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旅 レ ポ 。


瀬戸内行軍。


9月に遅めの夏休みとって行ってキマシタ、水島行軍。
ホントの事いって淡路島→四国高松→倉敷→神戸と廻って来たんだけども、今回は水島と室津の旅レポだけお届け。

えーと、他は「義経VS.平家」なので木曽殿テンション↓↓になっちゃいそうなんで割愛して別の機会にご報告ってコトで。。。(^ ^;


さて、水島とはなんぞや、という方にざっくり説明すると

木曽殿は入京後、後白河院に「はやく平家追討せよ」と急かされ、矢田判官代を大将軍、海野幸広を侍大将とし、官軍(木曽軍)を屋島に陣取る平家軍に向けて出発させた。
これを知った平家軍船団は屋島を出発し水島の渡(現在の倉敷のあたり)に迎撃に向かう。
1183年閏10月、ここに水島合戦が勃発する。



と、いうわけで水玉ブリッジを目指す!
今回はスケジュールが厳しかったのでレンタカーでアタック。
調査の結果、電車アタックでも行けるんで紹介しておくと、新倉敷駅から井笠バスで寄島行きに乗って「船宮」バス停降車。で行けるっぽい。

近くにある中山自動車整備工場さんが目印(これは車で行っても同じ)で、水玉ブリッジの玉島橋西の高架下に入ると、橋に上がる階段がひっそりあるのでこれを上る。

 

すると「水島古戦場碑」をハッケン。



夏草にすっかり覆われてしまっている。この碑のあたりは「柏島」といい、昔この一体は小島に分かれていて現在のようにつながっておらず、その名残として島の名が地名として残されている。

盛衰記では合戦時に皆既日食があったといい、船戦に疎い木曽軍が込み入った島の間で大混乱…というのもやむなし、といったカンジ。

もう少し地形をしっかり見たいので北東の高台に移動、円通寺公園へ登山。



中央あたりにあるのが水玉ブリッジ。


手前の円通寺側が「柏島」で平家の陣が敷かれた島、川をはさんで左奥が「乙島」で木曽軍が陣を敷いた島。

乙島には「常照寺」というお寺があり、そのあたりに源氏が陣をしいたという。境内には源平慰霊碑があるんだけども、コレがうっかり素通りしてしまっった〜oTL

屋島合戦でも感じたんだけども、今より家や埋立地がなかった事を考慮に入れるのは当然として、水位がもう少し高かったと考えるとなんとなーく島かもしれないと納得しやすい気がする。

ところで、円通寺は合戦に直接は関係ないらしいが、建立された時期は古いので、ここから当時のお坊さんが観戦してたかもしれない。



…さて、水島合戦の敗戦報告を聞いた木曽殿は、本隊1万を率いて屋島に向けて出発。このあと妹尾VS.木曽軍の「福隆寺畷合戦」が始まる…

と、いうワケで木曽軍の進軍ルートを確認。


1)木曽軍は妹尾兼康の案内で山陽道を下る。
  *盛衰記では木曽本隊は船坂山に逗留

2)妹尾兼康が郷里に先行して木曽軍をもてなしたいと申し出、懇意にしていた倉光三郎成氏もこれに同行。

3)先行した妹尾兼康は播磨国国府で息子と落ち合う

4)備前国三石宿で泊まると倉光三郎らを暗殺、さらに備前の行家代官も殺害
  *盛衰記では「和気渡から東の藤野寺」で倉光を暗殺

5)播磨国と備前国の国境・船坂山で行家代官の下人が木曽軍と行き会い瀬尾謀叛を報告

6)この間に妹尾父子は地元で軍勢を集め、福隆寺畷笹迫に急ごしらえの城郭を作り布陣
  *盛衰記では「福隆寺畷」に城郭、笹迫に石弓設置

7)今井隊に押され、瀬尾軍は笹迫に退却

8)さらに瀬尾軍は板倉川のほとりに退却し掻楯立てて待ち受け、ここで倉光成澄は首をとられる。
  *盛衰記では「唐皮宿、板蔵城」に立てこもる。

9)瀬尾はさらに緑山に逃れ、今井隊50騎に対し瀬尾は主従3騎で戦い破れ、鷺の森にその首を掛けられた。


残念ながらワタシは木曽軍進軍ルートの全く逆に居たので、合戦ポイントを逆から廻る事にする。



山陽道を東に走って倉敷から総社に入り、「鷺ノ森公園」へ。



いきなり妹尾クライマックス!!
ここが妹尾父子の首が掛けられたんじゃないかという森。まあ、そうだったらいいなあレベルで、山本神社という神社の裏手にある小さな公園に、地名が残っているだけ。この神社がいつからあるか、由緒が全く分からなかったのは残念。
鷺の森公園の隣にも山本神社とは別の小さい神社があったんだけど、これまた由緒が不明。。。


それから、山本神社とは別に、鷺の森公園から150mくらい?いったところにも小さい祠も見つける。これも由緒わからず。妄想が当たってれば、公園横の小さい神社かこの祠は妹尾さんの鎮魂の為の塚(太郎塚?)だと思うんだけどなあ。


首を掛けられた森がある、と、いうコトは近くに妹尾父子が立てこもった山「緑山」がないといけないんだけども、丘程度の山しかみつからず。ちなみにこのあたりは古墳がとても多いらしい。そういった場所に隠れたりできたかもしれない。。。(妄想中)
緑山古墳という古墳が近所の山中にあるらしいので、そこが緑山かもしれないけども、日も暮れて来たので山に入るのはあきらめる…

移動で時間をとられたこともあって、この日は妹尾父子終焉の地で終了。



次の日、まずは高梁川を上流へ。
板倉川は高梁川の古名といわれるのでそのあたりに行ってみる。台風の影響もあり増水してて、渡河ポイントが見つかりそうもない(>_<)
と、思ってたら写真撮るの忘れてるし…

その高梁川の東に「兼康神社」という神社がある。



ここは妹尾兼康の湛井堰(たたいぜき)治水工事の功績を讃え、水神様と共に兼康が祀られている。
地元ではなかなか人気があったようだ。サスガ、木曽殿に惚れられた男!

もしかすると、板倉城はこのあたりだったかもしれない…が、ヨク分からない。ついでに唐皮宿も、山陽道沿いにあったと思われるけども見つけられずoTL

ただしこのあたり、けっこう険しい崖や山に囲まれているので城郭にできそうな予感はある。「城山」という地名も見つけたが伝承が残っていないようなので残念。



次に向かったのはJR吉備津駅。700mくらい歩けば「吉備津神社」という大きな神社があり、桃太郎伝説や釜鳴神事で有名。とても立派なので通ったら必ずお参りするコト間違いないかんじ。




吉備津駅から西へ行くと商店街があって、これが昔の「板倉宿」。

しかしこのあたりで重要なのは鯉山小学校の北東にある「妹尾兼康の墓」。



この鯉山小学校の敷地がそのまんま妹尾氏の館だったらしく、校庭から土器や頭蓋骨などが出てきたとか。その後「道勝寺」という寺があったらしいがこれも廃寺となり、今は法印塔だけが残されている。

ところで「妹尾」という地名はここから南に8kmくらい行った所にあり、妹尾氏が開墾して「妹尾」と名付けたとか。


そしてJR備前一宮駅方面へ移動、こっちには「吉備津彦神社」があり、これも大きな神社。
実際、「吉備津」「吉備津彦」のどちらが一宮だったか、今ではよくわからないらしい。

もしかしたら神社中心にあの辺り一体に境内都市が形成されて一つだったのかもしれない??



そして「笹ケ瀬」へ。


ここが「笹迫(ささのせまり)」と目される場所で、行ってみると確かに隘路、合戦が起こりやすい場所!
中央の川は「笹ケ瀬川」、昔は川幅がもっとあったはず。


行ってみて分かったのは、「福隆寺畷」は笹ケ瀬の近くだけど、覚一本ほど近所にあるわけじゃない、というコトくらいだろうか。それとも、現代人と中世人では「近所」の感覚がものすごく違うのかも…?

笹迫は今井兼平が頑張って落としたところなので、しつこく廻りましたよモチロン。


とゆーワケで笹ケ瀬を堪能したら「福隆寺畷」へ。
今は単なる住宅地と大学の間を通る狭い道になってて、GooglMapのストリートビューで見た方が分かりやすい。昔ながらの蛇行した細い道が、なんとなくそれっぽさを残している。

場所によっては道の左右の土地が低くなっている。このあたり深田で、これに今井隊は苦労させられた。


より大きな地図で 木曽殿マップ(山陽道) を表示


道を上からながめられないかと半田山植物園に行ってみたけどもこの日は休園日、しかも入園料も高かったのであきらめる。残念。

残念ついでに妹尾兼康が福隆寺畷に行く際に渡ったという「西河裳佐の渡」のあった旭川をのぞいていくと、コレまた台風の影響で増水中!



逆回り水島・妹尾ルートのゴールは「両児神社」。

元は「万寿庄総鎮守五座八幡宮」といい、このあたり一体が万寿庄だったランドマーク。
妹尾父子を討取った木曽殿&木曽軍オールスターズは、ここで勢揃いし、屋島を本拠地とする平家の殲滅作戦に移ろうとした。
が、ここで京の留守居役・樋口兼光からの報せで行家叔父の讒言による政治的立場の急変を知り、木曽軍は一路都へと駆け戻っていった。

この、気の遠くなるような階段を上ると社殿があるが、上は山ではなく台地になっているので裏からまわるコトをおすすめ!



さて、しばし山陽自動車道を使って時間短縮、「和気IC」で降りる。

話は妹尾合戦の始まりに戻って、盛衰記で妹尾兼康は「和気の渡しの東にある藤野寺」に倉光弟を案内して、ここで酒肴でしたたか酔わせて夜半に殺す、という手口で暗殺する。

今はすでに藤野寺はなく地名が残るのみ…と思っていたら、藤野寺の跡地に「和気寺」というお寺が建ち、藤野寺についての案内板もあったのでちょっとビックリ!


木曽殿も藤野寺に寄って「倉光弟はココでヤラレタか…」と哀しみに浸るので、ランドマークがあって嬉しいところ。
境内には和気氏の古墳もあり、なかなか興味深い。



この旧藤野寺から線路を越えて北に300mくらいのところに「倉光三郎成澄」塚がある。


石碑の裏には「義仲家臣」とあるが後世の様式のモノのようではある。
これは妄想だけども、当時は小さな石塔だったものが風化したので作り直したとか、藤野寺のエピソードを聞いた地元民が建てたとか、そういうものなのかこの石碑の由緒は分からない。

ただ、水島には矢田判官代も海野も塚が見つかっていないのが残念だったので、倉光弟の塚建ててくれた誰かにとても感謝する。

あ り が と う 、 誰 か !

この近くには「和気清麻呂政所」の巨大石碑があり、こちらの方が有名。ランドマークに役立ったw。




さらにさらに山陽道を東に行くと「三石宿」に到着。
 
今でも道のおもむきに江戸時代の宿の様子が残っている。


覚一本ではここで倉光弟がヤラレているし、盛衰記でも木曽殿が寄っている進軍通過ポイント。船坂山のふもとにあたり、山あいにあるので狭い。
宿の途中から道を山に入っていくと
三石城跡というのがある。戦国時代あたりに築城されたらしいけども、いつの世も戦略的重要ポイントは変わらないといったトコロか…


そして「船坂山」に移動。
旧道に入るため、国道2号を外れて、またしても登山。
木曽軍がここに駐留したという。
途中、石垣っぽいものや清水があり、街道でにぎわっていた頃には茶屋や広場などが整備されていたかもしれない。

 

ここでは「船坂山義挙之碑」の方が有名みたいで、
この石碑を目印にさらに進んでいくと国境の碑にたどりつく。

↓これが国境の碑。



国境を越えた所で木曽軍が船坂山の前に駐留した「今宿」はどこかとしらべてみると、多分姫路城の西にある山吹あたり、見た目には何も残ってなさそうだったので、時間短縮のためにスルー。


てゆーか、今宿をやめてまで行きたかったのが「室の津」、行家叔父vs.平家の「室山合戦」古戦場!
これが電車の旅だと山陽電鉄の山陽網干駅から神姫バス大浦行きで、しかも2時間に1本運行のハードル高い場所なんで、どうしてもつぶしておきたかった…


というわけで南下して室津港へ。
途中「道の駅みつ」に寄ってマップ確認。



ほどなく「室津」に到着。


今も漁港として使われている。この港に御座船を舫ったりしたんだろーか。
そして、戦場になりそうな平地っぽい場所は実に小学校しかなかったんだけども、写真は割愛。最近は個人情報とか厳しいみたいだし。。。

港にほぼ隣接した高台にあるのが、「賀茂神社




平家が館を造り、安芸の厳島神社へ参拝に行く際にも中継地として使われていたという。まずここが「室山城」といっていいと思う…
ここからの海の見晴らしがとてもよい。清盛ゆかりの神社というノボリも立ってて大河ドラマの準備オッケー的な雰囲気。

室津は狭い石畳の通路に小さい家の立ち並ぶカワイイ町並みで、観光としてゆっくり行ってみるのもいいと思う。

じっくり廻れば、もう少し古戦場の手がかりもつかめるかもしれないな…と思いつつ、室津を後にする。


そしてタイトなスケジュールでクラクラしながら、次に向かったのは摂津「一ノ谷」、義経が奇襲で平家の大軍を蹴散らしたあの有名な場所へと旅立ったワケだけども、木曽殿に関係ないのでこのレポートはこれにておしまい。

おつきあいアザス!m(_ _)m

2011年09月


<上に戻る>




<今回の移動ルート>

JR新倉敷駅

水島古戦場碑

円通寺公園

鷺ノ森公園

妹尾神社(板倉川)

吉備津神社(板倉宿)

妹尾兼康墓(館址)

吉備津彦神社

笹が瀬

福隆寺畷

旭川(西河裳佐の渡)

両児神社(万寿庄)

(藤野寺)

倉光三郎碑

三石宿

船坂峠

室津/賀茂神社




◆今回のヒント

井笠鉄道株式会社(井笠バス)



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