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1180 治承四年  4月28日 【延】源頼政、以仁王令旨を受ける【吾盛】9日
           5月15日 【延吾玉】以仁王園城寺へ逃走
           5月23日 【覚延】宇治橋合戦
(以仁王・頼政×平家○)
           8月17日 【延盛吾】山木合戦
(頼朝○×山木)
           8月23日 【延盛吾】石橋山合戦
(頼朝×平家○)
           8月24日 【吾】早河合戦
(北条×伊東)
               同 【吾】小坪坂合戦
(三浦×畠山)
           8月27日 【吾】衣笠合戦
(三浦×畠山)
           9月    【 】旗揚げ!
(小見会田?)【覚】治承五年1月
           9月 7日 【吾】市原合戦
(木曾○×笠原)
          10月    【吾】伊那小戦闘(武田・一条×菅)
          10月13日 【吾】木曽殿上野国へ
          10月23日 【覚延盛】富士河対陣【玉】18日【吾】20日
          11月13日 【遺】市河文書(3937)※御下文
         小12月24日 【吾】木曽殿上野国から信濃国へ

1181 治承五年 閏2月 4日 【覚盛吾玉】清盛死去
          閏2月23日 【吾】野木宮合戦
(源義広・足利忠綱×頼朝○)
           3月10日 【盛吾吉】墨俣合戦
(行家×平家○)【覚】16日
           5月  日 【鎌】墨俣合戦
(行家×平家○)【覚】16日
           6月27日 【吉】横田河原合戦
(木曽○×資茂)【延盛玉】6月
           6月15日 【覚】城資長急死【延】2/24【盛】9/3【吉】春

1181 養和元年  8月15日 【玉吉】除目で平助職は越後守従五位下に
           8月16日 【吉】通盛北陸道へ(前日に経正出発)

1182 養和二年  2月21日 【覚】太白昴星を犯す【延盛玉】23日
1182 (治承六年) 2月    【鎌】鎌倉遺文(8775)木曾左馬頭同六年二月下文※石黒庄弘瀬村
1182 寿永元年  8月11日 【玉】讃岐前司重季、以仁王遺児を越前へ
           
9月 9日 【覚】横田河原合戦(木曽○×城)【延盛】治承五年

1183 寿永二年        【 】木曽殿、嫡子を鎌倉に
           3月    【覚】碓氷峠〜善光寺対抗(?)
(木曽×鎌倉)善光寺裏合戦(?) 木曽殿、嫡子を鎌倉へ
           4月17日 【覚延盛】平家北国下向【吾】4/16
           4月21日 【延】燧城合戦(北陸×平家○)【玉】26日
           5月 4日 【吾】水津合戦(○根井×通盛)
           5月 8日 【覚】平家加賀国篠原に布陣【玉】5/3
           5月 9日 【盛】般若野合戦(今井○×盛俊)
           5月11日 【盛玉】倶利伽羅峠対陣【延】6/1
                 【延】砺波山合戦5/11
           5月12日 【延】志雄合戦(行家×平家○→○木曽)【延】6/2
           5月21日 【延】安宅・篠原合戦(○木曽×平家)【盛】1日
           5月    【覚】平家軍帰京【吉】6/6
           6月10日 【覚延】山門牒状(○木曽) 【盛】7/10
           7月25日 【盛玉吉】後白河院延暦寺行幸、平家一門都落ち
           7月28日 【延玉吉】入京【盛】26日
           8月10日 【覚玉】木曽殿、左馬頭に
          10月14日 【覚】十月宣旨(頼朝征夷大将軍院宣)【延盛】9/4
                 【吾】建久三年7月26日
         閏10月 1日 【覚盛】水島合戦(木曽×平家○)
         閏10月 4日 【盛】義仲山陽道へ出発
         閏10月17日?【玉】福降寺畷合戦(木曽○×妹尾)
         閏10月22日 【遺】仁和寺文書(5085)
          11月19日 【覚延盛玉吉】法住寺合戦(木曽○×院方)
          11月29日 【玉】室山合戦(行家×平家○)【吉】11/9

1184 寿永三年  1月15日 【玉】木曽殿、征東大将軍に
           1月19日 【玉】今井→勢多、根井→宇治、樋口×行家
           1月20日 【延盛】宇治川合戦(木曾×義経・範頼○)
           1月21日 【覚】河原合戦【延盛玉吾】20日
           1月24日 【覚】木曽・今井・根井晒首【延盛吾】26日
           1月25日 【覚】樋口斬首【延盛】27日

【吾】吾妻鏡(東鑑)【玉】玉葉【吉】吉記
【覚】覚一本【延】延慶本【長】長門本【屋】屋代本【百】百二十句本
【盛】源平盛衰記
※引例文中の「云々」は極力割愛。




旗上げ〜小戦闘


旗挙げ、木曽殿の戦生活スタート。

中原兼遠に養育された信濃で挙兵!ここをホームグランドとして各地に転戦する。

【覚/廻文】根井小弥太を説得(【盛/兼遠起請の事】で中三権守兼遠が根井滋野行親に義仲を養子に出している)
吾妻鏡の治承4年9月7日の項に義仲の記述があり、市原合戦について触れてあるので7日が旗挙げ、というコトのようだが、実際はそれより前に戦勝祈願をし、緒戦としての小競り合いがあったんじゃないかと。

その小戦闘が小見会田。(【覚/鼓判官】で義仲が「われ信濃を出でしより、小見会田の合戦よりはじめて…」と語っている)この小戦闘により、木曽軍は信濃国国府までを勢力下においた、と思われる。




市原合戦


快勝!

旗挙げをして初めての戦らしい戦がこの市原(古い地名で、現在明確にはどこか分かっていない)。

一説には長野市若里あたりとなっていて(犀川渡河ポイント)、この場合は横田河原合戦の前哨戦と思われる。市村神社がランドマーク。
長野の伊那谷とも言われ、こちらには笠原荘があり笠原頼直の館(?)が高遠にあったことからここで小競合いがあったとしてもおかしくはない(高遠記)。

平家の牧監、笠原平吾頼直(先の宇治川合戦では源三位頼政を討っている)が、義仲の旗挙げを聞きつけ、これを討つ為に800余騎の兵を出したところ、木曽軍の方人(かたうど=味方)栗田寺別当範覚・村山七郎義直がこれを500余騎で迎えうつ。日暮れまで戦ったが、義直の矢が尽きたところで木曽の陣に飛脚をよこして援軍をたのむ。木曽本隊が援軍として大挙し、その威勢をみた笠原頼直は兵を退き、越後国の城太郎資永(助長)の軍下に加わる為に北上。


【吾】治承四年九月七日
源氏木曽冠者義仲主は帯刀先生義賢二男なり。義賢は久壽二年八月、武藏國大倉舘に於いて鎌倉惡源太義平が為、討たれ亡ぶ。時に
義仲三歳嬰兒たるなり。乳母夫、中三權守兼遠これを懷し信濃國に遁れ、これを養育せしむ、成人の今、武略禀性、平氏を征し、家を興すべきの由、存念有り。而るに前武衛、石橋に於いて、已に合戰を始められた由、遠聞に逹し、忽ち相加わり素意を顯さんと欲す。爰に平家方人で笠原平五頼直という者有り。今日軍士を相具し、木曽を擬襲す。々々方人、村山七郎義直、栗田寺別當大法師範覺等、此事聞き、于當國市原に相逢い勝負を決す、兩方合戰半ばで日已に暮れる。然るに義直、箭窮に頗(すこぶ)る雌伏し、飛脚を木曽の陣に遣わし、事の由を告げる。仍って木曽大軍を率い競い到る處、頼直、其の威勢を怖れ逃亡す。城四郎長茂に加わらん爲越後國に赴く




上野多胡庄


一方その頃旗揚げしていた頼朝を洞察?

10月13日、活発に関東制圧を進める頼朝の様子を確かめるかのごとく、義仲は上野国多胡庄に赴く。亡父義賢の知行地で(秩父重隆の養子として武蔵国に下っている)、多胡にも妻があったといいその縁故で木曽軍参加を呼びかけている。が、すぐ近くにすでに頼朝が制圧した地域がひかえている。この時多胡家包など数名が木曽に付き従うが、最終的にこのあたりは頼朝支配下となる。
冬まで滞在し、12月24日木曽へ帰る。


【吾】治承四年十月十三日
木曽冠者義仲、亡父義賢主の芳躅を尋ね、信濃国を出て上野国に入る。仍って住人等漸く和順する間、俊綱 
足利の太郎 の為民間を煩わすと雖も、恐怖の思い成すべからざるの由、下知を加うと。(略)

【吾】治承四年十二月小廿四日
木曾冠者義仲上野國を避け信濃國に赴く。是自立の志有る上、彼の國多胡庄は亡父遺跡たる間、入部令しむと雖も、武衛の權威已に東關に輝く間、歸往の思い成し、此の如しと。





依田城入城


木曽軍は依田城を本拠とする。

義仲は宮ノ越に落ち着く事なく依田城を居城とする。千曲川の上流にある支流依田川に面した場所にあり、越後・出羽に待つ城氏と、敵意はさだかではないが東国を制圧しつつある頼朝を見据えた本拠地とした。


◆この間にあった重大ニュース
清盛死去

【吾】治承五年閏二月四日
戌の刻、入道相国薨ず 九條河原口盛国が家。去る月二十五日より病脳すと。遺言に云く、三箇日以後に葬りの儀有るべし。遺骨に於いては播磨国山田法華堂に納め、七日毎に形の如く仏事を修すべし。毎日これを修すべからず。また京都に於いて追善成すべからず、子孫偏に東国帰往の計を営むべしてえり。
【玉葉】治承五年閏二月四日
夜に入り伝聞、禅門薨去すと。但し実否知り難し。
【玉葉】治承五年閏二月五日
禅門(=清盛)薨逝、一定なりと。昨日朝、禅門は圓實法眼を以て法皇に奏して云く、「愚僧早世の後、万事宗盛に仰せ付けをはんぬ。毎事仰せ合わせ計り行わるべし」とてえり。勅答詳らかならず。爰に禅門怨みを含む色有り。行隆を召して云く、天下の事、偏に前の幕下の最なり。異論有るべからずと。




城太郎資永急死


嗄れ声はいつ、どこで?

治承5年6月15日、城太郎資永急死(覚/【嗄れ声】3万騎で午前4時頃出発、10町ほど進むと暗雲たちこめおどろいて落馬し6時間後に死亡)によって義仲追討は先延ばしになった。
※実際には資永は3月に死去(脳溢血による)、越後守に任じられたのは弟・資職のみ。

【吉】治承五年六月廿七日
風聞に云く、越後国住人資職 
城太郎資永弟、資永去る春逝去 信乃国に寄せ攻め、已に落ちをわんぬ。


(7月14日改元/治承五→養和元)


【盛】同25日除目行なわれけり。陸奥国住人藤原秀衡、征将軍に補されける上に当国守に任ず。越後国住人城太郎資永、越後守に任ず。
秀衡は頼朝追討のため、資永は義仲追討のため也と、各聞書の注文に子細を載せられたり。
【盛】木曾追討の事、去四月に院庁以御下文、資永に仰付たりければ、四万余騎を引率して、信濃国横田川原にして軍に負たりける間、猶も勢を被付べき由其沙汰有て、同26日、中宮亮通盛、能登守教経已下北国へ進発す。


【玉】養和元年七月廿二日
人伝えて云く、越後の助職未だ死せず。勢また強ち滅せず。乃ち源氏等、掠領に似たりと雖も、未だ入部せずと。

【玉】養和元年八月六日
関東の賊徒猶未だ追討に及ばず。余勢強大の故なり。京都の官兵を以て、輙く攻め落とし難きか。仍って陸奥の住人秀平を以て彼の国の史判に任ぜらるべき由、前大将申し行う所なり。件の国、素より大略虜掠す。然れば拝任何事か有らんや。また越後国の住人平助成、宣旨に依り信濃国に向かう。勢少なきに依って軍敗れてえり。


【玉】養和元年八月十二日
伝聞、足利俊綱頼朝に背くの聞こえ有り。また秀平官軍に與力の心有りと。茲に因って京中の武士、昨今の間、聊か雄を称す気有ると。頼朝、秀平の聟たるの條謬説と。また聞く、頼朝甲斐保田三郎義貞を伐ちをはんぬ。異心の聞こえ有るが故と。

【玉】養和元年九月二日
伝聞、北陸道の賊徒熾盛なり。通盛朝臣、征伐すること能わず。加賀以北、越前国中、猶命に従わざる族有りと。


【吾】養和元年八月十六日(寿永二年四月十六日の間違いか?
中宮亮通盛朝臣。爲追討木曾冠者。又赴北陸道。伊勢守清綱、上総介忠清、館太郎貞保發向東國。爲襲武衛也。

【吾】養和元年九月三日
越後守資永 
號城四郎 勅命を任ず。當國の軍士等駈催し、木曽冠者義仲攻め擬する處、今朝頓滅す。是蒙天譴歟 從五位下越後守平朝臣資永、城九郎資國男、母・將軍三郎清原武衡女 養和元八月十三日任叙。

【吾】養和元年九月四日(←寿永二年五月の間違いか?)
木曾冠者、爲平家追討、廻北陸道。而先陣根井太郎、至越前國水津、與通盛朝臣從軍、已始合戰




養和の大飢饉


未曾有の飢饉。

【養和2年/2月21日・太白(金星)昴星を侵す/覚一本】
5月24日には、飢饉疾疫を治めるため、臨時に二十二社の奉幣使を立てられた。
また、5月27日には飢饉の事があって改元された。
(5月27日改元/養和二→寿永元)



【吉】養和二年二月廿二日
伝聞、五條河原の辺、三十歳ばかりの童死人を食うと。人人を食う、飢饉の至極か。定説を知らずと雖も、珍事たるに依ってなまじいにこれを注す。後聞或る説に、その実事無しと。

【玉】養和二年二月廿三日
午刻、泰親朝臣来たり。去る頃、火星歳星を犯す。近日、また金星同星を犯す。共に常事なり。但し火星の変、治承三年大乱の時の変なりと。また云く、この間、金星昴宿を犯さんと欲す。もし存じの如くこれを犯さば、殊勝大事の変なり。

【吉】養和二年三月十九日
道路に死骸充満するの外他事無し。悲しむべき世なり。

【吉】養和二年三月廿一日
風聞に云く、筑後の前吏重貞脚力を上ぐ。謀反の源氏等すでに越前の国赴きをはんぬと。肥後の脚力到来す。菊池未だ落とされず。貞能の管国公私物を点定するの外、他の営み無しと。訴えるに所無きを謂うか。

【吉】養和二年三月廿五日
今夜火有り。押小路高倉なり。近日強盗・火事連日連夜の事なり。天下の運すでに尽きるか。死骸道路に充満す。悲しむべし。




横田河原合戦


都に木曽義仲の名が知れ渡る。


(5月27日改元/養和二→寿永元)
【寿永の改元の除目で資茂は越後守になり長茂に改名/覚一本】


【覚】寿永元年9月2日、義仲追討のため、城助長の弟・四郎長茂が越後・出羽・会津4郡の兵を集め4万余騎(一説には2万)で信濃へ出発。
9月9日、信濃国横田河原に陣をとる。

対する木曽軍は依田城にあったが3000余騎で急ぎ向かう。
数の上でかなり劣る木曽軍は、信濃源氏の井上九郎光盛の計略で赤旗を7流作らせ、3000騎を7手にわけてそれぞれ赤旗を挙げて敵を欺いて近づくと、白旗をあげていっせいに攻撃し【覚】、これにより城軍本隊は壊滅。
玉葉によれば、佐久軍(根井氏の騎馬軍)・甲斐武田軍(武田信義)・木曽本軍と3隊に分かれて奇襲されたという。


城氏はその後、三百余騎で越後国府に退く【覚】
が、さらに出羽または会津まで親族をたよって落ちていった。


【盛】九月九日、通盛教経等の官兵、越後国にして源氏と戦しけるが、平家散々に打ち落されけり。


----実際には一年前に起こった合戦-------------------------------------------------------------------
【玉】治承五年七月一日
兼光相語りて云く、越後国の勇士 
城の太郎助永弟助職、国人白川御館と号す 、信濃国を追討せんと 故禅門・前の幕下等の命に依ってなり 欲し、六月十三四両日、国中に入ると雖も、敢えて相防ぐ者無し。殆ど降を請う輩多し。僅かに城等に引籠もる者に於いては、攻め落とすに煩い無し。仍って各々勝ちに乗る思いを成し、猶散在の城等を襲い攻めんと欲する間、信乃の源氏等、三手 キソ党一手・サコ党一手、甲斐の国武田の党一手 に分ち、俄に時を作り攻め襲う間、険阻に疲れる旅軍等一矢を射るに及ばず、散々敗乱しをはんぬ大将軍助職、両三所疵を被る。甲冑を脱ぎ弓箭を棄て、僅かに三百余人 元の勢万余騎 を相率い、本国に逃げ脱がれおはんぬ。残る九千余人、或いは伐ち取られ、或いは険阻より落ち終命す。或いは山林に交り跡を暗ます。凡そ再び戦うべき力無しと。然る間、本国の在廰官人已下、宿意を遂げんが為助元を凌礫せんと欲する間、藍津城に引き籠らんと欲する処、秀平郎従を遣わし押領せんと欲す。仍って佐渡国に逃げ去りおはんぬ。その時相伴う所纔かに四五十人と。

【玉】養和元年七月十四日
この日、
改元の事有り(養和、敦周撰び申すと)。

【玉】養和元年七月十七日
或人云く、越中・加賀等の国人等、東国に同意す。漸く越前に及ぶと。

【玉】養和元年七月十八日
伝聞、通盛朝臣、北陸道に下向すべし。他の追討使、只今その沙汰無しと。
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------
そして実際の寿永元年には北陸合戦(北陸武士団vs平家)が始まっている。


【吉】養和元年八月十六日
今朝中宮亮通盛朝臣北陸道の追討使として進発す。駒牽無し。信乃国逆徒の為掠領せらるが故なり。

【吉】養和元年九月一日
或者云く、通盛朝臣越前の国府に在り。而るに去る月二十三日、賊徒国中に乱入し、大野・坂北両郷を焼き払う。加賀の国住人等が所為と。勝負今明在り。猶官軍を加えらるべき由、脚力を差し申し上げると。近日連々の風聞此の如き事なり。

【玉】養和元年九月六日
鎮西の謀反殊に甚だし。菊池と原田は元は怨敵と雖も、すでに和平同心し貞能を訪わんと欲す。貞能備
中の国に逗留し、兵粮米を望み申すと。

【吉】養和元年九月九日
越前の合戦すでにおはんぬ。官軍破られ、中宮亮敦賀に引退する由、今日脚力到来す。
【玉】養和元年九月九日
伝聞、通盛朝臣、越前・加賀国人等の為敗られおわんぬ。すでに上洛を企てる。但し実説これを尋ねるべし。又聞く 
この事一昨日聞く所、忘却し今日これを記す 熊野の湛増、使人に付け書札を院に進す。これ関東に向かうと雖も全く謀叛の儀に非ず。公の奉為、僻事有るべからずと。

【玉】養和元年九月十日
通盛朝臣の軍兵、加賀国人等の為追い降さる事一定と。よって津留賀城に引き籠もり、軍兵を副うべき由を申す。したがって武士等を遣わさんと欲す。

【玉】養和元年九月十一日
伝聞、教経 
敦盛卿子 行盛等、副将軍として北陸道に下向すべし。また重衡卿等、東国に赴くべしと。

【玉】養和元年九月十二日
伝聞、通盛津留賀城を逃れ山林に交りおわんぬと。但し実説知り難し。経正朝臣猶若狭に在り。全く国境を越えず。通盛件の朝臣を待ち、寄せんと欲す間、遅々とす。遮って追い落されおわんぬ。経正不覚の致す所の由、世以て謳歌すと。

【玉】養和元年九月十三日
伝聞、北陸道の追討使、下向未だ定まらず。てえれば由緒を知らず。


【玉】養和元年九月廿四日
伝聞、大和国前大将の庄 
大福庄なり 、源氏 二川三郎と称す の為焼かれをはんぬ。奈良の悪僧少々相交じると。




鎌倉との和議


頼朝との対立


飢饉で表面上の動きがなかった間に、甲斐源氏の武田信光が鎌倉において「木曽と平氏が手を結ぶ動きあり」などと讒言したり【延ほか】、頼朝と仲の悪かった源行家叔父や志田義広叔父が次々木曽に転がり込んできたのを受け入れたりと、これが頼朝の気にくわないわけがない。
一説には飢饉事情による進攻とも。
(飢饉は全国的ではなく比較的北国の雑穀等は安定していたとみられ、関東の武士団が北国攻めと称し乱盗りも兼ねていた…という説。まあ、信濃は虫タンパク質あるしw蕎麦栽培は日照りに強いし、とかそれってどうよ?)

寿永2年3月下旬、頼朝は十万余騎を率いて信濃に入り、善光寺まで駒を進める。
これに対し木曽軍は越後との境・熊坂山に控えて布陣し、今井四郎兼平を使者に立てる。和議の条件は義仲の嫡子・清水義重(11歳/【吾】義高)と頼朝の長女大姫をめあわせ婚姻関係を結び、義重を鎌倉に人質として差し出す事だった。
頼朝としてはこの義仲にとって分の悪い条件を呑むか否かで、義仲の裁量を計ったと思われる。これによって木曽は鎌倉の傘下に入ったと世に知らしめ、東国無党派の武士は鎌倉方に大きく傾き、また平氏方にも動揺を与えた。

※吾妻鏡の寿永2年はスッパリ抜けている(そもそも編集されていない?)。頼朝(もしくは北条)最大の黒歴史が隠されているかもしれない。




北国下向


本気の平家、源氏追討の官兵を組織。

寿永2年4月17日午前7時半頃、平家の源氏追討軍が京を出発。【覚/北国下向】どうでもいいが大将軍が6人って…

源氏追討軍
大将軍:
 小松三位中将維盛
 越前三位通盛
 但馬守経正
 薩摩守忠度
 三河守知度
 淡路守清房
侍大将:
 越中前司盛俊
 上総太夫判官忠綱
 飛騨太夫判官景高
 高橋判官長綱
 河内判官秀国
 武蔵三郎左衛門有国
 越中次郎兵衛盛嗣
 上総五郎兵衛忠光
 悪七兵衛景清
侍:
 斎藤実盛



平家物語諸本によるとこの追討軍は壮々たるメンバー。さくっと木曽を倒してさらに鎌倉を倒す2段階計画なので、豪華ゴウカ。
能や歌舞伎で有名な景清も出陣w、そして義仲の恩人たる斉藤実盛も。

この前年(寿永元年)は重大な飢饉に見舞われ、この時代は兵糧を戦地近くで調達(強奪ともいう…)する戦い方なので、当然兵の疲弊も生半可なモノではなかったと思われる。飢饉の次の年であっては、さすがに豊作であったとしても一般の民百姓の体力もモチベーションも低かったはず。
【覚/北国下向】で平家軍は”片道の経費”を下向途上の国々から徴発することが許されたためこれをし、おおいに民は困惑し逃げまどった(てか困惑どころの騒ぎではなかったと思われ)。大軍の長期戦は少数の篭城やゲリラよりも消耗が激しく、はからずも飢饉が少数派に軍配をあげたか。
しかしどういうわけか、天才琵琶スト経正はこの状態で18日に竹生島詣なんかしてる(後日追加加筆されたエピソードとみられる)。


【玉】寿永二年四月九日
今日、北陸征討の事に依って、太神宮以下祈り申さると。伊勢以下十六社、神祇官人等各々参籠し、五ヶ日祈り申すと。

【玉】寿永二年四月十四日
武士等の狼藉昨日の如し。凡そ近日天下この事に依って上下騒動す。人馬・雑物、眼路に懸けるに随い横より奪い取る。前内大臣に訴うと雖も、成敗に能わず。制止有りと雖も、更に以て制法に拘わらず。(中略)実に悲しむべきの世なり。

【玉】寿永二年四月廿三日
征討将軍等、或いは以前、或いは以後、次第に発向す。今日皆おわんぬ。

【吾】養和元年八月十六日(寿永二年四月十六日の間違いか?
中宮亮通盛朝臣、木曾冠者追討の爲、又北陸道に赴く。伊勢守清綱、上総介忠清、館太郎貞保も東國に發向す。武衛を襲う爲也。




燧城(火打城:ひうちじょう)合戦


高僧斎明の手痛い裏切りが大敗を招く。そして連戦の幕は切って落とされた。

平家の源氏追討軍は平越前三位通盛、平但馬守経正らを大将にして体制を整えた十万余騎の大軍で北上し、木曽の前線、越前国の燧(ひうち)城のある越前国府を目指した。

この燧城は平氏迎撃のために義仲の指示で建てられた堅固なる要塞で、後を山、城前は川(能美川・新道川)の雪解け水を堰きとめた人工湖を造り、かなりの難攻不落。
ただし、北国武士団が独自に燧城を作って平家軍に備えたというのが史実。


この時木曽本軍はここにおらず、越前にある平泉寺の長吏斎明威儀師を始め、林六郎光明、富樫入道仏誓ら11人の武将達がここを守っていた。
燧城布陣武将【覚】
 平泉寺長吏斎明威儀師
 稲津新介
 斉藤太
 林六郎光明
 富樫入道仏誓
 ほか 土田、宮崎、石黒、入善、佐美
 (越前国住人石黒太郎光弘、越中住人入善小太郎行重=宮崎佐美太郎の嫡子)


平氏出兵の報を聞いた木曽本軍からは仁科守弘をさらに大将として向わせ、これに対して総勢六千余騎で篭城戦を敢行。

4月27日、10万に対して6000の圧倒的不利に怖気づいた平泉寺長吏斎明は、内通を画策し、夜半に蟇目(ひきめ)矢を平家の陣に射こんだ。
平家の兵が矢じりの蟇目を調べると果たして密書が仕込まれており、そこには斎明の叛意と燧城の弱点、城内への侵入路などが記されていた。不信に思いつつ弱点の場所の逆茂木や大石をどけさせると、果たして堰きとめた水が程なく落ちてなくなってしまった。
守りの一端を崩された燧城はあっという間に平氏の手に落ちる。

稲津・斉藤太はじめ落ち延びた者は加賀国へ退却し白山河内にひきこもるが、平家は機に乗じて加賀国へも追い打ちをかけ林城富樫城とも城を焼き落城させた。

以下【盛】木曽/北国武士団軍は河上城に退くが、そこを平泉寺長吏斎明軍一千余騎によってたたかれ、さらに三条野に布陣。しかし林光明の息子・今城寺光平の討死をシオに、篠原宿まで下がって陣を立て直す。
一方そのころ、平氏軍は越前国長畝城に立て篭もっていた。
石黒をはじめとする木曽/北国武士団軍はこのまま木曽本軍まで退くのを潔しとせず、石黒・宮崎を先頭に500騎で切り込み一矢射てから安宅、住吉浜まで下がれば、平家軍は安宅まで追ってくる。

【玉】寿永二年五月一日
伝聞、去る月二十六日、官軍越前国に攻め入ると。




水津(すいづ)合戦


北陸合戦の前哨戦、はじまる。

寿永2年5月4日、平家(官軍)は関東/木曽追討軍として平越前三位通盛を大将に十万余騎の大軍で北上(下向)してきた。

寿永2年5月4日、越前国水津(現在の杉津)まで平通盛軍が下ってきた時、木曽軍先鋒(迎撃隊)の根井行親軍とぶつかりココに戦い【吾】、果たして木曽軍が勝ったらしい。ただし戦いの詳しい内容や兵力はイマイチ分からない。また越前住人稲津新介実澄は平氏方であったがこのとき木曽軍に加担したとされる。


【吾】養和元年九月四日(←寿永二年五月の間違いか)
木曾冠者平家追討の爲、北陸道を廻り上洛。
而先陣根井太郎越前國水津に至る。与通盛朝臣從軍。已に合戰始まると。





般若野(はんにゃの)合戦 【延】砥波合戦


ココ一番に今井兼平登場!木曽の連敗を止める。

ここから諸本によって行く方向が違う。しかも遠回りのルートになってしまうので戦略的にもオカシイ。今井の活躍も書いてあったりなかったり。


【盛/北国所々合戦事】燧城攻めから時をあけずして、平家先鋒は般若野に陣をしいて木曽軍殲滅を図っていた。
燧城がまさかの落城・敗退で、本気の先鋒今井兼平が出陣、6000騎をひきいて越中国
鬼臥寒原(おにふしかんばら:今の親不知付近)を越えて呉服山(越中呉羽山)に布陣。
寿永2年5月9日、平家の先鋒越中前司次郎兵衛盛俊の率いる軍勢五千余騎と応戦、今井軍はじりじりと平氏軍を倶利伽羅峠あたりまで押し返す。
一方その頃木曽本隊(大手4万5000騎)は越中国府を出て六渡寺の渡しのあたりに進軍。
平家先鋒隊は2000余騎程を失い敗退。
平氏本隊(大手)も木曽本軍到着に備える為に、加賀国篠原まで一旦退いて勢揃いし、10万の軍勢を大手7万余騎と搦手3万余騎に分け、それぞれ砥浪山志雄山
へ向った。(覚一本はじめ他本では火打合戦の後半にて説明)


【盛/北国所々合戦事】
木曽軍が大野庄まで下がったところで、平氏軍内では平泉寺長吏斎明の策がとられる。
越中前司盛俊5000騎で倶利伽羅峠→小矢部川→般若野に布陣。


【覚/火打合戦】5月8日、平家軍は加賀国篠原で勢揃い。10万騎を2手に分ける。
大手/総勢7万→砺波山へ向かう
 大将軍:小松三位中将維盛、越前三位通盛
 侍大将:越中前司盛俊
搦手/3万→志雄山へ向かう
 大将軍:薩摩守忠度、三河守知度
 侍大将:武蔵三郎左衛門


【覚】木曽本隊は越後国国府(こう)にいたが、5万騎で出発する。
吉例ということで5万騎を7手にわけて行軍
・行家/1万で志雄山へ
・仁科・高梨・山田次郎/7千で北黒坂
・樋口・落合/7千で南黒坂
・(武将不明)/1万を<1>黒坂の麓・松長の柳原、<2>ぐみの木林に隠す
・今井/6千で鷲ノ瀬を渡って日宮林
・木曽殿/1万で小矢部の渡し→砺波山北端の羽丹生(埴生)へ


【延】木曽軍5万を3手に分ける
大手/木曽殿3万→般若野に布陣、
   行家(大将軍)・楯六郎親忠・八嶋四郎行綱(根井)、
   落合五郎兼行1万→志雄へ
搦手/今井1万→砺波へ(砺波で先鋒盛俊と合戦=砺波合戦)


【長】越中前司盛俊と今井四郎が先鋒戦、今井が圧勝する。
十一日、平家十万余騎の兵を三手にわけて、三万余騎をば志雄の手へ向け差しつかはす。七万余騎をば大手に差し向けて、越中前司盛俊が一党五千余騎ひきわけて、加賀国を打ち過ぎ、よもすがら砺波山を越えて、越中国へ入るところに、木曾が乳母子に今井四郎兼平、六千余騎にて待ちまうけてすこく合戦す。夕べにおよびて盛俊うち落とされぬ。うたるる者三千余人とぞ聞こへし。
その後、宮崎佐美太郎の策で布陣(3手の人選は【延】と同じ)

「今井四郎兼平も一万騎にて、砺波山の後ろの搦手にまはるべし。義仲三万余騎にて大手へ向かふべし」と申ければ、宮崎佐美太郎が申しけるは、「黒坂、志雄山を越されなば、いづくにてか誘うべき。平家よもすがら山をこうると承る。黒坂口へつき給ひて、しばらくささへてごらんぜよ」と申ければ、木曾申けるは、「大勢はよなかには馳せあふまじきぞ。黒坂口へ手をむけばや」と評定す。




倶利伽羅峠(くりからとうげ)対陣(砺波山合戦)


平家十万の兵が一夜で消滅するとか!


寿永2年
5月11日【玉】【覚】、平家の搦手三万は平通盛指揮のもと木曽本軍を挟み撃ちにせんと氷見(志雄山方面)に向かっていたが、その情報を知っていた義仲は叔父源行家に楯親忠・海野行平らをつけ一万余騎で志雄山に向かわせる。
【盛】平氏の大手七万余騎が安宅〜津幡へと北上の一方その頃、木曽本軍は今井軍と合流し、ここに着くまでに馳せ参じたあらたな越中の諸将らと庄川御河端で軍議をひらく。平氏は先んじて本陣を砥浪山頂の猿ヶ馬場(すこし開けた場所)に敷いており、速攻の動きはない。古来山攻めは下から攻める方が不利であり、平氏軍は攻め登ってきた木曽軍をまずは矢嵐で狙い打って戦意をそぐ作戦をとるものと思われた。
【盛】木曽軍は山麓の護国八幡宮(埴生八幡)に本陣をしく(そこで戦勝祈願の願文をおさめ鏑矢十三本を献納している)。
【覚/願書】平家、猿の馬場にて休息。木曽殿、願文を覚明に書かせ、鏑矢を添えて八幡宮におさめる。→山鳩が3羽飛んでくる吉兆がある。

先鋒今井軍は平氏布陣のトイ面にある矢立山に登り、日没まで矢合わせを行った。
【覚/倶利伽羅落】平家と木曾は3町(約109m)の距離で対峙、日暮れまで矢合わせ。


この間に志雄山で搦手同士(行家×盛俊)の戦いが進行中(以下志雄山の戦い)。


【盛/砺波山合戦事】5月11日夜半。
まず、樋口隊(3000騎)が平家の退路をふさぐべく迂回して竹橋方面から攻め上げ、林・富樫を伴って葎原へ押し寄せる。正面からは木曽義仲本隊(4〜500頭の牛)と先鋒今井隊(2000騎)、北からは依田軍に囲まれた平氏大手軍は、慌てふためき木曽軍の策にはまり、まんまと南の隘路へかえそうとする。だが砥浪山の南にはきりたった崖ばかりの倶利伽羅谷(後年、地獄谷)があり、崖を抜ける間道も小室太郎隊(3000騎)巴隊(1000騎)、根井小弥太隊(2000騎)がそれぞれ押さえており、平氏の人馬は静止もきかずあとからあとから深い谷に落ちて行った…。

【覚/倶利伽羅落】北と南の搦手1万騎が倶利伽羅堂(手向神社に現存)あたりで合流、箙の方立をたたいて閧の声をあげ、白旗を挙げる。→木曽殿、大手から搦手に合わせて閧の声をあげる→松長の柳原・ぐみの木林の1万騎、今井の日宮林6000騎も同時に声をあげる。→驚いた平家は倶利伽羅谷に落とされる。

この時、有名な「火牛の策」作戦があったかどうかだが、やっぱりいきなり山の中に大量の牛を入れるのは考え難い…ただし、火牛に近い戦法として、馬を何頭かつぶす気で火を持って乗り回したり、または近隣の百姓を集めて火を焚かせる事も出来たわけで(地元の武士団の縁故)、火と大音声で平氏をビビらせたのはあながちウソでもないと思える。


【覚/倶利伽羅落】これによる平家損害は
 主力の戦死者(埋死)
  上総太夫判官忠綱
  飛騨太夫判官景高
  河内判官秀国
 拿捕
  備中国住人瀬尾太郎兼康(評判の高い大力の勇士)←倉光次郎成澄によって捕虜に
  平泉寺長吏斎明威儀師→「あまりにも憎いやつだ」と木曾殿をして言わしめ、捕えられた上で斬られる。
 大将維盛・通盛はからくも助かって加賀国へ退却、7万騎中わずか2000騎のみが逃れた。


翌日5月12日には陸奥の藤原秀衡のもとから木曾へ良馬2頭が献上されている(多分勝った方へ贈れという命令?あり得ない早さ)。馬は鏡鞍をつけて白山神社に奉納。
木曽殿は志雄の戦を案じて、4万騎のうち2万騎で志雄へ向かう。途中、氷見湊が満潮だったので鞍を付けた馬10頭ばかりを追い入れて水位を測り、渡河する。

【玉】寿永二年五月十二日
伝聞、去る三日官軍加賀国に攻め入り合戦し、両方死傷の者多しと。

【玉】寿永二年五月十六日
去る十一日、官軍の前鋒勝ちに乗じ越中国に入る。木曽冠者義仲十郎蔵人行家、 及び他の源氏等迎え戦う。官軍敗績し、過半死におわんぬと。今夜月食(皆既)。




志雄(志保:しを)合戦


それじゃダメじゃん、行家叔父。

【盛】
行家は越中前司盛俊と交戦するもあっけなく下される。5月13日まで安宅の小田中に布陣、篠原で休息をとった越中前司盛俊は、志雄に向かった木曾軍4万騎に対し、加賀国宮腰佐良岳浜に布陣。
5月25日、木曽軍は加賀国平丘野に布陣、夜襲を恐れた盛俊軍は夜間に撤退、折からの雨で洪水になり、1000騎あまりが溺死した。

【覚】
志雄の戦場で平家3万の軍勢のなかに木曾の新手援軍2万を入れて一気に攻め落とす。このとき平家大将軍三河守知度・討死。木曽殿はそのまま志雄山を越えて能登の小田中親王の塚の前に布陣する。<地理的にこの流れは不自然。





篠原・安宅合戦


漢・実盛の勲。平家の決定的弱体化。


【覚/篠原合戦】まずは木曾殿、先勝祝いに神領を寄進。(白山神社、菅生神社、多田八幡宮、木比神社、平泉寺)


【覚】寿永2年5月21日、平家は加賀国篠原に布陣。朝8時頃、木曽軍は篠原に攻め入る。ここで京に押し込められていた畠山庄司重能・小山田別当有重の兄弟が指揮を執るために派遣、300騎で馳せ参じる。これを迎え撃つのは今井四郎300騎。正午までに乱戦になり、どちらも甚だしく兵を討死させた。畠山は後退。

次に平家は侍大将・高橋判官長綱が500騎で出、木曽は樋口・落合が300騎で迎撃するが、高橋勢は寄せ集めの兵のために逃走してしまい、高橋はやむをえず退却。

【覚】高橋が1騎で逃れる所を入善小太郎行重(18歳)が目をつけ、逆に高橋に捕まってしまうが、高橋は死んだ息子と同い年と聞いて気を許し、味方が来るのを待とうと休息した所を入善に討たれる。【延】では高橋は倶利伽羅峠ですでに死んでいるため、このエピソードはない。

さらに平家は侍大将・武蔵三郎左衛門有国が300騎、対する木曽は仁科・高梨・山田次郎が500騎で出る。有国勢は多く兵を討たれ、有国自身も敵陣深く攻め入り立ち死にする。
このあたりで平家の士気はおおいに下がり、陣は総崩れとなっていく。
4月17日には10万騎で京を出発した平家だが、5月下旬に帰京する時には実に2万騎にまで減った。

【覚/実盛】
平家方が皆落ち行く中、華々しい出で立ちの武将が一人踏みとどまって戦っていた。そこに手塚太郎光盛出現→名を聞くが実盛は名乗らない→まず手塚の郎党が組み付くが首をかき斬られ→その隙に光盛は左手にまわり実盛の草摺をひきあげて2刀刺し→組み付いて馬から引き落としてついに実盛の首をとる。

【覚/篠原合戦】で実盛が酒宴の席で「木曽に参ろう」と仲間を試し、次の日に仲間の一人が「あっちこっちにつくのは見苦しい事だ」と言うのを聞いて実盛は「皆の気持ちを確かめた」と言い、「今度の戦いで討死を覚悟しており、国には帰らぬ」と決意のほどを語った、とある。このとき一緒にいた者達は一人残らず北国で討死した。これは【屋】【延】にはみられない。
また【実盛】では大将ではないのに錦の直垂を許された経緯を細かく語っている。これらは実盛の悲壮な覚悟をより盛り上げる為のエピソードになっている。

さて、その後首実検で樋口が斎藤実盛であると断言。木曾殿が以前に上野国で幼な目で見た実盛は白髪であったのを、黒髪・黒髭であったので不審に思っていたが、首を洗わせてみると白髪にもどった。
その理由は「60過ぎて戦に出る時は、老武者とあなどられるのが悔しいので鬢髭を黒く染めて戦いにのぞむのだ」と言っていた、と樋口は涙ながら語った。

【玉】寿永二年六月小四日
伝聞、北陸の官軍悉く以て敗績す。今暁飛脚到来す。官兵の妻子等、悲泣極まり無し。この事去る一日と。早速風聞疑いありといえども、六波羅の気色事に損ずと。

【玉】寿永二年六月五日
前飛騨守・有安来たり、官軍敗亡の子細を語る。四万余騎の勢、甲冑を帯びたる武士、僅かに四五騎ばかり、その外過半死傷す。その残り皆悉く物具を棄て山林に交る。大略その鋒を争う甲兵等、併しながら以て討ち取られおわんぬと。盛俊・景家・忠経等 
已上三人、彼の家第一の勇士等なり 、各々小帷に前を結びて、本鳥を引きくだして逃げ去る。希有に存命すと雖も、僕従一人も伴わずと。凡そ事の体、直事に非ず。誠に天の攻めを蒙るか。敵軍纔に五千騎に及ばずと。彼の三人の郎等・将軍等の権盛を相争う間、この敗ありと。

【吉】寿永二年六月十二日
風聞に云く、近江国の野・海・山を守護せんが為、当国庄々の兵士を催さる。蔵人佐定長これを奉行す。また北面に祇候するの輩、堪否を論ぜず、東海道に下し遣わすべし。一人も漏るるべからざるの由沙汰有りと。また肥後守貞能数万の兵を率い、すでに都賀辺に着くと。

【吉】寿永二年六月十三日
源氏等すでに江州に打ち入る。筑後の前司重貞単騎逃げ上ると。

【吉】寿永二年六月十八日
肥後守貞能今日入洛す。軍兵纔に千余騎と。日来数万に及ぶの由風聞す。洛中の人頗る色を失うと。




山門牒状


情報戦は先行した者が制する。

【覚/山門牒状】木曽軍は越前国国府で家の子郎党を集めて評定する。(【屋】には郎党の人名が具体的に記されている)
これにより、大夫坊覚明の意見に従い(したためたのも覚明)、寿永2年6月10日付で山門牒状を比叡山延暦寺に送る。ちなみに京において「山門」といったら比叡山延暦寺を指す。
【屋】郎党名
井上九郎、高梨冠者、山田次郎、仁科次郎長瀬判官、県妻(あがつま)判官、樋口次郎、今井四郎、楯六郎、禰井小野太

【覚/返牒】木曽陣営からの牒状が比叡山に6月16日に到着→衆徒による評議→木曽陣営に返牒を7月2日付で送る→木曽陣営には7月8日くらいに到着?

【覚/平家山門連署】これに対し平家は木曽陣営から遅れる事約1ヶ月、連署を寿永2年7月5日付で送る。この時点で比叡山ではすでに木曽に返牒した後である。

【盛】白井法橋幸明という僧が太夫坊覚明を訪ねて会見し、比叡山に急ぎ帰ると3000人の衆徒を集めて詮議し、惣持院の大庭で遠火を焚いて木曽陣営に首尾を知らせた。


【吉】六月廿九日
世口嗷々驚かず。洛中上下東走西馳す。馬に負い車に積み雑物を運ぶ。静巖已講只今下洛示し送りて云く、日来江州に入る源氏は末々の者なり。木曽冠者すでに入りをはんぬ。但し叡山衆徒相議し 
悪僧に於いては皆源氏に同ず。これ中堂衆等なり。去る頃北陸道より帰山す 、源平両氏和平有るべきの由、僧綱已講を以て奏聞せんと欲す。この事もし裁許無くんば、一山源氏に同ずべしと。





入京(平家都落ち)


平家は一斉に都落ちをはじめる。


【覚/主上都落】
寿永2年7月14日、肥後守貞能が九州の謀反を平定し3000騎で上京、一瞬木曽軍かと間違われて騒ぎになる。
日々、噂で木曽軍は都のすぐそばに来ている情報が伝えられているので、平家やそうでない公家や京の民衆もカナリざわついていたと思われる。
7月22日夜半に、美濃源氏の佐渡衛門尉重貞が六波羅に駆けつけ、木曽間もなく到着の旨を報告する。(木曽5万騎で北国から攻めのぼり比叡山の東坂本はその軍勢で充満、楯六郎親忠・書記大夫坊覚明は6000騎で比叡山にのぼり、3000の衆徒はこれに味方した)

これを聞いた平家は討手として大将軍知盛・重衡が総勢3000騎で出発し山科に宿泊、通盛・教盛は2000騎で宇治橋の警固、行盛・忠度1000騎で淀路を守備する。この時点では平家は応戦しようとしている。

【玉】寿永二年七月一日
賊徒今日入洛すべき由、兼日風聞す。然れどもその事無し。貞能申して云く、追討使を遣わすべからず。ただ勢多の辺において相待つべしと。(略)

【玉】寿永二年七月二日
伝聞、頼朝忽ち出づべからず。ただ木曽の冠者十郎等手を四方に分ち、寄すべき由議定すと。



源行家が数千騎で宇治橋から攻め入るという伝聞、矢田判官代義清が大江山方面から都入りするという噂、摂津・河内の源氏勢が宮越え乱入するという情報、これらの話から平家は一カ所に結集して決戦に挑むことに変更するのだが…

7月24日、宗盛は夜更けに建礼門院を六波羅に訪ねる。この時、後白河法皇はこつぜんと消えて行方不明になっていた。(平家都落ち情報を入手し先んじて法性寺に行幸)
7月25日午前6時頃、安徳天皇と御母建礼門院の為の行幸の神輿を寄せ、宝物を共に運び出す。(内侍所、神璽、宝剣/印鑰、時の札、玄上、鈴鹿を持ち出す。あまりにあわてすぎていろいろ取り残し、昼の御座の御剣も忘れてきた、とある)

この後はひたすら平家の面々の都落ちの有様が連なる。
【維盛都落】
【聖主臨幸】
【忠度都落】
【経正都落】
【青山沙汰】
【一門都落】
【福原落】


【吉】寿永二年七月十六日
源氏十郎蔵人行家と称する者、すでに伊賀の国に入り 
去る十四日 、家継法師 平田入道と号す、貞能兄 と合戦す。また三河冠者と号する源氏、大和国に越え入ると。薩摩守忠度朝臣丹波の国に発向す。百騎ばかりを引率す。

【玉】寿永二年七月廿一日
午の刻、追討使発向す。三位中将資盛大将軍として、肥後の守定能を相具し、多原方に向かう。予の家東小路を経る。家僕等、密々見物す。その勢千八十騎と。日来、世の推す所七八千騎、及び万騎。而るに見在の勢、僅かに千騎、有名無実の風聞、これを以て察すべきか。

【玉】寿永二年七月廿二日
卯の刻人告げて、江州の武士等、すでに六波羅の辺に入京す。物騒極まり無しと。また聞く、入京実説に非ず。而るに地武士等台獄に登り、講堂の前に集会すと。日来登山の僧綱等併せて京に下る。但し座主一人、京に下らずと。また聞く、十郎蔵人行家大和国に入り、宇多郡に住す。吉野の大衆等与力すと。仍って資盛・貞能等、江州に赴かず。行家の入洛を相待つと。貞能去夜宇治に宿し、今朝多原地に向かわんと欲するの間、この事有り。仍って彼の前途を止め、この入洛を相待つと。また聞く、多田蔵人大夫行綱、日来平家に属く。近日源氏に同意するの風聞有り。而るに今朝より忽ち謀反し、摂津・河内両国に横行す。種々の悪行を張行し、河尻船等併せて点取すと。両国の衆民皆悉く与力すと。また聞く、丹波の追討使忠度、その勢敵対に非ざるの間、大江山に帰りをはんぬと。凡そ一々の事、直事に非ざるか。今日、上皇宮卿相参集し、議定の事有り。

【玉】寿永二年七月廿三日
六波羅の辺、歎息の外他事無し。今旦、法皇法性寺御所に渡御す。世間物騒に依ってなり。

【吉】寿永二年七月廿二日
源氏等東坂並びに東塔惣持院に上り、城郭を構え居住すと。午の刻ばかり、平中納言、三位中将等勢多に向かう。共に甲冑を着け、両人の勢二千騎に及ぶと。また夜に入り按察大納言下向す。今夜各々山科の辺に宿すと。


【覚/山門御幸】
寿永2年7月24日夜半、後白河法皇は右馬頭資時だけを供につれて密かに鞍馬へ御幸。ここが臨時の亡命政府となる。(【玉】7月25日、寅の刻、人告げて云く、法皇御逐電と。この事日来万人庶幾う所なり。)
7月28日、木曽5万騎に守護されて後白河法皇は都へ帰る。この時近江源氏の山本冠者義高が白旗をかかげて供の先頭に立つ。
 行家→宇治橋を渡って入京
 矢田判官代義清は大江山を越えて入京
 摂津・河内源氏が大挙して都に乱入
入京後、さっそく木曾殿と行家は法皇に拝謁し、平家追討の宣旨を受ける。


【玉】寿永二年七月廿八日
今日、
義仲・行家等、南北 義仲は北、行家は南 より京に入る。晩頭、左少弁光長来たりて語って云く、義仲行家等を蓮花王院の御所に召し、追討の事を仰せ遣わさる。大理殿上の縁においてこれを仰す。彼の両人地に跪きこれを承る。御所たるに依ってなり。参入の間、彼の両人相並び、敢えて前後せず。爭か権の意趣これを以て知るべし。両人退出するの間、頭弁兼光、京中の狼藉を停止すべき由仰す。

【吉】寿永二年七月廿八日
申の斜め武将二人、
木曽冠者義仲 年三十余、故義方男、錦の直垂を着し、黒革威の甲、石打箭を負い、折烏帽子。小舎人童取染の直垂劔を帯し、また替箭を負い、油単を履く 、十郎蔵人行家 年四十余、故為義末子、紺の直垂を着し、宇須部箭を負い、黒糸威の甲を着し、立烏帽子。小舎人童上髪、替箭を負う。両人郎従相並び七八輩分別せず 参上す。行家先ず門外より参入して云く、御前に召さるるの両人相並び同時に参るべきか。然るべきの由仰せらると。次いで南門に入り相並び 行家左に立つ、義仲右に立つ 参上す。大夫の尉知康これを扶持す。各々御所東庭に参進し、階隠間に当たり蹲踞す。別当公卿の座北簀子に下居し、砌下に進むべきの由これを仰せらる。然れども両将進まず、西面に蹲踞す。大理仰せて云く、前の内大臣党類を追討し進すべきなり。両人唯と称し退き入る。忽ちこの両人の容餝を見るに、夢か夢に非ざるか、万人の属目、筆端の及ぶ所に非ず。頭弁下地し相逢い、仰せ含めの旨有り。

※七月三十日叙勲。


【覚/名虎】
8月10日、木曽殿、左馬頭になり越後国を賜った上、朝日将軍という称号を院宣によって下される(が、越後を嫌い伊予を賜る)。行家は備後守になる(が、豊後を嫌い備前を賜る)。
8月16日、平家一門160人あまりの官職を解任・除籍。
8月17日、平家筑前国太宰府に到着。
8月20日、高倉院の第四皇子が即位。

玉】寿永二年八月九日
去る六日、解官二百余人あり。時忠卿その中に入らず。これ還御有るべきの由を申せらるが故なり。

【玉】寿永二年八月十一日
去る夜の聞書を見る。
義仲 従五位下、左馬頭、越後守 。行家 従五位下、備後守 。

【玉】寿永二年八月十二日
伝聞、行家厚賞に非ずと称し忿怨す。且つはこれ義仲の賞と縣隔の故なり。閉門辞退すと。一昨日夜、時忠卿の許に御教書遣わす所、返札到来す。その状に云く、京中落居の後、劔璽已下宝物等を還幸あるべき事、前の内府に仰せらるべきかと。事の體頗る嘲哢の気あるに似たり。また貞能請文に云く、能様に計らい沙汰すべしと。当時備前の国小島に在り、船百余艘。

【玉】寿永二年八月十四日
義仲、今日申して云く、故三條宮の御息宮北陸にあり。義兵の勲功彼の宮の御力にあり。よって立王の事においては、異議あるべからざる由所存なり。仍って重ねて俊尭僧正 
義仲と親昵たるの故 を以て、子細を仰せられて云く、(略)

【玉】寿永二年八月廿日
この日、立皇の事有り 高倉院第四宮御年四歳、母故正三位修理大夫信隆卿女 (略)
卜形を以て義仲に遣わす処、大いに忿怨し申して云く、先ず次第の立様、甚だ以て不当なり。御歳の次第に依らば、加賀宮第一に立つべきなり。然らずんば、また初めの如く兄宮を先と為さるべし。事の體矯餝を以て故三條宮の至孝を思しめざる條、太だ以て遺恨と。然れども一昨日重ねて御使 
僧正俊尭、木曽の定使なり を遣わし数遍往還す。なまじいに御定在るべきの由を申す。依ってその後一決すと。

【玉】寿永二年八月廿八日 庚申
伝聞、今日七條河原において、武士十余人頸を切ると。



【覚/緒環】
9月10日、平家、十三夜の月に懐古にひたる。

【玉】寿永二年九月廿一日
伝聞、
義仲一昨日参院す。御前に召され勅に云く、天下静かならず。また平氏放逸し、毎事不便なりと。義仲申して云く、罷り向かうべくは、明日早天向かうべしと。即ち院手に御劔を取りこれを給ぶ。義仲これを取り退出す。昨日俄に下向す。

【玉】寿永二年九月廿三日
人伝えに云く、行家を追討使に遣わすべきの由、院より再三義仲に仰せらる。義仲左右を申さず、俄に以て逃げ下る。行家を籠めんが為、と。


【吾】養和元年九月(寿永二年九月?)七日
從五位下藤原俊綱 
字足利太郎 武藏守秀郷朝臣後胤、鎭守府將軍兼阿波守兼光の六代の孫、散位家綱男なり。領掌數千町、郡内の棟梁たる也。而るに去る仁安年中、或る女性の凶害に依り。下野國足利庄領主職を得替す。仍って平家の小松内府此所を新田冠者義重に賜る之間。俊綱上洛せしめ愁いを申す時返され畢。自爾以降、其恩に酬んが爲近年平家に属か令むる上、嫡子又太郎忠綱は三郎先生義廣に同意し、此等事に依りて武衛の御方に參ぜず。武衛亦頻りに咎め思し食す之間、和田次郎義茂に仰せ、俊綱追討御書を下さる。三浦十郎義連、葛西三郎清重、宇佐美平次實政これに相副えさせ、先ず義茂今日下向す。




平家の再起


ドン底から盛り返しはじめる平家。

【覚/太宰府落】
清盛が遷都失敗した福原からさらに九州の太宰府まで落ちた平家、ここで家来(維盛の御家人)の手痛い謀反を聞く。維盛の息子が説得するも、法皇からの平家九州追放の命を優先する、と説得に応じず。(その実、豊後国の刑部卿三位頼輔の子頼経からの追放令を受けた)

緒方三郎維義・野尻二郎維村(父子・最終的には3000騎くらい) × 源太夫判官季貞・摂津判官盛澄(平家方の侍で3000騎)
筑後国竹野の本庄で戦うが緒方方に負け、太宰府に攻め寄せんとすると聞いて平家は太宰府を退去。
その後、
・原田太夫種直/2000騎で供→山鹿兵藤次秀遠/数千騎で迎えにくる→原田と山鹿は不和状態のため、原田引き返す→小舟にて豊前国柳ケ浦に渡り、山鹿の領内に留まる→長門国目代・紀伊刑部太夫道資、大船100艘ととのえ平家に献上→平家これに乗って四国に渡る→讃岐国屋島に仮御所立てる
と、地元武士団に支えられて少しづつだが勢力を蓄え始める。


【覚/征夷大将軍】
頼朝、鎌倉に居ながらにして征夷大将軍の院宣を賜る。(しかしこれは史実に基づいていない)
玉葉ではしきりと怪しい動きを見せている。

【玉】寿永二年九月廿五日
伝聞、頼朝文覺聖人を以て義仲等を勘発せしむ。これ追討の懈怠、並びに京中を損ずるの由。即ち件の聖人に付け陳じ遣わす。

【玉】寿永二年十月八日
伝聞、一昨日頼朝飛脚を進す。義仲頼朝を伐つべきの由結構の事欝し申す。泰経卿の許へ札を送る。また聞く、平氏等鎮西に入らんと欲するの間、猶国人等を恐れ、猶周防国に帰到す。

【玉】寿永二年十月九日
頼朝使者を進す。忽ち上洛すべからずと。一は秀平・隆義等、上洛の跡に入れ替わるべし。二は数万騎の勢を率い入洛せば、京中堪うべからず。この二故によって、上洛延引す。凡そ頼朝の体たらく、威勢厳粛・其性強烈・成敗分明・理非断決と。今度使者を献じ欝し申す所は、三郎先生義廣 
本名義範 の上洛なり。また義仲等平氏を遂げず、朝家を乱すこと尤も奇怪なり。而るに忽ち賞を行わるの条、太だいわれ無し。申状等その理あるか。 伝聞、義仲播州を経廻す。もし頼朝上洛せば、北陸方に超ゆべし。もし頼朝忽ち上洛せずんば、平氏を伐つべきの由支度すと。 今日小除目有り。頼朝本位に復すの由仰せ下さる。

【玉】寿永二年十月十三日
この日、大夫史隆職来たり。世上の事等を談る。院の廰官々史生泰貞 
先日御使として頼朝の許に向かう。去る比帰洛す 重ねて御使として坂東に赴くべしと。件の男隆職の許に来たり。頼朝の子細を語ると。又云く、平氏決定西海に入りおはんぬと。

【玉】寿永二年十月十三日
尹明云く、平氏去る八月二十六日鎮西に入りおはんぬ。肥後の国住人菊池、豊後の国住人臼杵の御方等未だ帰服せずと。


【覚/猫間】
木曽殿の都での不格好な生活が描かれているが、実際はそれどころではない。
玉葉では木曽殿は平家追討(と行家追討)の為に播磨国まで下っており、既に前哨戦がはじまっている。

【玉】寿永二年十月十七日
伝聞、
義仲随兵の中、少々備前国に超ゆ。而るに彼の国並びに備中の国人等勢を起こし、皆悉く伐ち取りおわんぬ。即ち備前国を焼き払い帰去しおわんぬ。また聞く、義仲無勢と。

【玉】
寿永二年十月廿三日
或る人云く、義仲に上野・信濃を賜うべし。北陸を虜掠すべからざるの由、仰せ遣わされおはんぬ。また頼朝の許ヘも、件の両国義仲に賜うべし、和平すべきの由仰せられおはんぬと。この事或る下臈の申状に依って、
俊尭僧正一昨日参院 御持仏堂時としこの由を法皇に申す。善と称す。即ち僧正の諫言に従い、忽ちこの綸旨を降さると。この條愚案一切叶うべからず。凡そ国家滅亡の結願、ただこの事に在り。

【玉】
寿永二年十月二八日
伝聞、頼朝去る十九日国を出て、来十一月朔日入京すべし。これ一定の説と。また
義仲去る二十六日 或いは二十八日、即ち今日なり 国を出て、来月四五日の間に入洛すべし。頼朝と雌雄を決せんが為と。




水島合戦


手痛い敗戦、腹心海野と矢田判官代の死。

【覚/水島合戦】
讃岐国屋島の平家、山陽道8カ国・南海道6カ国を打ち取る。(いつの間に!)
 山陽道=播磨、美作、備前、備中、備後、安芸、周防、長門(行家が賜った備前が!)
 南海道=紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐(義仲が賜った伊予が!)

これを受けた木曽殿(法皇からの要請もあり)、平家追討軍7000騎を差し向ける。
 大将:矢田判官代義清
 侍大将:海野弥平四郎行広(信濃国住人・海野行親の子)
山陽道を下って備中国水島の瀬戸(現在の岡山県倉敷市)で船500艘をそろえ、四国・讃岐国の屋島平家本部へ向かおうとする。

閏10月1日、平家方から水島に使者、木曽軍はこれをみて船を海におろす。
ここで平家、船千艘で出現、元海賊平家軍の本領が発揮される。
 大手大将軍:新中納言知盛
 搦手大将軍:能登守教経
このとき、能登殿の指示で船同士をつなぎ合わせ、歩板を架け渡して平らにする。


【盛】
寿永二年閏十月一日(1183年11月17日)、水島にて源氏と平家と合戦を企つ。城の中より勝ち鼓をうってののしりかかるほどに、天俄に曇て、日の光もみえず、闇の夜のごとくなりたれば、源氏の軍兵ども日食とは知らず、いとど東西を失いて、舟を退いていずちともなく風にしたがいてのがれゆく。平氏の兵どもはかねて知りにければ、いよいよ時をつくりて、重ねて攻め戦う。とあり、日食が起こった事によりこれによって源氏があわてて負けたとされている。



【覚】海野討死、これをみた矢田主従7名も小舟に乗ってうち進むがどういうわけか船が沈み、あえなく溺死。
船に馬も鞍を置いて用意していた平家軍は、上陸して木曽軍を蹴散らす。

【盛】によれば、矢田判官代は船端に尻を掛けて兜を脱ぎ太刀で戦っていたが、越中次郎兵衛盛嗣に斬り込まれ討たれる。
海野は村田兵衛盛房と船端にて取り組み、海に落ちそうになった村田を助けようと来た飛騨三郎兵衛景家に討たれる。
高梨次郎高信は能登守教経に射取られる。仁科次郎盛宗は水島で戦っているが安否は書かれていない。


【玉】寿永二年閏十月二日
申の刻、頭の弁兼光来たり。語りて云く、平氏始め鎮西に入ると雖も、国人必ず始用せざるに依って逃げ出て、長門国に向かう間、また国中に入れず。仍って四国に懸けおはんぬ。貞能ハ出家シテ西国に留まりおはんぬと。この由周防・伊豫両国より飛脚を進し申せしむと。また私に義仲使いを兼光の許に送り、その男の説云々の如き相違無し。その上申して云く、前内府の許より使者を義仲の許に送りて云く、今に於いては偏に帰降すべし。ただ命を乞わんと欲すと。この上神鏡・劔璽事の障り無し。迎え奉られ難き事、第一の大事なり。次第の沙汰また以て説に乖くか。


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福降寺畷(ふくりゅうじなわて)合戦(板蔵城合戦)



瀬尾兼康の逆り忠、あっぱれなれど…

【覚/瀬尾最期】
水島敗戦を聞いて、今度は木曾殿がみずから1万騎で山陽道を下ってくる。

瀬尾太郎兼康はさる倶利伽羅落としの折に倉光次郎成澄によって捕えられ、その弟三郎成氏に預けられていたが、「命を助けられ、これまで厚遇してくれた礼に協力したい」として備中にある『馬の草飼よきところ」へ成氏を下らせる。途中、平家に仕えていた嫡子・小太郎宗康とその軍勢50騎と播磨国の国府で落ち合う。備前国三石宿に泊まった時の夜、成氏とその家来30名ばかりに酒を飲ませ、さんざん酔いつぶしておいて片っ端から刺し殺す。その後、備前国の行家の代官も押し攻めて殺害。
ここで備前・備中・備後の老兵(主立った者はすでに平家の元に集まっていた)が瀬尾の呼びかけに応じて集まり、瀬尾兵力は2000人になる。
瀬尾軍、備前国・福隆寺畷(現在の岡山市北部)の篠の迫(せまり)に城郭に作って木曽軍を待ち受ける。

逃げてきた行家代官の下人→播磨と備前の国境・船坂で木曽軍と出会って、瀬尾の逆忠を伝える
これを受けてまず今井が3000騎で急ぎ下る。
 今井先鋒隊:今井、楯、根井、宮崎三郎、諏方、藤沢

福隆寺畷は深い田が広がり足場がかなり悪い地、そこに突入した今井先鋒隊はさらに瀬尾の一斉射撃をうけながらも味方の死体で掘を埋め、あるいは左右の深田に馬を乗り入れなどして、1日中戦い続けた。
これにより瀬尾軍はほぼ壊滅、篠の迫を突破されて退却→備中国板倉川のほとりに残党で掻楯をめぐらして今井を待ち受ける→今井軍はこれを蹴散らす。
とうとう瀬尾は主従3騎になり、ここで倉光次郎が弟の敵と瀬尾兼康と組むが、板倉川の淵に2人して転がり込み、倉光は泳げなかったため、泳ぎの達者な瀬尾に首を取られる。その後(自分の馬は乗りつぶしてしまったため)倉光の馬にのって逃走。

一方その頃、瀬尾の嫡子・小太郎宗康(22〜23歳)は馬に乗らず歩いて郎党と逃げていたが、あまりに太っていたので、武具を脱ぎ捨てても1町(109m)と走れない上、とうとう足を腫らして横たわってしまう。
いったんは嫡子を見捨てて逃げた瀬尾兼康、10町(約1km)ばかり行くが思い直して息子の許に戻る。

そこへ今井の軍勢50騎ばかりが追いかけてきて、緑山に篭り戦った瀬尾主従3名全て討ち取り、備中国鷺が森に晒し首にする。
木曽殿に「あっぱれ剛の者よ」と言わしめた。





室山合戦


木曽殿のアキレス健、行家叔父。

【覚/室山】
木曽軍は備中国万寿庄で勢揃いし、屋島へ攻め込もうとしていた。
そこへ都の留守居の樋口兼光から使者がやってきて「行家が木曽殿のいない間に院のお気に入りを介して讒奏している(悪口を言っている)。西国の戦をしばらく差し置いて、急ぎ都へ帰れ」と申すので、これを受けた木曽殿は摂津国を通り(山陽道)速攻で都に入る。
一方その頃、行家は帰ってくる木曽軍とすれ違いになるようにわざと丹波路を通って播磨国に下り、何を
思ったか500騎で室山に向かった…(どうやら平家追討の口実を果たすためらしい)

【玉】十一月八日に「今日行家が平家追討に出発した」とある。木曽殿と行家の不和については【玉】閏十月廿七日条にある。玉葉においては行家の讒言もさることながら、【玉】閏十月十八日で院のなされようにも木曽殿は恨みを隠せない様子。

ということは、 <1>木曽殿はいったん都へ戻る→<2>行家は播磨国に下る→<3>木曽殿と知康の不和/法住寺合戦→<4>行家×平家で室山合戦、という流れになる。



【玉】寿永二年閏十月六日
伝聞、頼朝上洛成り難きの間、その実然るべからずと。また義仲今両三日の間に帰洛すべし。洛中また滅亡すべしと。

【玉】寿永二年閏十月十三日
晩に及び大夫史隆職来たり。世間の事を談る。平氏讃岐の国に在りと。或る説に女房船主上並びに劔璽を具し奉り、伊豫国に在りと。但しこの條未だ実説を聞かずと。
また語りて云く、院御使の廰官泰貞、去る比重ねて頼朝の許に向かいおはんぬ。仰せの趣殊なる事無し。義仲と和平すべきの由なり。抑も、東海・東山・北陸三道の庄園、国領本の如く領知すべき由宣下せらるべき旨、頼朝申請す。仍って宣旨を下さるる処、北陸道ばかりは義仲を恐れるに依って、その宣旨を成されず。頼朝これを聞かば、定めて欝を結ばんか。太だ不便の事なりと。この事未だ聞かず、驚奇少なからず。この事隆職不審に耐えず泰経に問う処、答えて云く、頼朝は恐るべきと雖も遠境に在り。義仲当時京に在り。当罸恐れ有り。仍って不当と雖も北陸を除かれおはんぬの由答えしむと。天子の政、豈以て此の如きや。小人近臣として天下の乱止むべきの期無きか。


【玉】寿永二年閏十月十四日
申の刻ばかりに人告げて云く、
平氏の兵強し。前陣の官軍、多く以て敗られおわんぬ。仍って播磨より更に義仲備中に赴くの由風聞す。随って又御使を以て上洛を制せられ、承りおわんぬる由を申す。而るに忽ち以て上洛するの由、今夕明旦の間、入洛すべきの由、昨日夕に飛脚到来す。(略)

【玉】寿永二年閏十月十五日 夜より甚雨、終日止まず
今日、義仲入京しおわんぬ。その勢甚だ少なし。

【玉】寿永二年閏十月十七日
静賢法印密々に告げ送りて云く、
昨日義仲参院し申して云く、平氏一旦勝ちに乗ると雖も、始終不審に及ぶべからず。鎮西の輩、與力すべからざるの由仰せ遣わしおはんぬ。また山陰道の武士等、併せて備中国に在り。更に恐るに及ぶべからずと。
また頼朝の弟九郎 
実名を知らず 大将軍として数万の軍兵を卒い上洛を企つ由、承り及ぶ所なり。その事を防がんが為急ぎ上洛すべきなり。もし事一定たらば、行き向かうべし。不実たればこの限りに非ず。今両三日の内、その左右を承るべし云々てえり。已上義仲が申状なり。只今外聞に及ぶべからず。竊に告げ申す所なりと。
平氏不審有るべからざるの由申せしむの條、甚だ以て荒涼の事か。
或る人云く、頼朝郎従等、多く以て秀平の許に向かう。仍って秀平頼朝が士卒異心有る由を知り、内々飛脚を以て義仲に触れ示す。この時東西より頼朝を攻むべきの由なりと。この告げを得て、義仲平氏を知らず、迷って帰洛すと。此の如き事実や否や知り難き事か。


【玉】寿永二年閏十月十八日
晩に及び範季来たり、世上の事を談る。この次いでに件の男云く、四方皆塞がり、中国の上下併せて餓死すべし。この事一切疑うべからず。西海に於いては、謀叛の地に非ずと雖も、平氏四国に在って通せしめざるの間、また同じ事なり。
しかのみならず義仲の所存、君偏に頼朝を庶幾し、殆ど彼を以て義仲を殺さんと欲せられんかの由、僻推成るか。将又告示の人あるか。此の如きの間、法皇を怨み奉り、兼ねて又御逐電の事を疑う。これに依って忽ち敗績の官軍を棄て、迷い上洛する所なり。然れども忽ち平家を討つ事叶うべからず。平氏猶存せば、西国の運上、また叶うべからず。仍って且つは平氏を討しめんが為、且つは義仲の意趣を協?が為、法皇自ら叡慮を起こし、早く西国に赴かしめ□うべきなり。ただまず播磨の国に臨幸あるべし。然れば南西国等の住人等、皆風に向かい子来すべきなり。その時鎮西等の勢を発し、平氏を誅伐しおわんぬるべし。以後還御あるべきなり。この外凡そ他計無し。(略)

【玉】寿永二年閏十月廿日
今日、静賢法印院の御使として義仲の家に向かう。仰せに云く、その心説わざる由聞こしめす。子細如何。身の暇を申さず、俄に関東に下向すべしと。この事等驚き思しめす所なり。
申して云く、
君を怨み奉る事二ヶ條、その一は、頼朝を召し上げらるる事、然るべからずの由を申すといえども、御承引無し。猶以て召し遣わされおわんぬ。その二は、東海・東山・北陸等の国々下さるる所の宣旨に云く、もしこの宣旨に随わざるの輩あらば、頼朝の命に随い追討すべし。この状義仲生涯の遺恨たるなり。また東国下向の条においては、頼朝上洛せば、相迎え一矢を射るべき由、素より申す所なり。而るにすでに以て数万の精兵を差し上洛を その身は上らず 企てしむ。仍って相防がんが為下向せんと欲す。更に驚き思しめすべからず。抑も君を具し奉り戦場に臨むべき由、議し申すの旨聞こしめす。返す返す恐れ申すこと極まり無し。無実なりと 已上義仲申状 。静賢帰参す。(略)

【玉】寿永二年閏十月廿一日
義仲所望の両條、頼朝を討つべき由御教書を申し賜う事、並びに宣旨の趣、御定に非ずんば、奉行人聊かも勘発有るべきの條、共に以て許さずと
或いは云く、平氏すでに備前国に来たり。凡そ美作以西併せて平氏に靡きおはんぬ。殆ど播磨に及ぶと。

【玉】寿永二年閏十月廿二日
伝聞、今日義仲参院す。また聞く、頼朝の使い伊勢の国に来たりと雖も、謀叛の儀に非ず。先日宣旨に云く、東海・東山道等の庄土、不服の輩有らば、頼朝に触れ沙汰を致すべしと。仍ってその宣旨を施行せんが為、且つは国中に仰せ知らしめんが為、使者を遣わす所なりと。而るに国民等義仲郎従等の暴虐を悪み、事を頼朝の使いに寄せ、鈴鹿山を切り塞ぎ、義仲・行家等の郎従を討ちおはんぬと。これに因って義仲郎従等を伊勢国に遣わしおはんぬ。


【玉】寿永二年閏十月廿三日
午の刻、静賢法印来たり語りて云く、去る夜義仲参院す。静賢・泰経等を以て伝奏すと。その申状に云く、
先ず院を取り奉り、北陸に引き籠もるべき由風聞す。以ての外無実極まり無き恐れなり。この事、相伴う所の源氏等 行家已下を指す 執奏する所か。返す返す恐れ申す。早く證人に承るべきなりと。次いで平氏当時追討使無く、尤も不便、三郎先生義廣を以て討たしめんと欲す。また平氏の入洛を恐れるに依って、院中の緇素・洛下の貴賤、資財を運び妻子を匿す。太だ穏便ならず。早く御制止有るべし。この三ヶ條なりと。仰せに云く、先ず院を取り奉るべき條、全く源氏等の執奏に非ず。只々世間普く申す事に依って聞こし食す所なり。然れども全く御信用無きを以て沙汰に及ばずと。次いで義廣追討使の事、仰せ切らると雖も、頼朝殊に意趣を存ずるの者か云々てえり。(略)
また聞く、義仲郎従等、多く伊勢国・美濃国等に遣わしおはんぬ。京中無勢と。平氏再び繁昌すべき由、衆人の夢想等有りと。範季申して云く、昨日義仲に謁す。申状の如きは謀叛の義無しと。

【玉】寿永二年閏十月廿四日
伝聞、義仲重ねて院に申して曰く、義廣を以て平氏を追討すべき由、申請許さざるの條、未だその意を得ず。猶枉げて義廣を遣わさんと欲す。兼ねて又備後国を彼の義廣に賜い、その勢を以て平氏を討つべしと。仰せに云く、全く許さざるの儀に非ず。件の男□弱の由を聞こしめす。仍って叶うべからざる由思しめす。左右を仰せられざるなり。而るに猶宜しかるべき由、計らい申すに於いては、異儀に及ぶべからずと。

【玉】寿永二年閏十月廿六日
義仲猶平氏を討つべき由、院宣有り。なまじいに領状すと。また聞く、義仲興福寺の衆徒に触れて云く、頼朝を討たんが為関東に赴くべし。相伴うべしと。衆徒承引せずと。



【玉】寿永二年閏十月廿七日
夜に入り或る者 
源氏の武者なり。源義兼、石川判官代と号す。故兵衛の尉義時孫、判官代義基子なり 来たりて云く、平氏を討たんが為、行家来月一日進発すべし。彼に伴わんが為明日河内の所領に向かうべしと。その次いでに語りて云く、義仲と行家とすでに以て不和なり。果たして以て不快出来すか。返す返す不便と。その不和の由緒は、義仲関東に向かう間相伴うべきの由、行家に触る。行家辞遁する間、日来頗る不快の上、この両三日殊に以て嗷々す。然る間行家来月朔日必定下向す。義仲またその功を行家に奪われざらんが為、相具し下向すべき由風聞すと。また云く、行家においては、頼朝に立ち合うべからざる由、内々議せしむと。

【玉】寿永二年閏十月廿八
伝聞、行家・義仲等征伐の下向、来月一日、御衰日 
院 たるに依って延引す。或る説二日、或いは八日と。





この間に、平家は千艘の船で海を渡り、播磨国の室山に2万騎で布陣。
 大将軍:新中納言知盛、本三位中将重衡
 侍大将:越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清
 平家は陣を5つに構える
  1陣:越中次郎 2000騎
  2陣:伊賀平内左衛門家長 2000騎
  3陣:上総五郎兵衛、悪七兵衛 3000騎
  4陣:本三位中将 3000騎
  5陣:新中納言 1万騎
打ち入ってきた行家500騎に対し、1陣は応戦するとみせかけて進路をあけ→2〜4陣も陣をあけて通してしまう→行家は取り囲まれた形になりさんざんにやられるが、→行家は紀七衛門・紀八衛門、紀九郎を逆に討ち取る→わずか30騎になり敵の本陣をダメモトで割って通り播磨国高砂から船に乗り、海上へ脱出→和泉国に到着、郎党20騎怪我するも行家は無傷→河内国を越えて長野城に立てこもる
と、かなりミラクルな力を発揮する行家叔父。
【玉】十二月二日条には11月29日に平家と対戦したとある。物語上は法住寺合戦の前に室山合戦があったように思えるが、実は「一方その頃…」という同時進行していたと考えた方がよい?時間軸的には法住寺の後に合戦がなされているが、これは木曽×平家の戦いではなく行家×平家なので、木曽軍としては自軍の戦いの一つとしてはカウントはできない。


【吉】寿永二年十一月四日
或る説に云く、平氏讃岐八嶋に在り。九国の輩菊池已下、追討し進せんが為、すでに文司関を出をはんぬと。また安藝志芳の脚力到来して云く、平氏十月二十日一定鎮西を遂い出されをはんぬ。事すでに必然なり。また出家の人その数有りと。
東国より上洛の者等その数有り。その説に云く、頼朝鎌倉を立ち、足柄上道に至る。その勢騎歩相並び三百万人に及ぶ。その粮料仮令三万石に余るの間、用途相叶うべからざるの由、猶予するの間、院使康貞下り逢う。仍って鎌倉舘に帰りをはんぬ。舎弟字九郎冠者、その名義経と。幾ばくの勢も具せず代官として上道す。今明入京すべし。院の別進を相具すと。国々庄々に下向するの輩或いはこれを施行し、或いは空しく帰洛するなり。叛儀の是非、京上を企つの間、毎事落居せざるの故なり。また秀衡進出す。義仲が子冠者逐電の由風聞す。無実と。


【玉】寿永二年十一月五日
伝聞、来八日行家鎮西に下向すること一定。義仲下向すべからず。頼朝の軍兵と雌雄を決すべしと。


【玉】寿永二年十一月八日
今日、備前の守源行家、平氏を追討せんが為進発す。見物の者語りて云く、その勢二百七十余騎と。太だ少たり如何。今日義仲すでに打ち立つ。只今乱に逢う事の如し。院中已下京都の諸人、毎家鼓騒す。抑も神鏡劔璽、無事迎え取り奉るの條、朝家第一の大事なり。よって余竊にこの趣を以て行家に含めおわんぬ。

【玉】
寿永二年十一月十日
伝聞、頼朝使供物においては江州に着きおわんぬ。
九郎猶近江にあると。澄憲法印を以て、御使として義仲の許に遣わす。頼朝使の入京、欝存すべからずの由。(略)





法住寺合戦


ここにクーデター、成る。

【覚/鼓判官】
都についた木曽殿は、謀反の誤解をとく前に、使者の鼓判官のあだなの由来を聞き、からかうような事を言って鼓判官知康を怒らせたがため、逆に誤解を深める事に成ってしまった。しかし玉葉では(表面上)どちらかといえば鎌倉の動きが恐ろしくて平家追討の命を遂行できるゆとりがない、といったふう。しかも頼朝と院は密に連絡を取り合っているので、留守の間に院を取られてはかなわない。

木曽殿に対する院のご機嫌が悪くなると、手のひらを返すように五畿内の兵は院方につく。信濃源氏の村上三郎判官代も院方にまわる。北国からついてきた軍はすでに都を落ち本国へ下ってしまい、木曽軍はこの時点で6〜7000騎になっていた。これを吉例とて7手に分ける(樋口隊2000騎で新熊野方面の搦手にまわり、残る6手はそれぞれ七条河原で合流の合図を決めて行軍)。この時木曽軍は笠印(味方の目印)として兜に松の葉をつけた。

寿永2年11月19日朝、法住寺殿にも軍兵2万人が集まる。それを指揮する鼓判官知康はオカシな格好でオカシな事をする。


さて、樋口隊は新熊野から西門に押し寄せて火矢を放つが、おりからの風で猛火となり、合戦の指揮をとっていた知康は真っ先に逃走する。当然2万人の官軍も我先にと逃げる始末。七条通の端を守っていた摂津源氏もそのまま西へ逃走したが、落人狩りに伏せておいた味方に、散々打たれたり石を投げられたりした。
主水正親業は賀茂河原を北に逃走中、今井に馬から射落とされたほか村上三郎をはじめ、近江中将為清、越中守信行、伯耆守光長、その子判官光経らが討たれる。天台座主明雲大僧正、園城寺長吏円恵法親王も射殺される。
播磨少将雅賢は樋口次郎に生け捕りにされた。
こんな、いわゆる戦闘のプロに素人がヤラレている陰惨な状況で、「鼻豊後」のトホホエピソードが入る。
(豊後国司刑部卿三位頼輔は下っ端に衣装をすっかりはぎ取られて真っ裸で11月のさぞかし寒い河原に立っていたところ、小舅の召使いが衣を着せかけて助けるのだが、頭からかぶせただけの滑稽な姿のままで、まるで散歩でもするように道行く姿はおかしかった。鼻豊後とは、鼻がでかいので呼ばれたあだ名)


後白河法皇は他所に豊後少将宗長のみを供に御幸しようとしていたが、信濃国住人矢島四郎行綱(八嶋四郎)が捕えて五条内裏に押し込めてしまう。さらには天皇を閑院殿におうつしする。

院方の近江守源蔵人仲兼の家来で河内の日下党の加賀坊という法師武者が仲兼の馬に乗換え、根井小弥太20騎が防ぐ川原坂にかけ入って散々戦って討たれる。この仲兼の馬だけなのを見て仲兼の家の子・信野次郎蔵人仲頼(27歳)は、仲兼が死んだと思い、ただ一騎でうち入って討死。仲兼は摂政殿が合戦を避けて宇治へいくのに出会い、それについてそのまま河内国へ落ちて行った。


翌20日、木曽殿は六条河原に立ち、首を掛け並べて記録する。その数630人あまり。木曽7000騎は勝利の閧の声をあげる。



【玉】
寿永二年十一月十九日
義仲すでに法皇宮を襲わんと欲す。基輔を以て参院せしめ、子細を尋ねしむ。午の刻帰り来たりて云く、すでに参上の由その聞こえありときこえども、未だその実無し。凡そ院中の勢甚だ少たり。見る者興違の色ありと。光長また来たり。院に奏せんが為退出しおわんぬ。然れども義仲の軍兵、すでに三手に分ち必定寄すの風聞、猶信用せざる処、事すでに実なり。余の亭大路の頭たるに依って、大将の居所に向かいおわんぬ。幾程を経ず黒煙天に見ゆ。これ河原の在家を焼き払う。また時を作ること両度。時に未の刻なり。申の刻に及び官軍悉く敗績す。法皇を取り奉りおわんぬ。義仲士卒等、歓喜限り無し。即ち法皇を五條東洞院摂政亭に渡し奉りおわんぬ。武士の外、公卿侍臣の矢に中たり死傷の者、十余人と。



【吉】寿永二年十一月十九日
午の刻南方火有り。院の御所辺と。再三進入すと雖も、戦場たるに依って、敢えて以て通ぜず。馬を馳せんと雖も、参入すること能わず。日入るに及び、院の御方逃げ落としめ給う由風聞有り。鳴咽の外更に他事を覚えず。後聞、御所の四面皆悉く放火す。その煙偏に御所中に充満し、万人迷惑す。
義仲軍所々に破り入り、敵対に能わず。法皇御輿に駕し、東を指して臨幸す。参会の公卿十余人、或いは鞍馬、或いは匍匐、四方に逃走の雲客已下その数を知らず。女房等多く以て裸形。武士伯耆の守光長・同子廷尉光経已下合戦す。その外併しながら以て逃げ去る。義仲清隆卿堂の辺に於いて追参し、甲冑を脱ぎ参会す。申す旨有り。新御所の辺に於いて御車に駕す。時に公卿修理大夫親信卿・殿上人四五輩御供に有り。摂政の五條亭に渡御すと。


【吉】寿永二年十一月廿一日
今日伯耆守光長已下の首百余、五條河原に懸く。人以て目すと。義仲検知す。


【玉】寿永二年十二月二日
伝聞、
義仲使を平氏の許に差し 播磨国室泊に在り 送り和親を乞う。また聞く、去る二十九日平氏と行家と合戦す。行家軍忽ち以て敗績し、家子多く以て伐ち取られおわんぬ。忽ち上洛を企つと。また聞く、多田蔵人大夫行綱城内に引き籠もる。義仲の命に従うべからずと。

【玉】
寿永二年十二月四日
定能卿退出す。院より来たり語りて云く、昨日義仲院に奏して曰く、頼朝代官日来伊勢国に在り。郎従等を遣わし追い落としおわんぬ。その中宗たるの者一人、生きながら搦め取りおわんぬと。また語りて云く、院中の警固、近日日来に陪し、女車に至るまで検知を加うと。

【玉】
寿永二年十二月五日
伝聞、平氏猶室にあり。南海・山陽両道大略平氏に同じくおわんぬ。また頼朝と平氏と同意すべし。平氏竊に院に奏し可許あり。また義仲使を差し同意すべきの由を平氏に示す。平氏承引せず。






宇治川合戦


東国から悪夢あらわる。

【覚/生ずきの沙汰】
年は明けて、寿永3年正月1日、院の御所は六条西洞院(木曾の監視付)に移され、正月の儀式等一切行えない状態。
平家は屋島で新年を迎える。
1月11日、木曽殿は院の御所に参上し、平家追討のため西国に出発する旨を申し上げる。(院への恨みはつきないが)
1月13日、鎌倉(頼朝)の木曾討伐軍が美濃国、伊勢国についたという情報に木曽殿、おおいに驚き、宇治・勢多の橋板を外し、軍兵を分けて派遣する。
木曽軍配備
 勢多/東国からの正面→今井800騎
 宇治→仁科・高梨・山田次郎500騎
 一口(いもあらい)→信田三郎先生義憲300騎

東国軍
 大手大将軍:蒲御曹司範頼 3万5000騎 →近江の篠原へ
    大名:武田太郎(信義)、加賀美次郎(遠光/信義の弟)、一条太郎(忠頼/信義の嫡子)、板垣三郎(兼信/忠頼の弟)、稲毛三郎、榛谷(はんがえ)四郎、熊谷次郎、猪俣小平六
 搦手大将軍:九郎御曹司義経 2万5000騎 →伊賀国を通って宇治川のたもとへ
    大名;安田次郎、大内太郎、畠山庄司次郎、梶原源太、佐々木四郎、糟谷藤太、渋谷右馬允、平山武者所

【延】では東国軍到着は1月20日となっており、【玉】一月廿日にもみられる。

【覚/宇治川先陣】
1月20日
・宇治戦
有名な佐々木(イケズキ)と梶原(スルスミ)の先陣争い→畠山の馬は山田次郎の放った矢に当たって弱ったので馬から下りて渡河→流されてきた大串次郎重親(畠山の烏帽子子)を岸に投げ上げてやる→大串は「宇治川の徒の先陣であるぞ」と敵味方からウケをとる→畠山×長瀬判官代重綱(組み合うが長瀬は首をねじ切られる)→宇治川の木曾軍勢は木幡山・伏見をさして逃走していった。
・勢多戦
稲毛三郎重成の計略により、勢田橋より4km下流の黒津から南郷に渡る瀬である田上供御の瀬を渡り、義経軍に勢多から入られる。

以降『河原合戦』へ。

【玉】寿永三年一月六日
ある人云く、坂東の武士すでに墨俣を越え美乃に入りおわんぬ。義仲大いに怖畏を懐くと。

【玉】寿永三年一月九日
伝聞、義仲と平氏と和平の事すでに一定す。この事去る年秋の比より連々謳歌す。様々の異説あり。忽ち以て一定しおわんぬ。去年月迫のころ、義仲一尺の鏡面を鋳て、八幡 或る説熊野 の御正体を顕し奉る。裏に起請文 仮名と を鋳付けこれを遣わす。茲に因って和親す。

【玉】寿永三年一月十一日
今暁、義仲の下向忽ち停止す。物の告げあるに依ってなり。来十三日平氏入京すべし。院を彼の平氏に預け、義仲近江国に下向すべし。

【玉】寿永三年一月十二日
伝聞、平氏この両三日以前使を義仲の許に送りて云く、再三の起請に依って、和平の儀を存ずる処、猶法皇を具し奉り北陸に向かうべき由これを聞く。すでに謀叛の儀たり。然れば同意の儀用意すべし。仍って十一日の下向忽ち停止す。今夕明旦の間、第一の郎従 字楯と を遣わすべし。即ち院中守護の兵士等を召し返しおわんぬ。

【玉】寿永三年一月十三日
今日払暁より未の刻に至り、義仲東国に下向の事、有無の間変々七八度、遂に以て下向せず。これ近江に遣わす所の郎従飛脚を以て申して云く、九郎の勢僅か千余騎。敢えて義仲の勢に敵対すべからず。仍って忽ち御下向有るべからず。これに因って下向延引すと。(略)

【玉】寿永三年一月十五日
隆職来たり語りて云く、
義仲征東大将軍たるべき由、宣旨を下されおわんぬと。

【玉】寿永三年一月十六日
去る夜より京中鼓動す。義仲近江の国に遣わす所の郎従等、併せて以て帰洛す。敵勢数万に及び、敢えて敵対に及ぶべからざるの故と。今日法皇を具し奉り、義仲勢多に向かうべき由風聞す。その儀忽ち変改す。ただ郎従等を遣わし、元の如く院中を警固し祇候すべし。また軍兵を行家の許に分け遣わし追伐すべし。凡そ去る夜より今日未の刻に至るまで、議定変々数十度に及び、掌を反すが如し。京中の周章喩えに取るに物無し。然れども晩に及び頗る落居す。関東の武士少々勢多に付く。

【玉】寿永三年一月十九日
昨今天下頗るまた物騒す。武士等多く西方に向かう。行家を討たんが為。或いはまた宇治にあり。田原地手を防がんが為。
義廣 三郎先生 大将軍たりと。




河原合戦(木曾の最期)


さてこそ粟津の戦はなかりけれ。

【覚/河原合戦】
都内の木曽殿、宇治・勢多とも敗れたと聞き、最後のいとまを申し上げるべく院の御所・六条殿に参ずるが
→門前まで来るが、東国軍がすでに賀茂の河原まで攻め入ったと聞いて引き返す
→六条高倉に女房あり(【延】松殿ノ姫君)、最後の名残を惜しんで出てこない
→新参の木曽殿の家来、越後中太家光はこれを諌めるため腹を切る
→腰を上げた木曾殿、上野国住人那波太郎広純はじめわずか100騎で六条河原へ。
・六条河原戦
 東国軍30騎ほどに攻められ、その中から2騎が進み出てくる。木曾×塩谷五郎維広(児玉党)・勅使河原五三郎有直(丹党)

この間に義経は5〜6騎で六条院に馳せ向かい、最終的には1万騎で御所の警備をする。

木曽殿は院の連れ出しを断念。
「こんな事なら今井を勢多にやらなきゃよかった」と賀茂河原を北に馬を走らせる→道すがら六条河原、三条河原で敵に会い、小勢で引き返しひきかえし5〜6度追い返す→鴨川を渡り→粟田口、松坂にさしかかる(この時主従7騎)→勢多の方に向かって逃げて行く。


【覚/木曾最期】
ここにきて初めて「巴」なる女武者の説明。(【盛】では倶利伽羅で既出)
勢多を守っていた今井800騎→50騎にまで打ち破られ、都へ引き返す→途中の大津打出の浜で木曽殿と行き会う→今井が旗を上げると300騎ほどが集う→甲斐の一条太郎忠頼6000騎に討死覚悟の戦を仕掛ける。→名乗りを上げ、戦ううちに木曾300騎が50騎まで討たれつつこれを打ち破ってさらに進む→土肥二郎実平が2000騎で布陣、これも撃破→有象無象の小隊と戦って行くうちに主従5騎になる
5騎になるまで巴は討たれず。【延】5騎は(木曽殿と)手塚別当、同甥手塚太郎、今井四郎、多胡次郎家包、(巴は行方不知)
「女なればいづちへもゆけ」と再三言われた巴はよき敵を見つけ、御田八郎師重30騎に突っ込むと御田の首をねじ切って、鎧兜を脱ぐとそのまま東国方面へ落ちて行った。

1月21日日没ごろ、今井はただ1騎で50騎ばかりの敵勢にはいり名乗りをあげ、たちどころに8騎射落とす。
木曽殿は1騎で粟津の松原に入り、薄氷が張り深田があるとも分からないところに入り込み、木曽殿の馬がはまり込んで、馬の頭も見えなくなった。
そこへ三浦の石田次郎為久が追いかけて来て、振り向いた木曽殿のその兜の内を射る、重傷を負って馬の頭に兜の正面をあててうつぶしたところへ石田の郎党2人が首をとる。
これを聞いた今井は「今は誰をかばおうと戦うことがあるか」と、太刀先を口にくわえて馬から真っ逆さまに落ち、自害。

こうして粟津の合戦は終わる。(でも言葉どおり訳すと「粟津の戦はなかったのだ」…え?無かったの?)




【玉】寿永三年一月廿日
天晴。物忌なり。卯の刻、人告げて云く、
東軍すでに勢多に付き未だ西地に渡らずと云々。相次ぎ人云く、田原の手すでに宇治に着くと云々。詞未だ訖わらず、六條川原に武士等馳走すと云々。仍って人を遣わし見せしむる処、事すでに実。義仲方軍兵、昨日より宇治にあり。大将軍美乃守義廣と云々。而るに件の手敵軍の為打ち敗られおわんぬ。東西南北に散り了り、即ち東軍等追い来たり、大和大路より京に入る 九條川原辺に於いては一切狼藉無し。最も冥加なり。踵を廻らさず六條末に到りおわんぬ。義仲勢元幾ばくならず。而るに勢多・田原の二手に分かつ。その上行家を討たんが為また勢を分かつ。独身在京の間この殃に遭えり。先ず院中に参り御幸あるべきの由、すでに御輿を寄せんとする間、敵軍すでに襲い来たる。仍って義仲院を棄て奉り、周章対戦の間、相従う所の軍僅かに三十四十騎。敵対に及ばざるに依って、一矢も射ず落ちおわんぬ。長坂方に懸らんと欲し、更に帰りて勢多手に加わらん為、東に赴く間、阿波津野の辺において打ち取られおわんぬと云々。東軍の一番手、九郎の軍兵加千波羅平三と云々。その後、多く以て院の御所の辺に群参すと云々。法皇及び祇候の輩、虎口を免る。実に三宝の冥助なり。凡そ日来義仲の支度、京中を焼き払い北陸道に落つべしと。而るにまた一家を焼かず、一人も損せず、独身梟首せられおわんぬ。天の逆賊を罰す。むべなるかな×2。義仲天下を執る後、六十日を経たり。信頼の前蹤に比べ、猶その脆きを思う。(以下略)


【吾】寿永三年(元暦元年)一月廿日
蒲冠者範頼、源九郎義經等、武衛の御使として數萬騎を率い入洛。これ義仲追罰の爲也。今日範頼、勢多より參洛。義經、宇治路より入る。
木曽は、三郎先生義廣 今井四郎兼平已下軍士等をもちいて、彼兩道において防戰雖すが皆敗北す。蒲冠者、源九郎、相具河越太郎重頼、同小太郎重房、佐々木四郎高綱、畠山次郎重忠澁谷庄司重國、梶原源太景季等、六條殿に馳せ参じ、仙洞(後白河)警衛し奉る。此間、一条次郎忠頼已下勇士は競い諸方走于、遂に近江國粟津邊に於いて、令相摸國住人石田次郎、義仲を誅戮す。其外、錦織判官等者、逐電す
 征夷大將軍、從四位下、行伊豫守源朝臣義仲、 
年三十一 春宮帯刀長義賢男。
 壽永二年八月十日任左馬頭兼越後守、叙從五位下。同十六日、遷任伊豫守。
 十二月十日、辞左馬頭、同十三日、叙從五位上。
 元暦元年正月六目、叙從四位下。十日任征夷大將軍。
 檢非違使右衛門權少尉、源朝臣義廣。
 伊賀守義經男壽永二年十二月廿一日、任右衛門權少尉。 
元、無官 蒙使宣旨。

【吾】寿永三年(元暦元年)一月廿一日
 →樋口の斬られの項へ


【玉】寿永三年一月廿一日(義仲関連の記載なし)


【玉】寿永三年一月廿二日
風病聊か減あり。よってなまじいに参院す。定長を以て尋問せらるる事五箇条、
一、左右無く平氏を討たるべきの処、三神彼の手に御坐す。この條如何。計り奏すべしてえり。兼ねてまた公家の使者を追討使に相副え下し遣わすは如何と。申して云く、もし神鏡・劔璽安全の謀り有るべくんば、忽ちの追討然るべからず。別の御使を遣わし、語り誘わるべきか。また頼朝の許へ、同じく御使を遣わし、この子細を仰せ合わさるべきか。御使を追討使に副えらるの條、甚だ拠所無きか。
一、義仲が首を渡さるべきや否や如何。申して云く、左右共事の妨げを為すべからず。但し理の出る所、尤も渡さるべきか。
一、頼朝の賞如何。申して云く、請いに依るの由仰せらるべきか。然れば又もし恩賞無きの由を存ずるか。暗に行われ、その由を仰せらる。何事か有らんや。その官位等の事に於いては、愚案の及ぶ所に非ずてえり。
一、頼朝上洛すべきや否やの事申して云く、早く上洛せしむべし。殊に仰せ下さるべし。参否に於いては知ろし食すべからず。早速遣わし召すべきなり。
一、御所の事如何。申して云く、早々他所に渡御有るべし。その所、八條院御所の外、然るべきの家無きか。(以下略)





樋口被討罰


今井四郎を今一度見んと思うぞ。

【覚/樋口被討罰】
樋口は行家を討つため河内国の長野城に向かったが討ち漏らす→紀伊国名草に(行家が)いると聞きすぐに赴くが→都で合戦が始まったと聞いて急ぎ駆け上る途中→淀の大渡の橋で今井の下人と行き会う。「君は討たれ、今井は自害」と聞く
→樋口500騎は落ちて行くうち(【延】命の惜しい者はどこなりと落ちて行けといわれ)鳥羽殿の南門を出た頃には20騎になる。
「樋口が今日都に入る」と聞いた党・高家は七条朱雀・四塚方面に向かう。
樋口軍20騎の中に茅野太郎光広が残っており、四塚で敵方に「一条次郎の軍の者はいるか」と聞いて回る。これは一条軍について戦っている弟の茅野七郎に自分の死に様を見せ、死して後、信濃に残して来た2人の子に立派な死に様であったと確かに聞かせるためだという。茅野太郎は敵を3騎斬って、4騎目で刺し違えて死んだ。
児玉党は樋口と縁があり、助命を願い出ようということになってまず樋口に使者を送って降伏させ→九郎義経に申し出る→いったん院は許す?が側近・殿上人・女房達が助命を納得せず、死罪に決まる。

1月22日、元の摂政が再任する。
1月24日、木曽殿ならびに残党5人の首が都大路を引き回された。この時、樋口はどうしても首の供をしたいと言い、一緒に引き回される。
1月25日、樋口斬られる。範頼・義経が助命するも、院許さず。

吾妻鏡によると、1月26日に樋口が首の供を申し出ている。また、2月2日に斬首されているが、渋谷庄司の郎従平太が討ち損じ子息・渋谷次郎コレヲ斬ル。<って、コラ〜っ!ちゃんとヤレ!
【延】木曾の悪業を非難し、落首3首を札に書いて立てられた。



【吾】寿永三年正月廿一日
源九郎義經主、義仲の首を獲る由奏聞す。今日晩に及び、九郎主、木曽が専一の者・樋口次郎兼光搦め進す。是木曽の使とし、石川判官代を征めんが為日來河内國に在り。而るに石河逃亡之間、空しく以て歸京、八幡大渡邊に於いて主人滅亡の事聞くと雖も、押し以入洛する之處、源九郎家人數輩馳せ向い相戰うの後これを生虜る。


【吾】寿永三年正月廿六日
今朝、檢非違使等、七條河原において、
請取伊豫守義仲、並びに忠直、兼平、行親等首、獄門前樹に懸く。亦囚人兼光、同じく之に相具し、渡され訖。上卿藤中納言、職事頭辨雅光朝臣

【吾】寿永三年二月二日
樋口次郎兼光梟首す。澁谷庄司重國之を奉り、郎従平太男に仰せつける。而斬損之間、子息・澁谷次郎高重之を斬る。但去月廿日合戰の時疵依りて、爲片手打
。此兼光という者、武藏國兒玉の輩と、爲親眤之間、彼等募勲功之賞、可賜兼光命之旨、申請之處、源九郎主、雖被奏聞事由、依罪科不輕、遂以無有免許

↑あああ〜!なんてコトしてくれるのッ!?という憤りがoTL


オマケ↓
【玉】寿永三年二月三日
法印来られ、今日行家入洛す。その勢僅かに七八十騎と。院の召しに依ってなり。頼朝また勘気を免ずと。




ここに木曾軍は一巻の終わりとなるのだが、物語は後半に入って行く。
(まだ息子・義重(義高)の顛末が残ってますが、これは吾妻鏡にゆだねるとして)
平家はこの源氏同士の合戦の間に屋島を出、摂津国難波潟に押し渡り、福原の旧都に居を構える。西は一ノ谷を城郭とし、東は生田の森を城戸口としてかため、福原・兵庫・板宿・須磨に立てこもる軍勢は山陽道8カ国・南海道6カ国からの招集で10万騎にまで膨らんでいた。あとは義経の活躍ということで、九郎さんがんばってくださーい!