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木曽軍武将

◆河内源氏
源義仲
源行家
源義広
源義重

◆信濃国中原氏
(+木曽)
中原兼遠
樋口兼光
今井兼平
落合兼行


藤太兼助
与次・与三
木曽中太・弥中太
検非違所八郎
東十郎禅師
金剛禅師

◆信濃国滋野党
根井行親
楯親忠
矢島行忠

海野行広
海野幸氏
望月国親
望月重義
望月重隆
根津信貞
根津貞行
小室光兼
小室真光
大室太郎

円子秀資
櫻井行晴
塩田高光
石突次郎
平原景能
依田実信

信濃国
井上光盛
村山義直
栗田範覚
仁科盛弘
仁科盛家
高梨高直
高梨高信
片桐為安
長瀬重綱
村上信国
成合
小林次郎
岡田親義
岡田重義・久義

◆信濃国諏訪神党
茅野光広
藤沢親貞
藤沢清親
金刺盛澄
手塚別当
手塚光盛

越中国
石黒光弘
高楯光延
泉光興
水巻安高・安経
福満光久
宮崎長康
入善行重
南保家隆
向田村高
中村忠直
福田範高
吉田四郎
賀茂島七郎
千国真高
野尻太郎
河上太郎
蟹谷二郎

越前国
疋田俊平
疋田俊弘
稲津実澄
斎明
斎藤太
大見光能
本庄
樋口

加賀国
林光明
今城寺光平
倉光成澄
倉光成氏
富樫入道
冨樫家経
安江盛高
新三郎家員
下田
井家範方
太田兼定
入江親定
津波田三郎

能登国
土田

日置

越後国
越後能景
越後家光

◆?
二河頼重
淡路宗弘
左近五郎
岡津平六
城兄弟
佐竹

上野国
多胡家包
那和弘澄
物井五郎
小角六郎
西広助
高山重遠
小林重幸
秩父重隆
河越能隆

◆下野国
矢田義清

◆大和国
太夫坊覚明

相伴/他
土岐光長
大見光能
多田行綱

山田重弘
泉重忠
高田重家
浦野重遠
葦敷重澄

武田信義
安田義定
山本義経
錦織義高
柏木義兼


◆女子
山吹
唐糸

県妻



源義仲
(みなもと の よしなか)


河内源氏。木曽次郎。左馬頭、伊予守、朝日将軍。帯刀先生源義賢の次男。
木曽で中原兼遠に養育され、近隣武士団とのよしみが深いので信濃源氏とも。(根井氏や諏訪金刺氏の養子になっている)

治承4年(1180年)、以仁王の令旨を受け挙兵。
麻績や市原で小戦闘しつつ信濃国を支配下におき、父の知行地だった上野・武蔵国で募兵。北陸に勢力を延ばして実質的には砺波合戦から北陸の武士団を従える。頼朝とは協調の態度を取るが配下ではなく独立、叔父を一因とした不和により鎌倉軍と対峙するが、嫡男・義重を人質に出して戦闘回避している。

横田河原合戦、砺波合戦(倶利伽羅峠)、安宅・篠原合戦等で官軍(平家軍)と戦い、これを撃破。主に少ない人数を多く見せるゲリラ戦法を得意とした。

比叡山の協力を得、後白河院を奉じて入京。これにより平家は都を離脱。
平家専横の上に前年の飢饉の影響で京は荒廃しており、さらには叔父・行家の讒言や皇位への口出し(北陸宮の一件)などの越権行為により後白河院の信用を失う。義仲は苦渋の決断で、平家追討の院宣を実行すべく西国へ下るが、この間にすでに頼朝と後白河院のあいだで交わされた密約により、義仲追討の院宣が出される。これにより範頼・義経率いる鎌倉軍が東海道から京へ迫った。
木曽軍は京へ取って返し、後白河院と後鳥羽天皇を拉致、クーデターを起こすが賛同する武将は少なく、北陸他武士団の不信任で兵力も失い、鎌倉軍により京を追い落とされ近江国の粟津にて討死。


国立国会図書館 近代デジタルライブラリー「尊卑文脈」
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=52010882&VOL_NUM=00009&KOMA=24&ITYPE=0






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源行家
(みなもと の ゆきいえ)


河内源氏。新宮十郎、新宮行家とも。
同母の姉が熊野の新宮別当家嫡流・行範に嫁ぎ、その姉について熊野新宮に住した。初めは義盛(よしもり)といったが八条院蔵人に補任された折に改名。

保元の乱には熊野におり参戦しなかったとみられる。
平治の乱(1159年)で兄・義朝について参戦。敗戦後、熊野に逃れ雌伏。

京に密かに戻っていた所を源頼政の肝入で、治承4年(1180年)以仁王の令旨を全国の源氏にもたらした。
養和元年(1181年)自身も墨俣川・矢作川で平家方と合戦し惨敗(墨俣合戦)。頼朝に敗戦は物量不足だとして所領を求めたが却下され、以後鎌倉には戻らず甥の源義仲の元に身を寄せる。

この叔父を引き受けた事が義仲と頼朝の不和の原因になり、義仲は身代わりに嫡男・義重を人質として頼朝に差し出す。
入京後は後白河院に取入り、讒言で義仲を追い落とそうとする。
木曽軍滅亡後、義経と手を組み頼朝追討の院宣を下されるが、従う者もなく失敗。河内国に潜伏中、密告によって北条時定の手の者に捕縛され、次男・家光、三男・行頼とともに斬首。





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源義広
(みなもと の よしひろ)


河内源氏。志田三郎先生。帯刀先生。
名は義範、義憲(よしのり)とも。義賢とは同母(尊卑分脈)。
常陸国信太庄(茨城県稲敷市)に住した。
保元の乱(1156年)には参戦しなかったとみられる。

寿永2年(1183年)、下野国の足利俊綱・忠綱父子と共に鎌倉に対して2万の兵を挙げるが、小山朝政軍に敗戦(野木宮合戦)。その後木曽軍に参加し、宇治川合戦まで参戦し義仲敗死前後に離脱。
元暦元年(1184年)、伊勢国羽取山で鎌倉方の波多野盛通・大井実春らと交戦、捕虜となり斬首(吾妻鏡)。

義仲の父と同母弟だったこともあってか、義仲に対し好意的な印象。対して頼朝とは常に対立姿勢にあり、義仲と頼朝の不仲の原因は行家ではなく義広だった(吾妻鏡)ともいわれる。





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源義重
(みなもと の よししげ)


河内源氏。清水(志水)冠者。義高(吾妻鏡)、義基(尊卑分脈)とも。源義仲の嫡男。

父・義仲は、源頼朝と対立していた叔父・源行家を木曽軍で庇護したのが一因で(または武田信光の讒言とも)頼朝率いる鎌倉軍と熊坂山で対峙、義重が人質になる(名目上は頼朝の長女・大姫の夫とする)事で和解した。
これにより海野・望月・諏訪・藤沢の年齢の近い子弟を付けられて鎌倉に下り、大姫と暮らしその仲は円満だったという。
しかし義仲が鎌倉軍により敗死した事で状況は一変、義重は逃走を試みるも武蔵国・入間河原で捕縛、その場で討ち取られた。





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中原兼遠
(なかはら の かねとお)

信濃豪族・中原氏。木曽中三(=木曽に住する中原三郎)、権頭。
源義仲の乳母の夫(=後見人)。
元は荘園管理官か、朝廷の地方派遣官吏(国司)だったとされ、土着し信濃国木曽に勢力を広げたと思われ。中央貴族の中原氏との関係性は不明。

源義賢を通じて摂関家との便宜の足がかりとしての乳母夫かとも思われるが大蔵合戦で義賢討死、その後保元の乱で義賢と関係のあった藤原頼長も敗死。
大蔵合戦の後、斎藤実盛らによって逃がされてきた義仲を二十歳まで木曽で密かに養育した(延慶本)。
義仲の秘匿に不信を持った平家は、兼遠を京へ召し出し義仲を差し出すよう起請文を書かせたが、その命には従わなかった(盛衰記)。その直後、世間をはばかり義仲の後見を信濃豪族・根井幸親に託して物語から姿を消す。





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樋口兼光
(ひぐち かねみつ)

信濃豪族・中原氏。中原兼遠の子、次郎。
信濃国筑摩郡樋口谷(長野県松本市)に住したという。
源義仲の乳母子。木曽四天王の一人。

武蔵国児玉党と婚姻関係があり武蔵国に赴いていた。
旗揚げ後は木曽義仲に付き従い北陸各地を転戦。砺波山合戦の奇襲部隊での活躍や、斎藤実盛の首実検エピソードで有名。
入京後は留守居役を任され後白河院や行家の動向を監視。
寿永4年(1184年)、義仲から離反した源行家・義資父子を討伐するため河内国石川へ出発。義仲敗死の報せを聞き帰京し児玉党の説得により投降。源義経の取次ぎで児玉党から助命嘆願が出されたが朝廷は許可せず、義仲らの首と共に市中を渡され、六条河原にて渋谷高重により斬首。






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今井兼平
(いまい かねひら)


信濃豪族・中原氏。中原兼遠の子、四郎。
信濃国筑摩郡今井(長野県松本市)に住したという。
源義仲の乳母子。木曽四天王のひとり。

木曽義仲に付き従い、北陸各地を転戦。横田河原、般若野、砺波(倶利伽羅峠)、安宅篠原で常に一軍を率い、めざましい働きを見せた。
入京の後、平家追討に向かう途中に備前国で返忠の妹尾兼康と交戦(福隆寺畷合戦)。その直後、政局異変の知らせを受けて義仲と共に帰京し、法住寺合戦、宇治川合戦まで義仲から大きく離れる事なく戦い、近江国粟津で最期を共にする。






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落合兼行
(おちあい かねゆき)


五郎。美濃国落合に住した。*信濃国佐久郡の落合に住したとも
出身は中原氏とも、根井氏ともいわれる(盛衰記、尊卑分脈)。

常に中原(樋口兼光など)か根井一族とパーティを組んで戦闘に参加している。
治承4年(1180年)の源義仲挙兵時より参戦したと思われ、白鳥河原の勢揃〜横田河原合戦(盛衰記)、砺波合戦・篠原合戦などに参戦。







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(ともえ)


鞆、鞆絵とも。一般的に巴御前と呼ばれる。
通説では信濃豪族・中原兼遠の娘、源義仲の妾。尊卑文脈には「今井女」とある。

砺波合戦では一軍の将として参戦(盛衰記)。
便女(身の回りの世話役)として義仲に付き従ったという。平家物語には「容貌優れ、乗馬技術に長け、弓・刀、素手でも敵う者のない女武将」として描かれ、「木曽の最期」では最後の5騎のうちの1騎まで残ったほど強い。
吾妻鏡や玉葉に記載のない事から実在の活躍は怪しむべきだが、女武将の存在は板額御前の例もあるので可能性はある(板額のオマージュ説もある)。
個人的には、中原氏→木曽殿の戦目付的な役割?とも思う。







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藤太兼助



延慶本に「木曽郎等二藤太左街門兼助」の名が見える。
盛衰記には藤太左衛門尉兼助とあり、宇治川の合戦で熊谷直実に挑発されて戦い討死。

名前どおりなら藤原氏族の長男(太郎)、しかも左衛門尉なら六位以上の官位(佐藤義清=西行と同等の身分)と思われるが…








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与次(よじ)
与三(よざ)


保元物語に、為朝二十八騎のうちの「手取与次」「鬼田与三」として登場し源為義方で戦い、討たれている。
これが死に至らず戦線離脱し回復していたと考えれば、義朝とは仇となるので木曽軍に参戦した可能性もなくはない…(←多少強引)
肥後国手取の出身。*為朝家人であった場合

また、「手取り」は敵を生捕りできるくらい強い、「鬼田」は鬼のように強い、といった意味程度ともいわれている。

当然ながら保元物語の人物とは別人、物語上の創作ということもありうる。
さらに穿った説を立てるなら、長野県南佐久郡佐久穂町に「余地(よち)」という土地があるので、たとえば「余地与三」というめんどくさい名前で根井氏族と関係のある家人だったのかもしれないという仮説も立てられる…





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木曽中太
弥中太


保元物語に、源義朝方の武者「木曽中太」「弥中太」として登場し、根井大弥太の元で奮戦。
中原兼遠=木曽中三と称していることを前提として、木曽中太と称しているので「中原の太郎」とみる事もできる。
弥中太は木曽中太の長男。ちなみに「弥」には「ますます」といった意味がある。






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検非違所八郎
(けんびしょ の はちろう)


検非違使(=警察官)所。けびいしどころとも読む。詳細不明。
信濃国に置かれた検非所に属したのでこう名乗ったと思われ…







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東十郎進士禅師



詳細不明。盛衰記の横田河原での勢揃で木曽一党に名が見える。真言宗派の悪僧と思われる。
進士とあるので元は学僧か。* 進士=文章学生。







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金剛禅師
(こんごう ぜんじ)


詳細不明。盛衰記の横田河原での勢揃で木曽一党に名が見える。
真言宗派の悪僧と思われる。







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◆滋野党


根井小弥太滋野行親
(ねのい の こやた しげの ゆきちか)


滋野氏。信濃国武士団・滋野党頭領。大弥太(保元物語)、次郎。
信濃国根井に住した。
根々井、幸親と表記される事も。海野幸親と別人説もある。

保元の乱に源義朝に従い参戦している。保元物語には根井大弥太と書かれており、信濃国武士の主導をとった。(「白河夜討」で同国の住人宇野太郎、望月三郎、諏訪平五、進藤武者、桑原ノ安藤次、安藤三、木曽中太、弥中太、根津神平、静妻小次郎、熊坂四郎をはじめ二十七騎が続いたという記述がある)

中原兼遠より源義仲の後見を頼まれ、挙兵時から参戦。木曽四天王の一人に数えられる。
水津合戦で先陣として出撃、平通盛経正軍を退却させ、また横田河原合戦、倶利伽羅(砺波)合戦、安宅合戦など一軍を率い転戦。
入京後も法住寺合戦や福隆寺畷合戦に参戦し(覚一では妹尾追討にも)、義仲に終生従い宇治川合戦で討死(盛衰記では行方不明)。








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楯親忠
(たて の ちかただ)


滋野氏。六郎。根井行親の子。
信濃国小県郡館に住したといわれる。
木曽四天王のひとり。

治承4年(1180年)の源義仲挙兵時より参戦し、木曽四天王の一人に数えられる。
白鳥河原の勢揃いより名がみえ(盛衰記)、横田河原では斥候に出て義仲の代官として願書を奉納(延慶・長門)のほか、砺波合戦→志雄合戦、安宅合戦に参戦、法住寺合戦では天台座主明雲を射殺(延慶・長門・盛衰記)。義経軍との合戦でも木曽殿とおちあって六条河原で戦っており、討死。








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矢島行忠
(やしま の ゆきただ)


滋野氏。八嶋、行綱(覚一)とも。四郎。根井行親の子。楯親忠の弟(盛衰記)。
信濃国小県郡矢嶋に住したといわれる。

治承4年(1180年)の源義仲挙兵時より参戦。
白鳥河原の勢揃い、法住寺合戦などに名がみえる(盛衰記)。
盛衰記では「根井四郎行親」という誤記?もあり父や兄など混同されていたかもしれない。








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海野幸広
(うんの ゆきひろ)


滋野氏。弥平四郎。行弘、行平、また宇野と誤記されることもある。
海野幸親の子か。信濃国小県郡海野に住した。

治承4年(1180年)の源義仲挙兵時より参戦。横田河原・安宅・志雄合戦を転戦し、水島合戦では侍大将として赴き、平教経と戦い討死。
木曽義仲の嫡男・義重(義高)が鎌倉に人質として下った際に付き従った幸氏の父。







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海野幸氏
(うんの ゆきうじ)


滋野氏。小太郎。宇野(盛衰記)とも。
信濃国小県郡海野に住した海野幸広の嫡男。

源義仲挙兵時より父と共に参戦し、義仲の嫡男・義重源頼朝の人質とされた際一緒に鎌倉に下った(他に望月、諏訪、 藤沢各氏からも子弟を従わせた)。
幸氏は義重と同年齢といわれ、義仲敗死の情報を得ると、義重死罪の命が下る事を察して身代わり役になり義重を逃がす。
義重は討たれたが、この一件で幸氏は鎌倉の御家人に取り立てられ、弓の名手として出世し「弓馬四天王」武田信光・小笠原長清・望月重隆と並び称された。
文治6年(1190年)の弓始に参加したのをはじめ、建久4年(1193年)富士裾野牧狩で藤沢二郎、望月三郎、祢津二郎らと共に弓の名手と賞され、曽我兄弟仇討の一件では頼朝の護衛役を務め負傷、建暦3年(1213年)の和田合戦、承久3年(1221年)の承久の乱にも参戦し名がみられる(吾妻鏡)。








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望月国親
(もちづき くにちか)


滋野氏。次郎秀包とも。従六位上左衛門尉。望月国重の次男、兄に根井行親
信濃国佐久郡望月に住し、信濃最大の勅旨牧・望月牧の経営を行い軍馬育成に務めた。

源義仲挙兵時より子の次郎重義、三郎重隆と共に参戦。










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望月重義
(もちづき しげよし)


滋野氏。次郎。父は望月国親
信濃国佐久郡望月に住した。
源義仲挙兵時より父・国親と共に参戦。白鳥河原布陣に望月次郎の名がみえる(盛衰記)。
義仲敗死後には鎌倉御家人となっており、吾妻鏡の建久四年四月の項に弓馬の達人の一人として選出されている記述がある。






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望月重隆
(もちづき しげたか)


滋野氏。三郎。望月国親の子。
源義仲挙兵時より父・重義と共に参戦。

義仲の嫡男・義重が源頼朝の人質にされた際、海野幸氏らと一緒に鎌倉へ下った。
木曽殿敗死後、鎌倉の御家人に取り立てられ、弓の名手として出世し「弓馬四天王」として海野幸氏・武田信光・小笠原長清らと並び称された。








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祢津貞信
(ねづ さだのぶ)


滋野氏。根津とも。浦野三郎。信貞(盛衰記)。父は祢津泰平(貞直)。
信濃国小県郡祢津(長野県東御市祢津)に住した。

横田河原合戦に参戦。
義仲敗死後は鎌倉の御家人に取り立てられ、弓の名手として出世した(吾妻鏡)。







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祢津貞行
(ねづ さだゆき)


滋野氏。根津とも。五郎。盛衰記には次郎貞行。父は祢津泰平(貞直)。
信濃国小県郡祢津(長野県東御市祢津)に住した。

兄・貞信と共に横田河原合戦に参戦。







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小室光兼
(こむろ みつかね)


滋野氏。太郎。小諸、忠兼(盛衰記)とも。
信濃国小県郡小諸に住す。

白鳥河原の勢揃〜横田河原合戦に参戦(盛衰記)。
北陸進軍には加わらず、鎌倉の軍門に下ったとみられる。鎌倉の御家人に取り立てられ、木曽殿の妹(または娘)・宮菊の後見を仰せつかる(吾妻鏡)。








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小室真光
(こむろ さねみつ)


滋野氏。小諸、実光とも。小太郎。忠兼(光兼)の子。
信濃国小県郡小諸に住す。
横田河原合戦に父と共に参戦。







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大室太郎



信濃国大室(長野県松代町大室)に住したとみられる。
鎌倉時代には別の氏族が大室に住し大室(室)を名乗っているので注意が必要。

白鳥河原の勢揃えに名が見える(盛衰記)。






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円子秀資
(まるこ ひですけ)


丸子とも。小中太。
信濃国小県郡丸子に住した。
詳細不明。
倶利伽藍峠では依田次郎隊として参戦(盛衰記)していることから、依田氏の血縁があったと思われる。






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櫻井行晴
(さくらい ゆきはる)


桜井とも。太郎、次郎。滋野党、神家党と関係がある。
信濃国佐久郡桜井に住した。

横田河原合戦より兄弟で参戦。







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塩田高光
(しおた たかみつ)


八郎。
信濃国小県郡塩田庄に住した(五加に居館址)。*塩田庄は最勝光院領(建春門院建立/東寺別当)

横田河原合戦より参戦。白鳥河原の勢揃いで名がみえる(盛衰記)。







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石突次郎
(いしづき じろう)


詳細不明。
横田河原合戦に名が見える。

ちなみに石突=刀や槍などの柄の先端部を保護する金具。
通称とすれば殿防御に長けていたとか?








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成合
(ならい)


詳細不明。
名字からみて尾張国成合の出身か、もしくは信濃国奈良井に住した武士と思われる。
志雄合戦に「成合」とだけある。







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平原景能
(ひらはら かげよし)


次郎。
小諸市平原に地名と平原城址があるが、関係性は不明。







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依田実信
(よだ さねのぶ)


清和源氏満快流、または滋野氏分家。余田とも。次郎大夫。好行。依田為実の猶子(諏訪氏とは遠縁)。
信濃国小県郡依田庄に住した。*依田庄は前斎院領=式子内親王領

源義仲の進軍拠点として依田城を提供。砺波合戦にも一隊を率いた大将としてその名が見える(盛衰記)。








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井上光盛
(いのうえ みつもり)


清和源氏頼季流(信濃源氏)。井上氏(保科党)。九郎。光基とも(盛衰記)。
信濃国高井郡井上に住した。

横田河原合戦に保科党(星名党とも)300騎を率いて参戦、敵を欺く策を打ちだし見事勝利した。その後、源義仲源頼朝の間に不和が生じると、武田氏と共に鎌倉方につく。*盛衰記では山門超牒状で会議に出ている
鎌倉の御家人となるも、元暦元年(1184年)源頼朝の密命により甲斐源氏の一条忠頼と共に駿河国蒲原駅で誅殺される。






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村山義直
(むらやま よしなお)


清和源氏頼季流という。井上氏(保科党)。七郎。
信濃国水内郡村山(篠ノ井山布施村山とも)に住した。

市原合戦で栗田寺別当範覚(保科党)と共に、木曽に侵攻してきた平家方の笠原義直と交戦。勝敗決せず源義仲に援軍を要請、木曽軍到着により笠原軍を退却させた。








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栗田寺別当範覚
(くりたでら べっとう はんがく)


信濃栗田氏(河内源氏)。別当。保科党。
信濃国水内郡栗田に住したという。

村山義直と共に木曽に侵攻してきた平家方の笠原義直と交戦(市原合戦)。源義仲に援軍を要請し勝利を得る。以後義仲に従ったとみられる。
範覚は寛覚、あるいは寛範の間違いという。








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仁科盛弘
(にしな もりひろ)


信濃豪族。太郎。守弘とも。父は高梨盛光。子または弟に仁科盛家。
信濃国安曇郡仁科に住した。

横田河原合戦、砺波山合戦に参戦。
覚一本では必ず「仁科、高梨、山田次郎」の3点セットで登場。








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仁科盛家
(にしな もりいえ)


信濃豪族。次郎。盛宗とも。兄(または父)に太郎盛弘。
信濃国安曇郡仁科に住した。後に東条庄山田郷に住し山田次郎と名乗ったともいわれる。

横田河原合戦、砺波山合戦に参戦し、覚一本では必ず「仁科、高梨、山田次郎」の3点セットで登場。
入京後、京中守護のなかに仁科二郎盛家の名が見える。
水島合戦に高梨高直と共に参戦し、宇治川合戦では根井・楯らと共に仁科・高梨も総勢300騎で宇治に向かい、明確には描かれていないが根井らと討死(盛衰記)。








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高梨高直
(たかなし たかなお)


信濃豪族。六郎。忠直とも。兵衛。忠光の子。
井上氏の一族とも言われるが別行動。

覚一本では必ず「仁科、高梨、山田次郎」の3点セットで登場。木曽四天王の1人に数えられる時もある。
白鳥河原布陣にその名が見える。盛衰記で宇治川に仁科盛家と参戦した「高梨」は高直と思われる(高信は水島で戦死)。六条河原で刑死。(盛衰記では六条河原で討死)








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高梨高信
(たかなし たかのぶ)


信濃豪族。次郎。盛高の子。忠直とは従兄弟。
中原兼遠と婚姻関係があったといわれる。
覚一本では必ず「仁科、高梨、山田次郎」の3点セットで登場。

水島合戦に参戦し、能登守教経に射殺されている(盛衰記)。






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片桐為安
(かたぎり ためやす)


清和源氏満快流。方切とも。 太郎または源二。小八郎大夫景重、または七郎為遠の子。
信濃国伊那郡片桐に住した。

はじめ木曽軍に付いていたといわれるが、後に鎌倉の御家人になっている。
平治の乱で父・景重が源義朝方について戦い長らく領地を没収されていたが、源頼朝により返還された記述がある(吾妻鏡)。







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源義清
(みなもと の よしきよ)


源姓足利氏。矢田判官代。足利義康の庶長子。
義兼(盛衰記)ともあるが誤記(弟に義兼=八条院蔵人・後に頼朝御家人)。
上西門院に仕える。
新田義重の娘を室とし婚姻関係がある。
下野国梁田郡梁田御厨に住したとも、上野国多胡郡矢田に住したともいう。

治承4年(1180年)以仁王挙兵事件で源頼政と行動を共にし、敗走ののち源義仲につく。
入京後、水島合戦で総大将として海野幸広と共に平家軍と交戦、しかし馴れない舟戦で大敗し、越中次郎兵衛盛嗣により討死(覚一本では船が沈み溺死)。











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長瀬重綱
(ながせ しげつな)


判官代。義員とも。
信濃国の洗馬のあたりに住したという。

源義仲の家子(血縁のある家臣)だが詳細は不明。
宇治川〜粟津合戦で宇治川を渡ってきた畠山重忠と戦い討死。








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村上信国
(むらかみ のぶくに)


清和源氏頼清流。太郎(盛衰記)。三郎とも。源為国(村上判官代)の子。母は信西女。
信濃国更級郡村上郷に住す。*本貫地ではなく京に住んでいたとも。

義仲上洛の折、京中警固を命じられる。法住寺合戦で院方について討死(覚一)。実際は寿永二年十二月に解官されており(吉記)、以後は不明。










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岡田親義
(おかだ ちかよし)


清和源氏義光流佐竹氏。五郎、岡田冠者。
常陸国久慈郡岡田郷(佐竹本貫地)に住したのち信濃国筑摩郡伊深(岡田)に移住。

源氏揃に信濃源氏として名が挙がっており、源行家が以仁王の令旨を奉じ案書を与えている。
早い段階で木曽軍と合流していたと思われるが(会田の小戦闘など)記述はない。砺波合戦の後、平知度により討死(盛衰記)。









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岡田重義
(おかだ しげよし)


清和源氏義光流佐竹氏。太郎。岡田親義の子。

源氏揃に信濃源氏として名が見える。
砺波合戦で父・親義を討たれて奮戦する様が描かれている(盛衰記)。
同じ時、平為盛と組合った岡田小次郎久義は弟とみなされる。









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◆神家党


茅野光広
(ちの みつひろ)


諏訪大社上宮・諏訪氏。千野とも。太郎。光弘とも。茅野大夫光親(光家)の子。
樋口兼光の甥と言われ、中原氏との婚姻関係があったとも。

横田河原合戦、安宅合戦に参戦している。
粟津合戦に遅れて京に入った樋口の一党にあり、その際自分の立派な死に様を子に聞かせるため鎌倉軍一条氏麾下の弟・七郎光重の前で討死にしたいと申し出た逸話が有名。(結局七郎には会えず、義経軍の一隊と勇猛に戦い討死)







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藤沢親貞
(ふじさわ ちかさだ)


諏訪大社上宮・諏訪氏。次郎。藤沢神次を称した。清貞とも。茅野大夫光親(光家)の子。
子に清親。
瀬尾追討に藤沢の名がみえる。





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藤沢清親
(ふじさわ きよちか)


次郎。藤沢親貞の子。諏訪三郎?

義仲の嫡男・義重が源頼朝の人質にされた際、一緒に鎌倉へ下った。
義仲敗死後は鎌倉の御家人となり、後に弓の名手として板額御前を射たという(吾妻鏡)。








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金刺盛澄
(かなさし もりずみ)


諏訪大社下宮大祝(おおほうり)。諏訪盛澄とも。弟に手塚光盛
源義仲と婚姻関係があったとされる。

義仲敗死の後捕縛され梶原景時預りとなったが、弓の名手であったことから助命嘆願され、腕を見込まれ鎌倉御家人となった(諏訪大明神絵詞)。







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手塚別当金刺光頼
(てづか の べっとう かなさし みつより)


諏訪大社下宮祝部・金刺氏。平家物語では手塚光盛の叔父(甥を養子としたとも)、系図では金刺盛澄・手塚光盛の父。
手塚別当金刺盛澄と解釈される事もある。

源義仲と婚姻関係があったとされ、挙兵時から従っていたと思われる。
横田河原合戦〜粟津合戦まで義仲の近くに付き従い、最後の5騎まで残った。その後落ちてゆき消息不明。




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手塚光盛
(てづか の みつもり)


諏訪大社下宮祝部・金刺氏。太郎。手塚別当の子(甥であったのが養子になったとも)。兄に金刺盛澄
信濃国諏訪郡に住した。*小県郡塩田庄手塚にいたとも

寿永2年(1183年)篠原合戦で斎藤実盛を討取った事で有名。
寿永3年粟津合戦で源義仲と共に討死。義仲に従った最後の5騎のうちの1騎であったという。






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◆越中国


石黒光弘
(いしぐろ みつひろ)


藤原利仁流とされる。中興の祖に井ノ口三郎光義(源義家に従う)。太郎。
高楯、泉、水巻、福光の各氏は兄弟であるという説がある。
越中国石黒(富山県南砺市)に住す。

林氏とは婚姻関係があり燧合戦はじめ随所で協力プレイ。
燧ヶ城に篭城した武者にその名が見られるほか、北国所々合戦では弟・福満五郎に救助され、砺波合戦では新参として木曽軍に合流し今井隊の案内役として石黒光弘と高楯光延が配備されている(盛衰記)。







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高楯光延
(たかだて みつのぶ)


藤原利仁流とされる。次郎。
越中国住人。

燧ヶ城に篭城した武者にその名が見られるほか、砺波合戦で新参として木曽軍に合流し、今井隊の案内役として石黒光弘と高楯光延が配備されている(盛衰記)。








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泉光興
(いずみ みつおき)


藤原利仁流とされる。三郎。
泉重忠と混同されがちだが別人。

燧ヶ城に篭城した武者にその名が見られる。








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水巻安高
(みずまき やすたか)


藤原利仁流とされる。四郎。子に小太郎安経
越中国住人。
燧ヶ城に篭城した武者にその名が見られるほか、砺波合戦で新参として木曽軍に合流し、巴隊の案内役として小太郎と共に配備されている(盛衰記)。








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福満光久
(ふくみつ みつひさ)


藤原利仁流とされる。五郎。
越中国住人。

燧ヶ城に篭城した武者にその名が見られるほか、北国所々合戦の安宅の渡で、敵の越中前司盛俊の矢で負傷した兄・石黒光弘を助ける(盛衰記)。








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宮崎長康
(みやざき ながやす)


藤原利仁流とされる。中興の祖に井ノ口三郎光義(源義家に従う)。佐美太郎。
越中国新川郡佐美庄に住した。

以仁王挙兵事件で、京から逃れてきた北陸宮を宮崎城(富山県下新川郡朝日町城山)に迎えた。
燧ヶ城に篭城した武者にその名が見られるほか、砺波合戦で新参として木曽軍に合流し、宮崎の策により3手に布陣したという(長門)。








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入善行重
(にゅうぜん ゆきしげ)


藤原利仁流とされる宮崎氏。入前。小太郎。為直(屋代)、安家(盛衰記)とも。父は宮崎長康
越中国新川郡入善に住した。

燧ヶ城に篭城したほか、篠原合戦で(覚一本18歳)平氏の侍大将・高橋判官長綱に挑み、一度は高橋に捕まってしまうが入善の郎党が駆けつけた事により好機を得て討った。盛衰記では高橋に討たれるところを叔父の南保家隆に助けられたが隙をみて高橋の首を横取りしたとある。
長門本では叔父の名が別府為重となっている。







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南保家隆
(なんぼ いえたか)


藤原利仁流とされる宮崎氏。次郎。宮崎長康の弟。
越中国新川郡南保に住した。

篠原合戦では甥の入善行重が討たれそうになっていたのを助け、敵の高橋長綱の首を取る。この後、説教中に首を入善に奪われたが義仲はふたりとも論功行賞を行った(盛衰記)。長門本では名が別府為重となっている。








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向田村高
(むこうだ むらたか)


荒次郎。越中国住人。

篠原宿(三条野退却後)での評定に名が見える(盛衰記)。
砺波合戦で余田隊の案内役として宮崎長康と共に配備されている。








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中村忠直
(なかむら ただなお)


太郎。越中国新川郡堀江庄中村に住した。

篠原宿(三条野退却後)での評定に名が見える(盛衰記)。
砺波合戦で木曽軍に合流したとみられるが詳細は不明。
中村三郎忠綱は弟か?









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福田範高
(ふくだ のりたか)


次郎。越中国住人。

篠原宿(三条野退却後)での評定に名が見える(盛衰記)。
砺波合戦で木曽軍に合流したとみられるが詳細は不明。








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吉田四郎
(よしだ)


四郎。越中国住人。
篠原宿(三条野退却後)での評定に名が見える(盛衰記)。
砺波合戦で木曽軍に合流したとみられるが詳細は不明。








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賀茂島七郎
(かもじま)


七郎。越中国住人。
篠原宿(三条野退却後)での評定に名が見える(盛衰記)。
砺波合戦で木曽軍に合流したとみられるが詳細は不明。








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千国真高
(ちくに まさたか)


信濃国安曇郡千国庄(越中との国境)に住した。








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野尻太郎
(のじり)


太郎。
越中国野尻に住した。
篠原宿(三条野退却後)での評定に名が見える(盛衰記)。
砺波合戦で木曽軍に合流したとみられるが詳細は不明。









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河上太郎



太郎。
越中国住人。
横田河原合戦の後、募兵に応じ越中国府の評定に参加(盛衰記)。








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蟹谷二郎
(かにだ じろう)


越中国に住した。
砺波合戦で根井隊の案内役を務める(盛衰記)。







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◆越前国


疋田俊平
(ひきた としひら)


藤原利仁流疋田氏(越前斎藤氏)。匹田とも。次郎。子に俊弘。
越前国敦賀郡疋田に住した。

燧ヶ城に篭城した武者にその名が見える。








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疋田俊弘
(ひきた としひろ)


藤原利仁流疋田氏(越前斎藤氏)。匹田とも。小太郎。
越前国敦賀郡疋田に住した。

燧ヶ城に篭城した武者にその名が見える。







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稲津実澄
(いなづ さねずみ)


藤原利仁流河合氏(越前斎藤氏)。新介、新助。親忠とも。
越前国吉田郡河合に住した。

横田河原合戦後の募兵に呼応し、越中国府での評定に参加。燧ヶ城篭城では林・富樫らと共にその名があり、その後転戦。






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斎明
(さいめい)


藤原利仁流河合氏(越前斎藤氏)。斎命とも。
越前国白山平泉寺長吏。威儀師(=儀式等の取締役)。

燧合戦で籠城の指揮を取るが、返り忠して自軍を裏切り平家の陣に燧ヶ城の弱点を洩らした。これにより燧ヶ城は落城、北陸武士団は敗走するが斎明は平家の陣に走る。
砺波合戦で木曽軍の捕虜となり、斬首。








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斎藤太(=斎藤実直)
(さいとうだ)


藤原利仁流越前斎藤氏。太郎。左馬介。子に斎藤実盛(武蔵国幡羅郡長井庄)。
まれに「斉藤」と書いてあるがこれは誤記。
越前国足羽郡河合庄に住した。
保元の乱には源義朝麾下で参戦。
燧ヶ城篭城の武者に名が見えるが年齢的にみて高齢すぎるので注意が必要。

篭城の斎藤太は斎藤別当実盛の長男・尾張守盛房の可能性もなくはないが盛房は義仲と戦って討死しているので確率は低い。






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大見光能
(おおみ みつよし)


七郎。たぶん川合系斎藤氏の一族と思われるが詳細不明。
伊豆国に大見郷という土地があり(鎌倉御家人の大見平三家政が住す)、伊豆大見氏との関連があるかもしれない。

砺波合戦に参戦、平家方の武者・伊勢住人館貞康と組み互いに討死(盛衰記)。








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本庄



砺波合戦に参戦。







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樋口



砺波合戦に参戦。







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◆加賀



林光明
(はやし みつあき)


藤原利仁流林氏(加賀斎藤氏)。六郎。父は林光家。子に今城寺光平
加賀国拝師郷(小松市林町)に住した。一族に冨樫氏、倉光氏、板津氏。

燧ヶ城に篭城した武者にその名が見える。
安宅合戦で地元民の知恵を生かして梯川の浅瀬を押渡り、敵の先鋒平有国の陣に突入。








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今城寺光平
(いまきでら みつひら)


藤原利仁流林氏(加賀斎藤氏)。太郎。父は林光明
加賀国拝師郷に住す。

燧ヶ城に篭城した武者にその名が見える。
三条野合戦で血気にはやり斎藤実盛に討たれる。








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倉光成澄
(くらみつ なりずみ)


藤原利仁流林氏(加賀斎藤氏)。次郎。林成家(林光明の弟)の子。
手取川の近く、加賀国能美郡倉光に住した。

燧ヶ城に篭城した武者にその名が見える。山門返牒後に粟津で平知盛軍と遭遇し太田兼定と共に戦っている。
倶利伽羅合戦で妹尾兼康を生捕りにしたが、備中国での福隆寺畷の合戦で妹尾の返り忠(裏切り)により妹尾の身柄を預かっていた弟を暗殺され、自身も板倉川で討死。










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倉光成氏
(くらみつ なりうじ)


藤原利仁流林氏(加賀斎藤氏)。三郎。林成家(林光明の弟)の子。
手取川の近く、加賀国能美郡倉光に住した。

瀬尾兼康の返り忠の策により討死。










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富樫家経
(とがし いえつね)


藤原利仁流冨樫氏(加賀斎藤氏)。次郎。
加賀国冨樫に住した。

燧城篭城〜三条野〜安宅合戦、砺波合戦に参戦。









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冨樫入道仏誓
(とがし の にゅうどう ぶっせい)


藤原利仁流冨樫氏(加賀斎藤氏)。太郎?。出家前の名は泰家。冨樫家経の子。
加賀国石河郡富樫に住した。

父・家経と共に燧城〜砺波合戦などに参戦。義仲敗死後は鎌倉御家人となっており、加賀国の守護に任じられている。能「安宅」の関守、冨樫左衛門のモデルといわれる。









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安江盛高
(やすえ もりたか)


次郎。加賀豪族。冨樫家経の外戚の甥(盛衰記)。
燧ヶ城に篭城した武者にその名が見えるほか、直後の安宅合戦で家経を助けている。









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新三郎家員



燧城退却後、安宅で馬を失った冨樫家経のため安江二郎盛高が近くの四五騎の郎等に馬の提供を求めると、新参者の新三郎家員が馬を提供した(盛衰記)、という一節に登場。









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下田










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井家範方
(いのうえ のりかた)


加賀豪族。二郎。
加賀国加賀郡井家郷に住した。

燧ヶ城に篭城した武者にその名が見える。安宅合戦(根上の松)で討死。









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太田兼定
(おおた かねさだ)


次郎。加賀豪族。
加賀国加賀郡井家郷太田に住したと思われ。

山門の返牒の後、倉光成澄とともに粟津で平知盛軍と遭遇・戦闘。この時、子の入江冠者親定が討死。









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入江親定
(いりえ ちかさだ)


加賀豪族・太田氏。冠者小次郎。親貞とも。太田兼定の嫡男。
加賀国加賀郡井家郷太田に住したと思われ。

近江勢多で平知盛軍と戦い、討死。









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津波田三郎
(つばた の さぶろう)


津幡多とも。三郎。加賀豪族。小三郎隆家か?
加賀国加賀郡井上郷津幡に住した。

盛衰記の【木曾惜貴女遣事】で館から出て来ない木曽殿に対し「御運ははや尽き給ひにけり」と、割腹自殺を遂げた。








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◆能登国


土田
(つちだ)


能登国羽咋郡土田に住した。








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(せき)


能登国住人。






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日置
(ひおき)


能登国住人。





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武部
(たけべ)


燧合戦に名が見える。










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越後能景
(えちご よしかげ)


中太。

盛衰記の【木曾惜貴女遣事】で館から出て来ない木曽殿に対し「弓矢取る身の心を移すまじきは女なり、只今恥見給はん事の口惜さよ」と、縁から落ちながら切腹。





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越後家光
(えちご いえみつ)


中次。

名前から越後中太の弟と思われ。六条河原合戦で木曽殿と落ちていたが三条河原で負傷のため「人手にかかるよりは」と馬より飛び下り切腹(盛衰記)。





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二河頼重
(にこう よりしげ)


左衛門尉。次郎。
木曽は「これらは源氏郎等達、我と思う若者ども、馳せ出て追い散らせ」と命じなさったので、二河次郎頼重という者が、三十余騎で鞭を打って敵の中に入って、両方とも互いに乱戦する。範綱以下の者達は小勢を取り囲んで中に取り込めたので、頼重を始めとして、洩らさず皆討ち取られた。(盛衰記)








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淡路宗弘



淡路冠者。

六条河原合戦で木曽殿について落ちていたが、梶原景時と乱戦になった時に討死。




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左近五郎











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岡津平六兵衛










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城弥太郎兄弟



木曾危見けるを、根井小弥太、左近五郎、岡津平六兵衛、城小弥太郎、兄弟二人、 佐竹の者共防矢射てこそ遁れけれ。










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佐竹
(さたけ)


名前からみて常陸源氏の佐竹一族と思われるが不明。岡田氏との繋がりか。
木曾危見けるを、根井小弥太、左近五郎、岡津平六兵衛、城小弥太郎、兄弟二人、 佐竹の者共防矢射てこそ遁れけれ。








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◆上野国


多胡家包
(たご いえかね)


上野国多胡豪族。次郎。
上野国多胡郡多胡庄に住した。

上野国での義仲の募兵に応え、宇治川合戦では殿(しんがり)をつとめ、勢多の木曽最期まで付き従っている。討死せんと名乗るも鎌倉方に生捕られる。鎌倉御家人に多胡宗太ら多胡氏族が多数おり、助命されたと思われる。







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那和弘澄
(なわ ひろずみ)


藤原姓足利氏淵名氏流。那波、名和とも。太郎。源義賢家人。
上野国那波郡(淵名庄)に住した。

保元の乱に源義朝方に那波太郎の名が見える(父の名だと思われる)。
*父・秀弘、娘婿の大江政広も那波太郎を称しているので注意が必要。

佐位氏(高山党)・桃井氏と交流があったと思われ、各氏と並び横田河原合戦に参戦。木曽義仲が京を落ちる途中の六条河原合戦まで近くに付き従っているが、その後消息不明。






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物井五郎
(もものい ごろう)


五郎。上野国群馬郡桃井に住した。

保元の乱では物射(もものい)五郎として義朝に従っている。物井は誤記で「桃井(もものい)」が正しいと思われる。
桃井郷は国衙領で桃井氏は在庁官人だったといわれる。

佐位氏(高山党)・那波氏と交流があったと思われ、各氏と並んで横田河原合戦に参戦している。







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小角六郎
(こずみ ろくろう)


上野国新田郡新田庄小角(群馬県深谷市)に住したと思われる。
長井庄や(源姓)足利庄からほど近くにあり古くは利根川を渡す「小角の渡し」があった。

佐位氏(高山党)・那波氏・桃井氏と交流があったと思われ、各氏と並び横田河原合戦に参戦。




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西広助
(さい ひろすけ)


藤原氏秀郷流秩父氏・高山党。七郎。佐井弘資とも。
上野国佐位郡(神奈川県伊勢崎市)に住した。

横田河原合戦で富部三郎家俊を討ちとるが、富部の郎党・杵淵小源太重光により討死。
富部に対し「俵藤太秀郷が八代末葉、高山党に西七郎広助」と名乗りをあげている。








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高山重遠
(たかやま しげとお)


桓武平氏良文流秩父氏・高山党。三郎。長兄に畠山重弘、次兄に秩父重隆。弟に江戸重継。嫡子に高山重昭(重久)、次子に小林五郎重幸。
武蔵国緑野郡高山に住した。

多胡郡(義仲の父・義賢の勢力地)と近く交流があったとみられ、木曽義仲の上野国募兵の際に従い、横田河原合戦に参戦。
しかしその後、高山党は鎌倉方につき範頼軍に従う。鎌倉御家人になるも和田合戦で秩父一族は巻き込まれた形で滅亡している。







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秩父重隆
(ちちぶ しげたか)


桓武平氏良文流秩父氏。次郎。大夫。別当。二郎大夫重澄とも(盛衰記)。
源義賢の義父。
武蔵国大蔵に住した。

大蔵合戦で源義賢と共に討死。
一族の畠山重能(甥)とは家督を争っており、重隆死後に秩父氏は畠山氏との家督争いに負け、大蔵を退き川越に移った。








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河越能隆
(かわごえ よしたか)


桓武平氏良文流秩父氏。川越とも。葛貫別当。太郎。秩父重隆の嫡男。子に河越重頼。
武蔵国入間郡河越庄に住した。
保元の乱には源義朝方で子・重頼と共に参戦。









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太夫坊覚明
(たいふぼう かくめい)


進士蔵人藤原道広、比叡山で出家し最乗房信救(しんぎゅう)と名乗る。
進士=文章学生。
勧学院(藤原氏運営の儒学大学)に在籍していた頃、奈良興福寺(藤原氏氏寺)に頼まれて、三井寺からの以仁王挙兵の檄文に対する返牒に「太政入道浄海は平家之糟糠、武家之塵芥」と書き平家の逆鱗に触れ、追手から逃れるため漆をかぶって姿を変えて逃走した事が有名。
その後覚明と変名し、源行家の元に保護・推挙され源義仲の祐筆となる。
入京後は木曽軍を離れて名を信救に戻し、和漢朗詠集などの研究活動に専念したと思われ応保元年(1161年)「和漢朗詠集私注」を著している。
建久2年(1191年)、箱根権現における「筥根山縁起」の著者に興福寺僧信救の名がみえる。
吾妻鏡にも鎌倉幕府発足後の頼朝主催の法要などに出てくるが、建久6年(1195年)に頼朝の命により箱根神社蟄居しており、どうやら覚明ということがバレたらしいw


海野幸長(海野幸広兄弟)と同一説、また法然門下僧・西仏と同一説がある。








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土岐光長
(とき みつなが)


清和源氏頼光流(美濃源氏)。出羽判官。従五位下、伯耆守。
父は左衛門尉源光信。兄弟に光基、光重、子に国長、光経、光衡。

在京の武家貴族で検非違使、左衛門尉を務め、以仁王挙兵事件では源兼綱と共に以仁王の追捕に向かっている。以降、美濃・近江はじめ各地で平家への反乱が相次ぐと、光長もこれに加担し解官されている。
源義仲の入京時に木曽軍について上洛し(相伴源氏)、伯耆守に任じられる。
義仲と後白河院の関係が悪化すると院方につき、法住寺合戦では多田行綱(多田源氏)らと共に防戦するが、子の光経と共に討死。土岐氏惣領は三男光衡が継ぐ。









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大見光能
()












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多田行綱
(ただ ゆきつな)


清和源氏頼光流(摂津源氏嫡流・多田源氏)。蔵人。源頼盛の嫡男。従五位下伯耆守。
摂津国多田に住した。

はじめ藤原忠通に近侍し、後に後白河院の北面武士に取り立てられる。
安元3年(1177年)鹿ケ谷の陰謀において平清盛にこれを密告。実際には安芸に流罪になっており密告は作り話だという説もある。
寿永2年(1183年)平家に対し挙兵、摂津河尻で船を押さえ都の物流を遮断。源義仲、安田義定、足利義清、源行家らと共に京都包囲、木曽軍について上洛(相伴源氏)。義仲と後白河院の関係が悪化すると院方につき、法住寺合戦で子と共に防戦するが敗退、多田庄に戻りなおも反抗。
義仲敗死後、源頼朝方について一ノ谷合戦に参戦したとされるが、その後鎌倉を追放、多田庄も取り上げられて以後消息不明。










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浦野重遠
(うらの しげとお)


清和源氏満政流(尾張源氏)。源重遠。四郎。兵庫允。子に山田重満、重弘など。
正室は源義家の女。
尾張国春日井郡浦野に住す。







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山田重弘
(やまだ しげひろ)


清和源氏満政流(尾張源氏)。次郎。大和守。源重遠の子、兄に山田太郎重満
尾張国春日井郡山田庄に住す。

源氏揃に「山田二郎(次郎)重弘」の名がみえる。
兄・重満と共に墨俣川合戦に参戦し、重満は平盛綱により討死。木曽軍と合流後も行家に従い続けており、室山合戦に参戦(盛衰記)。











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泉重忠
(いずみ しげただ)


清和源氏満政流(尾張源氏)。次郎。重定、重貞とも。泉→山田とも。山田太郎重満の子。
尾張国春部(春日井)郡山田庄(名古屋市北西部、瀬戸市、長久手町の一部)に住した。星崎城。

父と共に墨俣川合戦に参加し、その後源行家の麾下として木曽軍と行動。源義仲について上洛し(相伴源氏)、一族の高田重家葦敷重澄と共に京中警固の任に就き、従五位下近江守に叙任。
義仲敗死後、鎌倉御家人となり山田庄の地頭に任じられる。また、後鳥羽上皇に近侍し承久の乱では宮方の武将として活躍。





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高田重家
(たかだ しげいえ)


清和源氏満政流(尾張源氏)。四郎。
尾張国愛知郡高田(愛知県名古屋市瑞穂区雁道町のあたり)に住した。*熱田神宮の東

一族の山田(泉)重忠や葦敷重澄と共に京中守護の任に就く。






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葦敷重澄
(あじき しげずみ)


清和源氏満政流(尾張源氏)。安食とも。太郎。重隆と同一人物かは不明。
尾張国春部郡安食庄に住した。

源義仲について上洛し(相伴源氏)、一族の高田重家山田重忠と共に京中守護の任に就く。
法住寺合戦のあと義仲と不和になり、同じく京中守護の村上信国源有綱らと共に解官された(吉記)。










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武田信義
(たけだ のぶよし)


甲斐源氏。太郎。辺見冠者義清とは双子。父は源(武田)義清佐竹義業の弟)。
甲斐国山梨郡八幡庄(山梨県山梨市北)に住した。武田は父の本貫であった常陸国武田庄からきている。

源行家により以仁王の令旨の案書をもたらされ、初期は独自行動していたと思われる。源義仲に娘との婚姻を持ちかけるが正室を断られたため決裂したといい、後にこの遺恨により源頼朝に義仲謀叛の讒言をし、不仲を誘ったといわれる。








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安田義定
(やすだ よしさだ)


甲斐源氏。三郎。武田信義の弟。
甲斐国山梨郡八幡庄安田に住した。

吾妻鏡によれば平家方の俣野景久・橘遠茂の甲斐侵攻に対し、応戦し撃退(波志田山合戦)。
その後甲斐源氏棟梁の武田信義に合流し駿河侵攻、駿河目代橘遠茂と戦い勝利。黄瀬川で鎌倉軍につき富士川合戦では信義とともに活躍。
源義仲入京と同じタイミングで東海道から平家追討使として上洛、義仲注進の名簿により大内裏守護として京中守護に就き、従五位下遠江守に叙任。
寿永3年に鎌倉から源範頼・義経の義仲追討軍が上洛すると義定は義経の軍勢に加わり宇治川合戦に参戦。その後も一ノ谷合戦や奥州合戦に参戦し、後白河院にも近侍したが、建久5年(1194年)謀反の疑いで梟首(吾妻鏡)。









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山本義経
(やまもと よしつね)


清和源氏義光流(近江源氏)。左兵衛尉。義恒とも。子に錦織義高
近江国浅井郡山本(滋賀県長浜市湖北町)に住した。*山本山城

弟の柏木義兼ら近江源氏と共に挙兵。
近江国勢多のあたりで、以仁王を討った平氏方の藤原飛騨守景家とその一行を襲撃し、勢多唐橋に晒し首にしたのを手始めに琵琶湖流通網を制圧。しかし追討使(大将軍・平知盛)と数回交戦し敗退、鎌倉に逃れる。
源義仲の入京時に木曽軍について上洛(相伴源氏)。










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錦織義高
(にしこり よしたか)


清和源氏義光流(近江源氏)。山本義経の嫡男。弟に義弘。
近江国浅井郡錦織に住す。

父について挙兵し、一旦鎌倉まで逃れるが源義仲の入京時に木曽軍について上洛(相伴源氏)、その際に後白河院の警護にあたって白旗を差して先頭に立つ。
その後宇治川〜粟津合戦で義仲軍として参戦したが以後消息不明。










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柏木義兼
(かしわぎ よしかね)


清和源氏義光流(近江源氏)。出家し甲賀入道を名乗る。法名は成覚。
近江国甲賀郡柏木御厨(滋賀県甲賀市水口町)に住す。

源義仲の入京時に木曽軍について上洛し(相伴源氏)、兄・山本義経と共に京中警護に任じられた(盛衰記)。以後の消息不明。










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