井家郷(津幡南、内灘町、森本地区)の地名の手がかり。津幡市内の白鳥神社は井家郷の総社だったといい、この辺りが根上の松で奮戦した井家二郎範方の本貫地だったと思われる。 |
★ 金沢駅裏すぐにある神社。延暦20(802)年に天台座主泰範の勅命により、北辺の鎮護として坂本の山王権現を勧請した。石川郡豊田郷の総社として富樫氏が代々尊崇していた。盛衰記によれば砺波合戦で圧勝した源氏軍が志雄戦に向けて旗を立てて逗留した場所「平岳野」のランドマーク。 |
康平六年(1063年)に7代・富樫家国が館を創建したという。付近には館の跡を忍ばせる地名「御所」「城郭」「倉屋敷」などが残る。 |
★ 富樫氏に関係する神社。社記によれば養老元年創立で「承平5年国司社殿を造営。富樫氏累代尊奉し神田領を付す。寿永2年木曽義仲、文治3年源義経社参祈願すと。」と、伝わる。 |
読みは「たきなみ」。昔は長滝神社といい、近くに瀧があったことからこの名がついたという。木曽殿が奉納したと伝わる神鏡が治められている。普段見ることはないが、もしかすると笠間神社の祭礼などでおがめるかもしれない。 |
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木曽軍が都へ進軍する際、洪水のために渡れなかったという伝承が笠間神社に伝わる。川の名の由来は増水した川の流れを手を取り合って渡ったことからきているという。 |
白山七社のひとつとされ、寿永2年5月、源義仲が倶利伽羅谷で平家の軍勢を打ち破った神恩として金劔宮に鞍置馬20頭と横江庄を寄進したという。その3年後、文治2年2月10日には源義経が本社に参拝・一泊し、神楽を奉納したという。境内に「義経腰掛石」があり、以前は「義経笈掛松」という松もあったが枯死し、今はない。 |
史跡「根上の松」として整備されている。砂山の上にあって、白山の遥拝所でもある。ここで井家二郎範方17騎が戦って、仲間の北陸武士団残党を逃がした。 |
★★ 実盛の甲冑や木曾義仲の願状がある。 首実検の後、斎藤実盛の兜をこの地の八幡神社に奉納したと伝わる。ちなみに芭蕉センパイが見に行った頃には、実盛の錦の直垂の袖と伝わる布片もあったという。実盛の兜は宝物殿にあって拝観にはふだんは要予約だが、祭礼時には公開されている。 |
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★ 住宅地奥の狭い場所にひっそりとした佇まいで残っており、実盛が髪を染める時に使った鏡を沈めたという伝承が残る。 |
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