源家に二つの剣有り。「膝丸」「鬚切」と申しけり。人皇五十(六)代の帝、清和天皇第六の皇子、貞純の親王と申し奉る。その御子経基六孫王、その嫡子多田の満仲、上野介たりし時、源の姓を賜はつて、天下の守護たるべきよし、勅諚有りければ、まづよき剣をぞもとめられける。
筑前の国御笠の郡出山といふ所より鍛冶の上手を召されけり。
彼もとより名作なる上、宇佐の宮に参籠し、向後、剣の威徳をぞ祈りける。南無八幡大菩薩、悲願あに詮なからんや。他の人よりも、わが人なれば、氏子をまぼり給ふらめ、しからばかの太刀を剣となし、源氏の姓の弓矢の冥加長くまぼり給へ」と深く丹心をぬきんで、御社を出でにけり。
やがて都へのぼり、最上の鉄を六十日鍛ひ、剣二つ作りけり。いづれも二尺七寸なり。人を切るにおよんで、鬚一毛も残らず切れければ、「鬚切」と名づけらる。今一つは、もろ膝を薙ぎすましたりとて、「膝丸」と申すなり。
満仲の嫡子、摂津守頼光につたはりけり。かの時人多くかき消す様に失せければ、恐ろしかりしことどもなり。これを詳しく尋ぬるに、嵯峨の天皇の御宇、ある女有り。あまりにものを妬み、貴船の大明神に祈りけるは、「願はくは鬼(おに)となり、妬ましと思ふ者をとり殺さばや」とぞ申しける。神は正直なれば、示現あらたなり。
やがて都に帰り、丈なる髪を五つに巻き、松脂をもつてかため、五つの角をつくり、面には朱をさし、身には丹をぬり、頭に鉄輪をいただき、三つの足に松明を結ひつけ、火を燃やし、夜にだになれば、大和大路を南へ行き、宇治の川瀬に三七日ひたりければ、逢ふ者肝を消し、やがて鬼とぞなりにける。「宇治の橋姫」とはこれなり。
「にくし」と思ふ女の縁者どもを取るほどに、残りずくなく失せにけり。京中、申の刻よりのちは門戸を閉ぢて音もせず。
そのころ、頼光の郎等に渡辺の源四郎綱といふ者有り。武蔵の国箕田といふ所にて生まれければ、箕田の源四と申しけり。
頼光の使として、一条大宮につかはしけるが、夜陰におよび、馬に乗り、おそろしき世の中なればとて、鬚切をはかせらる。
一条堀川の戻橋にて、齢二十あまりの女房の、まことにきよげなるが、紅梅の薄絹の袖ごめに法華経持ち、懸帯して、まぼりかけ、ただ一人行きけるが、綱がうち過ぐるを見て、夜ふけおそろしきに、送り給ひなんやと、なつかしげに言ひければ、綱、馬より飛んでおり、子細にやおよび候ふべきとて、いだいて馬に乗せ、わが身も後輪にむずと乗り、堀川の東を南へ行きけるに、女房申す様、わが住む所は都のほか。おくり給はんや」「さん候」とこたへければ、「わが行く所は愛宕山ぞ」とて、綱が髻ひつ掴んで、乾をさして飛んで行く。綱はちともさわがず、鬚切を抜きあはせ、「鬼の手切る」と思へば、北野の社の回廊の上にぞ落ちにける。髻につきたる手を取つてみれば、女房の姿にては、雪の膚とおぼえしが、色黒く、毛かがまりて小縮みなり。
これを持参しければ、頼光おどろき給ひて、播磨なる晴明を呼びて問はれければ、「綱には七日のいとま賜はつて、仁王経を購読すべし」とぞ申しける。
第六日になる夜、門をたたく者有り。「たれ」と問へば、「綱が養母、渡辺よりのぼりたる」とこたふ。この養母と申すは、綱がためには伯母なり。
「人してはあしかりなん」とて、綱たち寄りて言ひけるは、「七日の物忌にて候へば、いづくにも一夜の宿を借り給ひて、明日入らせ給ふべし」と言へば、母、さめざめと泣き、「生まれしよりあらき風にもあてず、人だてし甲斐有りて、頼光の御内に、『箕田源四』とだに言ひつれば、肩を並ぶる者なし。
うれしきにつけても、恋しとのみ思へば、このごろはひとしほ夢見心もとなくて、のぼりたるに、門をさへひらかざりし。かかる不孝の咎なれば、神明もまぼり給はじ。七日の祈誓よしなし。今よりは子ともたのむべからず。親と思ふなよ」とかきくどき言ひければ、綱は道理にせめられて、「たとひ身はいかになるとも」とて、門をひらきて入れてげり。
来し方、行く末の物語りして、「さても物忌とは何事ぞ」と尋ねければ、隠すべきことならねば、有りのままに語る。母、「さほどのこととは知らずして恨みしことのくやしさよ。されども親はまぼりなれば、いよいよつつがなかるべし。さてその鬼の手といふなるもの、世の物語に見ばや」とぞ望みける。
綱は「見せじ」とは思へども、さきの恨みが肝に染み、深く封じたる鬼の手を取り出だし、養母に見せければ、「これはわが手ぞや」とて、おそろしげなる鬼になり、破風蹴破り、出でにけり。それより渡辺党は家に破風をたてず。あづまやにつくるなり。
鬚切、鬼を切りてより「鬼丸」と改名しけり。
また頼光、そのころ瘧病わずらはる。なかばさめたるをりふしに、空より変化の者下り、頼光を綱にて巻かんとす。枕なる膝丸抜きあはせ、切ると思はれしかば、血こぼれて、北野の塚穴のうちへぞつなぎける。掘りてみれば、蜘蛛にて有り。鉄の串にさしてぞさらされける。それより膝丸を「蜘蛛切」とぞ申しける。
頼光よりのち、三河守頼綱につたはる。天喜五年に頼光の弟、河内守頼信の嫡子、伊予守頼義、奥州の住人、厨川の次郎、安倍の貞任兄弟を攻めんとせし時、陸奥守に任ぜらる。宣旨にて鬼丸、蜘蛛切を頼綱が手より頼義に賜びにけり。かの太刀にて九年があひだに攻め従へ、貞任を首を切り、宗任をば生捕にし、上られけるが、丈六尺四寸なり。殿上人うち群れて、「いざや、奥の夷を見ん」とて行かれけるに、一人梅の花を手折りて、「やや宗任。これはなにとか見る」と問はれければ、とりあへず、
わが国の梅の花とは見たれども
大宮人はいかがいふらん
と申しければ、殿上人しらけてぞ帰られける。そののち筑紫へ流され、今の「松浦党」とぞ承る。
かくて頼義より嫡子八幡太郎義家につたはる。また奥州を賜はつて下りしほどに、出羽の国千福金沢の城に家衡・武衡とぢ籠りて、国を乱す。
義家向かつて、三年に攻め従へ、あはせて十二年の合戦に、朝敵ほろびぬること、二つの剣の威光なり。
義家の嫡子対馬守、「出雲の国に謀叛の者有り」とて、因幡の正盛を下され、かの国にて討たれしかば、四男六条の判官為義につたはる。十四にて叔父を討ち、左近将監に任ぜらる。十八歳にて、南都の衆徒の謀叛をたひらげ、栗子山の峠より追つ返し、あまさへ物具はぎなんどしけるも、剣の威徳とぞおぼえし。その時山法師聞きてかくぞ詠みける。
奈良法師栗子山までしぶり来て
いが物具をむきぞとらるる
奈良法師やすからざることに思ひける所に、山法師、阿波の上座といふ者にたばかられて禁獄せられたれば、これを栗子山の返答にかくなん。
ひえ法師あはの上座にはかられて
きびしく牢につがれけるかな
為義勧賞に右衛門尉になる。三十九にて検非違使になりて、陸奥守を望み申されければ、「頼義、義家、数年の戦ひ有り。門出あしければ他国を賜はるべし」と仰せ下さる。「先祖の国賜はらずして、なにかせん」とて、つひに受領せざりけり。
ある時、かの剣夜もすがら吠ゆる声有り。鬼丸は獅子の声なり。
蜘蛛切は蛇の鳴く声なり。かかりければ鬼丸を「獅子の子」とあらため、蜘蛛切を「吠丸」とつけらる。
為義、思ひ者あまた有りければ、男女四十六人の子なり。熊野に有りけるは、「鶴原の女房」とぞ申しける。その腹に娘有り。
白河の院熊野へ参詣有りし時、「別当は」御尋ね有りければ、「もとより候はず」と申す。
「いかにさることあるべし」と仰せ出だされければ、をりふし花そなへて籠りたる山伏を、院宣なればとて、らいぎ党、鈴木党がおさへてなしにけり。教真別当これなり。
「別当は重代すべき者なれば、子なくしてかなふまじ」とて、最愛を尋ねしに、「為義が鶴原の娘」とぞ聞こえし。
為義つたへ聞きて、ゆくへも知らぬ修行者をおさへて合はせられしこと、口惜しきことにして、不孝の子のごとし。かかりける所に、「源平国をあらそふべき」よし、遠国までも披露有り。
教真、この時「与力して、不孝をも許さればや」と思ひ、客僧、悪僧ら一万余騎にて、都にのぼりけり。為義聞きて、「氏、種、姓は知らねども、かひがひしく、ゆゆしし。さもあれ、おぼつかなし」とてねんごろに尋ぬれば、実方中将の末葉、系図、目録あざやかなれば、対面におよんで、吠丸をこそ引きにけれ。
教真別当これを賜はつて、「私宅に収むべきにあらず」とて、すなはち権現に籠め奉る。
昔より二つの剣なりしをひきはなち、心もとなくおぼえて、鍛冶の上手を召し、獅子の子を本にしてつくられければ、まさるほどにぞつくりける。目貫に烏をつくらせければ、「小烏」とぞ申しける。「すこしも違はず」といへども、獅子の子に二分ばかり長かりけり。
ある時二つの剣を、柄、鞘を取り、障子に寄せかけ、立てられけるが、からからと倒れあひ、同士討ちして、小烏が中子、さき二分ばかりうち切りて、同じ長さにぞなりにける。それより獅子の子を、「友切」とは呼ばれけり。
為義、二つの剣を嫡子下野守義朝にゆづられけり。
さるほどに、保元の乱れ出で来る。為義は、父子七人、院の御所へ参らる。義朝一人内裏へ召さる。保元元年七月十一日寅の刻より辰の刻まで三時のいくさに、新院負け給ふあひだ、為義東国へは単己無頼なれば下らず。
天台山にて出家して、「義法房」と申せしが、「されども子なれば見はなたじ」とて、嫡子義朝を頼み行かれけり。
朝敵なれば力およはず、義朝承つて斬られけるこそ口惜しけれ。同じく舎弟、為朝ばかり助かりて、五人は斬られぬ。腹々の子四人ともに殺さる。為朝は伊豆の国に流され、つひに討たれにけり。
今度の勧賞に、義朝左馬頭になされしが、やがて悪右衛門督信頼にかたらはれて朝敵となり、都を落ちし時、西近江、比良といふ所にて、八幡大菩薩を恨み奉る。「祖父義家は、大菩薩の御烏帽子子として、八幡太郎と号せしよりこのかた、『弓矢の冥加においては疑ひなし』と思ひしに、たのむ木のもとに雨もりて、やみやみと負けぬるこそ不思議なれ。ことに剣の威徳まで劣りはてぬるくやしさよ。今は放たせ給ふにこそ」とて、少しまどろみけるに、あらたなる示現有り。「われ放つにあらず。剣の威劣るにあらず。つ
ねに名をあらためけることは、剣の威かろんずればなり。ことさら『友切』の名詮自性は、味方滅ぶるにあひ似たり。なほも剣の名を昔にかへさば、末はたのもしからん」とて、夢ははてにけり。
義朝うちおどろき、すなはち昔の名にぞかへされける。「産衣」といふ鎧に「鬚切」そへて、頼朝にこそゆづられけれ。十二歳。いくさの場よりして、かの太刀、鎧を着せしは、末代の将軍と見なし給ふぞ奇特なる。
塩津の庄司がもとに一宿し、東近江へ道しるべせられ、「鈴鹿の関、不破の関はふさがりぬ。討手下る」と聞こえしかば、雪山に分け入りぬ。悪源太義平は、飛騨の国へ落ち行きぬ。頼朝はいとけなければ、大雪を分けかねて、山の口にとどまる。義朝は朝長を召し具して、美濃の国青墓の長者が宿所へ行かれしが、朝長は痛手なれば、自害しつ。尾張の国長田の庄司忠致をたのまれしに、長田、甲斐なく討ち奉り、御首に小烏あひそへて、平家の見参に入りしより、小烏は平家の剣となりにけり。
頼朝は、雪山を出でて、東近江、草野の尉にやしなはれ、御堂の天井に隠されしが、をさなけれどもかしこくて、「われつひにはさがし出だされなん。剣を平家に取られじ」と思ひ、草野の尉を深く頼み、母方の祖父なればとて、熱田の大宮司にあづけけり。
清盛の舎弟三河守頼盛、今度の勧賞に尾張守になり、弥平兵衛宗清を下さる。
頼朝をさがし取つてのぼりければ、やがて宗清にあづけらる。頼盛の母の尼公、死罪を申しなだめ、伊豆の国北条の蛭が小島へ流され、三十一と申す治承四年の夏、一院の宣旨をかうぶりて、謀叛をおこされし時、熱田の宮より申し乞ひ、鬚切を帯き、五畿七道を従へ給ふ。
牛若、その時当歳なり。九つの年より鞍馬へのぼり、東光房円忍の弟子、覚円房に学問し、遮那王と言ひけるが、十六と申す承安四年の春、五条の橋の辺なる末春といふ商人と東へ下り、道にてみづから元服して、源九郎義経と名のり、権太郎秀衡を頼みしが、舎兄の与力としてのぼるほどに、合沢にて行き逢ひけり。
木曾を誅戮し、摂津の国一の谷へ向かはんとす。ここに熊野の教真が子に、田辺の湛増、「源氏は母方なれば」とて、為義の手より渡されし膝丸を引きて、見参にこそ入りにけれ。熊野より春の山を出でたればとて、名をば「薄緑」とあらためらる。
山陽、山陰、南海、西海、源氏につくも、しかしながら剣の威徳とぞおぼえし。義経、鎌倉へ下らんとせし時、梶原が讒言によつて、かへり上られけるに、剣を箱根に籠められけり。
建久四年五月二十八日の夜、曾我兄弟が夜討の時、箱根の別当行実が手より兵庫鎖の太刀を五郎に得しは、この薄緑なり。されば名を後代にあげしとかや。その時鎌倉に召され、鬚切、膝丸一具にして、つひにまはり逢ひければ、まことは源氏の重代と、奇特不思議の剣なり。
[モクジ]
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