行親名乗り出て、(褐直垂、小桜威の腹巻、洗革の大鎧重ね、三尺六寸の大太刀に、二十四指たる黒羽の征矢負て、白星の五枚甲を猪頸に着て、塗籠籐の弓真中取、黒糟毛の馬の太逞に、金覆輪の鞍置て乗る)垣楯の前に出ると、弓杖つき敵の陣を見渡し戦定めする姿は堂々としている。「蒲御曹子か、九郎御曹子か、田代殿かの大将軍だろう、行親の今日の手柄にしよう」と思い、十四束を取ってつがえ射ち、畠山騎乗の鬼栗毛の吹荒を射通した。 行親は一の矢射損じて御方の運は早尽きた、大将軍たる者が一の矢を放つは、弓箭の運の尽きる所、一の矢射損じて二の矢射る事なし、敵に鎧の毛見知られぬ先に、と掻楯の内へ引きさがる。
【畠山剛力エピソード/大串コント】
畠山は鬼栗毛負傷で馬から降り、前足を取って妻手の肩にひっかけると水中を進む。傍目からみると畠山は流されたように見えたが、一度弓杖衝いて浮き上がり息継し、また水底を進んで向う岸へくると、草摺が重く思われ見下ろすと、黒革威の鎧を着た武者が「然るべくば助け給へ」と言うので「何者ぞ名乗れ、向の岸へ抛(なげう)つべし」とかえすが「それを好む者なり投げられ奉らば名乗らん」いう。さらば、と冑・総角を掴んで持って行く。 また、赤威の鎧着て、黒馬と流されて行く者があり「穴無慙何者ぞ、是に取付け」と弓の筈を差し出すと、この者は塩冶小三郎維広と名乗って弓に取りついたので弓を引き寄せて「その馬の鞦(しりがい)しほでの間に取付け」と教え、浅い所に上がる。 そのあと河岸に一段くらい近づいて「汝何者ぞ、好まば抛つぞ誤ちすな」と、件拾ってきた男を投げ倒すと、男は弓杖にすがって立ち直り、「只今歩にて宇治川渡たる先陣は、武蔵国住人大串次郎」と名乗った。 これには敵も味方も大笑い。悪いと思ったのか「一陣畠山、二陣大串」言い直す。 畠山は「和君(キミ)は重忠に助けられておいて、なんで重忠を侮蔑するような様に言うかなあ?」というと、大串は「殿に助けられ、どうしてその恩を忘れましょうか、これを世間に聞かせたいと叫んで名乗りました>_<と陳情する。(畠山は)弓取の法なり神妙なりと感じた。 塩冶は命を助けられた恩と畠山の家人となり、小鴾毛とて秘蔵の馬を与えられる。 佐々木、梶原、一陣二陣と申せ共、畠山の馬と人三人を水底で助けたことこそ凄い。 【木曾勢の働き】 この畠山の前に、木曾の従弟で信濃国住人長瀬判官代義員が名乗り、金造の太刀を抜いて出る。(赤地錦直垂に、黒糸威の鎧の、鍬形の甲に白総馬に白覆輪の鞍置てぞ乗) 畠山は、これが宇治路の大将だろうとみて、秩父がかう平(平四寸長さ三尺九寸の太刀)を抜き歩み寄る、と、義員はどういうわけか引退いて垣楯の中に隠れる。引き返して戦えを言ったが恐れを成したか、都に向かって逃げて行った。 根井大弥太行親は、七八度まで引き返して戦うが、しばし休息をと坂のあたりに退いていたが、そこに武蔵国住人河口源三と駿河国住人船越小次郎という者が、「今日の大将軍と見えたり」と二騎でかかってくる。 行親は一度に二人を捕まえようと、左右の手を広げて待ち構え、二人を脇に挟んで強く締める。 まず妻手の脇に取り付いていた舟越が妻手の深田に向かって投げ落とされ、起き上がろうとするができずに死ぬ。 そのあと弓手の脇にかかえた河口を、馬の下腹に腕を回して馬ごと左手の深田へ投げ飛ばし、河口は泥の中で馬に敷かれて死ぬ。 東国の兵はこれを見て恐れをなしているところへ、大弥太は「いかに殿原続き給はぬぞ、さらば都に上り木曾殿と一所にて侍奉らん」と呼びかけ、その後木幡庄へ入ったらしいが自害したのか逃走したのか、だれも分からない。
【義経軍本隊の渡河】
九郎義経は「郎等に先陣を渡させてみて二陣が続く事はできないと分かったんで、橋から引き下がって橘小島に向かえ、ここは水は早いが遠浅、渡せ渡せと」下知する。 二万余騎の大勢、一斉に渡河。 大勢河を渡しぬれば、千騎二千騎五千六千、二百騎三百騎七百八百騎、思々心々に、或は木幡、大道、醍醐路に懸つて、阿弥陀が峰の東の麓より攻入もあり、或は小野庄、勧修寺を通つて、七条より入者もあり。 或櫃川を打渡、木幡山、深草里より入もあり、或は伏見、尾山、月見岡を打越して、法性寺一二橋より入もあり。
【京の木曾の動向】
行親、親忠等の宇治橋防戦は失敗。 木曾の許にこの報せが届くと、まず使者を院御所に立てて「東国の凶徒、すでに宇治川を渡して都へ攻め入る、急ぎ醍醐寺のあたりへ御幸有るべき」と申し上げ、さらに「御所を出てはいけません」と言う。 義仲(赤地錦鎧直垂に紅の衣を重ねて、石打の胡祿(竹冠に祿、やなぐい)に紫威の鎧を着て)、随兵六十余騎を率いて院御所に馳せ参じ、剣を抜いて目を嗔(いか)らかして軒下に立つと、「御輿を寄せて臨幸あるべき」由を申す。 公卿には花山院大納言兼雅、民部卿成範、修理大夫親信、宰相中将定能、殿上人には実教、成経、家俊、宗長らは御伴について行こうと庭に下り、嘆き悲しむ。 そこに義仲の郎等が一人馳せ来て「敵すでに木幡伏見まで攻め来れり」と報告、義仲はこの臨幸の事を投げうって、馬に乗り退出。 法皇は内々に諸寺諸社へ御祈を懸けさせていたのでこういうラッキーがあったと、御所中の女房男房は手を合せ悦びあう。このあと門を閉ざす。

【木曾惜貴女遣事】 ★★★

【貴女との名残り】
木曾は院御所を出たが、戦場には行かない。 五条内裏に帰って、貴女の遺(=名残)を惜しみつつ長時間籠る。 この貴女とは松殿殿下基房公の御娘(17)、無類の美人で女御后にもと育てられていたのを木曾が聞きつけて強奪。とはいえまだ結婚して間もないのだから名残惜しいことだろう。
【木曾郎等の諌め】
そこに越後中太能景馳せ来て「敵はすでに都に乱入、こんな時に閑(しずか)に打ち解けるとは!?」と言うが、引物(布の仕切り)の中に籠ってなおも遺を惜しんだ。 能景「弓矢取る身の心を移すまじきは女なり、只今恥見給はん事の口惜さよ」と、今年三十六になるが、縁より飛び下りると腹を切って死ぬ。 加賀国住人津波田三郎も同じ事を伝えるが出てこず、「御運ははや尽き給ひにけり」と、引物の前でこれも腹切って臥せると、(木曾はやっと)「津波田の自害は義仲を進むるにこそ」と百余騎の勢を率いて五条を東へ油小路を筋違いに、六条河原へ出る。
【木曾と根井・楯隊合流】
そこで根井行親、楯六郎親忠等二百余騎と行き会う。主従勢三百余騎、轡を並べて見渡せば、七条八条の河原、法性寺柳原に(鎌倉方の)白旗が天にひらめき、東国の武士が隙間もないほどで馳せて来る。 義仲は「合戦今日を限りとす、身をも顧み命をも惜しまん人々は此にて落つべし、戦場に臨(いど)んで逃げ走りて東国の倫(ともがら)に笑はれん事、当時を欺くのみに非らず、永代に恥を貽(のこ)さん事口惜しかるべし」と言うと、 行親、親忠等をはじめ「人生まれて誰かは死を遁れん、老ひて死ぬるは兵の恨(うらみ)なり、其恩を食んで其死を去ざるは又兵の法なりといへり、更に退(しりの)く者有るべからず」と口々に言うところに、畠山次郎重忠五百余騎で来襲。
【六条河原合戦】
義仲、馬の頭を八文字に立て寄せて、声を揚げ鞭を打って懸け入れば、重忠の郎等は軍勢を開いて内に入れ組み、妻手に違い弓手に合い、また弓手に違い妻手に相闘って義仲は(重忠の軍勢の)裏へ抜けると、二河左衛門尉頼致をはじめとして三十六騎が討ち捕られた。(次には)川越小太郎茂房三百余騎で来る。義仲、馬の頭を雁の行(つら)を乱さず立て下し蒐(まかり)入れば、茂房が兵は外を囲み内を裹(つつみ)て折り塞がって戦う。 義仲うらへ懸け通れば、楯六郎親忠をはじめとして十六騎は討たれた。 佐々木四郎高綱二百余騎で控えている。義仲は馬の足を一面に立て直して、敵を弓手に懸け、背(そむ)いて前輪に懸け、甲をひらめて馬を馳せ並べ裏へ抜ければ、高梨兵衛忠直をはじめ十八騎討たれた。 梶原平三景時三百余騎にて控える。義仲は馬の足を一所に立て重ねて、敵を先に駆けあまして、うらへまかり通れば、淡路冠者宗弘をはじめ十五騎討ち捕られる。 渋谷庄司重国二百余騎にて控える。義仲は馬の足を立て乱して、思いおもいに駆け入ると、重国の随兵どのが押し囲んで、隙間を争うように詰め寄せて、折り懸けては攻め戦う。 義仲裏へ通れば、根井行親をはじめ二十三騎が討たれた。 ここに源九郎義経はこれを見、三百余騎馬の足を詰め並べ、重なり入ると敵は左右に分れるが、それをさらに四方へ駆け散らして駆り立てて、矢先揃えて射ち取れば、義仲はたちまちに戦に敗れ、六条から西を指して敗走。 義仲忽威三軍之士、雖敗方囲之陣、義経又廻必勝之術、退強大之兵。
【木曾敗走】
義仲左右の眉の上を共に鉢付の板に射付けられて、矢二筋、折り懸けて院御所へ帰参するが、少将成経は門を閉じて錠をさし(入れさせない)、再三叩き押す処に、源九郎義経、梶原平三景時、渋谷庄司重国、佐々木四郎高綱等十一騎が追ってきて鞭を打ち轡を並べ、矢先を揃えて放ち射れば、義仲堪えられずしてして落ちて行く。 義経の郎等共は北を追って攻めていく。

【義経院参事】 

【義経院参】
大膳大夫業忠、築地塀から門外を見ると義経已下の兵六騎が参上。門外で下馬、中門の外、御車宿の前に立ち並ぶ。(立場をわきまえ大変礼儀正しい態度) 法皇は中門の羅門より叡覧。(好感度アップ) 出羽守貞長に姓名などを尋ねさせる。 赤地錦直垂に萌黄の唐綾を畳みて、坐紅に威したる鎧着て、鍬形の甲下人に持せて後にあり、金作の太刀帯びたるは、鎌倉兵衛佐頼朝舎弟九郎義経、生年二十五歳、今度の大将軍と名乗に合ひて、鎧の袖に南無宗廟八幡大菩薩と書付けり。寔に軍将の笠璽と見たり。薄紅の紙を切っ、弓の鳥打の程に左巻にぞ巻たりける。 青地の錦の直垂に赤威鎧を着、備前作のかう平の太刀帯びたるは、武蔵国住人秩父末流畠山庄司重能が一男、次郎重忠生年二十一と名乗る。菊閉直垂に緋威鎧は、相模国住人渋谷三郎重国が一男右馬允重助生年四十一と名乗る。 蝶丸の直垂に紫下濃の小冑は、同国住人河越太郎重頼と名乗る、子息小太郎茂房生年十六歳という。 大文を三宛書たる直垂に黒糸威冑は、同国住人梶原平三景時が子息源太景季、生年二十三と名乗る。 三目結の直垂に小桜を黄に返したる冑の裾金物の殊にきらめきて見けるは、近江国住人佐々木源三秀義が四男に四郎高綱生年二十五、今度の宇治川の先陣と名乗りけり。 今度の子細を尋ねられ義経は「木曾義仲上洛の後狼藉重畳の間、頼朝大いに驚き追討の為範頼・義経両人を指上せ候、郎等六十人其数六万余騎、二手に分けて宇治勢多より上洛す、義経は宇治路を破って罷り上る、範頼は勢多より入洛、未だ見え来たらず候、木曾は河原まで打ち出でたりつるを、郎等共に留めよと下知を加え候ひ畢ぬ、今は定めし打捕りぬらん、義経は仙洞の御事覚束なく存じて先ず参上」とのこと、事もなげに言う。 その夜は、義仲の与党の狼藉を危惧し義経の兵が法皇を警固する。

【東使戦木曾事】 ★★★

【木曾敗走中】
木曾は六条河原の戦に負け、法皇を拉致し西国へ落ちようと考えるがすでに義経の兵が警固しており、逆に攻められて河原に出ると三条をさして落ち行く。その勢七八十騎に過ぎない。 義経の軍兵は、党も高家も雲霞の如くに我先にと隙もなく進軍。 義仲も今日を限りと思って命を惜しまず散々に戦う。
【長瀬判官代再び】
武蔵国住人塩谷太郎兄弟三騎は四条河原の東の端に控えていたが、兄の太郎弟の三郎の言うのには「御辺は栗子山にて能く敵に組まで、物具剥ぎ取って高名せんと云ひしは忘れたりや」とはげませば三郎は「いささかも忘るべき」と馬を川に打ち入れて、西へ向って渡る。 そこに木曾方から信濃国住人長瀬判官代(黒糸威鎧に葦毛の馬に乗る)、河の西端より打ち入って東に向って渡る。長瀬、塩谷東西より河の中で互いに歩み寄り、馬と馬とを並べて組むとだんぶと落ちる。 手に手を取り組み、腹に腹を合わせて、上になり下になり、浮き沈みして俵の転がるようにして四五段ほど流される。敵も味方も目を澄ましてこれを見、深い所に流れ入ると水底にて組み合う。 暫くはよく見えなかったが、水が紅に流れたので誰が討たれたかと思う所、塩谷が左の手に敵の首を捧げ、右の手には敵の物具を剥ぎ取って口に刀をくわえつつ東の陸へさっと上がると、「武蔵国住人塩谷三郎某、長瀬判官代が首捕ったりや」と名乗る。
【勅使河原兄弟の追撃】
義仲は、上野国住人那和太郎弘澄、多胡次郎家包、越後中次家光等を引き連れて落ちていたが、家光は遂遁まじき物故に、人手にかかるよりは、と馬より飛び下り、腹を掻き切って三条河原に臥せる。 追撃の兵が追いかけてきてはこれと戦い、はじめ八十余騎だったはずが五十余騎になる。 武蔵国住人勅使河原権三郎有直(木蘭地の直垂に、黒糸威の冑に白星の甲、二十四指たる黒布露の矢、黒漆の弓に、黄駱馬に黒漆の鞍置てぞ乗)と同四郎有則(ひらくゝりの直垂に、赤威の鎧、同色の甲に、十八指たる鴟の石打頭高に負、三所籐の弓の中取、黒駮馬に金覆輪の鞍置て乗)、兄弟二騎は三百余騎で(木曾を)追い、「北陸道の大将軍、朝日将軍と呼れ給し人の、正なくも後をば見せ給ふもの哉、源氏の名折れとは思し召さずや、無跡までも名こそ惜しけれ、返し合ひ給や/\」と呼びかけ、さらに二重三重に並び「武蔵国住人、勅使河原権三郎有直生年三十一、同四郎有則二十八」と名乗りかけて轡をならべ叫んで駆けてくる。 木曾十余騎は馬の鼻を引き返して、杉のさきにさっと立って「有直慥(たしか)に承れ、義仲にはあはぬ敵と思へ共、弓矢取る身は、大将軍の詞(ことば)一も得るこそ嬉しけれ、現世の名聞後生の訴にもせよ」と言うと、弓を脇にはさみ太刀の切っ先打ちつるべて、「勅使河原あますな」と、蛛手十文字竪様横様切り廻れば、三百余騎の大勢も五十余騎に被懸立て、馬の足立てる隙もなかった。 只小勢に付て五廻六廻が程廻けるが、有直弓手の肘(ひぢ)被打落て、神楽岡を指て引退。 (勅使河原勢)五十余騎の勢も打ち取られ、二十五騎なる。 木曾が危ないのを見て根井小弥太、左近五郎、岡津平六兵衛、城小弥太郎兄弟二人、佐竹の者共が防ぎ矢をしたのでなんとか逃げられた。 また、秩父師岡は囲んで散々に攻めると、木曾方にも、根井次郎行直、進六郎親直等、果敢に大勢の中へ入り、命を惜しまず我一人と戦う。 小勢がかかれば大勢はさっと引き、大勢かかれは小勢さっと引き退く。 この作戦も打ち破って落ちていけば、横山党に奥次弥次と、三浦党に佐原十郎、三浦二郎三百余騎で戦う。 (勅使河原勢は)二十五騎あったのがわずか十二騎になる。

【巴関東下向事】 ★★★

【畠山vs木曾】
畠山は九郎義経と院御所にいたが、木曾を討ち漏らしはしないかと心配で、三条河原の西端まで出る。 義仲は三条白河を東へ向って退却中、重忠は本田・半沢を左右に立てて歩み出ると「東へ向って落ち給ふは大将と見るは僻事か、武蔵国住人秩父の流れ畠山庄司次郎重忠なり、返し合い給へや/\」と言う、と木曾は馬の鼻を引き返し「誰人に合うて戦せんより、一の矢をも畠山をこそ射め、恥かしき敵ぞ、思ひ切れ!」と下知して河を隔てて射合う。 さすがに敵は大勢、木曾わずかに十三騎、畠山郎等の放つ矢は雨のように飛んでくるので、小勢では持ちこたえられず、三条小河へ退却。 重忠は勝ちに乗じて追撃、木曾も引き返しては弓箭で打物で応戦、半時くらい戦う。
【畠山vs巴】
そのなか、木曾方より(萌黄糸威の鎧に、射残したりける鷹羽征矢負て、滋籐の弓真中取、葦毛馬の太逞きに、少し巴摺たる鞍置て乗)武者が(一騎)、一陣に進み出て戦う。弓も太刀も強く、馳せ合わせながら攻めている。さしも名高き畠山が河原へさっと引いて出る。 畠山、半沢六郎を呼び「如何に成清、重忠十七の年、小坪の軍に会ひ初めて度々の戦に合ひたれども、これほど戦立(いくさだち)のけはしき事にあはず、木曾の内には今井、樋口、楯、根井此等こそ四天王と聞こえしに、これは今井、樋口にもなし、さていかなる者やらん」と問う。 成清「あれは木曾の御乳母に、中三権頭が娘巴と云ふ女なり、つよ弓の手だり荒馬乗の上手、乳母子ながら妾(おもいもの)にして、内には童を仕ふ様にもてなし、戦には一方の大将軍して、更に不覚の名を取らず、今井樋口と兄弟にて怖しき者にて候」と言う。 畠山「さてはいかゞ有るべき、女に追ひ立てられたるも云ふ甲斐なし、又攻め寄せて女と戦せん程に不覚しては永代の疵、多き者共の中に巴女にあひけるこそ不祥なれ、但し木曾の妾といへば懐しきぞ、重忠今日の得分に、巴に組んで虜(いけどり)にせん、返せ者共」と取って返し、木曾を軍勢の内に取り囲み散々に駆け、畠山は巴に目をつける。 進退くりかえし(巴と)廻り合わんと廻り続け、木曾は巴を組ませまいと駆け隔てて二〜三周ほど廻ったが、やっと畠山は巴の近くにつける。 「これは得たる便宜」と思いつつ馬を早めて馳せ寄り、巴女の弓手の鎧の袖に手をかける。 巴は叶わないと思ったか、騎乗の馬(これは春風といい信濃第一の強馬)に一鞭あてて煽る(=鐙を蹴る)と、冑の袖をふっと引き切り、二段ほど先に移動する。 畠山「これは女にはあらず、鬼神の振舞ひにこそ、加様の者に矢一つをも射籠められて、永代の恥を残すべからず、引くに過ぎたる事なし」と河原を西へ退却し、院御所へ帰参する。
【粟津へ】
木曾はそこかしこを破って、東に向かって落ちていく。 竜華越伝いに北国に行くとか、長坂を通って播磨へ、などいろんな憶測が飛んだ。 (木曾は)大津へ向かっており、四宮河原で見回してみるとわずか七騎。 巴は七騎の内の一騎で生年二十八の女盛り。 これほどの剛の者もなく、北国度々の合戦にも手をも負ず、今回も百余騎が七騎になるまで生き残って付いてきた。 四宮河原、神無社、関清水、関明神を過ぎて、関寺の前を粟津に向って進む。
【関寺合戦】
巴は、都を出た時には紺村紅に千鳥の鎧直垂を着ていたが、関寺合戦には紫隔子を織り付た直垂に、菊閉滋くして、萌黄糸威の腹巻に袖付けて、五枚甲の緒をしめ、三尺五寸の太刀に、二十四指いたる真羽の矢の射残したるを負、重籐の弓に、せき弦かけ、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍置いて乗っていた。 七騎の先頭を進んでいたが、何を思ったか甲を脱ぎ、身長をすぎるほどの長い黒髪を後にさっと流し、額に天冠を当てて白打出の笠をかぶり、眉目秀麗の美しさ、歳は二十八とか。 ここに遠江国住人内田三郎家吉が名乗り出て、三十五騎の勢で巴女に行き合う。 内田はこの敵を見て「天晴れ武者の景気かな、但し女か童かおぼつかなし」郎等に聞くと郎等はよくよく見て「女なり」と答える。 内田は聞き終わらないうちに「さる事あるらん、木曾殿には、葵、巴とて二人の女将軍あり、葵は去年の春礪並山の合戦に討たれぬ、巴は未だ在りときく、これは強弓精兵、あきまを数ふる上手、岩を畳み金を延べたる城なり共、巴が向ふには落とさずと云ふ事なし、さる癖者(くせもの)と聞き召して鎌倉殿、かの女相ひ構へて虜(いけどり)にして進すべき由仰せを蒙りたり。巴は荒馬乗の大力、尋常の者に非ずと聞く、如何がすべき」と思い悩むと、 郎等共は「女強しといふとも、百人が力によも過ぎじ、家吉は六十人が力あり、殿原三十余人、既にあまれり、殿原左右より寄せて、左右の手を引き張れ、家吉中より寄せて、などか巴を取ざらん」口々に言う。 内田また思い返して「まてまて暫し、槿花(きんか)の朝に咲きて夕べに萎むだにも、己が盛は有る物を、八十九十にて死なん命も、二十三十にて亡びん命も同じ事、女程の者に組むとて、兎角計ごとを出しけるよと、殊(こと)に後陣に引へたる甲斐の一条の思はん事こそ恥かしけれ、殿原一人も綺(いろ)ふべからず、家吉一人打向うて巴女が頸とらん」言えば、三十余騎の郎等は、(自分たちが)”日本第一に聞こえたる怖しきもの”に組まずに済む事を悦び、もっとももっともと言う。 内田がただ一人駒を早めて進むところを、巴が見つけてまず敵を誉めた。 「天晴武者の貌(かたち)哉。東国には、小山宇都宮か、千葉足利か、三浦鎌倉か、おぼつかな、誰人ぞ、かく問ふは木曾殿の乳母子に、中三権頭兼遠が娘に巴と云ふ女なり、主(しゅう)の遺(なごり)の惜しければ、向後(ゆくえ)を見んとて御伴に侍る」と言う。 (内田は)「鎌倉殿の仰せを蒙り、勢多の手の先陣に進めるは、遠江国住人内田三郎家吉」と名乗って進む。 巴、『一陣に進むは剛の者、大将軍に非ずとも物具毛の面白きに、押し並べて組み、しや首ねぢ切って軍神に祭らん』と思いけるこそ遅かりけれ。手綱をかいくり歩ませ出す。 しかし内田が弓を引かずにいれば、女も矢を射なかった。 お互いに情けをかけあい、内田が太刀を抜かなければ、女も太刀に手をかけない。 主(ぬし)は急ぎたり馬は早りたり。巴と内田は馬の頭を押し並べて、鐙と鐙を蹴合わせるかと思うほどに近寄り、たがいに声をあわせて鎧の袖を引き違え、えたりおう(≒取ったぞ!おう!)と組んだ。 沛艾の名馬であっても、大力が組み合っていては二匹の馬もとどまり少しも動けない。 内田は勝負を人に見せようと思ったか、弓手を後へ差し回して、女の黒髪三匝(さんそう)にからませて腰刀を抜くと、内に首を掻こうとする。 女はこれを見て「汝は内田三郎左衛門とこそ名乗りつれ、正なき今の振舞かな、内田にはあらず、その手の郎等か」と問う。 内田「我が身こそ大将よ、郎等には非ず、行跡(ふるまい)何に」と言うと、女は「女に組む程の男が、中にて刀を抜き目に見する様やは有るべき、軍は敵に依て振舞ふべし、故実も知らぬ内田かな」と拳を握り、刀を持った臂(ひぢ)のあたりをしたたかに打つ。 (内田は)あまりにに強く殴られて刀を取り落とす。 「やをれ家吉よ、日本一と聞こえたる木曾の山里に住みたる者なり、我を軍の師と憑め」と、弓手の肘(ひぢ)を差し出して、甲のまっこうを取ると鞍の前輪に攻め付けて内甲に手を入れ、七寸五分の腰刀を抜いて、引きあおのけると首を掻く。刀も究竟の刀で水を掻くよりも簡単に切れる。 馬を乗り直して、(敵の馬を)ひとあおり鐙を蹴ると、身質(むくろ)は下に落ちる。 【巴の別れ】 首を持って木曾殿に見せると「穴無慙や、是は八箇国に聞こえし男、美男の剛の者にて在りつる者を、討たれけるこそ無慙なれ。是も運尽きぬれば汝に討たれぬ、義仲も運尽きたれば、何者の手に懸り、あへなく犬死にせんずらん、日来は何共思はぬ薄金(うすがね)が、肩を引いて思ふなり。我討たれて後に、木曾こそ幾程命を生きんとて、最後に女に先陣かけさせたりといはれん事こそ恥かしけれ、汝には暇(いとま)を給ふ、疾々落ち下れ」と言う。 巴は、「我幼少の時より君の御内(みうち)に召し仕はれ進らせて、野の末山の奥までも、一の道にと思ひ切り侍り、今懸る仰せを承ること心うけれ、君の如何にも成り給はん処にて首を一所に並べん」と掻詢(かきくど)けば、 木曾は本当にそのとおりだと思うが「我、去年の春信濃国を出でし時、妻子を捨て置く、又再び見ずして、永き別れの道に入らん事こそ悲しけれ、さらば無からん跡までもこの事を知らせて、後の世を弔はばやと思へば、最後の伴よりも然るべきと存ずるなり、疾々忍び落ちて信濃へ下り、この有様を人々に語れ、敵も手繁く見ゆ、早々」と言えば、巴は名残りも様々に惜しくもあったが主命に従って、落ちる涙を拭いつつ上の山に隠れる。 粟津の戦が終わってのちに物具を脱ぎ捨てて小袖装束になって信濃へ下り、女房公達にこのように語って互いに袖を絞った。
【巴のその後】
世が静まり、右大将家から召し出されて巴はすぐに鎌倉に参る。 主の敵であれば心に遺恨もあろう、と大将殿(頼朝)も「女なれど無双の剛者、打ち解く訳にはいかん」と森五郎に預ける。 和田小太郎はこれを見て『事の景気も尋常なり、心の剛も無双なり、あの様の種を継せばや』と思う。 明日は頸を切るべし、との沙汰が出たところ「和田義盛申預らん」と申し立て、(頼朝は)「女なればとて心ゆるし有るまじ、正しき主親が敵なり、去剛の者なれば、隙もあらば伺い思う心有るらん、叶うまじ」と仰せられるが、三浦大介義明は「君の為に命を捨て子孫眷属二心なく、君を守護し奉って年来奉公し奉る、争か思し召し忘れ給ふべき、義盛相具して候へ共、僻事更に在るまじき」と、様々に申し立てて預る。 やがて妻になり男子を生む。朝比奈三郎義秀とはこの子である。 母の力を継いでいるため、剛も力もならびなしとのこと。 和田合戦の時に朝比奈が討たれて後、巴は泣々越中に行き、石黒は親しかったのでここで出家して巴尼として仏に花香を奉り、主、親、朝比奈の後世を弔ったが九十一までもって、臨終めでたく終ったとか。  ある説には赤瀬の地頭の許に仕えたとか  高望王から九代の孫は、三浦大介義明、杉本太郎義遠、和田小太郎義盛、朝比奈三郎義秀

【粟津合戦事】 ★★★

【瀬田大橋陥落】
蒲冠者範頼は勢多の手に向かっていたが、橋は引かれ底は深く渡る手だてもないので、稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝を先頭に、田上の貢御瀬(ぐごせ)を渡って石山通に攻め上る。 今井四郎兼平五百余騎は国分寺の毘沙門堂に陣をとっていたが、これに出合い防戦する。 方等三郎先生義弘はここで討たれた。
【木曾今井と再会】
(鎌倉勢)三万余騎の兵は雲霞の如く重なり、防ぎようもない上に宇治の手はすでに敗北、鎌倉の軍兵は都へ侵入とのこと、兼平は心細く思い『木曾殿は北国へぞ趣き給らん』と思って湖西の渚を三百余騎で北へ向けて歩かせた。 義仲は関山・関寺を過ぎて、南に進んでいたが(今井と)粟津浜で行き会う。 木曾「都にていかにも成るべかりつるに、今一度互ひに相見んとて、多くの敵に後ろを見せ、これまで来れり」と語って涙ぐむ。 今井も「勢多にて如何にも成るべう候ひつれ共、御向後(おんゆくえ)のおぼつかなく侍りて、これまで遁れ参りたり」と申す。 義仲は兼平と馬を並べて「川原の合戦に、高梨、仁科、根井も討たれぬ。身も已に疵を蒙りて、心疲れ力尽きて進退歩みを失ふ、敵の為得らるる事名将の恥なり、軍敗れ自害するは猛将の法なり」と言えば、 兼平は、「勇士は食せざるも飢えず、疵を被りて屈せず、軍将は難を逃れて勝ちを求む、死を去りて辱を決す、就中(なかんづく)平氏西海に在(いま)す、軍将、北州に入り給はば、天下三つに分ち海内乱発せん歟、先ず急ぎて越前国府まで遁れ給へ、兼平此にて敵を相禦(ふせ)ぐべし」と言って旗を挙げる。 義仲の随兵らは多くは北国の者達だったので北をさして逃げていたが、旌の足を見て五十騎三十騎とあちこちから馳せ集まる。 勢多から落ちてきた者も二十騎三十騎と集まり加わって、四五百騎に及ぶ。
【粟津合戦】
兼平は力を得て、左右を顧み「各々思を報じて命を棄てん事この時にあり、禦矢(ふせぎや)射て延し奉れ」と言えば、五百余騎の輩(ともがら)も心を一つにして、西の山を後に当てて東の浜を前に得て、馬の足を軽くして矢筈を取っていると、武石三郎胤盛、猪俣金平六範綱等をはじめとして七百余騎が攻めてきて鬨の音を発する。 兼平已下の軍士もまた声を合わせる。 木曾は「此等は源氏郎等共、我と思はん若者共、蒐け出でて追ひ散せ」と下知すると、二河次郎頼重という者が三十余騎で鞭を打って敵の中へ割って入り、両方互いに乱れ合って戦う。 範綱已下の輩は(頼重の)小勢を押し包み、中に取り籠めてしまうと頼重はじめ皆討ち取られてしまう。 そのあと甲斐源氏で一条次郎忠頼、板垣三郎兼信が七千余騎で先陣に進み、粟津浜に出てくる。 木曾は(赤地錦の鎧直垂に、薄金と云ふ冑着て、射残したる護田鳥尾(うすべのお)の矢負ひ)、馬を歩ませだして「清和帝に十代の後胤、六条判官為義には孫、帯刀先生義賢次男、木曾左馬頭兼伊予守、今は朝日将軍源義仲、生年三十七、甲斐の一条と見るは僻事か、雑人の手にかけんより組めや組め」と、轡を並べて待つ。 一条次郎忠頼も「同流の源に、伊予守頼義の三男、新羅三郎義光が孫、武田太郎信義が嫡子、一条次郎忠頼、同三郎兼信、兄弟二人」と名乗り進み出る。 木曾と一条は、それぞれ魚鱗、鶴翼の構えに並べる。 一条忠頼は鶴翼の戦といって、鶴の羽をひろげたように勢をあばらに立てて、小勢を中に取り籠もうと構える。 木曾義仲は魚鱗の戦といい、魚の鱗をならべたるようにして先は細く、中が膨らむようにして立てる。 一条・板垣は甲斐源氏、木曾義仲は信濃源氏、共に清和の苗裔(びょうえい)、同じく多田の後胤である。 一門は弓箭を合わせ、同姓勝負を決しようとする。 義仲魚鱗の構えで五百余騎轡を並べてさっと駆け入れば、忠頼鶴翼の支度で大勢の中に小勢をくるりと巻き、馳せ合い馳せ返して戦った。 義仲は「今を限りの軍なり、いつまで命を惜しむべき、一条次郎能き敵ぞ、あますな者共」と、駆け破っては出、おめいては入り、五六度まで戦って”く”と抜けて出ると二百余騎は討たれている。 次に同甲斐源氏の武田太郎信義と加々見次郎遠光兄弟二人が大将軍の二千余騎、四廻五廻戦って先へ抜けて見ると、八十余騎討たれる。 次に同国源氏の逸見四郎有義、伊沢五郎信光兄弟二人、その従弟に小笠原小次郎長清、三人大将軍がの三千余騎、一時ほど戦って駆け抜けると五十余騎討たれる。 次に武蔵国住人稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝兄弟二人大将として二千余騎、蛛手十文字にかけ破って抜けると、五十余騎討たれる。 次に下総国住人千葉介経胤大将軍の三千余騎、決死の覚悟で戦い七十余騎は討たれ、木曾勢はわずかに二十余騎になる。 次に大将軍蒲冠者範頼、七千余騎で襲う。
【打出浜/多胡奮闘】
木曾はこの大勢に追われつ返しつ粟津原から打出浜まで、退却をくりかえして堪える。 二十余騎だったのが落ちたり討たれたりして主従五騎になっていた。 信濃国住人手塚太郎は討たれ、手塚別当は落ちた。 上野国住人多胡次郎家包が名乗って出ると大勢の中を打ち廻り「我と思はん人々は、家包討り捕りて勲功の賞に預れや」と言って散々に切りまわる。 鎌倉殿から兵共に「多胡次郎家包木曾に付いて在るなり、相構へて虜(いけど)って進らせよ」と言い含めてあったので、家包は大いに狂い廻って切り廻るが、(鎌倉の)軍兵は疵をつけてはならないと射もせず切りもせず、手をひろげて生け捕ろうとするので大変である。 兵の誰かが「家包甲を脱ぎ太刀を納めて降人(こうにん)に参れ、助けん、木曾殿も今は主従三騎なり、和君一人命をて棄たり共、木曾殿軍に勝ち給ふべしや、唯降人に参れ、由なし々々」と言うと、家包は「弓矢取る身は主は二人持たず、軍の習ひ討死は期(ご)する処なり、命を惜しみ降人に成って、かく云ふ人々に面を合はすべしや、正なし/\教訓も事によるべし、其よりも只寄せ合はせ、組んで討ち取り給へや殿原」と斬り廻る。が(鎌倉の)大勢はしころを傾けて押し寄せてついには生捕りにした。
【木曾の最期】
去年の六月に木曾が北陸道を上った時には五万余騎だったのが、今、四宮河原を落ちる時にはただ七騎に過ぎず、粟津の戦の終わりまでは心猛く思っていたが、運も極まり主従二騎になる。 木曾殿は今井に「日来は何と思はぬ薄金が、などやらん重く覚ゆるなり」と言えば、 兼平「何条(なんでう)さる事侍るべき、日来に金もまさらず、別に重き物をも付けず、御年三十七、御身盛りなり、味方に勢のなければ臆し給ふにや、兼平一人をば、余の者千騎万騎とも思し召され候ふべし、終に死すべき物故に、わるびれ見え給ふな。 あの向(むこう)の岡に見ゆる一叢(ひとむら)の松の下に立ち寄り給ひて、心閑(こころしず)かに念仏申して御自害候へ、其程は防矢仕りて、軈(やが)て御伴申すべし、あの松の下へは、廻らば三町、直(すぐ)には一町にはよも過ぎ侍らじ、急ぎ給へ」と泣々涙を押さえ詢(くど)く。 木曾は名残りを惜しみつつ「都にて如何にも成るべかりつれ共、此まで落ち来つるは汝と一所にて死なんとなり、何所(いづく)も同じ枕に討死にせんと思ふなり」と言う。 今井「いかにかくは宣ふぞ、君自害し給はば兼平則ち討死なり、是をこそ一所にて死ぬるとは申せ、兵の剛なると申すは最後の死を申すなり、さすが大将軍の宣旨を蒙る程の人、雑人の中に打ち伏せられて首をとられん事、心憂かるべし、疾う々々落ち給ひて御自害あるべし」と勧めると、木曾は誠にと思い、向の岡の松を指して馳せ行った。 今井は木曾を先に立てて、引返々々命も惜しまず戦った。 木曾は今井を振り捨てて、畷(なわて)に任せて馬を歩かせ行く。 これは元暦元年正月廿日の事なので、峯の白雪は深く谷の氷もまだ解けない。 向の岡へ馬を筋違いに進める、と、凍った田を横切ろうとして深田に馬を馳入れ、打てどもうてども歩かない。馬も弱り、主も疲れていれば、どうしようもない。 木曾は今井は続いているかと、後ろを振り返ったところへ、相模国住人石田小太郎為久がよっ引いて放つ矢に、内甲を射られて、間額(まっこう)を馬の頭に当ててうつぶせに伏せた。 為久の郎等二人が馬より飛び下りて、深田に入って木曾を引き落とし、とうとう首を取ってしまう。 今井はこれを見、『今ぞ最後の命なる、急ぎ御伴に参らん』と進み出てて「日頃は音にも聞きけん、今は目にも見よ、信濃国住人中三権頭兼遠が四男、朝日将軍の御乳母子今井四郎兼平なり、鎌倉殿までも知召(しろしめ)したる兼平ぞ、首取って見参に入れよや」と、数百騎の中に駆け入って散々に戦ったが、敵には大力の剛の者もないので寄せて組む者もなく、ただ遠巻きに遠矢のみ射かけてくる。 しかし、冑よければ裏もかかず、鎧の隙間を射たねば傷も負わない。 兼平は箙(えびら)に残った八筋の矢で八騎射落とす。 やがて太刀を抜いて、「日本一の剛の者、主の御伴に自害する、見習へや、東八箇国の殿原」とて、太刀の切鋒を口にくわえ、馬から逆さに落ちつらぬかれて死ぬ。 兼平自害して後は、粟津の軍も無りけり。
【樋口帰京】
樋口次郎兼光は、十郎蔵人行家追討のために、五百余騎で河内国へ下っていたが、行家は討ち漏らし、女共を生捕りにして京に上った所、淀の大渡にて木曾殿已に討たれ給ひぬ、と聞き、捕虜を解放して、兵共に「木曾殿早討たれ給ひにけり、御内には今井樋口とて一二の者なり、遂に遁るべき身に非ず、我身は京に上って討死すべきなり、命も惜しく故郷も恋しからん人々は、これより落ち給へ」と言うと、五百余騎の兵は「木曾殿然様(さよう)に討たれ給ひける上は、誰が為に命をも捨つべき」と思い思いに落ち失せて、わずかに残った五十余騎で上るが、鳥羽殿の秋の山のあたりで見ると、三十騎に過ぎなくなっていた。 造道、四塚、東寺の門へ歩ませ行く。 樋口次郎が京へ入ったと聞き、九郎義経の郎等らは七条を西へ朱雀大宮を下り、造道へ馳せ向かう。
【遅れてきた茅野】
信濃国住人茅野太郎光弘という者は、樋口次郎兼光の甥である。 木曾殿誅罰の為、東国より討手が上ると聞き、山道よりただ一騎で上ってきたが、今日都に着いて聞けば「木曾殿はすでに討れる、樋口今日京に入る」とのこと、急ぎ四塚のあたりに馳せ向って兼光の勢に合流して戦う。 何まで助るべきにはなけれ共、親き中こそ哀なれ。 光弘は矢表に塞がって散々に戦うところに、筑前国住人原十郎高綱が名乗って駆け出てくる。 光弘、「何れの十郎にてもあれ、敵をば嫌ふまじ」と太刀を抜いて戦い、茅野太郎の手にかかって原十郎は討たれる。 同国上宮の茅野大夫光家とその弟茅野七郎光重も、兄弟鼻を並べて戦うが、敵四人切り殺して討死。
【樋口生捕り】
児玉党は、団扇(うちわ)の旗を挿して、百余騎の勢で出てくる。 樋口を取り囲んで戦わずに「やゝ樋口殿軍を止め給へ、和殿計りは助け奉らん、広き中に入りて聟に成るは加様の時の料なり、詮なし々々」と、心ならずも捕虜とし京へ上り、軍将義経に申し入れる。 (義経は)「奏聞してこそ助め」と院御所に参り、この旨を申し上げると、今日すぐには斬られなかった。

【木曾頸被渡事】 ★

【摂政再任】
二十二日に新摂政を更迭して元の摂政に戻す。 摂録の詔書をくだされて僅か六十日、そも春日大明神の御計なれば当然だ。 【木曾の獄門】 二十六日に、伊予守義仲の首は京の大路を引き回される。 法皇は御車を六条東洞院に立てて見物し、九郎義経は六条河原で検非違使に首を渡す。 検非違使は東洞院を北へ進み、左の獄門の樗(おうち)木に懸けた。 首は四つで、伊予守義仲郎等の信濃国住人高梨六郎忠直、根井四郎行親、今井四郎兼平。この三人は四天王に数えられる強者で、義仲と同じく獄門に掛けられた。 誰かが獄門の木の下に札を書きつける。  『信濃なる木曾の御料に汁懸けて只一口に九郎義経』 伊予守(義仲)の頸は、剣に貫いてあり、赤絹を切って『賊首源義仲』と銘を書いて髻に付け、左右の眉の上の傷に粉米が塗りつけてある。 次に、投降した中原兼光が葛紺水干葛袴の練色衣に引立烏帽子を着て歩いてくる。 京雀たちも貴賤問わず集まってきて見物する。 兼光は死ぬのが怖くて投降した臆病者よ、と見物人たちはあざける。

【兼光被誅並沛公入咸陽宮事】 ★

【樋口の最期】 樋口次郎兼光は児玉党が助命嘆願し、義経が奏聞したが赦されなかった。 これは法住寺殿での合戦の時、上臈女房達などを捕らえて衣裳を剥ぎ取り裸にして五六日のあいだ監禁した件で女房達が訴訟し、兼光は木曾殿の四天王の随一ゆえ死罪は免れないとされた為。 明くる二十七日、獄舎から五条西朱雀に引き出されて斬られる。 義仲も(沛公の故事のように)先に入京しても慎みを忘れずに頼朝の下知を守っていれば、かの沛公が謀に同じく天下を取っていたかもしれない。 義仲は早晩おごりつつ、天命に背きたてまつり、叛逆を起こし、悪事身につもりて、首を粟津に刎ねさせて、恥を獄門に晒された。 但帝王に向って弓を引く者は、大果報之人は六十日を持、小果報之人は四十日を不過といへり。 木曾は五十余日に除目二箇度、松殿の御聟になり、朝日将軍の宣旨を下されたので大果報ともいうべきか。

【一谷城構事】 

【平家の動向】
平家は播磨国室山、備中国水島、二度の合戦に討ち勝ち、会稽の恥を清める。 この戦果で、山陽道七箇国、南海道六箇国、都合十三箇国の住人等が味方につき、その兵十万余人に及ぶ。 木曾が討たれたと聞き、平家は讃岐国屋島を出て、摂津国と播磨国との境にある難波潟一の谷に城郭を構え、そこに移動する。

【義経向三草山事】 

【義経の策】
いっぽうその頃、九郎義経は土肥次郎と夜襲の戦術について談議。 土肥が何も言わないうちに、伊豆国住人田代冠者信綱という者が夜討ちに賛成を唱え、土肥も賛同する。
【田代くんの出自】
かの田代冠者は、俗姓は後三条院第四皇子御子、左皇有佐五代の孫、父・為綱卿は伊豆国司に任じられ伊豆国に在国の折、工藤介茂光の娘と子を成した。 為綱は任期が終わって上洛し(母子は連れて行かず)残された信綱は外戚の祖父工藤介夫婦に育てられた。生年十一歳で流人兵衛佐の見参にはいり、信頼が厚い。 石橋山の合戦の時にも、祖父狩野介の首を取り、伯父甥つれて佐殿の方へ馳参じた。 木曾追討の時、田代冠者はもしもの用心に鎌倉に留めてあったが、木曾との合戦で減った軍兵補充の際に狩野五郎について五百余騎で上洛。 九郎義経は「さらば夜討にせよ」とて、一万余騎にて三草山を山越に、西の城戸へと打給ふ。

【忠頼被討付頼盛関東下向事】

【武田父子の追討命令】
同廿六日、甲斐の一条次郎忠頼酒席で謀られ、誅殺される。 忠頼の父・武田太郎信義も追討すべきとの頼朝の下知があり、安田三郎義貞が甲斐国へ出発。 *義貞にとって信義は兄、忠頼は甥ながら聟にあたる。
同五月十五日、前大納言頼盛卿(池尼御前の芳恩により平家一族でありながら鎌倉に下った)が上洛。
”深く其状を憑みて落ち残り給たれ共、頼朝こそかくは思えども、木曾冠者・十郎蔵人、我に情を置べきに非ず、如何成り行かんずらん、波にも着ず、磯にも着せぬ風情して、肝心を砕いて過ぎ給ける程に、行家は木曾に恐れて都の外に落ちぬ、義仲は九郎冠者に討れければ、聊安堵し給へるに、兵衛佐より重ねて状を上らせ給へり。”

【義経関東下向附親能搦義広並除目事】

【義経関東下向】
同六月一日、源九郎義経は密かに関東に向かう。(梶原平三景時の讒言の誤りを正して謝るため)その間に土肥次郎実平、西国から飛脚を出す。 九州では平家の勢力が強かったが、義経平家追討の事を抛て下向したりければ、人皆傾け申けり。

【信太義広の捕縛】
同六月三日、前斎院次官親能〈前明経博士広季子頼朝之臣専一者也〉と、双林寺で前美濃守義広(故六条判官為義末子)を捕獲。木曾義仲に味方して正月の合戦で敗走の後、ついに捕らえられた。 【除目】
同六月六日、前大納言頼盛卿は大納言に還任される。 蒲冠者範頼は三河守、源広綱は駿河守、源義延は武蔵守に任じられた。 これらは内々に頼朝が推挙したということらしい。

【三日平氏付維盛旧室歎夫別並平氏歎事】

【甲斐源氏動向】
同六月八日、平氏は備前国を攻める。 これをうけて甲斐源氏の板垣冠者兼信〈信義次男〉は美濃国を出、備後国にて戦闘、平氏の船十六艘を討ち取る。(以下略)

【義経拝賀御禊供奉附実平自西海飛脚事】

【義経の容貌】
同二十五日に大嘗会の御禊あり、源九郎大夫判官義経本陣に供奉す。 色白して長短し、容貌優美にして進退優なり。 木曾などが有様には似ず、事外に京馴て見えしか共、平家の中にえりくづと云し人にだにも及ねば、心ある者は皆昔を忍て袖を絞る。

【金仙寺観音講附六条北政所使逢義経事】

【義経の西国落ち】
御文には何事をか被仰下らんと問へば、下?は争か御文の中を奉知べき、御詞には源氏九郎大夫判官、既に西国へとて都を立ぬ。 浪風静りなば一定渡るべし、さしも鬼神の如くに畏恐し木曾も、九郎上ぬれば時日を廻さず亡しぬる怖しき者に侍り、城をもよく構へ兵をも催集て、可有御用心とこそ申させ給つれば、御文も定其御心にこそ候らめ、誠に淀河尻には軍兵充満て雲霞の如し、六万余騎が二手に分て、参川守、九郎判官兄弟して、四国長門より指挟みて下るべしと披露しき。

【大臣殿舎人附女院移吉田並頼朝叙二位事】

【件の牛飼の弟】
今日車を遣ける牛飼は、木曾が院参の時車遣て出家したりし弥次郎丸が弟に、小三郎丸と云童なり。西国までは仮男に成て、今度上りたりけるが、今一度大臣殿の車をやらんと思ふ志深かりければ、鳥羽にて九郎判官の前に進み出て申けるは、舎人牛飼とて下?のはてなれば、心あるべき身にて候はね共、最後の御車を仕ばやと深く存じ候、御免有なんやと泣々申ければ、何かは苦しかるべきとて免してけり。

【頼朝義経中違事】

【義経の謀反】
伊予守義経は源二位頼朝に背いたとささやかれる。 去年正月に、木曾義仲を追討してから重命捨身、たびたび平家を攻め落して今年ついにこれを滅ぼす。一天鎮めて四海澄みぬ。 …

【義経行家出都並義経始終有様事】 

【義経行家逃走】
同三日卯時、義経(赤地錦の直垂に萌黄の糸威の鎧)院御所六条殿に参って大庭に跪き、事の由を奏すとすぐに退出し備前守行家と連れ立って都を出る。その軍兵は三百騎ほど。義経が京中守護の間は治安維持され人望も厚かったので貴賤問わず皆これを惜しむ。 八幡で伏し拝むに「忝八幡大菩薩は源氏氏神とならせ給ふ、本意を申せば、高祖父頼義蒙夢告、怪傀儡腹に男子をなす、則八幡の宮に奉て、八幡太郎と世に申し伝へたり、一天の固として鎮四海、而を近年平家の逆乱さかりになりし間、源氏跡を失事二十一年なり。 今又平家の宿運尽きて源家世を取り、中に木曾冠者義仲、朝威を軽しめ過分の故に、義経手を下して義仲を誅す、是義経が奉公の始なり。加之四国九州に赴て、若干の平氏を誅戮し畢。 此に雖無誤無犯、舎兄頼朝が讒訴について、今義経行家都を罷出。(後略)」 源二位に志ある在京の武士が射かけるが、義経行家軍に逆に蹴破って西に落ちて行く。 摂津国源氏多田蔵人行綱、大田太郎、豊島冠者等千余騎の勢を引具し、当国中小溝と云所にて陣を取、矢筈を揃て射けれども事共せず、追散して通にけり。 同十二日、太宰権師経房卿奉仰て、美作国司に仰けるは、源義経同行家、巧反逆赴西海、去六日に於大物浜、忽逢逆風漂没之由、雖有風聞、亡命之条非無独疑、早く仰有勢武勇之輩、尋捜山林河沢之間、不日に可令召進其身とぞ院宣を被下ける。

【義経の出自エピソード〜頼朝顔合】
みんな知ってる幼少エピソード満載、でも割愛。

【義経の最期】
義経木曾殿ならびに平家追討の為討手、京上の時は、伊勢三郎義盛とて先陣を打、西国屋島壇浦までも相離れず、義経都を落ける時、義盛君の落ち着給へらば急ぎ馳せ参じるべしと様々契申して、思様ありとて暇を乞いて、故郷伊勢国に下、其時の守護人、首藤四郎を伺ひ討つ。 国中の武士追かゝりければ、義盛鈴鹿山に逃籠めて戦けるが、敵は大勢なり、矢種射尽して自害して失にけり。 武蔵国住人河越太郎并一男小太郎誅されけり。是は故秩父権頭が次男の子ぞかし。 然程に、義経都を落て金峰に登て、金王法橋が坊にて、具したりし白拍子二人舞せて、世を世ともせず二三日遊戯て、あゝさてのみ非可有とて、白拍子を此より京へ返送とて、金王法橋に誂付て、年来の妻の局、河越太郎が女計を相具して下にけり。 義経が舅子舅なるに依て角亡にけり。 陸奥国権館、秀衡入道が許に尋付たりければ、造作して居侍つて過る程に、秀衡老死しぬ。 其男安衡を憑て有けるが、鎌倉に心を通して義経を誅す。 其時妻女申けるは、一人の子なれば思置事なし、残居て憂目を見んも心うし、我を先立て死出山を共に越給へと云ければ、義経南無阿弥陀仏と唱へて、女房を左脇に挟かとすれば頸を掻落して、右に持たる刀にて、我腹掻割て打臥にけり。 背父遺言安衡義経を討たりけれ共、無其詮、源二位頼朝奥入して、安衡をば被誅けり。 源二位或望或欝申事ありて、時政実平を指進せて、可潜近臣輩由聞えければ、人皆恐怖しけり。 (一部略)

【時政実平上洛附吉田経房卿御廉直事】

【北条時政・土肥実平の上洛】
同二十八日、両使数百騎の兵を率いて入京する。 義経・行家はすでに都を落ち、戦闘にはならなかった。

【守護地頭の設置】
時政源二位の下知により、諸国に守護、庄園に地頭を置くことになった。 二十六箇国を分けて庄領国領を問わず段別兵粮米をあてる、これは義経行家追討のためという。(後略)

【法皇大原入御事】 

【大原御幸】
後白河法皇は大原での語らいのなかで「是は暫し天上の楽しみと思し候ひしに、去る養和の秋の初め七月末に、木曾義仲に都を落させて、行幸俄かに成りしかば、九重の内を迷い出でて八重立雲の外をさし、故郷を一片の煙と打ち詠み、旅衣万里の浪に片敷いて、浦伝島伝して明し暮し、折折に、波間幽に千鳥の声を聞き、終夜友なき事を悲み、浦路遥藻塩の煙を見、終日は不堪思懇なり、憑便もなく寄方もなかりし事は、是や此天上の五衰退没の苦ならんと覚しき。」と愚痴をこぼす。(後略)

以上、オツカレさまでした!