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威徳山班渓寺、山吹姫の菩提寺と伝わり、裏手には伝/木曽館址がある。この寺に伝わる梵鐘に「木曽義仲 長男 清水冠者源義高為 阿母 威徳院殿班渓妙虎大姉 創建スル所也」とあったという。境内にはその班渓妙虎大姉=山吹姫の供養塔と伝わる小さな五輪塔がある。 |
★★ 古くは坂上田村麻呂の東夷征伐の時(延暦年間)に建立されたという。木曽殿(義仲)生誕の折に産湯として使われたという「産湯の清水」が境内にある。 |
★ 源義賢の居館「大蔵館」があったとされる場所に建つ神社。土塁、空堀などが残っており、敷地の北端は都幾川を臨む。 |
★ 源義賢の供養塔と伝わる五輪塔。数度の火災にあったといい、火輪と水輪部分のみが残存、あとは後世に補間したもの。大蔵神社の近く、民家の庭先にある…。
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★ 大蔵館とは対岸にある畠山氏の居館跡。残念なことに現在残っている土塁などは戦国時代あたりのものとのこと。ここから北に数キロいくと「畠山重忠史跡公園」」があり、重忠館址と五輪塔がある。敷地内に「埼玉県立嵐山史跡の博物館」がある。 |
鎌倉街道がここを通っていたという、ただし鎌倉街道はいくつもの枝路になっており、ここもそのひとつだったと言われる(案内より)。畠山重忠の館(菅谷館)の近くにある。 |
源義賢が大蔵合戦で敗死の後、義賢の家臣数人がこの地に落ち延びてきたといい、その子孫が天福年間に義賢をこの神社に祀ったという。 |
萩日吉神社では三年に一度、木曽殿の家臣と伝わる明覚郷(ときがわ町)三氏と大河郷(小川町)四氏が流鏑馬奉納している。天福元年(1233年)に始まったといい義賢浅間神社の成立と関係がありそう。 |
★ 福昌寺は、源義賢の菩提を弔うため、1464年に天英祥貞禅師が創建したという。久寿2年(1155年)、比企郡大蔵の合戦で源義賢がここまで落ち延びて没した為、地元民が五尺あまりの塚を築きその上に五輪塔を祀ったと伝わる。境内には義賢の供養碑がある。ところで上里町には多数の古墳群があり、福昌寺の周りにも多く見られる。 |
由緒によると、延喜3年(903年)に紀友成がここに立寄り菅公の御影をもたらしたという。治承元年(1177年)4月に伊東入道祐親が信濃国に赴く際に参拝、再建のための寄進をしたと伝わる。 |
児玉党の頭領・庄太郎家弘が館を建てたといわれ、水堀の遺構が残っている。 |
宥勝寺境内にある五輪塔で、一の谷の合戦で戦死した庄小太郎頼家の墓。妻・妙清禅尼が夫の冥福を祈るため建仁2年(1202年)に建立したという。 |
このあたりが堀内といって斎藤実盛の本貫地・長井庄の中心だったという。実盛の子孫であるところの長井氏の館があったとされる場所で、実盛の曾孫にあたる人物が立てたという板碑が残されている。 |
寺伝によれば、斎藤実盛が治承3年(1179年)に長井庄総鎮守として聖天宮を祀ったのが始まりという。聖天堂は国宝。 |
★ 石碑の由緒によると『保元平治の乱に敗れた源義賢は京都をのがれ大蔵舘を本拠にしようと下向途中に木曽仲三兼任らに迎えられ三千騎を率いた。一方(追手の)源義平は手勢七百余騎で攻めて来たが窮地に陥ったところ、八幡の化身と観音の化身に和睦を勧められ、神前で誓った』という。 |
赤坂氷川神社は高台にあり、城址だったかといわれるが、残念ながら遺構は見つからず信憑性も薄い。氷川神社例大祭で山車が出るが、「頼義」「頼朝」など源平を題材にした人形が多数ある。(写真は頼朝の山車)「今井」という地名も現在では道路横断用の地下道に見られるのみ。しかも神社前には米軍居住地があって禁足地… |
暦仁元年(1238年)江戸氏が埼玉県大宮市の氷川明神を世田谷の大蔵村に勧請したという。江戸氏は秩父氏の支流で畠山重能・秩父重隆と祖を同じくする桓武平氏で、このあたりの別当だったともいう。義賢の居所「大蔵」はここだったという説もあるが、信憑性は薄い。近くに「将軍塚」がある。 |
この直径4〜5mくらいの塚から兜などが出土したことから「将軍塚」と呼ばれている。 |