十八日、肥後守貞能鎮西より上洛。西国の輩謀叛の由聞えければ、其儀鎮めん為に、去去年下りたりけるに、菊池次郎城郭を搆へてたて籠る間、輙くせめ落し難く有りけるに、貞能九州の軍兵を催してこれをせむる。軍兵多く打落されてせめ戦に力なし、ただ城を打囲て守る。日数積りにければ、城の内に兵粮米つきて菊池終に降人になりにけり。貞能九国に兵粮米あて催す。
庁官一人宰府使二人貞能使一人其従類八十余人、権門勢家の庄園をいはず責催す。菊池原田が党類帰伏す。
彼等を相具して今日入洛す。未尅ばかりに八条を東へ河原を北へ、六波羅の宿所へ着にけり。其勢僅に九百余騎千騎に足らざりけり。前内大臣宗盛車を七条に立てて見給へり。鎧着たる者二百余騎、其中に前薩摩守親頼うす青のすずし、魚綾(ぎよれうの直垂に赤威の鎧着て、白蘆毛なる馬に乗て、貞能が屋形口にうちたりけり。預刑部卿憲方孫相模守頼憲が子也、勧修寺の嫡々なり。指武勇の家に非ず、こはいかなる事ぞやと見る人ごとにそしりあへり。今日の武士には目もかけず、ただ此人をぞ見ける。西国は僅に平ぎたれども、東国は弥勢付て、すでに都へ打上ると聞えしかば、平家次第に心よわくなりて、防ぎ支へる力もつきて都にあとを留め難ければ、内をも院をも引具し参らせて、一まどなりともたすかりやすると、西国の方へ落行給ふべきよしをぞ議せられける。
七月十三日、暁より何といふ事は聞分けねども、六波羅の辺大に騒ぐ。
京中も又静かならず、資財雑具東西に運び隠す、こはいかにしつる事ぞやとて、魂をけす事斜ならず。大方は帝都は名利の地鶏鳴安思なしといへり。治れる世だにも此の如し、況んや乱れたる時は理也。吉野の奥までもいらまほしく思へども、諸国七道一天四海の乱なれば、深山遠国もいづくの浦かおだしかるべき。三界無安、猶如火宅、衆苦充満、甚可怖畏と説き給ふ。如来の金言一乗の妙文なり。なじかは違ふべきや、如何して此度生死をはなれて、極楽浄土へ往生すべきとぞ歎きあへりける。
此暁俄にさわげる事は、美濃源氏佐渡右衛門尉重実といふ者あり。一年筑紫八郎為朝が、近江国北山寺に隠れて有りけるを搦めて出しけるに依て、右衛門尉になり。源氏にはなたれて平家にへつらひけるが、乗替一騎ばかり相具して、瀬多を廻りて夜半ばかりに六波羅に馳上て、北国の源氏既に近江の国へ打入て、道々をうちふさぎ、人を通さざるよしを申たりければ、六波羅京中騒ぎあへり、
かかりければ新三位中将資盛卿大将軍として、貞能以下宇治橋をめぐりて近江国へ下向す。
其夜は宇治にとどまる。其勢二千余騎、又新中納言知盛卿、本三位中将重衡大将軍として瀬多より近江国へ下向す。それも今夜は山科に宿す。
其勢三千余騎、去程に源氏の大衆と同心してしかば、宇治勢多をば廻らずして、山田、矢馳、堅多、多木の浜、三津、河尻所々の渡より、小舟をまうけて湖の東浦より西浦へ押渡して、十日は林六郎光明を大将軍として、五百余騎天台山へ競ひあがる。惣持院を城郭とす。三塔の大衆同心して、ただ今大嶽を下て平家を討とすとののしる。凡東坂本には、源氏の後陣じうまんせり。此上は、新三位中将も宇治より京へせめ入、本三位中将も山科より都へせめ入ぬ。又、十郎蔵人以下摂津国河内のあぶれ源氏ども、河尻、渡辺を打ふさぐとののしる。
足利判官代義清も丹波に打越えて、大江山生野の道をうちふさぐと聞ゆ、かかりければ平家の人々色を失ひて、さわぎあひけり。
【維盛北方事】
権亮三位中将維盛北方にのたまひけるは、「我身は人々に相具して都を出べきにて候ぞ、いかならん野のすゑ山のすゑまでも、相具し奉るべきにてこそ候へども、おさなき者ども候へば、いづくに落付べきともなき旅のそらに出て、波にただよはんこと心うし、行先にも源氏道をきりてうち落さんとすれば、おだしからんことも有がたし。世になきものと聞なし給ふとも、あなかしこあなかしこ、さまなどやつし給ふべからず、いかならん人にも見え給ひて、幼きものどもをはごくみ、我が身もたすかり給へ。あはれいとをしといふ人もなどかなかるべき」とのたまへば、北の方是を聞給て、袖を顔におしあてて、とかくの返事もし給はず、引かづきてふし給ぬ。やや久しくありて起上りてのたまひけるは、「日頃は志浅からぬやうにもてなし給ひければ、人しれずこそ深く頼み奉りしに、いつの間にかはりける御心ぞと恨めしけれ、いかならん所へも伴ひ奉りて、同野の露ともきえ、同底のみくづともなりなん事こそ本意なれ、父もなし母もなし、あはれをかくべき親しき方もなし、人を頼み奉るより外は又頼む方なし、先世の契りあれば、御身濁りこそあはれと思ひ給ふとも、人ごとに情をかくべきに非ず、いかならん人にも見えよなど承る事の恨めしさよ、別奉らん後は又誰にかはみえ候べき、幼き者共も打捨られ奉らせては、いかにして明し暮し候べき、誰かはごくみ誰か憐むべしとて、か様に留め置き給ふやらん」とて、涙もかきあへずなき給へば、
三位中将又のたまひけるは、誠に人は十四維盛は十六の年より見そめ奉りて、今年は十年になりぬとこそ覚ゆれ。火の中水の中にもいらばともに入、沈まばともに沈み、限ある道にも後れ先立ち奉らじとこそ思ひつれども、かく心うき有様にて合戦の道に思ひ立ちては、ながらへん事も不定なり。行衛も知らぬ旅の空にてうきめを見せ奉らん事も、心苦しなど思ふ故にてこそあるに、かやうに怨給ふこそ立別れ奉る悲しさにまさりて、心苦しく覚ゆれとてなき給ふ、若君姫君のさうにましますも、女房どもの前に並居たるも、是を聞て声ををしまずなき合ひけり。げにことわりと覚えて哀也、此北の方と申は、中御門新大納言成親卿の御娘也、容顔世に越えて心優におはしますことも、尋常にはあり難し、かかりければ、なべての人にみえん事いたはしく覚されて、女御后にもと父母思ひ給けり、かく聞えければ、人々哀と思はぬはなかりけり。
法皇此よし聞召て、御色に染める御心にて忍びて御書ありけれ共、是もよしなしとて御返事申させ給はず、
雲井より吹来る風のはげしくて涙の露のおちまさるかな
と口ずさみ給ひけるこそやさしけれ。父成親卿法皇の御書ありけるよし聞給て、あわて悦び給けれども、姫君あへて聞入給はねば、親のため不孝の人にてましましける也。父子の儀おもひけるこそ悔しけれ、けふより後は父子のちぎりはなれ奉りぬ。御方へ人行通ふべからずとのたまひければ、上下恐れ奉りて通ふ人もなし。めのとごの兵衛佐と申ける女房一人ぞわづかに許されてかよひける。是に付きても姫君は世のうき事を御もとゆひにてすさみ給ける。
結びつる歎きもふかき元結にちぎる心はほどけもやせし
と書きて引むすびてすてたまひけり。
兵衛佐是を見て「後にこそ思ふ人ありともしりにけれ。色に出ぬる心の中をいかでか知るべきと、さまざま諌め申けるは、女の御身とならせ給ては、かやうの御幸をこそ神にも祈り、仏にも申させ給て、あらまほしき御事にて候へ」と申ければ、姫君涙を押へて、我身には人しれず思ふ事あり、いく程ならぬ夢幻の世の中に、つきせぬ思ひの罪ふかければ、何事もよしなきぞよとて引かづきてふし給ふ。
兵衛佐申けるは、幼きより立去る方もなくなれ宮仕ひ奉るに、かく御心置せ給ひけるこそ心うけれと、さまざまに終夜恨み奉ければ、姫君まげてありし殿上人の宴醉に見初めたりし人の、ひたすら愛顕ていひし事を聞かざりしかば、此世ならぬ心の中をしらせたりしかば、いかばかりかくと聞かば、歎かんずらんと思ひてぞよとのたまへば、小松殿の公達権亮少将殿こそ申させ給ふと聞しが、さては其御事にやと兵衛佐思ひて、小松殿へ忍で参りてしかじかの御事など申ければ、少将さることありとて、忍びやかに急ぎ御車を遺はして迎へ奉りけり。
年ごろにもなり給にければ、若君姫君まうけ給へる御中なり。若君は十歳姫君は八にぞ成給ける、我をば貞能が五代とつけたりしかばとて、是をば六代といはんとて、若君をば六代御前とぞ申ける。姫君をば夜叉御前とぞ聞えし。
【主上、六波羅に行幸】
廿四日亥の刻計りに主上忍びて六波羅に行幸あり。
例よりも人少にて、こといそがはしく人々あわて騒たり。
ある北面下臈法住寺殿へ馳参て、潜に法皇に申けるは、「小山田別当有重とて相親しく候が、此二三年平家に番勤め候けるが、唯今語申候つる平家の殿原は、暁西国へ落らるべく候とて、以外にひしめき候なるが、具し参らせんとて既に公家を迎へ参らせて候也、君をば程近う渡らせ給へば、安しきと渡し参らせよ」とて、人々少々参候よし申ければ、法皇は御心よげなる御気色にて嬉しう告げ申たり。此事又人に語るべからず、御はからひあるべしと仰の有けるを、承りもはてず、いそぎ御所をばまかり出にけり。
其後に夜ふくるほどに、内大臣は薄塗の烏帽子に、白帷子に大口ばかりにて、ひそかに建礼門院御方に参りて申給ひけるは、此世の中さりともとこそ思ひつれども、今はかなふまじきにこそ候ぬれ。都の中にて最後の合戦して兎も角もならんと申さるる人も候へども、それも然るべしとも覚え候はず。主上の御行衛君の御有様、いといたはしく忝く思ひ参らせ候へば、かなはざらんまでも、西国の方へおもむきて見候ばやとおもひ候、主上皇宮をも具し奉り参らせ候はんずれば、鎮西の輩よもそむき候はじ、源氏はいみじく都へ入て候とも、誰をか頼み候べき、唯天を仰で主なき犬のやうにてこそ候はんずれ。其の時にならば与力のやつばらも、一定心がはりして思ひ思ひになり候はんず。其後は主上都へ帰し入参らせ候べきよし存候と申されければ、女院は御涙にむせばせましまして、兎も角もただよき様にとぞ仰ありける。
内府又申されけるは、主上の御事はさる事にて、儲君の二宮をも具し参らせ候へ、やがて法皇をもぐし参らせ候べし。院、内をだにも方人にとり参らせ候なば、いづくへまかりたりとも、世の中はせばかるまじ、源氏の奴原いかに狂ひ候とも、誰を方人にしてか世をも取候べきなど申て、其夜は女院の御前に、終夜越方行末の事共細々と申承に付ても、御袖もいたく萎れにけり。女院は御衣の袂に余る御涙、いとどところせきてぞ見えさせ給ける。秋の長夜の明方ちかくぞなりにける。
【法皇忍て鞍馬御幸事】
さても同夜半計に法皇密に殿上に出御ありて、今夜の番は誰そと御尋あり、左馬頭資時と申されたりければ、北面に伺公したらん者、皆召して参れと御定あり。
壱岐判官知康、薩摩判官信盛、源内左衛門尉定安候けるを、資時召して参られたりけるを、「やおのれらは是にあれ、ただ今きと忍びてあるかばやと思ふぞ、かやうの事を下臈に聞かせければ、披露する事もあり、各々心を一にして此女房ごし仕れ」と法皇仰せありければ、「御前立さらば後あしき事もこそあれ」とて、各々畏て頓て御輿をつかまつる。
下簾かけられたり。西の小門と仰ありて出させまします、浄衣着たる男一人参りあふ、あれは誰ぞと申ければ、為末と名乗る。
法皇聞召ししらせ給て、御供仕れと仰ありければ、参りけり。年来伊勢氏人為末とて北面に候ける者也、七条京極を北へいそげと仰せ有りければ、各々あせ水になりて仕る、為末近き御幸かとおもひたれば、遠き御幸にてありけるよとて、知りたる人を尋ぬるに二所まで空し、二条京極にて、征矢に黒ぬりの弓をかりえて、浄衣のそばたかくはさみてはしる、これを待ちつけんとや思召けん、いそがずともくるしきにと仰有り。一条京極にて弓のつるつけするおと聞ゆ、其こゑいかめしく聞ゆ。
院は糺の明神をふし拝ませ給て、東のしらむほどになりにければ、法皇御後を御覧ずれば、為末矢おひながら脇ごしに参るぞ、頼もしき武者かなと仰ありて笑はせ給けり。かくて夜もほのぼのと明ければ鞍馬寺へぞ入せ給ける。
【平家都落事】
廿五日、橘内左衛門尉季康と申ける平家の侍は、院にも近く召仕はれければ、折しもその夜法住寺殿にうへぶしたりけるが、常の御所のかたさわがしくささめき合ひて、しのび声にて女房たちなかるる声のしければ、怪しと思ひて聞ければ、御所の渡らせ給はぬは、いづちへやらんとて騒ぎあへり。
季康浅ましと思ひて、急ぎ六波羅へはせ参りたり。
内府はいまだ女院の御所より出給はぬほど也。やがて女院の御所へ参りて、内大臣殿呼び出し奉りて此由を申。
内府大に慌て騒ぎて、ふるひ声にて「よもさる事あらじ、僻事にてぞ有るらん」と宣ひながら、急ぎ法性寺殿へ馳参り給ひて、尋ね参らせられければ、夜番近く候はれける人々皆候はれけり。
まして女房丹後の局を始めとして、一人もはたらき給はず。
大臣殿、君は何処に渡らせ給ふぞと申されけれども、我こそ知り参らせたれといふ人もなし、ただ各々なきあへり、浅ましなど云ばかりなし。
去程に夜も明ぬ。
法皇渡らせ給はずと披露ありければ、上下諸人はせ集りて、御所中まどひさわぐ事斜ならず。まして平家の人々、唯今家々にかたきのうち入たらんも限りあれば、これには過じとぞ見えし。軍兵落中に充満してありければ、平家の一門ならぬ人も、さわぎ迷はぬは一人もなかりけり。
日比は法皇の御幸をもなし奉らんと、支度せられたりけれども、かく渡らせ給はねば、内府は頼む木下に雨のたまらぬ心地して、さりとては行幸ばかりなりともなしまいらすべしとて、御輿さしよせたり。忝き鳳輦を西海の浪にいそぐべきにはあらねども、主上いまだいとけなき御よはひなれば、何心なく奉りぬ。
神璽宝剱とり具し、建礼門院も同じ輿に奉る。内侍所も渡し奉りぬ。印鑑、時簡、玄上、鈴鹿に至る迄、とり具すべしと平大納言時忠下知し給ひけり。れどもあまりにあわてにければ、とりおとす物多かりけり。昼御座の御剱も残しとどめてけり、
御輿いださせ給ひければ、前後に候人は、平大納言時忠、内蔵頭信基ばかりぞ、衣冠正しうして供奉したりける。其外の人人は、公卿も近衛司も、御綱佐も皆鎧を着給へり。女房は二位殿をはじめ奉りて、女房輿十二ちやう、馬の上の女房は数をしらず。
七条を西へ朱雀を南へ行幸なる。夢などの様なりし事どもなり。一年都うつりとてあはただしかりし御幸は、かかるべかりししるしにてありけるよと、今こそ思ひ合すれ。
かかるさわぎの中に何者かたてたりけん。六波羅の惣門に札に書てたてけるは、
あづまよりともの大風吹来れば西へかたぶく日にやあるらん
六波羅の旧館西八条の蓬屋よりはじめて、池殿、小松殿以下の人々の宿所三十余所、一度に火をかけたれば、余炎数十町に及びて、日の光も見えざりけり。
或階下誕生の霊跡、龍楼幼稚春宮、博陸補佐の居所、或相府丞相旧室、三台槐門の故亭、九棘怨鸞の栖也、門前繁昌堂上栄花砌、如夢如幻、強呉滅長有荊蕀、姑蘇台之露〓々、暴秦衰長無虎狼、咸陽宮之煙片々たりけん、漢家三十六宮の楚項羽の為に亡されけんも、是には過じとぞ見えし。
無常春花随風散、有涯暮月伴雲隠、誰栄花如春花不驚、可憶命葉与朝露共易零、蜉蝣戯風懇逝之楽幾許、螻蛄諍露合散之声伝韻、崑閣十二楼上仙之楼終空、雉蝶一万里中洛之城不固、多年経営一時魔滅、法皇仙洞を出させおはしまして見えさせ給はず、主上は鳳闕を去て、西国へとて行幸なりぬ。
関白殿は吉野山の奥に籠らせ給ぬと聞ゆ。
院宮みやばらは、嵯峨、大原、八幡、賀茂などの片辺にかくれさせ給ひぬ。
平家は落ちたれども、源氏もいまだ入かはらず。此都すでに主もなし。人もなきやうにぞなりにける。天地開闢より以来、いまだかかる事あるべしとは誰かしらまし。
彼聖徳太子の未来記にも、今日の事こそゆかしけれ。平相国禅門をば八条太政大臣と申き、八条より北、坊城より西方に一町の亭有し故也。彼家は入道の失せられし暁にやけにき、大小棟の数五十余に及べり。六波羅とてののしりし所は、故刑部卿忠盛の世にいでし吉所也。南は六はらが末、賀茂河一町を隔てて、もとは方一町なりしを此相国の時造作あり。これも家数百七十余宇に及べり。
是のみならず、北の鞍馬路よりはじめて、東の大道をへだてて、辰巳の角小松殿まで廿余町に及ぶ迄、造作したりし一族親類の殿原の室、郎等眷属の住所細かにこれをかぞふれば、五千二百余宇の家々一どに煙と上りし事、おびただしなどいふばかりなし。
法住寺の院内ばかりはしばしやけざりければ、仏の御力にて残るかと思ひしほどに、筑後守家貞が奉行にて、故刑部卿忠盛、入道相国、小松内府の墓所どもを掘りあつめて、かの御堂の正面の間に並べ置きて、仏と共にやきあげて、骨をば首にかけ、あたりの土をばならし、家貞主従落ちにけり。
此寺は入道相国、父の孝養のために多年の間造磨て、代々本尊木像と云、画像と云、烏瑟を並べ金客を交てましまししが、荘厳美麗にして時にとりてならびなし。今朝まで住侶貝を吹、禅侶声をならし、たうとかりし有様の、須臾の間に永く絶にけり。されば仏のとき置きたまへる畢竟空の理は是ぞかし。あはれ也、諸行無常眼前なり。
権亮三位中将の方に人参りて申けるは、源氏既に打入て候、暁より法皇も渡らせ給はずとて、六波羅にはあわて騒ぎ、西国へ行幸ならせたまひ候、大臣殿以下の殿原、我も我もとうち立ち給ふに、いかに今までかくて渡らせ給ふぞと申ければ、三位中将は、日頃おもひ儲たりつる事なれども、さしあたりては、あな心うやとおもひ給ひて出給ひぬ。つかの間もはなれがたき人人を、頼もしき人一人もなきに、捨てて出なんずる事こそ悲しけれと思召すに、涙先立ちてせきあへ給はず、北の方おくれじと出立給へども、兼て申しやうに具し奉りては人のためいとをしきぞ、ただ留り給へとのたまへば、いかにかくはのたまふぞとて、涙もせきあへずさけび給へば、さまざまに拵へ給へども更に叶ふべくもなし、程もふれば、大臣殿さらぬだに、維盛をば二ある者とのたまふなるに、今まで打出ねば、いとどさこそ思ひ給ふらめとて、なくなく出給へば、北の方袖をひかへてのたまひけるは、父もなし母もなし、都に残し留めては、いかにせよとてふりすてて出給ふぞ、野の末、山のすゑまでも、引具してこそともかくも見なし給はめとて、人目をつつまずなきこがれ給ふぞ心ぐるしき、さりとてはいづくにも落留まらん所より、急ぎ迎へとり参らせんとなぐさめ給ふほどに、新三位中将、左中将以下の弟たち四五人はせ来りたまひて、我等は此御方をこそ守り参らせ候に、行幸は遙かに延びさせ給ふに、いかなる御遅参ぞやとのたまへば、弓の筈にてみすをかきあげて、これ御覧ぜよとのばら、ただ軍の先をこそかけめ、是をばいかがやるべきとて、弟なんどにもはばからず涙をぞながされける。
さても有るべきにあらねば、思ひきりて出給けり。中門廊にて鎧取てきて馬引寄せて、既に打出んとし給ひければ、六代御前姫君中門に走り出。鎧の左右の袖に取つきて、父御前はいづくへわたらせ給ふぞや、我等も参らんとて慕ひ給ひしこそ、げにうき世のほだしとは見えけれ、誠に目もあてられずぞ有ける。
斎藤五宗貞、斎藤六宗光とて、年来身近く召仕ひ給ふ侍あり、兄弟也。中将此二人を召してのたまひけるは、己等をば年頃かげの如く、身をはなさず召仕つれば、召ぐしていかにもなりたらん所にて、恥をも隠させんとこそ思ひつれども、いとけなき者ども留置くが覚束なければ、己等二人は留りておさなき者どもの杖柱ともなり。もし安穏にて帰る事あらば、汝等西国へ下らん志にはおもひ落すまじきぞ、己等ならでは此等がために心ぐるしかるべきぞと、こしらへ給へば、二人の者どもくつばみの左右にとりつきて申けるは、君に仕へまゐらせしより、もしもの事あらば、いのちをすて候はんと思ひきりて候き、こんどすてられまいらせば、ほうばいに再おもてをあはせ候なんや、理をまげて御供に候べしと申ければ、多くの者共の中に思ふ仔細ありてこそ留めおけ、など口をしくかくは申やらん、かかるをりふしなれば、ただとてもかくても思ふにやとうらみたまへば、心うく悲しくは思ひけれども、涙を押へながら留りぬ、遙に見送り奉りて、なほも走りつきてしたひけれども、まこと思召すやうのありてこそ留め給ふらめ、しきりにこしらへ給へる事を、そむき申さん事もかへりて不忠なるべければ、追こそまいらめと思ひて、なくなく留りにけり。
中将はかく心づよくふりすて出給ひけれども、なほさきへは進み給はず。
うしろへのみ引返すやうに覚えて、涙にくれて行先も見え給はず。鎧の袖もいたくしほれにければ、弟たちの見給ふもさすがつつましくぞ思召す。
北の方は年頃ありつれども、これ程なさけなき人とはしらざりけり、いつよりかはりける心ぞやとて、引かづきてふし給へば、若君姫君も前にふしまろびてなき給ふ、かく捨られ給ひぬれば、いかにして片時もあかし暮すべしともおぼしめさず、世の恐しさも堪へ忍ぶべき心地もし給はず、身一人ならばせめてはとにもかくにもありなん、幼き人々の事を思ひ給ふぞ、いとど道せばくかなしかりける。
池大納言頼盛は、池殿に火かけて子息保盛、為盛、仲盛、光盛等引具して打出らる。侍ども皆おち散りて、わづかに其勢百騎、鳥羽の南の赤井河原に暫くやすらひており居られ、大納言四方を見廻してのたまひけるは、行幸にはおくれぬ、かたきは後にあり、中空なる心地のするはいかにとの原、此度などやらんにげ憂きぞとよ、ただ是より帰らんと思ふなり、都にては弓矢とりの浦やましくもなきぞ、されば故入道にも従ひてしたがはざりき、さうなく池殿を焼つるこそ返々もくやしけれ、いざさらば京の方へ鎧をば各々用意のために着るべし、人は世にあればとて、奢るまじかりけることかな、入道のすゑは今はかうにこそあんめれ、いかにもはかばかしかるまじ、都を迷ひ出ていづくをはかりともなく、女房をさへ引具して旅立ぬる事の心うさよ、侍ども皆赤印取すてよとのたまひければ、とかくする程に、未の時ばかりになりにけり。
京へ今は源氏打入ぬらん、いづちへか入らせ給ふべきとさぶらひども申ければ、何様にも京を離れてはいづちへか行べき、とくとくとて大納言前に打て馬を早めて帰給ふ。みるもの怪しくぞ思ひける。
九条より朱雀を上りに、八条女院御所、仁和寺の常葉殿へ参り給ふ。大納言は女院の御めのと子、宰相殿と申女房に相ぐせられたりければ、此御所へ参らるる。
女院より始め参らせて女房たち侍ども、いかに夢かやと仰あり。
大納言は鎧ぬぎ置給ひて、直垂計りにて御前近く申されけるは、世の中の有さまただ夢のごとくにて候、池殿に火をかけて心ならず打出て候つれども、つらつらあんじ候へば、都に留りて君の見参にも入、出家入道をも仕りて、静に候て後生をも助からんと存候て、かく参りて候と申されければ、女院、三位殿を御使にて、誠にそれもさる事なれども、源氏既に京へ入て平家を亡すべしと聞ゆ、さらんにとりては、此内にてはかなふまじ、世の世にてあらばや、仰も仰にてあらめと仰ありければ、頼盛畏て申されけるは、誠に左様の事になり候はば、いそぎ御所をもまかり出候なん、なじかは御大事に及候べきと申されければ、女院又いかにもよくよく相はからはるべし、但源氏とののしるは、伊豆の兵衛佐ぞかし、それはのぼりぬるやらん、のぼりたらばさりともよも別事あらじ、かしこくこそ故入道と一心におはせざりけれ、今は人もよし、平家の名残とて世におはしなんずと仰の有ければ、頼盛世にあらんと申候はんでう今何事か候べき、ただ今落人にてここかしこさまよひ候はんことのかなしさにこそ、かやうに参りて候へ、故母池尼上が事申出して、其かたみと頼朝は思はんずるぞ、世にあらんと思ふもその為也と、頼朝が度ごとに申遣はして候し也、其文どもこれに持ちて候とて、中間男の首にかけさせたる皮袋よりとり出して見参に入られけり。
同じ筆なるもあり、またかはりたるもあり。然れども判はいづれもかはらずと御覧あり其上討手づかひ上るにも、あなかしこあなかしこ、池殿の殿原に向ひて弓をも引くべからず、弥平佐衛門宗清に手かくなと、国々軍兵にも兵衛佐いましめられけるとかや。
越中次郎兵衛盛次、大臣殿御前に進み出て申けるは、池殿は留まらせ給ひ候にこそ、あはれ安からず口惜く候ものかな、上はさる御事に候とも、侍共が参り候はぬこそいこんに候へ、矢一射かけて参り候はんと申ければ、中々さなくともありなん、年比の重恩をわすれて、いづくにもおちつかん所を見送らずして、留まる程の者は、源氏とても心ゆるしせじ、さほどの奴ばらありとてもなににかはせん、とかくいふに及ばずとぞ大臣殿のたまひける、三位中将はいかにと問たまひければ、小松殿の公達もいまだ一所も見えさせ給はずと申ければ、さこそ有んずらめとて、よに心細げにおぼして、御涙の落ちけるを押のごひ給ふを、新中納言見給ひて、皆おもひまうけたる事也、今更驚くべきに非ず、都を出ていまだ一日だにも過ぬに、人々の心も皆かはりぬ、行先こそおし計らるれ、都にていかにもなるべかりつる物をとて、大臣殿の方を見やり給て、つらげにおほされたり、げにもと覚えて哀也、
去程に、権亮三位中将維盛、新三位中将資盛、左中将清経以下兄弟五六人引具して、淀東、六田河原を打過て、関戸院のほどにて行幸に追ひ付給へり。其勢僅に三百騎ばかりぞありける。
大臣殿は此人々を見つけ給ひて、すこし力付きたる心地して、今まで見え給はざりつれば、覚束なかりつるに、うれしくもとのたまひければ、三位中将幼き者どものしたひ候つる程に、今までとて御涙の落けるを、さりげなき様に紛らかし給ける有様、まことに哀にぞみえける。
大臣殿又いかに具し奉り給はぬぞ、留置き奉りては心ぐるしき事にこそとのたまへば、行末とてもたのみ候はずとて、問につらさといとど涙ぞ流しける。
池大納言の一類は、今や今やと待給けれども終に見え給はず、其外の公卿には、前内大臣宗盛、平大納言時忠、平中納言教盛、新中納言知盛、修理大夫経盛、左衛門督清宗、本三位中将重衡、権亮三位中将維盛、越前三位通盛、新三位中将資盛、殿上人には、内蔵頭信基、皇后宮亮経正、左中将清経、薩摩守忠度、小松少将有盛、左馬頭行盛、能登守教経、武蔵守知章、備中守師盛、小松侍従忠房、若狭守経俊、淡路守清房、僧綱には、二位僧都全親、法勝寺執行能円、中納言律師忠快、侍には受領、検非違使、衛府、諸司亮、百六十余人、無官の者数を知らず、此二三ヶ年の間、東国北国度々の合戦に皆討れたるが、僅に残る処也。
其時近衛殿下と申は、普賢寺内大臣基通の御事也、太政入道の御聟にて平家に親み給たりける上、法皇西国へ御幸なるべきよし聞えければ、摂政殿も御供奉あるべきよし御領状ありければ、内大臣殿より已に行幸なり候ぬと告げ申されたりければ、摂政殿御出ありけれども、法皇の御幸もなかりければ、御心中に思召し煩はせたまひけるに、御供に候ける進藤左衛門尉頼範が、法皇の御幸もならせ給候はず、平家の人々も多く落ち留らせ給ひ候ぬ、これより還御あるべくや候らんと申たりければ、平家の思はん所はいかがあるべきと御気色ありければ、頼範しらぬ顔にて頓て御車を仕る。
御牛飼に目を見合せたりければ、七条朱雀より御車をやり返す、一ずはえへあてければ、究竟の牛にてありければ、飛がごとくにて、朱雀を上りに還御なりにけり。
平家の侍越中次郎兵衛盛次これを見奉て、殿下も落させ給ふにこそ口をしく候ものかな、留め参らせ候はんと申ままに、片手矢はげて追ひかけけり、頼範返合せて戦けるを、大臣殿見給て、年頃の情を思ひ忘れて、落ん人をばいかでもありなん、一門の人々だにもあまたみえたまはず、せんなしとよと制し給ひければ、盛次引帰にけり、摂政殿へ都へは帰らせたまはで、西林寺といふ所に渡らせたまひて、それより知足院へぞ入せたまひける、是を知らずして、摂政殿は吉野の奥へとぞ申あひける、河尻に源氏廻りたりと聞えければ、肥後守貞能馳向たりけるが、僻事にてありければ、帰り上りけるに、此人々の落たまふに行合ひけり、貞能はこむらごの直垂に、黒かは威しの鎧着て、大臣殿の御前にて馬より下りて、弓脇にはさみて、爪弾をして申けるは、あな心うや、これはいづちへとて渡らせ給ふぞや、都にてこそとにもかくにもならせ給はめ、西国へ落させ給たらば、遁れさせ給べきか、又たひらかに落着かせたまふべしとも覚え候はず、落人とてここかしこにうち散らされて、かばねを道の辺りにさらしたまはん事こそ心うけれ、こはいかにしつることぞや、新中納言、本三位中将殿引返らせたまへ、興あるいくさ仕て、後代の物語にせさせ候はん、弓矢取る習ひ、かたきに討るる事全く恥にて非ず、何事も限り有る事なれば、平家の御運こそつきさせ給ひぬらめ、さればとてかなはぬもの故、かたきに後を見えんことうたてく候と申ければ、新中納言は大臣殿の方をにらまへて、誠に心うげに思ひたまへり。
大臣殿のたまひけるは、貞能はまだ知ぬか、源氏天台山に上りて谷々に充満したん也、此夜半ばかりより、院も渡らせ給はず、各々が身一ならばいかがはせん、女院二位殿を始め奉て、女房あまたあり。忽にうきめをみせん事もむざんなれば、一まどもやと思ふぞかし、かつうは又、禅門名将の御墓所にまうでて、思ふほどのことをも申置きて、塵灰ともならばやと思ふ也とのたまへば、
貞能又申けるは、「弓矢取習ひ、妻子を憐む心だに候へば、おもひきらぬ事にて候、さこそ夥しく聞え候とも、源氏忽によもせめ寄り候はじ、又法皇をばいかにして逃し参らせて、渡らせたまふにか、よひより参りこもらせ給ひて、御目をはなち参らせでこそすすめ申させたまふべく候けれ、季康などぞ告げ申て候らん、さりとも女房達の中に知り参らせぬ事はよも候はじ、足をはさみてこそ糾問せさせ給ひ候はめ、季康が妻と申候奴は、御内には候はざりけるか、しやつが中げんにてぞ候らん、憎さはにくし、貞能に於てはかばねを晒すべし」とて帰上る。
盛次、景清、同貞能につきて帰上る、其勢二千余騎ばかりぞ有ける。
!義仲これを聞て申けるは、貞能が最後の軍せんとて、かへり上りたるこそ哀なれ、弓矢取の習さこそあるべけれ、相構へて生捕にせよとぞ下知しける、酉の時まで待てども待てども大臣殿以下の人々帰り上り給はず、今朝家々は皆焼ぬ、何に着べしともなくて法住寺の辺に一夜宿す、貞能都へ帰り上りぬと聞えける上、盛次、景清大将軍として都に残り留る、平家ども討べしと聞えければ、池大納言は色を失ひて騒がれける、されども源氏もいまだ打入ず、平家には引わかれぬ、波にもいそにもつかぬ心地して、八条院にもしもの事候はば、助させ給へと申されけれども、それもかかる乱れの世なれば、いかがはせさせ給べき、院の御所には、さればこそいかにも事の出来ぬと、女房たちあわてさわぎて、終夜物をはこびなどしければ、北面の者どもいたく物さわがしくあわて給ふべからず。
たとへば平家の方より院の渡らせ給ふ所を尋ね申さんずるか、山に渡らせ給ふよし聞えければ、其旨いひてんずとて各々いもねず。
其夜も明けぬれば、貞能御所へをし入て、何といふ事もなく御厩に立られたりける御馬を、かいえりかいえり引出して、則御所をば出にけり。
盛次、景清が入洛の事は僻事にてぞ有ける。
貞能はたけく思へども力及ばずして、西をさし落にけり。心の中こそかなしけれ。日ごろ召置たりつる東国の者ども、宇都宮左衛門尉朝綱、畠山庄司重能、小山田別当有重在京してありけるが、子息所従等皆兵衛佐に属しにければ、是等は召籠られて有しを、西国へぐし下て斬るべしとさた有りけるを、貞能是等が首ばかりを召されたらんによるまじ、妻子けんぞくもさこそ恋しく候らめ、ただとくとく御ゆるしあて、本国へ下さるべく候と、再三申ければ、誠にさもありなん、汝等が首を切たりとも、運命尽きなば世をとらん事かたし、汝等をゆるしたりとも宿運あらば、又立帰ることもなどかはなかるべき、とくとくいとまとらするぞ、若世にあらば忘るなよとてゆるされにけり。
是等も廿余年のよしみ名残なれば、さこそ思ひけめども、各々悦びの涙をおさへて罷りとどまりにけり。其中に宇都宮左衛門は、貞能が預りにて日来も事にふれて芳心有りけるとかや、源氏の世になりてのち、貞能宇都宮を頼みて東国へ下りければ、昔のよしみ忘れず、申預り芳心しけるとかや。
平家の人々は淀の渡せの程まで、船を尋ねて乗給ふ。御心の内こそかなしけれ、或はしきつの浪枕、八重の塩路に日を経つつ、船に棹さす人もあり。或遠きはげしきを忍びつつ、馬に乗人もあり。前途をいづくとも定めず、生涯を闘戦の日に期して、思々心々にぞ落られける。
権亮三位中将の外は、大臣殿を始めて宗徒の人々皆妻子を引具し給へども、侍共はさのみ引しろふに及ばねば、皆都に留置しかば、各別れを惜みつつ、夜がれをだにも心苦しく思ひし者どもの、行も留るも互に袖をしぼりけり。ただかりそめのわかれをだに恨みしに、後会其期を知らず、別れけんこそ悲しけれ。相伝譜代の好も、年ごろ浅からざる重恩も、いかでか忘るべきなれば、悲しみの涙を押へつつ、大方催されては出けれども、進まれず、都をはなれがたし。留め置し妻子も忘れがたければ、いづれも行やらざりけり。
淀の大渡にてぞ男山ふし拝み、南無八幡三所今一たび都へ返し入させ給へとぞ各々祈念し給ひける。されども神慮もいかがありけんはかりがたし、誠に古郷をば一片の煙りに隔てて、前途万里の波を分け、いづくに落付べしともなく、あこがれ落給ひけん心の内、おしはかられて哀なり。
其中にやさしく哀なりしことは、薩摩守忠度は当世随分の好士なり。
其頃皇太后宮大夫俊成卿、勅を奉て千載集を撰れけり。忠度乗かへ四五騎がほど相具して四づかの辺より帰て、彼俊成卿の五条京極の宿所の前にひかへて、門をたたかせければ、内よりいかなる人ぞと問へば、薩摩守忠度と名乗りければ、落人にこそと聞きて、世のつつましさに、返事もせられず、門も明ざりければ、其時忠度別の事にては候はず、此程百首をつらねて候を、見参に入ずして外土へ罷り出ん事の口惜さに、持て参りて候、何かくるしく候べき、立ながら見参に入候はばやといひたりければ、三位哀と思して、わななくわななく出合給へり。
世静り候なば、定て勅撰の功終候はんずらん、身こそかかる有さまにて候とも、なからんあと迄も、此道に名をかけん事、生前の面目たるべし、集撰ばれ候中に、此巻物の中にさるべき句も候はば、思召立て一首入られ候なんや、かつうは又念仏をも御弔ひ候べしとて、箙の中より百首の巻物を取出して、門より内へ投入て、忠度今は西海の浪に沈む共、此世に思ひ置く事候はず、さらば入せ給へとて、涙をおさへて帰りにけり。
俊成卿涙をおさへて内へ帰り入て、燈のもとにて此巻物を見られければ、歌どもの中に古さとの花といふことを、
さざ波やしがの都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな
忍恋
いかにせんみかきが原につむ芹のねのみなけども知る人のなき
其後いく程なくて世静りにければ、かの集撰ばれけるに、忠度此道にすきて道より帰りたりし志浅からず。但勅勘の人の名を入る事、はばかりある事なればとて、此二首をよみ人知らずとぞ入られたりける。延喜天暦は年号を名によばれ、花山一条皇居を御名に付給ふ。その身朝敵とはいひながら、口惜かりしこと也。
左馬頭行盛も、幼少より此道を好て、京極中納言入道定家卿、其比少将にてましましけり。彼行盛常にましましてむつび給ひき、此道をのみたしなみ給き、さるほどに一門都を落し時、日頃の名残を惜みて、何となくよみたる歌ども書集て、後の思ひ出にもとやおぼされけん、文こまかに書て袖書にかくぞ書たりける。
ながれ名のなだにもとまれ水ぐきのあはれはかなき身はきえぬとも
定家少将、此歌を見たまひて、感涙をながして、若撰集あらば必ずいれんとぞ思はれける。俊成卿忠度の歌をよみ人知らずとて、千載集に入られたりし事を心うき事におぼして、後堀河院の御時、新勅撰を撰ばるるとき、三代名を顕すことこそ恐れなりつれ、今は三代過給ひたれば、何かくるしかるべきとて、左馬頭行盛と名を顕はして、此歌を入られたりしこそ優しく哀れに覚えしか。
皇后宮亮経正は、幼少より仁和寺守覚法親王の御所に候はれしが、昔のよしみ忘れがたく思されければ、これも引返して侍二人打具して、五宮御所へ参りて、人して申入ければ、一門運尽ぬるに依て、けふ既に帝都を罷出候上は、身を西海の浪に沈め、かばねを山野の辺に曝し候はん事疑ひ候まじ、但此世に心留り候事は、君を今一度見参らせ候はで、万里の波にただよひ候はんことこそ、かなしみの中の悲みにて候へと申入たりければ、宮は世おほきに憚り思召しけれども、またも御覧ぜぬこともこそあれとて、則御前へ召されけり。
経正は練貫に鶴を縫ひたる鎧直垂に、萌黄糸をどしの鎧をぞ着たりける、二人の侍教朝重時も冑きたり。
経正なくなく申されけるは、十一歳と申候ひし時より、此御所に初参仕て、朝夕御前をたちはなれ参らせ候はず、叙爵仕て後も、禁裏仙洞の出仕のはばかりには、いかにもして此御所に参らんとのみ存候しかば、一日に二度参る日は候へ共、参らぬ日は候はざりしに、都をまかり出候て鎮西の旅泊にただよひ、八重のしほ路を漕へだて候なん後は、帰京其期を知らず候、されば今一度君を見参らせんと存候て、きげんをかへりみ候はず、推参仕て候と申て、藤九郎有盛にもたせたりける御琵琶を取寄て、あづけ下されて候青山をば、いかならん世までも、身をはなち候まじと存候つれども、名宝を西海の底に沈め候はん事、心うく候て持ちて参りて候也とて、錦の袋に入れながら御前に差おかる。
是を御覧じて御涙にむせばせましまして、御返事に及ばず御衣の袖もしぼる計也。
此青山と申御琵琶は、村上天皇の御時、秋の夜月くまなく風の音身にしみて、何となく物哀なるに、此御琵琶をかきならし、帝万秋楽の秘曲を弾ぜさせたまひしに、更闌夜閑かになるままに、御ばち音いつよりもすみのぼりて、身にしみて聞えけるに、五六帖の秘曲に至りて、天人あま下りて、廻雪の袖をひるがへして、則雲をわけてのぼりにけり。其後かの御琵琶を、凡人ひくことなかりけり。代々の帝の御財にて有けるを、次第に伝はりて、この宮の御方に参りて、御宝物の其一にてありけるを、此経正十七歳にて初冠して、宇佐の宮勅使に下されし時、申下して宇佐の拝殿にて、わうしきてうにて海青楽を弾きたりしに、神明御納受ありて、天童の形をして、社壇にてまひ給ふ。
経正此奇異の瑞を拝して、神明御納受ありけりとて、楽をば引やみて、三曲の其一流泉の曲を暫くしらべられければ、宮人心ありければ、各々袂をうるほしけり。村上御宇より此かた、凡人此びはをひく事経正一人ぞありける。
かかる宝物なりければ、経正身にかへて惜くはおぼされけれども、是を御覧ぜんたびごとに、思召出つまとなれかしなどおぼされければ、御びはを参らせあぐるとて、
呉竹のもとの筧はかはらねど猶すみあかぬ宮の中かな
宮御涙を押へさせ給ひて、
あかずしてわかるる袖に涙をば君がかたみにつつみてぞおく
御前に浅からずちぎりし人々あまた有ける中に、侍従律師行経といひける人、ことに深く思ひ入られたり。
皆ちりぬ老木もこきも山ざくらおくれさきだつ花も残らじ
経正なくなく、
旅衣よなよな袖をかたしきて思へば遠く我はゆきなん
との給ひて、今は心にかかる事候はねば、いかになる身の果までも、おもひ置事露候はずとて、御前を立れければ、朝夕見たまひし人々、鎧の袖に取付きて衣の袖をしぼられけり。誠に夜を重ね日を重ぬとも御名残は尽候まじ、行幸は遙にのびさせたまひ候ぬらん、さらばいとま申てとて、甲の緒をしめて、馬に打乗、宮の御前へ参る時は、世をも御憚ありとてつつみつれども、まかりいでける時は、赤旗一ながれささせて、南をさしてあゆませけり。
かく心づよくは出たれども、住なれし古京を、ただ今を限りにて、打出られければ、鎧の袖もしぼるばかりにて、行幸に追付参らせんと、ふちを上げられける心の内こそ哀なれ、さて行幸に追付参らせて、何となく心のすみければ、かくぞ思ひつづけける。
御幸するすゑも都と思へども猶なぐさまぬ浪のうへかな
平家は福原の旧里に着きて、一夜をぞ明されける。
各々禅門の御墓所に参りて、過去聖霊、出離生死、往生極楽、頓証菩提と祈念して、存生の人の前に物をいふ様に、つくづくとくどき給ふ。
岩木もいかで哀と思はざるべき、さても主上は島の御所へ入らせ給へば、月卿雲客みな故入道の墓所へ参られけり。女院二位殿も参らせ給ふ。
其間主上をば時忠卿いだき奉て、雪御所の馬道(めんだう)に立給ふ。
内大臣以下の一門の人々みなつれて、墓所を見給へば、五輪落散りて苔むせり。忍草生茂りて牛馬の蹄も行かふ道なく、円実法眼が書写供養したりし、法華経八軸の石御経も所々に〓壊したり。女院自ら是を拾ひ直させ給こそ哀なれ。
二位殿御袖を顔に押当て仰られけるは、たとへ業報限ありて他界し給ふとも、いつしかかかるべしや、さしも執ふかくましまししに、草の陰にも守りたまへ、女院も是に渡らせ給候ぞ、さしもいとをしくし給し小松内府の子共も、みな是にありなどかきくどき、涙もせきあへずのたまへば、答ふる者もなかりけり。
さらぬだに秋に成行旅の空、物うからずといふ事なし。
さこそ心細くおぼされけめ、其後主上は島の御所へ入せ給ふ。二位殿いだき参らせて南面にまします、内大臣宗盛、新中納言知盛、大床の左右より参り給て、知盛卿申されけるは、兵どもを見候へば、例ならず見え候、心がはりして候やらん、召して仰含めらるべきよし申されければ、肥後守貞能、飛騨守景家、越中前司盛俊以下侍共を召て二位殿仰られけるは、積善余慶家に尽て積悪の余殃身に及び、神明にも放たれ奉り、君に捨てられ奉り、帝都を迷ひ出て旅泊にただよへる上は、さこそ心細く頼み少くあるらめども、一樹のかげに宿るも前世のちぎり浅からず、一河の流を汲むも他生の縁猶深し、何ぞいはんや、汝等は一旦語ひをなす家人に非ず、累祖相伝の門客也、或は親近の好み異他もあり、或は重代の芳恩これふかきもあり、家門繁昌の昔は、恩潤によて私をかへり見き、楽み尽きて悲しみ来る、今は何の思慮をめぐらしてか救はざらんや、其上十善帝王、三種の神器御身に随へてましませば、天照太神も立帰て、我君をこそ守りはぐくみ給ふらめ、つらつら此事を思ふに、宿運強き我也、速に合戦の忠を励まして、再び都へ返し入奉て、逆徒を討取て、徳は昔に超、名をば後代に留めんと、思ふ心を一にして、野の末、山のはてまでも、君の落付せましまさん所へ送り奉るべし、火の中へ入水の底に沈むとも、今は限りの御有さまを見はて奉るべし、とのたまへば、三百余人御前に並居たる者ども、老たるも若きも、涙を流し袖をしぼりて申けるは、心は恩のためにつかへ、命は義によて軽ければ、命をば相伝の君に奉候ぬ、あやしの鳥獣だにも、恩を報じ徳を報ふ志候とこそ承はれ、いかに申さんや、人としていかでか年来日来の重恩を忘れて、君をば捨参らせ候べき、廿余年の間官位と云ひ俸禄といひ、身に於て名にあげん事も、妻子をあはれみ、郎従をかへりみしことも、しかしながら君の御恩にあらずといふ事なし、就中弓矢の道に二心を存をもて、長く世の恥とす、たとへ日本国の外なる新羅、高麗、百済国、雲のはて海の果なりとも、おくれ奉るべからずと一同に申候れば、二位殿大臣殿も今更に頼もしく思召て、嬉しきに付きてもつらきに付きても、涙にむせばせ給ふ。
薩摩守忠度かくぞくちずさみ給ひける。
はかなしや主は雲井にわかるれどやどはけぶりとのぼりぬるかな
修理大夫経盛卿、
古さとを焼野の原にかへりみてすゑも煙りの波路をぞゆく
平大納言、
こぎ出て波とともにはただよへどよるべき浦のなき我身かな
同北の方、
磯なつむ海人よをしへよいづくをか都のかたを見るめとはいふ
誠にしばしと思ふ旅だにも、別行は悲しきぞかし。是は心ならず立はなれて、いづくをさすともなく、ただよはれけん。さこそ心細かりけめとおしはかられて哀なり。
中にも入道の立置き給ひし花見の春の岡の御所、初音を尋ぬる山田の御所、月見の秋の浦の御所、雪の朝の萱の御所、島の御所、馬場殿、泉殿、二階のさじき殿より始て、五条大納言の作り置れし里内裏、人々の家々にいたるまで、いつしか三年のほどにいたくあれ果てて、みすもすだれもなかりけり。
旧苔道をふさぎ、秋の草門をとぢ、かはらに松生ひ、垣につた茂りて分入袖も露けく、行かふ道も絶えにけり、ただ音づるる物とては松吹風の音計也。つきせずさし入ものとては、もりくる月のみぞ面がはりせざりけり。さらぬだに秋に成行、大方は物うきに、昨日は東海の東にくつばみを並べ、けふは纜を西国の西にとく、雲海沈々として、蒼天既に明けなんとす、孤島に霞立ちて、月海上に浮ぶ、長松の洞を出て駒の蹄を早むるは、嶺猿の声に耳を驚かし、極浦の浪を分て、潮に引れて行船は半天の雲にさか上る、夜深起きて見れば、秋の初の廿日余の月出て、弓張に深行空もしつ嵐の音すごくして、草葉にすがる白露も、あだの命によそならず、秋の初風立ちしより、やうやう夜寒に成行ば、旅寝の床の草枕、露も涙も争ひて、そぞろに物こそかなしけれ、二位殿大臣殿も一所にさしつどひて、さてもいづくに落付せ給ふべき。故入道かかりける事をかねてさとられけるにや、此所をしめて家を立て、船を作りおかれたりける事の哀さよなど、こし方行末の事どものたまひかよはして、互に涙を流し給ひけるほどに、夜もほのぼのと明にけり。
平家の跡と源氏に見すなとて、浦の御所より始て御所に火を掛て、主上女院をはじめ奉りて、二位殿北の政所以下人々皆船に召して、万里の海上に浮びたまひければ、余炎片々として海上赫奕たり。都を立ちしほどこそなけれども、これも名残は惜かりけり。
海人のたくもの夕しほ(煙)、尾上の鹿の暁の声、渚々によする波の音、袖に宿かる月の影、目に見耳にふるる事、一として涙を催さずといふ事なし、平家は保元の春の花とさかえしかども、寿永の秋の紅葉とちりはてて、八条、峯里、六波羅の旧館より始めて、福原の里内裏に至る迄、暮風塵を揚げ煙雲焔をはく。龍頭鷁首を海上に浮べて、波の上の行幸安き時もなかりけり、いそ辺の躑躅の紅は、袖の露より咲くかと疑はれ、五月の旅寝の苔の雫は、故郷の軒のしのぶにあやまたれ、月をひたす潮の深き愁に沈み、霜おほへる蘆の葉のもろきいのちを危ぶむ。すざきにさわぐ千鳥の声は、暁のそへはいにかかるかぢ浪は、夜半にこころを砕くかな、白鷺の遠き松に群居るを見ては、源氏のはたをなびかすかとうたがひ、夜雁の遼海になくを聞きては、兵の船をこぐかと驚き、青嵐に膚を破て、翠黛紅顔の粧ひ漸く衰へ、蒼波眼を穿て懐土望郷の涙おさへがたし。
卿相雲客の朝敵と成て、都を出そめしをきくに、昔藤原の仲麿といふ人有けり、贈太政大臣武智麿の子也、高野女帝の御時、帝の従父兄弟にて、内外執行して候給ひける程に、御寵臣と成て、天下の政を心のままに執行して、世をも世と思はず、驕て一族親類悉く朝恩に誇れり。
帝御覧ずれば心にゑまほしく思召さるとて、二文字を加へて恵美仲麿と名付、それをもあらためて後には押勝とぞつきにける。大保大師に至りしかば、恵美大臣とぞ申ける。日を経年を重ぬるに随ひて、威雄重くして、人の怖畏るることいまの平家のごとし。
めでたかりし程に、昔も今も世の恐しき事は、河内国弓削といふ所に、道鏡法師といふものあり、召されて禁中に候けるが、如意輪法を行けるしるしにやありけん、帝の御寵愛はなれがたくて、恵美大臣の権勢事の数ならずおしさげられてけり。
法師の身にて太政大臣になされ、御位を譲らんと思召して、大納言和気清麿を御使として、宇佐宮へ申させ給ひたりけるが、御許されもなかりければ、力及ばせ給はず。ただ法皇の位を授けられて弓削法皇とぞ申ける。
恵美大臣は弓削法皇をそねみて、帝を恨み奉けるあまり、天平宝字八年九月十八日、国家をかたぶけ奉らんとはかる。罪逆にあたりしかば、寵臣なりしかども官をやめられて、死罪に行はんとし給ひしかば、大臣兵を集めて防ぎたたかひせんずれども、坂上苅田丸を大将軍として、官兵多くせめかけければ、たまらずして一門引具して都を出で、東国へ赴きて凶徒を語ひて、猶朝家を打たんとたくみけるを、官兵騒て、瀬多の橋を引ければ、高島へ向ひて塩津海津を過て敦賀の山を越て、越前国へ逃げ下り、相具したりける輩をば、是は帝にて渡らせ給ふ。
彼は大臣公卿なりとて、人の心をたぶらかしし程に、官兵追ひつづきてせめしかば、船にこみ乗てにげけれども、風はげしく波荒く立ちて、既におぼれなんとしければ、船よりおりて戦し程に、大臣こらへずして、同つゐに近江国にて討れにけり。一族親類同心合力の輩、
首あたま都へ持参られけり。公卿だにも五人首を刎られぬ。上古もかかる浅ましき事ども有けるとぞ承る。
平家栄えめでたかりつる有さまも、又朝敵と成りて家々に火かけて、都を落ぬる事がらも、恵美大臣にことならず、西国へ落ち給たりとも、幾月かあるべき、ただ今亡びなんずる物をとぞ人々申あひける。
法皇は鞍馬寺より薬王坂小竹が峯などいふ、さかしき山を越えさせ給ひて、横川へ上らせ給て、解脱の谷、寂場坊へぞ入せ給ひける。本院へうつらせ給べきよし大衆申ければ、東塔へうつらせ給ひて、南谷の円融房へぞわたらせたまひける。かかりければ衆徒も武士も弥々力付きて、円融房の御所近く候けり。
【法皇天台山に登御座事】
あくる日廿五日、法皇天台山に渡らせ給ふと聞えければ、人々我先にと馳参らる。
摂政殿近衛殿、左大臣経宗、右大臣兼実公九条殿、内大臣実定公後徳大寺より始奉り、大中納言、参議、非参議、四位、五位、殿上人、上下北面の輩に至るまで、世に人ときざまるる輩、一人ももれずさんぜられければ、円融坊には、堂上堂下門外ひまなかりけり。誠に山門の繁昌門跡の面目とぞ見えし。
【入洛事】
平家は落ぬ。さのみ山上に渡らせましますべきならねば、廿八日御下洛あり。
近江源氏錦古利冠者白旗をさして先陣に候けり。此程は平家の一族赤旗赤印にて供奉せられしに、源氏の白旗今更珍しくぞ思召されける。卿相雲客済々として蓮花王院の御所へ入らせ給ひけり。去程に其日の辰の時計り。
十蔵蔵人行家伊賀国より木幡山を越て京都に入る。
未刻計に!木曾冠者近江国より東坂本を通りて、同く京へ入りぬ、
又其外甲斐信濃美濃尾張の源氏ども、此両人に相従ひて入洛す、其勢六万余騎に及べり。
入はてしかば在々所々を追捕し衣裳をはぎとり、食物を奪ひとりしかば、洛中の狼藉なのめならず。
[モクジ]
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