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◆皇家
後白河法皇
八条院
上西門院

高倉天皇
以仁王
北陸宮


◆貴族
藤原光隆
藤原基房
伊子
壱岐知康

◆その他
藤原秀衡
源頼政

◆寺社
天台座主明雲
仁和寺御室
俊尭僧正

◆オマケ
藤原頼長▲
九条兼実
吉田経房
藤原定家
式子内親王
二条院讃岐





■天皇家略系図

 美福門院(得子)
 ┃
 ┠─────┬近衛76
 ┃     │ ┃
 ┃     │ 皇嘉門院(聖子)
 ┃     │
鳥羽74   ├八条院
 ┃     └高松院
 ┃
 ┠──────崇徳75
 ┃
 ┠──────上西門院
 ┃
 ┃        □子
 ┃        ┠──────二条78(美)───六条79
 ┠──────後白河77
 ┃       ┃┠──────以仁王(八)────北陸宮
 待賢門院(璋子)成子
         ┃
         ┠───────高倉80
         ┃        ┃┠──────安徳81
         建春門院(滋子) 建礼門院(徳子) 
                  ┃
                  ┠───────後鳥羽82
                  殖子


*二条天皇は美福門院の猶子、以仁王は八条院の猶子となっている。





■摂関家略系図

藤原忠実┬忠通┬基実┬基通
    │  │  └通子(高倉妃)
    │  │
    │  ├基房─師家
    │  │
    │  ├兼実┬良経
    │  │  └任子(後鳥羽妃)
    │  │    
    │  ├兼房─兼良
    │  │     
    │  └慈円
    │
    └頼長













後白河法皇
(ごしらかわほうおう)


日本一の大天狗(笑)

頼朝に「日本一の大天狗」とか呼ばれちゃったりした、政治謀略の鬼。
と、言われてるけども
若い頃はカナリ流行の最先端を常にリードし続けた文化人であり芸術家で、たとえば貴賎上下を問わず流行っていた『今様』(今でいうJ-POP?)を聞き書きした「梁塵秘抄口伝集」を上皇時代の1160年代に編纂(1169年成立)、自身もノドを3度潰すほど歌いまくった、とか。
鹿ケ谷の陰謀の一件で幽閉されて憂き目にあい、それが一転「法皇」となって政治の実権をいきなり手に入れ「院政」を展開、身分に関係なくお気に入りを近臣に侍らせ、駆け引きの難しい時代に入ると政治力もみせる、といったマルチな才能をみせる。

晩年は若いヨメを娶ったのはいいがこれにはカナリ踊らされている。

彼女は丹後局(タンゴノツボネ=高階栄子)といい、もとは相模守平業房の妻であったのが、平清盛により夫が伊豆に流され(治承三年)、それから(彼女が院の身の回りの世話をするようになって)院のお召しに。
どういう訳か丹後局を溺愛して「傾城の楊貴妃のようだ」などと玉葉に書かれちゃったり、丹後局との間に出来た娘の姫宮にはわずか11歳にして院号を贈っちゃったり(宣陽門院)と超ラブっぷり。
しかし後白河院崩御で丹後局もサスガに落飾。


*↓梁塵秘抄にある369番、今と一緒(笑)

この頃都に流行るもの 柳黛髪々 ゑせ鬘…(略)
訳は
最近都会の(ギャルに)ハヤってるもの 細マユ ウソっぽいウィッグ…


さらに後白河法皇の逸話。
彼は鳥羽天皇の第四皇子で、母は待賢門院(たいけんもんいん)=中宮藤原璋子。
この璋子というヒトがすごく美しいヒトで、入内前に、鳥羽天皇の祖父・白河院の養女として育てられていた時に院と通じていたというウワサがあったんですねえ。(その不義の子が崇徳帝といわれた)
しかも父・鳥羽帝はその白河院の圧力で幼帝・崇徳天皇に譲位させられた。
そこで権力争いが激化。
白河院が崩御されると鳥羽院が院政をとり、今度は崇徳天皇に圧力をかけて、寵妃・美福門院の子・近衛天皇に譲位させた。
この近衛天皇が若くして崩じられたとき、美福門院系の政治的グループの陰謀で後白河天皇が立ったというワケで。
コレが崇徳院の逆鱗にふれて起こったのが『保元の乱』。
崇徳院vs後白河天皇、という実の兄弟対決。
こういう渦中を生きてきたので、そりゃあ一筋縄ではいかない人物(不良少年?)に育つわけです。芸術に血道をあげるのも道理、現実逃避といいましょうか、才気あふれるヒトには政治のゴタゴタなんて邪魔でしかなかったのかもしれない。

個人的に後白河法皇は「先を見通した策謀家」ではなく、とにかく目先の危機を乗り切ろうとする策謀を常に計っていただけのように思えるんだけどなあ。。。。



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八条院
(はちじょういん)


チーム八条院の女リーダー。

八条院、あき(日章)子内親王。
鳥羽天皇と美福門院の皇女で近衛天皇とは同腹。後白河法皇とは異腹の姉弟。
両親の莫大な荘園(二百カ所以上あったといい、八条院領といわれた)を引き継ぎ独自のサロンを展開していた。

未婚で立后しないまま院号を得る。甥の二条天皇を養育、その准母になり(このとき女院号を贈られる)、また以仁王を猶子(養子)にし、他にも以仁王の子息・子女はじめ数人の子息子女の保護養育もしている。

日常では鷹揚な性格だったというが、ビミョーに反平家的な人物が集まっていた(というよりは旧鳥羽政権の頃のサロンを展開してただけなのだが)。
例えば美福門院から信頼の厚かった源頼政、頼政に呼ばれて見参した源行家、頼政の養子となった義仲の兄・仲家は八条院の蔵人、仲家・義仲の父・義賢は近衛天皇が東宮の折の「帯刀先生」(=警護隊長)
池禅尼は美福門院や鳥羽院近臣藤原家成(従兄弟)と親しかったのでそのつきあいがあったと思われるし(池大納言=清盛の異母弟も八条院と関わりがあると思われ)。
後白河法皇も八条に行幸したといい異母兄弟ではあるが疎遠ではなさそう(というより無視できない存在だったんだろうなあ)。

鳥羽法皇〜美福門院の縁故ラインを辿って行くとさらに陰の協力者が出てきそうな場所だと思う。それ故に以仁王の挙兵時に協力的な描写や助命嘆願が出てこなかったのが奇妙にすら感じる。オトナの事情?



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上西門院
(じょうさいもんいん)


上西門院、統子(むねこ)内親王。
父は鳥羽天皇、母は中宮・待賢門院(藤原)璋子で後白河法皇(や崇徳上皇)と同腹。八条院とは異腹。
後白河天皇践祚の際に准母となり、女院号を贈られる。
晩年は六条院に住んでいた。


上西門院のサロンは待賢門院以来の家臣や女房が数多く集まっていた。
例えば平滋子は上西門院の女房として仕えていたところを行幸してきた後白河法皇に見初められ、高倉天皇を生んでいるし、平通盛の妻・小宰相も上西門院の女房。

また摂津源氏一族、足利の矢田判官代義清・義長、若い頃の源頼朝も蔵人に補任されている(佐殿=右兵衛権佐は平治の乱で任じられた)。
猶子の藤原家房は摂政・松殿基房の子。
絶世の美女だったと伝えられる。


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高倉天皇
(たかくらてんのう)


悲運の天皇

comming soon!



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以仁王
(もちひとおう)


「以仁王の令旨」全国の源氏に下す

後白河天皇の第2皇子。三条高倉に屋敷があったため「高倉宮」と称される。故建春門院(平滋子)に疎まれた事から親王になれず、八条院(鳥羽上皇の皇女で後白河法皇の異母妹)の猶子となる。治承4年に平家追討の令旨を発したが、逆に平氏に露見し討死。



以仁王は後白河法皇の次男でありながら母が平家筋でなかったのと(母は大納言藤原季成の女・成子)建春門院にもなんでか疎まれたこともあってか、また血筋から言って当然なるべき親王ですらなく、父・後白河院にもかわいがられた様子もなく、兄も弟も天皇につく中で取り残される形に。
そして以仁王30歳の時に安徳天皇即位。
そんな折、源頼政に「平氏追討」の令旨をいまこそ出す時と説き伏せられ、その同じ頃に八条院(鳥羽上皇の皇女璋子内親王)の猶子になっている。

4月に令旨発令、これが平家に露見し5月15日に平家圧力により皇籍剥奪、5月26日には宇治川合戦を引き起こし、奈良興福寺に向うところを平氏軍に追いつかれ「流れ矢」に当たり息絶える。。。

女装して屋敷から脱出したり、睡眠不足で6度も落馬したりと、何かとツッコまれがちな皇子ではあるが、源三位頼政がよからぬ事を吹き込まなければ、それなりに穏やかな人生を送れたかもしれない悲運のヒトとしか思えない…。
閑院流藤原季成の娘・成子を母にもち、同母姉には百人一首や定家との恋愛のウワサのあった式子内親王、自身も才覚豊かで歌に笛、手跡も美しかったとある。
また、同腹の兄・守覚法親王は仁和寺の御室。
子供は異腹で3人、北陸宮は乳母夫と北陸に逃れて源義仲の庇護を受ける。


ちなみに「令旨」とは皇族の発する命令で、天皇・上皇などの発するのは「宣旨」。



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北陸宮
(ほくりくのみや)


不遇の皇子。

以仁王の第一王子。以仁王が討死した後すみやかに出家し越前国に逃れた。木曾義仲挙兵の折に保護を受け越中宮崎に滞在・還俗、皇位継承者として推挙されるが後白河院はこれを占いで否定。木曽敗死の後は鎌倉に庇護されたが、後白河院には疎まれたままだったという。



義仲は入京後、後白河法皇に再三「次代天皇に」と勧めたがどうも後白河法皇は北陸宮を気に入らなかったようで、最後には「占いで悪い卦が出ている」として退けられた。どうも名前からして「北陸」というイナカっぽいのが嫌いだったとかいう説もあるがそんなのアリ?
とはいえ以仁王も親王にすらさせなかったくらいだし、母も八条院の女房という身分の低さではしょうがないのか。
義仲失脚後は鎌倉の庇護を受け僧になるも帰京を許されず、京近くの嵯峨野でひっそり過ごした。




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式子内親王
(しきしないしんのう →しょくしないしんのう とも)


玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする

百人一首のこの歌で有名な皇女は後白河院の娘で以仁王とは同腹の姉にあたり、賀茂の斎院を16の歳まで務めた。身体も弱く、皇女は滅多な事では結婚もできないのでカナリ薄幸の令嬢のおもむき。藤原定家(8〜9歳年下)とのロマンスも噂されたり。
ちなみに亮子内親王(殷富門院)は姉、安徳・後鳥羽天皇の准母となり、院号を宣下されている。



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藤原光隆(猫間中納言)
(ふじわらの みつたか :ねこまの ちゅうなごん)


光高とも。藤原清隆(猫間中納言と称した)の子。権中納言。
「猫間」とは今の壬生のあたりでそこに屋敷があった事から「猫間」と称した。
従三位まで昇進。

平家物語中では「猫が人に会いに来たw」「御飯を猫残ししたw」などと笑われて猫間殿とすら呼んでもらえず、猫間殿の立場だったら確かにあきれて相談事も忘れそうだ。。。食器が田舎風で薄汚そうなのは貴族の感覚なのでしょうがないとしても、食事を運んで来たのが四天王のゴツい武将・根井小弥太ってのがまたwwwへこむwww

平家物語では木曽殿の田舎者エピソードにかり出されているイメージしかないが、父は鳥羽院の近臣、母は近衛天皇の乳母(ということは光隆は天皇の乳母子)で若くして異例の出世、近衛天皇逝去の後は後白河法皇の近臣へと華麗に転身。




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藤原関白基房(松殿基房)
(ふじわらの かんぱく もとふさ)


公卿で松殿家の祖。高倉天皇下で摂政、太政大臣、関白にまでなったが、兄の遺領の処置について平家と反目し、ついには解官・左遷されてしまう。
平家都落ちの後、娘・伊子を義仲の妻とし、義仲のクーデター時には三男でまだ12歳の藤原師家を後鳥羽天皇の摂政・内大臣・藤氏長者にした。
が、わずか2ヶ月ちょっとで義仲敗死すると、息子共々失脚する。





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伊子
(いし?)


久我(源)通親の室、曹洞宗の開祖道元の母。

前関白藤原基房の娘で超やんごとなき姫君。
義仲上洛後、正妻として嫁がされたという。
「源平盛衰記」では義仲が義経に攻められて京から落ちる時、いつまでたってもこの姫と別れを惜しみイチャついていたので側近・中太能景が腹を切っていさめた…が、それでも動かないのでついにはもう一人津波田三郎も腹を切った…とある。
が!ソレはいくらなんでもちょっと…。なんか源平盛衰記は演出が過ぎる。。。
義仲敗死後は、別の貴族に嫁いで道元を生んだといわれている。




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平壱岐判官知康
(たいらの おきのほうがん ともやす)


鼓の名手、あだなは鼓判官

壱岐守平知親の子。朝泰とも。
検非違使左衛門尉。北面の武士で、後白河院の近臣(吾妻鏡「近日第一の近習者」)。鼓の名手だったことから「鼓判官」と呼ばれる。


北面の武士と言っても名ばかりで合戦はおろか武力の争い事の経験もなかったんじゃないかと思われ。
法住寺合戦では、かなりショッパい事をやって敵味方から失笑を買っている。赤地の錦の直垂に鎧は着ず、なぜか四天王の絵を貼付けた兜だけかぶって、手には矛と金剛鈴(どっちも戦闘武器というより儀式モノ)、それで築地塀に上って鈴を打ちふるったり舞いを舞ったり。別に悪霊がきたわけじゃないんだから…とツッコミたくもなる。しかも駄目だと分かると速攻で逃走。
後に鎌倉によしみを持つが早々に失脚。
源平盛衰記をみると相当エキセントリックな人物のように思える…



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源三位頼政
(げんさんみよりまさ)


清和源氏系・摂津源氏、源満政の長男。馬場頼政とも。
保元の乱では天皇側について戦う。源義賢の子・仲家を養子としており、自害した弟・頼行の子ら(兼綱ら)も養子としている。
平治の乱では平側についた(つかざるを得なかった)為、源氏には異例の厚遇で都に留まる。
以仁王に平家追討を持ちかけて令旨作成に至るも平家に露見し、以仁王ともども追討され、宇治川合戦にて自害。


まっさきに以仁王を推したてて平氏に反旗をひるがえしたのはこの平安の英雄。
…と平家物語にはあるが、史実では以仁王が頼政に命じて兵を集めさせたのが正しそう。
源氏といっても清盛からの信頼篤く、実質、四位に推挙したのも清盛だったという。

田辺聖子氏によれば「当時のマフィアの首領(ドン)みたいな立場」にあったが、76歳で立ち上がる。
が、平重衡らに追い詰められ、最期は宇治の平等院にて自刃。

うもれ木の 花咲くことの なかりしに みのなるはてぞ 悲しかりける

とはその辞世の句。
さて、百人一首で有名な二条院讃岐(にじょういんのさぬき)はこの頼政の娘。
当然その父親たる頼政も歌をよく詠む文武両道派で、
「登るべき 頼りなければ 木のもとに 椎を拾いて 世を渡るかな」
と四位と椎(しい)をかけて、四位の位をおねだりしたり。

かと思えば二条帝を夜な夜な悩ませた高い屋根の上にいる怪獣鵺を弓矢で射掛けるほどの凄腕。
なんだかカッコイイ親父。




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二条院讃岐
(にじょういんの さぬき)


源三位頼政の娘。本名は伝わっていないが歌詠みとして名が伝わっている。武家貴族の姫とはいえ、父も祖父も歌詠みで、どっちかっていうと育ちは貴族。

そんな彼女の代表歌は、百人一首にもとられているこの一首

わが袖は 潮干(しおひ)にみえぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾くまもなし

彼女は二条天皇に仕え、この歌がもてはやされて「沖の石の讃岐」というアダナまでついた。



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藤原定家
(ふじわらの ていか)


木曽殿より7〜8歳年下の文学青年。

源平の頃には16・7歳の多感な少年で、まさにそのころからネチっこい日記(明月記)を書き始める…後鳥羽天皇に才能を愛でられた、が、そのうち進む道を分かたれた。
承久の乱後、『新古今和歌集』の編纂をするも、配流された後鳥羽上皇の句を入れることがかなわなかった、と言われている。
のちに個人的に編纂した『小倉百人一首』で上皇に対する想いを暗号にして組み込んだ…とは、織田昌吉氏の弁。

ちなみに後鳥羽天皇は安徳天皇の次に後白河法皇から指名された天皇で、後白河法皇の院政に妨げられて思うようにならず、それもあってか和歌に傾倒してしまった…。ゴッシーってヤな奴っぽいね



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俊尭権僧正
(しゅんぎょう ごんの そうじょう)


村上源氏、本名は顕智。比叡山延暦寺の高僧。
義仲と通じ北陸宮を後白河院に推挙するなどし、義仲クーデター後に(義仲の強引な要求で)天台座主となる。が、あえなく2ヶ月で失脚。






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御室
(おむろ)


むろんオムロン。





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明雲
()








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九条兼実
(くじょう かねざね)


引きこもりの情報マニアw

藤原忠通の三男、同母の弟に藤原兼房や慈円など。従一位まで昇進していたが、平家側にも後白河院側にも批判的で、反平家的な態度を取った為に政界から遠ざけられる事となった。
後に源頼朝の推薦で後鳥羽天皇の摂政関白になり、また藤原氏の長者になる。しかし後白河院とはうまくいかず、また頼朝との協力体制も長くは続かず政変により失脚。晩年は出家した。


とにかくイイ感じで世を拗ねた批判的な日記「玉葉」を40年近く書き続けたのがスゴイ。政界から遠ざけられたとはいえ遠方に左遷された訳ではないのでいろいろ入って来た情報メモナイス!
ざっくり言って「木曽殿キタ━━━\( ゚∀゚)/━━━!!!!! 」「オレを救うネ申かも」と書いてたかと思ったら「あいつ使えねー」とか言い出すJK。

とはいえ和歌には素養があり、藤原俊成や藤原定家といった歌道の第一人者を庇護してきた一面もあり。




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吉田経房
(よしだ つねふさ)


権右中弁藤原光房の子。母は藤原俊成の兄弟にあたる。
九条兼実とは全く正反対で、平家政権下で順当に昇進し天皇の蔵人や各弁官を歴任、清盛のクーデター時にも昇進(蔵人頭)している。その後参議に昇進し、鎌倉政権になってからは頼朝の推薦で権中納言に昇進、以後、頼朝の朝廷への取り次ぎを一手に引き受ける。最終的には正一位、権大納言まで昇る。日記「吉記」を執筆。


「ガラスの仮面」でいうと「ふたりの王女」のアルディスが経房、オリゲルドが兼実?<イミフ!
清盛に気に入られ、頼朝にも気に入られるというのはもう天然のアイドルか!
多分義仲も出会ってたら気に入ってそうなイメージ。しかし「吉記」は断続的にしか残されておらず、残念。



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藤原陸奥守秀衡
(ふじわらの みちのくのかみ ひでひら)


奥州の動かざる山。
comming soon!




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