廿二 さても鎌倉より使ひ、鏡宿に馳せ向ひて、北条に申けるは「十郎蔵人行家、信太三郎先生義範、河内国に隠れ籠りたる由、その聞へあり。道より馳帰りて、急ぎうちて奉るべし」とありけれども「我が身は大事のめしうと具して、これまで下りたるに、かへり上るべきにあらず」とて、北条が甥に北条の平六時貞とて、都の守護に置たりけるが、かどおくりに宿までうち送りたりけるに、かのひとをうちて奉るべき由申ししつけければ、平六京へ馳帰りて、郎党おほげんじむねやすと云者の有けるを召して「いかがはすべき。かの人々の在所を知たらばこそ搦めもせめ」と云ければ、むねやすたづねうかがひける程に「十郎蔵人の在所知たり」と云寺法師をたづね出だしたり。すなはちかの僧を召してたづねけるに「我はしらず。かのひとしりたり」と云ければ「さらばかの僧の有らむ所へ引導せよ」とて、件の僧を先にたてて、寄せて搦めんとするに、かの僧申しけるは「なにゆゑに搦めらるべきぞ。十郎蔵人が在所知りたむ也。さらば、をしへよとこそいはめ、搦めらるべきやうやある」と云ければ「しるほどなれば、どういしたるらむとて搦むるなり。いづくへゆくべきぞ」「天王寺なる処にこそあらめ。人をさしそへよ。下りてをしへん」と云ければ、兵共をさしそへて下しけり。
信濃国の住人笠原の十郎国久、同国の住人桑原次郎、井上九郎、常陸国の住人いはしたの太郎、同次郎、しもづまの六郎、伊賀国の住人服部平六らをはじめとして、つがふ卅余騎にて下しけり。
十郎蔵人は、窪津の学頭金春といふ怜人が元と、秦六秦七これら両三人が元に行き通ひて有けるを、二手にわけて押寄せたり。この事をやもれききたりけん、かしこをばおちにけり。金春が娘二人あり。二人ながら行家がおもひものにて通ひけり。これらをとらへてとひけれど「われもしらず」「われもしらず」とぞ云ける。
「げにも世をおそれておつる程の者が、在所を女に知らする事はあらじ」と、二人の女を召取て京へのぼる。又あるもの京へのぼる。北条の平六にあひて「それがしがもとにこそこの四五日あやしばみたる人はしのびてたちやどりて候へ。いちぢやう十郎蔵人殿にて渡らせ給ふと覚え候」と申ければ、平六よろこびて「いかなる人ぞ」と問ければ、「和泉国八木郷の住人、八木のがうしと申者也」と云ければ「折節人はなし。いかがせんずる」と思て、又おほげんじむねやすをよびて「いかにや、おのれがみやだてたりしさんぞうはあるか。めして参れ」とて、宗安をつかはす。 是はさいたふの法師に常陸房昌命と云者也。昌命やがてきたりければ、平六いであひて「十郎蔵人のおはする所をけさ人のつげたるぞ。ごばうくだりてうちたまひて、鎌倉殿の見参にいれ給へ」とて、家の子郎等をさしそへて天王寺へ下して、人もなかりければ、やがておほげんじをはじめとして、中間雑色ともなく廿余人つきたりければ、具してくだる。天王寺よりかへりのぼる勢は河内路を上る。
昌命は江口のかたを下りければ、道にはゆきあはざりけり。行家は天王寺をにげいでて、熊野のかたへおちけるが、徒歩にては有けり、一人具したるさぶらひは足をやみてのびやらざりければ、かの八木のがうしが元にたちいりたりけるを、家主の男つげたりけるなり。
昌命鞭をあげてかのところへはせよりて、人を入れてみするに、かの家にもなかりければ、こめろうをうちやぶり、いたじきをはなちて天井をこぼちてさがしけれども、みえざりければ、昌命力及ばず、おほちへたちいでてみれば、ひやくしやうの女と覚しきげすをんなの通りけるを捕へて「これにこのほどあやしばみたる旅人のあむなるは、いづくの家にあるぞ。申さずはしや首をうちきりてすてむずるぞ」とて、太刀の柄に手をかけければ、 女おそろしさのあまりに、さがし給つる家のとなりにおほきなる家の有けるをさして「あれにこそ主従のもの、いかなる人やらん、しのびてさぶらふとはききさぶらへ」と云ければ、昌命やがておしよせてうちいりて見れば、四十ばかりなるぞくの、かちんのひたたれこばかまきて、紅梅のだんじにてくちつつみたる唐瓶子とりまかなひ、銚子ひさげとりをきて、さかなくだものなむど取ちらして、既におこなわむとする所に、昌命がうちいるをみるままに、かの男うしろのかたへ北をさして逃ければ、昌命「あますまじきぞ」とて、太刀を抜ておひてかかる。
十郎蔵人は内にゐたりけるが、是を見て「あの僧、やれ、それはあらぬ者ぞ。行家をたづぬるか。行家はここにあるぞ。返れ返れ」といわれければ、昌命声につきてはせかへる。
昌命はたちうちつけたる黒革縅の腹巻に、さうのこてさして、さんまい甲きて、三尺五寸ある太刀をぞ佩きたりける。
行家は白き直垂小袴に、打烏帽子にえぼしあげして、右の手に大刀を抜き、左手に黄金作りの大刀の鍔もなきを抜て、額にあてて、塗籠の前にて待ちかけたり。かの太刀のつばは熊野権現へじゆぎやうにけんぜられたりけるとかや。
昌命馬よりとびおりて、「あのたちなげられ候へや」と云ければ、行家おほきにあざわらう声、家の内ひびきわたる。わらはべのかめの中にかしらをさしいれてわらふに似たり。
昌命すこしもはばからずよせあはせたり。昌明三尺五寸の太刀にて、諸手うちに打ければ、行家は三尺一寸の大刀をもつて、右の手にてちやうとあはせて、左の手にては黄金作りの大刀をとりのべて、物具のあきまをささむとすれば、昌明さされじとをどりのく。
昌命又つとよせておほだちにてきれば、行家ははたとあはせて、又左手にてささむとすれば、をどりのく。
昌明しばしささへけれども、しらまずうちあはすれば、行家こらへず、塗籠の内へしりへさまににげいりければ、昌命もつづきて入る所を、こだちにて左のももをぬいさまにぞつきたりける。
昌命さされて「きたなくもひかせたまふものかな。いでさせ給へ。勝負つかまつらむ」と申せば「さらばわ僧そこをいでよ」と云ければ、昌命「承りぬ」とて、大刀を額にあてて後ろ様へつとをどりのけば、行家つづきていでてちやうと切れば、昌命又むずとあはせける程に、いかがしたりけむ、太刀とたちときりくみたり。
昌命大刀をすてて「えたり、をう」と組たりければ、いづれもおとらぬしたたか人にて、上になり、下になり、つかみあへども、勝負なかりけるに、北条の平六がつけたりけるおほげんじむねやす、おほきなる石を取て、十郎蔵人の額をつよく打て、うちわりてければ、蔵人あけになりて「おのれは下郎なれ。あらさつなの振舞かな。弓矢とるものは太刀、刀にてこそ勝負はすれ。どこなる者のつぶてを以てかたきをうつやうやはある」と云ければ、昌命「ふかくなるものどもかな。足をゆへかし」と云ければ、 むねやすよりて昌命が足をこして、行家の足をゆいたりければ、蔵人少もはたらかず。
さてひきおこしたりければ、蔵人息を静めて「そもそもわ僧は山僧か、寺法師か。又鎌倉よりの使か、平六が使か」「鎌倉殿の御使、西塔の北谷法師、常陸坊昌命と申者也」と云ければ「さてはわ僧は行家に使はれむといひし者か」「さんざうらふ」「手なみはいかがおもふ」といわれけれ、昌明「さんじやうにておほくの悪僧共とうちあひて候つれども、走りむかひには、殿のおんたちうつほどにはしたなき敵にあひ候わず。就中左の御手にてささせたまひつるが、あまりにいぶせく、こらへがたくこそ候つれ。さて昌命がてあてをばいかがおぼしめしつる」と申ければ「それはつつむかへに取られなむ上は、とかくいふに及ばず」とぞ云われける。
「太刀みむ」とて、二人の大刀を取よせて見ければ、四十二箇所きれたり。
昌命「さていちぢやう殿は鎌倉殿をばうちたてまつらむとおぼしめされて候しか」と云ければ「是程になりなん上は、おもひたりしとも、おもはざりしとも、しかしながらもせんなし。とく首を切て兵衛佐に見せよ」と宣ひければ、 昌命さすがあはれに覚えて、干飯をあらわせてすすめければ、水をのみたまわむとて、引よせられたりけるに、額のきずより血のさつとこぼれかかりたりければ、捨てられにけり。
昌命是を取てくひて、こよひは江口の長者がもとにとどまりぬ。
よもすがら京へ使をはしらかしたりければ、あくる日の午刻ばかりに、北条平六五十騎ばかりにて、旗差させて赤井河原に行きあひぬ。
「都の内へはいるべからず」と云院宣にて有ければ、ここにて首を刎ねてけり。首をそんぜじとて、なづきをいだして、頭の中に塩をこみてぞもたせける。
この人の兄信太三郎先生義範は、醍醐の山に籠りたる由聞へければ、服部の平六案内者にて山をふませけるに、やまづたひに伊賀国へぞ移りける。既にかたき近づきければ、次第に物具脱ぎ捨てて太刀をも捨てて、ある谷の奥に行て、あはせの小袖に大口ばかりにて、腹かひ切て伏しにけり。すなはち平六首をとりてけり。
昌命、十郎蔵人の首をもたせて鎌倉へ下りたりければ「神妙なり」と感じ給ければ「いかなる勧賞にかあづからむずらむ」と人々申けるに、勧賞にはあづからずして、下総国かさいと云所へながされにけり。
しよにん「こはいかなる事ぞや」とおどろき申しけれども、その心をしらず。
二年と申に「行家うちたりし僧はしもつふさの国へ流し遣はされにき。いまだあるか。召せ」とて、めしかへして、鎌倉殿の宣ひけるは「いかにわ僧、わびしとおもひつらむな。下郎の身にてたいしやうたる者をうちつるは、冥加のなき時に、わ僧の冥加の為にながしつかはしたりつる也」とて、勧賞には摂津国はむろの庄、但馬国におほたの庄、二か所をぞ給はりたりける。これ昌命が面目にあらずや。
二月七日、右大臣殿つきのわどのせつろくせさせ給べきよし、源二位とりまうさるときこえし程に、内覧の宣旨の下りたりしを、「しやうたいのころをひ、北野のてんじん、ほんゐんの大臣あひならびて内覧の事ありしほか、えうしゆの御時ならびて内覧の例なし」と、右のおどどおほせられければ、つぎのとしの三月十三日、せつろくのぜうしよくだりき。さきの日、院より右少弁さだながを御使にて、右大臣殿せつろくの事、頼朝の卿なほとり申す由、こんゑのゐんふげんじ殿へ申させ給たりければ、たちまちにかどさしにけり。ごぶんのたんばのくにじしまうさせたまひつつこもらせおはしましてけり。右大臣殿えらばれましましき。こんゑどのはしばしなれども、平家の為にむすぼをれておはしまししかば、りじおもかりければ「力及ばず」とおほせられけるとぞ。右の大臣はかうさびて九条におはしましけるが、保元平治よりこのかた、世の乱れ打つづきて、人のそんずる事ひまなきを、朝夕歎きおぼし召しけるいんしんむなしからず、やうほうたちまちにあらはれにけるやらむ、かかる御悦びありけり。かひがひしく乱れたる世ををさめ、すたれたる事ををこし給けり。
二月十日、左府経宗の使者、筑後介かねよし、関東より帰洛す。これは義経が申したまはるくわんぷの事に、しんかくをのがるといへども、なほふゐせられて、しやしつかはされたりければ、謀叛の輩におほせて、頼朝を誅せらるべき由風聞の間、きようきようしたまふところに、いまふしんをさんずる由返答せられける間、左府安堵の思ひをなされけり。
[モクジ]
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