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よりぬき木曽殿・百二十句本

よりぬき木曽殿、平家物語百二十句本(ベースは国会図書館本)

平家物語を読む120のポイント。

っていう新書みたいな構成の平家物語で、木曽殿だけを厳選するとたった18のポイント(泣)。
これならめんどくさがりの人でもいけるかもネ!ということで選り抜いてみました。モクジの斜体タイトルは補足分なので、飛ばしてオッケーです。百二十句本最大の魅力、「剣の巻」もオマケにピックアップしておきました。
*しばらく原文掲載。

タイトル横の星は重要度、★=情報アリ、★★=オモシロ、★★★=超オモ!

モクジ

巻第四
第三十二句 高倉の宮謀叛 ▲
       (略)
第三十八句 頼政最後(オマケ)
       (略)

巻第六
第五十四句 義仲謀叛 ★★
       (略)
第五十八句 須俣川(オマケ)
第五十九句 城の太郎頓死(オマケ)
       (略)
第六十句  城の四郎官途 ★

巻第七
第六十一句 平家北国下向 ★
第六十二句 火打合戦 ★★★
第六十三句 木曾の願書 ★★

第六十四句 実盛 ★★
       (略)
第六十六句 義仲牒状 ★
第六十七句 平家の一門願書(オマケ)
第六十八句 法皇鞍馬落ち(オマケ)

      (略)

巻第八
第七十一句 四の宮即位 ★
      (略)
第七十五句 頼朝院宣申(オマケ)
第七十六句 木曾猫間の対面 ★
第七十七句 水島合戦 ★
第七十八句 瀬尾最後 ★
第七十九句 法住寺合戦 ★★
第八十句 義経熱田の陣 ★

巻第九
第八十一句 宇治川 ★★
第八十二句 義経院参 ★★★
第八十三句 兼平 ★★★


---------- 剣の巻上(オマケ)
---------- 剣の巻下(オマケ)
---------- 義経都落ち(オマケ)


巻第四
第三十二句 高倉の宮謀叛 

【高倉の宮の生い立ち】
一院第二の皇子以仁の親王と申すは、御母は加賀の大納言季成の卿の御むすめ。三条高倉にましましければ、「高倉の宮」とぞ申しける。
御歳十五と申せし永万元年十二月十五日の夜、近衛河原の大宮の御所にて、しのびつつ御元服あり。
御手跡いつくしうあそばし、御才学すぐれてわたらせ給ひしかども、御継母建春門院の御そねみにて、親王の宣旨をだにもかうむらせ給はず。花のもとの春のあそびには、紫毫をふるつて手づから御製を書き、月のまへの秋の宴には、玉笛を吹いてみづから雅音をあやつらせ給ひけり。
かくて明かし暮らし給ふほどに、治承四年には三十二にぞならせましましける。


【源氏揃ひ】
治承四年卯月九日の夜、近衛河原に候ひける源三位入道、この御所へ参りて申しけることこそおそろしけれ。
「君は天照大神四十八世の御末、神武天皇より七十七代の宮にてわたらせ給ふ。
いまは天子にも立たせ給ふべきに、いまだ親王の宣旨をだにもかうむらせ給はず、宮にてわたらせ給ふことを、心憂しとはおぼしめさずや。この世の中のありさまを見るに、上には従ひたる様に候へども、下には平家をそねまぬ者や候ふ。されば、君、御謀叛起させ給ひて、世をしづめ、位につかせ給へかし。また、法皇のいつとなく鳥羽殿に押し籠められてわたらせ給ふをも、やすめまゐらせ給へかし。これ御孝行の御いたりにてこそ候はんずれ。神明三宝もなどか御納受なかるべき。君、まことにおぼしめし立つて、令旨を諸国へくだされ給ふものならば、よろこびをなして馳せ参らんずる源氏どもこそ多く候へ」とて申しつづく。

「京都には、まづ出羽の前司光信が子ども、伊賀守光基、出羽の蔵人光長、出羽の判官光重、出羽の冠者光義。
熊野には、六条の判官為義が末の子、十郎義盛とてかくれて候。
津の国には、多田の蔵人行綱こそ候へども、新大納言成親の卿の謀叛のとき、同心しながら返り忠したる不当人で候へば、申すにおよばず。さりながらも、その弟に、多田の次郎知実、手島の冠者高頼、太田の太郎頼基。
河内の国には、武蔵権守入道義基、子息石川判官代義兼。
大和の国には、宇野の七郎親治が子ども、太郎有治、次郎清治、三郎成治、四郎義治。
近江の国には、山本、柏木、錦織。
美濃、尾張には、山田の次郎重弘、河辺の太郎重直、泉の太郎重満、浦野の四郎重遠、葦敷の次郎重頼、その子太郎重資、同じく三郎重澄、木田の三郎重長、開田の判官代重国、八島の先生重時、その子太郎重行。
甲斐の国には、逸見の冠者義清、その子太郎清光、武田の太郎信義、加賀見の次郎遠光、同じく小次郎長清、一条の次郎忠頼、板垣の三郎兼信、逸見の兵衛有義、武田の五郎信光、安田の三郎義定。
信濃の国には、大内の太郎維義、岡田の冠者親義、平賀の冠者盛義、その子四郎義信。帯刀先生義賢が次男!木曾の冠者!義仲。
伊豆の国には、流人前の兵衛佐頼朝。
常陸の国には、為義が三男、信太の三郎先生義教。佐竹の冠者昌義、その子太郎忠義、同じく三郎義宗、四郎隆義、五郎義季。
陸奥の国には、故左馬頭義朝の末の子、九郎冠者義経。
これみな六孫王の苗裔、多田の満仲が後胤なり。朝敵をもたひらげ、宿望とげしことは、源平いづれも劣りまさりはなかりしかども、いまは雲泥のまじはりをへだてて、主従の礼にもなほ劣れり。国には国司に従ひ、荘には領家につかはれ、公事雑事にかり立てられて、安き心も候はず、いかばかりか心憂く候ふらん。君、もしおぼしめし立たせ給ひて、令旨を賜はりつるものならば、夜を日についで馳せのぼり、平家をほろぼさんこと時日をめぐらすべからず。入道こそ年寄つて候へども、子どもひき具して参り候ふべし」とぞ申しける。

【相少納言占形】
 宮は「このこといかがあらん」 とて、しばしは御承引もなかりしかども、阿古丸の大納言宗通の卿の孫、備後の前司季通が子、少納言伊長と申せしは、すぐれたる相人なりければ、時の人、「人相少納言」とぞ申しける。その人、この宮を見まゐらせて、「位につかせ給ふべき相まします。天下のこと、おぼしめし放させ給ふべからず」と申しけるうへ、源三位入道もか様に申されければ、「しかるべき天照大神の御告げやらん」とて、ひしひしとおぼしめし立たせ給ひけり。


【新宮十郎蔵人改名令旨】
 熊野に候ふ十郎義盛を召して、蔵人になされ「行家」と改名して、令旨の御使に東国へぞ下されける。
同じき四月二十八日、都をたつて、近江よりはじめて、美濃、尾張の源氏どもに触れて行くほどに、五月十日には伊豆の北条に下り着きて、前の兵衛佐殿に対面して、令旨を奉る。「信太の三郎先生義教にとらせん」とて、常の国信太浮島へ下る。
!木曾の冠者!義仲は甥なれば賜ばん」とて、東山道へぞおもむきける。

そのころ、熊野の別当湛増は平家に心ざし深かりけるが、なにとしてか漏れ聞こえたりけん、「新宮の十郎義盛こそ、高倉の宮の令旨賜はつて、美濃、尾張の源氏ども触れもよほし、すでに謀叛おこすなれば、那智、新宮の者どもは源氏の方人をぞせんずらん。湛増は、平家の御恩天山とかうむりたれば、いかでか背きたてまつるべき。那智、新宮の者どもに矢一つ射かけて、平家へ仔細を申さん」とて、ひた兜一千人、新宮の湊へ発向す。
新宮には、鳥居の法眼、鶴原の法眼。侍には、宇井、鈴木、水屋、亀甲。那智に、執行法眼以下、都合その勢二千余人なり。鬨つくり、矢あはせして、源氏のかたには、とこそ射られ、平家のかたには、かくこそ射られて、矢叫びの声退転もなく、鏑の鳴りやむひまもなく、三日がほどこそ戦うたれ。
熊野の別当湛増、家の子郎等おほく討たれ、わが身手負ひ、からき命を生きつつ、本宮へこそ逃げのぼりけれ。

さるほどに、法皇は、「成親、俊寛が様に、とほき国、はるかの島へも流しやせんずらん」とおぼしめしけれども、城南の離宮にうつされて、今年は二年にならせ給ふ。

同じき五月十二日、午の刻ばかり、御所中に鼬おびたたしう走りさわぐ。法皇大きにおどろきおぼしめして、御占形をあそばいて、近江守仲兼、そのころはいまだ蔵人にて侍はれけるを召して、「この占形持ちて、泰親がもとへ行き、きつと勘へさせて、勘状を取つて参れ」とぞ仰せられける。
仲兼これを賜はつて、陰陽頭泰親がもとへ行く。をりふし宿所にはなかりけり。「白河なるところへ」と言ひければ、それへたづねゆき、勅定のおもむきをしるしければ、泰親、やがて勘状を参らせけり。
仲兼、鳥羽殿へ帰り参りて、門より参らんとすれば、守護の武士ども許さず。案内は知りたり、築地を越え、大床の下を経て切板より泰親が勘状をこそ参らせたれ。法皇ひらいて御覧ずるに、「いま三日のうちの御よろこび、ならびに御嘆き」とぞ申しける。法皇、「御よろこびはしかるべし。これほどの御身となり、またいかなる御嘆きのあらんずらん」とぞ仰せける。

さるほどに、前の右大将宗盛の卿、法皇の御ことを、をりふし申されければ、入道相国、やうやう思ひ直いて、同じき十三日、鳥羽殿を出だしたてまつり、八条烏丸、美福門院へ御幸なしたてまつる。
「いま三日がうちの御よろこび」とは、泰親がこれをぞ申しける。

第三十八句 頼政最後(オマケ)

(頼政最後〜略)
【嫡子仲綱次男兼綱三男仲家その子仲光討死の事】
伊豆守仲綱は、散々に戦ひ、痛手負うて「今はかう」とや思はれけん、自害してこそ伏しにけれ。その首をば、下河辺の藤三郎清親が取つて、本堂の大床の下に投げ入れけり。
三男六条の蔵人仲家、その子蔵人太郎仲光も一所にて腹かつ切つてぞ伏しにける。
この六条の蔵人と申すは、六条の判官為義が次男帯刀先生義賢が子なり。
父義賢は、久寿二年、武蔵の国大倉にて、鎌倉の悪源太義平がために討たれぬ。
そののちみなし子にてありしを、源三位入道、子にして、蔵人になしたりしほどに、日ごろのちぎりを変ぜず、今はか様に討死しけるこそ、弓矢取りのならひとはいひながら、あはれなりし事どもなり。
競滝口をば、平家の兵、「いかにもして生捕にせん」とて、面々に心をかけたりけれども、読も心得て、散々に戦ひ、自害してこそ失せにけれ。

(以下略)

[モクジ]

巻第六
第五十四句 義仲謀叛 ★★

【義仲幼少の事】
そのころ信濃の国に、!木曾の冠者義仲といふ源氏ありと聞こえけり。これは故六条の判官為義が次男、帯刀先生義賢が子なり。

義賢は久寿二年八月十六日、武蔵の国大倉にして、甥の鎌倉悪源太義平がために誅せられたり。
そのとき義仲二歳になりけるを、母泣く泣くいだいて、信濃の国に越えて、木曾の中三兼遠がもとへ行き、「いかにもしてこれを育て、人になして見せ給へ」と言ひければ、兼遠請とつて、かひがひしう二十四年養育す。

やうやう人となるままに、力も世にすぐれて強く、心も並ぶ者なし。つねには「いかにもして平家を滅ぼして、世を取らばや」なんどぞ申しける。兼遠おほきによろこんで、「その料にこそ、君をばこの二十四年養育申し候へ。かく仰せられ候ふこそ、八幡殿の御末とぞおぼえさせ給へ」と申しければ、!木曾、心いとどたけくなつて、根の井の大弥太滋野の幸親をはじめとして、国中の兵をかたらふに、一人もそむくはなかりけり。
上野の国には、故帯刀先生義賢のよしみによつて、那波の広澄をはじめとして、多胡の郡の者ども、みなしたがひつく。
平家末になるをりを得て、源氏年来の素懐をとげん」と欲す。

【城の太郎受領】
!木曾といふ所は、信濃にとつても南の端、美濃の国の境なり。都も無下にほど近ければ、平家の人々漏れ聞きて、「こはいかに」とぞさわがれける。入道相国のたまひけるは、「それ心にくからず。思へば、信濃一国の兵こそしたがひつくといふとも、越後の国には、余五将軍の末葉、城の太郎資長、同じく四郎資茂、これらは兄弟ともに多勢の者なり。仰せ下したらんずるに、などか討ちてまゐらせざるべき」とのたまへば、「いかがあらんずらん」と、内々はささやく者もおほかりけり。
同じく二月一日、越後の国の住人城の太郎資長、越後守に任ず。
これは!木曾を追罰すべきはかりごととぞ聞こえし。
同じく七日、都には、大臣以下家々にして、尊勝陀羅尼、不動明王を書供養せらる。これは兵乱の祈りのためなり。

【石川城落去】
同じく九日、河内の国石川の郡に候ひける、武蔵権守入道義基が子息石川の判官代義兼、兵衛佐頼朝に同心のよし聞こえしかば、入道相国やがて討手をさし遣はす。討手の大将には源太夫判官季貞、摂津の判官盛澄、三千余騎にて、河内の国へ発向す。城のうちにもその勢百騎には過ぎざりけり。鬨つくり、矢合せして、入れかへ、入れかへ、数刻たたかふ。城内の兵ども、手負ひ、戦ひ、討死する者おほかりけり。武蔵権守入道義基討死す。子息石川の判官代義兼、痛手負ひて、生捕にせらる。
同じく十日、義基法師が首、大路をわたさる。諒闇に賊首をわたさるることは、堀河の天皇崩御のとき、前の対馬守源の義親が首
をわたされし例とぞ聞こえし。


【宇佐の大宮司飛脚】
同じく十二日、鎮西より飛脚来たりけり。宇佐の大宮司公通が申しけるは、「九州の者ども、緒方の三郎をはじめとして、臼杵、戸
次、菊池、原田、松浦党
にいたるまで、ひたすら源氏に心を通じて、太宰府の下知にもしたがはず」とぞ申しける。
東国、北国すでにそむき、南海道には、熊野の別当湛増以下みな平家をそむいて、源氏に同心しけり。「四夷たちまちに乱れぬ。世
はただ今失せなんず」と心ある人かなしまずといふことなし。
前の右大将宗盛申されけるは、「討手は去年もつかはして候へども、しいだしたることもなし。今度は宗盛東国へまかり向かひ候は
ん」と申されければ、上下色代して、「もつともしかるべう候。さ様にも候はば、たれも尻足をば踏み候はじ」
「武官にそなはり、弓矢にたづさはらん人々は、みな右大将殿を大将として、東国へ発向すべき」よしをこそ宣下せられけれ。

[モクジ]

第五十八句 墨俣川

(法皇還御〜略)
【美濃の国目代都へ注進の事】
同じく三月十日、美濃の国の目代、都へ早馬をもつて申しけるは、「東国の源氏ども、すでに尾張の国まで乱入して、道をふさぎ、人を通さざる」よし申したりければ、やがて討手をつかはす。
討手の大将軍には左兵衛督知盛、左少将清経、同じく少将有盛、その勢三万余騎にて、尾張の国へ発向す。入道相国失せ給ひて、わづかに五旬だにも過ぎざるに、乱れたる世とはいひながら、あさましかりし事どもなり。
源氏の方には、十郎蔵人行家大将軍にて、兵衛佐の舎弟卿の公円成、都合その勢六千余騎、尾張の国
須俣川の東に陣をとる。平家は三万余騎、川より西に陣したり。

【源氏合戦に利を失ふ事】
同じき十六日の夜に入りて、源氏六千余騎、川を渡して、平家三万余騎が中へをめいて駆け入り、あくれば十七日の寅の刻に矢合せして、夜の明くるまで戦ふに、平家はちともさわがず、「敵は川を渡したれば、馬、物の具みな濡れたるぞ。それをしるしに討てや」とて、大勢の中にとりこめて、「あますな、もらすな」とて攻めければ、源氏の勢のこりすくなう討ちなされ、大将軍十郎蔵人行家からき命生きて、川より東へ引きしりぞく。卿の公円成深入りして討たれにけり。平家やがて川を渡いて、勝にのり、追つかくる。かしこ、ここに、返しあはせ、返しあはせ、防ぎ戦へども、無勢なり。
平家は多勢なりければ、かなふべしとも見えざりけり。「こんどは源氏のはかりごと、はかなくなる」とぞ人申しける。
大将軍十郎蔵人行家、三河の国
八橋川の橋を引き、防がんと待ちかけたり。平家やがて押し寄せ攻めければ、こらへずしてそこをも攻めおとされぬ。平家つづいて攻められば、三河、遠江の勢つくべかつしを、大将軍左兵衛督知盛、所労とて、三河の国より帰りのぼらる。こんどもわづかに一陣ばかり破るるといへども、残党を攻めねば、しいだしたることもなきがごとし。
平家は、去々年小松殿薨ぜられぬ。今年また入道相国失せ給ふ。
運命の末になることあらはなりしかば、年来恩顧のともがらのほかは、したがひつく者なかりけり。「東国には、草も木もみな源氏になびく」とぞ聞こえし。

[モクジ]

第五十九句 城の太郎頓死

【城の太郎頓死】
さるほどに、越後の国の住人、城の太郎資長、当国の守に任ずる重恩のかたじけなさに、木曾追討のために、その勢三万余騎、六月十五日門出して、あくる十六日の卯の刻にうちたたんとしける夜半ばかりに、にはかに大風吹き、大雨降り、なるかみおびたたしく鳴つて、空はれてのち、雲居に大きなる声のしはがれたるをもつて、「南閻浮提第一の金銅十六丈の盧遮那仏、焼きほろぼしたてまつる平家の方人する城の太郎、これにあり。召し取れや」と三声さけびてぞとほりける。資長をさきとして、これを聞く者みな身の毛もよだちけり。郎等ども、「これほどおそろしき天の告げ候ふには、ただ、ことわりをまげ、とどまらせ給へ」と申しけれども、「弓矢取る者、それによるべからず」とて、あくる卯の刻に城を出でて、十余町を行きたりけるに、「黒雲一むら立ち来つて、資長がうへにおほふ」と見えければ、うち臥すこと三時ばかりして、つひに死ににけり。このよし飛脚をたてて都へ申しければ、平家の人々大きにさわがれけり。

【大赦】
同じく七月十四日改元ありて、養和と号す。築後守貞能、築前、肥後両国を賜はつて、鎮西の謀叛たひらげんために、西国へ発向す。その日また非常の大赦おこなはる。去んぬる治承三年に流され給ひし人々、みな召し返さる。松殿の入道殿下、備前の国よりのぼらせ給ふ。太政大臣妙音院、尾張の国より帰洛とぞ聞こえし。
按察の大納言資賢、信濃の国より御上洛。
同じく二十八日、妙音院御院参。去んぬる長寛のむかしの帰洛には、御前の簀子にして、賀王恩、還城落をひかせさせ給ひしに、養和のいまの帰洛には、仙洞にして、秋風楽をぞあそばしける。いづれもその風情折を得て、おぼしめしより給ひけん御心のうちこそめでたけれ。按察の大納言資賢の卿もその日院参せらる。法皇、「いかにや。夢の様にこそおぼしめせ。ならはぬ鄙のすまひして、郢曲なんどもいまは跡かたもあらじとおぼしめせども、今様一つあらばや」と仰せければ、大納言拍子をとつて、
 信濃にあんなる木曾路川
といふ今様を、これはわが見給ひたりしあひだ、
 信濃なる木曾路川
とうたはれけるぞ、ときにとつて高名なる。

【平家所願不成就の事】
同じく八月七日、官の庁にして、大仁王会おこなはる。これは将門追罰の例とぞ聞こえし。
同じく九月一日、純友追罰の例とて、くろがねの鎧、兜を大神宮へ参らせらる。勅使は祭主神祇権大副大中臣の定隆、都をたつて伊勢へ参りけるが、近江の国甲賀の駅にして所労ついて、伊勢の離宮にして死にけり。
また謀叛のともがら調伏のために、山門にて五壇の法を三七日おこなはれけるに、初五日にあたつて、降三世の壇の大阿闍梨覚算法印、大行事の彼岸所にて寝死にこそ死にけれ。神明、三宝も御納受なしといふこといちじろし。
また大元帥の法うけたまはつて修せられける安祥寺の実厳阿闍梨が御巻数を参らせたるを、披見せられければ、「平家調伏」のよしを記したりけるぞおそろしき。「この法師、死罪にやおこなふべき、また流罪にか」と沙汰ありしかども、大きに事の怱劇にうちまぎれて、沙汰もなかりけり。世しづまつてのち、鎌倉殿、「神妙なり」と感じおぼしめし、その賞に大僧正になされしとぞ聞こえし。

【中宮建礼門院の院号】
同じく十二月二十四日、中宮、院号かうむらせ給ひて、「建礼門院」とぞ申しける。「いまだ幼少の御とき、母后の院号これはじめなり」とぞ申しける。
さるほどに養和も二年になりにけり。

【太白星の沙汰】
同じきその年二月二十三日、太白昴星を犯す。天文要録には、「太白昴星を犯すときに、将軍、都のほかに出づ」と言へり。また、「将軍勅命をかうむつて、国のさかひを出でて、たちまち四夷起る」とも見えたり。
同じく三月十日、除目おこなはれて、平家の人々大略官加階し給ふ。
四月十四日、前の権少僧都顕真、日吉の社にして法華経一万部転読することあり。御結縁のために、法皇も御幸なる。いかなる者の申し出だしたりけるやらん、一院、山門の大衆に仰せて、平家を追罰せらるべしと聞こえしほどに、軍兵内裏へ参りて、四方の陣頭を警固す。平家の一類みな六波羅へ馳せあつまる。本三位の中将重衡の卿、その勢三千余騎にて、法皇の御迎へに、日吉の社へ参りむかはる。
山門に聞こえけるは、「平家、山を攻めんとて、数万騎の軍兵を率して登山する」と聞こえしかば、大衆みな
東坂本へ下りて、「こはいかに」と僉議す。山上、洛中の騒動なのめならず。供奉の公卿、殿上人も色をうしなふ。北面のともがらのなかには、あまりにさわいで、黄水を吐く者おほかりけり。本三位の中将重衡、穴太の辺にて法皇を迎ひとりまゐらせ、還御なしたてまつる。「かくあらんには、御物詣でも、御心にまかすまじきやらん」とぞ仰せける。
まことには山門の大衆、「平家を追罰せん」といふこともなし。平家、また「山を攻めん」といふこともなかりけり。これ跡かたもなきことどもなり、「ひとへに天魔の狂はし」とぞ申しける。

[モクジ]

第六十句 城の四郎官途 

五月二十四日、改元あつて、寿永と号す。

【城の四郎信濃の国発向】
その日越後の国の住人、城の四郎資茂、越後守に任ず。「兄資長逝去のあひだ、不吉なり」とて、しきりに辞し申しけれども、勅命なれば、力およばずして、「資茂」を「長茂」と改名す。
同じく九月二日、城の四郎長茂、越後、出羽、会津四郡の兵ども引率して、都合その勢四万余騎、!木曾追罰のために、信濃の国へ発向す。
九月十一日、
横田川原に陣をとる。
!木曾はこれを聞き、三千余騎にて、
依田の城を出でて馳せ向かふ。

【井上の九郎武略の事】
信濃源氏に井上の九郎光盛がはかりごとにて、にはかに赤旗を七ながれつくり、三千余騎を七手につくり、かしこの峰、ここの洞より、案内者なりければ、赤旗どもを手々にさしあげ、さしあげ、寄りければ、城の四郎これを見て、「何者か、この国にも平家の方人する人がありけるが、着きぬよ」とて、いさみののじるところに、次第に近うなりければ、合図をさだめて七手が一つになる。
三千余騎一所に、鬨をどつとぞつくりける。用意したる白旗ざつとさしあげたり。

【城の四郎戦に利を失ふ事】
越後勢ども、「敵は何の十万騎といふことかあらん。いかにもかなふまじ」とて、色をうしなふ。にはかにふためき、あるいは川に追ひ入れ、あるいは悪所に追ひ落され、たすかる者はすくなう、討たるる者ぞおほかりける。城の四郎、頼みきつたる越後の山野の太郎会津の乗湛房なんどいひける兵ども、そこにてみな討たれぬ。わが身もからき命生きて、川をつたつて越後の国へ引きしりぞく。

【京中の平家油断の事】
同じく十六日、
にはこれを事ともし給はず。前の右大将宗盛の卿、大納言に還着して、十月三日、内大臣になり給ふ。
同じく七日に、祝ひ申しけり。当家、他家の公卿十二人扈従せらる。蔵人頭以下、殿上人十六人前駆す。
東国、北国に源氏ども、蜂のごとくに起こりあひ、ただいま都へ攻めのぼらんとするところに、波のたつやらん、風の吹くやらん、知らざる体にて、か様に花やかなりし事ども、なかなか言ふがひなくぞ見えたる。
さるほどに寿永も二年になりにけり。

[モクジ]

第六十一句 平家北国下向 ★

【鳥羽の院朝覲の行幸】
寿永二年二月二十二日、主上は朝覲のために、法住寺殿へ行幸なる。鳥羽の院六歳にて、朝覲の行幸あり、その例とぞ聞こえし。
同じく二十三日、宗盛従一位し給ふ。

同じく二十七日、内大臣を辞し申さる。これは兵乱のためなり。
南都、北京の大衆、熊野、金峯山の僧徒、伊勢大神宮にいたるまで、一向平家をそむき、源氏に心を通じけり。四方へ宣旨をなしくだし、諸国へ院宣をつかはすも、みな平家の下知とのみ心得て、したがひつく者なかりけり。

【頼朝義仲和融の事】
そのころ、!木曾と兵衛佐と不快のこと出で来たる。
兵衛佐、「木曾を討たん」とて、六万余騎をあひ具して、信濃の国へ発向す。
木曾これを聞き、乳人子の今井の四郎兼平をもつて、「なにによつてか!義仲を討たんとは候ふやらん。ただし、十郎蔵人殿こそ、それを恨むることあつて、これにおはしたるを、義仲さへ情なくもてなし申さんこといかんぞや。されば当時はうち連れてこそ候へ。このほか意趣あるべしともおぼえず。なにゆゑ、今日、明日仲違はれたてまつり、合戦し、平家に笑はれんとは存ずべく候ふ」と言ひやりければ、兵衛佐、「今こそかくはのたまへども、頼朝討たるべきよし『たしかにはかりごとをめぐらされける』とこそ承れ。それによるまじ」とて、討手の一陣をさし向けられければ、!木曾、「真実に意趣なき」よしをあらはさんがために、嫡子清水の冠者義基とて、生年十一歳になる小冠者に、海野、望月、諏訪、藤沢以下の兵ども、そのほかあまたつけて、兵衛佐のもとへつかはす。兵衛佐、「このうえは意趣なし」とて、清水の冠者あひ具して、鎌倉へこそ帰られけれ。

【木曾と城の四郎と合戦の事】
!木曾はやがて越後の国へうち越えて、城の四郎と合戦す。いかにもして討ち取らんとしけれども、長茂主従五騎に討ちなされ、行きがた知らずぞ落ちにける。越後の国をはじめて、北陸道の兵みな木曾にしたがひつく。!木曾は東山・北陸、両道をうちしたがへて、「ただいま都へ攻め入るべし」とぞ聞こえける。

平家は、「今年よりも、明年は、馬の草飼ひにつけて合戦すべき」と披露せられたりければ、南海、西海、山陰、山陽の兵ども、雲霞のごとくに馳せのぼる。
東海道にも、遠江の国より東こそ参らざれ、相模の国の住人俣野の五郎景久、伊豆の国の住人伊東の九郎祐澄、武蔵の国の住人長井の斎藤別当実盛は、平家方にぞ侍ひける。
東山道にも、近江、美濃、飛騨の者参りたり。
平家、まづ北国へ討手をつかはすべき評定あり。すでに討手をつかはす。大将軍には、小松の三位の中将維盛、副将軍には、越前の三位通盛、小松の少将有盛、丹後の侍従忠房、左馬頭行盛、皇后宮亮経正、薩摩守忠度、能登守教経、三河守知度。侍大将には、上総の太郎判官忠綱、飛騨の大夫判官景高、河内の判官季国、高橋の判官長綱、越中の前司盛俊、同じく三郎兵衛盛嗣、武蔵の三郎左衛門有国、俣野の五郎景久、伊東の九郎祐澄、長井の斎藤別当実盛、悪七兵衛景清を先として、都合その勢十万余騎、寿永二年四月十七日の午の刻に都をたつて、北国へぞおもむきける。
平家は片道を賜はつてければ、逢坂の関よりはじめて、道にもちあふ権門勢家の正税、官物ともいはず、いちいちに奪ひ取る。まして志賀、唐崎、真野、高津、塩津、海津の辺を、いちいちに追捕して通りければ、人民多く逃散す。先陣はすすめども、後陣はいまだ近江の国、海津の辺にひかへたり。

【経正竹生島参詣の事】
なかにも皇后宮亮経正は、詩歌管絃に長じ給へる人なれば、かかる乱れのなかにも心をすまし、湖の水際にうち出でて、漫々たる沖に小島の見えけるを、藤兵衛尉有範を召して、「あれはいかなる島ぞ」と、問ひ給へば、「あれこそ聞こえ候ふ竹生島」と申す。
経正「げに、さることあり。いざや、さらば参らむ」とて、安左衛門守教、藤兵衛尉有範なんど申す侍ども四五人召し具して、小船に乗り、竹生島へぞ参られける。
ころは卯月中の八日のことなれば、緑に見ゆる木末には、春のなさけを残すかとおぼえたり。谷々の舌声老いて、初音ゆかしきほ
ととぎす、折知り顔に告げわたる。松に藤波咲き乱れ、まことにおもしろかりしことどもなり。経正、船よりあがり、この島のありさまを見給ふに、心もことばもおよばれず。
ある経のうちに、「南閻浮提に湖あり。海中に島あり。金輪際より生ひ出でたる水精輪の山あり。つねに天女住む所」と言へり。すなはちこの島のことなり。かの秦皇、漢武、童男、丱女、あるいは方士をもつて不死の薬をたづね給ひしに、「蓬莱見ずは、いざや帰らじ」と言うて、いたづらに船中にて老い、天水茫々として見ゆることを得ざりけん、蓬莱洞のありさまも、これには過ぎじとぞ見えし。
経正、明神の御前に、ついひざまづいて、「それ大弁功徳天は、往古の如来、法身の大士なり。弁才、妙音名は各別なりといへども、本地一体にして衆生を済度し給ふ。参詣の輩は所願成就円満すとうけたまはる。頼もしうこそ候へ」とて、法施参らせて、片時のほどと思はれけれども、日もはや暮れにけり。居待の月のさし出でて、湖の上も照りわたり、社壇もいよいよかがやいて、まことに貴かりけり。小夜もふけゆけば、常住の僧ども、琵琶をたづねてさし置いたり。経正これを弾じ給ふに、かの上原石上の秘曲には宮もすみわたり、明神、感応にたへずして、経正の袖の上に白龍と現じて見え給ふ。経正これを見てうれしさのあまりに、しばらく撥をさしおき目をふさぎ、
 ちはやぶる神に祈りのかなへばや
 しろくも色にあらはれにけり
されば「怨敵をまなこのまへに退け、凶徒をただいま落さんこと、疑ひなし」と、よろこんで、また船に乗り、竹生島を出でられたり。

[モクジ]

第六十二句 火打合戦 ★★★

【平泉寺の長吏心がはり】
!木曾!義仲は、わが身は信濃にありながら、越前の国
火打が城をぞかまへける。大将軍には平泉寺の長吏斎明威儀師稲津の新介、斎藤太、林の六郎光明、富樫の入道仏誓、入善、宮崎、石黒を先として、七千余騎ぞ籠りける。
さるほどに、平家の先陣は越前の国木辺山をうち越えて、火打が城へぞ寄せられける。この城のありさまを見るに、磐石そばたちて四方の峰をつらねたり。山をうしろに、山をまへに当つ。城のまへには、能見川、新道川とて二つの川流れたり。二つの川の落ちあひに大木を立てて、しがらみをかき、せきあげたれば、水、東西の山の根にさし満ちて、ひとへに大海に臨むがごとし。影南山をひたして、青うして滉瀁たり。波西日を沈めて、紅にしてコン淪たり。昆明池のありさまも、これにはいかでかまさるべき。
平家は、むかへの山に宿し、むなしく日数をおくる。城のうちの大将軍、平泉寺の長吏斎明威儀師、心がはりして、消息を書きて、蟇目の中に籠めて、しのびやかに山の根をつたへて、平家の陣へぞ射られたる。
「この蟇目の鳴らぬこそあやしけれ」とて、取つてこれを見るに、中に文あり。
ひらきて見れば、
かの川は往古の淵にあらず。一旦しがらみをかきあげたる水なり。いそぎ雑人どもつかはして、しがらみを切り破らせ給へ。山川なれば、水はほどなく落ちんずらん。馬の足立よく候へば、いそぎ渡させ給へ。うしろ矢は射てまゐらせん。
平泉寺の長吏斎明威儀師が申状

とぞ書いたりける。
大将軍、副将軍、大きによろこんで、やがて雑人どもをつかはし、しがらみを切り破らせらる。案のごとく、山川なれば、水はほどなく落ちにけり。そのとき、平家の大勢ざつと渡す。斎明威儀師は、やがて平家と一つになつて忠をいたす。

【火打が城落去】
稲津の新介、斎藤太、入善、宮崎、これらは、みなしばし戦ひ、城を落ちて、加賀の国へぞ引きしりぞく。
平家やがて加賀の国へうち越えて、林、富樫が二箇所の城郭を追ひ落す。さらに面を向くべしとも見えざりけり。都にはこれを聞き、よろこぶことかぎりなし。

【平家砥波志保坂の陣】
同じく五月八日、平家は加賀の国
篠原にて勢揃ひして、それより軍兵を二手に分けて、大将軍には小松の三位の中将維盛。副将軍には越前の三位通盛。先陣は越中の前司盛俊。都合その勢七万余騎。加賀と越中のさかひなる砥波山へぞ向かはれける。
搦手の大将軍には左馬頭行盛薩摩守忠度、三万余騎にて、能登と越中とのさかひなる
志保坂へこそ駆けられける。

【木曾埴生の陣】
さるほどに!木曾の冠者義仲、越後の国府より五万余騎にて馳せ向かふ。先に十郎蔵人行家を大将軍にて、一万余騎を引き分けて、
志保坂の手へさし向けらる。残るところの四万余騎を手々に分かつ。総じて七手に分かたれたり。!木曾、わが身は一万余騎にて、小屋部の渡りをして、砥波山の北の埴生に陣をぞ取つたりける。

!木曾のたまひけるは、「平家は大勢にて下るなり、山うち越えて、黒坂の裾の
松坂の柳原ぐみの木林の広みへ出づるものならば、走り合ひの合戦にこそあらんずれ、馳せ合ひの合戦は、いかにも勢の多く少なきによることなり、大勢かさにかけられてはかなふまじ。搦手をまはせや」とて、楯の六郎親忠、七千余騎にて北黒坂へまはる。仁科、高梨、山田の次郎、七千余騎にて、南黒坂へ向かふ。わが身は大手より一万余騎。また一万余騎をば、松坂の柳原に引き隠し、今井の四郎兼平六千余騎にて鷲の島をうち渡り、日宮林に陣をとる。
!木曾のたまひけるは、「この勢黒坂に向かはんことは、はるかのことぞ。さあらんほどに、平家の大勢、山よりこなたへ越えなんず。勢は向かはずとも、旗を先に立つるものならば、『源氏の先陣向かうたり』とて、山よりあなたへひかんずらん。旗を先に立てよ」とて、勢は向かはねども、黒坂の上に、白旗三十流ばかりうち立てたり。
案のごとく、平家これを見て、「あはや、源氏の先陣すでに向かひてんげり。ここは山も高し、谷も深し、四方巌石なり。搦手たやすくはよもまはらじ。馬の草かひ、水かひ、ともによげなり。馬休めん」とて、大勢みな、山の中へぞおりゐたる。

[モクジ]

第六十三句 木曾の願書 ★★★

!木曾は八幡の社領、埴生の荘に陣とつて、四方をきつと見まはせば、夏山の峰の緑の木の間より、朱の玉垣ほの見えて、かたそぎづくりの社壇あり。!木曾これを見給ひて、案内者を召して、「これはなにの社ぞ、いかなる神を崇めたてまつりたるぞ」とたづねられければ、「これは、八幡を遷しまゐらせて、当国には『新八幡』とこそ申し候へ」。!木曾おほきによろこんで、手書に具せられたる、木曾の大夫覚明を呼びて、「!義仲こそ、さいはひに八幡の御宝前に近づきたてまつりて合戦をとげんずるなれば、それについて、『かつうは後代のため、かつうは当時の祈祷のため、願書を一筆、書いて参らせばや』と思ふはいかに」。「もつともしかるべく候」とて、馬より飛び下り、書かんとす。覚明、褐の直垂に、黒糸縅の鎧着て、斑母衣の矢負ひ、塗籠籐の弓を持ちて、黒き馬にぞ乗りたりける。
箙より小硯、畳紙を取り出だし、!木曾殿の御前にひざまづいてぞ書いたりける。数千の兵これを見て、「文武の達者かな」とぞほめたりける。

【覚明素生】
この覚明と申すは、勧学院に蔵人道弘とて侍ひけるが、出家して最乗坊信救とぞ名のりける。しばしは南都にありしが、高倉の宮、三井寺にわたらせたまひしとき、南都へ牒状を送られたり。その返牒をこの信救ぞ書いたりける。「清盛は平氏の糟糠、武家の塵芥」と書いたりしこと、太政入道おほきに怒つて、「信救法師が首をはねよ」とのたまふあひだ、南都をひそかにのがれ出で、北国へ落ちくだり、!木曾にぞつきたりける。
かかる才人なれば、なじかは書きも損ずべき。書きあげてぞ読うだりける。

帰命頂礼、八幡大菩薩は日域朝廷の本主、累世明君の曩祖たり。
宝祚を守らんがため、蒼生を利せんがため、三身の金容をあらはして、三所の権扉をおしひらく。ここに向年よりこのかた、平相国といふ者あり。四海を管領し、万民を悩乱せしむ。これすでに仏法の怨、王法の敵なり。!義仲いやしくも弓馬の家に生まれ、わづかに箕裘の芸を継ぐ。彼の暴悪を見るに、思慮を顧みるにあたはず。運を天道にまかせ、身を国家になげうち、試みに義兵を起し、凶器を退けんと欲す。闘戦両家の陣を合はすといへども、士卒いまだ一塵の勇を得ざるのあひだ、まちまち心おそれをなすところに、いま一陣において旗を戦場に挙げて、たちまち三所和光の社壇を拝し、機感純熟、すでにあきらかなり。凶徒誅戮うたがひなし。歓喜の涙をおとし、渇仰胆に染
む。なかんづく曾祖父、前の陸奥守源の義家の朝臣、身を宗廟の氏族に帰付し、名を「八幡太郎」と号してよりこのかた、その門葉として帰敬せざるといふ事なし。!義仲、その後胤として、首を傾くること年久し。いまこの大功を起して、たとへば、嬰児の蠡をもつて巨海を測り、螳螂が斧をとつて、隆車に向かふがごとし。しかれども国のため、君のためにこれを起し、家のため、身のためにこれを起さず。心ざしの至り、神鑒暗からんや。たのもしいかな、よろこばしいかな。伏して願はくは、冥顕威を加へ、霊神力を合はせて、勝つことを一時に決し、怨を四方に退け給へ。しかればすなはち、丹祈冥慮にかなひ、幽玄加護をなすべくは、まづ一つの瑞相を見せしめたまへ。
寿永二年五月十一日 源の!義仲敬白


と読みあげて、十三の上矢をそへて、御宝殿にぞ納めける。

【鳩の沙汰】
たのもしいかな、八幡大菩薩、真実の心ざしの二つなきをや、はるかに照覧し給ひけん、雲のうちより山鳩二つ飛び来たつて、源氏の白旗のうへに翩翻す。平家もこれを見て、みな身の毛もよだちたり。

昔、神功皇后、新羅を攻め給ひしに、霊鳩明天にあらはれ、軍に勝つことを得給へり。しかるに、この人々の先祖八幡太郎義家、奥州の貞任を追罰せしとき、厨川の館にて、王城の方にむかひ、はるかに八幡を拝したてまつりて、「これは私の火にあらず、すなはち神火なり」とて火をはなつ。霊鳩、炎のうちにあらはれ、旗の上に飛びめぐる。
か様の先蹤を思ひつづけて、!木曾殿兜を脱ぎ、霊鳩を拝し給ひけん、心のうちこそたのもしけれ。

【平家と木曾と合戦】
源平陣を合はせて、たがひに盾を突き、向かうたり。そのあはひ三町にはすぎじとぞ見えし。されども源氏もすすまず、平家もすすまず。ややありて、源氏なにとや思ひけん、精兵をすぐり、十五騎を出だして十五の鏑を平家の陣へぞ射入れたる。平家も十五騎出だして十五の鏑を射返す。源氏、また三十騎出だして、三十の鏑を射さすれば、三十の鏑を射返しけり。五十騎を出だせば、五十騎を出だしあはせ、百騎を出だせば百騎を出だし、両方盾の面にすすんだる。
たがひに勝負を決せんとすすめども、源氏の方には、総じて制して勝負をせず。源氏は、かくあひしらひて日を暮らし、「夜に入りて、うしろの谷へ追ひ落し、滅ぼさん」とするをば知らず。平家も、ともにあひしらひて、日を暮らすことこそはかなけれ。
次第に、暗うなりしかば、搦手の勢一万余騎、平家の陣のうしろなる
倶利伽羅の堂の辺にて参りあひ、倶利伽羅の堂のまへにて一万余騎、箙の方立を打ちたたき、天も響き、大地もうごくほどに、鬨をどつとつくる。
!木曾これを聞きて、大手より一万余騎にて鬨をどつと合はす。
松坂の柳原にひき隠したるが、一万余騎にて戦ふ。
今井の四郎兼平、六千余騎にて、
日宮林より一度にをめいて寄せ向かふ。前後四万騎が鬨の声、山も川もただ一度に崩るるかとぞおぼえける。

【平家砥波志保坂落去】
平家は、「ここは山も高し、谷も深し、四方巌石なり。搦手たやすくよもまはらじ」とて、うちとけたるところに、思ひもかけぬ鬨の声におどろきて、あわてさわぎ、「もしやたすかる」と、そばの谷へぞ落しける。
「きたなしや。返せ。返せ」と言ふやからも多かりけれども、大勢のかたぶきたちぬれば、取つて返すことなし。されば、「われ先に」とぞ落しける。親の落せば、子も落す。主の落せば、郎等もつづく。兄が落せば、弟も落す。馬には人、人には馬、落ち重なつて、さしも深き谷一つ、平家の勢七万余騎にてぞ埋みける。巌泉血をながし、死骸丘をなす。
大将軍維盛ばかり、からき命生きて、加賀の国へ引きしりぞく。
上総の太郎判官忠綱、飛騨の大夫判官景高、河内の判官季国みなこの谷にてぞ死にける。その谷の辺には「矢の穴、刀のあと、今に
ある」とぞうけたまはる。
生捕にせられたる者おほかりけり。まづ火打が城にて心がはりしたりける平泉寺の長吏斎明威儀師、平家の侍に聞こふる兵、備中の国の住人瀬尾の太郎兼康、生捕にせられにけり。「斎明威儀師、生捕にせられたり」と聞こえしかば、!木曾殿、これを召し寄せ、まへに引き据ゑ、やがて首を刎ねられけり。
夜明けてのち、しかるべき者ども、三十余人首を切りかけて、木曾殿のたまひけるは、「そもそも、十郎蔵人が志保の手こそおぼつかなけれ。いざ行きて見ん」とて四万騎が中より、馬、人、強きをすぐつて二万騎、
志保の手に馳せ向かふ。
越中の国、
氷見の湊といふ所を渡さんとするをりふし、潮さし満ちて、深さ、浅さを知らず。鞍置馬を追ひ入れて泳がす。鞍爪ひたるほどにて、むかひの岸のはたへ渡り着く。「こはいかに。浅かりけるを」とて、大勢うち入れて渡す。
志保坂へ押し寄せ見給へば、案のごとく、十郎蔵人は散々に射しらまされて引きしりぞき、駒の足を休めてゐたるところに、!木曾、「さればこそ」とて、二万騎入りかはつて、鬨をつくり、をめいて駆く。
平家、しばらくこそ支へけれ、志保の手も追ひ落されて、加賀の国
篠原へこそ引きしりぞきけれ。

[モクジ]

第六十四句 実盛 ★★

【平家篠原落ち】
同じく二十三日、卯の刻に源氏
篠原へ押し寄せて、午の刻まで戦ひけり。
暫時の合戦に、源氏の兵一千余騎討たれぬ。平家の方には高橋の判官長綱をはじめとして、二千余騎ぞ滅びける。平家篠原を攻め落されて落ち行きけり。

【武蔵三郎左衛門有国討死】
その中に武蔵の三郎左衛門有国、長井の斎藤別当実盛は、大勢に離れて、二騎つれて引き返し戦ひけり。三郎左衛門有国は敵に馬の腹を射させて、しきりに跳ねければ、弓杖をついて下り立つたり。敵のなかに取りこめられて散々に射る。矢種みな射尽くし、打物抜いで戦ひけるが、矢七つ八つ射立てられて、立死にこそ死にけれ。
三郎左衛門討たれてのち、長井の斎藤別当実盛、存ずるむねありければ、ただ一騎残つてぞ戦ひける。
信濃の国の住人手塚の太郎馳せ寄つて、「味方はみな落ち行くに、ただ一騎残つていくさするこそ心にくけれ。誰そや、おぼつかなし。名のれ、聞かん」と言ひければ、「かう言ふわ殿は誰そ。まづ名のれ」と言はれて、「かく言ふは、信濃の国の住人手塚の太郎光盛ぞかし」と名のる。
斎藤別当、「さる人ありとは聞きおきたり。ただし、わ殿を敵に嫌ふにはあらず、存ずるむねあれば、今は名のるまじ。寄れ。組まん。手塚」とて押しならべて組まんとするところに、手塚が郎等、中にへだたつて、むずと組む。実盛は手塚が郎等を取つて、鞍の前輪に押しつけて、刀を抜き、首をかかんとす。手塚は、郎等が鞍の前輪に押しつけらるるを見て、弓手よりむずと寄せあはせて、実盛が草摺たたみあげて、二刀刺すところを、えい声をあげて組んで落つ。実盛、心は猛けれども、老武者なり、手は負うつ、二人の敵をあひしらふとせしほどに、手塚が下になつて、つひに首を取らる。

【首実検】
手塚は、遅ればせに馳せ来たる郎等に、斎藤別当が物具はがせ、首持たせ、!木曾殿のまへに馳せ参り、申しけるは、「光盛こそ今日
奇異のくせ者と組んで討ち取つて候へ。なにと『名のれ』とせめ候ひつれども、つひに名のり候はず。『侍か』と見れば、錦の直垂を着て候。また、『大将か』と思へば、つづく勢も候はず。声は坂東声にて候ひつる」と申せば、「あはれ、これは斎藤別当実盛にてやあらん。ただし、それならば、!義仲ひととせ幼な目に見しかば、すでに白髪糠生なりしぞ。いまはさだめて白髪にこそあらんずるに、鬢、鬚の黒きは、あらぬ者やらん。年来の得意なれば見知りたるらんものを。樋口召せ」とて、召されたり。
樋口の次郎参り、実盛が首をひと目見て、やがて涙にぞむせびける。
「いかに、いかに」とたづねられければ、「あな無慚や。実盛にて候ひけり」と申す。「鬢、鬚の黒きはいかに」とのたまへば、樋口の次郎涙を押しのごひて申しけるは、「さ候へばこそ、その様を申さんとすれば、不覚の涙が先立つて、申し得ず候。弓矢取る身は、あからさまの座席とは思ふとも、思ひ出でになることを申しおくべきにて候ひけるぞや。つねは兼光に会うて物語り申せしは、『実盛、六十にあまつて軍の場に向かはんには、鬢、鬚を墨に染めて若やがんと思ふなり。そのゆゑは、若殿ばらにあらそひて先を駆けんも大人げなし。また、老武者とてあなどられんも口惜しかるべし』なんど、つねは申し候ひしが、今度を最後と存じて、まことに染めて候ひける無慚さよ。洗はせて御覧候へ」と申しもあへず、また涙にぞむせびける。
「さもあらん」とて洗はせて見給へば、白髪にこそ洗ひなせ。

【実盛錦の直垂の事】
実盛、錦の直垂を今度着たりけることは、都を出でしとき、大臣殿に参り、申しけるは、「一年、東国のいくさにまかり下り候ひて、駿河の蒲原より矢一つも射ずして逃げのぼりて候ひしこと、老後の恥辱ただこのことに候ふなり。今度、北国へ向かふならば、年こそ寄りて候ふとも、真先駆けて討死つかまつらんずるにて候。それにとつては、実盛、もとは越前の者にて候ふが、近年所領につきて武蔵の長井に居住せしめ候ひき。事のたとへの候ひしぞかし。『故郷へは錦を着て帰る』と申すことの候。しかるべくは、実盛に錦の直垂を御ゆるされ候へかし」と申しければ、大臣殿、「まことにさるべし」とて、錦の直垂を許されけるとぞ聞こえし。
昔の朱買臣は錦の袂を会稽山にひるがへし、今の実盛はその名を北国のちまたにあぐ。

[モクジ]

第六十六句 義仲山門牒状 ★★

【木曾越後の国府にて合戦の評議】
!木曾
越前の国府に着いて合戦の評定あり。
井上の九郎、高梨の冠者、山田の次郎、仁科の次郎、長瀬の判官代、吾妻の判官代、樋口の次郎、今井の四郎、楯の六郎、根の井の小弥太以下、しかるべき者ども百人ばかり前に並みゐたりけるに向かつて、!木曾のたまひけるは、「そもそも、われら都にのぼらんずるに、近江の国を経てこそのぼらんずるに、例の山法師のにくさは、また防ぐこともやあらんずらん。蹴破つて通らんことはやすけれども、平家こそ、当時は仏法をほろぼし、僧をも失へ。それを、守護のために上洛せんずる者が大衆にむかつて合戦をせんずること、すこしもちがはざる二の舞なるべし。これこそ安大事のことなれ。いかにせん」とぞのたまひける。
!木曾の大夫覚明すすみ出でて申しけるは、「さん候。衆徒は三千人にて候。必定、一味同心なることは候はじ。みな思ひ思ひにてこそ候はんずれ。まづ牒状を送りて御覧候へ。事の様は返牒に見え候はんずらん」。
「さらば書け」とて、覚明に牒状を書かせて、山門へこそ送られけれ。

【覚明願書の事】
!
義仲つらつら平家の悪行を見るに、保元・平治よりこのかた、長く人臣の礼を失ふ。しかりといへども、貴賤手をつかね、緇素足をいただく。ほしいままに帝位を進退し、あくまで国郡を虜掠す。道理、非理を論ぜず、権門勢家を追捕し、有罪、無罪をいはず、卿相侍臣を損亡す。その資財を奪ひ取り、ことごとく郎従に与へ、彼の荘園を没取し、みだれがはしく子孫に省く。
なかんづく、去んぬる治承三年十一月、法皇を城南の離宮にうつしたてまつり、博陸を絶域に流したてまつる。しかのみならず、同じき四年五月に、二の宮の朱閣を囲みたてまつり、九重の紅塵を驚かしむ。ここに帝子非分の害をのがれんがために、園城寺に入御の時、!義仲、先日に令旨を賜はるによつて、鞭をあげんと欲するところに、怨敵巷に満ち、予参道を失ふ。近境の源氏なほ参候せず、いはんや遠境においてをや。しかるに、園城寺は分限なきによつて、南城におもむかしめ給ふのあひだ、宇治橋において合戦す。大将三位入道の父子、命を軽んじ、義を重んじ、一戦の功をはげますといへども、多勢の攻をまぬがれず、かばねを龍門原上にうづみ、名を鳳凰城にほどこす。令旨の趣重きに銘じ、同類の悲しみ魂を消す。
これによつて、東国、北国の源氏等おのおの参洛をくはだて、平家を滅ぼさんと欲す。
その宿意を達せんがために、去年の秋、旗をあげ、剣をとつて、信濃を出でし時、越後の国の住人城の四郎長茂、数万の軍兵を召し具し発向せしむるのあひだ、当国横田川において合戦す。!義仲わづかに三千余騎をもつて、彼の二万の兵を破りをはんぬ。風聞広きに及んで、平氏の大将十万の軍衆を北陸に発向す。越州、加州の砥波、黒坂、志保坂、篠原以下の城郭において数箇度の合戦、はかりごとを帷幕のうちにめぐらし、勝つことを咫尺のもとに得たり。しかれば、討てば必ず伏し、攻むれば必ず降す。たとへば秋の風の芭蕉を破るに異ならず、冬の霜の薫蕕を枯らすにあひ同じ。これひとへに、神明、仏陀のたすけなり。さらに!義仲が武略にあらず。平氏敗北のうへは参洛をくはだたんとなり。今は叡岳の麓を過ぎ、洛陽のちまたに入るべし。
この時にあたつて、ひそかに疑殆あり。天台の衆徒は平家に同心せんか。源氏に与力せんか。
もし彼の悪徒を助けば、衆徒に向かつて合戦すべし。もし合戦をいたさば、叡岳の滅亡くびすをめぐらすべからず。悲しきかなや、平氏宸襟を悩まし、仏法を滅ぼすのあひだ、彼の悪行をしづめんがために義兵を起すのところに、忽ちに三千の衆徒に向かつて不慮の合戦いたさんこと。いたましきかなや、医王、山王に憚りたてまつつて、行程に逗留せしめば、朝廷緩怠の臣となつて、武略の瑕瑾のそしりを残さん。みだれがはしく進退に迷ひて案内を啓するところなり。乞ひ願はくは三千の衆徒おのおの思慮をめぐらし、神のため、仏のため、国のため、君のため、源氏に同心し、凶徒を誅し、洪化に浴せば、懇丹の至りに堪へず。!義仲恐惶敬白。
寿永二年六月 日
進上恵光律師御房



【山門衆徒の僉議】
とぞ書いたりける。
山門には、これを披見し僉議まちまちなり。
あるいは「平家に同心」と言ふ衆徒もあり、あるいは「源氏につかん」と言ふ衆徒もあり。思ひ思ひの異議さまざまなり。
老僧どもの申しけるは、「われらもつぱら金輪聖王、天長地久を祈りたてまつる。当代の、平家は御外戚にてまします。されば、いまに至るまで、かの繁昌を祈誓す。されども、悪行、法に過ぎ、万人これをそむけり。討手を国々へつかはすといへども、かへつて異賊のために滅ぼさる。源氏は、近年より度々合戦にうち勝つて、運命のひらけなんとす。なんぞ、宿運尽きぬる平家に同心して、運命をひらく源氏をそむかんや。平家値遇の儀をひるがへして、源氏合力の心に服すべき」のよし、一味同心に僉議して、やがて返牒を送る。

【返牒の事】
そのことばに曰く、
六月十一日の牒状、同じき十六日到来。披閲のところに数日の鬱念一時に解散す。およそ平家の悪行累年に及んで、朝廷の騒動止む時なし。事人口にあり、委悉するにあたはず。それ叡岳に至つて、帝都東北の仁祠として国家静謐の祈誓をいたす。しかるを一天ひさしく彼の夭?にをかされて、四海とこしなへにその安全を得ず。顕密の法輪なきがごとし。擁護の神威しばしばすたる。貴家たまたま累代武備の家に生まれて、幸ひに当時精選の仁たり。あらかじめ規模をめぐらし、たちまちに義兵を起す。万死の命を忘れて一戦の功を樹つ。その労いまだ両年を過ぎざるに、その名すでに七道にほどこす。わが山の衆徒かつがつ以て承悦す。国家のため、累家のため、武功を感じ、武略を感ず。
かくのごとくなるときんば、山上精祈の空しからざることをよろこび、海内衛護のおこたりなきことを知らん。自寺、他寺、常住の仏法、本社、末社、祭奠の神明、さだめて教法の再び栄えんことをよろこび、崇敬の旧に復せんことを随喜し給はん。
衆徒等心中、ただ賢察をたれ給へ。しかればすなはち冥に、十二神将、かたじけなくも、医王善逝の使者として、凶賊追罰の勇士にあひ加はり、顕には、三千の衆徒、しばらく修学鑽仰の勤節を止めて、悪侶治罰の官軍をたすけしむ。止観十乗の梵風は奸侶を和朝の外にはらひ、瑜伽三密の法雨は時俗を旧年の昔にかへす。衆議かくのごとし。つらつらこれを察せよ。
寿永二年六月 日 大衆等


とぞ書いたりける。


[モクジ]

第六十七句 平家の一門願書(オマケ)

【平家山門の衆徒計策の事】
平家これを知らずして、「興福寺、園城寺は、いきどほり深きをりふしなり、かたらふとも、よもなびかじ。山門は当家のために不忠を存ぜず。当家もまた山門のために怨をむすばず。山王大師に祈誓して三千の衆徒かたらひとらん」とて、一門の公卿、同心の願書を書いて山門に送る。

【願書したためつかはす事】
願書に曰く、

敬白
延暦寺をもつて、帰依して氏寺と准じ、日吉の社をもつて、尊敬して氏社のごとくにす。一向天台の仏法を仰ぐべき事。
右、当家一族の輩まことに祈誓ありし意趣如何となれば、それ叡山は桓武天皇の御宇、伝教大師入唐帰朝ののち円頓の教法をこの所にひろむ。遮那の大戒をそのうちに伝へしよりこのかた、もつぱら仏法繁昌の霊窟たり。
久しく鎮護国家の道場にそなはれり。まさにいま、伊豆の国の流人前の兵衛佐源の頼朝、身の咎を悔いせず、かへつて朝憲を嘲り、しかるに奸謀に与し、同心いたす源氏等、行家、!義仲、以下党を結んで数あり。隣境、遠境数国を抄領し、土宜、土貢、万物押領す。これによつて、かつうは累代勲功の跡を追ひ、かつうは当時弓馬の芸にまかせ、すみやかに賊徒を追罰し、凶徒を降伏すべきのよし、かたじけなくも勅命をふくみ、しきりに征罰をくはだつ。ここに魚鱗鶴翼の陣の、官軍利を得ず。星旄電戟の勢、逆類勝に乗るに似たり。もし神明仏陀の加被にあらずんば、いかでか反逆の凶乱をしづめん。ここをもつて一向天台の仏法に帰し、不退に日吉の神慮を頼むらくのみ。
いかにいはんや、かたじけなくも、臣等の曩祖を思へば本願の余裔と言つつべし。いよいよ崇重すべし、いよいよ恭敬すべし。
自今以後、山門に悦びあらば、一門の悦びとせん。社家に慎みあらば、一家の慎みとせん。善につき、悪につき、悦びとなし、憂ひとなさん。おのおの子孫に伝へて長く失堕せじ。藤氏は春日の社をもつて氏社とし、興福寺をもつて氏寺と号す。久しく法相大乗の宗に帰す。平氏は日吉の社、延暦寺をもつて、氏寺、氏社とせん。円実頓悟の教に値遇せんや。かれは昔の遺跡なり、家のために栄幸を思ふ。これは今の精祈なり、民のために追罰を請ふ。仰ぎ願はくは、山王大師、東西満山の護法の聖衆、十二大願、日光、月光、医王善逝、十二神将、無二の丹誠を照らし、唯一玄応を垂れ給へ。しかればすなはち邪謀逆心の賊、手を軍門につかね、暴逆残害の輩、首を京都につたへん。
我等が苦請の仏神、あになんぞ捨てんや。当家の公卿等、異口同音に礼をなし、祈誓くだんのごとし。
寿永二年七月 日

従三位行兼越前守平朝臣通盛
従三位行兼右近衛中将平朝臣資盛
正三位行右近衛中将兼伊予守平朝臣維盛
正三位行左近衛中将兼播磨守平朝臣重衡
参議正三位皇太后宮権大夫兼修理大夫加賀越中守平朝臣経盛
従二位行中納言兼左兵衛督征夷大将軍平朝臣知盛
従二位権中納言兼陸奥出羽按察使平朝臣頼盛
従一位内大臣平朝臣宗盛
敬白

とぞ書かれたる。
貫首、これを憐み給ひ、やがても披露せられず。十禅師の御殿に籠めて、三日加持してのち披露せらる。はじめはありとも見えざりつる一首の歌、願書の上巻に出で来たり。
 平かに花さくやども年経れば
 西へかたぶく月とこそなれ
「山王大師、憐みを垂れ給へ。三千の大衆、力をあはせよ」となり。

【平家平生神慮を背く事】
されども、年ごろ、日ごろのふるまひ、神慮をそむき、人ののぞみにも違ひければ、祈れどもかなはず、かたらへどもなびかず。

【衆徒平家を許容せざる事】
大衆これを見て、「まことにさこそ」とは憐みけれども、すでに源氏に同心の返牒を送るうへは、「その儀あらたむるに及ばず」と許容する大衆もなかりけり。


[モクジ]

第六十八句 法皇鞍馬落ち ▲

同じき二十日、肥後守貞能、鎮西の謀叛たひらげ、菊池、原田、松浦党を先として、三千余騎をあひ具し、都へ参りけり。西国ばかりは、わづかにたひらげたれども、東国、北国の源氏いかにもしづまらず。
同じき二十二日、夜半ばかりに、六波羅の辺、大地をうちかへしたるごとくに騒ぎあへり。馬に鞍おき、腹帯しめ、物の具東西に運び隠しあふ。明けてのち聞こえしは、美濃の源氏に佐渡の右衛門尉重貞といふ者あり。これは一年保元の合戦に、八郎為朝がいくさに負けて落ちゆきけるを搦めまゐらせたりし勲功に、衛門尉になりたり。八郎搦め取るとて、源氏どもに憎まれて、去年平家をへつらひけるが、夜半ばかりに馳せ参つて、
「!木曾すでに近江の国に乱れ入る。その勢五万余騎、東坂本にみちみちて、人をも通さず。郎等に楯の六郎親忠、!木曾の大夫覚明、六千余騎天台山に攻めのぼり、総持院を城郭とす。大衆みな同心して、ただいま都に攻め入る」と申したりけるゆゑとかや。

【平家宇治瀬田の手退散の事】
平家これを防がんがために、
瀬田へは新中納言知盛、三位の中将重衡、三千余騎にて向かはれけり。宇治へは越前の三位通盛、能登守教経、三千余騎くだられけり。
さるほどに、「十郎蔵人行家、一万余騎にて宇治より入る」といふ。
「足利矢田の判官代、五千余騎にて、丹波の国大江山を経て京へ入る」といふ。
「摂津の国、河内の源氏は、同じく力をあはせて淀川尻より攻め入るべし」とぞののじりける。
平家これを聞きて、「こはいかにすべき。ただ一所にていかにもならん」とて、宇治・瀬田の手をもみな呼びぞ返されける。
「帝都名利の地、鶏鳴いて、安き心なし。をさまれる世だにもかくのごとし。いはんや乱るる世においてをや。吉野山の奥へも入らなばや」とは思へども、諸国七道ことごとく乱れぬ。いづれの浦かおだやかなるべき。「三界無安猶如火宅」と、如来の金言、一乗の妙文なれば、なじかは少しもちがふべき。

同じき二十四日、小夜ふくるほどに、前の内大臣宗盛建礼門院
六波羅の池殿にわたらせ給ひけるに参りて、申されけるは、「この世の中のありさまを見たてまつるに、『世はすでにかう』とこそおぼえて候へ。されば、『院をも、内をも、取りまゐらせて、西国の方へ行幸をも、御幸をもなしまゐらせて見ばや』とこそ思ひなして候へ」と申させ給へば、女院、「ともかくもただ大臣殿のはかりごとにこそ」とぞ仰せける。大臣殿も直衣の袖しぼるばかりにて、泣く泣く申されければ、女院も御衣の袂にあまる御涙、ところ狭いでぞ見えさせ給ひける。

法皇は、「平家の取りまゐらせて、西国の方へ落ち行くべし」といふことを内々聞こしめしてやありけん。右馬頭資時ばかり御供にて、ひそかに御所を出でさせ給ひて、
鞍馬のかたへ御幸なる。人これを知らざりけり。
平家の侍に橘内左衛門季康といふ男あり。さかさかしき者にて、院にも召し使はれけるが、その夜しも法住寺殿へ御宿直して侍ふが、つねに、御所の方、よにさわがしく、ささめきあひて、女房たちしのび声に泣きなんどし給へば、「こはなにごとやらん」と思ひて聞くほどに、「法皇のわたらせたまはぬは、いづかたへ御幸なりたるやらん」と申しあはるる声に聞きなして、「あな、あさましや」思ひ、いそぎ六波羅へ馳せ参りて、このよしを申せば、大臣殿「いで、ひが事にてぞあるらん」とのたまひながら、やがて法住寺殿へ馳せ参り、見給へば、げにもわたらせ給はず。二位殿丹波殿以下御所に侍はせ給ふ女房たち、みなはたらき給はず。「いかにや、いかにや」と申されけれども、「われこそ御ゆくへ知りまゐらせたり」といふ女房一人もおはせず。

明くれば七月二十五日なり。「御所にもわたらせ給はず」と申すほどこそありけれ、京中の騒動なのめならず。いはんや平家の人々のあわて騒がれけるありさま「家々に敵討ち入りたらんも、かぎりあれば、これには過ぎじ」とぞ見えし。日ごろは、「院をも、内をも取りまゐらせ、御幸をも、行幸をもなしたてまつらん」と計らはれたりけれども、か様に法皇の捨てさせましまししかば、たのむ木のもとに雨のたまらぬ心地をぞせられける。
「さては行幸ばかりなりともなしたてまつれ」と、二十五日の卯の刻ばかりに、御輿寄せまゐらせたりければ、主上、六歳にならせ給ふ、なに心もわたらせ給はず、やがて御輿に召されけり。国母建礼門院も同じ御輿にぞ召されける。内侍所、神璽、宝剣、わたしたてまつり、そのほか「印鑰、時の札、玄上、鈴鹿までも、取り具したてまつれ」と平大納言下知せられけれども、あまりにあわてて取り落す物ども多かりけり。

【春日大明神童子姿と現じ給ふ事】
摂政殿も供奉せさせ給ひたりけるが、東寺の門のほとりにびんづら結うたる童子の御車のまへを馳せ過ぎて御歌あり。
 いかにせん藤のうら葉の枯れゆくを
 ただ春の日にまかせてやみん
御車のうちを見入れたるを、御覧ずれば、左の肩に「春日」といふ文字ぞ見えさせ給ひける。「これは法相擁護の春日の権現、淡海公の御末を守らせ給ふか」と、めでたかりし事どもなり。摂政殿、「大明神の御告げなり」とおぼしめされければ、御供に侍ふ進藤右衛門信高を召して、なにとか仰せられたりけん、御牛飼にきつと目を見合はせられければ、御車を遣り返したてまつる。大宮をのぼりに、北山の辺、知足院へ入らせ給ふ。これも人知りまゐらせず。
平大納言時忠、内蔵頭信基、これ二人ばかりぞ衣冠にて供奉せられたる。そのほか近衛司も甲冑をよろひ、弓矢を帯して供奉す。
七条を西へ、朱雀を南へ行幸なる。漢天すでにひらけて、雲東西にそびえ、あかつき月さびしくして、鶏鳴またいそがはし。「一年、都遷りとて、にはかにあわただしかりしは、かかるべかりける先表」とも、今こそ思ひあはれけれ。

【薩摩守・俊成の卿対面の事】
薩摩守忠度は、いづくよりか引き返されたりけん、侍五騎具して、五条の三位俊成の卿の宿所にうち寄りて見給へば、門戸を閉ぢて開かず。
うちを聞けば、「落人帰り上りたり」とて、おびたたしく騒動す。門をたたけども、あけぬあひだ、「これは薩摩守忠度と申す者にて候ふが、いま一度見参に入り、申すべきこと候うて、道より帰り上りて候ふなり。たとひ門をあけずとも、この際まで立ち寄らせ給へ」とのたまへば、三位これを聞き、「その人ならば苦しかるまじ。入れ申せ」とて、門を開き、対面ある。
忠度は紺地の錦の直垂に、萌黄縅の鎧を着給へり。薩摩守のたまひけるは、「年来、申し承つてのち、いささかもおろかに思ひたてまつることは候はねども、この三四年は、京都のさわぎ、国々の乱れ、しかしながら当家の身の上にて候へば、この事どもにつきて、疎略を存ぜずといへども、つねに参り寄ることも候はず。されども、撰集のあるべきよし、承り候ひしかば、『生涯の面目に、一首の御恩をかうむり候はばや』と存じ候ふところに、やがて世の乱れ出で来て、その沙汰もなく候ひしことども、一身のなげきと存じ候。君すでに都を出でさせ給ひぬ。屍を山野にさらさんほかは、期するかたなく候。世しづまりなば、さだめて勅撰の沙汰候はんずらん。そのうちに一首御恩をかうむり、草のかげまでも、『うれし』と存じ候はばや。また遠き御守りともなりまゐらせべし」とて鎧の引合より巻物一つ取り出だし、俊成の卿に奉る。
三位この巻物ちとひらいて見給ひて、「かかるわすれがたみを賜はりおくなれば、ゆめゆめ疎略を存ずまじく候。勅撰のことは、人は知らず、愚身が承らんにおいては、御疑ひあるべからず」とのたまへば、忠度、「今生の見参こそ、ただ今をかぎりと申すとも、来世にてはかならず一つ仏土に参りあはん」とてぞ出でられける。
薩摩守、兜の緒をしめ、馬の腹帯をかため、うち乗つて、西をさして歩ませ行く。
三位はるばると見送りて立たれたるところに、薩摩守の声とおぼしくて、「前途ほど遠し、思ひを雁山の夕の雲に馳す」と、たからかにうち詠じ給へば、三位これを聞いて、涙をおさへて入り給ふ。

【千載集の沙汰】
げにも、世しづまつて、勅撰あり。「千載集」これなり。その中に忠度の歌一首入れられたり。「心ざしの切なりしかば、あまたも入ればや」と思はれけれども、勅勘の人なれば、名字はあらはさず、「読人知らず」とぞ入れられける。「故郷の花」といふ題にて詠まれたる歌なり。
 さざ波や志賀の都はあれにしを
 昔ながらの山ざくらかな
その身すでに朝敵となりしうへは、子細に及ばずとはいひながら、口惜しかりしことどもなり。

[モクジ]

第七十一句 四の宮即位 ★

【鞍馬より山門へ御幸の事】
寿永二年七月二十四日の夜半ばかりに、法皇は按察の大納言資賢の卿の子息右馬頭資時ばかり御供にて、ひそかに御所を出でさせ給ひ、
鞍馬寺へ入らせ給ひけるが、「ここもなほ都近くてあしかりなん」とて、笹の峰、解脱が谷、寂場房、御所になる。大衆起つて、「東塔へこそ御幸なるべけん」とていきどほり申すあひだ、「さらば」とて、東塔の南谷、円融房、御所になる。かかるあひだ、武士も衆徒も円融房御所ちかく侍ひて、君を守護したてまつる。
院は天台山に、主上は平家にとられて西海へ、摂政は知足院に、女院の宮は
八幡、賀茂、嵯峨、太秦、西山、かたほとりについて逃げ隠れさせ給へり。
平家は落ちぬれども、源氏はいまだ入りかはらず。すでにこの京は主なき里とぞなりにける。開闢よりこのかた、かかることあるべしともおぼえず。聖徳太子の未来記にも、今日のことこそゆかしけれ。
法皇は天台山にわたらせ給ふと聞こえしかば、馳せ参り給ふ人々、「入道殿」とは前の関白松殿。「当殿」とは近衛殿。太政大臣、大納言、中納言、宰相。三位、四位、五位の殿上人。官加階にのぞみをかけ、所帯、所職を帯する人の、一人も漏るるはなかりけり。あまりに人参りつづいて、堂上、堂下、門外、門内、ひますきもなく満ち満ちたり。山門の繁昌、門跡の面目とぞ見えし。

【同じく還御の事】
同じき二十八日、法皇は都へ還御なる。

!木曾の冠者義仲、五万余騎にて守護したてまつる。
近江源氏山本の冠者義高、白旗ささせて先陣つかまつる。この二十余年見ざりつる白旗の今日はじめて都へ入る。めづらしかりし事どもなり。
十郎蔵人行家、一万余騎にて
宇治橋より京へ入る。陸奥の新判官義康が子矢田の判官代五千余騎にて丹波の国大江山を経て京へ入る。京中には源氏の勢みちみちたり。法皇、法住寺殿へ入らせ給ふ。検非違使別当左衛門督実家勘解由小路の中納言経房、二人、院の殿上の簀子に侍ひて、行家、!義仲を召して、「前の内大臣宗盛以下の平家の一類追罰すべき」むね、仰せ下さる。両人かしこまつて承る。「おのおの宿所なき」よし申せば、十郎蔵人行家は、法住寺殿の南殿と申す萱の御所を賜はりけり。
!木曾は、大膳大夫業忠が宿所、六条西洞院を賜はる。
主上は外戚の平家にとられて、西海の波のうへにただよはせ給ふ御ことを、法皇御嘆きあつて、「主上ともに三種の神器、ことゆゑなく都へ返し入れたてまつれ」と仰せ下されけれども、平家もちひたてまつらねば、大臣殿以下参入して、「そもいづれの宮をか位につけたてまつるべき」と僉議ありけるとかや。

高倉の院の皇子、先帝のほか三ところわたらせ給ひけり。二の宮をば平家の「儲の君にしたてまつらん」とて、具しまゐらせて西国へ下向す。三、四はいまだ都にましましけるを、八月五日、法皇この宮たちを迎ひ寄せまゐらせ給ひて、まづ三の宮、五歳にならせ給ふを、法皇、「これへ、これへ」と仰せられければ、法皇を見まゐらせ給ひて大きにむつがらせ給ふあひだ、「とうとう」とて、膝を出だしまゐらせさせ給ひぬ。そののち四の宮、四歳にならせ給ふを、法皇、「これへ、これへ」と仰せければ、すこしもはばからせ給はず、やがて御膝へ参らせ給ひて、よにもなつかしげにてましましける。
法皇御涙をながさせ給ひて、「げにも、そぞろならん者は、か様の老法師を見ては、などか慣れ気には思ふべき。これぞまことのわが孫にてありける。故院の幼いにすこしも違はぬものかな。かかる忘れ形見のましましけるを、今まで見たてまつらざることよ」とて、御涙にむせびおはします。浄土寺の二位殿、そのころ「丹後殿」とて御所に侍はれけるが、「さて、御譲りはこの宮にてわたらせ給はんや」と申されければ、法皇、「子細にや」とぞ仰せける。内々御占のありけるにも、「四の宮位につかせ給ひなば、天下おだやかなるべし」とぞ申しける。

御母儀は七条修理大夫信隆の卿のむすめなり。中宮の御方に参りて宮仕ひしほどに、主上、夜な夜なこれを召されけり。うちつづき宮あまたいできさせ給ひけり。信隆の卿の御むすめあまたおはしけるなかに、「いかにもして一人后に立てばや」と思ふ心ざしおはしけり。この人、「白き鶏を千そろへて飼へば、かならずその家に后いできぬるといふことあり」とて、白き鶏を千そろへて飼ひ給ひけるゆゑにや、御むすめ、皇子を生みたてまつり給ひけん。信隆の卿、内々はうれしう思はれけれども、中宮にも恐れをなしまらせ、平家にもはばかつて、もてなしたてまつることもましまさざりしを、太政入道の北の方、「くるしかるまじ。この宮たちをば育てまゐらせ、儲の君にもしたてまつれよ」とて、御乳母どもにつけてぞ育てまゐらせける。
なかにも四の宮は、二位殿舎弟法勝寺の執行能円ぞ養ひたてまつりける。能円、平家に連れて西国へ落ちしとき、あまりにあわてて、宮をも女房をも捨ておきたてまつり、西国へ落ちられたりけるが、能円途より人をのぼせて「女房、宮を具したてまつり、いそぎ下り給へ」とありければ、この女房、宮を具したてまつり、西京なる所まで出でられたりけるを、この女房の舎弟紀伊守範光これを聞き、いそぎ走り向かひて、「物について狂ひ給ふか。この宮の御運は、いま開かせ給はんずるものを」とて、とり留めまゐらせけり。
次の日、法皇より御迎ひの御車は参りたりけり。何事もしかるべきこととはいひながら、紀伊守範光、四の宮の御ためには、奉公の人とぞ見えたりける。

【義仲行家官途の事】
同じく十日、除目おこなはれて、!木曾の冠者義仲、左馬頭になつて越後の国を賜はる。十郎蔵人は備後の国を賜はる。
おのおの国をきらひ申す。!木曾は越後の国をきらへば、伊予守になる。十郎蔵人は備後をきらへば、備前守になる。
そのほか源氏十人受領す。検非違使、靱負尉、兵衛尉どもになされけり。
同じく十四日、前の内大臣宗盛以下の平家の一類百六十三人が官職を罷めて、殿上の御簡をけづられけり。見る人涙をながさずといふことなし。そのなかに平大納言時忠、内蔵頭信基、讃岐の中将時実、この三人はけづられず。これは「三種の神器ことゆゑなく返し入れたてまつれ」と、かの大納言のもとへ仰せ下さるるによつてなり。

【平家大宰府へ下着】
平家は、同じく十七日、筑前の国三笠の郡大宰府へこそ着き給へ。菊池の次郎隆直は都より付きたてまつり下りけるが、「大津山の関あけてまゐらせん」とて、いとま申す。肥後の国へ馳せ下り、わが城にひき籠り、召せども、召せども参らず。九国、二島の兵ども召されけれども、領状申しながらいまだ参らず。岩戸の少卿大蔵の種直ばかりぞ侍ひける。
平家は安楽寺へ参り、歌をよみ、連歌をして、手向けたてまつり給ひけり。そのなかに、本三位の中将重衡、
 住みなれしふるき都の恋しさは
 神もむかしをわすれ給はじ
と泣く泣く申されければ、みな人袖をぞ濡らされける。

【四の宮即位】
八月十四日、都には四の宮、法皇の宣命にて、閑院殿にて即位し給ふ。「神璽、宝剣、内侍所なくして践祚の例、これはじめ」とぞうけたまはる。摂政は近衛殿。平家の聟にてましましけれども、西国へも御同心に下らせ給はぬによつてなり。「天に二つの日なく、地に二人の王なし」と申せども、平家の悪行によつて、都鄙に二人の帝ましましけり。三の宮の御乳母は、泣きかなしみ、**後悔すれどもかひぞなき。帝王、位につかせ給ふこと凡夫のとかく思ひよらざるに、ただ天照大神、正八幡宮の御はからひとぞおぼえける。



[モクジ]

第七十五句 頼朝院宣申 (オマケ)


【鶴が岡八幡参詣】
鎌倉の兵衛佐頼朝は、「都に上らんこともたやすからじ」とて、ゐながら征夷将軍の宣旨をかうむる。御使には、左史生中原の康定とぞ聞こえし。康定は家の子二人、郎等十人具したりけり。
寿永二年十月四日、康定鎌倉へ下着す。
兵衛佐のたまひけるは、「頼朝は流人の身なりしかども、武勇名誉長ぜるによつて、今はゐながら征夷将軍の宣旨をかうむる。いかでか私にては賜はるべき。鶴が岡の社にて賜はるべし」とて、若宮へこそ参られけれ。
八幡は鶴が岡に立ち給へり。地形石清水にちがはず。廻廊あり、楼門あり。つくり道十余町見くだしたり。
「そもそも院宣をば、誰してか賜はるべき」と評定あり。「三浦の介義澄して賜はるべし」と評定をはんぬ。この義澄と申すは、三浦の平太郎為嗣が五代の孫、三浦の大介義明が子なり。父義明は君の御ために命をすてたる者なれば、これによつて義明が黄泉の冥闇を照らさんがためとぞおぼえたる。
義澄も、家の子二人、郎等十人具したりけり。二人の家の子は、和田の三郎宗実、比企の藤四郎能員なり。郎等十人は大名十人して、にはかに一人づつしたてけり。十二人みなひた兜なり。義澄は褐の直垂に黒糸縅の鎧着て、いかものづくりの太刀はき、大中黒の矢負ひ、塗籠籐の弓わきばさみ、兜をぬぎ高紐にかけ、膝をかがめて院宣を受け取りたてまつる。「誰そ、名のれ」と康定申しければ、兵衛佐の「佐」の字にやおそれけん、「三浦の介」とは名のらで、「三浦の荒次郎義澄」とこそ名のりけれ。
兵衛佐、院宣を受け取りたてまつる。覧箱をひらき、院宣を拝したてまつる。

【神前盃進物の事】
箱に沙金百両入れやがて若宮の拝殿にて、康定に酒すすめらる。斎院の次官親能、勧盃す。そのとき、馬三匹ひかる。一匹は鞍置いたり。これは大宮侍たる工藤一郎祐経、これをひく。
ふるき萱屋をこしらへて康定を入れられ、盃飯ゆたかにして美麗なり。厚綿の絹二領、小袖十かさね、長持に入れて置かれたり。そのほか紺の藍摺、白布千反をまへに積めり。

【頼朝、使康定対面】
次の日、康定、兵衛佐の館へ行きむかひ、見れば、内外に侍あり。ともに十六間なり。外侍には郎等ども肩をならべ、膝を組み、並みゐたり。内侍には一門の源氏どもをはじめとして、大名、小名どもゐながれたり。康定をこの上座に請ぜられ、ややあつて康定、兵衛佐の命にしたがひて、寝殿に向かひてけり。広廂に紫縁の畳を敷きて康定をゐせらる。わが身は高麗縁を敷き、御簾をなかばにあげて康定に対面あり。兵衛佐殿は顔大きに、勢ひきかりけり。容顔優にして、言語分明なり。兵衛佐のたまひけるは、「平家は、頼朝が威勢におそれて都を落つ。そのあとに木曾の冠者、十郎蔵人、わが高名がほに攻め入り、官をなし、加階をし、あまつさへ国をきらひ申し候ふこそ、かへすがへすも奇怪におぼえ候へ。されども当時までは、頼朝が書状には、『十郎蔵人』『木曾の冠者』と書いてこそ返事はして候へ。奥の秀衡が陸奥守になり、佐竹の四郎隆義が常陸守になり候ひて、頼朝が命にしたがはず。これを追罰すべきむね、院宣を下されよ」とのたまへば、康定申しけるは、「これもやがて名簿をたてまつるべう候へども、今度は御使にて候へば、まかりのぼり候。弟にて候ふ史大夫も『かう申せ』とこそ申し候ひしか」と申しければ、兵衛佐おほきに笑ひて、「当時頼朝が身として、いかでかおのおのの名簿を賜ふべき。ただし、げにもさ様に候はば、向後はさこそ存ぜめ」とぞのたまひける。
「やがて今日上洛つかまつるべき」よし申せば、「今日ばかりは逗留あるべし」とてとどめらる。

【引出物の事】
次の日、また兵衛佐の館へむかひて出でられければ、白金物打つたる萌黄縅の腹巻、黄金づくりの太刀、滋籐の弓に、十二差いたる矢をそへてひかる。鞍置き馬十三匹、荷懸駄三十匹ぞひかれける。十二人の家の子、郎等に、馬、鞍、鎧、兜、弓、太刀、小袖、直垂、大口におよぶ。鎌倉出での宿より、近江の国鏡の宿に至るまで、宿々に十石づつの米を置く。「沢山なるによつて、施行をひかれける」とぞ聞こえし。

都へのぼり、院の御所へ参りて奏しければ、人々もゑつぼに入り、君も御感なのめならず。
兵衛佐は、かうこそめでたうゆゆしうおはしましけれ。



[モクジ]

第七十六句 木曾猫間の対面 ▲

!木曾は都の守護にてありけるが、みめよき男にては候ひしかども、たちゐ、ふるまひ、もの言うたる言葉のつづき、かたくななることかぎりなし。

【猫間の中納言殿入御】
あるとき、猫間の中納言光隆の卿といふ人、のたまひあはすべきことありておはしければ、郎等ども、「猫間殿と申す人の、『見参申すべきこと候』とて、入らせ給ひて候」と申せば、!木曾これを聞き、「猫もされば人に見参することあるか、者ども」とのたまへば、「さは候はず。これは『猫間殿』と申す上臈にてましまし候。『猫間殿』
とは、御所の名とおぼえて候」と申せば、そのとき、「さらば」とて入れたてまつりて対面す。

【食をすすむる事】
!木曾、なほ「猫間殿」とはえ言はいで、「猫殿はまれにおはしたるに、ものよそへ」とぞのたまひける。中納言、「ただいまあるべうも候はず」とのたまへば、「いやいや、いかんが、飯時におはしたるに、ただやあるべき」。なにもあたらしきは無塩といふと心得て、「ここに無塩の平茸やある。とくとく」といそがせけり。根の井の小弥太といふ者の出できて陪膳す。田舎合子の荒塗なるが底深きに、てたてしたる飯をたかくよそひなし、御菜三種して、平茸の汁にて参らせたり。!木曾殿のまへにもすゑたりけり。!木曾は箸をとり、これを召す。中納言も食されずしてはあしかりぬべければ、箸をたてて食するやうにし給ひけり。!木曾は同じ体にてゐたりけるが、残り少なくせめなして、「猫殿は少食におはしけるや。召され給へ」とぞすすめける。中納言は、のたまひあはすべき事どもありておはしたりけれども、この事どもに、こまごまとも、のたまはず、やがていそぎ帰られぬ。

【返礼として出仕の事】
中納言帰られてのち、!木曾出仕せんといでたちけり。
!木曾は、「官加階したる者の、なにとなく直垂にて出仕せんもしかるべからず」と、はじめて布衣に
とり装束す。されども車につかみ乗りぬ。鎧着て矢かき負ひ、馬につい乗つたるには似も似ずしてわろかりけり。

【車のうち振舞の事】
牛、車も平家の牛、車。牛飼も大臣殿の召し使はれし弥次郎丸といふ者なり。牛の逸物なるが、門を出づるとき、一むち当てたれば、なじかはよかるべき。つと出でけるに、!木曾、車のうちにてあふのけに倒れぬ。蝶の羽根をひろげたる様に左右の袖をひろげて、「起きん」「起きん」としけれども、なじかは起きらるべき。五六町こそ引かせたれ。
今井の四郎、鞭鐙をあはせて追つついて、「いかでか御車をばかうはつかまつるぞ」と申しければ、「御牛の鼻のこはう候ひて」とぞのべたりける。牛飼「あしかりなん」とや思ひけん、「それに候ふ手形にとりつかせ給へ」と申せば、手形にむずととりつきて、「あつぱれ支度や。牛小舎人がはからひか。また殿様か」とぞ問うたりける。
御所へ参り、車のうしろより降りんとすれば、京の者の雑色に使はれけるが、「車には、召され候ふときこそ、うしろよりは召され候へ、降りさせ給ふときはまへより降り候ふなり」と申しければ、「いやいや、車のうちならんからに、直通りをばすべきか」とて、うしろより降りたりけり。
そのほかをかしき事どもありしかども、人おそれてこれを申さざりけり。

[モクジ]

第七十七句 水島合戦 ★


【足利矢田の判官山陽道下向】
平家は讃岐の
屋島にありながら、山陽道八箇国、南海道六箇国、都合十四箇国を討ち取れり。
!木曾左馬頭これを聞き、「やすからぬことなり」とて、やがて討手をつかはす。大将軍には足利の矢田判官代義清、侍大将には信濃の国の住人海野の弥平四郎幸広を先として、都合その勢七千余騎にて山陽道へ馳せくだる。

【水島陣】
平家は讃岐の屋島にましましければ、源氏は備中の国
水島が磯に陣をとる。たがひに海を隔ててささへたり。
閏十月一日、水島がわたりに、小船一艘出で来たり、「海士の釣舟か」と見るほどに、平家の方より牒の使の舟なりけり。
これを見て、源氏の船五百余艘、少々水島が磯に干し上げたるを、にはかにをめき叫んでおろしけり。
平家は新中納言知盛、能登の前司教経、都合その勢一万余騎、千余艘の船に乗り、押し寄せたり。

【能登殿船軍下知】
能登殿のたまひけるは、「いかに、殿ばら、いくさをばゆるくはしけるぞ。北国のやつばらに生捕にせられんをば心憂しとは思はずや。味方の船をば組めや」とて、千余艘の船のともづなを組みあはせ、なかに、もやひを入れ、あゆみの板をひきなほし、ひきなし、渡いたれば、船のうへは平々たり。
源平両方鬨をつくり、矢合せして、船ども押しあはせて攻め戦ふ。
遠きをば弓にて射、近きをば太刀にて斬り、熊手にかけて引くもあり、ひつ組んで海に入るもあり、刺しちがへて死する者もあり。首掻くもあり、掻かるるもあり。思ひ思ひ、心々に勝負をしけり。

【矢田の判官船乗り沈むる事】
源氏方の侍大将に海野の弥平四郎幸広討たれぬ。これを見て、大将軍足利の矢田判官代義清、「やすからぬことなり」とて、主従七人小船に乗り、平家の船の中へ攻め入り、をめき叫んで戦ひけるが、いかがしたりけん、船踏み沈めて、みな死にけり。
平家は船に、鞍置き馬をたてければ、船さし寄せ、能登の前司を先として、馬どもひきおろし、ひきおろし、ひたひたとうち乗り、うち乗り、をめいて駆く。源氏の兵、大将軍は討たれぬ。「われ先に」と落ちゆき、ちりぢりにこそなりにけれ。


[モクジ]

第七十八句 瀬尾最後 ★


平家は備中の国水島の軍に勝つてこそ、会稽の恥をばきよめけれ。
!木曾これを聞き、一万余騎にて馳せ下る。
ここに平家の侍に聞こふる強者、備中の国の住人瀬尾の太郎兼康といふ者あり。去んぬる五月に砥波山にて生捕にせられたりしを、「聞こふる剛の者なれば」とて、!木曾惜しんで切られず。加賀の国の住人倉光三郎成澄にあづけられたりけるが、瀬尾、あづかりの倉光に申しけるは、「!木曾殿、山陽道へ御下りとうけたまはり候。兼康が知行の所、備中の瀬尾と申す所は、馬の草飼よき所にて候。申して、御辺賜はらせ給へかし。去んぬる五月よりかひなき命を助けられたてまつり候へば、げに、いくさ候はば、まつさき駆けて命を奉らうずるにて候」と申せば、倉光の三郎この様を!木曾左馬頭殿に申す。
!木曾殿これを聞き、「きやつは剛の者と聞くが、惜しければ、生けおきたるなり。具して下りて案内者させよ」とぞのたまひける。
蘇武が胡国に捕はれ、李陵が漢国に帰らざるがごとし。遠く異国のことについては、昔の人もかなしめるところなり。をしかはのたまき、かもの幕、もつて風雨を防ぎ、なまぐさき肉、酪のつくり水、もつて飢渇にあつ。夜は夜もすがら寝ねず、昼はひめむすに仕へ、木を樵り、草を刈らんばかりにしたがひけるも、「!木曾殿を滅ぼし、平家の方へいま一度参らん」と思ふがためなり。

【倉光寝刺しの事】
!木曾、倉光を召して、「さらばこの瀬尾をまづ具して下りて、御馬の草をかまへさせよ」とのたまへば、倉光、瀬尾の太郎をあひ具
して備中の国へ下る。瀬尾が嫡子小太郎宗康とてあり。父が下るよしを聞いて、年ごろの郎等三十余人あひ具して、父が迎ひにのぼるほどに、
播磨の国府にてぞ行き逢ひぬ。それより連れて下るほどに、備中の国三石の宿にぞ着きにける。
夜もすがら酒盛りして、倉光三郎前後も知らず酔ひたりけるを、刺し殺して首をとり、家の子、郎等二十余人ありけるを、一人も漏らさず討ち取り、やがて、備前、備中に脚力をつかはし、「兼康こそ!木曾殿でゆるされて、これまで下りて候へ。平家に心ざし思ひたてまつらんずる殿ばらは、兼康を先として、!木曾殿の下り給ふに、行き向かつて矢一つ射よ」とぞ触れたりける。山陽道の兵ども、五人持ちたる子は三人は平家に奉る。三人持ちたる子は二人を奉る。馬、鞍、弓、矢にいたるまで平家に奉りたれば、郎等もなく、物具もなかりけれども、兼康にもよほされて、かり武者なれども、備前、備中に二千余人、備前の国
福龍寺畷笹の迫を掘り切りて、城郭にかまへて待ちかけたり。

備前の国は十郎蔵人の国なりければ、
国府に押し寄せて代官を討つてけり。
代官が下人ども逃げて都へ上る。播磨と備前とのさかひなる
船坂山といふ所にて、!木曾殿に行き逢ひたてまつる。
!木曾これを聞き、「やすからぬものかな。切るべかりけるものを」とのたまへば、今井申しけるは、「さ候へばこそ、まなこの様、骨がら、気の者と見候ひしあひだ、さしもに『切らせ給へ』と申せしことは」と
申せば、!木曾、「剛の者と聞くが惜しさにこそ、いままで切らでおきたりつれ。思ふに、なにほどのことかあるべきぞ。なんぢ追つかけて討て」とぞのたまひける。

【笹の畷城攻めの事】
今井の四郎うけたまはつて、
船坂山より三千騎にて馳せ下る。笹の迫へ押し寄せたり。城のうちの者ども、おし肌ぬいで、さしつめ、ひきつめ、散々に射る。馬多く射殺されて、おもてを向くる者なし。今井の四郎、「かくてはかなはじ」とて、むかしより馬の足およばぬといふ、そばなる深田へ多勢ざつとうち入れ、馬のくさわき、むながいづくし、太腹に立つところを事ともせず、すぢかへにぶらめかいて渡しければ、城のうちの者、矢種少々射つくして、「われ先に」と落ちて、備中の国板倉川のはたに城郭をかまへて待ちかけたり。

【同じく板倉の城の事】
今井の四郎やがて追つかけて、
板倉が城へぞ寄せたりける。備前、備中のかり武者ども、あるいは竹箙に、五すぢ、六すぢの矢差したる者もあり、あるいは山うつぼに素雁股三つ四つ差したる者もあり。
または切れ腹巻なんど着たる者どもが、あるいは山へ追ひ入れられ、あるいは河に追つつめられ、残り少なく討たれけり。
瀬尾の太郎、つひに主従三騎に討ちなされ、馬をも射させ、徒歩だちになりて落ちゆく。
嫡子の小太郎は齢二十ばかりなる大男の、あまりにふとりて、一町もはたらきえざる者なり。鎧ぬぎすて行きけれど、かなはざりければ、瀬尾、うち捨てて、郎等と二人、十余町こそ逃げのびけれ。
瀬尾立ちとどまり、郎等に言ひけるは、「兼康は千万の敵に向かつていくさしつれども、四方晴れておぼえつるが、小太郎を捨てて行くゆゑやらん、一向さきが暗うして見えぬぞ」と申せば、郎等、「さればこそ『ただ一所にていかにもならせ給へ』と申しつるは、これにて候。返させ給へ」とぞ申しける。瀬尾、郎等とつれてまた走り帰る。
下部の一人ありけるを、「なんぢはいかにもして屋島へ参りて、この様を申すべし」とてつかはして、走り帰りて見れば、小太郎はおほきに足腫れて伏しゐたり。
瀬尾申しけるは、「なんぢを捨てて行くゆゑにや、さきの暗うして見えぬあひだ、『一所にていかにもならん』と思ひて返したるぞ」と言ひければ、そのとき、小太郎、起きなほり、「この身こそ不器量の者にて候へ。されば自害つかまつらうずるにて候ふに、宗康がゆゑに御命を失ひたてまつらんことは五逆罪にて候へば、ただ一あゆみも延びさせ給はで」と申しければ、「思ひきりたるうへは」とて、しばしやすらうて待つところに、今井の四郎押し寄せたり。

【瀬尾最後】
瀬尾、郎等と立ち並んで、射残したる矢ども、さしつめ、ひきつめ、散々に射る。おもてに向かふ者なし。されども矢種尽きければ、弓をなげ捨て、打物の鞘をはづし、斬つてまはる。走り寄つて、嫡子の小太郎がまづ首を討ちおとし、わが身も痛手負うたりければ、自害してこそ亡せにけれ。郎等ともに自害しつ。
今井の四郎、これら三人が首を取り、当国
鷺の森にぞかけたりける。!木曾殿これを見給ひて、「あはれげの者かな。いま一度助けで」とぞのたまひける。

!木曾は、備中の国
万寿が荘といふ所にて勢揃へして、すでに屋島へ渡さんとするほどに、都の留守に置きたる樋口の次郎兼光、脚力をたてて申しけるは、「十郎蔵人こそ、殿のましまさぬあひだに、院ちかき人にて、おことをさまざまに讒奏せられ候ふなる。急ぎのぼらせ給へ」と申したりければ、!木曾これを聞き、いくさをばせず、うち捨てて、夜を日にして馳せ上る。
「!木曾殿すでに都へ入る」と聞こえしかば、十郎蔵人、「かなはじ」とや思ひけん、二千余騎にて都をたち、丹波路にかかりて播磨の国へ馳せ下る。!木曾は摂津の国を経て京へ入る。

【室山合戦】
さるほどに、平家は新中納言知盛二万余騎、千余艘の船に乗り、播磨の国へおし渡つて、
室山へ陣をとる。
十郎蔵人これを聞き、「平家といくさして!木曾に仲なほりせん」とや思ひけん、二千余騎にて室山に押し寄せ、一日たたかひ暮らす。されども平家は多勢なり、身方は無勢なりければ、散々に討ち散らされて引きしりぞく。
播磨をば平家におそれ、都をば!木曾におそれ、船に乗り和泉の国へおし渡り、河内の国
長野の城にぞ籠りける。平家は室山のいくさに勝つてこそ、いよいよ大勢つきにけれ。


[モクジ]

第七十九句 法住寺合戦 ▲

都には、去んぬる七月より源氏の勢みちみちて、在々所々に入り取りおほし。賀茂、八幡の御領をもはばからず、青田を刈り馬草にし、人の倉をうち破りて取るのみならず、小路に白旗をうち立てて、持ち通る物をうばひとり、衣裳を剥ぎとる。平家のときは、「六波羅殿」と申ししかば、ただ大方におそろしかりしばかりなり。衣裳を剥ぐまではなかつしものを、「平家に源氏はおとりたり」とぞ、高きもいやしきも申しける。

【鼓判官の沙汰】
院の御所より、壱岐守知親が子壱岐の判官知康、「京中の狼藉しづめてまゐらせよ」とて、!木曾がもとへつかはさる。この知康はな
らびなき鼓の上手にてありければ、人「鼓判官」とぞ申しける。
!木曾殿、知康にいで向かひ、まづ勅諚にはおよばで、「わ殿を人の『鼓判官』と言ふなるは、よろづの人に打たれ給うてか、張られ給うてか」とぞ問うたりける。
知康この言葉がにがにがしさに、やがて御所へ帰りて、「まことに!木曾はをこの者にて候ふなり。いかさま、追罰せさせ給はではあしう候ひなん」と申せば、法皇も、天性内々、さおぼしめされけるあひだ、「さあらば」とぞのたまひける。
しかるべき武士を召しては仰せあはせられずして、山の座主、寺の長吏に仰せあはせ、山、三井寺の悪僧どもをぞ召されける。
院の御気色あしうなるよし聞こえしかば、!木曾にしたがひたる五畿内の兵ども、みな!木曾をそむいて院方に参る。
近江源氏をはじめて、美濃、尾張の源氏どもみな!木曾をそむく。
信濃源氏村上の三郎判官代基国も!木曾をそむけて、院方にこそ参りけれ。
すでに院の御気色あしうなるよし聞こえしかば、今井の四郎兼平、!木曾殿に申しけるは、「さればとて、十善の帝王に向かひまゐらせて、いかでか弓をひかせ給ふべき。ただ兜をぬぎ、弓をはづし、降人に参らせ給へかし」と申せば、!木曾殿のたまひけるは、「われ信濃の国横田川の軍よりはじめて、北国、砥波、黒坂、志保坂、篠原、西国にいたるまで、度々のいくさにあひつれども、いまだ一度も敵にうしろを見せず。『十善の帝王にてましませば』とて、!義仲、降人にえこそは参るまじけれ。これは鼓判官が凶害とおぼゆるぞ。あひかまへてその鼓め、打ち破つて捨てよ」とぞのたまひける。
「関々は閉ぢられて、たえて上る物なければ、冠者ばらが『かひなき命生きん』とて、をりをり、かたほとりにつきて入り取りせんは、なにかひが事ならん。また王城の守護とてあらんずる者が、馬一匹づつ飼うて乗らざるべきか。いくらもある田を少々刈らせて、ときどき馬草にせんを、あながちに法皇のとがめ給ふべき様はなきものを。鎌倉の兵衛佐がかへり聞かんところもあり。いくさ用意せよ、者ども。今度は最後のいくさにてあらんずるぞ」と言はれけり。

【法住寺合戦】
!木曾はじめは五万余騎と聞こえしが、みな北国へ落ち下りて、わづかに三千余騎ぞありける。「!木曾がいくさの吉例」とて、勢はいくらもあれ、まづ七手に分けて、三手にも、二手にもなるはかりごとをしけり。今度も三千余騎を七手に分かつ。
樋口の次郎兼光五百余騎にて、
新熊野の方へ搦手にまはる。「のこる六手は、おのおのがゐたらん条里小路より河原へ出でて、七条が末にて行き逢へ」とて、十一月十九日辰の刻、院の御所法住寺殿へ押し寄せたり。
院の御所には、山法師、寺法師、京中の向礫、印地、いひかひなき冠者ばらが様なる者どもを召し集めて、「一万余人」とぞ記され
たる。御方の笠じるしには、松の葉をぞつけたりける。

鼓判官知康は、いくさの行事をうけたまはる。赤地の錦の直垂に、鎧はわざと着ざりけり。兜ばかり着たりけるが、兜には四天王を書いてぞおしたりける。法住寺殿の西の築垣にあがりて、片手には金剛鈴を持ち、片手には鉾を持ち立つたりけるが、なにとか思ひけん、金剛鈴をうち振り、うち振り、ときどき舞ふをりもあり。公卿殿上人これを見て、「風情なし。知康に、はや天狗のついたり」とぞ笑はれける。
知康、寄せ来る勢に向かつて、金剛鈴をうち振りて申しけるは、「むかしは、宣旨を、向かうて読みければ、枯れたる草木にも花さき、実なり、悪鬼、悪神までもしたがひたてまつりけるなり。末代ならんからにや、なんぢら夷の身として、十善の帝王に向かひまゐらせて、いかで弓を引くべき。なんぢが放さん矢は、かへりて身にあたるべし。抜かん太刀は、なんぢが身を斬るべし」なんどぞ申しける。
!木曾これを聞き、「さな言はせそ」とて押し寄せて、鬨をつくる。樋口の次郎兼光五百余騎にて、新熊野の方より鬨をあはせて馳せ向かふ。やがて御所に火をかけたり。院方の兵、鬨をあはするまでもなかりけり。おびたたしく騒動す。
いくさの行事知康はなにとか思ひけん、人よりさきに落ちゆきけり。行事落つるうへは、なじかは一人も残るべき。「われ先に」と落ちゆくに、あまりにあわて騒いで、あるいは長刀さかさまにつきて、足を突きぬく者もあり、あるいは弓の筈を物にかけ、はづさで逃ぐる者もあり。倒るる者は、起き上がるひまもなくて、落つる者に踏み殺さるる者もおほかりけり。
八条が末を山法師がかためたりけるが、恥ある者は討死し、つれなき者は落ちぞゆく。
七条が末をば摂津の国の源氏がかためたりけるが、これも七条を西へ落ちゆく。いくさ以前に、京の在地の者どもに、「明日、落人あらんずるをば、みな打ち殺せ」と院宣を下されたりけるあひだ、在地の者ども、家のうへに楯をつき、おそひの石ども拾いあつめて、摂津の国源氏の落ちゆくを、「あはや、落人よ」とて、石を拾いかけてぞ打ちたりける。「これは御方ぞ、あやまちすな」と言ひけれども、院宣にてあるあひだ、ただ「打ち殺せ」「打ち殺せ」とて打つあひだ、鎧ぬぎすて落ちゆく者もあり、あるいは馬を捨てて逃ぐる者もあり。散々のことどもなり。
伯耆守光長が子息検非違使光経も討たれにけり。近江の中将為清、越前守信行も討たれぬ。
主水正近業は、木賊色の狩衣に萌黄縅の腹巻着て白葦毛なる馬に乗り、河原をのぼりに落ちゆく。今井四郎追つかけて、首の骨を射て落す。これは清原の大外記頼業が子なり。「明経道の博士、甲冑をよろふこと、しかるべからず」と申しける。
按察の大納言資賢の孫、播磨の中将雅賢生捕にせられ給ふ。

【明雲僧正討死】
天台座主明雲僧正も御所に籠られたりけるが、火すでに燃えかかるあひだ、御馬に乗り給ひて、七条を西へ落ち給ふが、射落されて、御首取られ給ふ。
寺の長吏八条の宮も籠らせ給ひけるが、いかがはしたりけん、射られさせ給ひて、御首取つてんげり。
法皇も御輿に召されて出御なる。兵ども御輿を散々に射たてまつりければ、御輿を捨てまゐらせて、ちりぢりに逃げてげり。豊後の少将宗長の御供に侍はれけるが、「これは院のわたらせ給ふぞや。あやまちすな」と高らかにのたまひけるほどに、そのとき、兵みな馬より降りてかしこまる。豊後の少将、「これは何者ぞ」と問ひ給へば、「信濃の国の住人、矢島の四郎行綱」と名のり申す。やがて御輿に手をかけまゐらせて、
五条の内裏へおし籠めたてまつる。
主上は、池なる御船に召されけり。御供には、七条の侍従信清、紀伊守範光ぞ侍はれける。兵ども御船を射たてまつりければ、主上は四歳にならせおはします、なに心もわたらせ給はず、七条の侍従、船底にかき伏せまゐらせて、「これは内のわたらせ給ふぞや。あやまちすな」とのたまひければ、そのとき兵ども、取りまゐらせて、閑院殿へ行幸なしたてまつる。行幸の儀式のありさま、あさましなんどもおろかなり。

源の蔵人仲兼、河内守仲信兄弟、その勢百騎ばかりにて散々に戦ひけるが、七八騎に討ちなされ、ひかへたるところに、近江源氏山本の冠者義高、法住寺殿に防がれけるが、これを見て、「いまはおのおの、誰をかこはんとていくさをばし給ふぞや。行幸も、御幸も、はや他所へなりぬるものを」と申しければ、「さらば」とて、南をさして落ちぞゆく。
源の蔵人が郎等、河内の国の住人日下の加賀坊といふ法師武者ありけり。白葦毛なる馬の太くたくましきが、きはめて口のこはきにぞ乗りたりける。「この馬あまりにいばひて、乗りたるべしともおぼえず候」と申せば、蔵人、「いで、さらば仲兼が馬に乗りかへん」とて、栗毛なる馬の下尾の白きに乗りかへて、瓦坂に誰とは知らず北国武者の大勢にてひかへたるところを、八騎にてざつと駆け破りて通る。八騎が五騎はそこにて討たれぬ。三騎になりて落ちゆく。
五騎がうち、馬乗りかへたる加賀坊討たれけり。

【信濃の次郎討死】
蔵人の家の子に、信濃の次郎頼経といふ者あり。御所のたたかひより敵にかけへだてられて、蔵人の行方を知らざれば、加賀坊が馬に乗りかへたることをも知らざりけり。栗毛なる馬の下尾の白きが、主は討たれて河原に走りまはりけるを見て、信濃の次郎、下人を呼んで、「ここなる馬は、蔵人殿の馬と見るはいかに」と問へば、「さん候。蔵人殿の御馬にて候」と申す。「あな無慚や。日ごろは『一所にていかにもならん』と契りたてまつりたるに、はや先立ち給ひけるにこそ。なんぢは帰つて、妻子どもにこの様を語るべし。頼経は討死して、蔵人殿の供せんと思ふぞ」とて、ただ一騎瓦坂の大勢にうち向かひ、名のりけるは、「日ごろはその者にては候はねば、名をもよも知り給はじ。今をはじめて聞き給へ。源の蔵人が家の子に、信濃の次郎頼経。かうこそかかれ」と言ひて、大勢の中に駆け入りて、をめき叫んで戦ひけるが、つひに討死してんげり。

河内守仲信
稲荷山にうちあげて、醍醐の方へ落ちにけり。蔵人宇治をさして落ちゆくほどに、摂政殿の、都をいくさにおそれ給ひて宇治へ出御なりけるに、木幡山にて追つつきたてまつる。「誰そ。仲兼か。人もないに、ちかう侍へ」と仰せければ、「承り候」とて、宇治まで守護したてまつる。いとま申して、河内の方へ落ちゆきけり。
豊後の国司刑部卿三位頼輔も御所に籠られたりけるが、敵はすでに攻め入る、侍一人もつきたてまつらず、ただ一人
七条河原へ走り出で給ひたるところに、下部どもに衣裳を剥ぎとられて、立たれたるに、三位の小舅越前の法眼といふ者ありけり。その仲間法師が、「いくさ見ん」とて河原へ出でたりけるが、三位の立たれたるを見て、あまりのあさましさに、さらば小袖は脱ぎて着せたてまつらで、あわてで衣を脱ぎ、投げかけたてまつり、「法眼の宿所へ」と六条を西へましましけるに、大の男の、衣をうつほに着、頬かぶりて、白衣の法師を供に具しておはしける後姿こそをかしけれ。

宰相脩範の卿は、「法皇の、五条の内裏へおし籠められ給ひたり」とうけたまはりて、いそぎ馳せ参られければ、兵ども入れたてまつらざれば、力およばず、走り帰りて、もとどりを切り、髪を剃りおろし、墨染の衣に袴着て参られければ、そのとき兵ども入れたてまつる。御前に参りて、この様を奏せられければ、法皇これを御覧じて、にはかに様をかへたる心ざしのほどの切なることをぞ、御感なる。今日のいくさの様を、次第次第に語り申す。さるほどに、「寺の長吏八条の宮も討たれさせ給ふ。また天台座主明雲大僧正の御坊も討たれさせ給ひぬ」と申されければ、法皇、「明雲は非業の死したるものかな。今度はただ、われいかにもなるべかりける命に、代りたるにこそ」とて、御涙にむせばせおはします。

【首実検】
!木曾はいくさに勝ち、あくる卯の刻に、三千余騎、
六条河原にうち出で、馬の鼻を東へ向けて、天もひびき、大地も動くほどに、鬨を「どつ」とつくる。京中またさわぎあへり。これは、「いくさに勝ちたるよろこびの鬨をつくる」とも申しけり。いまとても兵衛佐といくさせんこと必定なれば、今日吉日にてあるあひだ、「東国へむかひ、鏑を射はじめんとての鬨」とも申しけり。
昨日討たるるところの首ども、六条河原へかけ並べて記したりければ、六百三十余人なり。そのなかに、寺の長吏八条の宮の御首もかからせ給へり。天台座主明雲大僧正御坊の御首もかかり給へり。
見る人、涙をながさずといふことなし。

[モクジ]

第八十句 義経熱田の陣 ★


!木曾左馬頭、郎等どもを召し集めて、「そもそも、!義仲、十善の君に向かひ奉り、軍は勝ちぬ。主上にやならまし、法皇にやならまし。主上にならんと思へば、童にならんも、しかるべからず。法皇にならんと思へば、法師にならんも、をかしかるべし。よしよし、関白にならん」とぞ言ひける。
大夫覚明すすみ出でて申しけるは、「関白には、大織冠の御末、執柄の君達こそならせ給ひ候ふなれ」と申しければ、「さては力およばず」とてならず。法皇を見たてまつりて、「院」と申せば、「法師」と心得、主上の幼くて御元服なかりけるを見まゐらせては、「童」と心得たりけるぞあさましき。院にもならず、関白にもならず、院の厩の別当におしなつて、丹波の国を知行しけり。前の関白松殿の姫君をとり奉り、聟になる。同じき二十三日、三条の中納言以下、卿相雲客四十九人が官職をとどめ、追つ籠め奉る。平家のときは三十余人が官職をこそとどめたりしが、これは四十九人なれば、平家の悪行にはなほ超過せり。

【公朝・時成熱田下向】
北面に侍ひける宮内の判官公朝、藤内左衛門時成、尾張の国へ馳せ下る。これはいかにといふに、「鎌倉の兵衛佐の舎弟、蒲の冠者範頼、九郎冠者義経、二人都へ上るが、尾張の国熱田の大宮司がもとにおはする」と聞きて、!木曾が悪行のこと訴へんがための使節とぞ聞こえし。
そもそも、この人々はなにごとに都へは上るぞといふに、平家都におはせしほどは、「道の狼藉もあらば」とて、東八箇国の年貢を君に奉ることもなし。平家都を落ちてのち、兵衛佐、「王地にはらまれて、さのみ年貢を対捍せんもおそれなれば」とて、両三年の年貢の未進を沙汰して、一千人の兵士をそへ、都へ参らせられけるほどに、道にて、「いくさあり」と聞き、「左右なく上り、いくさしてはあしかりなん。ひき退いて、鎌倉殿へ子細を申さん」とて、大宮司がもとにぞおはしける。
宮内判官、藤内左衛門馳せ下つて、!木曾が悪行のこといちいちに申す。九郎義経のたまひけるは、「宮内判官、いそぎ鎌倉へ下るべしとおぼえ候。そのゆゑは子細も知らぬ使は、かへして問はれんとき、申しかねば不審ののこるに」とのたまへば、宮内判官、夜を日にして
鎌倉へ下る。

【同じく鎌倉へ参着】
兵衛佐対面し給ひて、事の様をたづねらる。「寺の長吏八条の宮も討たれさせ給ひぬ、また天台座主明雲大僧正の御坊も討たれ給ひて候」と申せば、兵衛佐、「!木曾が悪行あらば、頼朝にこそ仰せ下され追罰せらるべきに、いふかひなき鼓判官知康なんどが申すことにつかせ給ひて、御所をも焼かせ、高僧たちをも多く失はせ給へることこそ、かへすがへすもあさましく存じ候へ。こののち、知康召しつかはせ給ふべからず」と、脚力をたてて院に奏聞せられけり。

【鼓判官鎌倉参上】
知康このことを聞きて、「陳ぜん」と鎌倉へ下る。兵衛佐、「しやつに目な見せそ。会釈なせそ」とのたまへば、あひしらふ者もなかりけり。知康、面目失ひ、帰りのぼる。そののちいづくにかありけん、「行方も知らず」とぞ聞こえし。


そのころ「木曾追罰のために東国より討手上る」よし聞こえしかば、!木曾は西国へ早馬をたてて、「平家の人々、いそぎ都へ上り給
へ。ひとつになつて東国を攻めん」とぞ申したる。平家の人々これを聞き、よろこびあはれけり。平大納言時忠、新中納言知盛申されけるは、「さればとて、いまさらに!木曾にかたらはれ、都へ帰りのぼり給はんことしかるべしともおぼえず候。十善の帝王、かたじけなくも三種の神器を帯してわたらせ給へば、ただ兜をぬぎ、弓をはづして降人に参り給へ」と申されければ、大臣殿、この様を都へのたまひのぼせたりけれども、それを!木曾もちひたてまつらず。

【義仲大赦行はるる事】
そのころ、松殿禅定殿、!木曾を召して仰せられけるは、「清盛は悪行たりしかども、希代の善根をせしかば、世をもめでたく二十余年までも保ちたりしなり。悪行ばかりにて世を保つことはなきものを。追ひ籠められたる人々の官どもゆるされよかし」と仰せければ、ひたすらの荒夷の様なれども、したがひたてまつつて、追ひ籠められたる人々の官ども、みな許したてまつる。
松殿の御子師家の、中納言の中将にてましましけるを、内大臣の摂政になしたてまつる。をりふし大臣あかざりければ、徳大寺の内大臣にておはしけるを借りたてまつり、師家に殿の摂禄せさせたてまつる。いづれも人の口なれば、師家の殿を「かりの大臣」とこそ人申しけれ。
同じき十二月五日、法皇は五条の内裏より大膳大夫業忠が宿所、
六条の西洞院へ御幸なる。
同じき十三日、歳末の御修法あり。やがて除目おこなはるる。!木曾がはかりごとにて、人々の官ども思ふ様になりにけり。前漢、後漢のあひだに王莽が世をとつて、十八年をさめたりしがごとし。
平家は西国に、兵衛佐は東国に、!木曾は都にて張行し、諸国七道みな乱れて、おほやけの貢物をも奉らず、わたくしの年貢ものぼらねば、京中の人々は、ただ魚の水に離れたるに異ならず
あやふきながらも、今年もすでに暮れぬ。寿永も三年になりにけり。

[モクジ]

第八十一句 宇治川 ★★

寿永三年正月一日、院の御所は大膳大夫業忠が宿所、六条西洞院なりければ、御所の体しかるべからざる所にて、礼儀おこなふべきにてあらねば、拝礼もなし。院の拝礼なかりければ、殿下の拝礼もおこなはず。
平家は讃岐の国屋島の磯に送り迎へて、年のはじめなれども、元日、元三の儀こそ事よろしからね。先帝ましませば、主上と仰ぎたてまつれども、四方の拝もなし。小朝拝もすたれぬ。氷のためしも奉らず。節会もおこなはれず。はらかも奏せず。吉野の国栖も参らず。「世の乱れたりとはいひしかども、さすが都にてはかくばかりはなかりしものを」と、あはれなり。
青陽の春も来たり、浦吹く風もやはらかに、日影ものどかになりゆけば、平家はただいつとなく氷に閉ぢられたる心地して、寒苦鳥にことならず。東岸西岸の柳遅速をまじへ、南枝北枝の梅開落すでに異にして、花の朝、月の夕べ、詩歌、管絃、鞠、小弓、扇合、絵合、草尽、虫尽、さまざま興ありしことどもを思ひ出でて、語り出だし、永き日を暮らしかね給ふこそかなしけれ。

【今井の四郎瀬田を警固する事】
正月十七日、院の御所より!木曾左馬頭義仲を召して、「平家追罰のために、西国へ発向すべき」よし、仰せ下さる。!木曾かしこまつて承り、まかりいづ。やがてその日、「西国への門出す」と聞こえしほどに、「東国よりすでに討手数万騎のぼる」と聞こえしかば、!木曾西国へは向かはずして、
宇治、瀬田両方へ兵どもを分けてつかはす。!木曾、はじめは五万余騎と聞こえしが、みな北国へ落ち下りて、わづかにのこりたる兵ども、「叔父の十郎蔵人行家が河内の国長野の城に籠りたるを討たん」とて、樋口の次郎兼光、六百余騎にて今朝河内へ下りぬ。のこる勢、今井の四郎兼平、七百余騎にて瀬田へ向かふ。

【仁科・高梨宇治川を警固する事】
仁科、高梨、山田の次郎、五百余騎にて
宇治橋へ向かふ。信太の三郎先生義教、三百余騎にて一口をぞふせぎける。
東国より攻めのぼる大手の大将軍蒲の御曹司範頼、搦手の大将軍は九郎御曹司義経、むねとの大名三十余人、都合その勢五万余騎とぞ聞こえし。

【佐々木の四郎生ずき賜はる事】
(略)

【大串の重親歩立ちの先陣の事】
(鎌倉の軍勢は)尾張の国より大手、搦手、軍兵二手に分かつ。搦手は伊勢の国へまはる。大手は美濃の国にかかる。
大手の大将軍は蒲の御曹司範頼に、あひしたがふ人々、武田の太郎、加賀見の次郎、その子小次郎、一条(いちでう)の次郎、板垣の三郎、逸見の四郎、山名、里見の人々。
侍大将には、土肥の次郎、稲毛の三郎、榛谷の四郎、小山の小四郎、長沼の五郎、結城の七郎、岡部の六野太、猪俣の近平六、熊谷の次郎を先として、都合その勢三万五千余騎。近江の国野路篠原にぞ着きにける。
搦手の大将軍九郎御曹司に、したがふ人々、安田の三郎、大内の太郎、田代の冠者、畠山の庄司次郎、同じく長野の三郎、梶原源太、佐々木の四郎、糟谷の藤太、渋谷の右馬允、平山の武者所季重を先として、都合その勢二万五千余騎。
伊賀の国を経て
田原路をうち越え、宇治川のはた、産霊の明神の御前をうち過ぎ、山吹が瀬へぞ向かひける。
宇治も、瀬田も、ともに橋をひきたり。宇治川の向かうの岸には掻楯かき、水の底には乱杭打つて、大綱張り、逆茂木つないで流しかけたり。
ころは正月二十日あまりのことなれば、比良の高嶺、志賀の山、昔ながらの雪も消え、谷々の氷とけあひて、水かさ、はるかにまさりたり。白波おびたたしく、瀬枕おほきに滝鳴つて、逆巻く水も早かりけり。夜はすでにほのぼのと明けゆけども、川霧深くたちこめて、馬の毛も、鎧の毛もさだかならず。
ここに大将軍九郎御曹司、川ばたにうち出でて、水の面を見わたし、「人々の心を見ん」とや思はれけん、「いかがせん。淀、一口へやまはるべき。水の落ち足をや待つべき」とのたまへば、武蔵の国の住人畠山庄司次郎重忠、そのときはいまだ二十一になりけるが、すすみ出でて申しけるは、「この川の御沙汰は、鎌倉殿の御前にてよく候ひしぞかし。日ごろ知ろしめされぬ海川の、今にはかに出できても候はばこそ。この川は近江の湖のすゑなれば、待つとも、待つとも、水干まじ。また、橋をば誰か渡してまゐらすべき。一年治承の合戦に、足利の又太郎忠綱は十八歳にて渡しけるは、鬼神にてはよもあらじ。重忠瀬ぶみつかまつらん」とて、「武蔵の殿ばら、続けや」とて、丹の党をはじめとして五百余騎、轡を並ぶるところに、平等院の艮、
橘の小島より、武者こそ二騎、ひつかけ、ひつかけ、出で来たれ。梶原源太、佐々木の四郎なり。
人目には何とも見えねども、内々先をあらそふともがらなりければ、まつ先に二騎つれて出でにけり。
佐々木に梶原は一段ばかり馳せすすむ。佐々木は「川の先をせられじ」と、「や、殿。梶原殿。この川は、上へも、下へも、早うして、馬の足ぎきすくなし。腹帯の延びて見ゆるは。締め給へ」と言はれて、梶原「げにも」とや思ひけん、つ?立ちあがりて、左右の鎧を踏みすかし、手綱を馬の小髪に捨て、腹帯を解いて締むるあひだに、佐々木、つと馳せぬけて、川へざつとうち入れたり。梶原これを見て「たばかられまじきものを」とて、同じくうち入れたり。「水の底には大綱張りたるらんぞ。馬乗りかけ、おし流されて不覚すな。佐々木殿」とて渡しけるが、川の中まではいづれも劣らざりけれども、いかがしたりけん、梶原が馬は篦撓形におし流さる。佐々木は川の案内者、そのうへ生ずきといふ世一の馬には乗つたりけり、大綱どもの馬の足にかかりけるをば、帯いたる「面影」といふ太刀を抜き、ふつふつとうち切り、うち切り、宇治川早しといへども、一文字にざつと渡して、思ふ所にうちあぐる。鎧踏んばり、つ立ちあがり、「宇多の天皇に八代の後胤、佐々木の三郎秀義が四男、佐々木の四郎高綱。宇治川の先陣」と名のつて、をめいてかく。梶原は、はるかの下よりうちあぐる。畠山、五百余騎にてうち入りて渡す。

向かひの岸より仁科、高梨、山田の次郎、さしつめ、ひきつめ、散々に射る。
畠山、馬の額を篦深に射させて、馬は川中より流れぬ。弓杖ついており立つたり。岩波おびたたしく兜の手先におしかけけれども、事ともせず。向かひの岸に渡りついて、あがらんとするところに、うしろより物こそひかへたれ。ふりまはりて見ければ、鎧武者がとりついたり。畠山の烏帽子子に、大串の次郎なり。「誰そ」と問へば、「重親」と名のる。
「かかることこそ候へ。馬は弱る、おし流されて候へば、力およばずとりつきまゐらせ候」と申せば、「いつも、わ殿ばらは、重忠にこそ助けられんずれ。あやまちすな」と言ふままに、さし越えてむずとつかみ、岸の上にぞ投げあげたる。投げられながら起き直り、「武蔵の国の住人、大串の次郎重親。宇治川徒歩わたりの先陣」とぞ名のりける。敵も味方もこれを聞き、一度にどつとぞ笑ひける。

九郎御曹司をはじめたてまつり、二万五千余騎、うち入れ、うち入れ、渡しけり。馬、人にせかれて、さばかり早き宇治川の下は瀬切れて浅かりければ、雑人ども、馬の下に、とりつき、とりつき、渡りけり。佐々木の三郎、梶原平次、渋谷の右馬允、これ三人は馬を捨てて芥々をはき、弓杖をつき、橋の行桁をこそ渡りけれ。そののち畠山、乗替に乗りてうちあぐる。
魚綾の直垂に緋縅の鎧着て、連銭葦毛なる馬に黄覆輪の鞍置いて乗つたる敵の、まつ先にすすみ出でて、「!木曾殿の家の子に、長瀬判官代重綱」とこそ名のりけれ。畠山、「まづ軍神の血祭りせん」とて、かけ並べ、むずと取つて引き落し、首ねぢ切りて、本田の次郎が鞍のしほでにつけさせけり。
これをはじめとして、!木曾殿の方より宇治橋固めたる勢ども、しばしささへてふせげども、東国の大勢がみな渡して攻めければ、散
散に駆けなされ、木幡山、伏見をさしてぞ落ち行きける。
瀬田をば稲毛の三郎重成がはかりごとにて、
田上の供御の瀬をこそ渡しけれ。

いくさ破れにければ、鎌倉殿へ飛脚をもつて合戦の次第を注進申されけるに、鎌倉殿、まづ御使に、「佐々木はいかに」と御たづねありければ、「宇治川のまつ先」と申す。日記をひらきて御覧ずれば、「宇治川の先陣、佐々木の四郎。二陣、梶原源太」とこそ書かれけれ。


[モクジ]

第八十二句 義経院参 ★★★

【義仲優女暇乞ひの事】
さるほどに、!木曾左馬頭義仲は、「宇治、瀬田敗れぬ」と聞きしかば、「最後の御いとま申さん」とて、百騎ばかりにて院の御所
六条殿へ馳せ参る。「あはや、!木曾が参り候ふぞや。いかなる悪行かつかまつらん」とて、君も、臣も、おそれわななき給ふところに、「東国の兵ども、七条河原までうち入りたる」よし告げたりければ、!木曾門の前よりとつて返す。
御所にはやがて門をさしけり。
!木曾は「最愛の女に名残を惜しまん」とて、
六条万里の小路なる所にうち入りて、しばしは出でもやらざりけり。

【越後の中太家光自害の事】
新参したりける越後の中太家光といふ者あり。これを見て、「あれほど敵の攻め近づいて候ふに、かくては犬死せさせ給ひなん。いそぎ出でさせ給はで」と申しけれども、なほも出でやらざりければ、越後の中太、「世は、かうごさんなれ。さ候はば、家光は死出の山にて待ちまゐらせん」とて刀を抜き、鎧の上帯切つておしのけ、腹切つてぞ死にけり。
!木曾殿これを見給ひて、「これはわれをすすむる自害にこそ」とて、やがてうち出でられけれ。上野の国の住人、那波の太郎広澄を先として、百五十騎には過ぎざりけり。
六条河原へうち出でて見れば、東国の武者とおぼえて、三十騎ばかり出で来る。その中に二騎進んで見えにけり。一騎は塩屋の五郎惟広、一騎は勅使河原の五三郎有直なり。塩屋が申しけるは、「後陣の勢をや待つべき」。勅使河原申す様、「一陣破るれば、残党まつたからず。ただ寄せよや」とて、をめいてかかる。「われ先に」と乱れ入る。あとより後陣続いたり。
!木曾殿これを見給ひて、いま最後のことなれば、百四五十騎轡を並べて、大勢の中に駆け入る。
東国の兵ども、「われ討ちとらん」と面々にはやりあへり。両方火出づるほどこそ戦ひけれ。

【義経禁廷言上】
九郎義経、兵どもに矢おもてふせがせて、「義経は院の御所のおぼつかなさに、守護したてまつらん」とて、まづわが身ともに、ひた兜五六騎、
六条殿に馳せ参る。
大膳大夫業忠、六条の東の築垣にのぼつて、わななく、わななく、世間をうかがひ見るところに、東の方より武者こそ五六騎、のけ兜に戦ひなつて、射向の袖を吹きなびかせ、白旗ざつとさしあげ馳せ参る。「あはや、!木曾が参り候ふぞや。このたびぞ世は失せはてん」と申しければ、法皇をはじめまゐらせて、公卿、殿上人もことに騒がせ給ふ。
業忠よくよく見て申しけるは、「笠じるし変つて見え候。!木曾にては候はず。今日うち入りたる東国の兵とおぼえ候」と申しもはてねば、九郎義経、門の前に馳せ寄つて、馬より飛んで下り、「『鎌倉前の右兵衛佐頼朝が舎弟、九郎義経、参りて候』と奏せさせ給へ」と申されければ、大膳大夫あまりのうれしさに、築垣よりいそぎ飛び下りけるほどに、落ちて腰をつき損じたりけれども、痛さはうれしさにまぎれておぼえず。はふはふ参りて奏し申せば、やがて門をひらき入れられけり。
大将軍ともに武士は六人なり。
九郎義経は赤地の錦の直垂に紫裾濃の鎧着て、黄金づくりの太刀を帯き、切斑の矢負ひ、塗籠籐の弓の鳥打を、紙の広さ一寸ばかりに切つて、左巻きにぞ巻いたりける。これぞ今日の大将軍のしるしとは見えたりける。
のこる五人は、鎧は色々に見えたりけれども、つらたましひ、骨柄、いづれも劣らざりけり。
法皇、中門の連子より叡覧あつて、「ゆゆしげなる者どもかな。みな名のり申せ」と仰せければ、まづ大将軍、「九郎義経」、次には、「畠山庄司次郎重能が子に、畠山庄司次郎平の重忠」、「同じ氏、河越の太郎重頼が子に、河越の小太郎重房」、「渋谷の三郎庄司重国が子に、渋谷の右馬允重助」、「佐々木の三郎秀義が四男、佐々木の四郎高綱」、「梶原平三景時が嫡子、梶原源太景季」とぞ申しける。みな庭上にかしこまつてぞ侍ひける。

【義経内裏を守護申さるる事】
大膳大夫業忠、大床に侍ひて、合戦の次第をたづねらる。義経申されけるは、「!木曾が悪行のこと、頼朝うけたまはりて大きにおどろき、範頼、義経二人の舎弟を参らせて候。兄にて候ふ範頼は瀬田より参りて候ふが、いまだ見えず候。義経は宇治の手を追ひ落して、まづこの御所のおぼつかなさに、馳せ参りて候。!木曾は河原を上りに落ちゆき候ふを、兵どもに追つかけさせ候ひつれば、いまはさだめて討ちとり候らん」と、いと事もなげにぞ申したる。
君なのめならず御感ありて、「!木曾が悪党なんど、なほ参りて狼藉つかまつり候ふべし。義経は侍ひて、この御所よくよく守護したてまつれ」と仰せ下されければ、かしこまつて承り、門を固めて待つところに、ほどもなく二三千騎馳せ参りて、六条殿四面にうちかこみ、守護したてまつれば、人々も心静かに、君も御安堵の御心地いできさせ給へり。


[モクジ]

第八十三句 兼平 ★★★

【兼平】
さるほどに、!木曾は「もしもの事あらば、院をとりたてまつり、西国の方へ御幸なしたてまつり、平家とひとつにならん」とて、力者二十余人用意しておいたりけれども、「院の御所には、義経の参り給ひて守護したてまつる」と聞こえしかば、「力およばず」とて、数万騎の大勢の中に駆け入り、討たれなんずること度々におよぶといへども、駆けやぶり、駆けやぶり、通りけり。
「かくあるべしと知りたりせば、今井を瀬田へはやらまじものを。幼少より『死なば一所にて、いかにもならむ』とちぎりしに、所々にて死なんことこそ本意なけれ。今井が行くへを見ばや」とて、河原を上りに駆けけるに、大勢追つかくれば、とつて返し、とつて返し、
六条河原と三条河原の間、無勢にて多勢を五六度まで追つかへす。
賀茂川ざつとうち渡し、粟田口、松坂にもかかりけり。
去年信濃を出でしときは、五万余騎と聞こえしかど、今日
四の宮河原を過ぐるには、主従七騎になりにけり。
まして中有の旅の空、思ひやるこそあはれなれ。

【巴のいくさ】
!木曾殿は、信濃より巴、款冬とて二人の美女を具せられたり。款冬は労ることありて、都にとどまりぬ。
は七騎がうちまでも討たれざりけり。そのころ齢二十三なり。色白く髪長く、容顔まことに美麗なり。されども大力の強弓精兵、究竟の荒馬乗りの悪所おとし。いくさといへば札よき鎧着て、大太刀に強弓持ち、一方の大将にさし向けられけるに、度々の高名肩を並ぶる人ぞなき。
「!木曾は長坂を経て、丹波路へおもむく」と言ふもあり、また「龍華越にかかつて北国へ」とも聞こえけり。されども、今井が行方のおぼつかなさに、
瀬田の方へぞ落ち行きける。

今井も主の行くへのゆかしさに、旗をひん巻き、五十騎ばかりにて都へとつて返すほどに、大津の
打出浜にて、!木曾殿に逢ひたてまつる。一町ばかりより、たがひに「それ」と目をかけて、駒を早めて寄せ合はせたり。
!木曾殿、今井が馬にうち並べ、兼平が手を取りて、「いかに今井殿、義仲は、今日六条河原にていかにもなるべかりしかども、幼少より『一所にていかにもならん』とちぎりしことが思はれて、かひなき命のがれ、これまで来れるなり」とのたまへば、「さん候。兼平も、瀬田にていかにもなるべう候ひつるが、君の御行くへのおぼつかなさに、敵の中に取り籠められて候ひしを、うち破りてこれまで参りて候」と申す。
!木曾殿、「ちぎりはいまだ朽ちせざりけり。義仲が勢は敵におしへだてられ、山林に馳せ入りぬ。さだめてこの辺にもあるらん。旗さし上げてみよ」とのたまへば、今井持たせたる旗をざつとさし上げたれば、案のごとく、これを見て、京より落つる勢ともなく、瀬田より落つる者ともなく、三百余騎ぞ馳せ集まる。
!木曾殿大きによろこんで、「この勢あらば、などか最後のいくさせざるべき。この先にしぐらうで見ゆるは、誰が手とか聞く」。「甲斐の一条の次郎殿とこそうけたまはり候へ」。「勢はいかほどあるやらん」。「六千余騎と聞こえて候」。「さらばよき敵ごさんなれ。同じくは、大勢の中にてこそ討死もせめ」とて、まつ先にこそ進まれけれ。
!木曾は赤地の錦の直垂に、「薄金」とて唐綾縅の鎧着て、いかものづくりの太刀を帯き、石打の矢のその日のいくさに射のこしたるを頭高に負ひなし、滋籐の弓のまん中取つて、聞こゆる!木曾の鬼葦毛に、沃懸地の鞍置いてぞ乗つたりける。大音あげて名のりけり。
「昔は聞きけんものを、!木曾の冠者。今は見るらん、左馬頭兼伊予の前司朝日将軍源の!義仲ぞや。一条の次郎とこそ聞け。討ちとり、勧賞かうむれ。なんぢがためにはよき敵ぞ」とて、破って入る。一条の次郎、「ただいま名のるは大将軍ぞ。もらすな。討ちとれや」とて大勢の中にひと揉み揉うで戦ふ。
!木曾三百余騎にて、縦ざま、横ざま、蜘蛛手、十文字に駆けやぶり、六千余騎があなたへざつと駆け出でたれば、百騎ばかりになりにけり。土肥の次郎、一千余騎にてささへたり。
そこを駆けやぶりて出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。稲毛、榛谷五百余騎。
そこを過ぐれば、
小山、細道、森、結城、小沢。ここかしこに二三百騎ひかへたるを、駆けやぶり、駆けやぶり行くほどに、主従五騎にぞなりにけり。
五騎がうちまで、巴は討たれざりけり。

!木曾のたまひけるは、「義仲は、ただいま討死せんずるにてあるぞ。なんぢは女なれば、一所にて死なんことも悪しかりなん。『木曾殿こそ、最後のいくさに女をつれて討死せさせたり』なんど言はれんことも口惜しかるべし。これよりいづちへも落ちゆき、義仲が後世をもとぶらひなんや」とのたまへども、落ちゆかず。あまりにいさめ給へば、「あつぱれ、よからむ敵もがな。最後のいくさして見せたてまつらん」とて見まはすところに、武蔵の国の住人に恩田の八郎師重、聞こふる大力の剛の者、三十騎ばかりにて出で来たり。
その中に駆け入り、恩田に押し並べて、むずと取つて引き落し、鞍の前輪に押しつけて、首ねぢ切つて捨ててけり。そのまま物具脱ぎ捨てて、泣く泣くいとま申して、東国の方へぞ落ち行きける。
手塚の別当自害しつ。手塚の太郎は討死す。今は、今井と主従二騎にぞなりにける。

【兼平最後】
!木曾のたまひけるは、「いかに今井。日ごろは何ともおぼえぬ鎧が、今日は重うおぼゆるぞや」。
兼平申しけるは、「別の様や候ふ。それは君の無勢にならせましまして、臆させ給ふにこそ候へ。御馬疲れ候はず。御身弱らせ給はず。日ごろ召されし御鎧、何によつてただいま重くはならせ給ふべき。兼平一人、余の者千騎とおぼしめされ候ふべし。箙に矢七つ八つ射のこして候へば、この矢のあらんかぎりは、ふせぎ矢つかまつらん。あれに見え候ふは『粟津の松原』と申し候。三町には過ぎ候ふまじ。あれにて御自害候へ」とて、二騎うち並べて行くほどに、また
瀬田の方より新手の武者、百騎ばかり出で来たり。
今井申しけるは、「さ候はば、君はあの松原にてしづかに御自害候へ。兼平はこの敵ふせぎ候はん」と申せば、!木曾殿、「幼少より『一所に』とちぎりしはここぞかし。死なば同じ枕にこそ」と、馬の鼻を並べ、駆けんとし給へば、今井馬より飛んでおり、御馬の鼻にむずと取りつき、「いかなる御言候ふ。弓矢取りは、日ごろ高名をし候へども、最後に不覚しつれば永き瑕に候ふものを。いふかひなき冠者ばらに組み落され、討たれ給はば、『日本国に聞こえ給ふ!木曾殿をば、それがしが家の子、それがしが郎等こそ討ちとりたてまつれ』なんどと申さんこと、あまりに口惜しうおぼえ候。ただ松の中へ入らせ給ひて御自害候へ」と申せば、!木曾殿力およばず、松原へぞ入り給ふ。
今井の四郎ただ一騎、大勢に駆け向かひ、大音声をあげて、「日ごろは音にも聞き、今は目にも見よ。!木曾殿の御乳人に今井の四郎兼平。三十三にぞまかりなる。鎌倉殿までも『さる者あり』とは知ろしめされたるらん。討ちとり、勧賞かうむれ」とて、残りたる八すぢの矢を、さしつめ、引きつめ、散々に射る。死生は知らず、矢庭に敵八騎射おとし、矢種尽きければ、弓をかしこに投げすて、打物の鞘をはづし、斬つてまはるに、面を合はする者ぞなき。「ただ射とれ。射とれ」とて、中にとり籠め、遠だてながら雨の降る様に射けれども、鎧よければ裏かかず。隙間を射ねば手も負はず。

【義仲最後】
!木曾殿は松原へ入り給ふ。ころは正月二十日の暮れがたなれば、薄氷張りたりけるに、「深田あり」とも知らずしてうち入れ給へば、聞こふる!木曾殿の鬼葦毛も、一日馳せ合ひの合戦にやつかれけん、あふれども、あふれども、打てども、打てども、はたらかず。「今はかう」とや思はれけん、うしろへふり仰のき給ふところを、相模の国の住人石田の次郎為久、追つかけてよつ引いて射る。内兜をあなたへ通れと射通されて、痛手なれば兜の真向を馬のかしらにあてて、うつぶしにぞ伏し給ふ。石田が郎等二人落ちあひて、つひに!木曾殿の首をぞ取つてけり。
太刀の先に刺しつらぬき、高くさしあげ、今井が言ひつるに違はず、「日本国に聞こえ給ふ!木曾殿を、相模の国の住人三浦石田の次郎為久、かうこそ討ちたてまつれ」とて高らかに名のりければ、今井の四郎これを聞き、「今は誰をか囲はんとていくさをすべき。これ見よや、剛の者の自害する様。手本にせよや、東国の殿ばら」とて、太刀を抜き、口にくくみ、馬よりさかさまに落ちかかり、つらぬかれてぞ失せにける。今井討たれてそののちぞ、粟津のいくさは果てにける。

【茅野の太郎光弘討死】
今井が兄、樋口の次郎兼光は、「十郎蔵人を討たん」とて、河内の国
長野の城へ越えけるが、そこにては討ちもらし、「紀伊の国名草にあり」と聞こえしかば、やがて追つかけ、越えたりけるが、「都にいくさあり」と聞きて馳せのぼるほどに、淀の大渡の橋にて今井が下人に行き逢うたり。
「君は、はや討たれさせ給ひ候ひぬ。今井殿は御自害」と申せば、樋口涙をながし、「これ聞き給へ、殿ばら。世はすでにかうごさんなれ。命惜しからん人々は、いづちへも落ち給へ。君に心ざしを思ひたてまつらんともがらは、兼光を先として都へ入りて討死せよ」と申しければ、これを聞き、かしこにては「馬の腹帯かたむる」、ここにては「兜の緒をしむる」と言うて、二三十騎、四五十騎、ひかへ、ひかへ、落ち行くほどに、樋口が勢六百余騎が、いま二十騎ばかりにぞなりにける。
「樋口の次郎、今日すでに都に入る」と聞こえしかば、党も高家も七条、朱雀、四塚へ「われも」「われも」と馳せむかふ。

信濃の国の住人に茅野の太郎光弘といふ者あり。これも樋口につれて河内へ下りけるが、同じく今日京へ入る。茅野の太郎、何とか思ひけん、
鳥羽より樋口の次郎が先に立つて馬の足をはやめ、四塚にて大勢にうち向かひ、「この中に一条の次郎殿の手の人やおはする」と呼ばはりけり。敵一度にどつと笑つて、「一条の次郎殿の手にてばかり、いくさをばすることか」と言ひければ、茅野の太郎「もつとも、さ言はれたり、殿ばら。かの手をたづぬることは、光弘が弟茅野の七郎その手にあると聞く。信濃に光弘が子ども二人あり。彼らが『あつぱれ。わが父は、よくてや死したりけん、悪しうてや死したりけん』なんど思はんところが不便なれば、弟の七郎が見んまへにて討死して、彼らに語らせんと思ふぞかし。信濃の国諏訪の上の宮の住人、茅野の大夫光家が子に茅野の太郎光弘。敵はきらふまじ」とて、あれに駆けあはせ、これに駆けあはせ、戦ふ敵三人討ちとりて、四人にあたる敵にひつ組んで落ち、たがひに刺しちがへてぞ死ににける。これを見て、惜しまぬ人こそなかりけれ。

樋口の次郎兼光は児玉党の聟なりけるが、かの党申しけるは、「弓取りの広き縁に入ることは、かやうのときのためぞかし。されば、樋口がわが党にむすぼほりけんも、さこそ思ひけめ。いざ、今度の勲功に、樋口を申して賜はらん」とて、樋口がもとへ飛脚をたて、この様申しつかはしたりければ、樋口、聞こふる兵なれども、命や惜しかりけん、児玉党がなかへ降人にこそなりにけれ。

うち連れて都へのぼり、このよし申しければ、九郎御曹司に奏聞せられけり。「くるしかるまじ」とてなだめられけるを、御所女房たち、「去年、!木曾が法住寺殿に火をかけて攻めたてまつりしときは、今井、樋口、といふ者どもこそ、かしこにも、ここにも、満ち満ちたる様に聞こえしが、これをなだめられば口惜しかるべし」なんど訴へ申されければ、樋口の次郎、また死罪にさだまりぬ。

同じく二十二日、新摂政殿、とどめられさせ給ひて、もとの摂政殿還着し給へり。わづかに六十日のうちにとどめられさせ給ふ。
いまだ見はてぬ夢のごとし。昔、粟田の関白は拝賀ののち七か日だにおはせしが、これは六十日のうちなれども、除目おこなはれ、節会もあり。思ひ出なきにはあらず。
同じき二十四日、!木曾左馬頭の首、
大路をわたさる。高梨の冠者、今井の四郎、楯の六郎、根の井の小弥太、長瀬の判官、総じて与党五人が首、同じくわたされけり。樋口の次郎、「すでに斬らるべし」と聞こえしかば、「!木曾殿の御首の御供せん」と所望申すあひだ、藍摺の水干、葛の袴、立烏帽子にてわたされけり。
同じき二十五日、樋口の次郎、
六条河原にてつひに斬られぬ。
『今井、樋口、楯、根の井とて、木曾が四天王のそのひとつなり。これらをなだめられば、虎をやしなふに似たり』と御沙汰あつて、つひに斬られけるとぞ聞こえし。

伝へ聞く、虎狼国おとろへ、諸侯蜂のごとくにおこり、沛公さきに咸陽宮に入るといへども、項羽が来らんことを恐れて、最愛の美人を犯さず、金銀珠玉を掠めず。ただいたづらに函谷の関をまぼつて、漸々に敵をほろぼして天下ををさむることを得たり。されば!義仲さきに都へ入るといふとも、慎んで頼朝が下知を待ちしかば、沛公がはかりごとには劣らざらまし。



[モクジ]

第百七句 剣の巻上 (オマケ)

神代よりつたはれる二つの霊剣あり。「十握の剣」「叢雲の剣」これなり。十握の剣は、素戔烏尊大蛇を切り給ひてのち、「天の蝿切の剣」と名づけらる。大和の国石の上布留の社にこめられたり。叢雲の剣は、のちに「草薙の剣」と号す。内裏にありて御守りたりしに、この度長く沈みて見えず。
それ神代といつぱ、天神のはじめ、国常立尊は色はありて体なし。虚空にあること煙のごとし。ただ天地陰陽の儀なり。国狭立尊より体はありて面目なし。豊?渟尊より面目ありて陰陽なし。第四より陰陽ありて和合なし。?土?尊、沙土?尊、大戸之道尊、大戸間辺尊、面足尊、?根尊等なり。

第七代伊?諾、伊??より、天の浮橋のもとにてはじめて和合のまじはりあり。下界なきことを思ひ、天の逆矛をもつて大海の底をさぐり給ふ。ひきあげまします矛のしただり島となる。「あは、地よ」とのたまへば、「淡路島」と申しけり。それより国々出で来り、山河草木生ひ長じ、また、「主なからんや」とて一女三男生み給ふ。
日神、月神、蛭児、素戔烏これなり。日神はこれ天照大神、国を譲り給へり。月神は月読尊、山と岳を譲り給ふ。
蛭児は五体不具なれば、天の浮船に乗せたてまつり、大海へ流されしが、摂津の国にかかつて、海を領ずる神となる。西の宮これなり。素戔烏は、「所分なし」とて遺恨あり。つひに出雲の国へ流され給ふ。

その国霧が崎、簸の川の上の山に、尾、頭八つの大蛇あり。背には苔むして眼は日月のごとし。年々に人を食す。親呑まれて子かなしみ、子呑まれて親嘆く。尊あはれみ見給へば、老人夫婦泣きゐたりけるがなかに、一人の美女あり。「いかに」と問ひ給ふに、「尉はこれ手摩乳、姥はこれ足摩乳、これなるが娘、『稲田姫』と申し候。かの姫大蛇がために今宵餌食にあひあたりぬれば、泣きかなしめり」と申す。尊、あはれにおぼしめし、「姫を得させなば、大蛇を従へん」とのたまへば、「子細にやおよび候」。やがてはかりごとをぞなされける。八つの槽に酒を入れ、中に高く棚をかき、つよく八重垣をかまへ、火をとぼし、あかりに姫をよそほへば、八つの槽に影うつる。これを飲みしうへは、大蛇、八岐ともに酔ひふしけり。
このとき、十握の剣をもつて、段々に斬り給ふに、一つ斬れざる尾あり。あやしみ見給へば、中に一つの霊剣あり。大蛇の尾にありしときは、つねに八色の雲立ちければ、「天の叢雲」と号し、国を、「出雲」と申すなり。さてこそ尊の歌に、
  八雲立つ出雲八重垣つまこめて
  八重垣つくるその八重垣を
それよりしてこそ三十一字ははじまりけれ。大蛇は風水龍王の天下りし、死してのち、近江と美濃とのさかひなる伊吹の明神これなり。
姫をばやがて尊へ参らするに、鬘(かづら)よそほひたる黄楊のつま櫛を、「かたみに」とて、うしろへ投げければ、夫婦これを取りてのち、ふたたびあはず。それより「別れの櫛」とは言ひつたへたり。尊は出雲の国へ宮居ましましき。今の大社これなり。
かの剣は、また天照大神に参らせられ、御仲なほらせ給ひけり。それより代々つたはりしを、第十代の帝、崇神天皇、「同じ殿にはおそれあり」とて、伊勢大神宮へうつしたてまつり給ひけり。十二代の帝、景行天皇四十年の六月、東夷そむけり。第二の皇子倭建尊、官軍を召し具して、同じき十月、都をたたせ給ひ、まづ伊勢大神宮へ参詣ある。御妹の斎の宮をもつて、「帝の御命に従つて
東夷にまかり向かふ」よし申し給へば、「つつしんで、怖るることなかれ」とて、叢雲の剣を賜はりけり。
これを帯いて下り給ふに、かの大蛇、なほいきどほりやまずして大路に伏しはびこる。「破りて通りがたし」とて、官軍みな帰りければ、「不破の関」とは申すなり。倭建尊、もとより剛にましませば、「君命そむきがたし」とて、一人踏み越え給ふ。御足ほとほりたへがたし。心に悲願をおこし、清水にひやし給へば、ほとほり醒めけり。「醒が井の水」これなり。

駿河の国まで攻め下りましますに、その国の凶徒、「狩野の遊び」と申しこしらへ、浮島が原へ具足し申し、四方の野に火をつけ、
「焼き殺したてまつらん」とせしとき、御剣にて三十余町の草を薙がれければ、すなはち燃え退きぬ。それよりしてこそ「草薙の剣」とは申したてまつる。
かくて三年のうちに東を攻めしたがへ、同じき四十三年癸未に帰りのぼらせ給ふが、御下りのとき、尾張の国松が小島といふ所の源太夫が娘岩戸姫に一夜の契りあさからずして、また、たち寄らせ給ふ。御悩つかせましまして、生捕の夷どもを武彦の宮に仰せて、帝へ奉り、近江の国千本の松原といふ所に悩み臥し給ひしを、岩戸姫心もとなくおぼしてたづねゆかれければ、尊うれしさのあまりに、「あは、つま」とのたまへば、東を「あづま」と名づけられけり。
尊はたち帰り、松の小島にてはて給へば、国を「尾張」と申すなり。白き鳥となりて、西をさして飛び去りぬ。「白鳥塚」これなり。
剣を田作りの記太夫といふ者が田なかの杉原に暫時寄せかけ置かれたれば、剣の光燃えたちて、杉みな焼けにけり。今の熱田これなり。倭建尊は大明神と現じ給ふ。岩戸姫も、源太夫も、田作りの記太夫も同じく神とぞ斎はれける。幡納められし所をば、「幡屋」と号して今にあり。頼朝、源氏の大将となるべきゆゑにや、かの幡屋にてぞ生まれ給ひける。
剣はそのまま熱田の宮にこめられしを、天智天皇七年に、新羅の帝より沙門道行を渡して、「この剣を盗まん」とせしを、住吉の明神蹴殺し給ふ。なほ望みをかけしゆゑ、生不動といふ聖に七つの剣を持たせ、日本へ渡さる。尾張の国へ着きしかば、熱田の明神蹴殺し給ふ。七つの剣、御剣にくはへて宝殿に斎はれけり。今の「八剣の大明神」これなり。天武天皇の御宇、朱鳥元年に内裏に納めたてまつり給ひ、「宝剣」と名づけらる。

昔はかうこそありしに、今海底に沈みし末の世こそうたてけれ。
つらつら事の心を案ずるに、大蛇の執着深かりければ、みな彼が化身にて、「剣をとらん」としてんげるにや。不破の関の大蛇も、沙門道行、生不動、みなこの化身なり。あまつさへ、わが朝の安天皇と生まれ、八歳の龍女の姿を示さんがために、八歳の帝王の体を現して、かの剣を取り返し、深く龍宮に納めけるとかや。


[モクジ]

第百八句 剣の巻下 (オマケ)


源家に二つの剣有り。「膝丸」「鬚切」と申しけり。人皇五十(六)代の帝、清和天皇第六の皇子、貞純の親王と申し奉る。その御子経基六孫王、その嫡子多田の満仲、上野介たりし時、源の姓を賜はつて、天下の守護たるべきよし、勅諚有りければ、まづよき剣をぞもとめられける。
筑前の国御笠の郡出山といふ所より鍛冶の上手を召されけり。
彼もとより名作なる上、宇佐の宮に参籠し、向後、剣の威徳をぞ祈りける。南無八幡大菩薩、悲願あに詮なからんや。他の人よりも、わが人なれば、氏子をまぼり給ふらめ、しからばかの太刀を剣となし、源氏の姓の弓矢の冥加長くまぼり給へ」と深く丹心をぬきんで、御社を出でにけり。
やがて都へのぼり、最上の鉄を六十日鍛ひ、剣二つ作りけり。いづれも二尺七寸なり。人を切るにおよんで、鬚一毛も残らず切れければ、「鬚切」と名づけらる。今一つは、もろ膝を薙ぎすましたりとて、「膝丸」と申すなり。

満仲の嫡子、摂津守頼光につたはりけり。かの時人多くかき消す様に失せければ、恐ろしかりしことどもなり。これを詳しく尋ぬるに、嵯峨の天皇の御宇、ある女有り。あまりにものを妬み、貴船の大明神に祈りけるは、「願はくは鬼(おに)となり、妬ましと思ふ者をとり殺さばや」とぞ申しける。神は正直なれば、示現あらたなり。
やがて都に帰り、丈なる髪を五つに巻き、松脂をもつてかため、五つの角をつくり、面には朱をさし、身には丹をぬり、頭に鉄輪をいただき、三つの足に松明を結ひつけ、火を燃やし、夜にだになれば、大和大路を南へ行き、宇治の川瀬に三七日ひたりければ、逢ふ者肝を消し、やがて鬼とぞなりにける。「宇治の橋姫」とはこれなり。
「にくし」と思ふ女の縁者どもを取るほどに、残りずくなく失せにけり。京中、申の刻よりのちは門戸を閉ぢて音もせず。
そのころ、頼光の郎等に渡辺の源四郎綱といふ者有り。武蔵の国箕田といふ所にて生まれければ、箕田の源四と申しけり。
頼光の使として、一条大宮につかはしけるが、夜陰におよび、馬に乗り、おそろしき世の中なればとて、鬚切をはかせらる。
一条堀川の戻橋にて、齢二十あまりの女房の、まことにきよげなるが、紅梅の薄絹の袖ごめに法華経持ち、懸帯して、まぼりかけ、ただ一人行きけるが、綱がうち過ぐるを見て、夜ふけおそろしきに、送り給ひなんやと、なつかしげに言ひければ、綱、馬より飛んでおり、子細にやおよび候ふべきとて、いだいて馬に乗せ、わが身も後輪にむずと乗り、堀川の東を南へ行きけるに、女房申す様、わが住む所は都のほか。おくり給はんや」「さん候」とこたへければ、「わが行く所は愛宕山ぞ」とて、綱が髻ひつ掴んで、乾をさして飛んで行く。綱はちともさわがず、鬚切を抜きあはせ、「鬼の手切る」と思へば、北野の社の回廊の上にぞ落ちにける。髻につきたる手を取つてみれば、女房の姿にては、雪の膚とおぼえしが、色黒く、毛かがまりて小縮みなり。
これを持参しければ、頼光おどろき給ひて、播磨なる晴明を呼びて問はれければ、「綱には七日のいとま賜はつて、仁王経を購読すべし」とぞ申しける。
第六日になる夜、門をたたく者有り。「たれ」と問へば、「綱が養母、渡辺よりのぼりたる」とこたふ。この養母と申すは、綱がためには伯母なり。
「人してはあしかりなん」とて、綱たち寄りて言ひけるは、「七日の物忌にて候へば、いづくにも一夜の宿を借り給ひて、明日入らせ給ふべし」と言へば、母、さめざめと泣き、「生まれしよりあらき風にもあてず、人だてし甲斐有りて、頼光の御内に、『箕田源四』とだに言ひつれば、肩を並ぶる者なし。
うれしきにつけても、恋しとのみ思へば、このごろはひとしほ夢見心もとなくて、のぼりたるに、門をさへひらかざりし。かかる不孝の咎なれば、神明もまぼり給はじ。七日の祈誓よしなし。今よりは子ともたのむべからず。親と思ふなよ」とかきくどき言ひければ、綱は道理にせめられて、「たとひ身はいかになるとも」とて、門をひらきて入れてげり。
来し方、行く末の物語りして、「さても物忌とは何事ぞ」と尋ねければ、隠すべきことならねば、有りのままに語る。母、「さほどのこととは知らずして恨みしことのくやしさよ。されども親はまぼりなれば、いよいよつつがなかるべし。さてその鬼の手といふなるもの、世の物語に見ばや」とぞ望みける。
綱は「見せじ」とは思へども、さきの恨みが肝に染み、深く封じたる鬼の手を取り出だし、養母に見せければ、「これはわが手ぞや」とて、おそろしげなる鬼になり、破風蹴破り、出でにけり。それより渡辺党は家に破風をたてず。あづまやにつくるなり。
鬚切、鬼を切りてより「鬼丸」と改名しけり。

また頼光、そのころ瘧病わずらはる。なかばさめたるをりふしに、空より変化の者下り、頼光を綱にて巻かんとす。枕なる膝丸抜きあはせ、切ると思はれしかば、血こぼれて、北野の塚穴のうちへぞつなぎける。掘りてみれば、蜘蛛にて有り。鉄の串にさしてぞさらされける。それより膝丸を「蜘蛛切」とぞ申しける。

頼光よりのち、三河守頼綱につたはる。天喜五年に頼光の弟、河内守頼信の嫡子、伊予守頼義、奥州の住人、厨川の次郎、安倍の貞任兄弟を攻めんとせし時、陸奥守に任ぜらる。宣旨にて鬼丸、蜘蛛切を頼綱が手より頼義に賜びにけり。かの太刀にて九年があひだに攻め従へ、貞任を首を切り、宗任をば生捕にし、上られけるが、丈六尺四寸なり。殿上人うち群れて、「いざや、奥の夷を見ん」とて行かれけるに、一人梅の花を手折りて、「やや宗任。これはなにとか見る」と問はれければ、とりあへず、
 わが国の梅の花とは見たれども
 大宮人はいかがいふらん
と申しければ、殿上人しらけてぞ帰られける。そののち筑紫へ流され、今の「松浦党」とぞ承る。

かくて頼義より嫡子八幡太郎義家につたはる。また奥州を賜はつて下りしほどに、出羽の国千福金沢の城に家衡・武衡とぢ籠りて、国を乱す。
義家向かつて、三年に攻め従へ、あはせて十二年の合戦に、朝敵ほろびぬること、二つの剣の威光なり。

義家の嫡子対馬守、「出雲の国に謀叛の者有り」とて、因幡の正盛を下され、かの国にて討たれしかば、四男六条の判官為義につたはる。十四にて叔父を討ち、左近将監に任ぜらる。十八歳にて、南都の衆徒の謀叛をたひらげ、栗子山の峠より追つ返し、あまさへ物具はぎなんどしけるも、剣の威徳とぞおぼえし。その時山法師聞きてかくぞ詠みける。
 奈良法師栗子山までしぶり来て
 いが物具をむきぞとらるる
奈良法師やすからざることに思ひける所に、山法師、阿波の上座といふ者にたばかられて禁獄せられたれば、これを栗子山の返答にかくなん。
 ひえ法師あはの上座にはかられて
 きびしく牢につがれけるかな
為義勧賞に右衛門尉になる。三十九にて検非違使になりて、陸奥守を望み申されければ、「頼義、義家、数年の戦ひ有り。門出あしければ他国を賜はるべし」と仰せ下さる。「先祖の国賜はらずして、なにかせん」とて、つひに受領せざりけり。
ある時、かの剣夜もすがら吠ゆる声有り。鬼丸は獅子の声なり。
蜘蛛切は蛇の鳴く声なり。かかりければ鬼丸を「獅子の子」とあらため、蜘蛛切を「吠丸」とつけらる。
為義、思ひ者あまた有りければ、男女四十六人の子なり。熊野に有りけるは、「鶴原の女房」とぞ申しける。その腹に娘有り。
白河の院熊野へ参詣有りし時、「別当は」御尋ね有りければ、「もとより候はず」と申す。
「いかにさることあるべし」と仰せ出だされければ、をりふし花そなへて籠りたる山伏を、院宣なればとて、らいぎ党、鈴木党がおさへてなしにけり。教真別当これなり。
「別当は重代すべき者なれば、子なくしてかなふまじ」とて、最愛を尋ねしに、「為義が鶴原の娘」とぞ聞こえし。
為義つたへ聞きて、ゆくへも知らぬ修行者をおさへて合はせられしこと、口惜しきことにして、不孝の子のごとし。かかりける所に、「源平国をあらそふべき」よし、遠国までも披露有り。
教真、この時「与力して、不孝をも許さればや」と思ひ、客僧、悪僧ら一万余騎にて、都にのぼりけり。為義聞きて、「氏、種、姓は知らねども、かひがひしく、ゆゆしし。さもあれ、おぼつかなし」とてねんごろに尋ぬれば、実方中将の末葉、系図、目録あざやかなれば、対面におよんで、吠丸をこそ引きにけれ。
教真別当これを賜はつて、「私宅に収むべきにあらず」とて、すなはち権現に籠め奉る。

昔より二つの剣なりしをひきはなち、心もとなくおぼえて、鍛冶の上手を召し、獅子の子を本にしてつくられければ、まさるほどにぞつくりける。目貫に烏をつくらせければ、「小烏」とぞ申しける。「すこしも違はず」といへども、獅子の子に二分ばかり長かりけり。
ある時二つの剣を、柄、鞘を取り、障子に寄せかけ、立てられけるが、からからと倒れあひ、同士討ちして、小烏が中子、さき二分ばかりうち切りて、同じ長さにぞなりにける。それより獅子の子を、「友切」とは呼ばれけり。

為義、二つの剣を嫡子下野守義朝にゆづられけり。
さるほどに、保元の乱れ出で来る。為義は、父子七人、院の御所へ参らる。義朝一人内裏へ召さる。保元元年七月十一日寅の刻より辰の刻まで三時のいくさに、新院負け給ふあひだ、為義東国へは単己無頼なれば下らず。
天台山にて出家して、「義法房」と申せしが、「されども子なれば見はなたじ」とて、嫡子義朝を頼み行かれけり。
朝敵なれば力およはず、義朝承つて斬られけるこそ口惜しけれ。同じく舎弟、為朝ばかり助かりて、五人は斬られぬ。腹々の子四人ともに殺さる。為朝は伊豆の国に流され、つひに討たれにけり。

今度の勧賞に、義朝左馬頭になされしが、やがて悪右衛門督信頼にかたらはれて朝敵となり、都を落ちし時、西近江、比良といふ所にて、八幡大菩薩を恨み奉る。「祖父義家は、大菩薩の御烏帽子子として、八幡太郎と号せしよりこのかた、『弓矢の冥加においては疑ひなし』と思ひしに、たのむ木のもとに雨もりて、やみやみと負けぬるこそ不思議なれ。ことに剣の威徳まで劣りはてぬるくやしさよ。今は放たせ給ふにこそ」とて、少しまどろみけるに、あらたなる示現有り。「われ放つにあらず。剣の威劣るにあらず。つ
ねに名をあらためけることは、剣の威かろんずればなり。ことさら『友切』の名詮自性は、味方滅ぶるにあひ似たり。なほも剣の名を昔にかへさば、末はたのもしからん」とて、夢ははてにけり。

義朝うちおどろき、すなはち昔の名にぞかへされける。「産衣」といふ鎧に「鬚切」そへて、頼朝にこそゆづられけれ。十二歳。いくさの場よりして、かの太刀、鎧を着せしは、末代の将軍と見なし給ふぞ奇特なる。

塩津の庄司がもとに一宿し、東近江へ道しるべせられ、「鈴鹿の関、不破の関はふさがりぬ。討手下る」と聞こえしかば、雪山に分け入りぬ。悪源太義平は、飛騨の国へ落ち行きぬ。頼朝はいとけなければ、大雪を分けかねて、山の口にとどまる。義朝は朝長を召し具して、美濃の国青墓の長者が宿所へ行かれしが、朝長は痛手なれば、自害しつ。尾張の国長田の庄司忠致をたのまれしに、長田、甲斐なく討ち奉り、御首に小烏あひそへて、平家の見参に入りしより、小烏は平家の剣となりにけり。

頼朝は、雪山を出でて、東近江、草野の尉にやしなはれ、御堂の天井に隠されしが、をさなけれどもかしこくて、「われつひにはさがし出だされなん。剣を平家に取られじ」と思ひ、草野の尉を深く頼み、母方の祖父なればとて、熱田の大宮司にあづけけり。
清盛の舎弟三河守頼盛、今度の勧賞に尾張守になり、弥平兵衛宗清を下さる。
頼朝をさがし取つてのぼりければ、やがて宗清にあづけらる。頼盛の母の尼公、死罪を申しなだめ、伊豆の国北条の蛭が小島へ流され、三十一と申す治承四年の夏、一院の宣旨をかうぶりて、謀叛をおこされし時、熱田の宮より申し乞ひ、鬚切を帯き、五畿七道を従へ給ふ。

牛若、その時当歳なり。九つの年より鞍馬へのぼり、東光房円忍の弟子、覚円房に学問し、遮那王と言ひけるが、十六と申す承安四年の春、五条の橋の辺なる末春といふ商人と東へ下り、道にてみづから元服して、源九郎義経と名のり、権太郎秀衡を頼みしが、舎兄の与力としてのぼるほどに、合沢にて行き逢ひけり。
木曾を誅戮し、摂津の国一の谷へ向かはんとす。ここに熊野の教真が子に、田辺の湛増、「源氏は母方なれば」とて、為義の手より渡されし膝丸を引きて、見参にこそ入りにけれ。熊野より春の山を出でたればとて、名をば「薄緑」とあらためらる。
山陽、山陰、南海、西海、源氏につくも、しかしながら剣の威徳とぞおぼえし。義経、鎌倉へ下らんとせし時、梶原が讒言によつて、かへり上られけるに、剣を箱根に籠められけり。

建久四年五月二十八日の夜、曾我兄弟が夜討の時、箱根の別当行実が手より兵庫鎖の太刀を五郎に得しは、この薄緑なり。されば名を後代にあげしとかや。その時鎌倉に召され、鬚切、膝丸一具にして、つひにまはり逢ひければ、まことは源氏の重代と、奇特不思議の剣なり。



[モクジ]

第百十七句 義経都落ち (オマケ)

【義経御下し文申請けらるる事】
同じく十一月一日、伊予守、院の御所へ参り、大蔵卿泰経の朝臣をもつて申されけるは、「義経こそ、鎌倉より討たるべきにて候へ。宇治瀬田の橋をも引きて、しばし支へべく候へども、君の御為心苦しく候へば、西国の方へ落ち行かんと存じ候ふ。度々朝敵を平げ候ひし忠功、いかで か御忘れ候ふべき。鎮西の者共に心を一つにして、合力すべきよし、院庁の御下文を賜はり候はばや」と申しければ、法皇おぼしめしわづらはせ給ひて、大臣公卿に此のよしを仰せ合せらる。
人々申されけるは、洛中にて合戦つかまつらば、朝家の御大事たるべし。逆臣京中を出だしなば、おだしき事にこそ候はんずれと、諸卿一同に申されければ、法皇さらばとて、やがて庁の御下文をなされけり。
同じき三日卯の刻に、伊予守、叔父三郎先生義教、十郎蔵人行家、鎮西の住人、緒方の三郎維義相具して、その勢三百余騎、都に一つのわづらひをなさず、西国へこそ落ち行きけれ。
摂津の国の源氏太田の太郎頼基、手島の冠者頼季、是を聞き、九郎判官の西国へ落ち行きけるを、矢一つをも射ずんば、鎌倉の聞こえあしかりなんとて、三百余騎にて追つかけたり。伊予守宣ひけるは、「きたなし。殿原返し合せて一合戦せよ」と有りければ、兵どもとつて返し、喚いて駆く。
太田の太郎、手島の冠者は、人目ばかりに矢一つ射懸けて引きのかんとしける所に、手痛う駆けられて引き退く。伊予守、事の手合せ、門出好げなり。うてやうてやとて、その日摂津の国
大物の浦にぞ着き給ふ。それより船に乗り押し出だす。
平家の怨霊強かりけん、にはかに西風はげしく吹きて、頼みつる三郎先生、十郎蔵人、緒方の三郎が乗つたる船どもは、いづくの浦にか吹き寄せけん、行き方知らずぞなりにける。

【同じく吉野の奥に赴かるる事】
判官の船も、同国住吉の浦に吹き寄せらる。
都より召し具せられたる女房ども、十余人、住吉の浜に捨て置きて、静ばかり召し具して、その勢二十余人、大和の国吉野の奥へぞ落ちられける。
捨て置かれたる女房共、 あるいは松の下、あるいは砂の上に、袴ふみしだき、袖を片敷き泣き伏しける。人是を哀み、京へ送りけり。

【同じく奥州へ下らるる事】
吉野法師此の事を聞いて、「九郎判官の此の山に籠りたんなる。いざや討ち取り、鎌倉殿の見参に入らん」とて、弓矢兵杖を帯し、数百人攻め来たると聞こえしかば、伊予守、吉野山にも跡とめず、ふせぎ矢射させ、吉野山をも落ち、その年は都ほとりに忍び給ひけるが、文治二年の春のころ、秀衡を頼みて、奥州へ落ち行かれけり。

同じく十一月七日、北条の四郎時政、六万余騎にて都へ入 る。やがてその日院参して、義経行家義教等が謀叛の由奏聞す。たちまち誅 戮すべきの旨、院宣を下さる。去んぬる一日は、義経申すによつて、鎮西の将軍たるべき御下文をなされ、同じき七日には、頼朝申さるるによつて、義経追罰すべき旨、院宣を下さる。朝に変り夕に変ずる世の中の不定こそ口惜しけれ。

又諸国に守護を置き、庄園に地頭をなし、反別兵粮米宛ておこなふべきよし奏聞す。
法皇おぼしめしわづらはせ給ひて、太政大臣以下の公卿に此のよしを仰せ合せらる。人々申されけるは、帝王の怨敵を滅ぼしつる者は半国を賜ふと言ふ事、無量義経に見えたり。されどもいまだ我朝にその例無し。
源二位殿申し状過分なりと君も臣も仰せられけれども、源二位殿重ねて申されければ、文治二年十一月二十日、頼朝の卿、日本国の大将兼地頭に補せらる。いまだ先例無き恩賞なり。
吉田の大納言経房の卿をもつて、か様の事申されけり。此の大納言は何事につけても、直き人と聞こえ給へり。平家に結ぼふれたつし人ども、源氏の強りし後は、脚力を下し、文を遣はし、様々関東をへつらひ給ひしかども、此の大納言は一度の事も悪びれ給はず。此の大納言と申すは、権右中弁光房の子なり。十二にて父に遅れ給ひておはせしかば、次第の昇進とどこほらず、夕郎貫首を経て、参議大弁、中納言、太宰帥、遂に正二位大納言に至り給ふ。世の中の善悪は錐袋を脱するがごとし。

【三郎先生十郎蔵人討手の事】

十郎蔵人は天王寺に有りと聞こえしかば、北条、討手を下す。信濃の国の住人家原の九郎、常陸の国の住人石間の太郎二人、百騎ばかりにて天王寺に下る。窪の雅楽頭兼春がもとに有りと聞こえしかば、そこを寄せてさがすになし。
兼春、娘二人有り。ともに行家の思者なり。いかでか知るべきなれ共、具して京へぞ上りける。
十郎蔵人は、郎等一人具して、徒立ちにて天王寺を立ち出でて、
熊野の方へと落ち行く程に、一人下部がいたはる事有りて、行きもやらざりければ、和泉の国八木の郷と言ふ所に逗留す。
亭主の男が見知りて、急ぎ都へ上り、申しければ、北条やがて討手を下さる。山僧に西塔の北谷の法師、常陸房昌明と言ふ悪僧呼びて、「あつぱれ御辺、十郎蔵人殿の和泉の国におはすなる、討ち奉りて、鎌倉殿の見参に入り給へかし」と言ひければ、常陸房、「さ候はば勢を賜はつて下り候はん」と申す。忍びておはすなれば大勢にてはかなふまじ。小勢にて下るべし。雑色大源次宗安と言ふ大男をはじめとして、下部十四五人ぞ付けられける。

天王寺へ下るには、摂津の国を経て行くを、常陸房は河内路を経て馳せ下る。和泉の国
八木の郷に下り着き、件の家をさがすに無し。板敷放ち、天上さがせ共なかりけり。昌明、門に立ちゐたりけるに、百姓の妻かとおぼしき女の通りけるに問へども知らずと申す。知らぬ事はあるまじと、荒けなく問ひければ、よに尋常なる人のただ二人あれなる家にと教へける。
十郎蔵人は、小袖に大口ばかりにて、紺の直垂着たる男と酒愛せんとする所に、昌明、黒革威の腹巻に、四尺二寸の太刀を抜ぎ飛んで入る。男逃げゆくを、常陸房追つかくる。是は行家の郎等也。
十郎蔵人是を見て、「
行家は我なるぞ。返せ」と宣へば、常陸房とつて返す。
蔵人、草摺のはづれを切られければ、かなはじとや思ひけん、太刀を捨ててむずと組む。互ひに大力、勝負なかりしに、大源次宗安、礫にてちやうど打つ。下郎なればとてさる例やあると宣へば、足に縄をかくるとて、あまりにあわでて二人が四つの足をぞ結うたりける。かかりければ、下部共出で来たり、様々にして搦めてけり。
十郎蔵人、「御房は頼朝が使か、北条が使か」と問はれけるこそ神妙なれ。急ぎ具して上る程に、渡辺にて北条の子息、時房のおぼつかなさに下られけるに行き逢うたり。
昌明安堵して、その夜は江口の長者がもとにぞとどまりける。次の日北条、
赤井川原に行き向かつて首を刎ねてげり。

兄の信太の三郎先生義教は、伊賀の国
千戸と言ふ山寺におはしける が、当国の住人服部平六時定と言ふ者に取りこめられて、自害してんげり。
服部やがて首を取り、鎌倉へ下る。此の服部と申すは、平家祗侯の者なりしが、本領伊賀の服部をぞ返し賜びにける。
常陸房は十郎蔵人の首持ち、鎌倉へ下る。神妙なりとは宣へ共、大将軍討ちつるその恐れとて、武蔵の国葛西へ流されけり。
されども咎なければ、次の年赦免有りて、但馬の国太田の荘、摂津の国土室の荘、此の二箇所を昌明にこそ賜はりけれ。



[モクジ]


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